はてなキーワード: 無駄とは
世界一のスパコンはあっても良いかもしれんが国産スパコンは売れないし売る気も無いから無駄っちゅうことやね。
さんざ汎用性の高さが売りと言ってた富嶽が実際にはかなり特化したコードチューニングしないとかなり遅いってのは地名的で、そらミニ富嶽も売れないわなぁ。
もうふざけんなよと
こりゃ投票率も下がるだろ
若者だけのせいにするなよ、なあ
誰が首長になっても大して何も変わらんと思うような選挙に、誰が積極的に行きたいと思うんよ
話はそれからだ
その上でまともな選挙をさせてくれ
毎回そう思うような選挙だったがね
石丸伸二
今までいそうでいなかったタイプだと思った
少なくとも一本筋の通った主張をしているな、と思う
今までは政治の場での質疑というものは噛み合わないのが基本、と思っていた
みんなそうだったから
しかしみんな直球の答弁を避けたり、単に議論が下手なだけだったのではないか
石丸伸二の答弁を聞いているとそう思わせられる部分がある
うーんしかしな
ちょっと発言に痛い部分も見られるし、安芸高田市議会での論破パフォーマンスは少しやり過ぎ感があったのも否めない
それに全部が全部公約に賛成というわけでもないし、実力についても高々4年小さい市の首長やっただけじゃ判断できねえよ
それでも、政治家の姿勢、態度、というものは少なくともこうあるべきである、という点において、ブレていないというのは評価できる
例えば、原発推進かどうか、yesかnoかで答えろと、そういう質問
小池、蓮舫は長々と思いの丈を述べるだけでyesかnoか、はっきりと答えない
0点
で、お前はどうしたいの?????
リクルートも聞いて呆れるわ
お前の考えを聞いてんだよ
政策に票を入れさせてくれよ
人気投票やってんじゃねんだわ
当たり障りのないことだけ言って無難に票集めようとすな
そういう態度が気に食わない
もういいよ
もういいから
えらいよ、石丸伸二えらいと思うけど
聞き飽きたわ
しょーもな
当たり前のことを当たり前にやれや
当たり前のことが当たり前にできた上で、その上で各々の政策聞いて票入れたいんや
でももう他にないじゃんよ
某ジェンダーギャップ指数高位の国にいるけど日本はどう見ても順位通りのひどい男尊女卑国だよ
日本についても趣味ながらも勉強して外から支援活動に参加してきたけど、
奴隷解放を望んでる奴隷には法整備進めたり支援活動打ち立てたりする価値あると思うが
奴隷になりたいから奴隷でいさせろと逆ギレする奴隷には救う意味や価値がないから無駄だからやめるわ
今まで不文律の男性限定公募だったからやってるんでしょ、こちらから見たら明らかにいまの日本の男女同権には必要なプロセスだよ
某ジェンダーギャップ指数高位の国にいるけど日本はどう見ても順位通りのひどい男尊女卑国だよ
日本についても趣味ながらも勉強して外から支援活動に参加してきたけど、
奴隷解放を望んでる奴隷には法整備進めたり支援活動打ち立てたりする価値あると思うが
奴隷になりたいから奴隷でいさせろと逆ギレする奴隷には救う意味や価値がないから無駄だからやめるわ
今まで不文律の男性限定公募だったからやってるんでしょ、こちらから見たら明らかにいまの日本の男女同権には必要なプロセスだよ
放置してどうやって苦しむんだよ
地道に面倒でも叩いてきたから減ったんだが
女叩きの時代にまた戻りたいのか?
でも自分の子供が女を当てがえとか言ってる気色悪いチー牛に育つなら
育てたくないよ
そんなの尊い命でもなんでもない
チー牛育てたい人なんかいないのに
なんで嘘つくの?
日本の政治の場においては、政権与党側が疑惑をふっかけられた時点で負け。
どんなに時間をかけて「疑惑を裏付ける証拠がない」ことを証明しても、
疑惑をふっかけられるような隙を見せた時点で自動的に負けが確定し、
それに対して抵抗しても無駄ってのを安倍の結末から学んでないんだろうか。
それとも安倍にはできなかった「疑惑がないことの証明」が自分にはできるとでも思ってるんだろうか。
ほっぺがおちる=おいしくて表情が緩み頬が下がるのをあらわす慣用句
目玉が飛び出る=値段が高いのをあらわす慣用句
チクビがとれる=ワッフル生地などゴワゴワのポロシャツをあらわす慣用句
(追記)
そういえばほっぺがおちるは「ほっぺがおちそう」しか知らんくて「おちそう」と「ごちそう」がかかってると永年思ってたわ。それお前ほっぺ関係なくない?って思ってた。
Amazonで普段着用にセーター買ったけどチクビがとれそうな素材だったから着なかったことがある。やっぱり通販で服買うのはダメ。
ネットの生地なんかネット記事と同じくらい要注意よな。とくに冬場はチクビがお前硬化サスオオカブトやったんかーい!ってくらい無駄に硬化するときあるしな(赤道ギャグ)
攻略Wikiに「低レアも活躍するから育成した方がいいよ!ただしこいつらは例外な!」って、
名指しで育成非推奨されていたワイの推しに、将来スキンが来ることを知って小躍りしている。
艦これで推しが公式から干されてゲーム中では2016年から追加要素が全くなく、
アニメ一期で背景モブとして出たことに小さな幸せを感じていたら、
円盤ではピンポイントでそこだけ消されて、アニメ出演がなかったことにされる。
一方で姉妹艦は大小さまざまなゲーム外コラボやグッズでの描き下ろしが大量供給、
アニメ二期ではゲームでの看板キャラを差し置いて、主役に大抜擢され、
連動して改三まで実装し、水着グラまでご用意されると言う徹底した優遇ぶり。
祟ってやる。
祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる祟ってやる
前に整形してクラスで一番目(俺の学生時代比較)ぐらいのイケメンになったと話した増田だけど、いくつか変わったこと事がある
意外と変わらなかった事
別れた夫はなんであんなどうでもいいことを子供たちに怒鳴って怒ってたんだろな…って考えてた。
私がどうでもよくない?って言うとめちゃくちゃ怒ってたけど自分もそれやってるよね…とか。
なんか本人は筋が通ってるつもりなんだけど、側から見るとなんか言ってることおかしいのほんとに気づいてなかったのかな、客観的にも社会的にも頭のいい人なはずなのに…とか。
自分は躾のために嫌われ役をやるって勝手に悲劇のヒーローやってたけど、子供たちに嫌われたことはこたえてた。
躾は怒鳴らなくても怒らなくてもできるよね…って言っても、子供は動物と同じだからっていう持論は曲げなかったなー。
あと叱り方がすごく意地悪だった。あれはほんとにやだったな。
子供たちが何か失敗したりやらかしたりすると、考えられる中で1番意地悪な解釈して怒って、子供たちが無駄に傷ついてることも非難すると躾だからって言い張ってた。
それは嫌われるよ…って私はいつも思ってた。
最後は私もだいぶその意地悪な思考にやられてて、それも含めていろんなストレスでちょっと頭おかしくなってた時は夫はもっと酷いこと思ってるに違いないって妄想が止まらなくなってた。
でも多分、本人はそんな酷いこと言ったんだって自覚はまったくないんだと思う。今でも。
自分は言い方が悪いことはあるけど、根本的に間違ったことは何ひとつ言っていないっていつも言ってた。まあその言い方の悪さにも限度はあるよね…
やっと落ち着いて今思うのは、あれは親御さんからそういう育てられ方をしたからなのかなとか。
自分も親御さんのこと嫌いなくせに、躾はあれが正しいって信じてたとかなんだろうか。
彼は結婚するとき、私がそういう意地悪を言わないところが人柄として好ましいって言ってたのに、自分が子育てする番になってそれ忘れちゃったんだなあ…
あるいは彼は子供たちを私みたいな人間にはしたくなかったのか。
あれっその時点でもう私こそがすでに愛されてはなかったのか…?まあそれは考え過ぎか。
ワイもADHDで50差があるけど、ゆうて仕事そのもので困ることまずないのよな。生活の基本的な部分で苦労してるんだよね
両親はフリーダムで、『やりたくないことはやらない』というワイの態度をほぼ矯正しなかったのよ。結果、その部分でつまずいてる感じ
例えば、手先が極端に不器用で異常にすっとろいから、料理が日常タスクとして難しい。今はお金があるから問題ないけど、収入がなくなったら詰むよね
偏食がなければ、レンジでチンするだけの食事でも大丈夫だろうけど、パンダ並に偏食が激しくて、Nashもダメだったし、
Oisixのミールキットレベルでも異常にすっとろいから日常タスクとしては厳しかった
エアフライヤーは買ってよかったけど、毎日揚げ物や焼き物ばかり食べたくないし、そもそも毎日きちんと食事すること自体が難しい
食べたくないもの食べるくらいなら別に食べなくていいやってなっちゃうんだよな
いい年なので低血糖で発汗したり具合が悪くならないようにだけ気をつけてるが
そのほかの日常部分においても(基本的な身だしなみとか)ほぼ似たようなレベル
収入が増えたから貯金はできてるけど、時間が有限だってことをガン無視で、常時また稼げばいいの精神よ
衝動性が強くて全ブッ込み余裕なので投資も難しい。両親もお金の管理が極端にルーズで、投資(投機?)や純粋なギャンブルや趣味や女遊びに全ブッ込みしていてた
今の収入に対しての支出という意味では問題ないけど、料理が難しくて偏食があって目移りもし易いから食費がやたら高い
年を取ってもこの出費で大丈夫かは自信ない
ちな、FPに相談したら、『お金が残るなら問題ない』と言われただけで、特に何もなく、無駄に恥だけかいただけでしたわ
幸いなことに、発作的に人を殴ったり物を壊したりするほど深刻じゃないけど、異常に怒りが強い
一度テンションが上がるとなかなか落ち着かない。もっと感情をうまく扱えるように訓練しておけばよかったよね
自己コントロールがまともなら、大人の対応ができたり、習得に時間が掛かる課題にもっと取り組めたかも知れないし、雑創作にも時間割けたし、
複数の案件をこなしてもっとお金拾えてたかも知れない・・・・って思ってたけど、最近は別にそんなことはなかったかも知れんなとも思い始めている
人よりも出来ないことが多くて、計画性がなくて、異常にすっとろいから、強い感情がなければ何もできなかった可能性ワンチャンある
とりあえず、発達性読み書き障害用の英語教材を買ったけど、いつものように先送りにして1年経過したので、取り組まないとなって思ってるやで
今の人生がつらいのは
があるらしい。
私の子供は本当に本当に本当に手がかかるんだけど、それは私が今までこんな大変な子を育てた体験がなかったからなのかもしれない。私は今まで「子供なんて育てたように育つんだ。できないのは親が悪い」くらいに思ってる世間知らずだったのかもしれない。子育ては本当に大変。思い通りにいかないし、思い通りにいっていいのかすらわからない。
無難な人生じゃ学べないことが多々あるんだろうね。だから今苦しんでる人は「自分はそれほど悪い奴だったのか……」と落ち込むより「自分は今まで幸せ過ぎたのだろう。今回は苦労を体験しに来てるんだ」と考えたほうが精神的にマシだよ。どんな体験も無駄にならないらしいし。しんどいけどね……。
相当昔(2014-2017年ごろ?)誰かのブログで見た肉じゃがの話をもう一度読みたい。
・調味料は大さじ1?小さじ1?で良い
こんなことが書いてあった気がする。
私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である。
なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。
私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである。
精神科に通いつつ、投薬とカウンセリングの治療をおこなっている。
そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳の記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。
(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなたの言葉はあなたの感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)
正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。
早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。
当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法が流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。
楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合は母親もほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。
行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日の練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。
でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまうタイプの人間だった。
父親も叔母もスポーツで学生時代に成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。
それが母親の成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。
長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。
ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。
こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。
極め付けはようやく出来始めた友人関係を破壊されたことだった。
中学に上がると、小学生の選手育成クラスから中学生クラスに上がって、ここがジュニアの女子の選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子のさらにその上澄みだけが入る、一番練習がハードなクラスがあった。
いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイトと連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。
(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲームの一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)
けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。
私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスでちゃんと私の記録は伸びていた。
だけど母はその伸びでは満足できなかった。
母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。
私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。
そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。
私はかなり嫌がった。もともとジュニアの女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。
母は私に、「あんな肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたはダメになってしまう」と言った。
嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスのコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。
中学1年の女子が高校生の男子のクラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。
私が苦しんだので、母の不安は解消された。
実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。
注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたことである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナスの感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。
「あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから。
この頃から、試合や合宿で遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。
体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。
しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息を悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。
だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻き、ブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。
ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分の学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてからは予備校漬けになった。
受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業は自分の特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。
大学には簡単に合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。
とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。
ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分の偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。
ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。
1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。
とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。
学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリのラインだった。
振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。
このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショックや東日本大震災の影響があった時期で、特に女子の就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。
でも、留年したのに就活が全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親がマイナビリクナビでエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。
面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。
このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからたしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトはしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論は英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。
結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶はぼんやりしている。
ひとり暮らしの家を引き払い、実家にカンヅメになって母親の監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。
ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存で病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。
この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。
働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的に闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。
本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。
この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分の価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分の価値がボロボロと溢れ落ち、人生がダメになっていくことについて、母親への不健全な復讐の欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。
この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場を経験した。就職先は人売りのSESだった。
これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場が自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。
リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤の生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。
自社開発の案件にアサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事も客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手が全然わからず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴とスポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミットが全然出ないの?
年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。
社長から「新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。
これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始の休みを挟んだ後、ボツボツと休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。
心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解とワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。
この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。
概観してみると、今の私を状態を説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。
特性を持って生まれた子どもが、いわゆる体育会系の世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援が Permalink | 記事への反応(21) | 22:15