はてなキーワード: 命題とは
そりゃ反論として筋が悪いだろ。
1+1=2はここではコンセンサスが取られているから、「1+1=3はおかしい」という理屈は成り立つけど、
「男はおっぱいより尻のほうが好きか」という命題についてコンセンサスがあるか?
だから「男はおっぱいより尻のほうが好きだ」と言われても、「そうかもしれないしそうでないかもしれない」としか言えない。
何より、1+1=?といった解答が明確な命題について、「主語が大きい」という言葉に用はない。
「間違ってるよ」で事足りる。
だから、体験から命題を導き出す過程に飛躍があるってことは、そうだろうよ。
しかし大事なことは、飛躍があったって、命題が正しいか否かはわからないってことだ。
「そもそも『日本人は』という括り方が間違っている、主語が大きい」と反論するか?
「主語が大きい」ってのは、命題を導き出す過程に疑問があることをもって、データその他の客観的な資料も提示せずに命題が間違っているかのような印象を与えるだけの言葉なんだよ。
命題は「男はおっぱいよりも尻が好き」であって、「男は」とカッコ括りすることで何をいいたいのかさっぱりわからんが。
「男がor女が」なら「男は」の部分を否定するのは分からないでもないけど、命題が「おっぱいor尻」なら、おっぱいか尻のどちらかを否定することになるだろ、この場合。
ああ、もしかして、サンプル数が足りないことをもって命題が否定できると思ってるのか?
これについては、
も
も、少ないサンプルの中から命題を取り出している点は一緒だけど、客観的に見れば上のほうが正しい。
その批判を成立させようと思ったら、「男は尻よりも乳のほうが好き」というコンセンサスが取られていないといけないが、
俺の知る限り、男は尻も乳も好きだ。優劣は主観であり個人差が大きい。
こういった場合は、「サンプル数n=1」といった形の批判が順当だろう。
だが、これで「主語が大きい」と言ったところで、「男は実は尻好き」という命題を否定することはできないので、論破にはならないわけだ。
「主語が大きい」くらいの大雑把な主張に対して、言わずもがなのBというのは見たことがないな。
普通はデータその他客観的な資料をもってこないと否定できないところだからな。
「主語が大きい」と指摘したときに、何が「言わずもがな」になっているのか、一例でいいから言ってみてよ。
追記
ああ、「日本人は貧乏である」という主張なら「主語が大きい」で事足りるかもな。
日本は世界の中でも裕福なほうの国であるというコンセンサスがあるからな。
反論も何もないよ。「主語が大きい」という指摘は、文字通り「主語が大きい」だけのことなんだから。
それだけでは何の否定にもなっていない。
でもそれに対して「主語が大きい」と言ったところで、そうですね、主語は大きいですね、という反応しか返せない。
「主語が大きい」を否定として使いたいなら、その主語のサイズだと、どういうロジックで命題が否定されるのかを説明しなくてはいけないし、
「なぜ間違っているのか」という一番肝心な点を言わずに反論を求めるだなんて、相手にエスパーにでもなれと言っているのと同義ですよ。
主語の大きい主張は、常識的な処理として、その主語のサイズに合わせて一般論として処理されるケースが多いため、
(たとえば、「日本人は金持ちである」という主張は概ねその主語のサイズから一般論として処理されるので、「日本人でありかつ貧乏人」という例外を提示したとしても命題は否定されない)
その文中に「すべての○○」と書かれている等、例外が存在しないことを前提とした主張でない限り、
「主語が大きい」という指摘が用をなすことは、まずない。
↑new
「対象を具体的に構成することによって証明可能ならば, 存在しないと仮定して云々ではなく, 実際に構成したほうがよい」あるいは「(最狭義の)背理法なしでいけるならそうすべきだ」(これらは別の主張である)という主張なら意味は通りますが. もっともこの種の議論も教育云々に属すので.
彼の意味の非背理法証明は古典論理に従う通常の証明であり構成的証明や直観主義的な証明などとは異なる. だから直観主義的型理論の証明からrealizerとしてプログラムと正当性証明を抽出する話とか, 直観主義論理の存在具体化性なんかの話とは全く関係がない.
「機械的に書き換え可能なら情報量は変わらないのでは」という簡単な突っ込みもできる. 幾らかの人達は「とはいえ計算数学なんかでは背理法に依らない証明を考えるのは意味があるのでは」といったことを述べているが
件の著書の内容紹介に【「背理法による証明」を、格段に情報量の多い「背理法によらない証明」に機械的に書き換えることができる】とある. これは, 彼の意味の背理法による/よらない証明と, 古典論理/非古典論理による証明, または非構成的/構成的証明, との対比を混同している.
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「LKもcut-free LKも非背理法的ということではないのか. そうだとするとカット除去定理は背理法除去とは無関係ではないのか.」
他方で彼の著書では竹内・八杉『証明論入門』を引用してカット除去定理が背理法除去を一般化した定理だとも主張している. ここでひとつ反論ができるとすれば「sequent calc.も非背理法的な証明体系ではないか. 証明に現れるsequentは全てvalidではないか.」
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他方で彼のいう非背理法証明というのはそういう状況が起こらない証明をいう. Hilbert流の証明体系では途中にprovableなformulaしか現れないことを想像せよ. したがって彼の数学としての主張は「自然演繹とHilbert流の体系は同値. よって背理法は除去できる」
実際efqを用いた証明ではefqの適用の直前に矛盾が導かれているはずだから「途中に正しくない主張が現れる」という状況に適合している.
だから彼の拒否する証明法は広義の背理法よりももう少し広いものと考えられる. 例えばex falso quodlibetがnonsenseな証明法だと捉えていることは彼のサイトの記述から明らか.
正確にいうと彼のいう背理法は「否定導入と最狭義の背理法」を合わせたもの. 背理法を拒否する根拠は「背理法を用いた証明では途中に正しくない主張が現れる」こと. 自然演繹の証明図は途中にunprovableなformulaが現れることを想像せよ.
また「背理法を用いて証明できるなら用いないでも出来る」というのは彼の言葉の定義では正しいので「直観主義論理が云々, 派生規則だから暗黙に背理法が使われてる云々」は反駁にならない.
「教育の話だろ」という人間には「教育論の補強に数学を濫用しているし, 数理論理学の教科書まで出版している」と反駁しましょう.「それでも教育的な価値は云々」という人間には「教育論として批判しているのではなく数学として批判しているのだ」と反論しましょう.
適切に批判しないと「(最狭義の)背理法なしでは(通常の述語論理の形式的体系において)証明できない命題があるなどという人間は(彼の意味では背理法なしでも証明できるので)数理論理学を理解していない初心者である」などと云われて, 傾げる首を切り取られてしまった人間が賛同するので
生きる理由を探して来たがどうも無さそうだ。これは分かる。
ある人がとてつもない生き甲斐を見つけたとして、それは別の人にとってどうでも良い事になり得るだと言うのは分かるし、だとしてもその人にとっては「生きる理由」と言える程強く心の支えになり得る物だと言う事も分かる。
「生きる理由」が無かったとしてもその人はすぐ自殺してしまう訳ではないというのは分かるし、「生きる理由」が無かったとしてもだらりと生きていってしまう人が多い事だって分かる。
だから「生きる理由」が至上の命題にはならない事も分かる。「生きる理由」を至上の命題にしたのは自分の心だという事も分かる。
なぜ生きる理由を求め続けたのかと言えば、全能感と現実の矛盾やら生活への不満足やらで、見つけられれば現実を変えられると思っていたからだというのは分かる。
そんなの最初から分かってるんだよ。それでも俺は生き甲斐を見つけられねえし、逃避してなんとかつらみをごまかして生きていくのはプライドが許さねえし、心の何処かで自分が真っ当な生き甲斐を見つけてドラマチックに生きていく人間に値すると思ってやがる癖、自分から現実を変えていこうとはしない。
何で生きる理由は自分自身で作っていく物だって気付いた瞬間に、悩みから開放されたかのように晴れ晴れとした顔で新しい人生の一歩を歩み出す奴らがいるんだよ。人生は自由?自由になるにも力が必要なんだよ。
俺はネット依存で人生をブチ壊した駄目人間だからな、そんな事に気付いた所で俺の駄目さは変わらないし、俺の人生は変わらないんだよ…それは分かるんだよ…
もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。
汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。
面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。
私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。
自分の精いつぱいの物を。
然し、必ず、こはれるものを。
然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。
それより外に仕方がない。
それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。
私が、私自身に裁かれさへしなければ。
たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。
坂口安吾著「余はベンメイす」
自分は前回、少なくとも今の自分が"そうである"と信じる所を書いた訳である
しかし、いくつかの指摘には自らの答えを以って表明とするのが正しいと信じ、追記をする
前回の記事を書いた後の指摘にて自分が後悔したのは"欲望がどこから来るのか"という部分だ
それは押し付けられたのではなく、もともと潜在的に有していたモノが開花しただけかもしれない。
クジラックスが好きだけど異常性癖になった事はない、ただ少女愛は元々備わっていて偶々手に取ったのがそういった趣向のエロ漫画だったというだけだ。
これらの指摘は、全く正しいと思われた
"人はエロ漫画の持つ力で屈服させられ、目覚めさせられ、開発され、汚染される"といった趣旨の事を書いたように思う
私は私の体験を文章として切り取ったにすぎず、故にこれを撤回しない
しかし、自分は自分の表現し得る辺縁の部分まで突き詰めてみたく思う
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
フリードリヒ・ニーチェ著「善悪の彼岸」
自分を屈服させ、従わせ、駆り立てるのは誰か
あくまで「自分が選び、自分が惹かれ、自分が決断し、自分が選んだ」に過ぎない
決めたのは自分自身に他ならない
然しそれでも、私の主観としては「作品によって、自分は屈服させられたのだ」という感覚を捨てきれない
春本を読む青年子女が猥セツなのではなく、彼等を猥セツと断じる方が猥セツだ。
そんなことは、きまりきつてゐるよ。君達自身、猥セツなことを行つてゐる。
自覚してゐる。それを夫婦生活の常道だと思つて安心してゐるだけのことさ。
誰がそれを許したのですか。
許し得る人は、たゞ一人ですよ。自我!
坂口安吾著「余はベンメイす」
「明らかに自分が選んでいる筈なのに、屈服させられていると感じる」という主観
主体と客体の逆転がここで生じることについて、このエピソードが近しいのではないか
荒い海で漁師として働いたことがあったという(一夏のアルバイトであったと想像しよう)。
この時、船の上で、彼の同僚である無教養な男が、海上を指差した。
強い陽射しを反射して、キラキラと輝いていた。男は次のようなジョークを放った。
対象a
人間が一生を通して追求するもので、想像界や象徴界や現実界の中間にあり、欲動が求める対象。
他の精神分析学派の主張する部分対象や移行対象、自己対象との関連性が指摘される。
経験として象徴化された世界の背後の示唆、亀裂、欠如としてのみ経験される。
単なる事実以上の何かを孕んでいるという不確定な過剰さを喚起するもの。
満たされない欲動の向かうところ
詳しくはこれを参照して欲しい
求めれば完全に満たされ、不快なことはすぐに排除され、自分の意志によってすべてが好転する
「世界には自分以外の存在があり、すべてが自分の思い通りなるわけではない」という事が分かるようになる
絶対的な依存や信頼、母子密着状態からの脱却、対象との関係性の生起である
母親の代わりに毛布を肌身離さず持ち歩くようになる(※1)
成人した後は、形を変えて残る
人は過去の幻影を追って止まないし、追わないで居られるほど聖人君子でもない
「夢を追う」「面影を探す」「憧憬する」「焦がれる」「つい見てしまう」「どうしてか同じ行動をしてしまう」
幼児の頃の万能な世界や、絶対的な幸福、真理や真実と表現されるもの探し求める
絶対的な愛情は存在しないし、絶対的な幸福は存在しないし、絶対的な絶望も存在しない
しかし、人はそれを求める
逆説的であるが、人がそれを追いかけるときに初めて真理は存在することとなる
即ち真理は、常にたゞ探されるものです。
探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。
真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。
坂口安吾著「余はベンメイす」
自分が信じた正義(今回で言えば、緑のルーペ氏が描いた人間の尊厳を冒涜するエロ漫画を否定する事)は
主観としては作品そのものの力によって屈服させられたように感じられる
自分を駆り立てものはいつだって「ガラクタ」、「吊るされた人参」、そして坂口安吾の言う所の真理である
欠如の象徴としてのそれらを埋めるため、自分は「人の倫理を破壊する作品」に惹かれる
それと同時に、自らの正義がそれを許容せず「自分が望んでいるのではない、望まされたのだ」と投影させる
それは、こうした葛藤を生じさせることに意識的であったからだろうか
※1:投影
投影(projection)とは、自分のなかにある受け入れがたい不快な感情や性格を他者が持っているかのように知覚することである。
たとえば、怒りっぽい人が、自らの怒りの感情を受け入れず、それを他者に投影して逆に他者が自分に対して怒っているのだと決めつけるような場合である。
現実界
フロイトの現実原則や、カントの命題"ein leerer Gegenstand ohne Begriff"(「掴み得ぬ空虚な対象」。独語)
などから敷衍した概念で、空虚で無根拠な、決して人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実を言う。
以下に記述する想像界にも象徴界にも属さない領域であり、例としてはトラウマや不安、現実における体験などで言及される。
象徴界
ラカンは言語活動によって形成される人間のつながりを大文字の他者と名づけている。
これは自己と他者をつなげる共通の第三者としての言語を指している。
大文字の他者も言語活動の一部であることから、象徴界に属するものとして考えられている。
想像界
その正確な描写となると大変な労力を要するような対象と世界を指しており、
かつわれわれが頭で思っているものを言う。
"努力した人が報われるのはとうぜん、と考える人は傲慢である。または無知か、世間知らずか、想像力欠如である。この言葉はひっくり返せば努力しなかった人は報われないのが当たり前、という意味である。"
が導出されるって思ったんだ?
突っ込みどころが多い。
まずタイトルと本文の主張が違う。
タイトルでは
"がんばった人が報われる社会なんて嫌だ"
と大きく出ているのに対し、本文では
"努力した人が報われるのはとうぜん、と考える人は傲慢である。"
という割と普通の主張に書き換えられている。
この二つの主張は明らかに違う。もしこれが意図的なのであれば汚い。釣りタイトルと言っても過言ではないと思う。
次に主張の言い換えが間違っている。
"努力した人が報われるのはとうぜん、と考える人は傲慢である。または無知か、世間知らずか、想像力欠如である。この言葉はひっくり返せば努力しなかった人は報われないのが当たり前、という意味である。"
俺は心底、ディレクターという職種の人間と接するときは注意を払わないと、
そいつに仕事を経由して人生や家庭を壊されかねないと痛感している。
彼らにとって、プログラマやデザイナーというのは、いわばおまんまの種であり、
生産をしていくための道具として扱っていくことに本分を見出すべき存在なのだ。
プログラマであれば動くものであり、ゲームだったら、面白いゲームであったり、webだったら、客の問題を解決するページだ。
デザイナなら、絵でありUIであり、問題解決するイケてるクリエイティブだ。
では、その技術を持たない「作れない」職種であるディレクターは何をすべきなのかというと、
プログラマとデザイナーしかできないこと「以外」の糞面倒くさい作業「全部」だ。
「責任の分散化」を図るディレクターが存在する。これはサボっているだけだ。
上流でサボったら、しわ寄せを受けるのは下流だ。
それも上流であればあるほど、小さいサボりでもクリティカルに影響する。
私は小さいころ幼稚園バスというものに乗っていた時期が少しだけある。
運用の詳細は園児だった私は知るよしも無いが、発着時間はそれなりに厳しく管理されていた記憶がある。
曇りだったあの日、私はこの幼稚園バスに乗り遅れそうになっていた。
焦りの記憶は、便器の前でズボンをおろし、あとはパンツをおろして便器に座るだけの状態から克明に覚えている。
私はこの状態でうんこを漏らした。
なぜそうしたのか?答えはこうだ。
「パンツをおろして座るまでの間に脱糞がはじまってズボンが汚れたら悲劇なのでパンツに脱糞してパンツと尻のあいだの多分尻の割れ目沿いに収まる固形物をパンツを脱いでからトイレに落とせば問題ないだろう」
パンツについたちょっとの汚れを我慢し、トイレットペーパーでも挟んでパンツを履けば問題なかった。
これを考えついた私は、ちょっとおもしろみを期待していた気もするし、この解決策を考えたついたことが誇らしかった気もする。
当時の私の頭ではうんこ=うんこぐらいしか認識できていなかったのである。
大人の階段を登らないとわからないが、うんこには固いうんこから柔らかいうんこ、そして水みたいなうんこもあるのだ。
そして、我慢できないほどに催すときは、決まってうんこが緩い。つまり、水分量が多いのだ。
はなしを戻すと、私は考えついた作戦、パンツに脱糞を遂行した。
作戦は順調だった。
しかし、脱糞している感覚はあるものの、固形物を感じないのことが不思議だった。
新しい作戦を考える必要があると、気づいたのは、パンツをおろしたあとであった。
私は発車しかけていた幼稚園バスまで急いで走って、ギリギリ乗り込んだ。
車内に響くエンジン音が、幼稚園児の叫びと悲鳴によって聞こえなくなるのに、それほど時間はかからなかった。
* * *
幼稚園の頃や物心つく前を含めると、オムツ・便器以外にうんこを排泄した経験の無い人はそういないと思う。
「そんなことない!」って人は自分が覚えていないだけで、親はそういうことも覚えているので聞いてみると良い。
では、みんなオムツ・便器以外でどういうところに排泄してしまうのだろうのか?
幼少期~大人まで、色んな人の色んな話しを聞くと、やはりパンツが圧倒的に多い。(次点は廊下)
興味深いことに、増田でうんこを漏らした報告の第一号と思われる下記の書き込みも、
パンツの中に漏らして、困っている最中、混乱している状態で増田に投稿している様子が見てとれる。
http://anond.hatelabo.jp/20061110005705
元増田も悩むように、パンツに漏らすと「ウンコまみれのパンツはどう言い訳するべきか?」という命題にぶち当たる。
今の私なら、「パンツを諦め、その場で捨てるべき」と即答するだろう。捨ててしまえば言い訳なんてする必要はない。
しかしながら、いざ漏らすと気が動転してしまい、パンツをなんとかしようと思ってしまうものだ。
思い出のできごとの時も、私は人間の性に囚われてしまい、パンツをなんとかしようと奮闘した。
まずパンツをトイレットペーパーで拭きまくった。しかし臭いがとれない。
次にトイレ内の洗面台で水洗いをした。パンツがびしょびしょになっただけだった。
そうこうしているうちに、バスに乗らないと帰れないという現実を思い出し、
何を思ったのかびしょ濡れのウンコまみれのパンツを履き、バスに乗り込んだのだ。
この記事は 増田アドベントカレンダー2014 6日目の記事です。
http://kai-you.net/article/10438
疑義を呈したってのが、リリックからあまり伝わってこないのとあいまって、ところどころでしつこく引用される人間発電所(のリリック)
私はこれを聴いて、率直に嫌悪感を抱いた。
ブッダに対するリスペクトはそこにあるのか、そこで引用する意味、必然性は?
と、同時に、こういったヒップホップに疎い層をターゲットにした曲で、クラシックが引用されることは、多分そんなに悪くはないことだという考えもあり、自分が老害化しているのではないかとハっとした。
加藤ミリヤとマイクリレーを収録した三人に直接意見を伺ってみたいところである。
なにはともあれ。
ヒップホップは日本の文化に浸透したのか、という話題がいまだに一定の盛り上がりを見せるところから、逆説的にその命題は否定され続けているのだけれど、先人たちの礎は着実に受け継がれ、積み重ねられている。
トラック・リリックの引用に対して、いちいちケチをつけるような大人になりたくないと思っていたのに、すでに片足踏み入れつつあるのかと思い、自戒、怖い。
用心せねば。
http://anond.hatelabo.jp/20141108113802
http://firefly1384.web.fc2.com/dokusyo/d030.html
事故が起こったのはやや見通しの悪いY字路で、トラックとぶつかってほとんど即死だったらしい。
随分前のことで誰も事故の話に触れたがらず、結局事故の原因が何なのか私は知らないが、子どもの頃 そのY字路を通る度になにか不思議な感じがした。
母はドライブが好きで、幼かった私を乗せて名古屋から神戸あたりまで飛ばしたこともあった。
夜中にぐずつく私を寝つかせるために、車に乗せて走っていたこともあったらしい。
彼女にとってクルマは必需品だったし、私にとっても自動車のおかげで助かったことがあった。
大学生になって友人が免許を取りに行くとかいう話を聞いたとき、少し考えた。
車に乗らないことで不便になるとしたら、その不便を我慢することが自分にできることだ。
……そう考えて免許を持たないことにした。
http://www.obihiro.ac.jp/~philosophy/gyouseki/car4.html
http://blog.goo.ne.jp/utukusiinatu/e/c76fb5968700d77d3b3720ef8efa7950
クルマ社会を問い直す会
http://www.toinaosu.org/library/car.html
http://melma.com/backnumber_16703_6111852/
http://blog.livedoor.jp/trike_shop/archives/1773205.html
http://news.azwad.com/post/31975473123/1
なくせ!輪禍:生活道路の車優先「考え変えて」 久保田尚・埼玉大大学院教授インタビュー - 毎日新聞
http://mainichi.jp/special/bicycle/news/20121110org00m040999000c.html
青山繁晴さんは自分はレーサーなのに、自分の息子二人には「車の免許なんか取るんじゃない」と教えたという。青山さんは言う
「車なんか危ない、乗らないほうがいい。乗らないことにこしたことはない。車はステアリングをちょっと間違っただけで人様の人生を壊してしまう」
自動車で弱者保護優先不徹底の危険運転により歩行者や自転車に怪我をさせれば下記の通り
危険な運転で人を負傷させ、または死亡させる罪。刑法第208条の2が禁じ、致傷は15年以下の懲役、致死は1年以上の有期懲役に処せられる。
危険運転致死罪。危険運転致傷罪。→自動車運転過失致死傷罪
◆第208条の2は平成13年(2001)に新設。刑法改正前は業務上過失致死傷等罪が適用されていたが、
悪質な交通事犯に対応するために改正された。同条が定める危険運転とは、
アルコールや薬物による不正常な運転・速度超過・技能を欠いた無免許運転・割り込み・幅寄せ・信号無視・煽り運転など。
なお、本罪の行為は自動車の運転に限定されており、自転車の運転では本罪を構成しない。
事故を誘発した違法駐車運転に6千万円の賠償命令 消防車や救急車の行く手を阻む違法駐車 緊急事態現場への到着、未だ遠く
http://www.city.minokamo.gifu.jp/home/kouhou/IHAN/1.html
路上駐車の運転手が女児死亡事故を誘発したとして車庫法違反で約3400万円
http://www.47news.jp/CN/200408/CN2004080601003709.html
「その車、本当に必要ですか?」“金食い虫”の自家用車の維持コスト『車への執着は捨てたほうが家計がラクになる』『1回の乗車のために、2万6400円÷5回で、5280円を支払っている』
http://diamond.jp/articles/-/24093
クラス別!車の維持費比較 例:ホンダ フィット 一年間にかかる維持費 573,186円! トヨタ アルファード 714,566円! 車売り払って捨てたほうがいいかも・・・もしくは車必要ない地域へ移住したほうが安上がり。
http://kuru-ma.com/page317.html
一体、車を持つと維持費にいくらかかるのか【持たない暮らしで豊かに暮らす】
http://fx-style.boo.jp/car18.html
http://response.jp/article/2011/09/27/162924.html
http://firefly1384.web.fc2.com/dokusyo/d030.html
http://www.obihiro.ac.jp/~philosophy/gyouseki/car4.html
http://blog.goo.ne.jp/utukusiinatu/e/c76fb5968700d77d3b3720ef8efa7950
http://news.azwad.com/post/31975473123/1
免許って、とらなくても良くない?
http://anond.hatelabo.jp/20141024205027
http://www5.cao.go.jp/j-j/cr/cr12/chr120303.html
迷走するコンパクトシティ 維持費と借金が地方を苦しめる 地域活性化の現実を見よ(3)木下斉×飯田泰之 (全4回) WEDGE Infinity(ウェッジ)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4262
自動車依存による拠点点在、郊外化がもたらす不効率の問題点 国土交通省
http://www.mlit.go.jp/crd/index/pamphlet/01/
自治体職員「すべてのもの(インフラ)を残していこうとすると、財政破綻に行き着いてしまう。」
自動車依存の蔓延による郊外化で苦しむ地域の特集 自動車依存脱却が地域を救う
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3418.html
人口減が続く見通しのなかで、税収減は避けられない。そこで選択と集中が命題となってくる。
自動車と僻地を切ることによる拠点集約効率化で生き延びるか、点在化した拠点を結ぶインフラを残すための莫大な維持費で財政破綻。この2つの道がある。どちらを選ぶかは市民次第。
事故を誘発した違法駐車運転に6千万円の賠償命令 消防車や救急車の行く手を阻む違法駐車 緊急事態現場への到着、未だ遠く
http://www.city.minokamo.gifu.jp/home/kouhou/IHAN/1.html
路上駐車の運転手が女児死亡事故を誘発したとして車庫法違反で約3400万円
http://www.47news.jp/CN/200408/CN2004080601003709.html
http://livedoor.3.blogimg.jp/himasoku123/imgs/9/5/952362b2.jpg
http://www.tkz.or.jp/con13.html
『自滅する地方』 で検索してみると、そのクルマ依存生活がいかに地域を自滅に追い込んでいるかがよくわかる。
自分の故郷が破綻だのどうだのとどうなってもよいというのであれば、それはそれで市民の選択として現実のものとなる。
また、車前提の地域は自動車の運転という高所作業並みのリスクと猛烈な維持費があるという点からしてもあまりに重たく苦しい。
それに自動車の要らない地域でも通販で家まで届けてくれるシステムがありますからね。
この手の話をはじめると、決まって「継父の虐待」とか「シングルマザーの境遇では進学させられず...」とかの
キャッチーで酷い話ばかりになる。しかし実態はもう少し中庸だ。
まず、いくら劇的な離婚劇があったとしても、日本の80~00年代で結婚した夫婦と子供の大部分は劇的に貧しくはない。
世にでる離婚サンプルは目に余るものばかりだが、国やコミュニティの自負自尊心をくすぐる例しかメディアに載らず
売文できる離婚例以外は基本表には出てこない。
で、
①慰謝料養育費のやり取りが(満額とは程遠くても)5~10年ぐらい続き
③両親の離婚過程を、ある程度余裕をもって観察することのできた子供は多く実在するが、
法的責任も道義的責任も果たす両親を見ているし、戸籍上断絶した祖父母や親類との繋がりが残ることだってある。
外のコミュニティを代替物にしてふんばるぐらいのリソースはある。キャリアを積み、家庭も築く。
~ここまでがギリギリ物語やメッセージとして一般人に通じるライン~
ここからがツライ。
引き続き、子供が成人するまでに両親とはそれぞれ緩やかな関係が残るわけだが、
下限がしれたものなら上限だってしれた程度のものにしかならない。
よほどの人徳者でもなければ、父母同士がその後直接連絡を取ることはない。
それに離婚したからといって枯れて生きるわけでもないので、職場での自己実現や再婚といった手段が視野に入ってくる。ありふれた話だ。
しかし、1対1でのコミュニケーションで繋ぎ止めていた関係性がにわかに崩れはじめるのである。
問題はそれが10年から20年といった長いスパンで起こることだ。
ミクロで見れば努力や精神論の入り込む余地があって、各々が自立する美しい物語ができあがるが、
マクロで見れば自身のルーツや幼年期の愛着を否定されて摩滅するしかない期間である。
種々の責任を果たした両親を前にして取り付く島もなく、自身も”こじらせた”子供として振る舞うことができない。
喜怒哀楽の大きな起伏を呼び起こすような局面は特になく、いい大人が長い期間をかけてすり減るのである。
こういった具合でゾンビ状態にある大人を多数相手にしてきたが、
日本人はこの手の長い時間をかけて消耗するような、自意識の強度を試す命題にとんと疎い。
なので、今日も彼ら彼女らは年一で会った親から全く知らない人間関係の話を滔々と聞くことになる。
そこには貧しさも激しい葛藤もない。
とりたてて筋が通った話にもならず冗長だから、ひたすら消耗する。
http://anond.hatelabo.jp/20141030222244
なぜなら、田舎ほど人命より自動車のわがままや危険運転容認が優先されるから。
http://firefly1384.web.fc2.com/dokusyo/d030.html
事故が起こったのはやや見通しの悪いY字路で、トラックとぶつかってほとんど即死だったらしい。
随分前のことで誰も事故の話に触れたがらず、結局事故の原因が何なのか私は知らないが、子どもの頃 そのY字路を通る度になにか不思議な感じがした。
母はドライブが好きで、幼かった私を乗せて名古屋から神戸あたりまで飛ばしたこともあった。
夜中にぐずつく私を寝つかせるために、車に乗せて走っていたこともあったらしい。
彼女にとってクルマは必需品だったし、私にとっても自動車のおかげで助かったことがあった。
大学生になって友人が免許を取りに行くとかいう話を聞いたとき、少し考えた。
車に乗らないことで不便になるとしたら、その不便を我慢することが自分にできることだ。
……そう考えて免許を持たないことにした。
http://www.obihiro.ac.jp/~philosophy/gyouseki/car4.html
http://blog.goo.ne.jp/utukusiinatu/e/c76fb5968700d77d3b3720ef8efa7950
クルマ社会を問い直す会
http://www.toinaosu.org/library/car.html
http://melma.com/backnumber_16703_6111852/
http://blog.livedoor.jp/trike_shop/archives/1773205.html
http://news.azwad.com/post/31975473123/1
なくせ!輪禍:生活道路の車優先「考え変えて」 久保田尚・埼玉大大学院教授インタビュー - 毎日新聞
http://mainichi.jp/special/bicycle/news/20121110org00m040999000c.html
青山繁晴さんは自分はレーサーなのに、自分の息子二人には「車の免許なんか取るんじゃない」と教えたという。青山さんは言う
「車なんか危ない、乗らないほうがいい。乗らないことにこしたことはない。車はステアリングをちょっと間違っただけで人様の人生を壊してしまう」
自動車で弱者保護優先不徹底の危険運転により歩行者や自転車に怪我をさせれば下記の通り
危険な運転で人を負傷させ、または死亡させる罪。刑法第208条の2が禁じ、致傷は15年以下の懲役、致死は1年以上の有期懲役に処せられる。
危険運転致死罪。危険運転致傷罪。→自動車運転過失致死傷罪
◆第208条の2は平成13年(2001)に新設。刑法改正前は業務上過失致死傷等罪が適用されていたが、
悪質な交通事犯に対応するために改正された。同条が定める危険運転とは、
アルコールや薬物による不正常な運転・速度超過・技能を欠いた無免許運転・割り込み・幅寄せ・信号無視・煽り運転など。
なお、本罪の行為は自動車の運転に限定されており、自転車の運転では本罪を構成しない。
事故を誘発した違法駐車運転に6千万円の賠償命令 消防車や救急車の行く手を阻む違法駐車 緊急事態現場への到着、未だ遠く
http://www.city.minokamo.gifu.jp/home/kouhou/IHAN/1.html
路上駐車の運転手が女児死亡事故を誘発したとして車庫法違反で約3400万円
http://www.47news.jp/CN/200408/CN2004080601003709.html
「その車、本当に必要ですか?」“金食い虫”の自家用車の維持コスト『車への執着は捨てたほうが家計がラクになる』『1回の乗車のために、2万6400円÷5回で、5280円を支払っている』
http://diamond.jp/articles/-/24093
クラス別!車の維持費比較 例:ホンダ フィット 一年間にかかる維持費 573,186円! トヨタ アルファード 714,566円! 車売り払って捨てたほうがいいかも・・・もしくは車必要ない地域へ移住したほうが安上がり。
http://kuru-ma.com/page317.html
一体、車を持つと維持費にいくらかかるのか【持たない暮らしで豊かに暮らす】
http://fx-style.boo.jp/car18.html
http://response.jp/article/2011/09/27/162924.html
http://firefly1384.web.fc2.com/dokusyo/d030.html
http://www.obihiro.ac.jp/~philosophy/gyouseki/car4.html
http://blog.goo.ne.jp/utukusiinatu/e/c76fb5968700d77d3b3720ef8efa7950
http://news.azwad.com/post/31975473123/1
免許って、とらなくても良くない?
http://anond.hatelabo.jp/20141024205027
http://www5.cao.go.jp/j-j/cr/cr12/chr120303.html
迷走するコンパクトシティ 維持費と借金が地方を苦しめる 地域活性化の現実を見よ(3)木下斉×飯田泰之 (全4回) WEDGE Infinity(ウェッジ)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4262
自動車依存による拠点点在、郊外化がもたらす不効率の問題点 国土交通省
http://www.mlit.go.jp/crd/index/pamphlet/01/
自治体職員「すべてのもの(インフラ)を残していこうとすると、財政破綻に行き着いてしまう。」
自動車依存の蔓延による郊外化で苦しむ地域の特集 自動車依存脱却が地域を救う
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3418.html
人口減が続く見通しのなかで、税収減は避けられない。そこで選択と集中が命題となってくる。
自動車と僻地を切ることによる拠点集約効率化で生き延びるか、点在化した拠点を結ぶインフラを残すための莫大な維持費で財政破綻。この2つの道がある。どちらを選ぶかは市民次第。
事故を誘発した違法駐車運転に6千万円の賠償命令 消防車や救急車の行く手を阻む違法駐車 緊急事態現場への到着、未だ遠く
http://www.city.minokamo.gifu.jp/home/kouhou/IHAN/1.html
路上駐車の運転手が女児死亡事故を誘発したとして車庫法違反で約3400万円
http://www.47news.jp/CN/200408/CN2004080601003709.html
http://livedoor.3.blogimg.jp/himasoku123/imgs/9/5/952362b2.jpg
http://www.tkz.or.jp/con13.html
『自滅する地方』 で検索してみると、そのクルマ依存生活がいかに地域を自滅に追い込んでいるかがよくわかる。
自分の故郷が破綻だのどうだのとどうなってもよいというのであれば、それはそれで市民の選択として現実のものとなる。
また、車前提の地域は自動車の運転という高所作業並みのリスクと猛烈な維持費があるという点からしてもあまりに重たく苦しい。
それに自動車の要らない地域でも通販で家まで届けてくれるシステムがありますからね。
横だが、「ちゃんとした宗教」は異教徒と夫婦になることを許さないとか、そもそも離婚がNGだったりそれに反発して新しい宗派を作ったりとか、いろいろ私生活に干渉したりされたりするものだと思う。
「ちゃんとした宗教は私生活に干渉する」という主張の対偶をとると、「私生活に干渉しなければ、ちゃんとした宗教でない」ということになります。
人様の宗教に向かって「私生活に干渉してないから、ちゃんとした宗教ではない」などと言うのは大変失礼ですよ。
①「現代の世俗化した宗教を役に立つものとして『宗教一般』と捉える」という命題を立てたのはあなたです。ここまでのツリーでそんなことを主張している人はいません。
http://anond.hatelabo.jp/20141025204732
自動車免許なんて割に合わない費用と取得のための拘束時間が馬鹿馬鹿しすぎる。
合理的じゃないんだよね。
これからどんどん地方から自動車の要らない都市部への移住が進んで、ますます写真付き住基カードやパスポートを見る機会が増えることは確実と言えます。
なんだかんだで人は車の要らない地域を求めているんですよね。
http://www5.cao.go.jp/j-j/cr/cr12/chr120303.html
迷走するコンパクトシティ 維持費と借金が地方を苦しめる 地域活性化の現実を見よ(3)木下斉×飯田泰之 (全4回) WEDGE Infinity(ウェッジ)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4262
自動車依存による拠点点在、郊外化がもたらす不効率の問題点 国土交通省
http://www.mlit.go.jp/crd/index/pamphlet/01/
自治体職員「すべてのもの(インフラ)を残していこうとすると、財政破綻に行き着いてしまう。」
自動車依存の蔓延による郊外化で苦しむ地域の特集 自動車依存脱却が地域を救う
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3418.html
人口減が続く見通しのなかで、税収減は避けられない。そこで選択と集中が命題となってくる。
自動車と僻地を切ることによる拠点集約効率化で生き延びるか、点在化した拠点を結ぶインフラを残すための莫大な維持費で財政破綻。この2つの道がある。どちらを選ぶかは市民次第。