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2024-06-24

anond:20240624213334

自己評価他者評価との乖離についてだけど

ASDの美しい(完璧な)状態を求める傾向と嘘をつけない(嘘は気持ちいから)の間でバグってる感じする

私は他人お気持ちは私が操作する領域ではないと考えていて

私は納得いかないがそれはそれとしてお前はそう感じたんだな、或いはそのように言うべきだと考えたんだなと受け留めるしかないと思ってるよ

甘い物食べだすと止まら

食い尽くし系とかい言葉あるけどあとちょっと理性がなかったら甘い物verのそれになってたと思う

普通ご飯にはあまり興味がなく少食、すぐ腹いっぱいになる

でも食後のデザート食べだすとお腹いっぱいだったはずなのにいくらでも食える

お腹破裂しそうになるまで食べ続けてしま

やめたくても目の前の甘いものが無くなるまで止められない

自分意思とかそういう次元ではない

食べてる間脳から何かの物質が出続けているのは自分でもわかる


色々調べたけど、過緊張→甘いもので緩和している説が一番近いか

常に身体中に力が入っている

発達障害あるあるらしいが特に診断は受けていない

ASDの項目は当てはまりがちだけど


過緊張がなくなればいいんだろうけど何故か無理

家にいても寝る直前でも常に過緊張してる 

常に腹に力を入れて生活している。しんどいけど無意識

寝てる間も歯を食いしばり続けて朝起きたら疲れている始末

甘いものを食べているときはこれがマシになってるのか?

自覚はない

ただ食べ続けてしま

脳がバグってる感じがする

胃に悪そう

ASDなのでホラーがまったく楽しめない

anond:20240624182526

自分ルール押し付け尊大ASD

ひたすら受け身受身ASDがおってな

受け身型は大人しくてチーム内でも働けるよ(報連相ができれば)、ずっと不思議チャンだけど…

 

anond:20240624084844

これ言ったら戦争になりそうだけど

プロってASDの人多そう

みんな、どんな場面で嫉妬する?その嫉妬にどう対処してる?

知りたい。

私は、所有権とか知能、属性には正直嫉妬心が沸かない。

例えば、お金持ちとか、文化資本とかIQとか都会田舎とか年齢とかステータスとか。

お金持ちである事の自己開示とか、「俺・私、自分と同じように教養ある人求めてるんだよね~」とか話されても、

(そんなセンシティブ話題を開示してくれたんだ)と思って、自分とは違う表出だけど、コミュニケーション不器用な所が共通しているな、と、親近感が沸く。

相手アピールしてくるパターンは、こちらに敵意を持ってる事はほぼないと感じているのもあるのかもしれない。

私は夫に嫉妬するんだけども。

夫は、人からいじられても、どう思われても気にせず機嫌が良くて、男女問わず全員からうっすら好意を貰っている。

話を聞いていたり、様子を見ていると、好意故にちょっかいを出されているのが伝わってくる。

私は、みんなから好かれる、夫の人当たりの良さに嫉妬してる。

夫は容姿が端麗で、抜けている所があって、抜けている所をいじられると美味しい反応をするし、とにかく怒らなくて親切だから、男女、年代わず気に入られる。

この振る舞いを自然体でやってる。(夫は私に「考えすぎ。適当にすればいい」というし、まわりも「(夫)は適当マイペースだよな~」といじっている)



一方私は、ASD+ADHD由来の異常特性や(診断済)、自己顕示欲等、人を不快にさせる気質が元来強めだったから、今の振る舞いは苦労して体得した。

(今でも、どう振舞うべきかは分かっていても、感情がついていかず、出来ていない場面も多い)



かつての私は、私と同じように浮いている男性(Bとする)が蔑ろにされている現場に憤り、おかし正義感を持ち込んでしまったり、

(他の男性集団がBを悪意を持っていじってるのを見掛け、居ても立っても居られず「Bさんはおかしくないと思う」と急に場に割って入り、雰囲気をぶち壊して、男性集団とBに距離をおかれる等)、

同性と仲良くしたいと思いすぎて距離感がおかしい人になってしまったり、失敗し続けてきた。今も失敗したりする。(今も続いている友人は本当に奇特聖人だ)



何年も悩みながら、たまたま人に恵まれた縁もあり、友人関係職場関係を細々と築いてきた。

現在だって課題は山積みだけど、今も私と交流を続けてくれている人達には感謝しかない)

しかし、自分気質性格、癖の強さ、全て変えたい、夫のようになりたい、と思う余り、一番大事にすべき家族(夫)に嫉妬してしまっている。

夫に負けず嫌いを発揮しても意味がない(夫も困っている)ので、この問題を親や友人、医療機関相談しているけども、

自分感情コントロールするのは難しいので、一進一退を繰り返している。



私は、「人に良く思われたい」思うプライドの高さがあり、それが出てしまっているから、人を不快にさせてしまっているのかなと、自身分析している。

プライド、捨てたいんだけど、ふとした瞬間に発揮されてしまう。

私が欲しいものって、「自分本位でなく、相手本位で、臨機応変に動ける、押しつけがましくない優しい、プライドを気にしない」気質なんだろう。

私は心が別人になりたいのかもしれない。(アイデンティティを捨てたい、ということ?)

勿論、自分自分気質を変えたい、と思ったプライドの高さで変わろうとし続けたから、変わってこれた(自己認知を変えれた)部分もあるので、今の自分を受け入れもしたい。

だけど。癖が強くて気質問題のある私と、向き合い続けてくれた人達(友人、医療機関職場の人、家族など)の為に、どうにか改善させたい。

(私の癖が強すぎたら、周りもかばいきれなくなる。私と向き合ってくれている人の為に、もっと人当たりが良くなりたい。)



皆さんはどうやって自身嫉妬心プライドと向き合ってますか?

近い悩みを抱えている人が居たら、体験談を聞きたいし、症状や気質が緩和した人が居たなら、アドバイス欲しいです。

考え方等、認知面の改善策は勿論のこと、投薬や環境の変更等、物質的・物理的な方法も歓迎しています

2024-06-23

anond:20240614001326

投薬で治る発達障害ADHDだけだから注意

ASDLDなどは治らないよ

anond:20240623120754

人間相手によって態度を変えるし振る舞いも変えるんだけど、ASD傾向が強いと他者への共感そもそも困難だし、相手のこと予定通りに動くロボットだと思ってるからまさかロボットが実は人間相手によって振る舞いを変えるとは思ってないんでしょう。

 

ただ知識によってその認識は変えることができるから。わからないのは怠慢でしかない。

anond:20240623120122

ワイはASD診断済みやから

隠れASDに詳しいね

どんどん炙り出したるで〜

結婚しろとか子供産めとかいう人積極奇異型なのでは?

<積極奇異型ASDとは>

積極奇異型ASDは「自分ルール他者積極的に働きかけるASD」になります

 

ASD特性からどうしても働きかけが一方的になり、相手疲弊することが目立ちます

 

自分よりも相手不快感を覚えて、トラブル孤立リスクが出てくることがあります

2024-06-21

anond:20240621214527

書いた俺がASD/ADHD併発かつ手帳持ちのため自覚がある

自他境界曖昧さ故に、油断して自己他者を切り分けられず同一視してしまったとき、正負問わず強烈な感情に見舞われる

これを今まで共感力が高いのだと思っていたが、違った

anond:20240621114344

共感力が高いのではなく、自他境界曖昧他者物事の影響を受けやすいだけ

他者の状況、感情、起きた出来事自分事だと錯覚して感情が想起されることを共感勘違いしている

HSPとかもこれだし、ASDADHD等の発達障害でも見られる特徴

こうした自他境界曖昧さ加減に男女は関係なく、比率女性の方が勝るかなぐらいのもの

anond:20240621114344

男性女性ではコミュニケーションに違いがあるのは誰でも感じていて、互いを見つめているのか、同じ方向をみているのかとか色々な例えがあるよね。

んで、増田共感力無いやつなんて男女ともいるじゃんっていうけど、男女でその設定してるゴールは違うと思うんだよ。

女性場合共感」しているのなら、こういう反応になるはず。というルールというか"お作法"がかなり強力に影響を及ぼしていて、その許容値をうっかり踏み越えてしまうと「共感していない」つまり敵対行動をとっていると見做されるんだ。

共感」が無くても、そのお作法にのっとったコミュニケーションスタイルを実行している限り安全担保される。(コミュニティからハブられない)

このお作法は、幼少の頃から鍛えあげられて体得していくもので、保育園児にすらその片鱗が観察できるよ。ビックリするよ。(最近小学生女児向けの教科書的な児童書であるらしい)

この周囲を観察して適切な行動を選択する為に必要能力は二つある。「同調力」と「知能」だ。

知能が低くても同調力が高ければ、周囲と同じ行動ができるので浮く事はない。無難にやっていける。

同調力が低くても知能が高ければ観察力とパターン認識によって同様に行動を矯正することができる。(但しその必要性を感じていれば、であるが)

同調力が低いのは「ASD」という診断名がつく障害の特徴のひとつで全人口の1〜2%で男女比は4:1と言われている。

そして知能指数ベルカーブを描いているので当然男女関係なく標準より低い数値をしめす人々は社会なかに混在している。

増田が言う「共感力」って男女関係なくね?ってのはそういう事だろう。

ただ女性コミュニティに関しては上記の通り強力な圧力がかかっているのでお作法通りに偽装出来る人、結果共感しているかのようにふるまえる人は男性コミュニティより増える。

今厄介なのは男性にも女性同様のコミュニケーションを求める女性だ。幼少から鍛えられた同調力という筋肉で殴りかかってくるので、鍛えていない男性は心をボロボロにされる。自覚してない女性は多いよね。

昭和時代なら男なんてそんなモンで流せたのにねぇ

アスペ苦手だからぴこぴこぱんってidブクマカコメントつけられると萎え

ズレてる癖に謎に不遜なかんじが職場ASDと似てるんだよなあ

コミュ障ASDの女、コスメカウンターしんどい

美容室はまだいい

ホットペッパーで予約して静かに過ごしたいにチェック入れて、それでも施術内容以外の話をしてくるタイプ美容師さんでも広がらない返しをすればまだ大丈夫

ここで頑張って普通っぽく振る舞うと消耗する

しかコスメカウンターはどうだろうか

基本的普段使っている商品や肌についての質問をしてくるので、ちゃんと答えた方が自分のためである

その質問は慣れてないのもあるが予想外のものが多く、基本的オープンクエスチョンばかり

日常生活で浴びないレベルの、光が指すフロア

初対面とは思えない近距離で顔に色々塗りつつ様々な商品も勧めてくださるBAさん

最終的に近距離で見つめられながら何を買うか自分で選ばなくてはならない、混んでて整理券配られてたりしたら余計に焦る

そんな文句言うならオンラインで買えばいい思うかもしれないが、実際肌につけて荒れないか・似合うかどうかを確認せずそこそこな値段を出す勇気が私にはない

どのブランドベースメイクスキンケアサンプルは送料払うから送ってくれないだろうか

2024-06-19

anond:20240615034009

サリーとアン課題言語理解が高いASD論理的理解して正解できるんだって

定型発達の見ればわかる、カンでわかるのと過程は異なれど結果は一緒だから

見過ごされて大人になってから診断のパターンになるのかね

2024-06-18

anond:20240618221543

途中で切れた。長いと切れるんだな。知らなかった。

・総括

概観してみると、今の私を状態説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。

特性を持って生まれ子どもが、いわゆる体育会系世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援必要特性について見過ごされたまま、強いストレスを肉体と精神の両方に受けることになったこと。

また、発達特性が仇となり、ストレスを軽減するための人間関係を作れず孤立したこと

これらの要因により精神的な限界に達した時、受けた負荷が強いパニックの形で噴出してしまい、結局はそれが水泳挫折する原因になったということ。

その後も必要ケアが十分には受けられなかったこと。

また、子ども当人(つまり、私)が、その負荷をむやみに強いられたと感じ、母親への不信を深め、その感情に向き合って修復する機会がないまま、成人後に関係破綻させてしまたこと。

そして、これらの感情的な傷付きに至る経緯とは別に特性について適切なケアトレーニングを受ける機会を得られなかったこと。

これらのことが、社会に出てから仕事への意欲が薄いこと、将来への展望を描けないこと、社交場面における不安などに影響し、また自分特性を扱う上での経験不足がストレスによる不眠、日中の眠気などに繋がり、上記不安拍車をかける結果となった可能性はあるのではないか、と私は思う。

そして、冒頭の「あなた言葉感情説明しない」という指摘もまた、やはり『嫌だ』『つらい』という訴えを繰り返し退けられ練習強要された経験から自分のつらさを他人に訴えてケアしてもらうことを諦めてしまい、直視せずに蓋をすることが常態化している精神状態にある、そのために精神的な問題を抱え込みやすくなっている、と説明できるかもしれない。

また、休職前に孤立無援と感じられる状況にふたたび置かれたことで、水泳パニックを起こしたときのように、強いパニックをおそらくまた起こし(あいまいな書き方なのはあんまり覚えていないので)会社に行くことができなくなっている。

これが当時のトラウマのいわゆる『再演』にあたる可能性はあるかな、と少し思う。

とはいえである

両親は私を愛しすぎるほど愛してくれており(少し連絡が取れないだけで着信を100件超えて入れるのが常態化していた程度には)、特に金銭の面では一般的な親の倍以上に私に支援をしてくれたことは事実である

上記事実をもって、私をまだ幸運なほうと思う人もいるだろうし、就活のくだりなんか、特に甘ったれていると思う人間も多いだろう。

ただ、3歳〜16歳ごろの人格形成期+思春期に、チームメイト精神的にまったく連帯できない状態スパルタ式の暴力的な教練を日がな毎日受けるという負荷は、おそらく定型発達の人間でも耐えられる人は限られるのではないか、という気もする。

そういう負荷に発達特性のある子どもが挑む場合には、おそらく精神的なケア定型発達の子ども以上に必要重要なことだったのだろうと思われる。

私がそういう子どもであったことが親の不運で、特性由来のストレスに対する適切なケア社会トレーニングの機会が得られなかったことが私の不運である

正直なところ。

母は小学校高学年くらいの段階で、私を発達障害者だと疑ってはいた。ネットの普及し始めた当時、私の持つASD的な特性の一部分はアスペルガーと呼ばれていたが、そのことについて母が情報収集していたことを覚えている。

しかしそれは、障害を受容した上で、適切な支援に繋げるという結果にはならなかった。

ちょうどそのくらいの時期に平成不況がやってきたのだ。私の特性を考え、進学先に私立中学を視野に入れていた母の計画は、完全にそれどころではなくなってしまった。父の会社にもリストラの波がやってきたのだ。

タイミングの悪いことに、私が水泳の過度のストレスからチックに陥った時、ちょうど母は不況への恐れからパートを始めたばかりの頃だった。私の『病気』の原因について、母は周囲からの責めを一人で負うしかなかった。父の両親との二世帯同居の家で、専業主婦の母は孤立した養育者だった。

結論から言うと父はリストラを免れ、我が家経済危機回避されたのだが、その頃には私の私立進学計画はとっくに頓挫していた。母が「結果で黙らせなさい」と言うようなことを口にし始めたのも、この頃だったかもしれない。

父親はというと、やはり私の親で発達的な特性が強く、自分の興味のあることしかやりたがらないタイプだった。養育者として、社会的な範を示すとか、発達的な特性とどう付き合っていくかとか、そうした問題についてまったく頼りになる人ではなかった。

悪い人ではない。悪気のある人でもない。一流企業にまじめに勤め、高収入であり、私に関わる多額の費用を全部賄ってくれた人である。そしてそれが、おそらく自身でも困りごとをたくさん抱えていたであろう身で父にできた、私への精一杯の愛情だったろうと思う。

母もまた、母の出来ることを最大限にしてくれた。母は、思春期の私の苛烈で発達のアンバランス性格(受けていたストレスを考えると、おそらくそうなるしかなかった)に何度も振り回されて、傷付き、それでも最大限考慮した上で、「あなたは結果で黙らせなさい」と言うしかなかったのだと思う。

これは私がどう生き、どう傷つき、現在どう困っているかにまつわる記録ではあるが、同時に単に毒親から被虐待についての記録としてはなるべく書きたくはないと思っている。充分悪者に書いただろう、と思えるような筆致だったかもしれないので、ここに補足しておく。私は難しい子供で、両親は常に一方的加害者ではなく、私を支援してくれようとした。私たちはお互い感情的な対立を何度も経験し、お互いに何度も傷付き、それを乗り越えてきた。その過程でいくつか間違いがあり、一度関係破綻してしまったが、それでもまだ、この先に和解可能性がないわけではない。

それぞれの人間がそれぞれに苦しんだ結果、私の今日につながっているのである

・これから

これを書いているいま、これからどうなるのか私にはわからない。これらの生い立ちから私が受けた傷を癒せるかもしれないし、そうではないかもしれない。困りごとを軽減してなんとか社会で上手くやっていけるかもしれないし、どうにもならないかもしれない。

ただ、良くなってほしいという希望を持って先生たちは治療に当たってくれているし、希望は捨てるべきではない。そう思うので自分恥部を曝け出す覚悟でこれを書いた。一種の『底尽き』を気力で前に持ってきた、というやつかもしれない。

ただ、強いトラウマを抱えた発達障害当事者予後は正直あんまり良くなさそうだなぁ、とは、当事者たちの声をインターネットで拾ってみて思わなくもない。

・これからどうしたい?

社会復帰がどうなるにせよ、実家にだけは帰りたくない。

ただ、復帰できないとこれが現実に起こりうることが現状最大の懸念である

プリントアウトして病院池添謙一

当然、持っていく予定である

プラダリアの取捨だれかおせーて。

カウンセリング先生も「感情説明しない」と言っただけで、そこまでドバーッといきなり半生にまつわる自己開示が出てくると思ってないんじゃない?

それはそう。

カウンセリングにはこの記録を持っていこうとは思うが、どの程度まで自己開示すべきなのか、いまが適切なタイミングなのか、そのあたりをきちんと確認しながらやっていこうと思う。

少なくとも、これを書き下せたことで、私の中では問題解決へ向けて、整理と準備がついたと思っている。

・おまえが誰かわかった

べつにわかってもいっかと思って書いている。とくに失うものはない。

何かしらの連絡手段で私とつながっていて、内容でなんとなく察した人は、「もしかしてこれお前?読んだよ」とメッセージくれると嬉しいよ。困窮者だ!金ヅルにしよう!と思って寄ってこられるとちょっと悲しい。というか休職人間に金はない。

やあ。まだ生きていますよ、私。あなたはどう?

・本当のトラウマもっと混沌としたもので、こんなに整然と説明できるものではないのでは。ストーリーをがっつり作りこんで、無意識に本当に触れられたくないことから逃げている可能性はないか

自分言語理解比較的高い特性を持っているので、書くことによって自分をメスで捌くように腑分けして、人前に晒すという自傷行動に割と慣れているし、やはり言葉によって自分説明できるとなんとなく落ち着くタイプである。その助けもあってなんとか書き切れたが、それでも書き切るのにかなり涙を流したので、この記録には多大な精神的労力を必要とした。文字通り血を流しながら書いたと言っていい。

その上で、超フラットに、予断を挟まず言えば、その可能性はないとは言えない。私のような人間レトリックを使うのがうまい。そのレトリックの中にいつでも逃げ場を作り出せてしまうので、「可能性がない」と言い切るのはフェアではない。自分でも気づいていない可能性がある。

発達障害水泳平成不況リーマンショック、30代

・これは何か

私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である

なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。

・なぜこれを書いているか

私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである

精神科に通いつつ、投薬とカウンセリング治療をおこなっている。

そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。

(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなた言葉あなた感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)

正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。

水泳のこと

3歳から高校2年まで水泳をやっていた。

早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。

当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。

楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合母親ほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。

行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。

でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまタイプ人間だった。

父親も叔母もスポーツ学生時代成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。

それが母親成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。

長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。

ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。

こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。

極め付けはようやく出来始めた友人関係破壊されたことだった。

中学に上がると、小学生選手育成クラスから中学クラスに上がって、ここがジュニア女子選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子さらにその上澄みだけが入る、一番練習ハードクラスがあった。

いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイト連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。

(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲーム一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)

けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。

私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスちゃんと私の記録は伸びていた。

だけど母はその伸びでは満足できなかった。

母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。

私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。

そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。

私はかなり嫌がった。もともとジュニア女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。

母は私に、「あん肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたダメになってしまう」と言った。

嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。

中学1年の女子高校生の男子クラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。

私が苦しんだので、母の不安は解消された。

そして、精神とはうらはらに、私の肉体はそれに応えた。

実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。

注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたこである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナス感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。

あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから

この頃から試合合宿遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。

体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。

しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。

だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻きブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。

ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてから予備校漬けになった。

受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業自分特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。

大学には簡単合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。

とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。

ここから水泳を辞めた後の話に入る。

友達が作れない、学業に身が入らない問題が出る大学1年目

ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。

ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。

1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。

とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。

漠然と、卒業したら死のうかな、と思っていた。

就活ができない問題が出る大学3年生

学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリラインだった。

振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。

就職留年

このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショック東日本大震災の影響があった時期で、特に女子就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。

でも、留年したのに就活全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親マイナビリクナビエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。

面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。

卒論が出せなくて2度目の留年

このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。

結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶ぼんやりしている。

ひとり暮らしの家を引き払い、実家カンヅメになって母親監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。

ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。

この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。

新社会人として

もう一度実家を出てひとり暮らしをはじめた。

働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。

本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。

この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分価値ボロボロと溢れ落ち、人生ダメになっていくことについて、母親への不健全復讐欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。

この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場経験した。就職先は人売りのSESだった。

コロナ禍でリモートワークが開始する

これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。

この現場が4年くらいで終わり、本社に戻ることになる。

本社に戻る。眠気の問題ふたたび

リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。

自社開発の案件アサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手全然からず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴スポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミット全然出ないの?

年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。

社長から新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。

そうやって通院治療を開始したのが、2023年10月ごろ。

日中の眠気、夜の不眠、集中困難、ゴミ屋敷などの問題が主訴。

これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始休みを挟んだ後、ボツボツ休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。

心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解ワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。

この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。

現在は、投薬治療カウンセリングを受けている。

・総括

概観してみると、今の私を状態説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。

特性を持って生まれ子どもが、いわゆる体育会系世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援 Permalink | 記事への反応(21) | 22:15

anond:20240618122443

やめろ 俺にASD不潔浪費サラ金女をあてがうな

結婚支援という愚策

何やってもムダ

素直に経済対策収入面で恋愛を諦めてる人達を救うだけでいい

怠惰高望み、アスペ(ASD)はどれだけ支援しても救えないんだから

それか整形を保険適用にでもするか?

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