はてなキーワード: 韓国人とは
日本の若者が韓国コンテンツに夢中だろうが何だろうが、あの国との断絶は既定路線なのは変わらない、というかエンタメ関連は基本国家間の関係に大した影響は与えないものなんだが、その辺の認識が何だか俺と違うような。。。
向こうじゃ任天堂(半島併合時代から存在する会社)のゲーム機は大人気だし、鬼滅の刃の映画もヒットしてるけど、政治レベルじゃ日本敵視はますます酷くなってるのは知ってるだろ?
こないだの向こうの知事選とか「あの候補は靖国神社の近くにマンションを持ってるぞ!」なんて批判がまかり通ってたし(笑)
ネットの世界における日本人には、近頃の事件で愛想がつきました。
外観や趣味を揶揄して罵倒する書き込みがブログや動画サイトやSNSに対して行われているのを目撃しました。
不正ダウンロードのように法律の一線を超えている人や少し前の水戸駅や清洲駅のように常識の一線を超えている人ならともかく
話はかわりますが、
なぜ日本のネット市民の中でも特に5ちゃんねるのなんj系は、近年よくオタクや障碍者や外国人たちを差別、中傷するのでしょうか?
現実のもののようになっていると切実に感じるようになりました。
電話中の会話の中での話ですから、何?という感じでいましたが、
在日韓国人の知人は
「日本はまるで軍事政権だったころの韓国のようだって外国では思われてるよ」と言っていました。
日本はもっと多様性に優れた経済も心理的にも裕福な国だと思っていましたが、
それは表面上のものですね。
ネットで日本の人と会話しているとまるで、今の愛国心の強い中国人や昔の韓国人と会話しているみたいです。
今の日本のネット空間では、外国では当たり前のように文化視されているような文化も、
価値観も文明も私が日ごろから大事にしている人間性まで否定されます。
・物心ついた頃には、耳掃除で右耳左耳で聞こえる音が違うことに気がついていたが、右が先天性か1才未満で完全に失聴していると分かったのが20才。就学時健診は「多分ルールがわかっていないんだと思う」学校のは不運にも病欠してた。
・保育園に鼻水垂らして廊下をふらふら歩いてる子がいるとか、足が変な方向に曲がってる子がいるなあと思っていたが、それを障害(者・児)と呼ぶと知ったのが小1。
・本来読まないような読み方の、変わった名前の同級生がいるなあと思ってたけど、小4の時ソウルオリンピックがあるまでその子が韓国人なことがわからなかった。
・中1の入学式で小学校の同級生がいない理由を人に聞くまで、小中学校にも私立があるのを知らなかった。
・とある高校に行きたいと小学生の頃から思っていたので、自分が住む市内も含めて、他の高校の名前と場所を一切知らないまま志望校に入ったので今も知らない。
・同和問題は小学生の時学校で教わったが、自分の市にあるのは知らなかった。どうもみんなは知ってるらしいと気付くのは成人してから。
韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督の2020年の作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である。
描かれる時代は、アジア太平洋戦争で日本帝国が敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争の責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去を清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。
その標的はまず、戦前は絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前・戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。
戦後日本を象徴する言葉は、長いこと、「平和と民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。
天皇の戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年→1945年)アジア太平洋地域で戦争を続けた近代日本の実像を覆い隠し、この戦争の全体像を、最後のわずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島・長崎の「悲劇」を前面に押し出し、米軍占領下の沖縄は辺境ゆえに無視して、日本全体があたかも戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦・平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。
1960年の安保闘争の時にも、1965年の日韓条約反対闘争の時にも、戦前の日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在を分析する言動はほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会は総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。
1960年代後半、この社会・思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長の過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長の最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。
時代はあたかも米国のベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島に輸送される米軍物資の調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジアの民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。
加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人や先住民族(インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配が人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。
「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本の近代史と現在が孕む問題群に、「民族・植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。
「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み
「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計』から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日、東京・丸の内の三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。
「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係な一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーションで流れる。
多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。
その責任の一端が、「反日」そのものの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。
画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊の大道寺将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係も自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶と悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。
映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えのなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。
「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画を制作したのは、韓国の映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画を制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議=編『支援連ニュース』420号、2021年3月6日)。社会的正義のために、加害国=日本に搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日」メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。
だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品の制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場用パンフレット所収)。
74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本の自分たちが戦後の「平和と民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本の植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。
そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現と言論の自由を獲得した韓国の新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画が日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本も韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援連ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。
最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性の存在だと思われる。
刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たちの闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。
キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。
死刑囚の獄中書簡集を読んで、あんな事件を引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつうの青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑囚である義兄とは、媚びへつらいのない、上下の関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。
そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督も女性だ。弱い立場にある労働者の現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規の女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこの作品に脈打っていたフェミニズムの視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。
慶應を性犯罪と結びつけて揶揄するのはてな的にはオッケーなんだ?まじで一貫性ないよなお前ら。韓国人は性犯罪者の宝庫と書くアホとお前は何が違う?
こういう感じのブクマが最近結構星を集めて上位ブクマにはいって目立ってるのをよく見かける。それは別にいいんだけど。
こういうブクマがトップブコメに入ってくることである種のパラドックスが自然発生していてそれが面白い。
上の例で説明すると、
「慶應を性犯罪と結びつけて揶揄するのはてな的にはオッケーなんだ?」
という問いに対してブクマした人はたぶん答えが返ってくることは期待していないんだけど、沢山の人がスターをつけることで、はてなの不特定多数がこのブコメに賛同していることがわかる。
ちなみに今の時点でこれより上のトップブコメには慶応揶揄は見当たらない。
上位ブコメははてなの総意だとまでは言わないけど、はてなの多くの人は「慶應を性犯罪と結びつけて揶揄するのはてな的にはオッケー」ではない、ということになってしまう。
なぜならばスターをつける人はこのブコメに賛同してスターをつけたばずであり、であるならば「慶應を性犯罪と結びつけて揶揄するの」を批判的にとらえているからである。
ということは、しかし文字通りのブコメの意味はこのブコメがトップブコメに食い込めば食い込むほど間違いになってしまう。なのでブコメにスターをつける人はブコメに賛同しているはずなのにスターをつければつけるほどブコメの内容は間違いになっていくように見える。
https://www.dailyshincho.jp/article/2021/03250601/?all=1&page=2
安倍前首相が昨年8月28日に辞任したのは持病悪化によるものではあったが、いずれにせよ“絶対悪”の退場は、韓国人の中である種の“やり切った感”が生まれたことは否定できない。
韓国のある新聞は、菅義偉首相の就任時、車椅子に乗った首相の風刺画を掲載していた。病気をあざ笑った極めて差別的な表現と言う他ないが、韓国人が安倍前首相を脅威だと捉え、菅首相のことを“それほどではない”と見ているとみなしうるものだった。
これが不買運動が沈静化した一因だと言えそうだ。
だいたい分かっていること:
日本はandroidとwindowsのエンジニアが少ない。一方でGalaxy大国の韓国はandroidのエンジニアが日本より見つけやすい。この構成は納得できる。
コードを実際に書いている人で日本人はかなり少数派。中国人、台湾人、韓国人、タイ人が多い。メンバーに日本人が多いが、contributorsを見て実際にコード書いている人間は日本人は非常に少ない。
バグ解析をするため、海外の開発者は本番サーバにアクセス権を持たざるを得ない。
LINEが純国産アプリというアピールは完全に間違っている。今の時代、どこの国で作ったソフトウェアかはあまり問題ではないが、嘘はよくない。純国産アプリをアピールするのは倫理的には間違っている。
だいたい分かっていること:
日本はandroidとwindowsのエンジニアが少ない。一方でGalaxy大国の韓国はandroidのエンジニアが日本より見つけやすい。この構成は納得できる。
コードを実際に書いている人で日本人はかなり少数派。中国人、台湾人、韓国人、タイ人が多い。メンバーに日本人が多いが、contributorsを見て実際にコード書いている人間は日本人は非常に少ない。
バグ解析をするため、海外の開発者は本番サーバにアクセス権を持たざるを得ない。
LINEが純国産アプリというアピールは完全に間違っている。今の時代、どこの国で作ったソフトウェアかはあまり問題ではないが、嘘はよくない。純国産アプリをアピールするのは倫理的には間違っている。
だいたい分かっていること:
日本はandroidとwindowsのエンジニアが少ない。一方でGalaxy大国の韓国はandroidのエンジニアが日本より見つけやすい。この構成は納得できる。
コードを実際に書いている人で日本人はかなり少数派。中国人、台湾人、韓国人、タイ人が多い。メンバーに日本人が多いが、contributorsを見て実際にコード書いている人間は日本人は非常に少ない。
バグ解析をするため、海外の開発者は本番サーバにアクセス権を持たざるを得ない。
LINEが純国産アプリというアピールは完全に間違っている。今の時代、どこの国で作ったソフトウェアかはあまり問題ではないが、嘘はよくない。純国産アプリをアピールするのは倫理的には間違っている。
僕のアパートは繁華街からほどない、公園の近くにある。ポケモンスポットだ。人様のご飯に関わる仕事なので自分の食事はいつもアイドルタイムになってしまう。飲食店は開いていない。15時頃に昼食を取ろうとすると繁華街では弁当屋しかない。僕の使ってるところは250円から選べてなかなか美味しい。公園のほとりにあって、夜は居酒屋なのだけど昼は座敷に弁当と電子レンジを並べてる。
そこの店番の女性が突然だ、
とテレビ見ながら言うのね。笑いながら。
2回目は頭くるよね、喧嘩売ってるやん?
3回目から何も感じなくなった。あー、この人は全部そうなんだ。日本人嫌いなんだ、そーなんだ。
ファッションチェック見ながら「日本人頭おかしーよ」ニュースで老人がプリウスを暴走させてて「日本人頭おかしーね」
いつ来てもテレビ見ながらずっと言ってる。
オバチャンに半熟卵ちょうだいって言うと「日本人は生卵好き、お腹壊すよ、日本人は頭おかしいよ」と言いながらくれる。なぜ、そんなに日本人嫌いなのか聞きたい。
なぜ満面の笑みで僕にそれを言うんだ?俺は日本人だぞ、、、
この店は韓国料理の個人料理店である。夜はなかなか評判の本格派だ。韓国人が作ってる。新鮮なタコとかカニのキムチとかどこにも真似できない美味い店。しかし昼の店番のこのオバハンは多分フィリピン人である。おそらく夜のチームとは関係がない。
おかげさまで生のヘイトに毎日、毎日晒される羽目になってしまったのだが。そうかもな、日本人おかしいのかもな、と思う節も多々ある。
って、いうかこのオバハンは何人なんだコンチクショわさ!と思っているが。こいつが何人か知りたいのは良くないから聞いていない。まあ多分フィリピン。
それはさておき昔、むかし、日本語ロック論争というのがあって「日本語歌詞はロックに合わない」という人たちが、あーだこーだ言ってました。結局、そんな人たちは消えてしまったけど。
理由は日本語歌詞のセンスがなく、かっこ悪かっただけで、日本語でも日本語詩として成り立ち、音に合う歌詞を書けば恥ずかしくもない歌詞が書けることを周りが実証したから。
①日本語が甘い
③聞いててこっちが恥ずかしくなってくる
さて、好きな韓国アイドルグループがある。韓国人が多いが、英語や中国語を喋れるメンバーもいるので割りとグローバルだと思う。日本のファンも沢山いる。
彼らのことは大好きだ。セルフプロデュースと銘打って、ダンスの振り付け、作詞作曲等、プロと力を合わせて彼ら自身でコンテンツを作っている。まじアニメなんじゃないの?ってくらい凄い。そして日本を愛してくれている。韓国というとやはり反日教育だとかあんまり良い噂は聞かないが、がんばって日本語覚えてくれたり、アプリの生放送中に流れた簡単な日本語をさっと読んでくれたりする。ちなみに日本で流行ったバブリーダンスをライブで披露してくれるファンサービスなんかもあったりした。すごいな。
しかし、もう日本語で歌わなくていいよ、と言いたい。頑張って日本語でシングルを出してくれる。それも一度きりじゃなくて、何度も続けて日本語verで歌ってくれている。これは本来ならやらなくて良い行為だ。いつも母国語の韓国語で歌ってるのを買っているから、別にわざわざ日本語で歌わなくたって大丈夫だよ。
彼らは、レコーディングのチェックも彼ら自身で行う。作詞作曲をする韓国人アイドルメンバーが、プロデューサーのように指示を出し、確認する。ここで驚きなのが、日本語のチェックも韓国人がやるのである。そうとう日本語を勉強してくれているのは痛いほど分かるし、ありがたい。でも、やはりネイティブではないので、日本語を母国語とする私が聞くと、失礼だが恥ずかしくなって聞くのをやめてしまう。典型的な例をだすと、日本語の「ツ」がほとんど「チュ」になってしまう。韓国人の話す日本語モノマネでよく見ると思う。
そして外国語だと大体意味が分からないので、どんな内容かあまり理解せず聞くことができる。洋楽などもそうだが、意味が分からないから良いのである。彼らのキャッチーなメロディーの歌詞を和訳した字幕がYouTubeで出るのだが、結構日本のアイドルとそう変わらないチープなことばかり書かれていてがっかりした。それから私は歌詞の日本語訳は見ないことにしている。だって大体「君が好きだ」とか「落ち込んだりすることもあるけど前を向こうよ」とかありきたりなのである。あと日本語訳が単にださい。外国だからもっとカッコイイこと言ってるんだろうなという幻想を保つため、歌詞は見ない。MVとコンセプトだけで十分だ。
ただ感動したのが、韓国人、中国人、アメリカ人がいるこのグループで、日本語verの冒頭を歌うのが中国人だったということだ。冒頭の歌詞の四文字目に日本語の「ち」があるのだが、中国人の発音は素晴らしかった。日本の溶けるような柔らかい発音だった。
あとラップは日本語と相性が良くない。刺すような鋭さがあるラップが好きなのだが、なかなか日本語だと難しい。もちろん日本でもラップ文化はあるし某ラップアニメは目の付け所がシャープだなあと思う。
わざわざ日本語で歌わなくても買うんで、歌いやすい言葉で歌ってくださいな、という感想。