はてなキーワード: マイルドヤンキーとは
終身雇用制、手厚い福利厚生、残業は多めだが全額出る、そんな昭和の夢の残滓のような会社に勤めていたんだけど昨年退職した。
待遇は非常に良かったんだけど(0.6Googleくらい)、安定が自分の中で恐怖に変わっていき、やがて耐えられなくなってしまったので退職に至った。今は年収が半分になってベンチャーみたいなところにいる。預金残高を見て不安になることはあっても前職で感じたような、先細りの籠に閉じ込められたような気持ちには未だなったことがない。
前職のような会社は日本にあまり無いから参考になる人は少ないかもしれない。これはあくまでも平成という時代に10年間昭和のサラリーマンをやってきた自分のそれまでの人生のまとめであり弔辞だ。
もしかしたら、公務員とかレガシーな産業で利益を独占的に得られる会社に潜り込んだ人にとって何かの参考になれば幸いである。
地方都市生まれ、小中高と公立育ち、大学は他県の国立大学へ、理系でマスターを修了後に学校推薦で就職。
地方の医学部に進学した人がバズってたけど、私は井の中の蛙というか幸せな環境で育ったなあと思う。学区が良かっただけかもしれないけど、所謂ヤンキー的なタイプは少なくて、開業医の子息とかとも普通に遊んでた。うちは公務員だったけど(子供だったから気が付かなかったという事情もあり)、引け目や負い目を感じたことはなかったと思う。財力の違いを感じたのは高3で進学先に私立の医学部を選んでたときくらい、他は塾とかも選択肢が限られていたのでみんな一緒だった。
理系を選んだのは高校で7割くらいが理系を選ぶ環境だから何となくという要素が大きい、医者になりたいとかエンジニアになりたいとか思わなくもなかったけど、何より理系は潰しが効くし、数学が苦手じゃなかったらやっとけくらいの気持ちだった。
高3のときの偏差値は公立の医学部には足りず、迷わず他県の地方国立大に進学。大学でやりたいこと云々より自分の偏差値で行ける最大限の学歴に行ったという感じ。お陰様で入学後に学力不足を感じて本当に苦労した、かろうじて留年を逃れたくらいの成績。マスターは殆どの人が行くからというだけで選択、例によって院試は内部生にも関わらず死ぬかと思った。
そんな体たらくだったので、就職のときは仕事と研究との関連性だとか一切興味がなく、学校推薦で行ける会社の年収を四季報で確認して上から順番に面接。お辞儀できれば受かるという情報通りヌルい面接をあっさり通り前職に内定した。
○どんな会社だったのか
・環境
東京から車で2,3時間くらいでコンビニまで徒歩30分くらいかかる僻地、面接に行ったときヤバイかなと思ったけど、地方の大学生からすれば東京まで2,3時間で行けるというのはそれなりにメリットがあった。あとアマゾンが送料無料をやり始めた頃で、アマゾンが届けば生きていけるかなあとも思ってた。
・待遇
これは無茶苦茶良かった、待遇というか給与だけだけど。就職を決めたときの四季報だと平均年収は0.5Googleくらいで(平均年齢43歳のね)、辞めたときの年収は0.6Googleくらいあった。ただし、基本給:残業代:賞与が4:4:4で、賞与は完全に業績連動のため期待は禁物。リーマンショックの頃に3,4年働いても基本給が5000円しか上がらなかったのは忘れられない(さすがにその後是正された、けど過去の貰えていない分の保証はなし)。
残業代が4というところからお察しの通りで、残業時間は年間で700〜900時間くらい。寮や社宅は完備のため、平日は会社の敷地から一度も出ることなく過ごしていた。
・業務
表向きは最新技術の研究開発となっているけど、実際は雑用と書類仕事に疲弊していた。入社してから一度も新しい技術みたいなのを研究したことはないと思う。ひたすらに社内調整、下請を買い叩く、行き当たりばったりで問題を解決するの繰り返し。更に営業案件とか製造案件の雑用がバシバシ入ってくる。先のことを考える余裕なんて一切なくてアワアワしているだけで10年過ぎてしまった。
私に限らず全社的にそんな仕事ぶりだったけど、市場は寡占状態なので会社は常に儲かっていた。そもそも枯れた技術なので顧客は新商品とか新機能は望んでいないのだから。たまに声の大きい営業が上げてくるマイナな案件に対応するために右往左往して終わり。そのマイナな案件にかける時間を全体に対する原価削減に当てたほうが良いのではとは皆が感じていた。
一応良いところを挙げておくと、暗い実験室に引き篭もって量産の目処のない机上の空論をやるよりは、現場の問題を拾い上げて設計に反映するのは楽しかった、それは生産技術の仕事ではないのかと思いつつも。
同僚も学校推薦で来る似たようタイプなので、穏やかで話が早くやりやすかった。東大東工大が主な学閥なので地方国立大は肩身が狭いとか無いの?とかはたまに聞かれたけど、管理職になりたいだとか野心がない限りは別段に何も不自由は無かった、学歴よりも上司だとか部署のガチャ要素が大きかったし、皆が平等に不公平という感じだった。
・組織
上の意向を忖度して言われる前にやることが尊ばれる文化という感じ。基本的にマネジメントというものは全く無く仕事もこれやっといてというだけで納期も仕様も何もない。上司の指示どおりに働いていたら、その上から烈火のように直接指導されることもザラ(そうゆう時の上司は沈黙)。酷いなと思いつつも、上司とその上も同じような関係だし、その上もそのまた上も…
これがいわゆる昭和の日系企業かぁと思っていた(違ったらごめん)。賽の河原に石を積むというか、降り積もる雪をひたすら取り除くような気持ちで働いていた。
人事評価みたいなのも形式的で、上司は査定するけど、結局は偉い人の好みに合わせて査定をつけないと書き換えられてしまったうえで上司の評価も下がるので(人を見る目が無いという理由で)、偉い人の好みをどうやって察して査定をつけるかという作業になっていた。偉い人に取り入ろうにも年に一度も話すことがないし。逆に気に入られている人もそんなに親しげではないので、何が基準かは永遠にわからなかった。
こんな状況でどうしてやる気を失わなかったのかというと、査定が悪かろうと昇進が遅れようと、何だかんだで高給をもらっている自覚と責任を感じていたからだと思う。少なくとも自分の給与以上は働かないと、お世話になっている子会社や取引先に会わせる顔が無いという気持ちで踏ん張っていた。
○どうして辞めようと思ったのか
20代の頃は仕事や組織に不満がいくらあっても、それを上回る待遇を得ていたので辞めようとは思わなかった。仕事なんてものは所詮は時間と感情の切り売りで、仕事にやりがいとかいうのは、金が払えない会社の言い訳だと思っていた。
ところが30代になり預金残高が1Googleを超えたあたりで、ふと将来のことを考え始めた。余りにも遅すぎた自我の芽生えだったのかもしれない。
いつの間にか同僚はみな結婚して家のローンや保育園の話をしている。家族がいる奴は良い、自分の代わりにお金を使ってくれて、それで幸せになれるのだから。ここで暮らしていれば子供の1人くらいは私立の医学部に入れられるかもしれない。で、私はどうなる?20代の頃と預金残高以外で何が変わった?
お前も結婚すれば良いのではないかと言う声が聞こえるけど、これは中々上手く行かなかった。こんな僻地にある会社だから、相手は地元の人ばかり。上記のように地方を転々としてきた自分とはどうしても感覚が合わない、例えば同僚の結婚式で、高校の部活の先輩後輩の関係が30過ぎても未だに残っているのが嫌だった。
敵を増やしそうだけど、地方にはヤンキーと良家の子女しか残っていないんだと思う。ヤンキーは説明不要でいわゆる地元のマイルドヤンキーさん、看護学校もあるので一人でやっていけるこの手のタイプは多い。良家の子女は女子大を出て実家に戻って地元の金融機関に就職という感じ。同僚の奥さんはどちらも結婚したら寿退社して社宅に住んでいた。
私だったら、相手が1Google稼いでいても専業主夫になりたくないなあと思う。その程度の収入に自分の後の人生の選択肢の全てを預けたくない。私は夫婦は人生の連帯保証人だと思っているので、こうゆう自分の感覚と合っている人と結婚したかったんだけど、残念ながらそんな人とは出逢えなかった。それほど立ち入った話はしないけど同僚と上のような話をしていたら「そもそも君は結婚相手に何を求めているの」と言われたのが印象深かった。私は友だちとか親友的な要素、少なくとも同じ地平で物事を見渡せる人が欲しかったし、これまでもそうゆうタイプと仲良くなってきたけど、同僚的にはそうじゃないらしい。明確な言語化はできないけど配偶者に求める要素は、自分や家庭を甘やかし指導する父母か、育て導く愚かな子女で、少なくても対等の関係という要素を求めてはいないようだった。
そんな食わず嫌いをしているうちに同僚の息子は小学1年生、これからも私がああだこうだ言っている間に大学生になって家を出るのだと思う。その頃の私はきっと40代半ば、もう結婚もできないし転職もできない、ただ自分は失敗した、取り替えしがつかないという気持ちを抱えながら、報われることのない仕事をしている。やがて50代になって預金残高が5Googleを超えて、高級老人ホームに入ること夢見て死ぬんだろう。
安定している故に見えてしまう自分の将来、この少し広い会社の敷地の中で人生を終えるであろう現実、その恐怖に囚われてしまってからはもう辞めること以外は考えられなくなってしまった。そこからは早い、たまたま自分のやっていた職種と募集がマッチングしたから逃れることができたけど、本当だったらこの歳で逃れることは難しかったと思う。前述のように賽の河原のような雑務がメインなのでとても潰しが効かないし、何よりも給与が激減する不安に耐えられない。
高校生に対してライフプラン(仕事と出産などを含んだもの)を教育するみたいな話をニュースで見たけど、これは年齢関係なく必要だなと心から思う。別に結婚とか子供とか興味は無く、食べてくために働くというのは本心として良いと思う。けれど同期同僚が結婚して子供ができて、仕事に意味や成果は無く、ただ歳だけが増えていく状況であなたはどこまで正気を保てますか?というのは自分自身によく確認したほうが良い。登山なりゴルフなり何かしら見つけられた人はそれで良いし正気を保ち続けることができると思う、私にはそれができなかった。
昭和という時代は、定職さえあれば誰もが家庭を持ち豊かで幸せになれるという幻想を皆で信じていたから実現できた神話だったんだと思う。家族がいれば多少の理不尽にも耐えられたし仕事に魅力が無く潰しが効かなくても何とかなった。けど平成が終わるこの時代に神話はもう死んでいた。
私は辞めることができたからまだ良い、けど私のような気持ちで辞めることすらできない人が、あの会社に大量に留まっているとするなら。前職に留まらず、世の中の会社や社会のどこかに、私のような人間が大量に潜んでいるとするのなら。
欧米でよくある銃乱射事件とかは、こうゆう時代の歪みから発生するんじゃないかなと思う。俺はきちんとレールに沿って人生を進んできたのになぜ幸せになれない?俺がおかしいのかそれとも社会が狂っているのか?
話が逸れてしまった。10年間よく会社に尽くしたし、会社も十分それに報いてくれたと思う、総じて良い会社だった。ただ、私は会社と同じ昭和の夢を見ることができなくなってしまった、それが退職理由。平成の終わりにこうやって昭和の夢の残滓のような会社を去ることができたのは何か奇縁を感じる。
国政選挙の投票率が5割弱で自公合わせた得票率が2割弱だから残り5割の無党派層が選挙に行けば自公1強体制が崩れるかもしれない、という指摘があるじゃん?
でも俺が思うにこの【選挙に行かない無党派層】の実態ってその8割以上は漫画ウシジマくんに登場する様な生活苦の低所得者やノーモラルのマイルドヤンキーやDQNだと思うんだよな。
それで残りの2割程度の無党派層の内訳は国外在住者や知的、身体、精神障害者や認知症患者や後期高齢者等の選挙権の行使に際して一般的な人々より多少なりとも困難が生じる人々や、何かしら自分なりの考えがあって意識的に選挙権を行使しない人々だと思うわ。
それでさ、無党派層に期待してる野党支持者に聞きたいんだけど、本当に無党派層が政治参加したら自公1強体制に変化が生じると思ってるわけ?
俺の考えではこの無党派層の大半は第二次安倍内閣以降の政府の経済政策の恩恵を受けていない層が大半を占めてるとは思うんだよ。
でも彼らはそれを認識できるだけの知識も逆に自分達を利する選択肢を提供してくれる政党を判断する知識も備わっていない人達だと思うんだよな。
だから肉屋を支持する豚よろしく政治参加を促されて仕方なく投票に向かったとしても自公に投票すると思うよ俺は。
だからむしろ今の状況は野党支持者に有利な状況だとすら思うね俺は。
彼ら無党派層が政治参加しないおかげで野党支持者は「自公は有権者の2割の支持しか得ていない」っていう批判ができるわけじゃん。
「バイトテロ」に憤る人というのが、自分には今一つピンとこない。
たとえば、2万店あるうちの1店のセブンイレブンで、おでんのシラタキを箸で口に入れた店員がいた。
事象は、推奨されるべきことではないが、この事象に憤慨している日本の一般市民というのは、いったい何の被害を受けたというのだろうか?
おでんのシラタキをアルバイト店員が箸で口に入れた。そんなこともあるだろう。その箸には、何らかの形で、店員の口内細菌の何万個かが付着したかもしれない。しかしその箸は、おそらく90℃以上の温度で煮える加熱容器に戻され、細菌学的には完全に消毒されたと言える程度まで殺菌されたはずである。心理的に気持ち悪いのは確かであるが、この時点ではまだお客に対する実害は発生していないはずだ。店に対しては? シラタキ一個分、100円余りの実害を与えたかもしれない。以上。
しかも、この事象が起きたことが確認されているのは、2万点のうちの1店のセブンイレブンである。日本中の「一般市民」が「自分の行きつけのセブンイレブンも同じことをやっているかもしれない!」と疑心暗鬼に駆られるのは、さすがに不安を感じすぎではないかと思う。
もちろん、「割れ窓理論」的な発想で、一事が万事と批判する人がいるのも理解はできる。一度タガが外れたアルバイト店員を許すと、同様の行為がエスカレートし、最終的には公衆衛生上の被害(例えば食中毒など)を生むような不祥事に繋がる、だからZero tolerance policyで臨むべきだ、と。それも分からなくはない。だが、そういう発言をしている人が、果たして現在「バイトテロ」に憤っているのと同じ熱量で、過去の食中毒事件に憤っていただろうか? その憤りはむしろ、心理的な、あるいは文化的なフィクションに根差しているのではないかと私は思う。
この文化的なフィクションとは何か、それは「我々は文明国家に住む文明人である」という幻想である。我々は、朝食のパンとコーヒーをコンビニでイートインし、昼には牛丼をテイクアウトし、夕食のおかずの足しにコンビニのおでんを買って帰る生活を、衛生的で文明的なものだと思っている。私は今日の日本の高い公衆衛生がある種のZero tolerance policyに基づく不断の努力で成し遂げられたことを否定するわけではない。しかし、その公衆衛生の高さを我々はもはや日常経験や、明確な統計上の数字で把握しているわけではない(40~50年前ならまだ違っただろう、「あの店また食中毒出したんだって」「あの地域は野犬がうろついているから危険」なんてセリフが日常であった時代だ)。我々は、「なんとなく衛生的で文明的な気がする」という幻想に基づいて消費行動を選択し、その幻想のもとで安心を得ている。安全衛生を求めているのではなく、安心衛生を求めているのだ。
そして、その幻想に基づいて合理的に(と勘違いして)選択した消費行動を、衛生的で文明的なものだと思い込み、それを自らの消費生活のアイデンティティとしているのが我々である。セブンイレブンやすき家を利用する我々は、ときにそこに差異化というスパイスを足して自らの「賢さ」の虚勢を張ってみたりもする。「地元のコンビニの○○なんてこないだ行ったけど汚くてダメ、やっぱりセブンがいいわあ」「(ライバル店の牛丼フランチャイズ)はマイルドヤンキーの溜り場で汚い、すき家の方が制服もスタイリッシュ」だなどと言ってみたりする。
ところが、「バイトテロ」は、この幻想を打ち壊してしまう。コンビニや牛丼フランチャイズを利用する生活が、「ささやかな文明的市民の衛生的な生活スタイル」だと思い込んでいた我々に、それが幻想にすぎなかったことを思い知らせてしまう。だから彼らは憤るのだ。「バイトテロ」の対象となった店舗をライフスタイルに組み込んでいた消費者は、自分たちがかつて行ってきたマウンティングに逆襲される。「セブンイレブンなんてアルバイトがおでんに口付けるような店、よく行けるわねえ」「やっぱり牛丼フランチャイズでランチ買うような層は下の方よねえ」と。消費者たちの憤りの本質は、科学的な衛生環境云々ではなく、「自分が(セブンやすき家のような)衛生的な店で食事をする文明的な人間だ」という、中流なりの自己ブランド意識(という幻想)を破壊されたことに対するものなのではないだろうか?
よく地方の人と話すと「東京は人多いから住みたくない」「家賃も高い」って言うけど、
お前東京のすべての地域が朝の満員電車とか渋谷みたいな人混みだと思ってんのかよと思う。
人少ないところ、家賃安いところなんて探せばいくらでもあるぞ。
オレから言わせると車がなきゃどこにもいけない不便でうまい飯屋もロクにない地方で暮らす方がどうかしてると思う。
・うまい飯屋、その他お店が無数にある
・遊ぶ場所に困らない
・仕事無数
・給料が高い
・意識高い人が多い
・うまい飯屋が少ない、何の店に関しても少ない。
・遊ぶ場所は大体いつも同じ
・送料が高い
・車がないとどこにもいけない
・マイルドヤンキーが多い
・仕事は限られる
・出会いが限られる
それでも地方に住むって?
今後新たに生まれるであろう弱者男性の将来の逆転の可能性すら潰すとか徹底してるわ
え? あのCMは強者男性を批判しているんでしょ? ってアホのフェミニストは見当違いのことを言うだろうけど
動画で言えば弱者男性ってのはいじめっ子の集団に追いかけられてた小さな男の子のことだ
あの時は社会的に強い立場にあるお父さんに助けてもらえたからよかったものの
お父さんに助けてもらえないのが普通だし(昼間は働いてるしな)
土下座で済めばいいが
大概はしこたま殴られて痛がっているところを笑われるか
下手したら公開オナニーくらいさせられるかもしれない
嵐が過ぎ去るまでの辛抱だが怒りは簡単には消えない
頭の良い子なら勉学に励んで優秀な大学に入って社会的に将来はマウントが取れる可能性がある
俺は狂った
何回殺したことか
なんかバーベキュー焼いてるゴツい男が強者男性のステレオタイプらしいが
バーベキューってどちらかと言えばマイルドヤンキーの代名詞じゃ……まぁアメリカのCMに言っても詮無きことか
実際の強者男性は高級レストランで高い酒飲んで高い料理食ってホテルで女喰ってるよ……過去に何も責任を取らずにな
正しいことをしようと言って弱者男性を救済するふりをして強者男性の一切の罪を消し去ろうとするCMは嫌いです(正しくなるから過去は水に流せってことだろ?)
個人的にフェミニストがオタクの文化を攻撃してる時の万倍はキレてる
尊厳に関わるよ
21の大学生です。
前置きとして、ただ自分の気持ちを吐露したいのと、増田で誰かに共感してほしく、乱文を綴っています。
よくある話かもしれませんが、私は地方の田舎の生まれで、都会のような中学受験や、どの中学校に入学しようか、私立や公立に通うなどの選択肢はありせんでした。故に近隣の1番近い学校に入学するしかなく、また当時はそれが当然だとおもっていました。また選択肢として先生や親が、ここの学校がいいなどの提案はありませんでした。その延長で高校は選択肢として、商業高校(Fラン)か普通科の偏差値が数字上は50ぐらい(おそらく50もない)の2択しかなく、私は何となく将来の事を考えると後者の方が良いのではないかのかと、当時も今もそうですが、田舎特有のマイルドヤンキーが嫌いで、入学しました。
高校では高3になり1日、10時間以上勉強しましたが、私は国語の成績が上がらず、東京の文系の中堅大学に入学しました。私は自分の高校の中での、進学者の中では偏差値の高い大学に入学できました。ですが、当時は第一志望には入学できなかったものの、使用がないと思っていました。(父には浪人はなしと言われていました)
私は大学に入学し、勉強や東京での生活や田舎にはない新しい情報を得る機会が多くありました。一言で言うなら文化資本でしょうか。今更言っても、どうしようもない悩みかもしれませんが、その新しい文化資本を取り入れる中で、大学は文系ではなく理系に選択しておけばと思うことが多くなりました。いま大学で勉強していることは楽しいですが、理系的な研究や開発をすることに対して魅力を強く感じています。私の浅はかな考えですが、実際に理系の方は多忙で大変だと思いますが、探究心によるトライアンドエラーは茨の道かもしれませんか、それほどに興味があります。
私は今現在、大学3年生であり、来年には本格的な就職活動が控えていますが、以下のような事を思います。
私の家は田舎では比較的に収入は多いほうですが、けして裕福ではありません。(調べたら平均所得は250万でした)父親と母親は高卒です。私の高校では進学に伴い、利子付きの奨学金を学年の半分が借りる学校です。これが相対的に普通なのか分かりません。何が言いたいかと言うと、学歴と収入は相関係数にあり、親は収入が多いと子供に投資でき、良い教育を受けることができるため、収入も多くなるのは、知識として知っていました。ですが、1年前か、半年前にみた文献で、母親の最終学歴が子供の最終学歴に大きく影響することを知りました。また経済資本が親から子へ受け継がれることは当たり前ですが、文化資本も同様に受け継がれることを知りました。また文化資本を子供に与える場合にも経済的な状況が関係してきます。例えば家に児童向けの本の数が多いほど、学力は高いという統計があります。しかし、家庭の経済状況が裕福な程本の数が多いという統計もあります。
つまり大卒で収入が多い親は文化資本も有しており、それが子供にも受け継がれると言うことです。私が幼少期に文化資本を享受し、親が大卒だったら、もっと違う選択肢を選んでいたのではないかとおもってしまいます。
一番近いのは近くに団地があることだと思うんだよね
正直俺は近くに児童相談所作りますとなったとき、それが必要な施設ならばまったく反対しない(むしろ大賛成)なんだけど
「嫌だな」とか「別のところでもいいならそっちにして欲しいな」って気持ちはよくわかるんだよね
質問したいんだけど
まず思い浮かぶのは
駅までの距離以外は同条件の土地があっても、高い金を払って駅近土地を買う人がいるように
「ガラの良さ」に金を払う人は大勢いる
どっちに住みたいだろうか
前者と後者の「ガラの良し悪し」ってのは、もしかすると「そういう傾向がある」程度の差でしかないかもしれない
でも住居を買うというのは決して安い買い物ではないし、買い直しが難しい
にも関わらず「住んでみないとわからない」ということはあまりにも多い
なので、そういったリスクを最小限にするためにコストをかけたいという想いは理解できる
そしてそういったリスク軽減のためのコストを最も惜しまなかった人たちが南青山のタワマン住民なのだろう
なので彼らにとって近所に「ガラが悪くなる」可能性のあるものができるのは
駅近に魅力を感じて土地をかったのに最寄り駅がなくなった、くらいの衝撃なのだ
そりゃ反対したくなる気持ちもわかる
高い住居費をかけて東京に住んでるはてな民には割りと共感しやすいことだと思ったんだけど
ブコメ見てると、まるで反対意見をもつやつは人間じゃねえ!みたいな雰囲気で
え、じゃあなんで君らタダで住める実家に帰らないで、東京でクソ高い家賃払ってるの?
ってなる