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はてなキーワード: 黙祷とは

2017-09-15

anond:20170915111753

2ヶ月後ぐらいに無関心になって1年後に黙祷Twitterで呟きまたその2日後ぐらいに無関心になる

2017-03-10

明日3.11

あれからずっと、ぐずぐずと人生を生きてきた俺。

亡くなった人たちの中には、

俺よりずっと生きている意味が、意義があった人が大勢居たろう。


たぶん俺は黙祷とかしない。

録画のアニメを見て、

オナニーして、

冷凍食品適当に食べて、

酔いつぶれるまでバーボンを胃に放り込んで、寝る。


本当に申し訳ない。

ごめんな、こんなのが生きながらえていて。

ごめんな。

2017-03-09

311が近づくにつれ思うこと

黙祷を捧げましょう

寄付しました

君は寄付した?

どれもこれもうざい。他人強要するな。

2016-11-24

http://anond.hatelabo.jp/20161124160852

北炭夕張新炭鉱ガス突出事故 - Wikipedia

事故発生から6日目の10月21日会社は59名の安否不明者に生存可能性はないと判断し、同日に行われた家族への説明会で当時の社長林千明ら幹部は注水への同意要請

不明者の家族は「命をよこせというのか」と激怒したが、林は「お命を頂戴いたしま」と発言

翌22日には幹部らが不明者宅を戸別訪問し、この日までに全家族から同意書を取り付けた。

10月23日は注水に先立ち午前9時30分に救護隊員が入坑し、注水地点の傍らに菊やグラジオラス花束を供えた。午後1時30分にサイレンが吹鳴されるとともに関係者黙祷

その後59名の安否不明者がいる坑内にペンケ真谷地川から引かれた水が流し込まれた。

夕張市内でも市役所学校などで一斉にサイレンが鳴らされ、全市民黙祷したという。


不明者が炭坑内に閉じ込められたまま、消火のための注水作業

社長はどんな気持ちでこのセリフを言ったんだろうな。

2016-11-17

いじめ記憶

35歳になりいじめ記憶を辿るという、かなりどうでもいいことをなぜかしようと思ってしまった。そこまでハードいじめのではなかったのかもしれないがまぁ思い出してみよう

自分の中でいじめだったという認識があるのは保育園、小中?高の4時代中学はそこまででもないが順に辿ってみる

保育園

保育園はいじめっこが2人いた僕はジャイアンスネ夫見立てていたがさながら僕はのび太だった。

ジャイアンと僕は同じ女の子のことが好きだった。彼はいつも「女の子ちゃんは俺のモノだ」と言って誰も近寄らせようとはしなかった。多分、彼女も当時はまんざらでもなかったのだと思う。とてもうらやましかったのを覚えている。(これは嫉妬

保育園に通っている間は、ほぼその2人に毎日殴られ、泣かされて帰った。これは保育園ながら結構辛かった。ジャイアンスネ夫は僕とは違う小学校に入った。救われたと思った。

人間失格のくだりではないが同窓会などで保育園の時の話をすると、当時の僕を覚えている人がなぜかいない。存在感が薄かったのだ。写真にはよく写っているようで不思議がられる。

小学校

小学校は山側に住んでいる人と、谷側に住んでいる人にわけられた。小学校20人で1学年1クラスしかない小学校だったが、僕は山側に住んでいた。山側に帰るのは僕ともう1人だけ。残りの18人は谷側に帰る人達だった。おかげで、登下校時の話題に乗り遅れ、ブームに乗り遅れた。また、下校後に山側と谷側で遊ぶ交流もほぼなかったし、おまけに僕はピアノを習っていたため女のようだと言ってからかわれる日々だった。

そのうち成長してくるとクラスにはボス誕生した。もちろんボスは谷側の人であったため、しもべのような人を数人従えて必ず僕はのけ者にされた。ドッヂボール鬼ごっこサッカー・班決め。チームになるような何かの時には必ずヒエラルキー通りのチームわけになった。なので、勝ったためしがない。多数決では、彼の意見にみんなが賛成したのでかなり不条理な決定がまかり通っていた。先生もなぜか不条理なことを受け入れていた。

あるとき集団相撲というのが流行っていた。チームで分かれて全員をなぎ倒したら勝ちというルールで、特に土俵などは存在しない遊びだった。教室でやっていたらロッカーの角に頭をぶつけて頭から大流血した僕はすぐに病院に運ばれた。

手当をされて戻ると「あれ?生きてるの?」と言われた。後になってわかったが、僕が病院に行っている間に先生指導のもと、黙祷されていたようだった。今でも信じられない。

しかし、小6の頃革命が起こった。クラスリーダー格の女の子が隣の席になると一気に仲良くなった。

その女の子と仲良くなることで女子陣が味方につくようになった。無論、男子たちとは更に距離が開くことになったが、初めて友達ができた感じがして救われたのは間違いない。

中学校

中学校では走り出しは順調だった。新入生代表挨拶自分が読んだためだ。

(とはいえ、新入生代表挨拶は、小学校の時誰もやりたくないということで、ボスが僕を指名したために決まったものだった。誇れるものではない)

入学して3ヶ月頃までは普通だった。しかし、突然風向きが変わった。それまで仲の良かったと思っていた人達が僕を外し始めた。僕が小学校時代弱者であるという認識が広まったのかもしれなかった。そして、若干名の無視を受けていたものの、そこからいじめが発展したということは特になかったが、中学時代はそのくらいだったので、平穏無事に終わったと思ってもいいだろう

高校

高校も走り出し1ヶ月は順調だったが、クラス人間関係では最悪の高校生活だった。少しづ友達が増えてきたと思ったら1日にして孤立してしまった。

きっかけは、前の席に座っていた1人の男子だった。ある授業中、居眠りをするととても激怒する先生がいたのだが、彼は居眠りをしていたので、起きなさい的な意味で、冗談まじりに消しゴムカスを後ろからなげつけた。そんなに深い意味はなかった。起きて振り向いたが、殺すぞくらいのキレ方をされた。

そのことにおいては僕も悪かったのかもしれない。

それからだった。何日もしないうちにみんながよそよそしくなって、気付いたら完全に無視される状況が出来上がっていた。これは高校3年の夏くらいまで続いたので、2年半くらいだろうか。

初期の頃は本当に1日が長くて辛すぎた。特に辛かったのは修学旅行だ。3泊4日の沖縄は最悪の思い出だ。オール無視されながらの班行動。これはいじめ人生の山場だった。

高3の夏に何が起こったかというと簡単で、ターゲットが俺ではなくなっただけだった。そこで、そのターゲットハブるため、俺に声をかけてくるようになったのだ。しかし彼らと仲良くなろうなどという気も一切なく、うれしくもありがたくもなかった。新しくターゲットになった彼はとても辛そうにしていたが、僕の2年半にくらべたらどうってことないだろうと思ったし、そしてその2年半無視していた仲間がターゲットになったところで、どうでもよかった。

長年無視をくらって、それでも頑張ってくらしているととてもタフになる。もう全然1人でも楽しめるような自分が完成していた。暇さえあれば、写真を撮ったり、美術室で絵を描いたり、学校を抜けて映画館に行ったり、本を読んだりしていた。おかげでちょっと人とは違う感性高校生になっていたのだと思う。

そして、予備校大学と進んだがそこはなかなか良い友達ができた。

▼その後

23くらいの頃、高校同窓会が1度あったので参加してみた。既に俺のことを忘れてしまっている人もいたが、よく参加したものだと自分でも思うがまぁよい経験だろう

きっともう同窓会はないと思うが、あったらまた参加すると思う。おかげさまで強くなったし、自分感性が活きる仕事もついた。結婚もしたし、今はよい友達もたくさんいる。

こうやって記憶を辿るのはなぜか自分はわからないけど、今はとても幸せから、なんか見返せたような気がする。それを実感したくて書いたのかもしれない

2016-08-03

https://note.mu/ohanhan/n/nb4c6e4657b25

是非は別として、この書き手が明確に見間違えている、あるいは見落としていることについて

1)現実(日本)VS虚構(ゴジラ)のキャッチコピーについて

この映画は「ゴジラという災害」と「日本」の戦いであり、明らかにそれを意識した作られ方をしているということ。

まり登場人物は誰一人ヒーローではない。フィクショナルな意味でのスーパーヒーローは出てこない。

作中でも語られる通りに代替可能キャラクターであり、しかし彼らが活躍するからこそ「一人の英雄」ではなく「日本」が見えてくるのだ。

さんざん指摘されているように、ヤシオリ作戦の内容は「ヤシマ作戦」と酷似している。

(①敵がエネルギー充填のため停止中 ②空撃は自動的に追尾破壊日本中が集結)

シン・ゴジラ」の作中に明確なヒーローヒロインがいれば、エヴァンゲリオン同様に世界シンジ綾波笑顔に集約されてしまう。

熱く盛りあがりたければ自己犠牲を出せばいい。感動的なBGMを流せばいい。スローモーションをかければいい。

感情移入を誘発させて、画面に向かって叫ばせればいい。むしろ観客を感動させようと思うのなら、こんなに簡単なことはない。

それを「ないかダメ」ではなく、「なぜそうしなかったんだろう」という疑問を持って本作と向き合ってもらいたい。

そのうえで、内容が気に食わないのなら仕方がない。自分の好きなものと違うからだめ、という見方はあまりもったいない

2)キャラクター家族について

兄弟恋人家族。当然いるだろう。

矢口、カヨコ共に親の七光りであることは強調されているし、なによりあるキャラクターの薬指には指輪が光っている。

だが本作で書かれているのは理想国家であり、登場するのは理想公務員たちだ。

ゴジラが本性を発揮し、津波地震原発とその表すものが明らかになっていくうち明快になるが、

言ってしまえば彼らは「こうあってほしかった」とされる東日本大震災原発事故対応する日本国家だ。

から彼らには徹底的なリアリティ必要とされ、ストイックさが求められる。

悲劇に立ち向かうたびに恋人電話して、励まされて頑張る、だとか

田舎に帰って親に説教されて立ち直る、とか 死にゆく前に子供の顔を思い出す などの

よくある展開に飲み込まれない、強靭でありながらステレオタイプに寄り過ぎない国家公務員からだ。

書き手が疑問に思っている「出世の野心」についてはもっと明快で、これは彼らの軽口にすぎない。

「国のため!」「私たちがやらなければ誰がやるんですか!!」といったような言動安易ナショナリズムを刺激し、

また誰もが聞き慣れており、その言葉は嘘と虚飾にあふれている。なにより非常に陳腐なのだ

それこそ書き手が「言わせるなよ」と評した「ゴジラより怖いのは人間」といった表現と同じように。

詳しくはゴジラ(1984)をご参照願いたい。

3)スクラップアンドビルドへの違和感

震災直後のテレビ報道を見てもらいたい。

朝起きれば津波。昼休みに流される車。倒壊する学校。鳴り止まないサイレン

街が泥水に覆い尽くされ、数えきれない人々が瓦礫の山と共に砕かれていく。

バラエティ番組自粛CM自粛、連日の黙祷、増え続ける犠牲者行方不明者。

確かにこの頃「何度でもやり直せる!全然OK」等と唱えていたら、書き手同調する人は多かっただろう。

だが震災より既に5年半が経過している。また先日の熊本震災、あるいは津久井やまゆり園の例に見るように、

悲しみは絶え間なくやってくる。

そういった中で明るい展望見出し、これからの立ち直りを示唆することが悪いとは到底思えない。

また繰り返すように、本作は理想国家公務員たちが作り上げた理想災害対処である

4)作戦微妙

「うまくいくのかいかないのか」は勿論重要煽りポイントだ。

書き手が腐るほど見てきたという作品群は、恐らく以下のようなカタルシスの産み方を目指していたものだろう。

対立相手作戦説明

→②主人公が対案説明

→③話が折り合わず決裂。主人公が対案を実行に移す

→④予期せぬアクシデントが発生する

→⑤とっさの機転で切り抜ける

→⑥無事に悲劇回避する

→⑦対立相手に認められる

が、本作はその点を利用していない。しようとしていない。それは映画を見ればわかる。

まずは②にあたるものが本作にはない。作戦目的以外、つまりどう実行するか?の点について、

本作では最後まで伏せられている。

本作では、作戦自体カタルシスなのだ

自衛隊ゴジラ誘導し、

新幹線在来線爆弾としてゴジラにぶつけ、

発破をかけたビルゴジラを押しつぶすという作戦を観客に提示する、その絵だ。

ビル鉄道に「日本技術力、ひいては日本のもの」を読み取るのもいい。

(今までゴジラ破壊されてきたものの逆襲という背景を深読みしてもいい)

もし書き手が少しでも頭を使って本作を見ていれば、流石にゴジラ東日本大震災と重ねているはずだ。

そこから何も読み取ろうとせずに、フィクション世界物差しで本作を「ご都合主義だ」と言っているのであれば

読み取り方を完全に間違えている。

本作はリアリティを追求しつつ、観客に「これは東日本大震災メタファーですよ」「そして彼らは非常に有能な公務員たちですよ」と

前半までに否応なしに畳み掛けることで、

本作の、少しでも間違えたら全てのシーンが冗談になってしまうヤシオリ作戦について「嘘」を認めさせるという高度な作り方をされているのだ。

最後

書き手は「私は震災家族を亡くしている」などという設定があれば、

「ごく自然ゴジラ震災や核と重ねることもできる」という。

仮に本作がゴジラ映画初体験だったとしてもだ。

上陸した第二形態に押し流される車

・押し潰される団地

炎上する東京

・頻出するガイガーカウンター

・明確に原発封鎖を目的としたコンクリートポンプ車に似せたゴジラ沈静化作

ここまでされても「ごく自然ゴジラ震災や核と重ねることもでき」ないのであれば、

ここまで書いた文章はすべて無駄で、純粋リテラシー問題だ。

褒める褒められないの視点に立ててすらいない。

問題文が読めていないのだから、出した答えが正解しているわけがない。

もちろん、書き手否定した文章すべての答えが正解であるはずもない。

からもちろん、こういう人にこそブルーレイを買って何度も見なおしてもらいたい。

映画は何回も見れば見方が変わるものだし、繰り返し話すことで理解は当然広がっていくはずだ。

一回で全てを理解してしま自分の中に全てを落としこんでしまった人よりも、この書き手は本作を何倍も何倍も楽しめるのだから

監督が語った「見終わったら、ぜひみなさん議論してほしい」というのは、恐らくそういう意味なのだ

2016-03-11

黙読した?

オフィス仕事していて、なんかそんな気にもならなかったんだけども、隣の席の子黙祷してて。

気にせずバチバチキーボード叩くのもなんかバツが悪い感じだったから、そのあいだは宙をながめていたんだが。

地震発生時刻に黙祷するっていうのが、あんまりしっくりきてないのかもしれない。

正直隣の子に対しては、黙祷してる私をみてほしいとか思ってんのかな、とすら感じた。

自分の近いひとが地震で亡くなっていたら違ったんだろうけどさ。

ただ、自分の近いひとが亡くなってなければ、あん自国惨事でさえ他人事なんだなって思いながら。うんこしてきた。

3.11地震発生時に俺がしていたこ

2011/03/11 14:46、そのとき

俺はベッドで腰を振っていた。

大学生だったからとにかく盛っていて、とにかく自信満々に腰を振っていた。

ベッドはいものように激しく揺れた。

しかしいつも以上に揺れるのでおかしいなと思ったそのときには

すでにそれが俺の腰振りではなく地震であることがはっきりとわかった。

全裸NHKニュースを見る。

そこには津波から逃げる人々。

一気に冷めていく愚息。

「あのとき何をしていましたか?」

そんな質問をよく受けたが誰にも言えないので言わせてくれ。

「初めてのアナルセックス経験してました」

黙祷

はてなーニセ科学じみたことには興味ないので別に人が死んでもいちいちR.I.P.だの書かないし特に黙祷もしないよね

2015-11-21

http://anond.hatelabo.jp/20151120183916

ま、数学必然性なんて言ったら年末カウントダウンすんのも震災の時刻に黙祷捧げるのも数学的にはまったく意味のない行為からな。

数学というよりは数秘術っぽいけど、これはこれで面白いんじゃね、とは思ったよ

匿名ダイヤリーっぽいネタじゃないけど

2015-11-18

人間は悲しいことがあった時にしか団結できない

スポーツ大会黙祷しかり。嬉しいことがあっても絶対共有せんけど、悲しいことがあったら共有するよね

結局、人の不幸は蜜の味から共有しないとね

2015-08-15

戦没者っていいよな

70年経っても黙祷してもらえるんだから

俺とか49日以降お経をあげてもらえるかわかんねーわ

2015-08-06

http://anond.hatelabo.jp/20150805182413

私の祖父母も二次被爆者です。

お墓は段原の方にあって、盆の時期は墓参りにいつも行くのですが

墓石の下には、当時中学生で学徒労働で働いていた先の工場被爆して

そのまま息を引き取ったという大叔父も眠っています

やはり、祖父母の口は割と固くて増田のようなエピソードも碌に聞くことはなかったのですが

それでも忘れなれない話がいくつもあります

先の大叔父お手伝いさんの大八車で大洲の別宅に運ばれた先で息を引き取ったときの状況

広島祇園に住んでいた祖母は当時学生でしたが、

爆風で校舎の窓ガラス割れしまったので座布団廊下に敷いて歩いた話、

避難者の母親背中からハサミで亡くなった赤ちゃんが皮膚に癒着していたので切り離した話……

そう聞くと、増田さんのように哀愁が入り混じった8/6になるのでしょうが

俗っぽい話もその陰で聞けたのが自分の幸いでしょうか。

大祖父が囲っていたお妾さんの家族ごと広島駅裏の家からいなくなったので

兄弟が多々いて一波乱あってもおかしくなかった財産相続がすんなりいったことだったり、

戦後の混乱をボンボンとして過ごした祖父は、そのまま学友として遊びたかったので

広島大学大学院復興するために生徒が欲しかった先生等と裏で手を組んで

家業を継ぐこともなく、まだ暫くは遊んでいた話とか……

(その学遊が仕事にやがて繋がったらしいですけど。。)

被爆した悲惨さを後世に伝えていくのはもちろんなのですが、

被爆後の世界を決して消えない心の傷を抱えながらも

逞しく生き抜いていった人たちのことも同様に語られるべきですよね。

それでは黙祷を。

2015-03-11

藤田「死を贈与した」直哉氏(@naoya_fujita)による3.11追悼式への疑義

かつてある作家をめぐる言説に対する批判への反論で「かの作家は死を贈与した!(ドヤァ」と発言し諸方面から人間性を疑われた藤田直哉氏が、2015年3月11日Twitter上で3.11追悼式に対する疑義を唱えはじめた。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575529749969289217

2万人近くの死、というのも、よくわからない。交通事故であれなんであれ、人が死ぬのは哀しいだろう。しかし、知らない二万人よりも、家族とか親しい一人の死の方がつらくないかね。これは、俺が非人間的な感性からなんだろうか。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575530332390297600

集団の死を、集団慰霊するということの意義が、リアリティを持った形で想像できないというか、それは一体どういうことなのか? っていう本質が未だにわからない。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575531644360204288

親しい人を喪った人の気持ちを想像する。これはわかる。それが数万人分。これ、脳の容量超える。そして、普段、その辺でやっている知らん人の葬式にもそう感じなきゃならんのか、でも現にそう生きていない。では、日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞやってのが、わからなくなる。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575533582023786496

なあにが、黙祷じゃ、バカタレ、黙祷を字で書いてインターネットに垂れ流す自己顕示欲の塊どもが。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575534421018804225

別に個々人が死んだタイミングは、この一分ではあるまいに。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575535179709739009

死んだ人間黙祷を捧げるのに、何故、加害者である地震の側のタイミングに皆が合わせなければならないのか。納得ならん。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575538080834318336

ちゃんと書くか。災害や死者を名目に、個別の生を生きていて、それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられるのが、ぼくには不愉快

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575543420544020480

@seiichitsuchiya私は、「何故黙祷罵倒する必要があるのか」に対し、14:46を黙祷時間と定め、一斉に行うという行為に、国家共同体意識形成問題を感じたからだ、と理由を説明しております

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575553783884873728

いや、死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ?それに対する追悼の意図だとすると、地震発生の時間代表させることについてどう考えてるのか、純粋にわかんないのよ。儀式から、決まってるから、という理屈はわかる。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575556640000315392

それだったらずっと黙祷するのかという意見が来てるけど、本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの。年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないからなわけでさ。その上で、儀式には有用性があるんだろうけど。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575573893911560192

なぜ、黙祷時間地震発生の14:46からになったのか。説1、誰かが決めた。説2、勝手に決まった。2なら、皆がそれに従いながらも理由を説明してくれないのが、単純に不思議(外国人が、儀式に疑問を素朴に持つ感じを想像してください)

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575584772249931776

で、説1で、合理的に説明がつきそうなのは、「一回で済んで、みんなで一斉にできて、異論が出なさそうな時が地震発生時だから」。これは納得いくんだけど、なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575598071440019456

死者がどう思うか考えろとか、言われるけど、死者は何も思わないし、感じないでしょう。そうではないという宗教観があるのは知っているし、死んでみないと分からないんだけれど、ぼくはその前提で話をしている。その上で「死者」をどう捉えるかがこの社会に及ぼす影響のことを考えてる。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599212928241664

死後の生があると信じたい遺族の方の気持ちもわかる。幽霊的な存在感覚を持ってしまう人たちの気持ちもわかる。ぼくの発言が、その人たちを傷つけている、と言われれば、そのこともよくわかる。しかし、死者は、「本当には」傷つかないし、冒涜されたとも思わないだろう。生者がそう感じるだけで。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599516314796032

土屋さんのツイートを見て、不安になってきた。これって、死者が「本当に」感じたり、考えたりする前提の話だったの? そうではなくて、遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意っていう話じゃなくて?

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575600381717180417

から儀式が、生者の世界でどのような機能果たしているのかを考えたうえで、「いるのか?」ってぼくは問うているんだけれど。まぁ、ぼくの儀式嫌いは元々で、まぁ、形式的儀式根拠なく反復することそのもの生理的に嫌ってのはある。なんか、心が籠もってない感じがするし、形式そのもので。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575601520592318464

福田恆存なんかは、例えば葬式は、別に、心なんかなくたって、その形式を演じること自体意味があるんだ、周りが「死を悲しむ演技をする」ことが重要なんだというんだけど(「民衆の生きかた」)。むしろ個人的感情は抑える方がいいなんて書いてあって。その形式こそが「感情真実性」を保証する、と

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602024709910528

俺はそうは思わないが、まぁ、どうも、儀式は「説明できないけど必要」と思っている人が多いようなので、ぼくは少数の、アンチ形式主義の心情主義者として生きて行こうと思いますけど、つまりこれ、「真実感情」が型を必要とすることは、「型」こそが「真実感情」を作るということでもあるよね。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602827705233408

から集団を弔うようなセレモニーがどんな形であるのかには、敏感であってもいいと思うんだけれども。感情セレモニーを生んでるんじゃなくて、セレモニー感情を創り出す効果もあるってわけでしょ? 俺が気に食わないのは、それ。

順番に整理していきたいが、明確に断言できるのは、藤田氏の想像力のなさと狭量さである

藤田氏は、3月11日14時46分に追悼をおこなうことについて、「それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられる」「なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする」ものであり、そこには「国家共同体意識形成問題」が孕んでおり、「遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意」すべきだと疑義を表明している。

……え? 藤田氏って追悼式が政治家政治的に利用するためにおこなうものだと本気で思ってるの? マジで? そう思った根拠ってなんなの?

「追悼式を決まった時間におこなうことで追悼感情統一的に形成される」という仕組みが、国家国民感情を統制するときのそれと同じものであるというのは真っ当な指摘なんだけど、それは理屈しかないでしょ? たとえば、あくまでたとえばだけど「3.11を忘れないために、今後は○○の政策を~」みたいなことを言い出したのなら別だけど、藤田氏はそういう具体例あげてないよね? 追悼という行為儀式性と政治性を混同してない? 

……とまあ、藤田氏の言動からは「追悼式は政治家政治に利用するための欺瞞的なものだ!」という副音声が聞こえてくるのだが、あれこれ言葉を駆使しているようにみえてその根拠は一切ない。藤田氏の完全な妄想である根拠がないという意味で)。

また、14時46分に追悼をおこなうことを「死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ」と批判しているが、そもそも「死者が死んだ時間ぴったりに死者を悼まなければならない」という規範があるわけでもないのだから、14時46分に死者を悼む行為が「本当に思って」いないと判断する根拠がない。その理屈なら、「いつ追悼してもその感情は本物である」という理屈だって成り立つはずだ。

その他、「日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞや」「本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの」「年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないから」「死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い」と言っているが、これもよく読むと藤田自身バイアスが満載である

3.11追悼式で生まれる追悼感情は嘘である」という視点には、「感情には嘘の感情と本当の感情の二つがある」という先入観存在する。感情に嘘も本当もないでしょう、とこの増田を書いている私なんかは思うわけだ。よしんば、それが追悼式がなければ生まれなかったものであったとしても、おこなわれたことで生まれ感情は実際にそのひとのなかにある感情である

ここまではまだよい。藤田氏は元から作家の死を贈与したなんてぬけぬけと言い出すわ、自分が言い出した伊藤計劃以後論に批判が飛んできたら反論を書くのではなく「じゃあお前が考えろよ」とかTwitterでくだを巻き出すわ批評家としては全く能力のない人間であるが、そのことに藤田氏に責任はない。人間能力には限界があるのだ。

だが、上記のようなバイアス藤田氏が無自覚ななか他人攻撃し始めるのなら話は別だ。

なあにが、黙祷じゃ、バカタレ、黙祷を字で書いてインターネットに垂れ流す自己顕示欲の塊どもが。

追悼式が追悼感情を惹起する機能があるとして、そこにある感情が偽物であると断言することの暴力性を藤田氏は考えなかったのだろうか。

そして、その暴力を振るう対象である今日14時46分に追悼の念を掲げる人間のなかに、被災者遺族が、知人や友人、家族を失った人間がいる可能性を想像できなかったのだろうか。

藤田氏は、「今日14時46分に黙祷をした(あるいはツイートした)人間」全員に対して「バカタレ」と言ったのである

これは、生者に対する冒涜である

藤田氏は、藤田氏のなかにあるバイアス無自覚のまま、藤田氏の主観的判断による「偽物の感情」を持った人間を「バカタレ」と罵る、想像力が欠如した狭量な人間である(それ故個人的には絶対に関わりたくないので増田に書かせてもらった次第だ)。

でまあ、もしこれが藤田氏に届いたとしてもあいつは「そんなことは言ってない! 被災者遺族のことを侮辱する意図はなかった!」とか言い出すに決まってるんだけど、意図があろうとなかろうと文言だけ読めばそうなるんだよ。てめえ批評家自称しておきながらそんなこともわかんねえのか。主語大きくすんなって批評家でもない俺だって何かを主張するときの基礎だって知ってるよ。そんなこともわかんねえからてめえは批評家としてクソだって言ってんだ。

いやー、「死を贈与した!」とか言っちゃうひとは本当に他人感情にみじんも興味ないんだなーってのがわかって大変ありがたいです。藤田氏は本当にクソだ。ありがとう藤田氏。おまえは二度と信用しない。

あとさ、地震を「加害者」って言っちゃうのはちょっと……いや、まあ、物事擬人化して理屈づけようとするのは悪い事じゃないか……うん、別にいいと思うよ。ひとそれぞれだしね。

サカ豚

サッカーの中継見てんだけど、国家斉唱の時に帽子脱いでないのは何なの?ハゲなの?

黙祷で目ぇ開けて隣と喋ってるのは聾なの?

黙祷

黙祷したよ。うちの会社では社内アナウンス後にやった。

だけど地震発生タイミング黙祷しても意味ないんじゃないか、とか

阪神淡路大震災黙祷っていつからやってないんだっけ、とか

そんなこと考えてた。

2014-11-03

美談

登山で死んだ人

すごい弔われてる

疑問に思うの変か(笑)

こんなことツイッターなんかでいったら

リツィートされてすぐ晒し上げだ(笑)

正直登山業界(?笑)が登山のイメイジ低下を恐れて

ヘドが出るようなジェイPOPみたいなやさC世界

切り貼りしてるようにしか見えない気持ち悪さ

そこまで思わないか

ていうか悲しめ泣け!ほら!遺族が黙祷!いい話だろ!って言われても

無理があるわ!

山にそれなりの覚悟で自ら登りに行って

噴火火山灰に潰されるとか

無理があるわ!絶対面白がってるだろお前たち‼︎

で、自然災害問題に最終的にいつも気象庁のせいにするかのような報道爆笑

それで金もらってるんだからまじめに働け!とかまたほざくんだろうけど

それは攻撃したい相手に自分が気にくわない部分があるだけで

山登ってて死んだ方にもし憎たらしい奴がいたらころっと寝返るような奴だから(笑)

2014-10-03

はじめての解剖実習

はじめての解剖実習。

白い半透明なビニールにつつまれて、遺体が各テーブルの上に置かれている。

あー、これが…と、そのときはまだ平気だった。

しかしよく見ると中に白く干からびたような足の先がみえる。

うっ、と気分が悪くなった。

ビニールの覆いのチャックはあけられないな・・・と思った。


みんなが席について、教授が軽く説明をした。

うちの大学ではC大とは違いセレモニーなどはなくいきなり始めるらしい。

今日オリエンテーションだけだと思っていた私にとって、二重の驚きだった。


黙祷の際には混乱せずにはいられなかった。

初めの数秒は無心で黙祷していたのだが、考え始めてしまうとお願いしますだとか、ありがとうございますだとか、すみませんだとか、さまざまな感情が渦巻いてくる。

結局は大切に勉強させていただきますと「彼」に誓い、それから再び無心になろうと努力した。


さて、解剖がはじまる。

Aがあっさりとチャックをあけてしまい、中の布をめくる。

人の皮膚がみえる。白い。

手が出せなかった。


体表観察。

うわーと思いながらも、ほかの人がおそるおそる手を触れ出すのをみながら、そろそろと手をのばす。

あっ、というかんじで鎖骨にふれた。

冷たい。でもたしかに、人肌ではある。

一度触れてしまうと、すこし抵抗が和らぐ。


実習の手引きを参照する必要がある。

俺まだこっちの手はきれいだからなんていいながら、Bが手引きを広げた。


乳様突起、胸骨角、上前腸骨棘などを確認した。

1か所ずつ触れながらすすめていくと、少しずつ抵抗が和らいでくる。

しかし次は正中線にそって皮膚に割をいれる必要がある。

きれいな皮膚に傷をつけるっていうのは、やっぱり私には無理だった。


Aがあっさりと、首から腹部にかけて割をいれてしまう。

それに続いてDも鎖骨のあたりに横に割をいれる。

うわぁ・・・と思っていたが、おそるおそる私も鎖骨に沿って割をいれた。

メスは思った以上に鋭く、スーっと吸い込むように切れた。


皮剥ぎ。表皮と真皮を剥ぐ。

からピンセットでつまみ、下層を剥離していく。

処理が施されているからか、皮膚が予想以上になめし革のようになっていて驚いた。

そして現れてくる黄色の皮下組織

これが脂肪かと思いつつ、一瞬吐きそうになる。


またホルマリンだろうか、そのにおいも独特でつらい。

甘いような、甘くないような。

時々ふと気持ちがわるくなり、しゃがんで手を休めた。


皮剥ぎがすすみ、腋あたりまですすむ。

Aのメスは先輩からのもので切れ味が悪く、脂肪組織がこわれて脂が液体となってたまる

それをみて再び気分がわるくなった。


首を剥いで広頸筋をみる。また胸部にて皮静脈などをみる。

神経は結合組織と見分けにくいが、あらゆるところに走っていた。

ちょっとした手術で神経を切断してしま麻痺がおこるというのも頷ける。


他に脊髄神経前皮枝や腋窩リンパ節などをさがしつつ、その日の実習は終えた。

観音開きにした皮膚をもどし、再び布をかけた上で保湿液を上からかけ、ビニールのチャックをしめた。


はじめるまでは解剖実習なんて絶対無理だなんて思っていたが、やってみると案外できてしまものだった。

はいえ実習室からでるとどっと疲れがでた。

体が疲れたというよりも、そうでないどこかがはげしく疲労しているような感じだった。




※この内容が実際の解剖体験に基づいたものであっても死体保存法に反しているとは思いませんが、礼節を欠くなどと思われるかたがいらっしゃることを想定し、あらかじめ『解剖実習の手引き』に基づいた創作であることをここに宣言しておきます

2014-09-24

[]霊は宗教的ではない

野田哲君 よろしいです。

 厚生省、八月十五日が迫っているわけですが、毎年武道館で式典が行われている。昨年突如として、あの式典の正面に、どう言うのですか、掲げられているあれですね、いままではずっと長年「戦没者之標」という表示で行われていた。これが昨年突如として「戦没者之霊」というふうに変わった。この理由は何ですか。

○説明員(柴義康君) 八月十五日の全国戦没者追悼式政府主催でございまして、厚生省といたしましては、政府の御指示により実施担当いたしておるわけでございますが、昨年標柱の表示を「全国戦没者追悼之標」から「全国戦没者之霊」に改めるようにと御指示がございまして改めたわけでございますが、私ども伺っているところによりますと、三十八年から過去十二回実施してまいったわけでございますが、会場におきまして戦没者黙祷をささげ、あるいは献花をいたしま場合に「追悼之標」という表示では何かしっくりしないという戦没者の遺族の方々の意見がございまして、「霊」に改めたというふうに聞いております

野田哲君 厚生省あなた方の方へ「標」というのを「霊」に改めるように指示があったのはどこから指示があったのですか。

○説明員(柴義康君) 厚生省実施の方を担当いたしておるわけでございますので、内閣の方から指示があったというふうに伺っております

野田哲君 この式典の出発のときに、どういうあそこに表示をするかということでいろいろ国会の中でも議論が行われた。「霊」という表示の仕方、この「霊」というのは、これはある思想宗教団体が使うものであって、宗教団体によっては「霊」というのは使わない、こういう団体もある。したがって、政府主催場合には宗教色抜きで、憲法のたてまえによって無宗教という立場国民合意を得てやらなければならないということであの表示は「標」という形で行うと、こういうことで出発をした。そういう経過、あなた御存じですか。

○説明員(柴義康君) 追悼式をどのような形で実施するかということは、当初から慎重に検討されまして、宗教色を全く抜きにして実施しなければならないということであのような形で行われ始めたというふうに伺っております

野田哲君 ことしはどういう内容になっておりますか、その点は。

○説明員(柴義康君) 昨年と同様に実施することになっております

野田哲君 昨年ああいう形で実施をした、恐らくことしもああいう形になるんだろうということで、厚生省の方へ宗教団体からいろいろあのことに対する抗議あるいは変更を求められるような要請等が行っていると思うんですが、いかがですか。

○説明員(柴義康君) 宗教団体の方々から、そのような要望があったことは存じております

野田哲君 いままで「標」という表示でやっておられた期間はその問題については特に問題は起こらなかった。それがああいう形に去年変更されたことによって、国民の間にあれでは困るということの声が上がり、変更を求める要請なり抗議が行っているということは、つまり、ああいう形に変更したことによって、これは国民の間にコンセンサスが得られなくなってきておる、宗教的な色彩を持ってきておる、こういうことでいろいろ宗教団体の方からそのことに対する抗議や要請が行っていると思うんです。だから、ことしあえてそれを去年どおりやるということになれば、政府のやり方は特定宗教の色彩を帯びたやり方、こういうことになって、つまり、これは憲法に反するやり方ということになっているんじゃないかと思うんですが、この点は官房長官に後でやりたいと思っておるんですが、厚生省としてはその点はどういうふうに考えておられますか。

○説明員(柴義康君) 日本人の中で、「霊」という言葉はいろいろな意味合いで使われておると思うのでございますが、一般的に霊枢車とか、あるいは霊安所といったように死者にかわる言葉、死者を尊称する言葉として一般的国民の中で用いられているわけでございまして、きわめて素朴な意味で死亡者を「霊」というふうに表現していると思うわけでございます。したがいまして、「霊」という表現のもの宗教的言葉であるというふうにはわれわれは考えていないわけでございます

第077回国会 内閣委員会 第2号

昭和五十一年八月十二日(木曜日

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/077/1020/07708121020002c.html

2014-06-28

俺らの職場環境集団的自衛権問題に何の関係があるの

タイトルの通り。

先日労組の集まりに顔を出したんだが、

なんで運営方針とかにいちいち「集団的自衛権ガー」とか「脱原発!!」とか「安倍政権暴走許すまじ」みたいな文言入ってんの。

残業代ゼロ法とかに文句言うならまだ理解できるんだが。

原爆の日とか終戦記念日とか3.11とかにいちいち黙祷求めてくるのも鬱陶しい。

俺らがまず考えなきゃならんのは安倍ちゃんの暴走じゃなくて管理職とか社長暴走を食い止めることでしょうと。

2014-03-14

anond:20140313002032

あと、黙祷とか夏食べたくないケーキがとかいう話はどうでもいい。やなのは、同じ日にうまれた芸能人が全員マヌケキャラちょっと微妙に売れてない感じな人ばっかりなのだよ。

美男美女の多い10月生まれになりたかったなあああ。

2014-03-13

anond:20140312193419

原爆記念日生まれのわたしが通りますよ。

夏休みっつかお盆ごろだから毎年里帰りしててさ。

友達どころか家族にもあまり祝われたこともなく

みんな朝から汗かきながら(わたしのためじゃないけど)黙祷してますよ。

って高校とき言ってたらカラアゲくんおごってくれてうれしかった。

終戦記念日とか防災の日とか盆暮れ正月天皇誕生日いいだしたらきりがないよ。

春だし、ま、それはそれ、これはこれでいいんじゃね?

奥さんおつかれさまです。うちの実家の母にも暑い中生んでくれてありがとうとは伝えたいね~。

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