はてなキーワード: スッキリとは
あれこれ考えが浮かんできて悩んで眠れないのは、ずいぶんストレスが溜まってるんだと思う。人生を真剣に考えているんだね。
寝る前に考えていたことが潜在意識にすりこまれやすいので、ネガティブなことを考えるとどんどんネガティブ思考になっていくので気をつけて。
寝る前に考えてもぐるぐる悩むだけで解決策は出てこないから、悩んでも意味がない。
朝のスッキリした頭で考えた方がいいし、大抵の悩みは朝起きたらどうでもよくなってると思う。
満たされ過ぎると飽きる。
今ではもう美味しいものを食べても特に感動しなくなってしまった。
女もそう。昔と違ってどんないい女を抱いても普通にスッキリした以外の感動がない。
でも知識欲だけは違う。
これは飽きない。
知れば知るほど自分が無知であることが分かるし、他の分野の知識が増えてくると以前見たものも違う角度から理解できて、もう一度感動できる。
ケモノが出る漫画がバズっていると聞き、期待して読んだが肩を落とすことになった。
しかし、『なぜ心にひっかからないのだろう』『この駄作感はどこにあるのか』という疑問が浮かんだ。
anond:20240215225121は『ヒトナー』の世界観の甘さの理由を「読み切りに大してコストをかけられないから」という結論に至った。しかし、当方は原因としてこれがピッタリハマらないように思った。
さらに、作者はケモノとケモナーに対する知識の取材不足であることが雑さに拍車をかけた。
『ヒトナー』は作品のモチーフの中にフェティシズム"ケモナー"を含んでいることが明白である(そうでなければどうしてヒトナーというタイトルにするだろう?)
だが、そもそもの"ケモナー"への知識不足、またフェティシズムへの知識不足が作品の足を引っ張っている。
"ケモナー"をモチーフに含む作品は、例えば『ケモナー勇者を落としたい!』が挙げられるが、正直そちらのほうが断然ケモノとケモナーの解像度が(誇張があったにせよ)高かった。その作者は人外/モンスター娘志向のようであったが、だからこそフェティシズムへの理解は十分に見えた。
トネリコはかわいいが、猫としてのかわいさがあるだけで、作者のケモ個性は感じられない。他のキャラクターも同様である。
ビジュアルが既存のケモ志向作品(例:『羊竜飼いのケモノ事情』、『バツイチ狐と旅ごはん』など)と比較して、あまりに魅力が欠けているため、ケモナーは取り込めないだろう。
また、人間の男の方も"友好的な知的生命体"という描写にとどまり、ケモナーという感じは1ミリも見られない。冒険心はあるようだが、明らかにフェティシズムはない。異星人/SF的世界観/ケモナーを扱うなら、『プラネットハウル』のような作品を見習ってほしいものである。
ストーリーにも褒められた点は無く、物語のお約束をなぞるだけの子供騙しである(ジャンプならそれで良いのかもしれないが……)
ケモナーから着想したかどうかわからないが、『ヒトナー』は描くつもりもない"ヒトナー"というフェティシズム要素を入れたことがすべての足を引っ張っている。
また"ヒトナー"の裏として"ケモナー"も含んでいるが、作者がケモナーを理解していないため作品に違和感が生じ、雑なケモノの描写によってさらに完成度を落とした。フェティシズムが感じられないのも作者がケモナーではないからである。
もし作者が猫ケモナーなら、"猫"というステレオタイプに頼らず、『シャミー1000』のようにフェティシズムを感じられるケモノを読み切りでスッキリ描くこともできただろう。
そうでないなら、"ケモナー"や"ヒトナー"の要素を入れずとも、『ヘテロゲニア・リンギティスコ』のように自然に獣人(とその文化)を出すことは十分可能なのだが……
まあ正直、"ヒトナー"という要素から離れれば"普通だね"と思われバズらなかっただろうから、難しいものである。
とにかく、「『ヒトナー』は、非ケモナーが、"ネット上で戯画化されたケモナー"をモチーフに作ったバズり狙いの三流漫画」に過ぎないというのが当方の評価である。正直、タイトルで期待させられただけにがっかりさせられた。
じゃあどこでどうやって自死するんですかっていう話になる。
服毒が最もマシだが、それ以外の方法は部屋がめちゃくちゃに汚れる。
さらに心理的瑕疵(事故)物件として告知義務が発生し、借主が減り更に家賃も下がる。
現実にビルから飛び降りた女性が歩行者に衝突して死亡した事件が起きてるし、
今は少ないけど自爆テロや焼身が増えれば増えるほど社会リスクになる。
車で移動中にいきなり自殺志願者が飛び込んできて轢き殺して過失運転致死傷罪に問われる意味が分からん。
誰も知らん山奥でって話もなくはないけど、それが個人所有の山やったらやっぱり迷惑になる。
国の山でも急に見つけたらビックリするし、そいつの身元を割るための人員も国税から出る。
はっきり言って人間が生まれて生きてきて一人で死ぬときに迷惑にならない死に方ってほとんどない。
だったら、死ぬ用の施設で死ぬための準備を全て整えたうえでスッキリ死んだ方が
制度による部分はあるだろうけど、当然、安楽死だってタダじゃねーんだろうから、
自死に巻き込まれる人間にしたって、ただ自死に巻き込まれるよりはメリットがある。
新聞たまーに読んでるんだけど、
そうね、
ありのままにね。
それでどうしようかなーって
いつかそれを整理する日が来るとは思っていなかった昨今の今!
私は新聞スクラップもタブレットでしちゃおう!作戦の実行ができるかやってみたの。
なんでも
メモとは違うホワイトボードみたいなアプリがあってフリーボードってのが、
そこにペタペタ貼るだけなのよ!
めちゃ簡単!
写真は直接貼れないので共有のリンクのURLを貼り付けたら写真がカードになって勝手に貼り付けられて、
先に行っちゃうと最終書き出しをPDFにしてその写真のリンクもタップすればリンク先の写真が開いて見れるので、
これなんてマルチメディア?って思ったわ。
マルチメディアってもう誰も言わないぐらい浸透したと思っていたけど全然浸透してなかったわね。
そのぐらい感動つーか簡単つーか便利なのよね。
そんで写真のリンクをペタペタ貼って注釈をペンでメモれば簡単出来上がり!
糊もハサミも、
もっと早くにから気付いていたら良かったわ!って後悔あとを濁さずか後悔あとを立たずなのか
この際どちらでも良いぐらいの衝撃!
これはほんと仕上がったら、
だってさー
新聞も読んだら読んだですぐにその日のうちにもう窓から投げ捨てちゃうぐらいのレヴェルで整理しちゃうから、
せっかく読んだ新聞を内容何もスルーするってのはもったいないじゃない?
なんでこんなこと早く気付かなかったのかしら?って
エコチャンバーかエコバーチャンかどちらでもいいぐらいどうでもいいことと同じなのよ。
うわ!私の写真で取った新聞のスクラップ大杉漣!って言うほど。
これで整理が捗るってもんよね。
それはそれで
暇があったら大いに整理したいところよ。
つーか
これ結構時間作業的に楽しいからついつい時間を忘れて時間が経ったことを意識してしまうのよね。
あとさー
思ったのが、
画面を切り替えているときも止まっていて、
貼り付けの指示を出したのに、
即反応してなくてもう一回貼り付けしたら2つ貼り付けられちゃったりして、
それでまた2つは必要ないので1つ貼り付けた余計な分を消すと
もーそんなの意味なくない?って
やりたいことを手を動かしているのがハードがモタモタしていたら足かせになるわ手作業だけどね!
なので一応は3年ぐらい前に買ったタブレットだけど相変わらず今もサクサク動いているところは素晴らしいわ。
なんかディスっているわけでは無いんだけど
こーなるってーとじゃない方のタブレットが快適に動いて素晴らしいの。
写真を選びながら貼り付けてって、
絵心がない人が電子ペン買っても日ペンの美子ちゃん以外役に立たないと思っていたけれど、
タブレットに直接書き込めるのは
字の上手い下手はあるにせよ便利よ!
デジタルなのにアナログなことをやっていて何か矛盾している様な余地があるけれど、
でもこれって、
マウスとキーボードがあればそれ以外は必要ない!って過激な論を展開するほどの支持はしないものの、
まあそのマウスとキーボードは大切よねって少なからず思っていたけど、
こうもインプットしたものをアウトプットしやすくまとめやすいツールを実感してしまうと、
いままでのこう言うパソコンでの作業がー!って強く論じる過激な意見は言えんのよね。
つーかその新しいエコシステムに気付くべきだわ人類は!って思うぐらい。
ちゃんと快適に且つまともに動作して動くタブレットの如何に重要なイカ2貫以外にも重要なことが分かったわ。
タブレットってコンテンツの再生装置ばかりだと思っていたけれど、
まさに目から鱗が落ちるほどのほどよ!
それがないようにしていき活用したいと思うわ。
つーかこれみんな知ってて私だけ知らなかったら
それなんて浦島太郎さん?って思っちゃいなよ!って思うわよね。
うふふ。
ねつきいいキツネ
とは大違いよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
芸能事務所社長の証言メモ、X氏の肉声…伊東純也問題で新たに明らかとなった「事件の核心」(西脇 亨輔) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
https://gendai.media/articles/-/124001
「これはでっち上げです!」…伊東純也問題で注目のX氏がはじめて明かす「あの日の夜、起きていたこと」(西脇 亨輔) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
https://gendai.media/articles/-/124002
この2つの記事は相反することが書いてる体だが、共通する部分もある。
Aは枕営業の司令を受けたと勘違いして、伊東純也にノコノコついていった。
このテの司令は曖昧な表現でなされるのだろう、このような勘違いがあっても全然不自然ではない。
事務所の重役等のおっさんの相手なら気分が悪いが、プロサッカー選手ならおいしい話だと思ったのだろう。
実行できたのか拒否られたのか不明だが、Aはとにかくがんばった。
それなのに事務所からも、伊藤側のエージェントからも怒られた。
仕事の紹介も、テレビ番組のスタッフとの面通しもしてもらえなかった。
それでキレて、「レイプされた」と仕返しのために嘘をついた。
このセンが一番しっくり来るな。
この事件、登場人物それぞれが奇妙な行動をとっているが、この「枕営業勘違い説」だと、すべてにスッキリ説明がつく。
だとすると、新潮社は寧ろ被害者だが、そうだとしても自業自得だな。
週刊新潮は、終わったな。
もうゲームじゃねえじゃん?
ただの運試しと何が違うん?
演出を見てうわー綺麗だなーって出来ればいいって気持ちはゼロじゃないけど、それにしたって戦闘が完全な運ゲーになる瞬間はあって欲しくないんだよ。
「食いしばりが発動しなかったら全滅」みたいなことをやってくるボスの何が面白い?
まあRPGなんてD&Dの延長だから全ては賽の目ってのが正しいのかもね!
そうだね!
俺が間違ってた!
クソが!
二度とやらねーよクソジャンル!
あと俺は女だけど「毎回完全ランダム抽選の確率行動の中に絶対に反撃できない攻撃が含まれていて、運が悪いとそれを連打してくるキャラ」はもっと嫌い。
対話拒否かよオメー。
ずっと無敵でこっちは攻撃ないってそれはもうただのチーターだろ。
なんで公式がそれをやってくるんだ?
アホかよ。
クソバカの作ったカスゲーなんだなって絶望して、そのゲーム買ったり時間つかった自分を殺したくなってくる。
もちろんそんなキャラが一体いたらその時点でレビューは星1の0点だ。
客をバカにすんなよ。
巨乳ブームってオッサンワイの体感的には80年代後半から起きて2010年代くらいまで盛り上がったり盛り下がったりしつつ続いたという感じなんだけどさ。
ここ数年で割と急速に「デカいから、だから何だよ」みたいなノリが、特に若者に広まってきたような気がする。
女子向け雑誌とかでも、一時期やっぱ巨乳は良いぞ的な風潮があったような気がするが、現実に巨乳だと実生活だとむしろ不便なことが多いぞって事実が広まって、その価値が急速に下がった気がする。
今の女子向けってむしろ胸が小さく見えるブラとか流行ってるやん。その方がボディラインがスッキリしてニットとか着やすいみたいな。
女子たち本人的にそういう事情もあるんだろうし、男目線でも実際、セックスする相手が巨乳だからって別に楽しいってわけじゃないしねー。
まあそれで金を取れるレベルの美巨乳であれば良いんだろうが、そんなんつまりプロのグラドルさんやし、一般人でそんなレベルの美巨乳は過去二人しかお会いしたことがない。
なんてことを最近の定期さん(21歳大学生見た目ギャル系Dカップだが普通に性格が良く病んでもいないというパパ活女子界隈の激レア当たりキャラ)と昨日セックスしながら話していた。
もう10回くらい会ってるのでお互いのノリやセックス時の注意事項もだいたいわかっており、過去最高に楽しいセックスができ愚息も無事昇天いたしました。
相手からも「過去最高に気持ち良かった。めっちゃ声出ちゃった」との感想をいただき、これにはおじさんも思わずニッコリ。
ほんと、どういう神経してるんだろうな
ああいう輩は「こいつ嫌いだからコロしちゃお」みたいなことするんだろうなあ
「一線超えられる奴等」って感じ
自分がすることにせよ他人がすることにせよ「超えちゃいけないライン」とか「忌避感」ってあるじゃん
サイコパスとかとは違う
でも
たとえばその甲殻類アレルギーの故人が「人類史上稀に見る悪人」とかならまあ…「棺桶に甲殻類入れられる」くらいのリベンジを受けても致し方ないだろうけど
なんかこの話でエビ・カニを棺桶に入れた奴等は「被害者」って感じしないよな
もし故人に多大な迷惑をかけられたなら、もっとヒッソリと陰惨な雰囲気で復習するだろう
というか普通の感覚で言うと「死んでくれた」と思ってスッキリして、葬式にすら行かないだろうよ
(スッキリするか…も微妙なところだね。それこそ「生きてるうちに復習したかった」とか「死に逃げしやがって」みたいな感情もあるかもしれない)
自分ならそうだね
自分はたまにドタキャンをする。よく巷では「ドタキャンされた!」ということだけ言われているのでドタキャンする側の方の理由も開示したいと思う。ちなみに自分は男。
基本的にドタキャンをする場合、会う相手の優先度がかなり低い。
とくに相手側から約束をとりつけられたようなときで、こちらはそんなに会う気がなく、ヤリモクでも面倒だなと思う相手とのデートのようなときはドタキャン選択肢が浮かぶ。
前日や当日になって「やっぱりめんどくさいな」とか「起きるのだるいな」とか「眠いんだよな」とか「冷静に考えたらこの女性とこの店行くの高くね?」とか「やっぱゲームしたいし」とか「マンガ読も」とか、そういう理由でドタキャンすることがある。
「眠いから今日デート行かない」などと断るのはあまりにも酷いのでブロックするとか音信不通選択肢を使う。
嘘をつくのも心理的なコストがかかるので、「この人に嘘をつくぐらいなら適当にブロックしとくか」と考えているかも。ブロックの方が1秒で済むので。
いくらマチアプでの予定の方が先に入っていたとしても、優先度が高い予定が入ってきたらそのマチアプの予定に上書きする。
多くはデートだが、友人と遊ぶなども含まれるし、デート以外でも「気になっている人とゲームする」とか「気になっている人と通話する」とか。
デート中はあまり他の女性と連絡することができないため、この人とデートするぐらいなら行かない方がいいなと判定することがある。
デートは割り勘でも嫌なことがあり、「この顔面でこの店で割り勘か……ちょっとコスパ悪いな……」みたいな感覚がある。
優先度が高い予定が当日まで調整困難なことがあり、マチアプのデートの方はずっとキープになっていることがある。当日になりやっぱ優先度が高い予定いけるみたいになった場合はドタキャンになる。
基本的には気まぐれ。「気が向いたら〜」と言っているのに相手が強く希望すると「まあそんなに言うなら」と予定が作られたりして、そういうデート予定だとわりとドタキャンチャンス高め。
顔が残念な感じだと一気にテンションがガタ落ちになる。自分はけっこうブサイクな女の人とヤるのは嫌なタイプなので、そのまま帰りたい気持ちというか、損させられたという気持ちになる。
「交通費と時間返せ。ひどすぎる」ぐらいに思っているので、会わずに即ブロックしてあとは自分の予定を作る。急遽「暇になった」とか「誰か遊べる人!」などのように誘う。ただし1人で出かけることが多い。
デート直前にもはや彼女のような振る舞いをしてくる女性がいるが、こういうことをされるとかなり萎える。
表面的には仲良く振る舞おうとするのだが、それを見てますますつけあがられると気持ち悪いなとなってキャンセルしたくなる。
だんだん連絡の頻度を落として自然に消滅させようと思うのだが、全然そういうメッセージに気付かずデートのグレードダウンなどの相手側から提案をされない場合は「コスパ悪いな」となってドタキャンになる。
これも優先度の問題だが、別の女性の優先度をしっかり決めている場合、マチアプで出会う人はあくまで人生におけるオプションなので、いつでもどこでも都合が悪ければ即切るものだと考えている。
つまり「リアル」ではないと考えていて、自分の内側ではなく外の世界の住人であり、相手が死のうがどうしようが究極的にはどうでもいいという感覚だ。
自分の場合「バレそうかもしれない」というタイミングですべての連絡手段を遮断する。つまりマチアプの人がどうこうなるというのはハナから頭になく、自分の人生のみを考えている。
やりとりの中だったり、以前のデートで嫌な思いをした場合、その復讐としてあえて行きもしないデートの約束をとりつけてドタキャンを選ぶことがある。
ドタキャンは「お前には価値なし」という意味がこめられているため、何か相手が自分のことをナメてきていたり不愉快な言動をとってきたときに「お前には価値なし」とラベルを貼ることで、スッキリしたいとか相場をわからせたいというのがある。
こちらはどこにでもいるワンナイトちゃんや貢ぎちゃんや家政婦機能つきセフレちゃん候補としてUber Eatsのように考えているのに、相手は彼氏候補とか結婚相手候補とかほぼ彼氏みたいなもののように考えている場合、相手の言動が不快になることが多い。
たとえばセフレ候補を落とすために21時から通話しようと約束していたのに、21時5分に謝罪もなく通話しはじめて、しかもなぜか「自分と付き合いたいんだよね?笑」みたいな言動をされると、「俺はこのレベルの女にこんな扱いをされなければいけないのか…?」のようになって怒りがわきはじめる。
そういうときに、彼氏のように下から甘々な対応をして「キモww」と仲間に紹介して爆笑し、最後にデートのドタキャンをするというふうにストレスを発散する。
これは多くの場合自分のモテ度合いの確認も兼ねていると思う。本命に相手にされてないとか、仕事などでストレスをかかえているとか、寝不足で体がだるすぎるとか、そういうストレスをドタキャンで発散している。
同じドタキャンでも「本当にごめん。実はうんたらでどうたら」となるべく無理になったタイミングで誠実にドタキャンしたくなる相手もいれば、「こいつは死刑でいいだろ」と非誠実にドタキャンしたくなる相手もいる。このへんはいろいろありそう。
ガンダムSeedシリーズおそよ20年ぶりの新作となる劇場版SEED Freedomを鑑賞し、自分の中でガンダムSeedという作品を供養できたので記念に置いておこうと思う。
子供の頃からガンダムが好きだった自分はワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると酷い出来に落胆した。
設定やMS、一部キャラの溢れる魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと世の中に対する解像度の低さが目立った。
1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
しかし従来のガンダムとは異なる客層を呼び込むことに成功し、爆発的な人気となったが、その内容に伴い多くのファンとアンチを生み出した。当時のネットはまさに阿鼻叫喚の様相だった。
ガンダムSeed Destinyと出会った時、自分は大学生になっていた。
今度こそは失敗を取り返してくれるはずだ。ワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると輪をかけて酷い出来に大きく落胆した。
設定やMS、一部キャラの魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと 世の中に対する解像度の低さ が目立った。 1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
続編であるDestinyの酷さはここでは語り尽くすことはできない。大勢の方が語っているはずなので割愛するが、アニメ雑誌のインタビューで声優が出演作品をボロクソ言ったりしていたアニメはあまりないだろう。
ともかくこの魅力的な要素を持ちながらそれを活かしきれなかったSeedシリーズは、多くのファンに絶望や怒り、憎しみ、無念、悔恨などを与え、感情が渦巻き、ネット上でまともに語ることは不可能であった。
その後ゲームやコミカライズ、ノベライズなど様々な媒体で、救済が図られ、ファンは喜んだり記憶を呼び起こされて怒ったりしていた。
前作で生み出された多数のファンとアンチはDestinyという作品を消化することができず、行き場を失った悪霊となって20年感彷徨うことになった。
ところで私は幼少期に放送していた新世紀GPXサイバーフォーミュラというレースアニメが大好きだった。
近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、続編のOVAも完走していた。このサイバーフォーミュラという作品とSeedには共通点がある。監督と脚本家が同じなのだ。
福田監督とその妻である両澤千晶である。(星山氏や電童については脱線するため割愛する)
極めて似通っていて欲しくない共通点もある。上手くいかないことを周囲に当たり散らしていた主人公が悟りを開き、良いものとして描かれていく。展開もどうにもスッキリしない。はっきり言ってしまえば失速していく。
これは両澤千晶が本格的に脚本に関わりだしてから起こっていると当時から感じていた。
今にして思えばそんな1人の介入で質が下がったのなら監督の責任なのだが当時はとにかく嫁が悪いのではと考えていた。
近年の監督のSNSでの振る舞いなどを見てやはりこいつのせいだったかと思い直したりしていた。
それから20年の間、親しい友人とSeedをネタにし続けることで楽しんでいた。いや、都度思い出してマジギレしていたかもしれない。その間映画の話も出たり消えたりしており自分の中では無かったことになっていた。
この20年の間に私生活は大きく変わっていた。就職し、転職し、家庭も持っていた。今さらそんなことを言われても困るぞ。
Seed関連での大きな変化といえば脚本家の両澤千晶が亡くなっていたことだった。私にとってアークエネミーだった人物が亡くなってしまったことに大きな喪失感を覚えた。
当時プライベートな場でとはいえ汚い言葉で罵倒し怒りをぶつけていた人間が亡くなってしまった事実に申し訳なさや後悔のような感情もあった。
どこ目線だと思われるだろうが、責任のようなものを感じていたかもしれない。
この間ガンダムシリーズは作り続けられており、全て視聴していた。
ユニコーンを楽しんだり00やAGEに怒ったりしていたが、Destinyのときほど熱くなることはなかった。何を見せられてもあらゆる意味であれほど酷い作品には出会えなかった。悪い意味で忘れられない作品になっていた。
そんな中両澤氏の訃報を聞き、Seedという作品が永遠に消化できないものとして残ってしまったという感覚、しこりのようなものがあった。
私は困惑し、20年来の怒りを思い出し、また困惑し、さらに困惑していた。
なぜ今?本当にやるのか?そんなことがありえるのか?どうして墓から掘り起こすのだ?えぇ……?
多分観ちゃうんだろうなという予感はありつつもとても向き合えないと感じていた。
Seedシリーズの主題歌を担当し、自身も声優として出演していたTMRevolutionの西川貴教氏は20年間劇場版を待っていることを公言し続けていた。
そんな西川ニキは劇場版発表後、自身のTwitterでこれは我々の「業」です。と発言していた。
自分も業と向き合うべきだ。そう考えた私は20年ぶりに無印からDestinyまでを通して100話見てみることにした。
やはりクソだった。20年ぶりに怒りが湧いてきた。巻き込んだ初見の家族もキレていた。
しかしリマスターは業が足りない。絵が綺麗になっているじゃないか。アスランはハゲてないしクルクル回りながらビームもあまり撃たない。ストフリが汚れているじゃないか。そんな歴史改変は許してはいけない。
それはさておき20年来の友人と自然な流れで観に行くことになったが、
20年間溜まり続けていたおこりのようなもの、あるいは悪霊、地縛霊のようなものが覆い被さっているような気分だった。
何を着ていけばいいのか?喪服なのか?タキシードなのか?私服でいいのか?ネクタイは何色?
斯くして、Freedomを鑑賞した私はすっかり浄化された。憑いていた悪霊も成仏し、20年熟成させたヴィンテージワインを開け、みんなと笑いあうことができた。面白かった。いや、楽しかった。みんなで見た走馬灯のような映画だった。
キラは人間に戻り、ラクスは人間になり、アスランはネタになり、ヒーローになった。
特にシン・アスカというキャラクターが躍動することで私は救われた気持ちになった。20年間の無念がようやく報われた、そんな気がしたのだ。
映画終盤、唐突にクロスアンジュが始まり、西川ニキのMeteorをバックにフリーダムが神になった瞬間、私はもうこれで良い、と強く思った。
Destiny終了後すぐにこれをやられていたらキレていたかもしれない。でもこれは20年という時間が与えてくれた最高の贈り物だった。
気づけば劇場で涙を流していた。
監督夫妻が生み出し、2人に壊されたと思っていたSeedという作品をファンに、俺たちに、みんなに返してくれた。
劇場を出るファンたちはみんな笑顔で楽しそうに映画を振り返っていた。いや、アスランの話をしていた。明日はシンの話をしているだろう。
みんなが笑ってSeedの話ができるまで20年も必要だったのだ。
今まではお前はSeedが好きなんだろうと言われたら即座に強く否定していた。でも今なら本当は好きだったのかもしれないと思えるようになった。
監督も気持ちの整理に時間が必要だったのかもしれない。この映画は監督から奥方への追悼であり、想いを綴った恋文だったのかもしれない。
いや、許さんが。