はてなキーワード: ユニセックスとは
『万物の黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的に冒険的で実験的なものであり、自由と平等の呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである。歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつの体制から抜け出せなくなっており、その理由を理解しようと努めなければならない。
これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たちの人間性を規定する政治的本能や社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先が平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。
彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類は歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせや虐待、支配も実験しただろうと主張しているようだ。
G&Wは、私たちが革命の過程で社会的、道徳的に人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間の言語、意識、親族関係、道徳は漸進的な進化の過程で進化し、それが巨大な社会的・政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間は本来利己的で競争的だから社会主義は不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的な偏見に挑戦することであった。
私はいつもこう答えていた。そう、私たちは類人猿の一種である。そう、私たちは霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的な本能を持っている。しかし、それが私たちの成功の原因ではない。優秀な母親や父親になる能力、自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力、道徳的なルールを確立する能力、他人が自分を見ているように自分も見ている能力、音楽、ダンス、言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命の産物であり、成功した革命なのだ。
この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファー・ボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスとジェンダーの力学についての言及を一切省くことで、政治的な観点から安全策を講じた理論のバージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスなバージョンなのである。
ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的な競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者を支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下からの集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団を支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たちの祖先のチンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観にコミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである。
G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑、羞恥、遠ざけ......他の霊長類に類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団で採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術が進化の過程で人間の本性を形成する上で重要な役割を果たしたという考えである。
ボームの説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類は基本的に平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)
唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉は引用に値する:
ひとたびどこかのバンドが平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的な拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)
これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類は基本的に平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつの特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである。
かなり不当なことに、『万物の黎明』は現代の進化論を社会進化論と混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀の物語である。ダーウィニズムは科学的であると私たちは語り聞かされるが、実際は純粋な神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類の起源に関する視点を、読者が真剣に検討することを期待している。
この著者たちが認める唯一の科学は「考古学的科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物の黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。
このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術と象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近の証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ、幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端のダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学、儀式の実行パターン、性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.
残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間の本能と心理の形成における集団的育児の重要な役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別な神話を「重要なもの」と表現している。そして、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、このような洞察は部分的なものにしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話に疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディの画期的な研究が、私たちの共通のミトコンドリアDNAの祖先の年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに、人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
中石器時代や新石器時代の考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽や言語に対する生得的能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!
タイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『万物のティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期のフランスとスペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学が面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。
G&Wにとって、狩猟採集民の祖先がアフリカでもっと早くから平等主義的なライフスタイルを確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。
つまり、狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間の文化的・知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。
ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的な抵抗が狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型であると結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立を有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベルの政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいかに危険かを理解する知性があると彼は説明した。
しかしG&Wによれば、富の不平等は問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀にヨーロッパの「文明」を批判したファースト・アメリカンのカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初のアメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。
G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:
こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉が示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等は本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?
どんな未来?アフリカの狩猟採集民からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代の都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。
はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的、政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。
(続く……)
ポワーブルノワール
その時の感想
良い香り
エレガント、確かに
まあ悪くない
つけて気持ち悪くなったりもしないし
コレクションノワールで体調悪くなるものは無いな、一方でマタンセレクションは自分にはイマイチな感じ
マタンは香りの好き嫌い以前に合わない、どれも何か香りが強くて気持ち悪くなる
その後、いろんなレビューを読みつつ
今回、再度つけてみた
え、いいんじゃない?これ
エレガントで爽やか
レビューにあった、スポーティで爽やかで別ブランドにいくらでもありそう、よくあるメンズ香水感というのは今回すごく納得
けど、つけてて気持ちいい
たしかにメンズ寄りの香りだと思うけど、ユニセックスで使える感じ
日本の夏にも使える感じではないだろうか
胡椒というのはちょっと自分にはわからないけど、ほんのりスパイシーなのが胡椒から来てるものなのか
レビューのSafe, Safetyという表現、癖もなくて万人受けといったところなんだろうか
その通りだと思う
これがブランドイメージで期待するものから外れたという理由で酷評されるのがとても残念
うーん、ちょっと疲れてきた
嗅ぎすぎたせいもあるけど
甘さが欲しい気分になってる
NYでは「オールジェンダートイレ」が当たり前? 日本人が知らない世界の新常識
https://telling.asahi.com/article/13083290
ニューヨークの公共の場から、女性用、男性用を示す見慣れたトイレのサイン(絵文字)が消えた。代わって現れたのは、「All Gender」(すべての性)、「Gender Neutral」(性的に中立、性別不問)などと書かれたサインと、男女混合のトイレ待ちの列。ニューヨークではオールジェンダートイレ(ユニセックストイレ)がスタンダードになりつつある。
人権意識の高い国から順にトイレはジェンダーレスになってるんだよね。
女性だけがトイレに長い列をつくる、差別的な扱いを解消するには、トイレをジェンダーレスにして、男女ともに並ばせるのが手っ取り早かったというわけ。
香水名オンリーのラベルでもしや無許可なのかと思ったが、某サイトの量り売り用のアトマイザーと同じデザインでホッとした
もしかして元から煮詰まるというか、時間が経って香水が濃くなっていたのかもしれないが、だとしても強い香りだ
ユニセックス向けの香水といいつつもメンズ寄りなので、試しに夫につけてみた
体臭の成分か体温か、なにが理由か分からないけど、男性がつけた方がいい感じではあるようだ
もっと薄めれば自分で使うのにも違和感なくなるかな、とさらに無水エタノールで希釈
だいぶ薄まった、元の50倍くらい薄めたかも
2-3mlほどのアトマイザーボトルの底に薄く残っていただけのものを、ボトルの満タンくらいにまでアルコール入れて希釈したから
風呂場の空間に向けて試しに2プッシュしたら、強すぎずいい感じに香っている
さらに精製水で希釈してルームスプレーとして使うとかでもいいかも
洗面台のシンクにひとふきすると、ふわっと香って良い
清潔感がありつつちょっと贅沢な香りで、ちょっとお店のパウダールーム感もありなかなか
まあわざわざお高い香水でやることではないけど
メンズ向けはやっぱり男性が合うんだなあと思いつつ、他にもあれこれつけては合うか試していた
ユニセックスで自分でも使っているものもいくつか試したけど、自分で使ってる時とまったく同じ香り立ちで、これなら自分で使うわという感じ
つける人によらず一定の香りがするのは完成度高いと思う一方で、誰かがつけることで香り立ちが変わるというのも案外魅力的なことなんだなと思った
ということで人に(主に夫に)つけてもらってこそ良い感じ、みたいな香水をぼちぼち探してみたい
世の中によく売ってるタイプのポロシャツは男性向けに作られている
女性のために作られた女性向けの形のポロシャツは当たり前だけど女性に似合うよ
幼稚園や保育園、小学生の制服が白の無地ポロシャツのところがあるけれども、やっぱり髪が短い男の子にポロシャツはよく似合う。女の子だったらショートヘアの子はポロシャツが着こなせる
ロングヘアの女の子らしい女の子は丸襟のボタンが花の形になっているような女の子向けのブラウスのようなデザインのポロシャツがいいと思う。
ブラウスのような女性向けの形のポロシャツって実店舗では見かけない
よくあるタイプの男女兼用デザインのポロシャツで女性が垢抜けってむずいね。女性がおしゃれのためにポロシャツを買って着たら「介護職員の制服のようだ」と言われることもあるようだ
今日は用事があったし、そもそも担当もいないから2日目共々、元々現地も配信も申し込んでなかった。帰ってきたらトレンドに担当のユニット曲名があり、確認したらとても解釈違いなことをされたとわかった。
私はデレP(デュンヌ)である。ミリシャニMそれぞれ遊んではみたものの、性に合っているのはデレだけ。765はリアタイでアニメ→映画鑑賞まで。てかそこからデレにいったわけで。
昨年バンナムフェス2ndも楽しかったし、今回の公演も円盤が出たら買うつもりだった。ポプマスも好きだった。ノマカプに抵抗がないので、流れてくる程度の越境漫画は普通に読めてた。
そもそもリアルの女性アイドルオタクなので、お互いの曲をカバーするだの、メンバーシャッフルするだのは特別だし貴重で、大好物。その子が担当した歌割に勝手に意味深なものを感じて考察しちゃったりしてさ。デレのjewelrysも大好き。
でもさ、男が『Tulip』は違くない?
あれって女子が歌うからいいんじゃん。女の子の恋の駆け引きじゃん。ユニセックスな歌詞じゃないよね?
他で例えるなら、『「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?』を男にカバーされたようなもんだよ?
担当の大事な歌を、只々セクシー全面にしてるキャラに歌われてとても気持ちが悪い。なんでそこ選曲した。別の曲ならこんなこと思わなかったと思うから、そこは私が歪んでるんだろうな。
これまでの人生、腐ってるときも夢女してるときも地雷なんてほぼなかったし、同担拒否なこともなかったから、自分が今こんなにも嫌悪感を抱いてしまったことに戸惑ってる。
普通に既婚者なので男が嫌いってわけでもない。
男女問わずFFの人絶賛してるし、曲名をミュートしちゃったら本来の意味での情報取りこぼしちゃうからやりたくなくて、とりまここに書き捨てる。
アプデ(アップデート)
ウルセ(ウールセーター)
エアプ(エアプレイ)
キャトミュ(キャトルミューテーション)
ジェッコ(ジェットコースター)
ジグパ(ジグソーパズル)
チムワ(チームワーク)
トマジュ(トマトジュース)
ヌドシ(ヌードシーン)
ノーリ(ノーリアクション)
ヘドフォ(ヘッドフォン)
ホムパ(ホームパーティー)
マグカ(マグカップ)
マドサ(マッドサイエンティスト)
ミロビ(ミロのビーナス)
メンシ(メンバーシップ)
モタショ(モーターショー)
ヤーポ(ヤード・ポンド法)
ユニセ(ユニセックス)
ヨシャテ(ヨークシャーテリア)
レサパ(レッサーパンダ)
ロルキャ(ロールキャベツ)
ワイグ(ワイングラス)
性別にあった服を着せろと思う
それぞれの家庭の方針があるから、私が書くことは個人の主張でしかないが
兄がいる妹の服が上から下まで男児服で「はぁぁぁぁ~女児服着せろよ~上から下までお兄ちゃんのお下がり着せてんじゃねえよ~」と思った
妹自身が好んで男児服を着ているならいいんだが女児には女児のための服を着せるべき
幼児に性別にあった服装をさせると、初対面の人間が見た目で性別を判断できるから便利だし
子供本人もあとでアルバム見返したとき自分とは違う性別の長子のおさがりばかり着せられている姿を見れば
「あぁ、親は節約のために自分の服を買ってくれなかったんだ」と思う
姉弟のきょうだいで、親は姉に着せる服を黄色や茶色にしているというブログを読んだ
弟に着回しても違和感のない服を選んで姉に着せているんだ
せっかく女の子なんだからピンクとかリボンとかフリルとかかわいい服を着せなさいよ!
みたいな感じで