はてなキーワード: 健全とは
はてなブックマークやTwitterなどで、「中立」「客観」と言った態度について批判的に論じるものをたびたび見かける。特に、差別や政治など、権力闘争の類で非対称性が存在するときによく使われるイメージがある。それらについて私なりに論点を整理してまとめ、コメントしようと思う。これらの論に親和的な人も、逆に批判的な人も読んでほしい。
まず、当たり前の話なのだが、何かを批判するときは通常複数の論点から批判できる。
例えば、社会民主主義は新自由主義の立場からすれば「市場が政府権力によってゆがめられ、効率的な資源分配が出来ない上に政府権力が不健全に増大する」と批判できるし、共産主義の立場からすれば「結局彼らは資本主義や自由市場と言った搾取を『多少マシ』にしている程度であって、本質的解決には役に立っていない。どころか、革命に向かう人々を減らすという点で有害ですらある」と批判できる。
これを見て、もし社民主義者の人が「アンチ社民主義者は矛盾している。市場原理主義みたいなことを言いながら、資本主義を否定している。彼らは矛盾している」と言うのがおかしいというのは分かるはずだ。あるいは、「新自由主義者は社民主義を批判している。これは共産主義者と同じだ。よって新自由主義者は共産主義者なんだ」もおかしいとわかるだろう。
インターネットではそれぞれの発言と発言主が結びつかず、なんとなく「自分の考えを非難する人」を全部同じカテゴリに放り込む処理をしてしまいがちだ。(なお、話をややこしくするのは本当に矛盾した意見を言うやつも一定数存在することだ)
そんなわけで、いわゆる「中立」「客観」批判者は皆「お気持ち」(ここでは、自分の快不快の問題をシームレスに社会的な問題につなげて、自分の感情に社会が従うべきだ的な発想を持っている人)の人たちだ、という雑な世界観を持っている人も多いが、ここで「中立」「客観」批判の理屈に触れて、「なるほど、こいつらはこういう理由でそういっているんだな。(自分は賛同できないにしても)まあ理屈は分かるな」と思ってくれれば幸いである。
これは厳密には『中立』『客観』を否定していない。どころか、不徹底な『中立』『客観』を批判し、本物の『中立』『客観』を目指そうとする方向性も見受けられる。
実際問題、はてなやTwitterでは、『中立』『客観』(それからこれと似ている『是々非々』など)を「右」と「左」(あるいは任意の対立する二大勢力)のどちらも全肯定/全否定しないことだと思っている感じがする人が複数見受けられる。まあ確かに、「右」のいう事を全肯定/全否定、とか、「左」のいう事を全肯定/全否定すると最初から決めてかかるのは紛れもなく党派的な姿勢であり、中立的でも客観的でもない。しかし、そもそも「右」がどうとか「左」がどうとか党派性を意識し、この二者のいう事には従わないぞ!みたいに決めてかかっているのは、全く同じではなかろうか。ようは、「中道」という第三の党派に過ぎない。そうではなく、中立や客観というものに自分は完璧に到達できないのだという事を自覚し、他人が中立的であるか客観的であるかは究極的にはジャッジできない(もちろん明らかにこいつ主観的に過ぎるやろみたいな人はいるけど、そう思っている私の方がおかしい可能性は否定できない)という事を踏まえなければ、「中立」「客観」という言葉は単なる党派性の御旗にしかならない。
これは実のところ、「正義の暴走」論とよく似ている話だ。正義の暴走を非難する人は正義が嫌いなのではなく(まあそういう人もいるが)正義のために正義の暴走は抑止した方がいいという話をしている。正義の暴走とは、やっている本人たちが勝手に正義と思っているだけで、実際には悪である、というロジックだ。同じように、「中立」「客観」の濫用を非難する人が「中立」「客観」を否定していないのも当たり前の話だ。彼らが否定しているのは「中立」「客観」を装った「党派性」「主観」だからだ。(面白いのが、「正義の暴走」論を持ち出す人の多くは「中立」「客観」の濫用の問題を考えず、「中立」「客観」を批判する人は「正義の暴走」論を持ち出されると不満を表出することが多い事である。両者はほぼ同じことを言っているのだが)
まあ、つまりこの批判は「お前は自分が客観的と思ってるかもしれないけど本当は違う(かも)しれないぞ!」というものである。個人に向けるときは喧嘩する気がなければ使わない方がいいとは思うが、一般論としては(特にわたしのような『中立』『客観』が大好きな人間ほど)よく頭に刻んでおいた方がいいと思う。
こちらは、『中立』『客観』的な態度を、ある一分野のみについてとはいえ明確に否定している(と私は思う)ので、論点①とは様子が違う。
まあ言っている事は正直分からなくもない。この手の人たちが良く比喩として使うように、「足で踏んでいる人と踏まれている人」の間で『中立』『客観』的な議論を成立させろ、というのは無茶である。差別されている人と、その差別をたとえ直接はしてはいなくても差別によって得られる利益を(その自覚なしに)享受している人の関係は、「足で踏んでいる人と踏まれている人」のそれよりはるかに複雑で見えづらいものがあるが、似たような関係性であるという事は、その是非は別として、可能ではあると思う。なので、倫理的な個人が差別問題について論じるときはその辺に気を付けて論じてもよい、論じた方が好ましいくらいのことは私も思う。
しかし、この考えを強い規範として言論空間に導入することに対しては私は警戒心を抱く。
「誰が加害者か」「誰が被害者か」「どこからどこまでが『差別問題』か」「どんな事実を適示すればそれが『被害者非難をあおっている』と言えるか」
これらをみんなが納得いくように定めるのは非常に難しい。間違った基準を定めてしまえば、例えば本来「被害者」である人たちを「加害者」として力づくで非難する事や、本来「加害者」である人たちの罪悪を「被害者」として覆い隠すこともありうる。「被害者」「加害者」の推定が正しかろうと、「被害者非難をあおっていると言える事実」と認定されたものがもし違えば、その事実は公論上での扱いが不当に小さくなりかねない。差別発言自体は言論の自由で守る価値はまったくないのだが、論点②の批判が拡大すると差別発言以外も巻き添えになるリスクがとんでもなく大きくなりそうである。そもそも一国の言論空間なんて政治勢力も右から左からワラワラ湧いてくる場所なんだから、うかつに基準を厳しくしたら、その基準が「万人」でも「マイノリティ」でもなく「特定の政治権力」の都合の良いようになってしまう可能性もある。一方で、剥き出しの、それこそ差別主義者やデマもなんでもござれの「言論の自由」が良いとも思えないし、「中立」を装って攻撃を誘発する人たちを何とかしたいという気持ちはあるので複雑なところである。
(ちなみに、個人としてこの観点から批判すること自体はどんどんやったらいい。問題なのはこの考えが強い規範になることである)
①②は曲がりなりにも論として成立しているが、③は論外である。これこそが「お気持ち」である。
これについて論じることは特にない。まあしいて言うならば、「個人的な感情の表明」自体は何ら悪ではないという事は付け加えておきたい。こういう風に、自分の感情だけで他人を思うままに動かす権利が自分にあると思っている人をまともに相手する必要がないというだけである。
①②③それぞれ、言う層が全然違ってくるということがイメージできるだろうか。
①は、左右問わずおそらくそれなりに頭のいい人、論理的な思考が好きな人が言うと思う。(ただし、論理的な思考が好きな人は左に行きやすいので、左が多い気はする)
②は、明確に左の中でも主張が強めの人が言うだろう。(なお、加害者と被害者の構造を、中国と日本あたりにすれば、右の主張強めの人たちも似たようなことを言っている)ここで重要なのは、彼らの主張は我々と大きく違うが、別に彼らは頭がいいわけでも悪いわけでもない。どちらかと言えば頭のいい人が多いと思う。
③の人は、多分単純に頭が悪い。左にも右にも真ん中にもこういう馬鹿は沢山いる。ただし、バカの中でもわざわざ自分はバカですとアピールしたがるインセンティブが強いのは右左の中でも過激な人たちだろう。
「お気持ちサヨクはバカ」みたいなことを言う人たちは、多分①②の理屈で「中立」「客観」を批判している人に左翼が多いという事と、③の人たちにバカが多い事を混同して、左翼=お気持ち=バカみたいな図式を作り上げているのではないかと思う。あと、「お気持ちサヨクはバカ」と言った同じ口で「リベラル(おそらくこの人はリベラルとサヨクをほぼ同義として使っているはず)は啓蒙思想を押し付けている」みたいなことを言っている人もいた。確かに②は啓蒙思想押し付けのダメな部分全開という感じで、③はバカである。たぶん構造としては②が③の人たちを率いて暴れまわっているという感じではなかろうか。まあそんな感じで、「中立」「客観」大好きな人たちも、③は論外として①②の理屈は普通にそれなりに通っているっていうことをちゃんと意識しよう。(まあ意識できてる人もいるだろうけど)
子無しは偉くないを否定したくて躍起になる気持ちはわかるけど、集団幻覚を見始めるほどか…?
を書いた増田です
sds-page 一意性が担保されてればリアルと結び付ける本人証明は不要かな。匿名性も実現できるし。ガス代も登録時に100回くらい発言できるだけ配布すればあとは自身の発言NFTを売って稼ぐとかでもいい
少し考えてみた感じ、そのプラットフォーム自体に本人証明が無くても、発言した本人が任意で他のプラットフォームと紐づけて「誰がそれを言ったか(議論においては当面重要な要素だと俺は思ってる)」が分かるようになれば俺としてはオッケーな気もするので、ちょっと検討してみるよ
まあとにかく検討はする
発言NFTで稼ぐっていうのも最初は「ん?」ってなったんだけど、やりようによっては書籍とかでクローズドに主張を展開して稼がれるよりよっぽど健全かもしれないし、人も集まるかもな
正直個人的にはNFTまわりと元記事の要件絡めると(本人証明無いとしても)実現可能性が全く見えなくてすげえハードル上がるんだけど、要件は絶対じゃないし、面白そうだしやるよ
cinefuk 議論と言いつつチーム戦でワーワーやって、荒らし行為や恫喝・脅迫も出て「皆が立ち去ったあと最後まで立っていたものが勝利者」みたいなBBSが大多数。議論には公平な調停者・司会者が必要で、そのモデルは裁判所では
個人的にはプラットフォームの作り方・在り方次第かなと思うので、細っちょろい腕の見せどころ
法曹とかの専門家じゃないので間違ってたら本当に申し訳ないしボロクソに指摘して欲しいんだけど、裁判所は議論の場として参考になるところとならないところがあって、一概にモデルにはできない
なんかは参考になる
なんかは参考にならない
一応補足しとくと、裁判所を悪く言ってるわけじゃないし、参考にならないところも「じゃあどうしよう」って考える材料にする
公平な調停者・司会者を獲得するには、まず「公平な調停者・司会者とは?」の議論をちゃんとするところから始めなきゃいけないと思う
それは議論の場を作った次のフェーズの話になるので、現状のフェーズでは個人的には不要
そもそもモデルって言葉自体がすげえ多義的だから、俺の解釈違いで「参考にできるところだけ参考にすればいいんだよ」っていう話なら承知した
俺みたいな色んな方面で素人な奴が一人で作るより、色んな人がそれぞれの立場で各々の考える「みんなに議論を促す場」を作って欲しいと思ってずっと増田に書いてる
なんでそんな議論させたいの?みたいな話は↑の元記事の方に書いてるので読んで欲しい
そんでツッコミどころあったら教えて欲しい
向こうが「基地廃止」以外の結論を一切受け付けないので、反対運動の信用を毀損する方向に切り替えただけだよ
要するに「基地反対派は○チガイ集団なので無視してOK」という方向へと切り替えた
ここから挽回するためには沖縄県民が自ら基地反対運動の健全化を断行するしかなくなったし、もはやそれが絶対不可能なのももう分かってるからね
まず子供の健全な成長に興味がないから、パンとかお菓子を置いて自分は男遊びとかに行ってしまう。
パンとかコンビニ弁当だけで育つと子供はキレやすくなり、社会的問題を起こしてしまう。
そしてまた毒親に。
自分たちの手で新しい雑誌、週刊ジェンダーを作れ、って声がある。
当てつけみたいな動機で雑誌を創刊しても、作者のモチベは湧かないでしょう。
本当に必要なのは、コーヒー豆とかのフェアトレード認証のような、適正さを確認する手段だ。
『多様な読者が安心して、性的消費などに脅かされずに読める。推せる』
具体的には、みんなが集まって漫画やアニメの性的消費具合などをレビューする。
批判ダウンボートが増えて、それに疑義が呈されなければ ★ が減っていく。
デフォルトでは ☆★★★★ 未満の創作はリストに表示されない。
このアイデアならば、作者を隷属させず、しかも表現の自由も抑圧しない。
忙しくて買ってあげた漫画の細部までフォローアップできない家庭は多いはず。
娘に「カップ数をあげつらわれて辛いね」と寄り添うケアの出来ない家庭でも、息子に「クラスメイトのカップ数を取り沙汰しちゃダメだからね」と性教育で相殺したりする暇のない家庭でも、リストに従って買うだけで子どもたちへのサポートの手間を省ける。win-win だ。
家庭での性教育・子どもへのケアの必要性は昨今叫ばれているけれど、実際、共働きの多い現代では難しい。現実的じゃない。健全に回る社会としては、その仕事は、むしろ誰かが肩代わりするべきだと思う。
ただ心配なのは、サイトの運営は広告費やらマイニングやらで賄うとして、協力してくれるボランティア——性的消費度の評価をしてくれるユーザーが十分確保できるかどうか、なんですよ…😔
興味があるならこちらをどうぞ
そして『自己愛性』のパーソナリティ傾向です。「私は特別、私はすごい」という思いが前面に出るパーソナリティ傾向のことですが、
こうした万能的な自己像が損なわれることを恐れて、対人関係を回避する、試される場を回避するといった受身的な形で表れる
自己愛性の高さもあります。ひきこもりの背景要因となる自己愛性とはこの傷つきやすく受身的・回避的な自己資性パーソナリティ傾向だと思われます。
これは、甘やかして育てら れた人、傷つくことなく育てられた人のパーソナリティ傾向と誤解されがちですが、
実際 には健全な自己愛の展開を阻まれたり踏みにじられたりした経験を通じて、
特に思春期青 年期のある局面で均衡を欠くほど高い自己愛性を顕わにするという形成過程を持つのが普通です。
だから自己愛性パーソナリティ障害の人は、自分が特別であるということにこだわりながら、傷つくことを非常に恐れているのです。
なお、ひきこもる中でこうした自己愛性が二次的に高まっていく心理過程もありうると思われます。
これは屁理屈でも冗談でもない真面目な話なんだけど、無条件で嘘はいけないとは言えないよね。
「議論を健全に進めるためには」嘘をついてはいけない、みたいな隠れた前提がある。
そこをもうちょっと考えてよ。
キモオタにとっちゃ基本現実ってのは趣味と不可侵のものなわけよ。激しくどうでもいい。昔のアイドルオタクですら、ステージの上にいないメンバーのことなんて大半は気にも留めない。
でもな、今のオタクコンテンツってのは現実と結び付けようとしてくるわけよ。アイドルはSNSで日常配信しまくるし、アニオタ向けには声優アイドルが出てきた。Vなんかまさしくそうだろ?風呂入ってない生主の女が美少女のアバターつけただけで二次元キャラ扱いされてもてはやされる世界だ。
で、Vtuber大好きなイラストレーターのツイッターを見ると、V以外の話題はゲームと映画の話ばっかで、基本アニメ漫画に触れてない。触れたとしてもガンダムみたいな一般知名度の高い作品か話題作だけ。作り手が何しようと自由なのはその通りなんだが、どうしても「こいつオタクじゃなくて美少女が描ける一般人だよな…」って思っちゃう。
アニメ漫画自体も一般化が進んで、美少女がいるというだけで迫害されないことはまあいいことなんだが、相変わらずラノベなろうは差別対象だし、地上波のオリジナルアニメはサンドバッグだし、話題になるアニメも基本週刊少年漫画のアニメ化だし、なんというか健全化というか徹底的に脱アングラな方向に進んでいってキモオタ的にはあんまりおもしろくない。
キモオタからオタが消えるのは単なるオタクの加齢のように言われてるが、実はキモオタがオタクコンテンツを取り上げられてるからじゃないのか?
くだらねーと思うんだよね。
俺はわかるよ、俺らにとって必要な食料を売っている人が儲かるってのはWin-Winだ。俺は食う、生産者は儲かる。
リモートの時代に運送屋が儲かるってのもうなずけるし、入院患者が仕方なく増加して看護師が儲かるのもわかる。
だが現実を見てみろ、儲かってるのは誰だ?
お前にとって必要もないものを必要と思わせて広告を打ってる奴は儲かっているし、お前の思う陳腐な「勝ち組」の定義の中にはこいつらが含まれてるだろ?
青汁、サプリメント、化粧品、ダイエットに関するエセ科学的な何か、アトピーに関するエセ科学的な何か、効果が怪しい睡眠に関する何か、無料で手に入るようなプログラミングの情報が情弱向けに高額で売られる...数えればきりがない。
何かで悩んでいる人のその悩みにつけ込んで、全くデタラメなものを売りつける。そういう詐欺まがいの行為で儲かってそれが「勝ち組」か?
旧約聖書を信じている人たちは、昔から詐欺師のようなものは存在し「そういう悪になるな」と説いている。
そういう宗教に頼らずとも、まともな人間は倫理観というものを持っている。詐欺で儲けて「俺は勝ち組だ」なんて誇ってるのはサイコだけだろう。
かと思えば、詐欺行為でさえ「需要の促進だ」などと主張する輩もいる。公共のテレビでインチキサプリメントを売り出してる時点で、社会は狂っている。
健全な資本主義社会だったら、消費者が価格や品質を合理的に比較して、同じ料金の中で最も高品質のものを選ぶか、同じ品質でも価格が最も安いものを選ぶだろう。
だからまったく効果のない高額サプリメントなんて消費の対象にはならないはずだ。
ところが現実はどうか。消費者から「比較のための合理性」そのものを奪い、情弱を騙すことで成り立っているじゃねーか。何が勝ち組だ。
お前はアプリをインストールする時、レコメンドされた一番のやつから検討するだろ?それがすでに情弱として騙されてるんだが、最も合理的な人間は、同じ機能を持つアプリの中で無料かつ広告なしのものを選ぶ。そういうのがレコメンドされないのは、奴らの利益のほうが消費者の合理性よりも重要だからだ。
お前が本当に合理的だったら、カスタマイズ可能な無料のDNSサービスを使って不要なあらゆる広告の類をブロックするだろう。現実は、せいぜいアプリケーションレイヤーでadblock plusだのを使うぐらいの合理性しかお前は持っていない。いや、そういうadblockerすら使ってねーか?
俺が言いたいのは、つまりこういうことだ。負け組は善人、勝ち組はサイコ。
それは本当に事実だから、負け組(あるいは数々のエッセンシャルワーカーの類)を見下すことによって居心地の悪い社会を作るのをやめろ。
いや、詐欺で儲けることを「勝ち組」などと誇りとするぐらいのサイコだからこそ、エッセンシャルワーカーたちを見下すことができてしまうのだろう。
[追記]
一応言っとくが、俺が発言してるのはこの元増田としてだけなので、枝でコメントしてるのは俺ではない。以下はツッコミ。
勝ち組って、別に「人を騙してうまくやってる奴」って訳じゃないだろ。 真面目にやってる人の方が多いだろうが。 単に技術や能力に高付加価値があるってだけ。
真面目に価値のあるものを生み出して儲かっている同士については文句は言ってないよ。「必要のないものを売りつける連中」こいつらを勝ち組と呼ぶなって話。
貧困おじさんは、劣等コンプレックスとひがみで人格が崩壊しちゃってるからね 少しでも羽振りが良い人間を見ると、「ケッ、どうせずるいことやってるに違いない」と思い込んでしまうんだ
現実を見てみろよ。例えばGoogle広告は、ユーザーが技術に疎いとわかればアドウェアを平気で表示するからな。初期のGoogleには本当にクリエイティビティを感じたが、最近は収集した個人情報を使って人の弱みに付け込む詐欺手法をテクノロジーで自動化しているような印象しかないな。The Social Dilemmaってドキュメンタリーを見ればお前も意見が変わるかもしれない。
これは一理あると思った。俺が疑問なのは、必要なものが軽視されて、不要なものが重視される理由だな。
お前のようにキーキーと脊髄反射する馬鹿がいてくれるなら、「勝ち組はサイコ」って言った意義があったというものだ。
なんか「勝ち組」って単語1つにだけ反応してる読解力0が多くて面白いな。
労働市場ってのは結構多様で、労働価格を比較する程度の労働供給者(働く側)の合理性と、労働者の質を正確に判断できる労働需要者(雇う側)の合理性があればある程度市場はちゃんと機能すると俺は思うよ。
お前が言いたそうなこととは違うが、労働の価値よりはビジネスの価値を俺は疑ってる。
例えば「広告を使ったビジネス」的なものは消費者から合理性を奪ってるし、詐欺的だし、社会が悪化してる側面もあるだろう。(もちろんそうじゃない側面もある)
お前みたいに「医者が給料もらえてズルい!」とか俺は思ってねーしな。
正論。個人的には、価格.comは資本主義のあるべき姿だと思うし、ああいうビジネスがもっと評価されるべきと思ってる。要は、消費者の合理性を支える類のビジネス。
たぶん「消費者が合理的になったら困る連中」をまとめて「詐欺師」と呼んでも大して間違いではないと思ってる。
何でこれがわからんの?
ねずみ講って言うんやで、これ
ホンマ、ふざけてるよな
サブプライムローンの話をしてるなら、確かに詐欺的な側面はあるかもしれないな。
ただ「すべての投資が悪い」ということにはならないので、何らかの金融商品が実際にどういう効果を生むのかよく分析したほうが良い。
ネズミ講おじさんがよくわからん理屈を出したせいで、何言ってんだレスばっかりがついて
結局ネズミ講おじさんが言いたかった格差の拡大という問題についてはネズミ講おじさん含め誰も真っ当なことが言えないっていうの
それを言うなら、元増田の俺が「消費者が合理的に取引できることが重要、その合理性を奪うのは詐欺的」「エッセンシャルワーカーの存在を尊重せよ」って話をしてんのに、いつから「格差の拡大」「ネズミ講」の議論に?
少し前の話だけど、有名な俳優が訪れたクラブのキャストに暴力を働いたということで出演していた番組やCMを降板になった。
番組自体が終わってしまったものもあって、昆虫をテーマにしているそれは俺も大好きで、いい大人が昆虫のことを熱っぽく語っている様子が面白かったし、やっぱり俳優その人が好きだったんだと思うんだけど、そういうことをする人物なんだと知って、もう前のように観ることはできなかったと思うから、しかたがない。
それを受けて、あるインフルエンサーの一人が「その俳優について意見するのは自分とまったく関係のない物事について延々議論するのと同じだから、自分の問題に向き合った方がいい」ということを言っていた。
この発言の細かい文脈はよくしらないが、他人のことにごちゃごちゃ言うより、自分が抱えている自身の課題に集中した方が合理的だし健全だよ、ということだと思う。
そこで主張されている(と推測される)ことは割りと理解できて、他人の情報に気を奪われるよりも自分の生活や夢を守る方が大事だろう、というのはもっともだと思う。
ただ、それじゃあ件の俳優の事件がまったく問題視されず、事件以降も堂々と映像作品に出続けていいかというと、そうではないとも思う。
映像に対して、「こういう人だと知ったら、もう前のようには観られないな」という消費者としての接し方と、「こういう人が制裁を受けずにこれまでどおりでいられるのっておかしいし、そういう社会のあり方は拒絶するべきだろう」という共同体の構成員としての責任があって、この二つは重なっていることはあっても、個別のものだと思う。
社会の進んでいく方向に対して、どうも違和感があるなら、それに疑義を示すリソース(時間や体力)は生活の維持とか将来の夢に向ける努力とは別に費やされていいわけで、そういう意味で、思うところがあったら言うべきだろう、と考える。
ただ、その主張に対する熱意が度を越して、身体の健康を害したり周囲を巻き込んだりするとそれも問題であって、そうなるぐらいなら「俺にはカンケーないんで、俺は俺のことだけやってますね」という方がいいのかもしれない。
あと、件のインフルエンサーだって、別に当該の俳優が起こした事件がまったく問題ないと思っているわけじゃないだろうし。
「(お前が首つっこまなくても、しかるべき制裁を受けてしかるべきところに落ち着くんだから、)お前はお前のことをやっとけよ」というのは、アドバイスとして悪くはない。そういうことだけじゃねえだろ、と俺は思うけど。
芸能界の話ばっかりだが、以前、不倫騒動を起こして妻と離婚したある俳優がいて、近況を最近記事で読んだのだが、ネットのコメントでずっと怒られている。
人ん家のことなんだし、どうでもよくねえ? と俺は思っている。
元妻だった女性との間で法律的に決着はついてるんだろうし、心理的にも解決…はしてないのかもしれないが、別に禍根が残ってても、俺たちがどうこう言うことじゃねえじゃん、と思う。でも、許せない人には許せないらしい。
ただこれも、「こういう男が時間が過ぎたらなんとなく許されてのうのうと社会、ましてや映像業界に復帰できてしまうから、いつまで経っても女性の立場が改善されないんだ、だから怒りと拒絶を示す必要があるんだ」と言われたら、あ、そうなのか、と思ってしまう。
そうなると、先に書いた別の俳優の暴力事件に対して表すべき反応との違いがわからない。そうか、じゃあどっちもいかんか、となって区別ができなくなってしまう。
自分以外の誰かのために必ず示すべき怒りがある。一方で、その感情によってむしろ何かが損なわれている怒り、あるいは、誰かのためのようでいて実は自身のための怒りもある。そこのところがよくわからないが、「怒っても時間の無駄だから自分のことをした方がいいぞ」というのは賢いんだろうけど、ちょっと違うよなあ、と思う。
だって、今の俺たちの生活も、俺たち以外の誰かが未来の俺たちのために怒ってくれた過去からできているものでもあるだろう、と思っている。