はてなキーワード: 青春とは
CMが怖い・キモイことで有名だった時代もあったが、今ではもうすっかり忘れ去られた存在だ
当時小学生だった俺は、友人らとマジック・ザ・ギャザリング(MTG)というカードゲームにハマっていた。
※今思えば、小学生がやる遊びにしては絵柄が渋すぎる
俺の地元は田舎だったから、MTGが買える店は自転車で30分かかるエマーソンくらいしかなかった。
ちなみにエマーソン自体は家庭用ゲームソフト全般を扱う店で、カードゲームはおまけ程度の扱い、が一般的だったと思う。
ただ、俺たちが通ったエマーソンはなぜかMTGのラインナップが凄まじく、最新セットからニッチでレアなセットまでなんでも扱っていた。
なので、俺たちガキどもは親からお小遣いをもらえるたびにそのエマーソンに通い、その場でパックを開けては当たったカードについてギャーギャー騒ぐので、いつしか店長と顔見知りになり、そして友達になっていった。
店長はMTGの愛好家だった。本当にMTGが詳しかったし、MTGのことが好きだったんだと思う。店長は俺たちにとって尊敬の存在だった。
MTGには英語版と日本語版があり、当時は英語版の方が数十円安かった。
小遣い節約のため読めないくせに英語版を選んだり、ふざけて謎に古いセット(英語版オンリー)を買ったりするときもあった。
そんなバカな小学生のために、引いたカードの能力・強さ・資産価値を店長が全部解説してくれた。
あの時俺がいきなりForce of Will(ざっくり言うと高額レア)を引き当てたときは、店長が一番驚いていたと思う。
エピソード2。
店が暇そうなときは、よくレジ横のカウンターでおしゃべりをしたり、作ったデッキの腕試しに対戦してもらったりした(店に他にお客さんがいても俺たちが一方的に話しかけていたのかもしれない)。
大人vs子供だから今思えば相当ハンデしてもらってたはずだけど、それでも店長はとても強かった。勝った記憶はない。
エピソード3。
バックヤードから、昔の写真アルバムみたいな分厚いレアカード保管ホルダーを何冊も出してくれて(今思えばなんでそのコレクションを職場に置いてたんだろう、単品で売ってたとか?)、小学生には強さも価値も分からないようなカードの数々を惜しみなく見せてくれた。
そんな感じで店長との交流はしばらく続いたけど、特になにか理由があったわけでもなく、店には通わなくなっていった。
さらに中学に上がってからは、ライフスタイルや価値観が大きく変わってMTGよりも大事なものが増えていき、ますます足が遠のいていた。
MTG自体は中学2年生のころまでぼちぼち遊んではいたけど、この頃のエマーソンの記憶は全くない。
もしかしたら、この時既にエマーソンという店自体がこの世からなくなっていたのかもしれない。
そして、エマーソンが完全に消えてからは当然店長との縁も途切れて、それきりとなった。
あの頃の楽しかった思い出は一生忘れないだろうし、店長もあの頃の俺たちのことを時々思い出してくれていたら嬉しく思う。
店長は今どこで何をしているんだろうか。名前は当然わからないし、顔・年齢も今となっては最早あやふやだけど、元気でいてほしい。
最高に旨いんだが、なんなんだ
今までパラパラにするためにやれ「冷や飯を使え」「炊き立てが良い」「炊くときに油を入れろ」「水加減を少なくしろ」「フライパンをガンガンに熱しろ」「卵でコーティング」etc...etc...etc...
巷にあふれ返る「米をパラパラにするエトセトラ俗説」に振り回されて、それでもダマになった炒飯を食べては夜露に袖を濡らしまくってた
そう全ての日本男児には炒飯を人よりも上手く作ることに対するマウンティングスプラッシュ(人よりも優位に立った時の気持ち良さで絶頂しちゃうこと)が存在しパラパラの炒飯を作れる奴には中国の特級厨師がごとくの眼差しが向けられるんだが
それらの努力全てがタイからやってきたチート米によって粉々に砕かれた
ガパオ用に取り寄せて、くっそ雑に茹でて余ったタイ米を試しに炒飯に使ったら、なんのセッティングも必要なく米がパラパラになりやがった
一っ粒もダマにならず、スプーンですくうだけでさらさらと零れ落ちていく、最早シルクのような滑らかさよ
とはいえ味はやっぱ日本米だろパラパラなだけで食ってみたら口当たりが悪くて味もそっけもないなんて予想の範疇の上よ
メッサ旨いの
なんていうか軽い、日本米で作ってた時のネバッとした重さが全然ない
あっさりとしてて口当たり軽やかで、皿からスプーンですくって口に運ぶという行為が一切の淀みなく延々と行われる
口の中ではタイ米が「おれなんかしちゃいましたか?」というチート面でかみ砕かれてる
いや、かみ砕く前に喉に流し込まれて言っている
軽すぎて噛む必要もないとすら思うぐらいだ
炒飯って野菜炒めだったんだな、あっさりとしててさっぱりする食後感は野菜を食べた後のそれ
何だったんだ今までの炒飯のパラパラに拘ってきた糞みたいな青春の無駄な時間は、俺はどれだけ無駄な時間を炒飯のパラパラに費やしてきたと思ってるんだ
60km/hで走っていた横を300km/hの超高速スポーツカーにぶち抜かれていった気分だよ
人生で初めて読んだライトノベルはデュラララ!!なんだ。ちなみにその頃は3巻くらいまでしか出てなかったということで年齢を察してほしい。
ギリギリオタクや腐女子が市民権を得始めた(キモオタの声がデカかっただけというのもある)中、その頃流行ったラノベは何も考えず読んでいた。自然と手元に持っていたのでわざわざ考えて選んだりしなくとも同系統の面白いものを嗅ぎ分けていたわけだ。(脳死で買ってた節もある)
親がラノベでも活字は活字だろ、と思うタイプだったのもあり書籍だけは沢山買って貰えたので余計そうだったかもしれない。
当時、ハルヒ派はスニーカー、バカテス派はファミ通、えむえむっ!派はMF、人退派はガガガみたいなゆるく好きなレーベルが偏っていた。GOSICKを富士見ファンタジアで読んだやつはガチみたいなところあったし。
西尾維新が好きと公言してるとややディープなオタクって感じだった。化物語からハマった奴はニワカ扱い。戯言シリーズこそ至高、みたいな。
大学生くらいになるともうレポートやら論文やらで正直娯楽の本はそんなに読んでなかった。文献漁るほうが楽しかったからというのもあるけど、要領悪いから単純に本読む時間とれなくて。
そんなわけで幼女戦記やオーバーロードとかに首突っ込んだのは社会人になってから。もっと早く読んどきゃよかったものを!って思った。超好き。
最近ようやっとまたラノベに戻ってきた。ノゲラ読み直すぞ、SAO読み直すぞ、アルファポリスの女性向けに手を伸ばすぞ、異世界放浪メシ連載版を最新話まで追い、異世界居酒屋のぶをアニメで履修して、映画をやるからと夏トンを手に入れ、同作者のシリーズだからミモザの告白を買った。取次のランキングにずーっといるから異世界ウォーキングも買った。ミミズクと夜の王がメディアワークスから新装版になったので買った。豚のレバーは加熱しろ、がアニメ化するらしいので買った。
おもろい。誰だ最近のラノベはつまらんとか言ってた同輩は。つまんねーのは我々の頭じゃねーか。
ただ売れ筋の雰囲気が変わったのは事実なので最近は現代学園異能バトルの新刊にお目にかかることはあまりない。シャナや上条さんと青春をともにしたオタクはやや寂しく思っている。
医学部の人間は中高で勉強ばかりしてきたので、部活に傾けなかった青春を取り戻そうとして東医体などというシステムが生まれたという言説がある。これには概ね同意できる。
地方公立高校出身だけど、友人知人で医者になったのは体育会系の部活動をして勉強もこなす(或いは、3年になってからスパートをかけて受験をクリアする)のがたいていで文化部帰宅部出身者はほぼほぼいなかった(例外として、吹奏楽・合唱といった音楽系はいた)ので、その感覚は無かったな。都会の私立中学受験組だと事情が違うんかな
適応できなかった人間は部活など時間の無駄、趣味でやるのはいいが神聖化するな、と主張し、部活に心血を注ぐ人間(これは先述のスポーツガチ勢も含む)は部活を楽しめない人間が理解できないと主張する。公的な場ではマイルドに、インターネットではインキャだの脳筋だの酷い言葉で日夜抗争が行われている。
これは過去に投稿した増田の再投稿である。ほぼ内容はコピーしたため過去のものを参照される必要はないと思われる。
大会に関する私見を交えるのを避けるため、前半は事実の列挙に努めるようにする。後半ではさまざまな立場の意見を紹介し、私見を述べる。
みなさんは東医体/西医体というものを聞いたことがあるだろうか?
簡潔にいうと、高校生におけるインターハイ、医学生における東医体/西医体のようなものである。なお、正式名称は誰も知らない。競技レベルに関しては、競技によるところが大きいが、インターハイ出場≒ベスト4は堅い、程度の感覚である。また、以下のような言及も存在する。
https://twitter.com/e_b_megson/status/1549336143526854657?s=21&t=qVeENkfQwVaH1PSO_Mg29g
医学部ではこの大会の存在もあり、非常に部活が盛んである。このため、部活コミュニティを中心とした閉鎖的な社会、厳しい上下関係に横行するセクハラアルハラと問題点は山積みなのだがここでは割愛する。
それぞれの部活はこの夏の大会に向けてそれぞれ熱心に練習を積み重ねているが、コロナ禍で2020,2021年度は中止となっていた。さて今年はどうかというと5月ごろ、感染が落ち着いていたので開催決行の判断がなされた。
みなさんご承知のとおり、それからBA.5の第七波が来て、いま感染者数過去最高を記録し続けている。概ね八月に予定されている東/西医体の開催が危ぶまれる事態となり、先日、開催を検討される会議が開かれるとの通達があった。
競技にもよるが、メジャーな競技はある程度会場を絞って開催される。イメージとしては毎年行われるオリンピックに近い。(もちろん、ウィンタースポーツは冬に行われるし、毎年同じところで開催している競技もある)私は東の人間なので、西の開催地はわからないが、今年の東医体は北海道で行われることになっていた。
そのため、今年は多くの医学生にとって北海道への遠征が予定されていて、多くの部活において飛行機、宿の予約は済んでいると思われる。8月の行楽シーズンということで飛行機代は高騰していて、今から東医体がなくなるというと莫大なキャンセル料がかかることは確実といえるだろう。
開催反対側の意見としては、
・医学生という医療者の卵が感染状況をかえりみずに大型イベントをやっていいのか、非難は免れないだろう。
賛成側の意見としては、
・すでに2年連続で中止しているので、今年も中止したら3年連続となり伝統が途絶え、次の開催も危うくなる。
・他の大型イベントは概ね現段階では決行されている
・現段階で中止しても多くの大会参加者は日程を北海道観光に変更するだけで、感染対策としては全く意味がない。
医学部の人間は中高で勉強ばかりしてきたので、部活に傾けなかった青春を取り戻そうとして東医体などというシステムが生まれたという言説がある。これには概ね同意できる。だからこそ、医学部では中高で存在した部活によるスクールカーストというものが簡易的に再演されてしまう。ここで厄介な点は、中高までは多数(例外としてスポーツガチ勢も無視できないぐらいいる)が勉強に情熱を傾けていた、ということである。この再振分に適応する人間、適応できなかった人間が炙り出され、まことに愚かしくも抗争を始める。これが東医体不要論である。適応できなかった人間は部活など時間の無駄、趣味でやるのはいいが神聖化するな、と主張し、部活に心血を注ぐ人間(これは先述のスポーツガチ勢も含む)は部活を楽しめない人間が理解できないと主張する。公的な場ではマイルドに、インターネットではインキャだの脳筋だの酷い言葉で日夜抗争が行われている。今回のゴタゴタについてもツイッターではこれらが観測できるので興味のある人は見に行って欲しい。私個人としては開催してもしなくてもいいのだが、キャンセル料はかけたくないと考えている。
これを見た増田諸氏はどうお考えになられるだろうか、意見を聞かせていただきたい。不明な点があれば追記する。
・西医体は全面中止となった。
・東医体は理事会(教授たち)が判断を避け、各競技ごとの判断に委ねられている。
医師がイベントを潰しまくった過去があるのは事実である。一年前のロッキンは私にとってもショックが大きかった。しかし医師と医学生は異なる存在で、イベントごとに対する考え方も異なる。彼らの責任を年次が下である我々が背負わなければならないのか?
このような投稿を目にした。
https://twitter.com/dumbbell594/status/1550780775330889728?s=21&t=_1egQ_R8Wmd0T2buuzCT5Q
マシュマロは最後の一文以外は本当にそうで、医学生には一体何をしているんだろうという男性(あまりにも重要、女性は絶対数が少ない、かつ需要がどこにでもあるため活動の形跡がみられる)がかなり存在する。医学部活でもなければ全学のサークルに入るわけでもなく、研究室に所属して研究をおこなっているわけでもない、一体何をしているのかわからないような人間は言ってしまえば"かわいそう"である。
一方、大学で初めてスポーツに触れた人間もいる。これらは練習に熱の入る医学部活においては、早々にドロップアウトすることが一般的である。運動神経がいい、気合が入っているなどの要素があると生き残り、中にはそれこそ東医体で結果を残すまでに至る人もいる。
大会に関する私見を交えるのを避けるため、前半は事実の列挙に努めるようにする。後半ではさまざまな立場の意見を紹介し、私見を述べる。
みなさんは東医体/西医体というものを聞いたことがあるだろうか?
簡潔にいうと、高校生におけるインターハイ、医学生における東医体/西医体のようなものである。なお、正式名称は誰も知らない。競技レベルに関しては、競技によるところが大きいが、インターハイ出場≒ベスト4は堅い、程度の感覚である。また、以下のような言及も存在する。
https://twitter.com/e_b_megson/status/1549336143526854657?s=21&t=qVeENkfQwVaH1PSO_Mg29g
医学部ではこの大会の存在もあり、非常に部活が盛んである。このため、部活コミュニティを中心とした閉鎖的な社会、厳しい上下関係に横行するセクハラアルハラと問題点は山積みなのだがここでは割愛する。
それぞれの部活はこの夏の大会に向けてそれぞれ熱心に練習を積み重ねているが、コロナ禍で2020,2021年度は中止となっていた。さて今年はどうかというと5月ごろ、感染が落ち着いていたので開催決行の判断がなされた。
みなさんご承知のとおり、それからBA.5の第七波が来て、いま感染者数過去最高を記録し続けている。概ね八月に予定されている東/西医体の開催が危ぶまれる事態となり、先日、開催を検討される会議が開かれるとの通達があった。
競技にもよるが、メジャーな競技はある程度会場を絞って開催される。イメージとしては毎年行われるオリンピックに近い。(もちろん、ウィンタースポーツは冬に行われるし、毎年同じところで開催している競技もある)私は東の人間なので、西の開催地はわからないが、今年の東医体は北海道で行われることになっていた。
そのため、今年は多くの医学生にとって北海道への遠征が予定されていて、多くの部活において飛行機、宿の予約は済んでいると思われる。8月の行楽シーズンということで飛行機代は高騰していて、今から東医体がなくなるというと莫大なキャンセル料がかかることは確実といえるだろう。
開催反対側の意見としては、
・医学生という医療者の卵が感染状況をかえりみずに大型イベントをやっていいのか、非難は免れないだろう。
賛成側の意見としては、
・すでに2年連続で中止しているので、今年も中止したら3年連続となり伝統が途絶え、次の開催も危うくなる。
・他の大型イベントは概ね現段階では決行されている
・現段階で中止しても多くの大会参加者は日程を北海道観光に変更するだけで、感染対策としては全く意味がない。
医学部の人間は中高で勉強ばかりしてきたので、部活に傾けなかった青春を取り戻そうとして東医体などというシステムが生まれたという言説がある。これには概ね同意できる。だからこそ、医学部では中高で存在した部活によるスクールカーストというものが簡易的に再演されてしまう。ここで厄介な点は、中高までは多数(例外としてスポーツガチ勢も無視できないぐらいいる)が勉強に情熱を傾けていた、ということである。この再振分に適応する人間、適応できなかった人間が炙り出され、まことに愚かしくも抗争を始める。これが東医体不要論である。適応できなかった人間は部活など時間の無駄、趣味でやるのはいいが神聖化するな、と主張し、部活に心血を注ぐ人間(これは先述のスポーツガチ勢も含む)は部活を楽しめない人間が理解できないと主張する。公的な場ではマイルドに、インターネットではインキャだの脳筋だの酷い言葉で日夜抗争が行われている。今回のゴタゴタについてもツイッターではこれらが観測できるので興味のある人は見に行って欲しい。私個人としては開催してもしなくてもいいのだが、キャンセル料はかけたくないと考えている。
私は統一教会2世として生まれて、成人してから徐々に信仰が薄らいでいまでは信仰は無い。死ぬほど貧乏だったり精神病んだりで色々とツラい思いもした。
だから統一教会とも関わりたくないしたくさん愚痴を言う場所もほしい。
でも、反カルトにも近づきたくない。反カルトの核心に近づけば近づくほど、統一教会信者を暴力的に拉致し監禁してきた「拉致監禁ビジネス」と縁のない者の割合は薄れていく。いまテレビで活躍している弁護士だってかなり怪しい。下の資料は「青春を返せ訴訟」(統一教会を霊感商法関連で訴えた有名な裁判)で原告側代理人だった伊藤弁護士の証言だ。彼が統一教会の信者側に立って証言するのはあまりにも不利益が大きい。それゆえに真実性がある。本当にあの弁護士たちは大丈夫なのか??
http://antihogosettoku.blog111.fc2.com/blog-entry-112.html
相手がいくらカルトであろうと、信者を路上で10人がかりとかで無理やり車に連れ込み、窓やドアも全て南京錠をかけて部屋に閉じ込めて何ヶ月も時には十年以上も監禁するのは、人権侵害以外の何物でもない。
この拉致監禁を直接に実行するのは親族だから、反カルトは「家族との話し合い」などと言うが、近い知り合いに被害者が複数いて内情をよく知っている自分としては、こんなもんは「話し合い」ではなく「拉致監禁強制棄教」としか言いようがない。反カルトの例外的な逸脱でもなく、これが常態化していた。だから、近い知り合いに被害者が複数いるのだ。被害者は数千人に及ぶはずだ。ツイッターでも拉致監禁経験者(統一教会を脱会したから統一教会にも批判的だが拉致監禁にも反対している人達)は探せばいる。
いま話題になっている統一教会関連の学術書を書いている人だって、著書の中で拉致監禁に関与した人物を「脱会カウンセリング」の専門家として紹介している。アカデミアの腐敗もいいところだ。
どうせこの機会に統一教会の闇はたくさん暴かれるからそれはそれでいいのだが、反カルトの闇は放置されるのだろう。
こんな状況じゃ信仰を棄てた2世としては誰も頼れない。正義の味方のふりをしている社会が憎い。
追記1
これは統一教会側の人のブログ記事ではあるけれど裁判資料に基づいているので無視もできない内容。統一教会研究第一人者の櫻井義秀は、「拉致監禁強制棄教」経験者を「自発的脱会者」としてカウントしているという告発。事実なら研究不正。統一教会も関わりたくないが反カルトの欺瞞はもっと気持ち悪い。
http://suotani.com/archives/2198
追記2
拉致監禁されて脱会した人の中には監禁の時のトラウマでずっとPTSDで苦しむ人もたくさんいる。監禁中に脱会説得者(牧師であることが多い)にレイプされたケースもある。餓死寸前に追い込まれた人もいる。自殺した人もいる。人権侵害のてんこ盛りみたいなものだぞ。これじゃどっちがカルトなのかわからない。
中一の息子が牛乳1リットル一気飲みしてお腹壊した理由が可愛すぎる→「青春が眩しくて目が潰れた」「頑張れ息子」
https://togetter.com/li/1916352
「夏休み終わるまでに私より背が高くなったらLINE交換してあげる」って言われた中1息子が牛乳1Lイッキ飲みして腹下してる。ときめきメモリアル前途多難.....。
交換条件を出した元の中学生の発言って「私の連絡先を知りたいなら、身長を高くしてこい」ってことなんだけど、何でこれが青春だのいい話風に捉えられてるわけ?
付き合うとかではなく、LINEの連絡先交換だけなのに何で、そんな無理なことを要求している?
どこぞのゲーマーの「身長170cm以下には人権がないので」並みの発言なのだが?
これ男女逆にしたらどうなるよ?
「夏休み終わるまでに俺より体重を落としたらLINE交換してあげる」って言われた中1娘が無理なダイエットして貧血で倒れた。なんて健気な。お父さん応援してるぞー
ってツイートがあったらこれに「青春だー」「がんばれー」とか付くか?
絶対に「親は止めるべきだろ」「無理しちゃいけない」「ルッキズムが中学生にも!」「交換条件を出す男子許せない!」とか吹き上がるだろうに。
https://www.dailyshincho.jp/article/2022/07131131/?all=1
社会復帰に相当な苦労をした。
助けてくれる外部の者はなかった。
自分こそテロリストだったかもしれないという自我の脆さをかかえながらなんとか
山上容疑者の生い立ちが日々明らかになるのを毎日、胸が張り裂けそうになりながら読んでいる。
「いかなる生い立ちであっても今回の凶行は絶対に許されない。」とか、
「殺人は犯罪」。そういうルールがあるのは、誰だって知っている。
しかし容疑者が殺人を犯さねばならないほど追い込んだのは、社会の側なのである。
無力な子供をこんな目にあわせるのは絶対に許されないことなのだ。
それを黙認してきたのも社会。
ここ数年ずっと観察してきたTwitter界隈に「筋トレ女子の自撮り」という界隈がある。
彼女達は筋トレをした部位の説明とともにその部位がバンプアップしていると書きながら
お尻や太ももを見せてくれる。
時折彼女たちは背中を鍛えて事の報告とともに上半身裸体の後ろ姿を見せてくれた。
女性の性欲とは周期的なものだと知ったとき、合点がいった気がしたが
ウエイトトレーニングとはトレーニング→回復→トレーニングを周期的に繰り返すものであり、
邪推などはしてはならんとすぐに反省し彼女たちに心の中で謝罪した。
この界隈に私がたどり着いたとき彼女たちは皆黒髪で顔をスタンプやマスク、スマートフォンで隠していた。
彼女たちの肌感はアラサーの若さと青春をうしないつつある儚げさを感じさせた。
その美しさになんJでいうところのBBA先輩に対するバブミのような劣情を感じずっと鑑賞をしてきた。
筋トレしているジムを特定されないように、ウエイト器具にまでモザイクをかけているものまでいた。
それは現実世界とインターネットの世界を絶対に繋げぬという確固たる意志であり一つの表現だった。
若娘が増えてきたのである。
彼女たちは平気で素顔をさらし、合トレと称しフォロワーと会いその様子を写真でUPする
肌はみんな綺麗だ
そして、みんな高学歴
ずっと自分はこいつらインスタとかTikTokで相手にされなかったからこっち来ただろ
だが彼女たちはインスタにも垢あってそっちもちゃんとインフルエンサーなのである。
インスタにもTwitterにも多くのファンがいて彼らと楽しそうに交流している。
それ以来若い美しい彼女たちを性的な目で見ることができなくなってしまった。
そしてこの界隈を覗くこともめったになくなってしまった。
ふと投稿がなくなってしまった「黒髪で顔をスタンプやマスク、スマートフォンで隠した彼女たち」の
もちろん更新はない。
人間が夜空を最も美しく感じるのは10歳のときで、それより歳を重ねると霞んでいく一方だという言説をどこかで読んだことがある。ふと思い出していくつかの言葉の配列を用いて検索してみたが、原文は見つからない。私の願望なのかもしれなかった。
高校に入学して初めての夏休み。昼下がりの会食を済ませたあと、中学時代の友人と共に町を歩いていた。田舎の道路は全ての人にとって旅路の通過点に過ぎない。当然私たちにとってもそれは同じだったが、朧げにしか意識しなかったし、その必要さえもなかった。畑に埋め尽くされた景色の中で、過剰に舗装されたアスファルトの黒さが不釣り合いに見えた。
会話の間隙にそれとなく見上げた夕焼けの赤に瞼の裏がぬるく解けて、いやに清々しくなって、言葉を失った。そんな気持ちになるのは生まれて初めてのことだったから、これが青春とかいうやつなのかなとか、半ば冷笑的に黙考した。その場には笑い声だけが響いていた。気づけば私も笑っていた。
ある状況の渦中にあることを認識するためには、そうではない状態を知覚する経験が不可欠だ。だから、ある幸せが存在することに気づくのは、消失へと向かうスペクトラムの萌芽に足を踏み出すのと同義なのである。
歳を重ねると空や海に涙が零れるようになることだけは知っていたけれど、あの冷えた幸せに終点があることを想像するには私たちは若過ぎた。
17歳の秋に、初めて翡翠の水平線を見た。修学旅行の2日目、沖縄の海だった。バナナボートに乗る同級生を尻目に、アトピー性皮膚炎のある私は象牙色の大粒な砂浜をひとり散策していた。平坦な床を歩くことに慣れた私には、踏み込むたびに不規則に崩れる足場が新鮮でたまらなかった。仄かな潮風が体を包むと、澄んだ笑いが漏れる。聞こえる笑い声はあの日よりもずっと多かったけれど遠く離れていて、波音が容易くそれをかき消した。自由になれたような気がした。今だけは隣で笑う人なんていなくてもいいと思えた。
太陽の眩しさすら爽やかだった。あの頃はそれほど偏頭痛が酷くなかったから、眼窩を抉る痛みを知らずに心を真白に染められた。
ずっと、海を見ていたいと思った。交じり合う碧色のゆらめきと地球の呼吸に身を委ねている時間は、何よりも心地よかったから。その日から私は、沖縄の海を憧憬している。
物体が永遠の美しさを持ち得ることがないように、我々の審美眼も恒久ではない。その瞬間の網膜を最も鮮明に彩るものは何なのか、私たちの瞳には何が残されているのか、詮索せねばならないと思う。瞬きを注視しなければ、一縷の光はすぐさま通り去ってしまうのだから。