はてなキーワード: 募金とは
ワイは自分の責務をプライドを持って果たすことに理由は要らないが増田は理由がいる
それだけのことだね
交わらぬ線〜〜
能力・学歴問わずいる利他の精神ゼロの生き物かつ、増田のいう “恥ずかしくない生活” とやらのために要らんことする生物が滅したのだと思うよ
利他的な蟻の増える速度の方が常に速いので蟻たちは滅んでないんだってさ
琉球大学農学部の辻和希(本名・辻瑞樹)教授と日本学術振興会の土畑重人特別研究員の研究チームはこのほど、働きアリよりも、働きアリの労働にただ乗りする、働かないアリの生存率の方が高いことを突き止めた。
個々が社会の目標より自分の目標を優先してしまうことで社会をつくることができなくなるという、人間社会でもみられる「公共財ジレンマ」の実例を、人間と微生物以外で初めて発見した。研究成果は「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」(オンライン版)に掲載される。
辻教授は「この研究成果は人間がなぜ助け合うのかを理解するのにも役立つ」と強調した。
「公共財ジレンマ」とは、協力して社会をつくれば最終的な利益が大きいにもかかわらず、他者よりも大きな利益を得るために、他者の働きにただ乗りするという事態が起こり、社会をつくることができないことを指す。
研究チームがアミメアリを使い実験したところ、労働せずに産卵ばかり行うアリが交じっていることを発見し、それらは働きアリとは遺伝的に異なる系統に属することを確認した。働かないアリは、働きアリによる助け合いの利益にただ乗りしている。
研究によると、働きアリは働かないアリの分まで巣の外に出て労働するため「過労死」し、生存率が下がる。働かないアリは働きアリよりも多く子どもを産むが、その子どもは親と同様に働かない。だが、働かないアリのみの社会では、子孫を残すことはできないという。
自由競争の下では相手からの助けにただ乗りし利益を得た方が得であるにもかかわらず、助け合いの社会が発生することについて辻教授は、自然科学と社会科学の両分野で重要なテーマと指摘。「アリ社会において助け合いがなぜ生じるかを理解することが、ヒト社会の助け合いをより深く理解することにつながる」と研究の意義を強調した。
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-212621.html?a_aid=3598aabf
○ その親切な行動、50%が遺伝!?
あなたはどのくらいバスで席を譲ったり、募金をしてますか?「親切さ」にも様々ありますが、今回ご紹介するのは見ず知らずの人に対しての親切さ(利他的行動)です。
バスでお年寄りや妊婦さんに率先して席を譲る人もいれば、寝たふりをしてしまう人もいますよね。
見ず知らずの人にどのくらい親切に振る舞うのかには、大きな個人差があります。これは、生まれもったものなのでしょうか?それとも、成長の過程で身に着けるものなのでしょうか。
研究によると、見ず知らずの人に対する親切さは、50%が遺伝要因による先天的なもの、50%が環境要因による後天的なもので形成されているそうです。
他人に対する考えや行動も遺伝するの!?と驚くかもしれません。しかし、他にも「他人に共感する(empathy) 」は、70%が遺伝要因によるという報告があります。
研究の結果、ドーパミンの代謝に関わる「COMT遺伝子」のrs4680というSNPが「G」である人は、「A」である人よりも、自分が持っている金額に対して高い割合の金額を募金する、つまりより親切に振る舞うと分かりました。
というSNPにはGG,GA,AAの遺伝子型がありますが、日本人平均と比べると
[mycode]
(当たり前の例)
[Psychology] Anxiolytic Treatment Impairs Helping Behavior in Rats
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2016.00850/full
[Current Biology] Harm to Others Acts as a Negative Reinforcer in Rats
https://www.cell.com/current-biology/fulltext/S0960-9822(20)30017-8
日本語記事:「誰かを助ける」のに理由はいらない(哺乳類なら):研究結果 (WIRED)
https://wired.jp/2016/07/01/rats-empathy/
まず思ったことと言えば『面倒くさい界隈だろうからどれだけ刀が好きでもゲームでキャラが気に入っても関わらないようにしよう』である。
私は例の刀鍛冶さんの記事をYahooで見かけその後、『刀剣女子』というワードがTwitterのトレンドに入っていたのを見て炎上しているのを知った人間だ。
記事自体は誰かを貶すような表現などはまったくなく、むしろ刀剣女子と呼ばれる人に対しても好意的に書かれていたと思う。少なくとも私はそのように捉えている。しかし炎上は起きてしまった。
炎上した理由が複数あり人によって怒っている理由も怒りの矛先もバラバラだが1つ大きな理由を上げれば『記事に書かれていない内容を深読みした人間がいてTwitterで大げさにつぶやいてしまった』ことであると思う。ちなみにそのツイートはこの日記を書くころにはすでに削除されていた。
歪曲されたツイートはかなり伸びていた。誤った内容は広まり刀鍛冶の方が責められてしまったのだ。私はその様子を見ていたが正直かなり恐ろしかった。元記事も読まずツイートだけで叩かれてしまうのはかなり理不尽だ。私にも言えることかもしれないが、批判するならしっかり相手の動画のスタンスや記事を理解しなければいけないのではないだろうか。
あと個人的に目についたのは刀剣女子という言葉に対しての異常なまでの拒絶である。
私自身女性であり気にはならなかったが、確かに刀剣女子という言葉がジェンダーに配慮していないという点で嫌な人がいるのかもしれない。しかし数年前には流行語にもなった言葉であるので一般的に使われていてもおかしくはないと思う。
嫌いな言葉が出てきたというだけですべてを拒絶してしまうのは非常にもったいない気がする。
最後に気になったことは私達はこんなに貢献してきたのに!と怒っている人たちである。
コンビニやテレビ番組の募金ですべての人を救えないのと一緒で業界全体を潤すには時間もお金もかなりかかると思う。確かにお金の寄付などを行うことはとても素晴らしいことだが、だからといってその業界の人間が話す現実を否定するのはおかしいと思う。その人にとってはそれが現実であるというのは変わらないのである。
そして寄付をしたという事実を誇りに思うの素敵なことだと思うが、それを武器にして刀鍛冶の方にぶつけてしまうのはいかがなものか。私にはクレーマーと変わらないように見えた。
あの記事を読んでそういう分野も楽しそうだと最初は思ったのだ。ゲームを見てみたらキャラもかっこよくてボイスもいいしアニメも面白そうだとも。私自身、居合などを嗜んでいたので刀にも興味があったし話題になっていたので時間が空いたら実写映画とかも見てみようと少し浮かれていた。
けれど今回の炎上をみて上がっていたテンションが下がってしまった。あれほど繊細で言葉に気をつけなければいけない界隈だとは思っていなかったのである。
3ヶ月前に募金を始めた。
いちおう今後も続けていけそうな気がするので、続けるぞという決意、お仲間が増えればいいなというわずかな期待を込めてこの記事を書く。
始めたきっかけは、上野千鶴子先生が代表を務められているウィメンズアクションネットワークの「WAN基金コロナ禍対策女性連帯プロジェクト」を知ったことだった。
プロジェクト紹介ページで特に印象に残ったのが、「市民的再分配」の文字。要するに、日本政府の再分配が不十分な所を市民で行おうということらしい。
これを見た時、その考えには思い至らなかった...と大いに反省した。
今までも格差問題には関心があり、どうすればいいのかを学んできたと思う。
どんな公演を聞いても、本を読んでも、答えは1つ「政府がしっかり保障しなきゃ!」
もちろんこれが1番大切だ。結局は行政が動いてくれないと、隅々まで支援が行き届くことはない。
でも、「政府がやらないなら自分たちでも少しずつやるしかないじゃない」というガッツ(?)だって、きっと大切なのだと気づかされた。
幸い、私は実家暮らしで家計の心配をする必要のないお気楽な身分である。
それだったら、毎月のバイト代の10%を募金しよう、そう決めた。
10月は5000円、11月は8000円、12月は6000円。
これで世界は変わるのだろうか。いや、変わらないだろう。
けれど、なんてったってリターンのない行為なのだから、それも仕方ないと思う。(怒られるかも。ごめんなさい。)
だから、私は1人の負担を増やすのではなくて、お仲間を増やしたいなあと思っている。
何故ミスコンは問題視されているのか。とある記事を見てふと思ったことをここにつらつらと書き連ねておこうと思う。
元来見た目の美しさは望んで得るためにはあまりにも失うものの多いものであり、もって生まれた人々はそれを活かして何が悪い、作家が本を出して賞を貰うのと本質的には変わらないのではないか、というのが私の基本的な意見である。大体美しい人々はその見た目を誇り努力も重ねているのではないか。
「ブサイクコンテスト」のような見た目で人を貶めましょうというコンテストというわけではなく、持って生まれて努力した人が自分の努力や美しさという才能を評価されたい、つまりは自分を更に好きになりたいという願望の現れが「ミスコン」なのだから、いいじゃないか、べつに。どこがダメなんだろうか。「お金持ちは必ず募金をしなさい」くらい違和感がある。
そもそも人という生き物は、美しい見た目をしている方がより社会に適応しやすい。例えば、就職活動だとか、友達作りだとか。
就職活動に関しては「容姿端麗」を必要とする仕事も多くあるし、目立つ人と友達になりたいという気持ちは割と多くの人が持っているものなので、それも不健全とは言い難い。
ミケランジェロの「サン・ピエトロのピエタ」という作品を皆さんはご存知だろうか。
とても美しい彫刻作品で、私は初めて見た時に本当に衝撃を受けた。
今までは全く興味を持っていなかったのに、私はピエタを知って初めて彫刻について調べたのである。ピエタがどうやって作られ、なぜ作られたのかを。
美しいと思わなければ調べようとは思わなかっただろう。見ても数十秒後には忘れて、きっと別のことを考えていた。
この人類の長いようで短い歴史の中で何回も言われていることだろうが、結局見た目、最初の印象で心惹かれなければその人のことを知ろうとは思いにくい。ふとした時にその人が持つ良さなんかを何かで知って興味を持つことはあるけれど、見た目が100%好みの人間のことの方が知りたくなりやすい、と私は思っている。そう、これはどう足掻いても拗らせた高校生の拗らせた思想の切れ端で、ここまで読んだ方はお気づきだろうが、私は美しさとは程遠い見た目をしており、美しい人々に尊敬の念を抱いている。
多くの人間にとって相手の見た目というものは、相手を判断する大きな材料である。
最初に述べたように、所謂ルッキズムのようにそれで差別され、不利益を被るのならそれはもちろん是正されるべきである。
しかし、誰もマイナスにならない、一部の人間がプラスになる、というのであれば別にそのままで良いのではないだろうか。
その人がもって生まれた長所がたまたま見た目だったというだけで、その長所がなかった事にされては気の毒だろう。長所はどのようなものであれ平等に評価されるべきである。
社会問題について述べた,意識のお高~い記事にありがちな締め文句,
彼らによれば,地球の裏側の貧困にも,地球規模の水不足にも,アメリカの格差社会にも,全部俺らは関係者で,責任があるらしい.そんでもって,自分たちの活動が,他人にとっても価値のあることだということが,彼らには全く疑いの余地がないらしい.そんなわけねーじゃん.
俺は個人的には彼らの活動を評価しているし,見かけたら募金くらいはしてやろうというつもりはある.実際にしている.ただ,上記のような文句は,あまりに不遜な態度ではないか.事実を伝えて,それだけでよいのに,他人の良心にまで踏み込む権利は彼らにはない.彼らのような活動は,本来自発的なものであるし,それに,社会問題に目が向かない人は,怠惰でも不誠実でもなく,ただ余裕がないだけの場合が多い.当然国内にも貧困はある.無い袖を振らないことを,ともすれば悪意と取らせかねない,そんな言い草はやめるべきだ.身近にある貧困を無視して,「日本人は恵まれている」と主張するのは,あまりに冷酷じゃないか.
転売は非難すべき行為なのか?という点よりも、はたして日本で暮らす自分に転売を非難する資格があるのか?という点が気になっています。
別に、転売は避難されるような行為じゃないとか言いたいわけではなくて。非難する資格が自分にあるのかな?という話です。
よく転売屋のせいでPS5が買えないという人がいますが、今PS5が買えないのは、供給量を遥かに上回る需要があるからです。転売屋が居ても居なくても、世の中のPS5の数は変わりませんし、入手できる人の数も変わりません。1人の転売屋がPS5を100個買い占めたとしても、最終的には100人の金持ちの手に渡るわけですから。変わるのはPS5の値段だけです。
仮に転売屋が一切居なかったとしても、今回のように需要が供給量を超えると、買えるのは一部の人間だけでになります。この場合、PS5を買えた人と買えなかった人の差は、「他の人より早く店に行けたかどうか」「抽選に当選したかどうか」だと思います。
ところが、転売屋によって買い占められると、PS5を買えた人と買えなかった人の差は、「他の人より多く金を払えるかどうか」になります。本来なら先着順や運が入手できるかどうかを左右しますが、転売屋が買い占めると、全てが札束の殴り合いへと変化します。お金がある人は、行列に並んでいなくても、抽選に当選しなくても、PS5を手にすることができます。
たまに駅前で「〇〇ちゃんを救う会」という看板を掲げた人たちが募金をしていますが、あの人達がやっていることも本質的には同じです。彼らの求めている募金の金額は大抵の場合2~4億円とかなり高額です。何故こんなに高額になるのかというと、アメリカにおいて臓器移植の順番待ちをスキップする、いわばディスニーランドのファストパスのような枠が設定されており、その権利を世界中の患者がオークションのように競っている状態だからです。
要するに、PS5だろうと臓器だろうと、お金持ちは行列に並んでいなくても、金の力で入手することができます。対してお金を持っていない人は?
なかなか臓器移植の順番が回ってこないので、そのうち死にます。そもそも、順番が来たとしても、手術を受けるお金がなければ死にます。これを不公平だと思う人は少なくないと思います。もし私が臓器移植を待っていて、生きるか死ぬかの瀬戸際でようやく自分に回ってきた臓器を金持ちにぶんどられたら…… そんなの死んでも死にきれません。でも死にます。う~ん辛い。
こんなの絶対おかしい! と思ってしまう一方で、はたして日本で暮らす自分に、「お金を持っている人しかPS5や臓器を入手できない」ことを非難する資格があるのか……?
と思い、私たち日本人は世界的に見てどのような生活をしているかを、昔チェーンメールで流行した「世界がもし100人の村だったら」で考えてみました。
仮に世界が100人の村だった場合、村人100人の1日の収入は下記のようになるそうです。
1人が90ドル以上(1万円~)
https://www.youtube.com/watch?v=QFrqTFRy-LU
村1番のお金持ちの収入は1日1万円以上、2~7番目は1日5560円~1万円となっています。
国税庁の民間給与実態調査によると、2019年における日本人給与所得者の平均年収は441万円になります。ちなみに中央値はだいたい360万円~370万円辺りだそうです。つまり、中央値で考えてみても、一日当たりの収入が約1万円はあることになります。
つまり、仮に世界が100人の村だった場合、一般的な収入の日本人は、村で2番目くらいの金持ちであると言えると思います。(違ってたらすみません)「日本終わった」「日本人は貧しくなった」と盛んに言われていますが、年収200万円のフリーターでさえ上位8位辺りに入るほどですから、世界的に見たら相当な金持ち国家です。
以上を踏まえて、考えてみました。とてつもない額の収入で村で2番目に裕福な暮らしをしている日本人が、「お金を持っている人しか物を手に入れられないのはおかしい」と言っていたら、他の村人たちはどう思うか?
村で2番目に裕福な日本人は、下位15人の村人が一日で稼ぐ金額を5分で稼ぎます。
村で2番目に裕福な日本人は、下位15人の村人が1日で稼ぐ金額を、ソシャゲでガチャを回すのに使います。
村で2番目に裕福な日本人は、下位15人の村人の年収よりも高い金額のiPhoneを、中高生が持っています。
村で2番目に裕福な日本人は、途上国の子どもたちの命を奪うはしかの予防接種用ワクチン2500回分の金額を、5万円のPS5を買うために使います。
そんな村で2番目に裕福な日本人が、「お金を持っている人しか物を手に入れられないのはおかしい」といったら他の村人はどう思うか……
私は日本の中では貧しい方に分類される人間ですが、そんな自分でさえ、あまりにも歪に偏った経済格差の富める側に属しているんだなと再確認させられました。自分は「金を持っている人しか入手できない」という資本主義システムと、金という圧倒的な力を最大限利用し、普段の(あくまで世界的にみたら)豊かな生活を手に入れているのだなと。
お金を持っている人しか物を手に入れられないのはおかしい? それじゃあ、物やサービスを手に入れる必要条件をお金から先着順や抽選制にしたらどうなるか――
そうなった瞬間、私は圧倒的に不足している食料や水を、地球上の77億人と奪い合うことになるわけです。行列の先頭集団に入れないと、抽選に当たらないと、その日食べるものもなければ、医療サービスを受けることもできません。抽選に運良く当たり、PS5を手に入れたとしても、目の前の栄養失調で死にそうな家族のために、PS5を売って食料を買うこともできません。だいぶ辛いです。
別に、こんなに不公平な世界はおかしいとか、ユニセフにもっと募金しようとか、そんなこと言うつもりは全然ありません。「金を持つ人しか物を買えない」というシステムを利用して、(世界的にみたら)裕福な暮らしをしている自分が、同じシステムを利用して稼いでいる転売屋を非難する資格がはたしてあるのか。そこがモヤモヤしてます。自分も転売屋も、自分たちの生活を豊かにするという利己的な理由でこのシステムを利用しています。どこに違いがあるのか。他人に迷惑をかけているかどうか?
転売屋が居てもPS5の数は変わりません。お金を持っている人は相変わらずPS5を買うことができます。コレを迷惑だから平等に分配しろと行った途端、日本で一般的な暮らしをしている人は、自らの資産を平等に分配する側になってしまいます。転売屋からPS5を買える人はお金を持っている人だけですが、そもそも定価5万円のPS5が買える人だってお金を持っている人だけです。100人の村では、上位10位以内の人でないと、定価5万円のPS5を買うことは難しいでしょう。
残りの村人90人からすると、普通に定価5万円でPS5を買っている日本人は、「お金がある人しかPS5を買えないなんておかしい」と思われている側の人間です。転売屋からPS5を買っている金持ちに対して、「お金がある人しかPS5を買えないなんておかしい!平等に分配しろ!」と思うのなら、定価5万円で買ったPS5を下位90人の村人から「お金がある人しかPS5を買えないなんておかしい!平等に分配しろ!」といわれたら、せっかく手に入れたPS5を手放さなければなりません。
みんなで公平に抽選なり早いものがちでPS5争奪戦をしなければならないわけで、自分が入手できる可能性は低くなります。実際はそんなことしませんよね? 私はしません。下位90人の村人がなんと言おうと、PS5は自分で使います。何故そんな事が可能かというと、それは「金を持つ人しか物を買えない」というシステムを、他人に迷惑がかかろうと構わず利用しているからです。「〇〇ちゃんを救う会」と同じように。
「お金がある人しか物を買えないなんておかしい」と思うのなら、「お金がある人しか満足に食事ができないなんてなんておかしい!」と最貧国の人達に言われたら、自分の食費を彼らに渡すのか?
「お金がある人しか物を買えないなんておかしい」と思うのなら、「お金がある人しか学校に行けないなんておかしい!」と最貧国の人達に言われたら、自分の大学の学費を彼らに渡すのか?
自問自答してみますが、もちろん答えはNOです。まだ奨学金払い終わってないし。
別に、自分で稼いだお金は自分のために使えばいいと思います。1万の寿司を食ったっていいし、推しに100万使ったっていい。家族のために使ったっていいし、もちろん募金したっていい。私は世界で一番、自分の事が大切です。1本20円のはしかワクチンで救える命があると知っていても、のどが渇けば自販機で100円のコーヒーを買います。ケチなので躊躇はしますが。
1本20円の予防接種用ワクチンが買えなくて死んでいる子供がいるこの世界において、「金を持つ人しか物を買えないなんておかしい」と思ったら、定価でPS5を買うことも、子供にランドセルを買ってやることも、1本100円の缶コーヒーを買うことだってできなくなってしまいます。
あなたがこの文章を読んでいる間に、75人の子供が栄養失調で亡くなりました。
という現実を私は知っていますが、たまに気まぐれでコンビニのお釣りを募金箱に入れるくらいで、お金は自分の好きなように使います。ゲームもお菓子も買います。見たい映画を見て、読みたい本を買います。
でも、だからこそ、「お金を持っている人しか物を手に入れられないのはおかしい」なんて、そんなことは言える立場じゃないよなあと、そう思いました。
30分ほど時間を消費した。
人間性センターでのことだ。3問正解でクリアと明確に書いてあるのにも関わらず、3問正解しても4問正解してもダメだった。質問リセマラを繰り返してやっと全問正解した時、初めて開いた。他の人は3問正解で入れたのかもしれないが、自分は何故か入れなかったのだ…。
何か自分が見落としてるコマンドがあったりしたのかもしれないが、とにかく延々とそれを繰り返していた。
もしかしたら自分の人間性が低すぎて3問正解でもクリア出来なかったのかもしれない。これからは募金箱に1円じゃなくて100円くらい入れるようにします。
新しい推しができた。ただそれだけを書くために人間性センターと格闘した。逆に言えばめちゃくちゃ書きたかったから頑張れた。
この間新しく漫画を読んだ。長く連載している漫画だった。そうして、新しい推しができた。
今まで楽曲やら人外やら美少女やらショタやら様々な推しができたが、今回はアラサーだった。自分が節操なしであるのはよく理解しているので、すんなり納得出来た。
この新しい推しは、物語では重要な役割を果たしている。が、既に亡くなっているので供給はあまりない。グッズも今まで片手で数えられる未満しか出ていない。そして知るのが遅かったため、値段がつり上がり、もう簡単には手に入らない。そも転売では手に入れたくない。
グッズは少ないが、T○itterでのファンアートは割とあると思う。素晴らしいイラストを見てはブックマークに入れている。海外でも人気の漫画だから、海外勢のファンアートも多い。むしろそっちの方が多いかもしれない。
…推しについて書いていたら先程までの人間性センターでのことなんてどうでも良くなってきた。あの時はとてつもなく困惑が大きかったが、推しパワーは素晴らしいもので、そんな困惑は吹き飛んでしまった。
漫画を読み返しては泣いてしまう。今までイメソン?なにそれw派だったが、血眼でイメソンを探すようになった。ファンアートを探し尽くすためにあらゆるワードで検索をかけた。良いのを見つけてホクホクした。
初めて推しが死んだ(死んでいる)ので、言いようのない不安みたいなものがある。今まで比較的平和なジャンルに居たため、キャラが死ぬとかは無かったのだ。
推しのことを考えると暖かい気持ちになる。めちゃくちゃ美味いものを食べた時のような。たまに推しの死を考えてうわあああと叫びたくなるが、それすらも楽しい。
ただそれだけを書きたかった。本当にそれだけ。
こんな形でクラブの名前が出るのが悲しいが、今回のクラブの対応はとうてい理解できない。
債務超過の報道があった時には、戦力を手放すことになり、下のカテゴリーからやり直すことになっても、今度は地道に下部組織から育成して、戦力的に安定したチームを作って欲しいと思っていた。
時間をかけてでも1から再生すれば良いと応援する気持ちだったけど、今回の報道は本当に気持ちが冷める。
試合に負けた時、降格した時に悔しいと思う気持ちとは全く異なる感情だった。
契約解除された選手は前所属クラブでも問題を起こしていた。フロントはよく知っているはずだ。噂レベルだと、昨年末にもトラブルがあったと言われている。だから決して青天の霹靂ではない。
執行猶予という制度があるように、初回は寛大に処分し更生を期待するものだ。とはいえ、クラブは一度過ちを犯した選手を獲得する時点で、二度目を起こさないための手段、もし起きたらどう対処するか考えておかなかったのか。
すべてが後手後手でその場しのぎに見える。
報道までクラブが知らなかった事実があったかもしれないが、今回は二度目なのだからそれでは甘い。
プライベートなことでも突っ込んで事実関係を掘り出して、適切に対処して欲しかった。
戦力的に重要な選手ではあるけど、クラブは割り切って考えないといけなかった。
スポンサー、ファンあってのプロスポーツなんだから、プライベートにノータッチというわけにはいかない。
昨年末のトラブルでクラブは何もできなかったのか。何より、この事件を未然に防ぐ働きかけはできなかっただろうか……
手の施しようがなくお先真っ暗なんだけど、クラブと本人にはまずはここからでも誠実に対応してほしい。
クラブは被害者の方に最善を尽くせ。本人がどうにもならないなら、クラブが代わって最大限の謝罪をする。
最終的にクラブが消滅しようと、この問題には最後まで真摯に向き合ってほしい。
これでは親はサッカーをやっている子供を安心してベガルタの育成組織に預けられない。ユースに入っても人として成長できないのではないか、トップに昇格しても経歴にキズがつくだけではないか。
ベガルタのユースは決して強いとは言えないが、件の選手はこれまでユースが輩出してきた選手の中でも指折りの実力を持っていた。訳ありということを差し引いても、地元出身ということもあって期待されていた。
10月18日、日曜日の浦和戦を見たときも、弱すぎる今年のチームにあって、J1で戦える数少ない選手だと感じたばかりだった。
とはいえ、そのとき他クラブからオファーが来るレベルの選手を何人かリストアップしたが、「でも彼は訳ありだからオファー来ないし来年もベガルタにいるだろうな」と思ったことを覚えている。
そしてこれは戦術上の都合もあったのかもしれないが、実力からすると主力として試合に出すべき選手なのに、見る機会が少ないと思ったことはあった。
しかし今年はコロナの影響で過密日程で、怪我人も異常に多いシーズンなので毎試合メンバーが変わるのは当たり前だし、どうせ一人欠けても勝ち負けに影響がないので、また怪我かと思うくらいで深くは気にならなかった。
擁護するつもりはさらさらないが、ピッチ上ではプライベートでの素行の問題の悪さは感じたことがなかった。
特別に紳士的だと思ったこともなかったが、よく走り回る献身的な良い選手と捉えていた。
素行の悪い選手といえば、カッとなってファールしたり、ファールされたら報復したり、ミスしたときや途中交代のとき物に当たったりといった行動が見られるが、自分の見る限り、彼はピッチでそのような行動を取っているのを見たことがなかった。加入してしばらくしてから訳ありでベガルタに来たことを知ったが、プライベートでの一面を知ったときは驚きだった。
今年のベガルタはファンに愛想を尽かされるようなことしか起きてないけど、自分がサッカーを始めたきっかけでもある、子供の頃から大好きなクラブがどうしても気になってしまう。
こんなチームを未だに思っているのは理解できないと思われるだろう。だからダメなんだと。しかし何があっても親を嫌いになれないように、自分をサッカーの世界に引き込んだこのクラブが落ちぶれて消えて無くなるのを傍観するのはあまりに辛い。
今でもビデオを見返すことがある。この思い出を自分はどう消化すれば良いのか?
何が起きているんだと、信じたくない気持ちでいっぱいだ。でも冷静に考えると起こるべくして起きたことだと思う。
どういうスタンスでベガルタの報道を見ていけばよいのか、分からない。
J2にいたときだって応援し続けていたファンはたくさんいる。弱くたってよかった。そんなのは小さな悩みだ。
でも不義理なチームになってはいけない。下手だって良いから、情熱のある人に経営に参加してほしかった。
もはや試合に勝つことを望んでいるファンはいない。応援し続けてきたクラブが、とにかく健全な経営判断をすることだけを望んでいる。それは目先だけでも良い。クラブが存続するならば、中長期ビジョンはおそらく全く別の人達が考えるだろうから。
もう少し詳しく説明してほしい。
また、「構成員がその社会の社会支援の基準を検討することは社会支援への同意と何も矛盾しない」は賛成or反対?
お金と時間が有限な以上、誰かのためにそれらを費やすと決めることは別の誰かには費やさないと決めることとイコールだよね。
なので税金の話で書いたけど、別に税金にだけ限定するつもりはないよ。
とはいえ、自発的な募金や助け合いで強制でないなら、他人がとやかく言う筋合いもないしお好きなようにどうぞって思うけど。
運用はまぁそうだろうけど、要件を決定するのは有権者の主観的な考えの集合だよ。
例えば、破産法252条1項4号の「浪費または賭博その他の射幸行為」の元になっているのは公正さに対する有権者の思いだろう。
もし要件決定に客観性や絶対性があるなら、毎年たくさんの法律の要件が変更になったり、死刑や同性婚など喧々諤々の議論になったりしないわな。
で、元増田の基準が主観的相対的な条件であるのは確かだけれど、元増田がその思いを胸に直接/間接的に法律の制定に力を尽くしたとして、その法律が無制限に拡大していくとはならないよね?という話。
まぁこれは余談だけど、
一人一票の民主制社会において社会福祉システムなんて基準緩和の方向に進む力のほうが強いのは明らかで、
(基本的に基準緩和で負担が減る人≒貧困層の数>負担が増える人≒富裕層の数)
基準強化の訴えはアンチテーゼとしても非常に重要だし、それによって基準強化が無制限に進むということは国家の意思決定システムからも考えにくい。
なんか社会問題とかで「助けが必要、支援が必要、保障が必要、健康で文化的な最低限度の生活」って話が出たときに、
「そうだよなあ」と思う事もあれば、「その人たち助けなきゃダメ?」って感じる事もあるので、
少なくとも積極的に助ける気が起きないパターンを言語化してみる。
勉強頑張って、価値観のアップデート頑張って、女子供に優しくして、それでも苦しんでる人なら、助けようって気にもなるけど。
ろくすっぽ勉強しないで自民党支持者→ネトウヨ→差別主義者コースに乗ったような人たちを、なんで救わなきゃならんのよって気分になる。
■2:見え見えの罠に嵌った人たち、判り切った結末に陥ってる人たち
毒親みたいにどうしようもない理由で被害を受けた人たちなら、助けようよという気にもなるが、
あまりに判り切ったリスクでドツボに嵌った人たちを助ける気はちょっと起きない。
振る舞いを整えなきゃ誰からも相手にされないのは目に見えてるだろ。
異性と向き合うのにどんだけ苦労するかなんて、ネット上に幾らでも情報あるだろ。
空から女の子が降ってくる話なんて、あるわけないの判り切ってるだろ。
なんで見え見えの落とし穴に自ら突っ込んでったの。
そんなもんで苦労してる人たちを助けてたらキリがないわ。考えなしの尻拭いをなんでこっちがしてやらにゃならんのよ。
■3:他人を助けなかった人たち
日頃恵まれない人のために募金でも署名でもしてるってのなら判るけどね。
自分の窮状をアピールしてる人たち、あんたら他人が窮してた時にどんだけ助けたの。
フェミ死ねとか言ってるけど、あんたらだって自分がその立場になる前は、その立場の人を助けようとかしてなかったんじゃないの。
他人を助けなかった人たちが、自分が困った時には助けてほしいって、図々しくない?
まあ、助けを求めるのは自由だけど、過去のあんたがそうであったように、俺もあんたの窮状に興味はないよ。
こういう狭量が社会を良くしないのは判ってるけどさ、
こういう人たちを助けるのが社会を良くするとも思えないんだよね。
こうやって理屈をごちゃごちゃこねている人は、 その理屈で救済対象としている人に相手側が入ったところで、また理屈をこねて救済適用外にされるだけ フクシマの時の農家を見てれば.
こういうのは考え方とかではなくて生まれつきらしいぞ
利他の精神が生まれつきあるないがあるんだと。下記の遺伝子による関与が本当に正しいかはさておき、
rs4680
https://www.snpedia.com/index.php/Rs4680
いろんな研究で利他の精神のあるなしは “生まれつき” って言われている
○ その親切な行動、50%が遺伝!?
あなたはどのくらいバスで席を譲ったり、募金をしてますか?「親切さ」にも様々ありますが、今回ご紹介するのは見ず知らずの人に対しての親切さ(利他的行動)です。
バスでお年寄りや妊婦さんに率先して席を譲る人もいれば、寝たふりをしてしまう人もいますよね。
見ず知らずの人にどのくらい親切に振る舞うのかには、大きな個人差があります。これは、生まれもったものなのでしょうか?それとも、成長の過程で身に着けるものなのでしょうか。
研究によると、見ず知らずの人に対する親切さは、50%が遺伝要因による先天的なもの、50%が環境要因による後天的なもので形成されているそうです。
他人に対する考えや行動も遺伝するの!?と驚くかもしれません。しかし、他にも「他人に共感する(empathy) 」は、70%が遺伝要因によるという報告があります。
研究の結果、ドーパミンの代謝に関わる「COMT遺伝子」のrs4680というSNPが「G」である人は、「A」である人よりも、自分が持っている金額に対して高い割合の金額を募金する、つまりより親切に振る舞うと分かりました。
というSNPにはGG,GA,AAの遺伝子型がありますが、日本人平均と比べると
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なんか社会問題とかで「助けが必要、支援が必要、保障が必要、健康で文化的な最低限度の生活」って話が出たときに、
「そうだよなあ」と思う事もあれば、「その人たち助けなきゃダメ?」って感じる事もあるので、
少なくとも積極的に助ける気が起きないパターンを言語化してみる。
勉強頑張って、就職頑張って、仕事頑張って、それでも苦しんでる人なら、助けようって気にもなるけど。
自分が頑張って勉強して大学出て、頑張って就職して、頑張って仕事してるのに、
ろくすっぽ勉強しないで高卒→フリーター→無職コースに乗ったような人たちを、なんで救わなきゃならんのよって気分になる。
■2:見え見えの罠に嵌った人たち、判り切った結末に陥ってる人たち
震災みたいにどうしようもない理由で被害を受けた人たちなら、助けようよという気にもなるが、
あまりに判り切ったリスクでドツボに嵌った人たちを助ける気はちょっと起きない。
貯金してなきゃ、何かあった時に詰むのは目に見えてるだろ。
1人で子供を育てる事になったらどんだけ苦労するかなんて、ネット上に幾らでも情報あるだろ。
絶対もうかる話なんて、あるわけないの判り切ってるだろ。
なんで見え見えの落とし穴に自ら突っ込んでったの。
そんなもんで苦労してる人たちを助けてたらキリがないわ。考えなしの尻拭いをなんでこっちがしてやらにゃならんのよ。
■3:他人を助けなかった人たち
日頃恵まれない人のために募金でも署名でもしてるってのなら判るけどね。
自分の窮状をアピールしてる人たち、あんたら他人が窮してた時にどんだけ助けたの。
日本死ねとか言ってるけど、あんたらだって自分がその立場になる前は、その立場の人を助けようとかしてなかったんじゃないの。
他人を助けなかった人たちが、自分が困った時には助けてほしいって、図々しくない?
まあ、助けを求めるのは自由だけど、過去のあんたがそうであったように、俺もあんたの窮状に興味はないよ。
こういう狭量が社会を良くしないのは判ってるけどさ、
こういう人たちを助けるのが社会を良くするとも思えないんだよね。