2015-02-27

思春期特有の生きる理由探しは終わったが

生きる理由を探して来たがどうも無さそうだ。これは分かる。

ある人がとてつもない生き甲斐を見つけたとして、それは別の人にとってどうでも良い事になり得るだと言うのは分かるし、だとしてもその人にとっては「生きる理由」と言える程強く心の支えになり得る物だと言う事も分かる。

「生きる理由」が無かったとしてもその人はすぐ自殺してしまう訳ではないというのは分かるし、「生きる理由」が無かったとしてもだらりと生きていってしまう人が多い事だって分かる。

から「生きる理由」が至上の命題にはならない事も分かる。「生きる理由」を至上の命題にしたのは自分の心だという事も分かる。

なぜ生きる理由を求め続けたのかと言えば、全能感と現実矛盾やら生活への不満足やらで、見つけられれば現実を変えられると思っていたからだというのは分かる。

そんなの最初から分かってるんだよ。それでも俺は生き甲斐を見つけられねえし、逃避してなんとかつらみをごまかして生きていくのはプライドが許さねえし、心の何処かで自分が真っ当な生き甲斐を見つけてドラマチックに生きていく人間に値すると思ってやがる癖、自分から現実を変えていこうとはしない。

何で生きる理由自分自身で作っていく物だって気付いた瞬間に、悩みから開放されたかのように晴れ晴れとした顔で新しい人生の一歩を歩み出す奴らがいるんだよ。人生自由自由になるにも力が必要なんだよ。

俺はネット依存人生をブチ壊した駄目人間からな、そんな事に気付いた所で俺の駄目さは変わらないし、俺の人生は変わらないんだよ…それは分かるんだよ…

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