縁あってヨーロッパの、日本人なら誰でも知っている国にある国際バカロレア認定校で授業見学する機会を得た。
見学した授業は確かDP1(16歳・高校2年生程度)の物理の授業で、ニュートンの3法則なんぞを習っているところだった。授業はもちろんすべて英語で、一クラス15人程度だったか。アジア人(らしき)学生は2人くらいいたかな。
授業中、先生が説明しているにも関わらず、数人の男子たちはずっとしゃべっている。消しゴムや定規を投げて遊んでおり、たびたび先生に注意されるも遊ぶのをやめようとしない。
そのうち数人は頭はよいようで、先生の説明を遮り自分が理解したことや疑問を大声で発表し始め、先生そっちのけで生徒同士で会話を始める。その一方で、女子やおとなしい男子は授業中一切発言していなかった。
授業後、「これで授業遅れたりしないんですか?」とオブラートに包んで先生に聞いてみたら、「寝てるよりはいいわ。」だって。
自分が現在進行形で英語に苦労していることもあって、将来の子供の進路の選択肢として国際バカロレア校もありかなって以前は考えていた。
もちろん、その授業がそうだっただけかもしれないし、すべての国際バカロレア校がそうだとは決して思わない。国によってカラーがあるとも思う。でも、正直、自分の子供を入れたい学校ではないなって。
国際的な視野が~とか耳障りの良いことばかり聞くけど、みんなちゃんと実態知ってるの?それとも日本の国際バカロレア校はもっとすばらしいところなの?
私が小3のときの担任のF井先生がこのクラスの先生だったら、ヒステリックに叫びながら職員室に帰っていくんだろうな~、なんて思いながらこの日記を書いている。
実は、単なる「年齢制限」だったのだ。
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その女の子は体が弱いらしく、毎日、病院で注射を打つような状態だ。
同年代と比べて、発育が遅いらしい。
だから、その女の子の両親は、小学校就学を1年遅らせようか迷っているそうだ。
だが、ここに問題があった。
それは、1年遅らせると、その女の子は、中学2年生までの教育しか受けれないそうだ。
しかし、コメンテータによると、義務教育は、「15歳の3月まで」、ということだと。
そのように決められているそうだ。
年齢で切られるのだ。
だから、もし就学を1年遅らせたら、その女の子が「15歳の3月」を迎えるのは、
中学2年生が終わったとき、というわけだ。
それでわかったのだ。
つまり、義務教育というのは、
「どのような内容の教育を受けるか」、によって定義されているのではなく、
「15歳の3月」までに受けた教育を「義務教育」と呼ぶのである、ということだ。
言い換えれば、学習内容の達成度を見るわけではない、ということだ。
年齢を見ているだけなのだ。
留年もない。
学習させる内容も、ふらふらと定まらない。
なぜなら、そのようなことを気にする理由がないからだ。
「15歳の3月まで」という、単なる制度上の都合の、操作的な定義に過ぎなかったのだ。
まるで、ベルトコンベアに乗せて、「15歳の3月まで」という一定期間、「教育」という塗料を吹き付けていき、卒業したら、あとは知らん、というのが、日本の義務教育なのだ。
標準原価計算的に考えれば、かなり「歩留り」は良かったのであろう、いままでのところは。
だがこれは、大量生産の発想だ。教育資源が乏しかったころの発想だ。
経済学者の伊藤元重が、「日本の教育は配給制度です。いまでも」、と言っていたのは、正しかったのだ。
いくつかいただいたコメントで、義務教育の「義務」に関してのものがありました。
わたしとしては、この文章の意図は、「義務」うんぬんの話ではなく、
つまり、教育の内容に関してです。
もし、
その教育の内容は、無意味なものになりがちなバイアスがあるのではないか、
ということを言いたかったのでした。(学校に通っているだけでいいんだから)
その点で言えば、問題は、この女の子に限ったことではなく、われわれすべてと関係するでしょう。
これは誤解を招きがちな部分だと思います。なぜなら、
たとえば、不登校の人に対して、
「義務なんだから学校へ行けや」、と恫喝する人がいるであろうからです。
また、それに対する反動として、
「これは、親が子供を学校に通わせる義務だ」、という意見が出てくるのだと思います。
わたしの理解では、
「義務」は、「権利」と対になっているはずのものです。
すなわち、
まず子供に「教育を要求する権利」があり、保護者は、「それに応える義務がある」、
ということになるのだと思います。
「それに応える」というのは、具体的には、学校に通えるようにしてやる(ランドセルや定期を買ってやるとか、昼間に児童労働させないとか)、ということだと思います。
なので、義務教育の「義務」は、「教育義務」ではなく「就学義務」、ということだと理解しています。
サポートする義務です。
なお、上記のとおりだとすれば、不登校の場合は、本人が望んでいないので、保護者にも義務は発生しないのでしょう。
なぜなら、ウィキペディアで調べただけだからです。
わたしの考えでは、保護者が昼間に働くために、一時的に子供を預ける、というのが、主要な機能だと考えます。
場合によっては、高校も含みます。
先日、久しぶりに友人と遊んだ。夜になって酒が入ったところで俺が萌え絵とかそっち方向描いてることを暴露。あれ?大学で意気投合してから、もう6年来のつきあいだけど、いままで言ってなかったっけ?そういえば言う機会もなかったし、そいつと頻繁につるんでた頃は絵は中断してたもんな。まあそんなこんなで話は絵の方向に。
友人「でさー、高学年の奴らに遠近法教えたんだよね。やっぱり技術の上に立ってないと気持ち悪くて…。」
増田「理系病だなw…しかし遠近法って…透視図法のことか?あれは難しいんじゃないか?俺でもきちんと使えるようになったのはほんのここ数年だぜ?…一応本来習うのは確か中学校の美術だよな。」
友人「そうそう。だから、写真撮ってきてその上なぞらせたりしてさ。そうすると、意外と理解できるんだよ。『確かに一点に集まる!』って。」
増田「一点透視図法ってやつだな。ふむ、なるほど。理論後回しで、体験的に学習させる方法なら5・6年生でも行けるかも。」
友人「あいつらもさ、やっぱり『上手くなった!』って思えるから楽しいみたいなんだよね。」
増田「だろうなあ。写実は、現実に近くなった!っていう明確な目標が見えるからな。」
友人「でも、コンクールにはことごとく落ちたんだよね…。」
友人「うちは、毎年10人ぐらい入賞させてたらしいんだよ。それが今年はことごとく…。『子どもらしくない』んだとorz」
増田「…いや、まあ、しかし、コンクールなんて審査員ウケする絵が描けるかどうかだろ?『のびのび、元気よく、多彩な色づかい』みたいな。」
友人「…うん(´・ω・`)確かにそういうノウハウはあるね。」
増田「俺も低学年はそうやってのびのび自由に描くのがいいと思うんだ。その頃は『描くこと』自体が楽しいから。でも高学年になると、しだいに写実的に描きたいって欲求が出てくる子もいるだろ。そういう奴らには技術面を指導しても良いと俺は思うよ。」
友人「…でも確かにクラス全部、画一的な絵になっちゃったのは間違いないんだ。隣とかと比べると、これで良かったのかな…って。」
増田「まあ、写実はゴールがあるから画一化はするよな。でもさ、のびのび描く絵だって『のびのび』って名の下での審査員ウケ狙いの画一化じゃない。だから大丈夫だよ。入賞させる人数にノルマがあるって訳でもないんだろ?」
友人「でもコンクールに入賞するってのは、子どものモチベーションになるんだよね。どっちが良いかは分かんないや…。」
増田「そっか…。難しいね。」
教育大学で小学校課程を勉強したとしても、美術系の授業なんて前後期で1授業ずつぐらいだし、絵画技術なんて教わらない。友人もこの透視図法教えるために相当自分で勉強したんだろうな。自分は絵が苦手だって言っていたから、きっと子どもに苦手意識を持たせないにはどうすればいいか、自分なりに試行錯誤して「技術を学ばせる」方針にたどり着いたんだろう。新米だから風当たりも強いに違いないのに、よくやってると俺は思うんだ。
こういうのって教える対象の子どもの発達段階による部分も大きいし、専科を作れば解決って問題でもない。(専科になったら苦手科目で目を回してる教員は嬉しいだろうけど。)
教育に一般解はないんで、だからこうやって現場は現場なりに日々もがいてますよ、と。できれば「教師は…」ってひとくくりにしたり、「教師だめぽだめぽ」って責め立てたりしないで、力を貸してくれると嬉しいな、と。そういうことが言いたくて増田。
友人「でさ、俺のキャラクターって言うか、カットって描ける?ああいうのあるとプリント作りやすいんだよ!」
増田「おまwww…おk、似顔絵は苦手だが教採終わったら頑張ってみるわwww」
※この文は全てフィクションです。実在の人物・団体・思想とは一切関係がありません。
俺らが逆らえない何か。(指導要領は実は法律として効力を持つ。)ネットで指導要領見られるって知らない人多いよね。
指導要領解説(実際に参考にするならこっち)もあるよ。いちいちZIPだけど、そこはお役所クオリティって事で。
この話、結構意見がばらけてますね。自分のは文章がまとまってなくて申し訳ない。
これ、美術とかに限った話じゃなく、「発想の土台となる基礎知識をどれぐらい教えるか」も同じ話だと思うんだ。例えば「理科で草花の名前を単純に覚えさせるの、どうするよ。」みたいな。つまり「知識と経験の比率」だね。詰め込み教育は知識重視、ゆとり教育は問題解決学習や応用力を重視している…だから経験重視だ。
この文だと分かりにくいのだが、この友人は絵がコンクールに通らなかったことや方針そのものに落ち込んでる訳じゃないと思う。たぶん、さじ加減が強力すぎたんじゃないか、詰め込み偏重になってないか、てことで考えてたんじゃないかなと思う。元増田みたいな「もっと基礎を」という意見が出てきたり、友人みたいな悩みを持つ現場があったりするのは、ゆとり教育見直しという現状をよく表してるんじゃないかと思う。
えっと、だから言いたいこととしては、「ハンドルは切られ始めてるよ!」「でもどれだけ切ればいいか現場も(たぶん)文科省も悩んでるよ!」「だからあんまり現場を十把一絡げでいじめないでね!」「文科省任せにしないでいろんな意見が出た方が良い気がするから、ゆっくり議論していってね!!!」…かな?
http://anond.hatelabo.jp/20070313112314
これ、実によくわかる。
ブクマコメントにも書かれていたけど、教育というものは誰もが経験する――最初に教育される側、のちに教育する側として――が故に、誰もが教育について語ってしまいがちになる。しかし、「自分が語っている教育とは何なのか」については、案外みんなよく知らない。教育学をかじったことのある身としては、そういう「よく知らない」人たちの話が聞くに堪えないことはよくわかる。
だがしかし、だ。
「せめて教育六法読んでから出直して来い」、「そういう話がしたいなら学問的なルールの上でお願いします」というのは、ちょっともったいないんじゃないかな。
もったいない理由は次の2つ。
(1)「**でなければ語る資格はない」という言説になってしまっている。
この場合は、教育を語るには教育学の基礎知識がなければならないという議論になっているのだが、果たしてそのようにして語る資格を囲ってしまってよいのだろうか。
確かにうんざりするような主張は山ほどある。でも、それだって立派な意見とは言えなくても情報資源にはなる。なぜそういう主張が出てくるのか、それらをどう手当てすればよいのか、考えるニーズとヒントがそこにはあるはずだ。
あなたが教育学の素養を持っていて、議論の相手が教育学の素養を持っていないとしたら、ここには知識の不均衡がある。つまり教育へのニーズとチャンスがあるわけだ。ならばあなたは相手に教えることができるし、そうすべきなんだ。相手の主張は教育学的にはどのように問題なのか。教育学の世界は世の中の問題をどう捉えているのか。そういったことを、噛んで含めるようにして教えていく必要があると思う。ほら、医療の世界でも患者への説明が求められてるでしょ。あれと似たようなものです。
相手の視野の狭さを嘆くのなら、もっと見晴らしのいいところに連れて行ってあげればいい。それはとても難しいし、うんざりしそうになることだけど、やってみる価値はあると思う。
教育学を知らない一般人と話すのは疲れることだろう。でももし「教育六法読め」なんて突っぱねられたら相手はどう思うだろう。それこそ「俺たちの感情も経験も知らないで、ホーリツやらガクセツやらにかまけて、その上俺たちを見下しますか? 誰がそんな奴の話聞くかよ」って、ますます話を聞いてもらえなくなるだろう。そして、教育にまつわる居酒屋談義が続くことだろう。