はてなキーワード: ですぞとは
「後悔などあろうはずがありません!」
俺は胸を張って女神に答えた。
――国道H31号線。
――幼いこども。
――迫るトラック。
――飛び出す俺。
短い人生ではあったが、最期に命を守る行動を取れたことに悔いはない。
「よくわかりました。それでは功績を認め、あなたを新たな世界に翔んで埼玉させましょう。その世界は今、上級国民の手によって闇に覆われようとしてます。どうか勇者として世界を救ってください」
……こうして俺は、異世界――管理ナンバーR01――に翔んで埼玉することとなった。
///////
「あれから随分と色々なことがあったな……」
キー―ッと音を立てて回転するにわかファンの真下で、俺は感慨深げに呟く。
ONE TEAMのひとり――聖騎士が目を細めて笑みを浮かべた。
一方、もうひとりのメンバー竜剣士は落ち着かない様子で野太い声を響かす。
「おいおい、いつまで思い出話に浸っている気だ? さっさと冒険に出かけないと、腕がサブスクじゃねーか!」
「落ち着け、竜剣士。休むことも冒険の一部だ。今日は計画運休だと言っただろう」
俺はギルド特製のおしぶこドリンクをずずずっと啜り、その甘さを十二分に堪能する。
だが、俺の至福のひとときを奪うかのように、ONE TEAM最後のひとりが甲高い声で反駁する。
「ククククク。とはいえとはいえ勇者殿ぉ。冒険に行かなければ、いずれ吾輩どもはキャッシュレス! 揃って飢えタピることになりかねませんぞいぞい!」
「……お前は黙っておけ。闇営業」
「お前が俺達に意見していいのは4年に一度じゃない。一生に一度だ。」
「…………」
結局、俺達は闇営業の意見に従って、のそのそ街の外へドラクエウォークすることとなったのであった。
///////
「あな番はいないようです」
「よし、慎重に奥へ進むぞ。さくせん<命を守る行動を>だ!」
…………。
俺達は襲いくる上級国民やれいわ新選組を撃退しながら、ついにダンジョンの最深部に到達した。
「ふはは。逃げ場がないのは貴様たちの方だ。さあ、行け。わが忠実なるしもべ達よ!」
合図の声とともに無数のジャッカルたちが現れる。
「多勢に無勢です、勇者!」
「なーに! この程度のハンディファンがなけりゃ、面白くねぇじゃねーか!」
「ククククククク……」
そして死闘が始まった。
「うぉぉっりゃあぁぁぁぁっ!!」
竜剣士の一太刀がれいわ旋風を巻き起こし、ジャッカルの群れが切り刻まれる。
「祝福の女神よ。彼の者の傷を癒やしたまえ。――ポエム!――」
聖騎士の膨大なMGCポイント還元によって、蓄積された肉体の#KuTooが一気に軽減税率されていく。
「ククククク。あなたの◯◯ペイで拙者の〇〇ペイを〇〇〇〇ペイしてもらいたいですぞぃ!」
笑わない男でさえもスマイリングシンデレラへと変えてしまうセールストークのプロフェッショナル――闇営業のセクシー発言が、上級国民の神経を逆撫でする。
……皆が死力を尽くして戦っている。
俺は、王女から授かった「パプリカのナイフ」に聖なる力を免許返納して、渾身の一撃を解き放った。
肉肉しいあんちくしょうの顔めがけ、聖なるオーラが閃光となって突進する。
「おああーーーっ。あーっ」
やがて、光はゆっくりと減少していく。
光が完全に消失したとき、そこにはただ、生き延びた仲間たちの姿と、おむすびころりんクレーターだけが残されていた。
///////
上級国民の魔の手は消え去り、世界は令和を取り戻したのだった。
聖騎士は将来の脅威に備えるため騎士団へと戻り、竜剣士はさらなる強敵を求めて放浪の旅へと出立して行った。
そして……。
「君の崇高な犠牲のお陰で、世界は令和になったよ。ありがとう、闇営業……」
闇属性であるがゆえに聖なるオーラの巻き添えで消滅した闇営業の最期を思い返しながら、勇者は静かに目を閉じ思う。
2019-2
https://anond.hatelabo.jp/20191108151727
2018
https://anond.hatelabo.jp/20181109213637
2017
https://anond.hatelabo.jp/20171109235515
2016
そういえばいつの間にか夏アニメが終わってしまった。夏アニメはわりと毎週楽しみにしていたものが多かったのでメモ。
『移動都市/モータル・エンジン』(以下、移動都市と省略)を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ。
120点ヤッター!バンザイ!。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。大満足なんではあるが、この大満足は極めて個人的な感情であり、しかもタイミングによるところが大きい(後述)。なんで皆様におすすめできるか? オールタイムズベスト的な価値があるか? といえばおそらくない。見なくて良い。
しかし一方で今じゃないと書けない評価もあると思うので、この記事はその辺について触れたいと思う。
当方は「パンフとか購入するくらいならもう一本別の映画見るわ教」の人間なので詳しいセールス文句は知らないのだけれど、スタッフ的には『ロード・オブ・ザ・リング』のスタッフが結集!とのことで、ほうなるほどと思って足を運んだ。どうでもいいけど、この映画、日本での広報に失敗してない?
んでもって内容なのだけれど、想像した以上にCGが良かった。「CGが良い」っていろんな方向性があるんだけど、一昔前の重要課題だった「嘘くさくない」とか「合成に違和感がない」みたいな部分は今やもうすでに解決済みであって、現在では「どれくらい見たことがないすごい景色を見せてくれるか?」ってとこが焦点だとおもう。
その点において『移動都市』は素晴らしかった。超巨大戦車じみた土台の上に一個の都市ロンドンが乗っかって、スチームパンクともレトロフューチャーとも言える鉄量にまかせてゴンゴンガンガン進みながら、その中には宮殿も大英博物館もあってゴシックな生活もあるってあたりが、もう、きゅんとくる。世界観の荒唐無稽さを、CGによる映像美と迫力で押し切るという、いわば「嘘の芸術」である映画のセンス・オブ・ワンダーが花開いていた。その点は二重丸。
アクションも、チェイス、市街戦、空中戦、焼け落ちる基地からの脱出、潜入、銃撃戦と各種取りそろえそれぞれにレベルが高く、十分以上に楽しめる。
一方で脚本は、まあ、悪くもないんだけど、そこまで良くもない。割りとありきたりな復讐劇で世界観とCGによる大美術とアクションに全ふりしたような映画ではあった。
登場人物も、主人公ヘスター・ショウ(母親を殺害された件をきっかけとする復讐者)とトム・ナッツワーシー(ヘスターに好意を抱き所属するロンドンを裏切って協力する史学者&飛行機乗り)は、内面的にも平坦でそこまで感情移入するってほどでもない感じ。
二人をお助けする女性賞金稼ぎのアナ・ファンのほうが汎アジアキャラ的なドラマをもっていて好感度高かったほど。
だいたいしめて90点くらいで、レイトショーで割引で見ると満足な映画というのが評価だろうか。
しかし!上記のような説明ではこの映画を120点評価した理由が全くわからないだろう。ここではそこを解説したい。
そもそも『移動都市』の世界観は、現在の文明が大戦争でほぼ滅んだアフターホロコーストな地球である。大量破壊兵器メデューサで欧州は完全に壊滅して、泥炭じみたぬかるむ湿地の広がる大荒野になってしまっている。そこではもはや土地に根付いた生産をすることは不可能であり、都市は「移動都市国家」としてそれぞれが巨大陸上兵器になりつつ、荒野をさまよって、より小さな移動都市を鹵獲して、食料や燃料や労働力(そこの市民)を略奪して暮らしているのだった。
今回映画『移動都市』の主役都市とも言えるロンドンは、その中でもかなり大きなものであり、旧時代の文明研究をして工業力を維持しつつ、小都市を略奪して巨大化しているっぽい。
ロンドンはどうやら物語開幕直前にドーバー海峡を渡ったようで、欧州東部の小都市国家郡にたいする略奪旅行にでる。わーお!プレデタージャーニー!これを市長は「都市淘汰論」とかうそぶいて正当化する(ダーウィニズム! キタコレ)。
この時点で映画開始から10分もたってない。すごいよロンドン。めっちゃゲスじゃないですか。
移動略奪都市ロンドンは「移動派」を名乗っていて、一方で、ユーラシア大陸当方には「反移動派」がいて、これは旧来の都市運営のように普通に地面に都市を作って周辺で農耕しているらしい。映画後半になるとそっちにもカメラが行くんだけど、緑豊かな自然を復興している。
東へ向かうには要所となる渓谷があり、そこに東部の「反移動派」たちは「盾の壁」なるものを築いていて移動略奪都市の侵入を拒んでいる。この「盾の壁」と移動略奪都市ロンドンの大戦争が映画のクライマックスだ。
物語中では明言してない(してるわけがない)んだけど、この「移動派」の移動略奪都市ロンドンって、もう、完全に植民地主義なわけですよ。
巨大な鉄の破砕口で逃げ惑う小移動都市を捕捉してバリバリ噛み砕き、そこの住民たちを「強制移住」させて「ロンドンへようこそ!あなた達には住居と仕事が提供されます!」とか放送しちゃってるけれど、そういうひとたちは都市最下層の労働者タコ部屋みたいなところに押し込んで働かせている。
そういう小移動都市を奪って「燃料一ヶ月分の足しになるか」とか市長は言い放つし、ロンドンの公園テラス(周辺の荒野が見える)では、ロンドン上級市民が鈴なりになって、(おそらく東欧の貧乏な)小移動都市に銛を打ち込んで串刺しにして鹵獲するシーンとかで「うぉおおお!!ロンドン最高!!」「やれー!やっちまえーー!!」「貧乏人を奴隷にしろ!」とか大歓喜なんですよ。
もう、このシーンだけで興奮してしまう。
まじか。スタッフまじでこの映画作ってんのか? っていうか原作小説からこれかよ。パンクだな。
しかもそのうえ「反移動主義者どもは盾の壁などをつくって我々を干上がらせるつもりだ!けしからん!奴らの土地を奪うぞ!!決戦だ!!」「うぉおおお!ロンドン!ロンドン!!」とか言い始める。
これだよ。これこそが大英帝国だよ! 大英博物館はそうやって鹵獲した貧乏都市に残されていた旧時代の文明異物を収集して飾っておくとか説明されて、「わかってるよこの作者ぁ!?」ってなるなった。
んでまあ、そうやってね。植民地最高!労働力は移民(白目)でOK!上層部では光降り注ぐ庭園とヴィクトリアンなライフスタイルで下層はスチームパンクな労働者で身分が違うからろくな会話もできません。みたいなロンドンが、最終的にはコテンパンに負けるんですけどね。
原作者フィリップ・リーヴはイギリス出身なんだけど、自虐っていうかシニカルな笑いが凄まじいな。まさにこのシニカルかつブラックな笑いがこの映画の加点理由であって、だめな人には全くダメだし、歴史的な経緯がわからないと小芝居に意味が無いとも言えるし、そういう意味では難しい映画かもしれない。でも、めっちゃパンク。
まあそういう感じでゲスなダメダメさを楽しむ映画ではあるんでが、日本の場合はさらにボーナスがあって、それはイギリスがただ今絶賛ブレグジットに関するgdgdの真っ最中であって、過去自分がやった鬼畜所業を再確認中だってことですよね(欧米での公開は去年なのでそこまでタイミングドンピシャじゃなかった)。
イギリス人「だってイギリスはイギリスのものなのに政治の中枢がEU本国側にあるなんていやでしょ?」
みたいなことを思い出しながら『移動都市』を鑑賞のは最高に贅沢だと思うのですわ。メイちゃん首相もだんだん顔が怖くなってきたし。『移動都市』みたいにEUぶらり旅で離脱できるとええな。
『キャプテン・マーベル』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ。
ほどよく100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。ふむふむ満足であるぞ、と思いつつ帰路についた。とは言え、帰路において考察が止まらないとかはなく、色んな部分が程よく狙ったように及第点ではある。
MCU(マーベルヒーローの映画シリーズ程度のことだと思いねえ)ファン的にはくすりとわらえたり、ほろりと出来たりする要素はありつつ、全体としてのアクションやCGバトルの派手さも有りつつ、脚本もウザくならないように欠点塞ぎつつ、いい感じというのが個人評価。大傑作じゃないけど程よく佳作。
『キャプテン・マーベル』は良かった。しかし、実はその良かった部分が自明じゃない。様々な要素が程よく及第点だから全体合計で佳作なんだけど、何か突出した、訴えかけてくる部分が見つけづらい。
でもそれって無いわけじゃない。無かったら上映後もっと気持ちが尻すぼみになったと思う。だから良かった部分をちゃんと言語化しておくほうが良いと思ってのメモだ。
いろいろ考えてたのだけど、『キャプテン・マーベル』は空っぽなところが良かった。その内面というか、背景が、他のヒーローに比べてポジティブに空白だ。そこが素晴らしく良かった。
ヒーローというのは超越的な存在で、それは能力的なものもそうなのだけど、内面的にもそうである必要がある。「信じられないほどの苦境や絶望に対して敢然と立ち向かう断固たる決意」みたいな部分だ。しかし一方で、ただ超越的であるだけではなく視聴者である凡人の僕らと地続きである必要もある。そうじゃないと視聴者はヒーローに感情移入することが出来なくて、彼らの苦悩や活躍を他人事の白けた話だとしか思えなくなってしまうからだ。
アイアンマンやキャプテン・アメリカというスーパーヒーローであっても、彼らの抱えた周囲から無理解へのいらだちや、内面の孤独や、大切な人を失ってしまう絶望という様々な苦難は、もちろん具体的な状況は違うのだけど、僕ら一般人が生活を営む上で出会うそれらと変わりがない。ヒーローはヒーローでありつつ僕らと同レベルの人間存在であって、その同類が困難に向かって立ち上がるから胸が熱くなる。
マーベルというアメコミ企業は、扱ってる商品の性質上、ヒーローの専門家であって、ヒーローについて多分毎日毎日めちゃくちゃ真剣に考えているから、そういうドラマの基本を十分に研究していてヒーローを生み出している。
その結果、例えば肉親を悪の襲撃や事故で失ったり、自分の将来の希望を奪われたり、社会からの拒絶で友を失ったり、両親との関係のコンプレックスがあって取り戻せなかったり、愛を交わしたパートナーに去られたりする。……よくあるなー。
そういう内面的な危機を乗り越えた「から」精神的に強いヒーローなのだー! ばりばりばりー! みたいなシナリオは本当に多い。でも、それってなんかこう……やりすぎて陳腐になったり、これみよがしな悲劇ドラマになったりもする。
言い方は悪いが「こんなにひどい目にあったんだから超絶能力を手に入れてもええやん?」みたいなエクスキューズにも見えてしまうのだ。ドクター・ストレンジお前の映画のことだゾ。
この「1)なんだかんだで凡人→2)内面的な困難や絶望の超克→3)不思議な出来事が起きてヒーローパワー入手!(2と3は順不同)→4)乗り越えた主人公の爽快なアクション!→5)解決!」というドラマ構造はすごく強力なテンプレなのであらゆるメディアで見ることが出来る。
この構造において、ヒーローの内面的な資格は「不幸とその超克」だ。
でもたぶん、『キャプテン・マーベル』はそこに対して距離を取った。
ドラマを支えるために一応取ってつけたようにその構造はあるのだが、その部分には明らかに重心をおいていない。
主人公キャロル・ダンヴァース(キャプテン・マーベル)は、たしかにクリー人に洗脳されて傭兵扱いされてたわけで、そういう意味で裏切られていた(っていうか洗脳されてたって相当ひどい過去だよな。エリア88の風間シンよりやべーだろ)わけだけど、じゃあそれが彼女の内面の悲劇であり彼女の中心か? というと別にそんなことはない。
クリーの指導者である超AIにたいしても自分を騙していた直接的な上官にたいしても、別段そこまで復讐の意思はなさそうだ。現に上官のヨン・ロッグは叩きのめしたけれど宇宙船にわざわざ乗せてクリー星へ送り返している。
映画を見終わったあとに振り返ってみたけれど、彼女が内面的な意味でヒーローになったきっかけというか契機となるイベントは実は本作のメインな時間軸中に存在しない。そのイベントの欠如は、従来の判断によればドラマ設計の失敗を意味するはずだ。でも、設計失敗の割にこの映画は破綻してないしちゃんとドライブされている。
これってどういうことなのか? 内面の葛藤を経ていないキャロルは前述のヒーローの資格においては失格であるはずだ。しかし画面の中の彼女はさっそうとしてて格好いいし、見ていて気持ちいいし、応援も出来るしヒーローに見える。これってどういう設計なのだろう?
結論から言うと、その資格論にたいする本作の返答は「主人公キャロル・ダンヴァースは最初からヒーローだった」だったいうものだ。
この「最初から」というのは、文字通り子供の頃からという意味で。
作中でインサートされるように、キャロルは、子供時代の記憶としてカートレースの事故にあう。子供野球で三振する。軍の教練において体力勝負で負けて周囲から笑われる。つまり、僕ら凡人がするような挫折を一通り普通にやっている。
そして彼女はなんだかんだ人生につきものの紆余曲折を経て、当時まだまだ女性に対しては門戸を閉ざしていた空軍パイロット(エリートの象徴でもある!)に実験部隊ということで潜り込んでテストパイロットになる。
その実験部隊でトラブルが起きて、キャロルは恩師ウェンディ・ローソン博士を助けるために飛行任務に立候補し、その騒動の中であわや命を失うというところまで行くのだが、それはさておき。
その実験部隊で同僚でもありキャロルの親友の黒人女性パイロット、マリア・ランボーのセリフに「その時(恩師を助けるためにパイロットに立候補したときの)のあんたはまさにヒーロー登場! って感じだったよ」というものがある。過去を回想する形で親友が主人公を思い返した言葉だ。
この立候補のとき、キャロルはスーパーヒーローの能力を持たない普通の地球人だったわけだけど、にもかかわらず、「まさにヒーロー」だったわけである。
能力のみならず、内面の危機においても主人公キャロルはこの時点で、ヒーローにつきものの特別な悲劇は経験していない。恋人を謎の組織に殺されたりしてないし、四肢を切断されて生きる力を失ったりしてないし、故郷を帝国に焼き尽くされたりしていない。
この作品は「それでもいいんだ」と言っている。そこが良かった。
つまりカートレースの事故から負けん気で立ち上がったとき、子供野球で三振したけど凹まずに再挑戦したとき、軍の訓練の綱登りで落下してもへこたれなかったとき、そのときキャロル・ダンヴァースはすでにしてヒーローであった。あらゆる困難に「なにくそ!」と立ち向かったとき、「すでにしてヒーローの資格を得ていた」わけだ。もちろんアクションバトル映画であるので、主人公キャロルはヒーローの能力を得たあとにも虐げられたスクラル人を助けようとして銀河規模の争いに身を投じる訳だが、それはなにも特別なことではなくて、「眼の前の困難に対して意地や義侠心で立ち上がる」ことそのものは子供時代と変わらない。
あらゆる人のあらゆる人生につきものの、しかし本人にとっては重要な、日常の無数の挫折や失意から立ち上がること、諦めずにチャレンジするその姿勢、それこそがヒーローであると『キャプテン・マーベル』という作品は主張している。
それはつまり、主人公キャロルだけではなく、広く開かれた一般凡人である視聴者への無言のメッセージでもあるのだ。「ヒーローになるにあたって特別巨大な悲劇や喪失も必要ない」。「この映画を見ている圧倒的多数の普通の人々も十分ヒーロー足りうるよ!」と言っている。
これは脚本家が、従来のヒーロードラマに対してまだまだ満足せずに、ドラマの構造として一歩先に進もうとした野心の結実のように思える。
そのチャレンジがとても良かった。
アメリカ映画において、とくにハリウッド映画において、さらに子供をターゲットに含めたヒーロー映画において、ロールモデルっていうのはすごく重要なポイントだ。ロールモデルっていうのはざっくり「目指すべき人物像」とでも言えると思う。「こういうのが良い人間です」という制作側の提案、という側面がハリウッド映画には確かにある。
日本ではちょっと馴染みのない考え方かもしれないけれど、要するに子供の頃に課題図書で読む偉人伝と同じような役割の文化装置だ。二宮欣二とか野口英世とか夏目漱石とか聖徳太子とか。あのような人々の物語と同じようなジャンルとしてキャプテン・アメリカやアイアンマンがいる。
人々は彼らに憧れるとともに、彼らを通して、正義や公や仁愛や克己を学ぶ。どういうモデルが「目指すべき人物像」になるかっていうのは、当然制作側/脚本側の提案によるんだけれど、その背景には当然制作当時の(主にアメリカの)世相が反映されている。
近場で言えば『アクアマン』では主人公アーサー・カリー が抱えた苦悩は、まさに「移民二世が抱えるアイデンティティ問題」「おれはどっちの子供なのよ?」であって、すごく現代的だった。
『アントマン』においては「娘に愛されたい父親としての俺と、金を稼ぐ社会の中での俺のどっちを選べばいいの?」というこれまた現代的でヴェットな問題が提起されている。『インクレディブル・ファミリー』においては「あっれー。なんか嫁さんのほうが稼ぎ多くて俺ってばヒモみたいな生活になりつつあって、家庭内での俺の地位とか、俺のオトコとしてのプライドとか、どうすればええん?」という現代的な――なんか世知辛くてしょっぱい話になってきたなあ。
MCUにおける二大ヒーロー、キャプテン・アメリカとアイアンマンは「能力を持つものの社会貢献」をめぐる物語で対立する。世界を救う能力を持つヒーローは、なんで救う義務があるの? というわりと古典的で、でも正義をめぐる物語としては避けて通れぬ踏み絵のようなテーマだ。
その問答に『キャプテン・マーベル』は踏み込まない。主人公キャロルは行動するが、行動に前だつ問答はない。それこそが彼女の提示したヒーロー像で「アメリカ人の目指すべきロールモデル」だ。
困難を前にしてくじけない。不撓不屈。弱者に対して自然に寄り添う慈愛と、押さえつけてくる不当な力に対する反発。しかしそれらは、そういう問題がなにか特別大きな悲劇だから、滅すべき悪だから立ち上がるというわけではなく、ごく自然に「それが私だから」というスタンスで、重く扱われない。そこで重要なのがくだらないユーモアと友人と日常であって、災厄を目の前にしてもひょうひょうと立ち向かう。ただ、絶対にくじけない。破れても失敗しても「もう一度」チャレンジする。
主人公キャロルはその戦闘能力においてMCUのなかでもかなり最高峰に位置すると思うのだけど、政府の超人兵士計画で生まれたキャプテン・アメリカよりも、悲劇を背負った社長で発明家で大富豪でちょいワルモテ親父のトニー・スタークよりも、その内面の姿勢において一般的な視聴者に近い。「顔を上げて誇り高く自分らしく生きる」だけでヒーローとして立っている。
その軽さ、明るさ、が心地よい映画であったと思う。