はてなキーワード: 同棲とは
コピペっぽいけどおもしろそうだから腐女子率いる最強受けちゃん打線
2(中)ラブホテルに備え付けのローション
4(一)賢者中に中だしすると再おっき
9(投)キスマークは所有欲の証なのでうれしい
同棲を始めて3ヶ月
なんとか週イチくらいでセックスできてるけど、ひしひしとレスの空気を感じる。
セックスしたくないわけじゃない、できないわけじゃない、すれば没頭できるし愛しいとも思う。
でもなんだか抱いてやってる抱かれてやってるって気持ちの方が強くて難しい。
相手がシャワー浴びてる時とか出かけてる時のオナニーのほうがなんとも満足感が高く気持ちいいことか。
別々の家で付き合ってた時は自分1人で時間を過ごせる人だと思ってたが、実際は違かった、みたいなズレも感じつつある。
みんなどうしてるんだろう。この気持ちあるのかな。
恋人がいる上で1人で楽しんでること、もし1人になったら寂しさでやられちゃうのかな。楽しめなくなっちゃうのかな。
難しい。
無識者は好きな揚げ物を教えてください。
(センター試験で話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)
底本:原民喜戦後全小説 下(講談社文芸文庫)1995年8月10日第1刷発行
I
私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫の魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老いた母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。
その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかに、もっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初「孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。
彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身の青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予で最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。
岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものをノートし、まず文体の研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。
それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。
私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのものを顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部に入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人と同棲した暁には、染料の会社を設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである。
日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線へ派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞の第一面、つまり雑誌や新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見たものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院で殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。
岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。
たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌に掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初の召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京で文化方面の役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズは役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。
既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活に飛込んだのだった。ところが、その相手は資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである。
II
私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに、満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇のほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。
私は妻の遺骨を郷里の墓地に納めると、再び棲みなれた千葉の借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃である。サイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである。
私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉の借家へ移った時のことである。私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それからは殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。
私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラと千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴムの長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。
「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。
「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、
「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。
その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。
私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日、八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋の小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊の姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好がおかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋の小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから、豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。
目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたとそっくりの写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。
冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥は簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。
翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真が満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。
その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体で台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである。
そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服の青年が歯医者に挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年も助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。
それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲の吏員に就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後の消息であった。その後私の妻の病気は悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。
その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。
あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境や機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか。親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客の歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅の作品の暗い翳を思い浮べるのであった。
ワンルームおじさんとは、ワンルームのアパートやマンションでくらすおじさんである。
■概要
(多くの場合貧乏で独身の)ワンルームのマンションやアパートに住むおじさんのこと。ワンおじ。
通常、結婚してればワンルームで住むのは難しい。また、ワンルームは家賃が安く、普通上京してきた大学生が借りるというイメージがある。そんな普通学生が住むようなワンルームに住んでいるおじさんのことを揶揄して言った言葉。ようするに「ワンルームで暮らすような独身で貧乏なおじさん」ということ。
これより先行して、「ウサギ小屋おじさん」という言葉が一部で発生していたのだがそこから進化して生まれた言葉。これも、「ウサギ小屋みたいな狭い家、部屋で暮らすおじさん」という意味の一種の煽り文句だったのだが、そもそも日本の家屋は、アメリカの家屋などに比べれば、ほとんどの場合狭く、(だからウサギ小屋だのウナギの寝床だなどどいわれていた)特に東京23区や大阪市、名古屋市などの大都市の都心部は小さい家が普通である。つまり、ほとんどの日本人に当てはまることとしていまいち煽りとしてはパンチが効いていなかった。そこから進化(暗黒進化?)した言葉である。
・・・とはいえ、当たり前だがワンルームで住んでいるからと言って貧しいとは限らない。ワンおじだけど女性と同棲しているよって場合もある。一種の偏見であるともいえる。
つきあいがない訳ではないので切れない
「同棲中の彼氏がひどい!辛い!どうしよう…」と大騒ぎしてたからフォロワー皆で相談に乗ったけど、結局何も変わってないんだよな
別れもせず、言いたい事も言ってない模様
「ひどい事言われた…」と相変わらずグチってるけどもう誰も相手にしてない
私も付き合って3ヶ月とかだったらライン1行でもまぁいいかと思うけど、5年同棲してて結婚の話も立ち消えの状況だから別れ話くらいはっきりちゃんとやってくれや、と憤りたくなってしまう。みんな有耶無耶に別れるの、すごいね。
https://note.com/hugme0120/n/n9a173fd1506a
これ読んで思ったんだけど、そもそも結婚って何のためにするんだろう
子供作るとき結婚してないと法的にいろいろ面倒だから、っていうのがデカいと思うんだけど、ってことはこの人たちは子供作ることを前提としてんのかな
正直苗字が変わることの暴力性みたいなものに気付ける繊細な心を持った人が子供をこの世に生み出すことは良しとするってのが信じがたい
苗字変更なんかよりよっぽど一方的だし回避不能だし不可逆だろ、出生
人権意識の高いフェミニストなら当然子供は作りませんよね、と俺は思っている(俺も絶対作るまいと思う)んだけど、そういう人が結婚制度についていろいろ言うってことは子供がいない場合でも法律婚にはなんらかのメリットがあるってことなのかしらん
・勧められたのはジュビリーエース(jubilee ace)という取引所内のビットコインのレートの差額で儲けるネットワークビジネス
・1秒ごとに2円、3円ずつ儲ける自動のなんとかとスポーツの勝敗にボタンをポチポチして賭けるだけで儲かるなんとかがある
・人を勧誘するとその人が始めた金額の6%-13%(ランクにより%が変わる)返ってくるシステムがあって、自分が紹介した人がまた新たに人を紹介するとその分も自分に返ってくるザ・ねずみ講
・お金のやり取りは日本円とビットコインでする元本償却型で、入れたお金の3倍までは儲けられるとかでもう聞けば聞くほど怪しさ全開
ネットワークビジネスの仕組みの話は興味ないのと これ絶対あかんやつ、と思ってたのでうろ覚えなんですけどこんな感じでした
増田カップルはわりとアムウェイとか宗教とか苦手なので導入からして互いにめっちゃ目配せしてた
何がキツいってA自体はめっちゃいい人で本心から善意で声かけてきてるとこなんですよね………絶対儲かるから教えなきゃ!というのを身近な人間から聞くのキツいわ………
あとAから話を聞いて彼氏の家族で手を出しちゃった人がいるらしい
職場の人間とかにもお勧めしてるらしくて止めようも無いし口出しする権利もないけど心が痛い
増田はAは彼氏との付き合いしかないしこういうの本当にあるんだな…くらいの感覚なんですがこの話を聞いた日から彼氏がずっと落ち込んでるし 俺の親戚が増田に声かけて勧誘し始めたら縁切る、どうにかして辞めさせたい、て呻いてたので上手いこと収束させる方法を知りたい
なにかいい知恵ないですかね
囀るやつは自分にはあまり刺さらなかったから参考にならんのかもしれない
片方がアセクシャルっぽいとこから始まるやつがいいのかとおもってそういうの挙げてみる
ムキムキプロレスラーものなども大丈夫そうならもっとほかにおすすめできるのあるよ
お客さんにガチ恋されてるけどオーナーと因縁があるから深入りされるまえにスパッと冷酷に切っちゃうとか
恋がいつまでもはじまらないまま同棲してて、今おもえば通じ合ってたなぁ、ってのもある
勇者in魔王んち は絵がギャグっぽいのに細かい伏線の画面内埋め込みがすごくて(そもそも主人公の髪の毛が一定速度で伸びていくのでだいたい作内経過時間が何ヶ月後だなとか回想シーンがわかるっていう細かすぎて伝わらないことをやってしまう漫画を自分は最近はこいつしかみたことがない)けっこう切なかった(自分にはね)
たまたまAmazonでオススメされて買ってみた、ヨネダコウ『囀る鳥は羽ばたかない』が面白かった。
それでいろいろBL系の漫画を読んでみたら、好きなor苦手なジャンルやシチュエーションが徐々に分かってきた。
・ノンケの人が最初むちゃくちゃいやがっているのを無理矢理…みたいなのは苦手
・もともとLiquidなセクシュアリティ(あるいはそもそも恋愛に興味が薄い)人が相手と出会って恋をする、それがたまた同姓だった、みたいのはOK(というか好き)
・過度なギャグ要素は苦手
・カップルの一方が過度にフェミニン、というか幼児体型?みたいに見えるのは苦手
・主人公だけじゃ無く、サブキャラクターの造形がしっかりしているのが好き
『囀る鳥は羽ばたかない』以外だと、市川けい『ブルースカイコンプレックス』が良かったです。
他にもオススメがあったら教えてください。(あるいはこういうキーワードで検索すると良い、など)
【追記・お返事】
レスくれたかた、ありがとうございます!紹介されたやつ試してみます。
プロレスラーみたいな筋肉モリモリのやつは少し苦手のようです。
あと、その後気づいたのは、SFやファンタジー要素が強いものよりは、現実世界・日常に近い設定のほうが好みかもしれません。
「恋がいつまでもはじまらないまま同棲してて、今おもえば通じ合ってたなぁ」のやつがかなり気になるので詳細を教えていただければ嬉しいです!
ソムリエの皆様ありがとうございます。挙げてくださったものをメモ・試し読みリンク
・ラムスプリンガの情景 https://www.cmoa.jp/title/150187/
・Q3 https://comic.k-manga.jp/title/19185/pv
・アイツの大本命 https://www.cmoa.jp/title/23140/
・東京心中 https://www.cmoa.jp/title/104553/
・雷神とリーマン https://www.cmoa.jp/title/103896/
・めぐみとつぐみ https://www.cmoa.jp/title/157036/
・ギヴン https://www.cmoa.jp/title/92972/
入社初日から私のことが嫌いなんだろうなぁっていうのはわかってた。
初日から、私の前にいた人とすごく仲が良かったのに体調不良で辞めてしまって寂しい、戻ってきてほしいって言ってたしね。
気持ちはわかるが…それにしたって、私はもう入社して2年たつのにまだその態度続ける?
ロクに仕事は教えない、教えてもウソをつくのはだいぶマシになったけど
自分の仕事は押し付ける、しっかり報告したにも関わらず「え~?私聞きましたぁ??」としらばっくれるのは序の口。
周りに人がいるときは「増田ちゃ~ん♡」と猫なで声でぶりっこしてくるけど
営業社員が外回りに出た瞬間、別人かってぐらい声変わる。気持ち悪い。
「結婚したら辞める!寿退社する!私は専業主婦になるのっ」と言っていたから
それを信じて2年頑張ってきたんだけど、お前はいったいいつ辞めるの????
もう1年以上彼氏と同棲してるのにまだプロポーズされない~って言うけどな、
お前後輩イビリするような意地の悪さが透けて見えるからプロポーズされないんじゃないの?と思うわ
別にお前が結婚しようがしまいがどうでもいいが無駄にいびってくるのやめろ面倒くさい
嫌い嫌い嫌い本当に嫌い、明日もアイツの顔見るとぞっとする
明日はどんな嫌味を言われるのかな。
余談にグダグダ書くけど、応援しがいがあるかもな、ってのは一通り試してみようと思う
以下余談。
声優やアイドルなどは引退などがあるので、永続性のあるものがいい
というかキャバクラなどで遊んだ結果、人間や女というものはもういいや、と思った
何でもいいと言えば嘘になる
なんというかキャバクラとかがそうなんだけど金をかけた時に、
相手がほくそ笑んでいるな、と感じるようになったのがすごくいやだ
ソシャゲなんかも、株主に搾取されているんだな、って感じる時があって
それにサービス終了されたときは、なんというか放心状態になってしまう
誰かに喜んでもらいたいんだけど、それが未来につながるというか
応援対象がシンプルな金儲けだけでやっていることではないという理由づけがほしいというか
特に個人を応援すると「引退」とかがあったりして、それが率直に言うと裏切りに感じてしまうところがある
だから応援ジャンルというほうがしっくりくる。個人ではなくジャンル
「家族の家事は女の仕事」になるのは今の2~30代でも同じみたいだ。
増田の指摘どおり上の年代の中に若い層を装って愚痴を発散させてたり女を装って書いている男すらゼロだろうとは言い切れないし
ネットの記事は実在しない空想のAさん20代だったり、記者が盛ってる例も多いだろう。
しかし、じゃあ男がいうほど家事をしているか?と言われると答えは違うと思う。
スーパーに行くとわかる。
夕方18時から閉店までの間に行くと男は依然少数派だし、かごの中を見てみると「家族のための買い物」であろうと思われる例が非常に少ない。
スーパーにいる「働いている男が買っているもの」は明らかに独身の男の買い物内容だ。
休日に行くと家族連れは増えるが、明らかに妻がメインで買い物をしている。夫がかごに入れるものは「子供の健康のためのもの」というより、自分のための嗜好品だろ?的なのを振りかざして「おーい!これ入れて!」ってやってる。
保育園や幼稚園の教諭に、「父親が送りや迎えにくることって増えましたか?」と聞いたことがある。
40代以上は全員、「90年代までに比べたら確実に増えた」と答えた。
ただし、増えたといっても依然主力ではないとも。
そりゃそうだ。
男性の育休取得率は数パーセントで、妻が月単位・年単位で取るのに比べ、男の育休は日単位で妻が有給を使い果たした後のピンチヒッターであることが多い。
さらにその育休の内実も、「育休を取ったが子とは別に行動していた」パターンが多いという調査結果が先日出たばかり。
少し前の統計だが夫婦の有職率と家事・育児の分担の割合の統計を見たことがある。
しかしすべての組み合わせで妻の家事・育児負担が8割前後以上あった。
「妻有職・夫無職」でも妻が毎日数時間を第二の職場で労働しているのである。