はてなキーワード: 新天地とは
1点だけ思うところがあったので書きます。
まず私としては、2万本以上の記事に13.5文字の的確な見出しを11年にわたって付け続けたその仕事を尊敬します。
しかしここは、「稼がせていただいた」ではないでしょうか?
たとえば今のトピックスには「時事通信社」の記事や「産経新聞」の記事が取り上げられていますが、
この記事を書いているのはその媒体が契約したライター、またはそこで働く記者、デスクであって、貴方ではないですよね?
「Yahoo!ニュース トピックス『13文字見出し』の極意 難関『コートジボワール』はどう表現?」という記事にはこう書いてあります。
やはり大切なのは、1日4000本を超える配信記事の中から、価値ある情報を届けることにあります。主役は各メディアから配信いただいている記事。私たちYahoo!ニュース トピックス編集部は、あくまでメディアやニュースとユーザーを結ぶ手助けをするための存在なんです。
しかし、「稼いだ」という書き方で、「ヤフー編集部は送られてくる記事をこういう風には思っていないんだな」と思いましたね。
新天地でも頑張って下さい。
null垢にはてブロ飛ばした時点でわかるでしょうけど、この度SideM、それからアイマスというジャンルのプロデューサーを退職させて頂くことにしました。
自己満足ですので以下の文字列に何か言われたところで一切反応致しません、ご了承ください。
そもそもね。ファスライ組とセカライ組ってわけられてしまっていたのがよくわからない。あの子たちは全員で315プロのアイドルだって私はずっと思っていました、違ったみたいです。
例のアニメの時のイラスト、キツかった。ファスライ組だけ集められて「完成」って言われたんですよ。正直悔しくてめちゃくちゃ泣いた。315プロって、ファスライ組だけで完結するんだな、私の担当たちは315プロのアイドルではないんだなと。
曲数、増えないですね。
他ジャンルもかじってるんで言うんですけど、すごいですよ。全員にほぼ均等な曲数があるんです。
しかも、追加キャラへの配慮もある。ま、そもそも初期からいる子達は同じ数の曲を出してもらってるんですけど。
さっきも少し取り上げました、アニメ化しましたね。見ました?ファスライ組だけのアニメ。
担当が少し映って消えていった。
確かに映った時はすごくすごく嬉しかったです。でも、数秒。たった数秒の私の担当と、何十分も映ってるファスライ組。どこで亀裂生まれたんですかね。
確かに2期があるならいいんですが、未だに発表もない。正直今発表来ても全然喜べる気がしません。同僚、何人辞めたんだっけ。
他ジャンルと比べるのとか嫌なんですけど、SideMだけ見てる方からしたら格差なんか絶対わからないんだろうからします。嫌ならするなって言われそうだねここ。しなきゃ伝わらないからしてるんだけども。
某学院でアイドル育成するソシャゲありますよね。アレもアニメ化するんですって。アレ、後々追加されたキャラクターが10人以上いるんです。
アニメの詳細を見に行った。出演者欄にやっぱり初期の子達しか居ないのかなと思った。けど、全員いました。40人以上いるキャラクターが全員出演するって書いてあって、めちゃくちゃびっくりした。
もしかしたらSideMでも出来たんじゃないんですか?全員をアイドルとして出すことは出来たのかも。まだアイドルではなくて一般人として生活をしている担当だけを見せられて、喜ぶ人がいるのかどうかも疑問です。だって私はアイドルになるっていう事実を知っているけど、あの描かれ方じゃ何も知らない人から見たらただのモブでしかないじゃん。
担当をモブ呼ばわりする奴がこのジャンルの心配してもらわなくていいですwみたいに言う声結構ありましたね。いやよく考えてよ。初めてSideMに触れたのがアニメっていう人から見て、あの映され方でこれはメインストーリーに関わってくるキャラクターだなとか思うんですか。
どうしても、格差を感じる。
ライブで公開される情報がニコ生しますってなんなんですかそれ。それならライブで何の情報もない方がいいわ。ライブ終了後にTwitterアカウントで公開すれば済む話でしかないのに。
それから。
このように文句を言うのがセカライPだけで、ファスライPからしたらうるさいだけという方。
「むしろファスライ組ピックアップしてくれたおかげで担当のことが見えた」
PoP、隼人くんがいきなり殺されたのなんだったんですか。キャラクターにそういうことをすることになんの躊躇いもない公式について行くの、無理です。
4曲目だけ視聴がなかった例のCDも、2度もお漏らししておいて謝罪無しなのも(この点に関してはできた時お漏らしされて存在がバレたジャンルのでもう諦めるしかないのかもしれませんね)、中の人からの過剰な腐媚夢媚も、チャリンチャリン発言も、一般企業のキャラと声優同一視も、もう付き合っていられないです。
今までSideMの話ばかりしていたんですが、最初に言った通り、アイマスというジャンルのプロデューサーも降りさせていただきました。
1番大きいのは「宗教」であるところですよね。内輪で盛り上がってるのすごく気持ち悪い。
企業名コール、なんなんですか。私別に企業のファンとかじゃないんですけど。「アイマス最高」コール、なんなんですか。アイマス全体が好きな訳では無いのでものすごい違和感しかない。
パンフに乗せてもよいし、アイマスとはいえ違うジャンル、他にも楽しいことあるだろって。
謎のコール多すぎませんか。元からある訳では無い歌詞を勝手に足して歌ってどうするの。私はライブにファンの歌声を聞きに行った訳ではなくて、演者の歌を聞きに行ったんですけど。
害悪UOも消えませんしね。眩しくて見えないからやめろって言ってるのに。
カラチェンペンラもなかなかですよ。ファンからカラチェンペンラしか認められない現場、ほんとうによくわからないです。
最後に。
私は別にアイマスにかけた時間のことも、お金のことも、何も後悔はない。それを引き合いにして文句を言うのは流石にめんどくさい奴だなとしか思いません。
今までありがとうアイドルマスター。私には手に余るジャンルだった。
担当をさせてもらった皆。特に、木村龍くん。楽しい毎日でした。ほんとうにありがとう。できることなら君がアイドルとして輝いているところをもっと見ていたかったです。
最初に結論:田舎生活を経験していないひとは少し厳しいです。自分の適正によっては思いなおしてください。
自分のスペック:東京生まれ東京育ち。独身男子アラフォー。父母は上京組だが、親戚づきあいをしないタイプ。躾は最低限でのびのび、いいかえれば無作法に育つ。理系の技術職。海外仕事がやりたくて入った会社が縮小傾向で海外赴任が狭き門になり、一念発起して途上国開発企業に転職した。専門分野のスキルと英語は問題無い。
たぶん自分のようなタイプが思い浮かべる途上国仕事のイメージは「誰も自分を知らないところで、自分の専門スキルを活かして、途上国のひとたちに役立てる。360度Win-Win」であるはずだと。
そんな自分が最初にぶつかったストレス要因は「途上国日本人村」の存在。
数年前、念願の途上国赴任を果たしました。途上国開発仕事ではその国の首都で生活することがほとんどです。そして大抵の途上国の首都にはそれなりの数の日本人がいます(大使館、NGO/NPO、JICA、工事関係...)。そこでは大使を頂点としたヒエラルキーができます。
そこで暗躍するのが「田舎者とおばさん」です。すなわち"狭いコミュニティで生き残る術"と"ヨソ者を排除する能力"に長けた人達です。そう、自由を求めて海外に飛び立ったはずが、こと生活面においては最近そこかしこで見る「地方移住のルール」が適用されます。
わたしはこれまで都会生活にどっぷりで、それほどコミュニティへの参加を意識したことは無かったです。途上国まで来て学びましたが、こういった場所では大抵のことは見えないヒエラルキーで形づくられるコミュニティで決まります。内心いやいやながら最低限の集まりに参加すると、そこで繰り返されるのは、そこにいない(=わざと呼んでない)人の噂話や遠回しの悪口です。日本からウン十時間も移動にかかる新天地に理想を持ってやってきて、何でわざわざ休日に集まってこんな狭いコミュニティで、誰の側につくか?のような話に参加しなければならないのかとウンザリします。
あと、都会育ち女子にとっては「田舎者コミュニティ」に加えて、「女性コミュニティ」のプレッシャーも加わります。その話を聞いているだけでも本当に男に生まれてよかったと思います。女性の敵は女性らしいですね。なので「途上国仕事に高い理想を持った都会育ち女子」には2倍のクッソなことが待っていると思います。「旦那さまについてきた都会育ちの奥様」は仕事で発散もできないので、さらにマシマシでクッソなことが待ってます。精神的にやられてしまうかたもそれなりに居ます。また国内と違って身近に逃げる場所もありません。そういった意味ではインターネット万歳です。ネットにかなり救われます。
なお途上国仕事自体は面白いので、コミュニティは無視して仕事に打ち込むというのもありますが、それなりの精神力(もしくは鈍感力)が必要かと。
それで何が問題なんだろうか。
いいや間違いなく問題があるのだ。
空気が淀んでいくんだ。
何故ならネットには自浄作用が全くと言っていいほどないからだ。
葛飾北斎は生涯で何十回と引っ越しを繰り返したというがそれは何故か、それは彼に掃除の才能がなかったからだろう。
そしてインターネットという空間もまた掃除をする才能がまったくないのだ。
出来るのは粛清だけだ。
空間に沈殿した意思が集まって出来た巨大な何か同士がぶつかりあって自分達以外を排除しようとしあう行為の果てにあるのは破滅だけだ。
新陳代謝を諦めて老朽化することを受け入れるだけになったコミュニティに未来はない。
そして実際に、未来が生まれえないままただひたすら同じことだけを繰り返すようになり、それに付き合いきれなくなった人間から順に朽ち果てていくのである。
そして今もそうした衰退は進んでいる。
濁りきったエネルギーが渦を巻いて自分達以外の全てを弾き出そうと動き出している。
実際、Twitterは明らかに変化を拒絶するようになっている。
最初期と違い変化を受け入れる余裕を失いきっている。
そしてそれぞれが接点を失い始めている。
だが新天地がどこにもない。
気づけば次々と新天地が生まれていた時代のインターネットは何処に行ったのか。
この世界にはもう新しいサービスが生まれないんじゃなかろうか。
いいや試しに手を動かしてみよう「インターネット サービス」でグーグル先生に相談だ。
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クソッ!俺を舐めやがって!
特に人文系において、大学や研究を取り巻く環境が厳しいので、少し愚痴を書かせていただきたくお邪魔します。
* * *
研究生活が実生活、ことに家庭生活に対し極度の不安定性を与えることは、今日に始まったことではない。
例えばかの有名なマックス・ウェーバーによる1919年の講演の中では、「大学に職を奉ずるものの生活はすべて僥倖の支配下にある」と語られており、「精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしは極めて少ない」とまで言われている。
このような状況は、100年の時と洋の東西とを超えた今日の日本においても、同様である。むしろ、人口減少と学問に対する軽蔑——それはおそらく、ウェーバーが講演の中で強調した、学問がなんの「救い」も「啓示」ももたらさないということを、多くの人々が正しく認識したからに他ならないが——に直面している極東の島国の方が、研究生活を取り巻く環境は過酷であるといえるだろう。
博士号を取ったとしても多くの人々には就職先がなく、あっても有期雇用で、しかも低賃金であり、長期的な研究生活の途を描くことは全く不可能である。
日本より恵まれた研究環境を有する国、例えば博士課程から給与が出るアメリカや、高等教育がほぼ無償であるフランスの例を持ち出すことは簡単である。しかし、研究生活はその研究者が根ざしている言語、文化、あるいは人的ネットワークにある程度は依存せざるをえない。また、他国の研究環境は、一部だけを切り出せば外面的には羨望の的になりえるが、実際は、給与と引き換えに研究テーマの選択が制限されたり、あるいは無償で得られる研究環境には限りがあったりするのである。
当然のことながら、研究者における研究成果はそれぞれのおかれた研究生活の諸条件に左右されるのであり、それは資本的な制約を大きく受ける理工学系のみならず、人文系についてもそうなのである。
ハンナ・アーレントのように、生地での生活を根こそぎ奪われ、新天地で大きな研究成果を挙げる例もないわけではない。大学や官職への道を閉ざされてから活躍したカール・マルクス、そもそも学歴のなかったピエール・プルードンなども、偉大な思想家としてのちに崇められる存在である。しかしながら、すべての人が偉大な人、指導者のような人、あるいは預言者になることを目指して研究に励んでいるわけではない。実態はむしろ逆であり、陽が当たらない部屋で日がな一日、誰も読まないような古雑誌の1ページをどう解釈するかについて考え、その謎を解けた時に無常の喜びを感じる、そういう人が研究生活に入るのである。そのような、全くつまらないことこそ重要な研究成果なのであり、むしろ大きな社会的反響を呼び起こす御宣託が科学的な研究成果とは全く呼べないようなものであることは、ウェーバーの指摘するところであり、歴史が度々証明してくれたところでもある。いずれにせよ、研究生活とは社会的名声や富と全く関係がないどころか、資本主義社会ではしばしばそれらは相反するものとなるのである。
尤も研究者も所詮人間であるからして、研究そのものの「客観性」や科学の位置付けとは無関係に、それぞれの求める研究生活上のあり方というのは存在する。名声や富を求めて研究に取り組む人もいるのかもしれない。しかしそれは明らかに悪手だ。羽生名人でも挽回できないぐらいの悪手だと思う。
* * *
さて、反面、家庭生活はまさに「経済」の必要に駆られるところのものであり、十分な収入、定住可能な住居、そして可能な限り多くの家事労働(自動化が進んだとはいえなお労働集約的だ)が投入されて、初めて成り立つものである。
収入がないなどもっての外であり、亡命や収監、失踪や放浪なども、家庭生活とは相容れないものである。
歴史を顧みれば、自死や発狂、子捨て、虐殺に至るまで研究に身を置いた人々の末路は様々であるが、なんとかしてそのような事態は避けたいと誰しもが願うところであろう。
できれば平穏無事に、昭和時代に理想とされたライフスタイル、すなわち夫婦円満で子供と共にマイホームに住み、安定した立場で働き定年後は年金生活という人生を歩みたいところである(これは皮肉である)。
しかし今日の若き研究者は、子供はおろか結婚もままならず、マイホームもマイカーも持たず、年金制度の破綻を前に怯えながら年老いるのである。
もしあなたが結婚したとすれば、それはパートナーの全く寛大な心によるものか、パートナーが無知蒙昧で完全に誤った選択をしたかのいずれかであろう。
さらに子供がいるとすれば、当然あなたは研究生活を放棄するか、あるいはなんらかの安定した不労所得に拠って研究生活と家庭生活の両立を試みねばなるまい。(あるいは、あなたが非常に体制と時代に順応的な研究をなしていたとすれば、すでに十分な収入に恵まれているかもしれない。これこそウェーバーの言った「僥倖」である。そういう人には心から祝福を送ろう。願わくば同じような僥倖が数多の迷える研究者たちにあらんことを。)
多くの研究者たちにとって、結婚と出産は研究生活の首にかけられた縄である。
女性研究者の研究生活は性別的役割分業的発想や家庭生活に対する支援をパートナーから十分に得られないなどの理由によりすぐに縛り首になってしまうが、男性研究者の研究生活も同様に性別的役割分業的発想や金銭的支援をパートナーから十分に得られないことですぐにギロチンにかけられてしまう。
いずれにしろ、他者にとって金にならず有用性のわからない行為としての研究は、家庭生活に直面すると挫折する公算が大きいのである。
だからといって、家庭生活を全く否定してしまうことも困難である。穂積陳重以来日本の身分法学者は、日本国民の位置付けを次の三つの身分のいずれかあるいは複数に属するものと定義した。すなわち、夫婦、親子、親族である。
しかし、親が死に、結婚もせず、親族との紐帯も弱いとなれば、その人は社会的にも法律的にも、全く孤立した存在となってしまう。
その人は十分な社会保障の対象にならないことはもちろん、社会生活上の様々な面で制約や不利益を受けることとなる。
実際上の問題として、社会的要請として家庭生活に入ることを我々は求められており、多くの人はその生活が全く不幸であり耐え難く絶望的なものだと感じていたとしてもなお、家庭生活に甘んじているのである。
当然、研究をしていなければ家庭生活が楽になるとは全く言うことができない。しかし、少なくとも研究生活が家庭生活と激しく対立することであることは自明であることのように思われる。
あるいは「家庭」という理想像の崩壊、高齢者二人世帯や単身世帯、シングルマザーの増加、生涯独身者の増加などによって、家庭生活という名付け自体が空虚なものになっているという批判があるかもしれない。
しかし反面で、なお結婚と出産を経験する人は半数を占めており、「家庭」に代わるほど普遍化された結婚と出産を前提とした私的領域の生活のモデルはいまだに存在しないわけだから、やはり家庭生活という呼称を用い、特に若い研究者たちにとってはそれを重視せざるを得ない現状もあるのだ。
* * *
収入、定住、家事労働を求める家庭生活は、無収入、度々の転職と転居をもたらし、にもかかわらず時間の余裕を求める研究生活とは、完全かつ深刻に対立する。
では、この間の解決はどのようにしてもたらされるのか。非研究者であるパートナーの忍耐によってであろうか。あるいは研究生活の適度な抑制によってであろうか。
前者はこれまでの男性研究者がしばしば採用した方法であり、女性に人権がない時代であればよかったが、21世紀にもなってこの方法を採用しようと思っている人がいるなら、その人は妻を見つけることができないであろう。
後者の方法は、実際には採用し得ないものであり、つまりそれは相撲レスラーが炭水化物の摂取を控えるとか、プログラマーが1日3時間しかモニターを見ないようにするとかいう話であって、研究生活を「適度に抑制する」などということは単に研究生活の否定でしかない。
研究者はその人をして全的に研究に没頭せしめなければ、素晴らしい「霊感」を得られないものである。そうでなければ、特に人文学の研究においては、それは単なるジャーナリズムに陥るであろう。
そして、これもウェーバーと同じく声を大にして言いたいところであるが、そのような素晴らしい「霊感」、今日の言葉であれば「イノベーション」などというものは、研究のみならず仕事や様々な形の労働の中でも、それに没頭し専心していなければつかむことの能わざるものであり、行政府が旗をふって労働時間の長短や職業訓練の有無をいくら弁じ扇動しようとも、生まれてこないものなのである。
家事労働、ワークライフバランス、長時間労働の問題は、まさにこの没頭の可能性にあるのであり、特に家事労働は時間を細切れにしてしまうために人をして何かに没頭させることを妨げること大である。ワークライフバランスも、結局その目的とすることが明らかでないから低賃金かつやることのない中途半端な余暇をもたらすだけである。長時間労働を改善しても、人々が自ら欲するところのものに取り組めるような労働時間の設定でなければ、それが長かろうが短かろうが、人々の不満は変わらない。いくら労働時間が短いとしても過労死は起こりうるし、長く労働していても過労死しない場合があるのは、この理由によるのである。
とにかく、家庭生活の求めるものを根本的に否定しなければ、研究生活は成り立たないのである。
* * *
では、解決方法は何か。家庭生活の問題点は、それが夫婦という二者で成立するように想定されていることである。それゆえ、収入と定住を男性が支え、家事労働を女性が支えるという構図が出来上がった。
しかしこの想定は噴飯ものであり、シングルマザーは全て一人でやらざるを得ず、あるいは逆に親族からの支援で収入の不安が軽減されたり、実家を譲り受ければ定住も可能というように、家庭生活の諸条件の実現は夫婦という関係性の外部で決まっていることが多い。
もし家庭生活に関与してからも研究生活を継続するためには、家庭生活を成立するためのリソースを外部から調達することが最も望ましい。(逆にいえば、外部からのリソースが調達できなければ、ついにここで研究生活のお墓を立てるしかない。自分の研究というアイデンティティよ、さようなら、と。)
ただ、ここには二つの問題がある。一つは、リソースの調達先である。大川周明のように徳川家から調達したり、大杉栄のように政治家からぶんどってくることができれば最高だし、あるいは明治時代のように女中を置いたりできれば最高だが、なかなかそういうわけにはいかない。もう一つは、その調達が個人の能力に帰せられることで、研究の能力とは別にそれに取り組む環境が規定されてしまうということである。
この二つの問題を解決するためには、若い研究者同士で研究生活を支えるための生活ネットワークを構築するしかない。あるところには金がある人もいるだろう、あるところには手が余っている人もいるに違いない。
どうせ研究生活に勤しんでいる人以外に若い研究者に対して同情を寄せてくれる人はいないのである。
アカデメイアやリュケイオンがどうだったかはわからないが、古今東西大学に併設されている寮や大学街(カレッジ)では生活上でも学術上でも研究者のコミュニティが形成されていたはずだ。修道院のようなものである。
いま、若い研究者は官僚主義的な大学制度によって互いに分断され、地方に散住し、有能なものは国外へ出て行ってしまっている。もう最後のタイミングである。
いま我々若い研究者が団結して助け合わなければ、この国の研究はすぐになくなる。もし研究のなくなり方が緩やかであれば、日本語で達成された学術的成果を、多少なりとも国際的に、人類のために遺す時間的猶予が生まれるかもしれない。あるいは、国外から救いの手が差し伸べられるやもしれぬ。「タコツボ」を脱しなければならない。近くで助け合って生活し、なんなら雑誌なども出して(いまであればブログでいいのかもしれないが)、特に人文系では消え掛かっている研究の灯火を、なんとか引き継いでいかねばならぬ。ならぬと思う。
新天地でげんきにしてるって。
大学時代から毎日プレイしていたソシャゲが今日、正午をもってサービス終了する。
でも何故だか魅せられて気付いたらサービス終了までプレイしていた。
例えるならば「強くはないけれど何処か応援したくなるチーム」がイメージに合う。
よくソシャゲを揶揄する言葉として課金したって「何も残らない」と目にする。
自分も昔そう思っていた時期がある。
たくさんの思い出が出来た。
たくさんの人と交流出来た。
コンテンツは今もなお成長し続けている。
サービスが開始されてから今日まで、新天地の彼女たちと向き合おうともした。
けれど自分には同一視することは出来なかった。
if世界線のような感覚が近い。限りなく似ているけれど別のもの。
もちろんこれからも彼女たちを応援する気持ちは変わらないけれど
今までを肩を並べて歩んできた5年間だとするならば
これからはそっと後押しをするような、そんな未来なんだと思う。
ただただ見送ることしか出来ない自分に急に年を取ったように感じる。
(実際に5年も経過しているわけだけど)
残る20代を全力で生きてみようと思う。
君が大大好きだ