はてなキーワード: 小学校とは
男だが女児ショーツが好きだ。今でも休みの日にこっそりと穿くこともある。柔らかい生地が男性器を包むのが気持ちいいのである。誤解されないように言っておくがちゃんと通販や店舗で購入している
事の発端は小学校入学前の身体検査(?)だった。男子も女子もパンツ一枚になり一緒に検査を受けてその時に女児ショーツにムラっときたのが始まりだった。
Twitterでも女児ショーツ愛好という性癖を持つ人物のアカウントはあるがなかなか自分の方向性があう人物にはなかなかいない。まず、アニメもののアニパンには興味がない。加えてアニパンとも被るところはあるが最近の派手めのカラーショーツも興味がない、色が鮮やかすぎてムラっと来ない。そしてお漏らしも対象外だ。
2010年代あたりからだろうか、白無地にバックプリントや総柄というシンプルな女児ショーツが減ってきたように思える。女児の下着の好みの変遷なので仕方のないことなのかも知れないが好みのデザインが風前の灯なので寂しく感じている。妥協して薄いカラー地にバックプリントや総柄というのだったらまだ少しはあるので好みのデザインがあれば買うことはある。
昔は白無地にバックプリントや総柄というどことなく野暮ったい、ダサい、ダサかわいいみたいな自分好みの女児ショーツがたくさんあったが今ではそういうのは滅多にお目にかかれないのが寂しい。せめて昔の女児ショーツの柄を見るために昔のセシールの子供服のカタログが欲しいと思ったこともあるがネットオークションではすぐ売り切れてしまう。
稀に双基がどういった意図かは分からないがたまに170cmのサイズで昔っぽいデザインの女児ショーツを発売することがありそれが楽しみといえば楽しみである。
あんたのお金で友達と会食したり、お小遣い1億5千万あげたりしたのになんで自民党なん?
急に小学校休みにしたと思ったらマスク配ってオリンピックやって、緊急事態宣言出したのになんで自民党なん?
また、GoToや!!って言ってあんたの知らん人とご飯や旅行に行こうとしてるのになんで自民党なん?
トリクルダウンも分配もなかったのに消費税は10%にあがったのになんで自民党なん?
うちやったらあんたのために消費税は5%にして1000万円以下の所得税減税してあげるのにそれでも自民党がいいの?
そもそも政権担当能力あるかもわからんからあんたの力必要やねん。
だからうちを選んでよ。
4年だけでいいから。
やっぱり、ダメな方がいいの?
障害児育児の漫画やエッセイは、子供が小学校高学年か中学に上がった頃にだいたい更新が途絶えるらしい。
健常児の漫画もその辺りで切りをつける目安ができればよさそう。
国語は旧帝二次ならともかく小学校から高校の定期テスト程度まで満点で通してないと言語能力になんらかの障害を負っていることになってしまうのだろうか。
勉強しなくても国語は満点、むしろ国語に限っては学校の勉強が役に立つって時点でガイジだと書いてる人がいた。
でも俺の公立中学時代は同学年150人ほどの規模だが3年間に満点は1人も出なかった。トップクラスで97点前後だった。
小学校から進学する時点で5%ぐらいは受験してどこかに行ってしまうが、それをそのまま上位5%と仮定しても95%はガイジということになってしまう。
公立中学の成績分布はどこの偏りなく同じような状況にあるはずだから、いわば統計学でいう標本に等しい。
さすがに「国語で満点とれない奴はガイジ」という仮定の方に無理があるのではないか。普通より一段と劣っているのだから障害者として規定する意味があるのであり、「普通より劣っている」とは量的には母集団の半数未満であるべきだろう。ガイジの人数が全人口の95%というのは量的に矛盾していると思う。
小学校で習えば覚えられるんやったら右と左も覚えとるやろ
無難な人間関係が築けたら御の字くらいに思ってたほうがいいのかもしれないですね。
新しい環境でも小学校や高校時代の頃にできた親しい友人のような人間関係が築けたらいいなと思っていたんですが
親しい友人や恋人ができるかどうかって運だからあんまり頑張ってもうしょうがないですよね。
でも人との関りはできるだけ避けないようにしていこうと思います。
いつまで経っても「普通にいい人」に好かれない、恋愛バカの自伝が笑い話になり誰かを楽しませてくれるならと思い
文章に起こしてみることにした。
「恋愛」という言葉が浮かんでくる小学生くらいから、常に「好きな人」がいた。
その人に会うために学校や職場に通う、その人に好かれるために容姿を磨こうとする、その人に振り向いてもらうために勉強や仕事を頑張る。
恋愛感情がプラスに働く時はそうやって、いろんなもののモチベーションになってくれるから便利だ。
そのせいで私の自己肯定感はみるみる下がり、どんどんダメな恋愛をしていくようになった。
少しずつ書いてみる。
私が初めて告白ということをしたのは、小学校4年生の時だった。
当時ワンピースの話ができる男の子はその子だけで、それが特別に思えた。
あまり前後は覚えていないが、気付いたら教室でその手紙を同級生の女子が読み上げていた。
かなりショックだった。相手の男の子も俯いていて、そのうち他の男子と一緒に教室から出て行った。
廊下から「どうすんのこれ」「お前は好きなの?」と男子たちの声がする。
教室では私が立ち尽くすのをよそに、女子たちが次の話題で盛り上がっている。
この時の記憶は、この強烈なシーン以外がすっ飛んでいる。
いつまで経っても「普通にいい人」に好かれない、恋愛バカの自伝が笑い話になり誰かを楽しませてくれるならと思い
文章に起こしてみることにした。
「恋愛」という言葉が浮かんでくる小学生くらいから、常に「好きな人」がいた。
その人に会うために学校や職場に通う、その人に好かれるために容姿を磨こうとする、その人に振り向いてもらうために勉強や仕事を頑張る。
恋愛感情がプラスに働く時はそうやって、いろんなもののモチベーションになってくれるから便利だ。
そのせいで私の自己肯定感はみるみる下がり、どんどんダメな恋愛をしていくようになった。
少しずつ書いてみる。
私が初めて告白ということをしたのは、小学校4年生の時だった。
当時ワンピースの話ができる男の子はその子だけで、それが特別に思えた。
あまり前後は覚えていないが、気付いたら教室でその手紙を同級生の女子が読み上げていた。
かなりショックだった。相手の男の子も俯いていて、そのうち他の男子と一緒に教室から出て行った。
廊下から「どうすんのこれ」「お前は好きなの?」と男子たちの声がする。
教室では私が立ち尽くすのをよそに、女子たちが次の話題で盛り上がっている。
この時の記憶は、この強烈なシーン以外がすっ飛んでいる。
地元の親しい友達が一人いてその人とよくドライブに行ったり、ゲームしたり、カラオケ行ったりするのが楽しいのでそういう関係を
新しい環境で新たに作れるようになりたいという感じなんですけど、そういうのは難しんですかね。
大学に進学したけどサークルに入らず、バイトもしない日々を送っていました。
高校で部活の揉め事に巻き込まれたりバイトで失敗が多かったりしたのでグループに入るのが怖かったからです。
成人式もいきませんでした。小学校の頃の同級生たちは大人っぽく、逞しくなっているんだろうなと思うと
中学高校で落ちこぼれの日々を送り惨めな思いをした上に大した大学には受からず目が悪くなってメガネをかけるようになった私は恥ずかしくて行きたくありませんでした。
でも大学3年になって自分は少しまずいのではないか、引きこもりと一緒なのではないかと思って他人と関わろうとしました。
ボランティアに1度行ったりしましたが、この活動に長期的に関わるのは難しいと思ってしまって1回しか行きませんでした。
3年の春学期はコロナで学校にもほとんど行かなくなったので外に出て何かしようという気がだんだんしぼんでいきました。
そして大学4年生になり就職活動をはじめました。人と関わってないしバイトもしてないしサークルにも部活にも入ってなかったのですが
インターネットと本と大学の就職課の助けを借りることで内定をもらうことができました。
就活から逃げなかったのは良かったと思うんですが、大学時代に人間関係から逃げたのは間違いだったと後悔しています。
今から人間関係をやっていくのは大変だと思っていますが、なんとか他人と楽しく関われるようになりたいです。
組織の中で無難にやっていきたいというよりは親しい友人とか恋人がほしいと思っています。
駅の検索をしていた。Google mapが出てきたので覗いていると懐かしい地名が目に入った。
「今どうなってんだろうなあ」なんて軽い気持ちでそちらに寄り道することにした。
卒業した小学校や一部のスーパーはまだ昔のまま残っている。いや、昔のままというわけにはいかない。小学校は体育館を改修したり遊具がなくなっていたりと、場所は変わってないが昔とは少なからず趣が異なっていた。
通学路を歩いてみる。・・・・・全然わからない。多くの空き地に住宅が建てられ、当時あった家も建て替えられたりしているので景色がまるで違う。道路も増えている。
実際に歩けば距離感を掴めると思うが、Google mapだと見知らぬ街の風景に思えて方向音痴になる。どこを歩いてるかわからなくなってくるくらいだ。
迷子になったら途中で地図に戻ってまた黄色い人を落として地図の中に入る。
まさか生まれ育った街で迷子になるとは思わなかった。たとえそれがGoogle map上だったとしても…。
どうにか当時の自宅までたどり着いた。その家はまだ建て替えられてはいなかった。見た目もそのままで他の誰かが住んでいるようだった。
走馬灯のように幼い頃の記憶が蘇る。隣の家に1つ下の友達がいてよく遊んだな。ここの家の塀にボールをぶつけて苦情を言われたな。集会所で夏祭りをやったな。
もう数十年経ってるから細かいことまで思い出せない。なんとなくそんなこともあったなと懐かしむ程度だ。
自宅の周囲も散策してみよう。近所にあった八百屋や幼稚園はもうなくなっている。何年かに一度綺麗な花を咲かせていた山桜の林もなくなっていた。
随分と変わったなあ。
そこで人間が生活していく以上街並みの変遷は世の常とはいえ、自分の中身も書き替えられたような感覚になり空虚な不安を覚える。
また、年々変わり続けていくそこでの生活を考えると面白くもある。
そうか、今住んでいる場所も変わり続けてるんだよな。その場で暮らしていると見逃してしまう。時間が連続していると変化に対して違和感を持たずにやり過ごしてしまう。
懐かしくもあり、新鮮でもあり、なかなか有意義な時間を過ごしたと思っている。
機会があれば子どもでも連れて実際に行ってみるかな?
いや!産むなよ!産むなよ!!
一重まぶただって事でこれだけ悩んだのに、何でしれっと子供を産むつもりでいるんだよ。
「わたしにもし一重の子どもが産まれても、別に整形を勧めるつもりはないし、整形したいと言うのであれば、自分の稼いだお金で勝手にやればいいと伝えるだろう。」って…
クソ遺伝子を押し付けておいて整形費用を出すつもりすら無し?立派な毒親予備軍じゃん。
自分だって二重に整形したのは大学に入ってからでしょ?仮に子供が早いうちに自分でバイトして整形したとしても高校とかだろうし、
それまでの子供時代の長い期間をずーーっと、あなたと同じように「自分は一重だ」というコンプレックスに苛まれながら生きる事になるんだが?
小学校中学校という本来なら人生で一番楽しいだろう時間を苦しみながら過ごす事になる。
あと今現在彼氏がいるのかいないのかは知らないが、彼氏を作るなら整形した事は絶対に言えよな、本来の遺伝子は一重なのを騙して結婚しようとするならフェアじゃない。
前回は塩を多く入れ過ぎて塩辛くなり過ぎたから気をつけないといけない。
古くくたびれた30年モノのステンレス製取っ手付き鍋に水を入れる。
パスタを茹でるための鍋としてはかなり小さいながらも買い替えるには少々勿体無い。
底にある模様は汚れだろうか、いや違うな、経年による変色だ。その証拠にスプーンの先で擦ってもちっとも手応えがない。
ペペロンチーノの塩加減は水に対して塩1.5%が目安らしい。
でも、名前だけは聞いたことがある何だか有名っぽいシェフが「パスタの茹で汁は味噌汁より濃い目で丁度いいんですよ」なんてドヤ顔で言ってたのを思い出して毎度安心する。
自分は今腹が減ってる。さっさと鍋を火にかけて早く食べたい。
そう思いながらガスコンロを点火して強火にする。
いつか火災が起こるリスクを潜在的に感じられる程度には古いガスコンロ。
うちのガスコンロの強火と他所のガスコンロの強火は同程度なんだろうか、そういう規格として統一されているんだろうか、もし違ってうちの強火が他所の中火程度とかならうちだけ湯が沸騰するまで時間がかかってることになるけどそれは嫌だな。
などと余計な事を考えつつも、時間がない。
さっさとニンニクを刻まなければならない。
のんびりし過ぎてパスタを茹で過ぎた結果全く歯応えのないペペロンチーノが出来上がるのだけは避けたいからな。
古びたプラスチック製まな板の上に房から雑に千切ったニンニクを2片置く。
切れ味が悪くなったから申し訳程度に研いだ包丁でニンニクの付け根をカットしつつ皮を剥く。
薄皮が少し付いてるけど水洗いしようかな、でもあとで油ハネすると嫌だから洗ったあとはしっかり水切りをしないとな…。
いつもニンニクの1片は潰してもう1片は刻むことにしている。
そういえばニンニクは傷つければ傷つけるほど強い味になるらしい。一体どこの誰が実験した結果なのか知らないけど、何だか死に際から生還すればするほど強くなるサイヤ人っぽいな。
無論、ニンニクの芽は取り除かないといけない。後で焦げて苦くなるから気を付けないと…。
***
湯が沸騰する。
1人前は100gだなんて聞くからおおよその自分の感覚で100gのパスタを手に取り全体を捻るようにして鍋に入れる。
上手くいく時はパスタが放射状に綺麗に広がるけど失敗すると上手く広がらない。
世界中を探したらこれを使ったパスタ占いなるインチキ占い師が一人は居るんじゃないかな。いや居ないか。
この時に火を弱火にしないと鍋の縁に当たったパスタが白く焦げるんだった。以前に焦がした時は少しその部分が硬くなってたな。でも食べてて気になるほどでは無い。別に誰かに食べさせるわけでもないけど変に完璧主義なのかな。焦げないように弱火にしてさっさと鍋の底にパスタを沈める。
***
潰しておいたニンニクは大きくて火が通るまで時間がかかるから先に熱する。
潰したニンニクがシュワシュワしてきたタイミングで残りの刻みニンニクと唐辛子を投入して待つ。
これは「ニンニクを揚げる」ための時間じゃないんだ、あくまで「オリーブオイルにニンニクの良い香りを移す」ための時間なんだ。
そう自分に言い聞かせながら待つ。
ここで絶対に焦がしてはならないんだよ。焦がしたニンニクの香りが付いたオリーブオイルなんて自己嫌悪に陥るほど苦くて不味いからな…。
ニンニクの香りが嗅覚を通して食欲を刺激してきたらフライパンの火を止める。このくらいが苦くなるか否かを分けるデッドラインだろう。
もっとも、ここですぐに茹で汁を加えるような愚行に走ってはならない。高温で熱した直後の油に茹で汁を入れれば水蒸気爆発の様な現象が起こり細かい油が辺りに飛び散る。
油が飛び散っただけならまだいい。
フライパンの火を止め忘れた時など最悪だ。
その飛び散った微細な油がコンロの火に引火してフライパンに火柱が立ちキッチンの天井が焼け焦げそうになる。
もうあんな怖い思いは二度としたくない。
それに「ペペロンチーノを作ってて火事になりました」なんて恥ずかしくて口が裂けても周りに言いたくないからな。
過去にフライパンに火柱が立った記憶のフラッシュバックと、もし火事を起こしてしまった場合の未来の世界線のイメージがことのほか自分を注意深くさせ戒める。
そうだ、ニンニクがシュワシュワしてるうちはまだダメだ。シュワシュワが十分に収まってきたらでいいんだよ…。
***
一気にオリーブオイルの量と同程度の茹で汁を加えるよりも少しずつ加えながら混ぜた方が乳化が上手くいくというのが経験則だ。
いや、出るだろうな。
でもその機械をわざわざ買いたくなるほど料理に熱心ではないんだよな。
でも機械派には味で負けたくないし。
そんな思いが必然的に混ぜる手に力を入れさせる。
理想としてはジャムの瓶みたいなのに入れてシェイクしたくらいには混ぜたいかな。
黄色い液体と透明の液体が混ざり合っていくうちに段々とその境界線がぼやけてくる。
不思議と白っぽく濁ったような色が出てくる。
黄色+透明=黄色なはずなのに黄色+透明=白濁した黄色になるから「不思議」だって思ったんだよ。
その不思議の解明はどこかの暇な科学者だか研究者だかに任せて一旦棚上げするとしてさ。
黄色い白濁したとろみのあるスープは何だかキラキラしてて黄金のスープに見えるな。
どこかのラーメン屋だかの宣伝文句で見ただけの陳腐なワードが頭に浮かぶ。
ゆらゆら揺れる金色の波が眼前に広がると共にその波に浮かぶニンニクの刺激的な香りでひとり悦に入る。
***
火の通りすぎた柔らかすぎるパスタは何だかチープな感じがして好きじゃない。
別にソフト麺が悪いわけじゃないけどもう少し大人びた料理にしたいからさ。
これから麺上げしてスープに絡めて皿に盛り付けるまでの過程を逆算して丁度良いと思われるパスタの歯応えを確認してから茹で汁を切る。
取っ手付きのザルにパスタを入れて4~5回ほどサッサッと。
そういや以前友人と行った有名ラーメン店は湯切りの動きに合わせて「シュッ!シュッ!」とか声を出してたな。あの声出しは麺の湯切り作業において全く意味を為さないよね。ただのパフォーマンスだよね。いや、やってる本人もわかってると思うんだよ。でも店のプロデュース・演出の一環でさ、上から言われてて無理矢理やらされてるんだろうね、きっと。などと想像を膨らませながら友人と会話をしたのを思い出す。
スープにパスタを全て入れたらフライパンを揺らしたり煽ったりしながら最後の乳化作業を進める。
「別にフライパンを振れない人は箸でかき混ぜたっていいんですよ?」とか動画でアドバイスしていたどこかの料理人に反駁するかの如く念入りにフライパンを振る。
自分は素人かもしれないけどドが付くまでの素人ではないんだみたいな変なプライドなのかな。
フライパンの中にいい感じに収まったパスタとそれに絡みつくニンニクと唐辛子を見ると漸く安堵の域に達する。
今日も無事に辿り着けた…。
***
皿に移そうか、いや、どうせ自分独りで食べるんだ、スキレット的な感覚でフライパンに乗せたままそのまま食べよう。その方が冷めなくて良いし。
面倒くさがる自分にそうやって言い訳してるんだか本当にそう思ってるんだか分からないような気持ちでパスタに箸を通す。
確かにコンビニなんかに売っているペペロンチーノとは見た目が全然違う。
でもシンプルで見栄えがしないながらもきっとイタリア人の家庭料理としてのイタリア本格パスタはこんな質素な感じなんだろうな、とか、
よく日本人の家庭料理は頑張り過ぎだって外国の人は言ってるのを聞くし、とか、
行ったこともない異国の地について自分が勝手に作り上げたイメージに思いを馳せて、自分を無理矢理に納得させながらパスタを啜る。
でも。
やっぱり少ししょっぱいかもな…。
だって小学校の時の担任の先生が、コンドームをおもちゃにしてるクラスメートを叱るときに「大人になったら皆使うものなんだよ」ってたしなめてたし…。
俺もいい歳だからいっちょ使ってみるか!って思ったんだよ。
苗字が嫌いだ。ごくありがちで、からかわれもしない。でも、ダサい苗字ランキングで言えば上位に入る苗字。「渡辺」。私はいつも最後だ。学生の頃はテストの度に解答用紙を集めさせられた。なぜか入学式でスピーチさせられた。新学期最初は絶対に後ろの席で黒板が見えない。小学校の頃講堂で行われる音楽会で席が足りなくて一人だけ上級生の中に入れられた。健康診断の時は毎回長く待たされた挙句一人取り残された。惨めだった。悲しかった。なぜ私は苗字のせいでこんなに損しなければならないのだろう。五十音順とか誰が考えたのか。たまには順番変えてくれたっていいじゃん。
端から見たら「こんなことどうってことないだろ」と思うかもしれないが、幼い頃からずっとこんな理不尽な目にばかり合っていると耐えられなくなる。
もうすぐ結婚する。五十音順の中間くらいで書きやすくかつかっこいい苗字の人と。私の子供は苗字で損しないと思うと嬉しい。素敵な苗字。結婚ってなんていい制度なんだろう。
縁あってヨーロッパの、日本人なら誰でも知っている国にある国際バカロレア認定校で授業見学する機会を得た。
見学した授業は確かDP1(16歳・高校2年生程度)の物理の授業で、ニュートンの3法則なんぞを習っているところだった。授業はもちろんすべて英語で、一クラス15人程度だったか。アジア人(らしき)学生は2人くらいいたかな。
授業中、先生が説明しているにも関わらず、数人の男子たちはずっとしゃべっている。消しゴムや定規を投げて遊んでおり、たびたび先生に注意されるも遊ぶのをやめようとしない。
そのうち数人は頭はよいようで、先生の説明を遮り自分が理解したことや疑問を大声で発表し始め、先生そっちのけで生徒同士で会話を始める。その一方で、女子やおとなしい男子は授業中一切発言していなかった。
授業後、「これで授業遅れたりしないんですか?」とオブラートに包んで先生に聞いてみたら、「寝てるよりはいいわ。」だって。
自分が現在進行形で英語に苦労していることもあって、将来の子供の進路の選択肢として国際バカロレア校もありかなって以前は考えていた。
もちろん、その授業がそうだっただけかもしれないし、すべての国際バカロレア校がそうだとは決して思わない。国によってカラーがあるとも思う。でも、正直、自分の子供を入れたい学校ではないなって。
国際的な視野が~とか耳障りの良いことばかり聞くけど、みんなちゃんと実態知ってるの?それとも日本の国際バカロレア校はもっとすばらしいところなの?
私が小3のときの担任のF井先生がこのクラスの先生だったら、ヒステリックに叫びながら職員室に帰っていくんだろうな~、なんて思いながらこの日記を書いている。
もちろん「感染者数が落ち着いたら」という前提条件ではあったけれど。
せめて春になって暖かくなった頃にしたい。
何なら年末年始待たずに土日に日帰りで行こうと言われてしまった。
事あるごとにウチの方は気にしなくていい、と言っているが
ありがたい事にそれは良くないよ、と言われている。
いつもありがたいんだけど、まだ行きたくない。
持ち込むような事になるのは嫌だ。
アチラのご近所の目がどうなのかも気になる。
我が家では小学生が1番他人と接触しているから、病を持ち込むなら小学校から来そうだと思っている。
ジイジやバアバに会わせたい気持ちもあるが、
家人に思いとどまってもらいたいが
無理そうで困っている。
もう感染者数は増えないし大丈夫、なんてことは誰にもわからない。
収束してるといいな、とは思うけれど
油断して後悔したくない。
「帰省はまだやめましょう」って
誰か偉い人が言ってほしい。
なるべく早く、今月中にでも。
それでも帰省しようって言いそうなんだけれど。
そういえば感染者数は減ったし一緒に食べようって言いそうだ、ウチの実家。
どうしたものか。
自分のまぶたが一重で、世の中には自分とは違う二重まぶたを持っている人間がいる、と気づいたのはいつだっただろうか。
クラスで可愛くてモテていた女の子は大体二重まぶただと気づいたのは、それと同時に一重まぶたの自分をコンプレックスに思うようになったのはいつだっただろうか。
父親はぱっちりした二重まぶた、母親は奥二重。そんな2人から生まれたわたしは、これでもかというくらい脂肪がのっかった完全なる一重まぶたである。
小学校中学年にもなると、自分も周りも、人の「顔」がものさしで比べられるということが少しずつわかるようになってくる。
この頃、わたしは自分の顔が他人と比べて劣っていることに薄々気づいてきた。
じゃあなんで?わたしの顔は可愛くないんだろう??
そう考え、クラスの集合写真や、可愛い友人と撮った写真を改めて見た時に思うのだ。
「わたしの目、なんか重いし、細い……」
自分のまぶたには一重、そして可愛いあの子のまぶたには二重という名前がついていることをいつ知ったのかは覚えていない。
中学校になると、好きな男の子もできて、自分の見た目がすごく気になりだした。
家のルールで1日1時間だけ使っていいと親に言われていたインターネット。
「二重 方法」「二重 なりたい」「二重 マッサージ」毎日毎日飽きずに1時間丸々使って検索し続けた。
ヤ○ー知恵袋の二重に関する質問は全て読み尽くしたのではないかと思うくらい読んだ。
一重まぶたでもお金をかけずにマッサージで二重になることができる、ということを知ったわたしは、毎日死にものぐるいでまぶたをマッサージした。オ○ナインが脂肪燃焼に効くと見ると、それから毎日オ○ナインをまぶたに塗った。輪ゴムを結びつけ合わせて大きな輪っかにして、それを頭から被ってまぶたに食い込ませて癖をつけながらお風呂に入ったこともあった。インターネットで自力で二重になるためのマニュアルが売られていたので、お年玉で買いたい、と母親に訴えると、「馬鹿じゃないの、あんたはそのままで可愛いのよ」とあっさり切り捨てられた。
中学2年生のとき、クラスに同じく一重まぶたに悩んでいるAちゃんという子がいた。
ひょんなことからお互い一重へのコンプレックスを持っているということがわかり、一気に仲良くなった。
とても悲しい物語だったのだが、見終わったあと、わたしとAちゃんが1番に口にした感想は、
「映画に出てた女優さん、全員二重だったよね!」というものであった。
そんなに悩むくらいならアイプチやアイテープをすればよいのでは、と今の自分なら思うのだが、当時のわたしはアイプチは中学生が買ってはいけないもののような気がしており、購入には至らなかったのだ。
当時よく読んでいたセ○ンティーンには、よく某高級アイプチの広告が載っており、実際に二重になったという人の口コミがいくつも載っており喉から手が出るほど欲しかった。(これに関しては中学生の小遣いにしては高かったので諦めていたが……)
そんな中、ある日の休み時間に突然Aちゃんが「ソッ○タッチ(靴下が下がってこないように止めるアレ)で二重にできる!」と言い出した。
めちゃくちゃまぶたに白いノリのカス?がついてはいたものの、なんとなく二重にはなった。
しかし、違和感がすごく、こんな顔で先生の授業を受けられないと冷静に思い、休み時間の間に即顔を洗ってノリを落とした。
なんで生まれ持った二重の友達は何の苦労もせずに、わたしがこんなにも憧れている二重を手に入れているのだろう……こんなに頑張ってるのになんでわたしのまぶたは激重一重のままなのだろう…………悩めば悩むほどわたしは自分の顔をコンプレックスに感じるようになっていった。
「なんで二重に産んでくれなかったの?!お母さんは二重だからわたしの気持ちなんてわからないよ!!」
そう言って母に八つ当たりする日もあった。
「○○ってアイプチとかしないのー?したら絶対可愛くなると思うよ!わたしも一重で悩んでるから毎日アイプチしてるんだ!試しにわたしの使ってみない?」と声をかけられた。
慣れた手つきでBちゃんがわたしのまぶたにアイプチを塗り、プッシャーでわたしのまぶたを折り込んでくれた。
「できたよ!自分で顔見てみなよ!」と言われ、鏡を見た。
そこには、中学生の頃使ったソッ○タッチとは比べ物にならないくらい自然な仕上がりで、ハッキリと二重の線がついているわたしがいた。
Bちゃん愛用のアイプチを教えてもらい、帰りにドラッグストアに買いに行った。
家で何度も何度も練習し、自分の中で比較的自然に二重にできるようになったと感じてからは、高校にもアイプチをして行くようになった。
今思うときっとバレバレの二重だっただろうし、突然激重一重だったわたしが二重(変わらず激重ではあった)になったのは違和感満載だっただろうが、やはり触れにくかったのだろうか、周りからはあまり触れられなかった。
コソコソ噂をされるのも恥ずかしかったので、仲良しの友人たちには「アイプチデビューしたんだ!!」と明るく伝えていた。
友人たちは「可愛くなったじゃん!」と褒めてくれた。
毎朝、今までよりも30分早く起きて二重を作った。
寝坊しても遅刻しそうな時も、遅刻をしてでも二重を作って学校に行った。
授業中、寝たら半目になることが分かっていたので、死にものぐるいで寝ないように耐えた。
夏の体育のプールは1番の悩みだった。最初から最後までゴーグルで目を全力でカバー。授業が終わると1番に着替えて鏡とポーチを持って女子トイレに直行。個室で二重を整えた。
いかに自然で綺麗な二重を作るか、日々研究を重ねながら技術を上達させ、わたしは大学に入学した。この頃には百均のアイテープ+アイプチという自分の中での最強の組み合わせを確立させていた。
大学の同じ学部には元々の知り合いはおらず、一重のわたしを知っている人は一人もいなかった。
「わたしは二重」そうみんなに思われていたくて、友人や彼氏の前でも絶対に一重の姿は見せないようにした。
お泊まりのときは、寝る直前までアイテープを取らず、電気を消してからそっとテープを取っていたし、朝はアラームをかけて誰よりも早く起きてトイレでこっそり二重を作って布団に戻って二度寝していた。
わたしは医療系の学部に通っていたため、病院での実習があった。そこで入院患者さんを見た時に、ふと、「わたしがもし入院することになったら、わたしは病室でも毎日看護師さんたちが来る前に二重を作るのだろうか……」と考えた。
ニュースで避難所の様子が映っていた時に、「突然地震が来て、避難所にアイテープを持っていけなかったらどうしよう……一重のわたしなんて絶対に誰にも見られたくない」と漠然と不安になった。
大学4年の頃、久しぶりに中学時代一緒に一重のことで悩んだAちゃんに会った。
Aちゃんは自ら、「あの時散々悩んでたけど、結局埋没で二重にしちゃったー!すごく楽になったからやってよかったと思う」と笑顔で話してくれた。
まだ想像はつかないけれど、社会人になったらきっと忙しくなるだろうし、整形するなら今なのかな……。
わたしはその後、すぐに某美容整形外科でカウンセリングを予約し、そのままの勢いで埋没術を受けた。必死にアルバイトをして稼いだお金と引き換えに、10年近くコンプレックスを抱いていた一重まぶたとおさらばし、憧れの二重まぶたを手に入れた。
埋没をしてから数年たったが、わたしの激重まぶたは案外きちんともってくれており、今もわたしは二重である。寝坊しても、二重をつくらずにそのまま家を出れる。お泊まりをしても、人より早く起きて二重を作らなくてもいい。
こんな長文を書くくらい悩まされていたので、本当に本当に施術を受けてよかったと心から思っている。
人生で1番してよかった買い物だと自信を持って言える。
二重になったわけだが、他のパーツが人より優れているわけではないので、残念ながらわたしの顔は決して可愛くはないと思う。しかし、二重を手に入れたことで、日々の楽さ、そしてコンプレックスだった目への自信が少しついて、以前よりは自分の顔をマシかな、と思えるようになった。
世の中、美人!可愛い!とされる人は大抵二重だ。モデルや俳優さんも多くは二重まぶただ。
もちろん一重でとても素敵な人もいる。
しかし、なんというか、二重が正義というか、二重の方がやはり良しとされている雰囲気、一般論?はあるように思う。
わたしにもし一重の子どもが産まれても、別に整形を勧めるつもりはないし、整形したいと言うのであれば、自分の稼いだお金で勝手にやればいいと伝えるだろう。
「ありのままのあなたが素敵」なんてよく言われているかもしれないが、わたしはありのままの自分が大嫌いだったし、別にありのままでいる必要はないと思う。ありのままの自分が好きな人はありのままでいればいい。どちらも間違ってないと思う。
このブログは別に一重を否定する訳でもないし、二重にすることを助長する訳でもない。
ただ、一重だったわたしがずっとコンプレックスを抱えていて自分の顔が好きになれなかったことを思い出して、ふと書いてみたくなっただけの散文である。
一重の人も、二重の人も、自分がなりたい自分でいられたらいいと思う。
特にまとまりはないが、書くこともなくなったので終わろうと思う。
文中に書いた二重になる方法は、無知なわたしがやっていただけであり、皮膚のことを考えるとマネしてほしくないものもあるので、ご注意を。
ここまで読んでくださった方がいらっしゃれば、ありがとうございました。
>>姓が同じだと最初の信頼性が上がる<<
って言うけど、山田佐藤鈴木田中、沖縄なら比嘉あたり何の信頼性もなくないか。
横浜市立小教諭が複数児童にいじめ 配布物配らず、テスト受けさせず 市が第三者委設置し調査
https://news.yahoo.co.jp/articles/f58c9ad8d8f5eb4296eb55941c18b09cbcb3536e
横浜市の小学校出身なのだが、20年経ってもあの時のひどさは忘れることができない。
小学校1年生の時の担任が特にクソババアで、一生覚えてるだろうと思う。
はじめて係の仕事をするとき、使う道具の場所がわからないから聞くと「そのくらい自分で見つけなさい」と言われた。どこを探してもなかったので泣きながら改めて聞くと「その程度も見つけられないのはバカだ」と罵倒された。結局、学校自体が閉まるギリギリまで残って探させられた。
給食で食べるのが遅い子がいても、平気でそのまま食べさせて、掃除中も、そして先生が帰る時間まで食べさせられていたこともある。もちろん他の先生も助けてはくれない。自分も遅い方だったけど、家からビニール袋を持ってきて、全部そこに残したものは入れて持って帰っていた。虐められていても、「あんたが悪い」と逆に全員の前で立たされたこともある。
自分は特に何もされていないけど、学年一のヤンキーバカには徹底的に優しく接して、殴って怪我させても「力強いね」とかいって、殴られた方を怒る。
クラスに一人、体が弱い子がいた。なかなか動くのが遅くて、集団から遅れたりするんだけど、「なんでいっつもあんたはそうなの!!」と激怒する。その子は泣いてしまう。ほとんど毎日のようにこの光景が繰り返されていた。
小学校6年生ながら、このままこの場にいたら、何かおかしくなってしまうと両親に相談をした。
そんなところには行かなくていいと言ってくれて、2学期から卒業式まで1日も行っていない。その間塾に行って猛勉強して、行きたい中学に行けた。もちろん大人になった今はとても良い選択だったと感じている。
というわけで、横浜市で子育てを考えている人は要注意だと思う。俺は絶対にここでは生まないし、もし事情で市民のままだったら私立の小学校に入れる。