はてなキーワード: 21世紀とは
コンビニのカップめんの棚のまえで立ちすくんでさんざん迷ってしまい、途方に暮れた末に、結局カップヌードルカレー味にしてしまうことがよくある。最近はそば系のやつとかもよく食べるけど、カップヌードルのたまに帰ってきたくなる感は異常だ。
その中でもカレー味が1番好き。昔カップヌードルに入っていたよくわからない立方体の肉の塊、ネット上での通称「謎肉」はカレースープによく合った。いまは「コロチャー」という別の肉になってしまったけれど。いまのも別に嫌いではないんだけど、やっぱりあの肉がまた食べたいという気はする。(調べるとライトやリフィルのほうにはまだ入ってるらしいのだが)
カップ麺の世界も競争が激しくていろいろな新商品が出ては消えていく。その中でよく見るのが「生麺そっくり」というような、本物のラーメンと比べて遜色ないことを喧伝する謳い文句だ。あと有名ラーメン店とのコラボ商品とかもよく見かける。ふつうに鍋でゆでるタイプの袋麺をめぐる状況もだいたい同じ感じで、マルちゃん正麺という商品がヒットしてから、より生麺っぽい乾麺を目指す技術競争が加熱してきたようにおもう。
しかし、これだけ各社が技と工夫を凝らして新しい麺を開発してるのにもかかわらず、(他のカップ麺と比べれば相対的に値段が安いとはいえ)カップヌードルはこんにちに至るまで淘汰されず、同じ味を守りつづけている。他のインスタント麺が「まるで生麺!」とか「行列のできる店の味!」とかばかりにこだわっている中で、カップヌードルの姿勢のあの揺るがなさ。堂々たるものである。
それは、カップヌードルが自らひとつの評価軸になってしまったということを意味するのだろう。チョコレートやポテトチップスやコーラは日本人の記憶の中では比較的最近登場した食べ物だけど、チョコレートやポテトチップスやコーラをようかんやおせんべいやほうじ茶と比較しておいしいとかおいしくないとか言いだすひとはいない。チョコレートはチョコレート自身なのであって、他の甘いお菓子とは別のジャンルを確立しているからだ。それと同様に、カップヌードルはラーメンではない。ラーメンや他の麺類とはまったく違う、異質の食品が20世紀後半のある時期の日本に突然発明されてしまったということが重要なのであって、この一点においてカップヌードルの偉大さは他のカップ麺と比較できるものではない。
そういう食べ物って他に考えられる? いまちょっと考えたけど、乳酸菌飲料とかはそうかもしれない。ヤクルトとかおいしいとおもうんですよね。
後発のインスタント麺はしょせんラーメン的イデアの似像に過ぎないので、王道っぽいしょうゆ味やとんこつ味が多いし、カップの形からしてだいたいがどんぶりを模した横長だ。対してカップヌードルは非ラーメンなので、カレーとかチリトマトとかクリームシチューとか、かなりのゲテモノを投入しつづけ、しかもちゃんと受け容れられている。
そこでおもいだしてみると、カップヌードルCMでふつうの家庭人が家で平和にカップヌードルを食べてる風景というのはあんまり出てこないことに気づく。たいてい宇宙にいくとか南極に行くとかそういうSF。
ここまで考えると、あーまんまと広告戦略に踊らされてただけだったなーという気にはなるんだけど。まあ、それにしたって「カップヌードルという食べ物」のセルフイメージを確立するまでの道のりというのはなかなか平坦なものではなかったろう。
正確に言えば、「社会生活」のほうの寛容度が狭いんです。
こだわりがある人を「まあ根はいい人だけどね」と、それはそれとして扱う大人の社会にはなっていません。
同質であることを徹底的に求めるので、話題が偏っていればそれだけで奇人変人扱いします。
多数派に対して「なんだ馬鹿どもめ」と見抜ければいいんですが、そうでないと自分を責めるのでつらくなります。
そういうときに、双方に対して(これが重要)、こういう人もいていいんだ、というために病名がつけられることがあります。
「だるいから休みます」という病気もあるんだ、と思えるなら、つまり病名によって社会も寛容になり、本人も生きやすくなるなら、それは一つの解決です。
ところが、「社会」側の不寛容さは、病名をも叩く傾向にあるのでどうにもなりません。
感染症のハンセン病差別がこんなに長く続いた先進国は日本だけです。アメリカでは戦前に解決していました。
視点・認知のずれということが分からないと、「普通の生活」ができない=無能だと思い込んでしまう危険性があります。
私はアスペルガーやADHDはありませんが(うつ・不眠はあります)、それとは別に方向音痴です。
方向音痴に向かって、「どうして迷うんだ?」と怒られても困ります。迷いたくて迷っているんじゃないんだから。
方向音痴だけを取り上げて、
「あいつは使えない奴だ」(なら外回りの仕事を内勤担当にやらすな)とか、
「彼はインドア派だから付き合いにくい」(こっちだってムダに歩かされるのは願いさげ)とか、
「減点」で評価するのが、日本的評価法です。
こういう生きにくい社会に対しては、減点法では評価しきれない多用な才能がある、また多様な生き方があっていい、ということを常に言っていかなければなりません。
情けない話ですが、「日本人の精神年齢は12歳」とはマッカーサーの評価ですが、21世紀に入って精神年齢は下がる一方で、目下のところ4歳ぐらいかと思われます。異質な存在を全く認めないんですから。
「ヒトラーの素晴らしさが分からないのは精神病だ」というのは笑えない実話ですが、一時期の小泉人気や新保守主義に置き換えると、ぞっとしない話です。
https://twitter.com/Eguchinn/status/425181251914321921
なんだけど、この、ハンドルネームでネット上で絵を発表してる若い人たちに共通して感じるのは「世に出る」という感覚の希薄さ?僕らの世代だと絵でも小説でも音楽でもなんでもいいけど自分の技量で「世に出たい」というのがまずあったんですよ。この「世に出たい」という感覚がもう古いの?ダサいの?
“「世に出る」という感覚の希薄さ”を「ダサい」の一言に要約しちゃう感覚にはすげえ違和感を覚える。ダサいという形容がもうダサいっす!っていうかそれ死語っす先生〜!
――まあそれはさておいて。『虚無的なのがかっこ良く、お金儲けは下品』という昭和ベクトルでこの世代を眺めるのはいささか古い。いや江口寿史Disってるわけではないすよ? ただ、見方として、江口寿史がこのたび想定しているPixiv世代についていえば、個人もしくは仲間内でひったすら趣味活動を醸成しつづけた結果、プロ並の技量を得てしまった、とみるのが(おそらく)正しい。趣味であるゆえそれに注がれる熱量たるや凄まじいんすよね。実際生産量がムチャクチャに多いしアホみたいな書き込み量だったりするんで本当にビビリます。
技巧やノウハウについてはPixivやブログに「講座」というかたちで星の数ほどアップされていて編集者や先輩イラストレーターから教わらなくてもよい状況にありますし、できあがった完成品はPixivやTwitterという超強力ツールによって24時間いつでも品評されます(Favや評価点という定量的数値として)。なんだったら同人誌にしたためて売りに出すこと売れても売れなくても強烈なリアクションが期待できます。
――このようなサイクルに放り込まれたPixiv世代は、趣味のスタンスをまったく崩さないままプロ並と呼ばれる水準にまで到達できてしまうことも充分可能でしょう。パッと見『「世に出る」という感覚』が希薄だったり、自分の技量にやたらと無頓着だったりするのも、お金を取れるレベルに自分が達していることに気づいていないか、『プロ(=専業)』という生態を至上とはしていないせいと考えられます。
同人活動をしている知人の話になりますが、イラストレーターの報酬額には毎回とても悩むといいます。金額をまったく提示してこないからです。好きでやってるんだからタダでいいよというケースすらあるそうですよ(ちなみにイラストレーター氏は受賞歴が複数あり、Pixivではオリジナル非エロが評価点5桁レベルの技量ということです。プロで通用するレベル)。
技法や知識はネットで調べられる、絵道具はペンタブとソフトで充分、Favや評価点でレスポンスが超ハッキリ提示され、気のあう仲間と盛り上がって楽しくすごせる……。そんな環境に囲まれたPixiv世代を外部から理解するにあたり、それこそ江口寿史くらいの年齢層ならば出世欲の希薄さにフォーカスしてしらけ世代との近似を想定するのも無理からぬ話ではあります。ただし言われたほうはコレジャナイ感に満ち満ちる。以上に書いたとおり「しらけ」とは程遠い熱量を持っているからです(イラストレーターごとの個体差はもちろんあります)。むしろオタク的情熱がインプロージョンして世間から観測しづらくなったと言えるのかも。
昔のように身を賭してイラストレーション関係の賞に積極的に応募してこないのは――内部事情をビタイチ知らないので憶測ですが――リスクヘッジが働いていると見るのが妥当でしょう。プロで生きていくより平日ふつうに働いて土日の余力でちょいちょい仕事もらうほうが精神的には遥かによろしい。先が見えなさすぎるイラストレーター稼業のリスクを加味したならば、あえてプロ化しないのも至極まっとうな選択と言えます。そりゃ誰だってジジイババアになってから路頭を迷いたくはない。そういう算段を皆しっかり行うようになったんで「賢くなった」ように見えるのだと思います。
個人的には『無謀こそが最善手』とするのは精神論すぎると思う。トキワ荘のみんなは死んじゃったし。バブルも弾けて華やかな未来は霧散したし。専業はやっぱ怖いすよ。
https://twitter.com/takokainahare/status/425185441478766592
“@Eguchinn 書く事と収入のバランスが悪い。「世に出て」安定した収入を得るまで年月がかかる。働きながら趣味で描いてる方が安心ですよ。”
あと、江口寿史が働きはじめたくらいの頃はメディアたる雑誌の「賞」という入口のほかに不特定多数からリアクションを獲得する手段が存在しえなかったと思います。PixivもTwitterも21世紀のサービスですからな……。今日ではそういったSNSでいくらでも褒めてもらえることが出来る。飯の種を探すことすら可能です。今昔の違いが雑誌の賞に現れるのも、まあ妥当な作用なんじゃね?って気はします。
「午前十時の映画祭」でやってる《2001年宇宙の旅》見てきました。
http://asa10.eiga.com/2013/cinema/312.html
原題の《2001: A Space Odyssey》を《2001年宇宙の旅》と訳したセンスが素晴らしい。
公開が1968年で「21世紀なんて遠い話だけど、その頃には色んなことができるようになってるんだろうな」と思ってたはず。
60年代だけじゃなくて、70年代・80年代ひょっとしたら90年代でも「新世紀は素晴らしい世紀だろう」と思ってた。
そしたら「宇宙の旅」ぐらい当然できるよなあ。
インターネットを当たり前のように使ってるとか、スマホが普及してソーシャルメディアが凄いとか、
確かに素晴らしいんだけど、なんか憧れてた新世紀が、実際に生きる世紀になったら、ちょっと感覚違うね。
映画では「人類の夜明け」のセクションで、ヒトザルがモノリスに触れることで、道具の使用を身に付けたことになってる。
確かに長い歴史の中で、ヒトが偶然に道具を使うことを覚えたというのは、ちょっとどうなんだろうと思うところもある。
何かどこかでブレークスルーがあって、サルからヒトになったんだろうけど、それは何なんだろう。
映画では、それはモノリスで、何か人外のものが人類に与えたとされてる。
本当にそうなのか、どうなのかは解らないけど、これらのシーンを観て、
宇宙の果てもどうなってるか解らないし、死んだらどうなるのかも心がどこにあるのかも解らないし、
モノリスくれるような神様みたいのがいるのかも知れないし、いないのかも知れない。
そういう本当に根源的なところは何一つ解らないのに、判断の根っことなる部分が解ってないのに、
なんだか毎日解ったような顔をして判断してるよなあと思った。
明日も会社に行ったら「こんなサービスを世の中に出して良いのか」というのを悩むんだけど、
そもそも我々はなんなのかも解ってないのに、こういう問題は真剣に悩めるのが実はすごい。
http://anond.hatelabo.jp/20140105170956
外国人とデートしたり、恋人として家族ぐるみの交際をしたり、といった経験もあります。
元増田さんの言う日本式「告白」の儀式と似たような局面もしばしば発生します。
ただ、その告白イベントの発生ポイントが、若干違うかなーという程度ではないでしょうか?
Would you like to have a drink with me? (デートの誘い)
I like you very much. (datingのステータスからsteadyステージへの節目)←告白その1
を経て
I love you.(partner=相手と不可分の存在に昇格)←告白その2
で、その都度、当然それなりにお互いの意思確認をしているケースが多いのでは。
当然ながら人によって、「I love you」を乱発する人もいれば、
渾身の力を振り絞って「I love you 」が言えたという、ツンデレっぽい人もいます。
ただし、21世紀ともあれば必ずしも結婚がゴールと考える人ばかりではないので、
Will you marry me? が告白その4・最終形態か、というとそうでもないかもしれません。
妻には家庭に入ってほしいという欧米人には、一度も会ったことがないなあ、
元増田にあるような、
「告白」なしでは付き合わないしセックスもさせないよ!と言う日本の女の子がそれなりに多いのは、
http://antimainstreameconomics.blogspot.jp/2013/11/blog-post_6327.html
このサイトの給与総額のグラフは2007年以降の数字が間違っておりますので注意して下さい。2007年以降は給与総額の数字に賞与が入っていないために急減し、水準も低いままとなっています。賞与を含めた数字と、このサイトにあるような賞与を足していない数字の比較はこのようになります。 http://upup.bz/j/my93349RrEYt7VI5YghA4jQ.jpg サイトのグラフと比較してみて下さい。21世紀以降を見ると賞与の足し忘れでイメージがかなり違うことがわかります。 http://upup.bz/j/my93352OiXYt2nvuW3LTbtU.jpg なおサイトのグラフでは2012年までですがこの画像は財政金融統計月報に出ている2011年までとなっています。
ひでぇ印象操作w
funaborista お花畑めざして
http://d.hatena.ne.jp/funaborista/20130720/1374321737
これと同じような論調は色々なところで見かけます。たとえばこちら
http://antimainstreameconomics.blogspot.jp/2013/11/blog-post_6327.html *下注1参照のこと
しかし、このサイトに載っている2つのグラフは、2003年から2007年にかけての企業の利益拡大局面においてなぜ賃金が増えなかったのかを、本人の意図に反して如実に示してくれています。
それは、1990年以降、企業の利益が増えない時にも賃金の方は高い伸びを続けていたということです。企業にとっては利益から考えて非常に高い賃金を払い続けていたのです。1990年代の終わりにはそれも無理になって利益に対して賃金を減らしはじめますがそれでも高めの水準で、2003年から2007年の景気回復局面になってやっとそろまでの無理を取り戻したのです。
企業は利益が伸びなくても無理をして賃金を増やしてきた、そしてその後にやっと利益が伸びる時が来たので賃金を据え置いて調整を行ったわけなのに、無理して賃金の比率を高めていた時を基準に見て「景気が回復しているのに従業員に還元しなかった、けしからん。もう企業は信頼できない。」と言われてはたまったものではないでしょう。
さらに、リンク先のグラフは企業の規模別に利益と賃金が出ていますが、この中で2003年から2007年にかけて利益は大企業の占める割合が増えています。「大企業は内部留保を大量に溜め込んでけしからん」と言われるところでもありますが、大企業のように世界で商売をしている場合には仕方のない面があります。
というのも、当時は新興国の発展がめざましかった時期で、それによる需要で原油などの資源や、設備投資に必要な資本財、そして現地の人件費なども速いペースで値上がりしていました。企業が翌年以降の海外での生産活動のために必要となるお金がどんどんと拡大していくことを想定する必要があったのです。そのため、可能な限りは手元のキャッシュを増やしておく必要があり、またそのキャッシュは実際に使う段になっては海外でいろいろなものが値上がりしていたため想定を下回る設備しか作れず、さらに多いキャッシュの必要性が生まれていました。このように大企業も「溜め込んだ」というよりは海外の人や企業に漏出させていました。(これは国民経済計算統計における交易利得の大幅な悪化などから確認できます。)しかし、海外市場に出ないよりは出た方が企業の利益になったから進出しているわけであり、それはまた日本にとっても思ったほど手元に残らなかったとはいえ利益であったのです。
この、2003年から2007年の前には企業は非常に無理をして利益が増えない中で賃金を増やしてきたという事実、そして2003年から2007年における大企業の利益は新興国の発展にともなう資源価格上昇の備えとして取って置かれ、また海外の人や企業に漏出した事実、この2つを踏まえて考える必要があります。これらを無視して「2003年から2007年に企業の利益が増えたのに給料に還元されなかった、だから企業にお金を回す政策はだめだ」というのは近視眼にすぎます。
そして2003年から2007年と比べて現在は、利益と給料の関係は平均的な水準に近いか、やや給料が少なめであり、また新興国の発展も当時ほどの拡大が再度起きる可能性も低い。つまり今回は2003年から2007年と違って早い段階から企業が利益を上げれば賃金の上昇につながってくる、「お花畑がある」可能性が高いと言えます。バブルの後遺症に苦しむ1990年代に無理してでも賃金を上げてきた企業です、大きな障害がなければある程度は賃金を上げたいのです。もちろんそれは企業が優しいからではなく、賃金を上げた方が労働者の意欲を高めたり離職コストを下げられるからでしょうが、やみくもに賃金を下げることばかり考えているわけではありません。
*注1
http://antimainstreameconomics.blogspot.jp/2013/11/blog-post_6327.html
このサイトの給与総額のグラフは2007年以降の数字が間違っておりますので注意して下さい。2007年以降は給与総額の数字に賞与が入っていないために急減し、水準も低いままとなっています。賞与を含めた数字と、このサイトにあるような賞与を足していない数字の比較はこのようになります。 http://upup.bz/j/my93349RrEYt7VI5YghA4jQ.jpg サイトのグラフと比較してみて下さい。21世紀以降を見ると賞与の足し忘れでイメージがかなり違うことがわかります。 http://upup.bz/j/my93352OiXYt2nvuW3LTbtU.jpg なおサイトのグラフでは2012年までですがこの画像は財政金融統計月報に出ている2011年までとなっています。
そんなものにサインをする必要性はないけど、それを相手の無知につけこんでサインさせたなら労働者の権利を不当に貶めているだけでは?
他へ行ってはいけない、ってのは法律上というより憲法上問題になりそうだけど、
そこで得た知識を他には持ち出さない、とかだと法律的にクリア出来てしまう気がしないでもない。
だけど、その場合も、やはり、最初の契約時にする話であって、契約終了時にあらたな契約を押し付けるのは法律的に無理かもね。
まあ、そういうのを超えて、単なるジャイアニズムを押し出しちゃってる恐ろしい人だ、ってことでしょう。
さらに野球の場合は、それがどう法律的にクリア出来てるのか知らないけど、個人が球団を選ぶ権利は限りなく少なくて、
さらに田澤ルールとか、単に球団側が癇癪起こして個人の自由とかを完全に封じ込めようとした21世紀の日本とは思えない様なルールまで作っちゃうわけで。
わかるわぁ。
あと、気になるとこにアンダーライン引けるまではいいんだけど、
それをEvernoteにも飛ばしたいし、はてぶみたいにコメント共有したいって素直なニーズわかんないかな?
ってか、そんなの始めっから実装されてると思ってたわ。
電子書籍ってそういうもんだろ?
キュレーションが伸び始めた時期、血気盛んに出てきたサービスの1つ、ONETOPI
始まった当初に登録して、ろくな記事が来ないからほとんど見ないで良いメールボックスに入れてて
でも解約するの忘れてて、ふとメールを整理してたら目についた。
これが今月の10本
1 位: 14歳少女「Facebookのみんな、うちで誕生パーティやるから来てね!」→200人が押し寄せて暴徒化、家の被害総額470万円に:らばQ
http://1topi.jp/curator/curator/1310/31/359336
2 位: Twitter / kimukimuramura: JRに何があったのだろうか http://t.co/AAIU ...
http://1topi.jp/curator/curator/1311/25/383778
3 位: 会員数32万人突破! 不倫SNS「アシュレイ・マディソン」体験ルポ
http://1topi.jp/curator/toshihiro.takagi/1308/04/279838
4 位: Twitter / DJWILDPARTY: 愛知県のゆるキャラ「魔界帝王デスカイザー」ってなんなの…もう ...
http://1topi.jp/curator/curator/1311/26/385134
5 位: 木更津駅のファミリーマートがポッキーの日の生贄になる
http://1topi.jp/curator/chama/1311/17/375836
http://1topi.jp/curator/chama/1311/14/372708
7 位: 東大生の9割が間違える問題:次の女子からのLINEに答えよ|21世紀の生存戦略
http://1topi.jp/curator/curator/1311/03/362171
http://1topi.jp/curator/100001249521630/1311/18/376988
9 位: 【女性閲覧禁止】絶対に女性に言えない「男の本音」がその通りでワロタwwwwwww:暇つぶしニュース
http://1topi.jp/curator/curator/1311/21/380553
これが何のランキングかすら分からないけど、少なくとも何らかの数が0とか1とかばっかなんですがwww
サイト見に行ったらなんとなく続いてるみたいだけど、しかもなんかONETOPIの新しいアプリ的なのも出したりとか。。。
いや、ホントステマじゃないんだけど、こんな寂しいサービスでも会社だと一度始めたらやめられないのか、この会社がこういうの初めてで止め時が判らないのかホント酷いよね。。。
いま、虚構新聞を語るとき「虚構新聞が面白いかどうか」が論点になっていることが多い。
しかし、これは正確ではない。面白いか面白くないかは重要ではない。
虚構新聞の議論はかつて、「虚構新聞に騙されたor騙されていない」の議論だった。
虚構新聞を批判している人に対する反応は「虚構新聞に騙されて悔しいだけだろ」という程度の扱いだった。
この「批判している人=騙された人」という構造はかなり強力だった。
これは、裸の王様のような構造だ。「批判している人=バカ」という構造だ。
あほらしい構造だが、この構造は非常に強い。21世紀でも脅威的な威力を持っている。
しかしいま、虚構新聞に関するその構造がほとんど崩れようとしている。
「虚構新聞を批判している人=騙されたバカ」という書き込みをしている人は、かなり少なくなった。それが思い違いだとわかったからだ。
そして、その書き込みをしていた人々の脳の中で、記憶の改ざんが行われている。
脳の中で「虚構新聞を批判している人=騙されたバカ」という考えは最初からなかったことになり、その結果、脳の別の場所にあった「虚構新聞を批判している人=笑いに関する教養がない人」という考えが前面に出てきつつある。
だが、その考えも間違いだ。
虚構新聞を批判する理由は、面白くないからではないし、もちろん、騙されたからでもない。
重要な論点は下記だ。
なお、これは広告収入があることへの嫉妬ではない。広告収入は「サイト運営者がアクセス稼ぎをしたがっていること」の有力な証拠として使われるだけだ。
問題は、虚構新聞が「アクセスを稼ぐために、話題になりそうな嘘を嘘だとわかりにくいようにして拡散しているサイト」だということだ。嘘だとわかりやすければ、法的に訴えられる可能性も大幅に減るだろう。
お前の実力はそんなもんじゃねえだろ!
高野文子から帯で何か意味ありげであまり身のない推薦文(こういうのが好きな奴も確かに多そうだけどさ!)もらってそこで満足してんじゃねーのか?そんなもんじゃねえだろ!
男の自意識は既に結構描いてきただろ!それなら、読者を狂わせるくらいもっともっともっとエッジ効かせろよ!
それと髪が自在に伸びたり動いたりの表現が途中に出てくるけどそこだけ浮いてるんだよ!やるなら違うところでやれよ!
文学青年の言動が普通すぎるんだよ!もっとふざけるかなんかしてちゃんとやれよ!21世紀も10年以上経ってるんだぞ!もう!
ラストもなんだよもう!もっと読者を身悶えさせる作法はいくらでも知っているだろう!打ち切りだとか何だとかこっちは関係ねえんだ!躍動を見たいだけなのに、、なんだよ!
あと女子高生の紺のハイソックスを何本かの線で表すのをやめろ!あそこに神を見出すやつも多いんだよ!それじゃあ宿らねえんだよ!黒くするので良いんだよ!
それと激烈な構図が見たいんだよ!一コマに現れる人間が少なすぎるんだよ!そして多分物も少なかったぞ!どーなってんだ!
とにかくだ。連載だからって畏まってんじゃねーよ!(いや色々な人間関係あるんだろうけどさー)
けどあれだな、街並みや河川敷、自転車置き場の描写、すごくよかった。いかにも大都市近隣という感じが抜群に描き抜かれていた。
東島誠ではないが「都市的」なエッセンスが最大限抽き出されていたぞ!すごい!あるいは弐瓶勉がかつて描いた階層都市の雰囲気にすら通ずるものを感じた。
多分誰も真似できない表現がそこにはあった。
お風呂で良さげなことを思いつくんやけど、上がった時には忘れてる事が多い。
アルキメデスのごとく風呂を飛び出す以外に、なにか良い方法はない?
まあ普通
もっと21世紀らしく、GoogleとかAppleのWebサービスに同期したい
怖い
コピペを合体させるのっていいよね。
問題点が良く分かる
目に見える親切心や努力より、表現できない何か――多分性的なアピール――の方が重要だという上のコピペは、
単体で見ると多数の男を不愉快にさせ、モテない男を絶望させる内容だ。
「私、君みたいな男の人知ってる。」で検索すると、切ないコピぺとかで紹介されてるしね。
今の自由恋愛社会は、そういう性的アピールに長けただけの奴が幅をきかせている。
ただ、その目に見えない“性的アピール”は、結婚制度に適した男性の条件、例えば浮気を
しない誠実さ、相手の人生に対する責任感、収入を得続けるための継続的な努力など、とはリンクしない。
結婚制度に適した、誠実で責任感のある男性なんて、若い頃は見向きもされない。
男性ってものを勘違いして、性的アピール力が高いだけの奴と付き合うと、結婚に至ることなく
いろいろ面倒なのではっきりさせておくと、大学で民俗を専攻してました。隣接分野として文人&歴史&考古の教養は有ります。更に文人サブジャンルの宗教学に関しては「馴染みがある」「概説書、エッセイを読んだことが有る」程度です。
そのうえで、この増田はすごくいい疑問を持ってると思う(ウエメセ)。
これはそのとおりで、逆に言えば「宗教の教義が十分に煩雑で多方面にわたっていれば、それがたとえ非論理的でも教義内で無謬となり諸々の事象を教義で説明できる」っていう仮説があって。イメージとしてはユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学みたいな(こちらは両方とも論理の枠内だけど)。
なのでその場合は「はさみをつかえばおまもりを切ることができる」に対応する屁理屈なり禁忌なりが形作られるのだと思うよ。
宗教と政治が一緒にならないようになったりとかは宗教上の定義とほかの何かの定義が一致しないことに基づいてじゃないかなと思うんだけど
これも逆説的にそのとおりで。
言ってしまえば「政教分離」を是とする現在の日本の状況は、人類全体で見ればたいへん特殊なんです。
200万年前に人類が猿から別れて、その後どこかで「宗教」が発明された。
発掘で確認されているのは10万年前くらいなので、仮に10万年とするけど、
その後、9万9千9百30年間くらいずっと宗教と政治権力は同一だったわけで、
「あれ? これじゃいろいろまずいんじゃね?」と気づいたのがここ数千年(ギリシャ・ローマとかのピンポイントの特例を含む)、
必死に血を流して実効が上がってきたのがここ数百年の話(プロテスタントとかイギリス国教会とかフランス革命とか。これも「別のより穏当な宗教」に置換しただけだけど)、
やっと成功例ができてきたのが大戦期からのここ数十年(共産主義、政教分離)。
といっても何百年後かの人類からは「21世紀のヤツらってまだ○○してたんだって」「やべーwww」と言われるんだろうが。
なので歴史=宗教=政治なのは普通で、上の「いろいろまずい」ってのは、あなたの言う「宗教上の定義とほかの何かの定義が一致しないことに基づいて」とほぼ同一なんだけど、たぶんまだ現生人類はベースが宗教=歴史=政治=パラダイムなので、色んな場面で宗教的感覚は染み出してくる、というのが俺の私見。
渋谷スクランブル交差点地下道入口へ登ることが禁止されてるのは? 禁止しないとやっちゃう人がいっぱいいるから。
何かが禁止された記録というのは、それをやっちゃう人が現実にわりといっぱいいたから。
というのが歴史学の基本的な考え方の一つです。
なんか読みやすい参考資料とかパッと浮かぶといいのだけど。プロ倫の解説書とかかなー。微妙か。
現役じゃなくなって久しいので、だれか現役の人頼む。
「パロネタは熱い中に打て」とばかりに数カ所のみ改変したものを戯れに投下したところ、
補足1:これはパロディ(と呼ぶのもおこがましい改変ネタ)です
一行目にリンクを記載した記事(「21世紀の生存戦略」様)が元ネタです。桜蔭生かわいい。
これは、元記事の表現をそのまま用いた物ですが、元記事においては打ち消し線があります。
補足3:東大への進学実績について
2013年度において東大へは現浪合わせ99名が進学するようです。
学年あたりの生徒数が160名程度なので、約60%と算出しました。
(参考資料、pdf注意)
http://www.komaba-s.tsukuba.ac.jp/home/wp-content/uploads/2013/05/2013kokkouritu_zenkikouki0409.pdf
補足4:仕事について
だいたい似たような物だなと思って改変しなかったのですが、公務員、医者に加え、研究職や弁護士なども多いです。
民間就職する人間は安定した企業勤めが多いですが、もちろん起業志向もある人間もいます。
補足5:関西の雄について
補足6:その他
桜蔭、筑駒に限らずだいたいの都内進学校には当てはまるだろう、というご意見は完全に同意します。
とはいえ、筑駒生が結婚相手として優良なパートナーたりえることは、ここに強調しておきたいと思います。
乱文失礼。