はてなキーワード: 意不とは
コロナウイルスという未知のウイルスによって世間は脅威にさらされ、それは日常を送る私たちの生活をじわじわと影響している。
特に、小さな子をお持ちの家庭ではかなりセンシティブなテーマであると思う。
私は、保育園で働いていた。
なにかと話題にあがるように、当たり前ながら過酷な現場で、自らの目で見て手で触れながら援助していく優しいイメージがあるが、それ以上の戦場であることをとりあえずご理解いただきたい。
私は認可園で仕事をしていたが、例に漏れず人手不足、人間関係のよろしくなさ、それらによるプレッシャーなどなどでついに体調を崩し、休職となった。あまり細かいことを書いてしまうと個人や園特定につながるので黙っておくが、上司に「もう私は身体が動かない、どんなに頑張ってももう無理だ。もう頑張れない」との電話をした時に、「メンバーはお前だけじゃない。俺は他のメンバーも守らなくちゃいけない立場にある。」とひとこと言われて電話を切られたことだけは忘れられない。
愚痴のようで申し訳ないが、休職中は、逃げてしまった、子どもたちはどうしているか?メンバーは?などなど諸々の負の感情に見舞われてしんどかった。同時に、今ここで自分と向き合わねばとも思った。保育のどの点が大変だったかここであげていく。
*シフト勤務
保育園はシフトで回ってる。園にもよるけど病院付属のとこなんかは夜勤もあったりする。
このシフトが鬼。
早ければ6時半出勤〜とか、遅ければ21時22時までのオーダーもあったりするから、とにかく生活がガタガタになる。体力何よりも大事。体育会系が重宝されるのはこれ。
不規則なシフト勤務でなにが崩れるかというと、自律神経である。
お天道様が登って起きて、沈んだら寝るのが生き物なんだけど、その常識がいとも簡単に崩れてゆく。
さらに保育園では入園、運動会、発表会遠足、卒園、行事というものがあり、それによって早起きや遅くまでの準備が必要となり、よけいに自律神経はダメになる。
自律神経が壊れると、風邪をひきやすくなり、治りにくくなり、もともとあった持病がヌッと顔を出してくるほか、放置していると確実にメンタルを壊しにかかってくる。そうすると大変だ。
わたしからは体力増強に努めよとしか言うことができない。そのくらいどうしようもない問題だ。
*人との関わり
尋常じゃなく人と関わる。子どもはもちろん、その親御さん、それだけならまだいいが、同僚(同じ保育士だけじゃなく、栄養士さんや看護師さん、たくさんの専門職が集まってチームで仕事をしている)。目まぐるしいくらい色々な人と話し続けて相手の思惑を慮り、時には意見が衝突することもあるし、衝突したらしたで絶対折れない人多いし、なぜか存在がデカくてべつになんにもいいことしてないのにみんなからリスペクトされてる人とかとにかく色々強いのがいる。
どの人ともそうだが合う合わないあって、合わなかったらサイアク。どこかでガス抜きして自分の色を出していくしかないし、それすらも許されなかった場合やる気を失う。
子どものためにみんな一生懸命で、気持ちがぶつかるのはわかるが、結局ただのケンカになっていたり。
専門職は免許を手にした時から専門職だから、たとえペーペーだろうとベテランだろうとみんな持論を持ってるし結局は誇りを持って現場にいる。そういう人たちと共闘していくにあたって、心が折れてしまうようだと、なかなか長く続けてくのは難しい気がする。
大きい園だと人の出入りが多くて目が回ってしまう人もいるだろう。それはそれぞれのコミュ力によると思うが、出る杭になって打たれてしまうようだと悲しいかなそこでは難しい気がする。
とにかく感情労働というやつなので、笑ったり泣いたり、いろんな人としての感情にとんでもなく自分の心がついていって処理しないといけないので、ほんとうに疲れる。特に0〜2歳くらいの子たちは1秒後には想像もつかない行動に出るし、自我がすごいので、ひとつひとつに付き合っていかないといけないのだが、1日終わると魂が抜けている。時々わけもなく涙が出てくるようになったら赤信号かもしれない。そのくらい感情の暴力に見舞われる。
あとすごく怒る親御さんに当たるとつらい。今の世の中慌ただしいので小さなことにこだわり、細かく見てくる保護者もたくさんいる。
忙しい世の中だから、家族はせめて家では楽しく過ごしたいので、そのぶんの鬱憤が園にぶつけられることも多い。特に子どもの甘えとか、イライラや自我を受け止めるのはかなり心にくる。ひとりでそれを受けるのは人間どんな強い精神を持ってても無理なので、保育園はチームで動いている。チームの中で大切なのは思いやり。これがないと現場は崩壊する。だから人間関係が大事で、ちょっとでもうまくいかないと思いやりが伝わり合わず、とんでもないことになる。
何点か大変だったなぁというポイント?をあげてみたものの、これには個人差もあるし一概には言えないと思う。ネガティブな要素がたくさんある中でも、そこからパワーが湧いてくる…くらいの人は、保育をずっと続けられると思う(そういう人間が本当に存在するのかはナゾだが)。しんどいけど負けないぞという強さがある人にも向いている。そういう人たちは続くと思うし、現に長くやってる人は強さがある。
あとギャランティの問題も早急に解決してもらいたい問題だ。改善はしているが、諸々の責任の重さについて対応する値打がまだ充分に付けられていない。
いろんな現場があって、小さな赤ちゃんから入学前の幼児さんがいるような大きな園はとにかく目まぐるしくて、迅速な判断と行動が求められるし、最前線だから人手も足りないし常に忙しい。逆に、小規模で乳児さんまでの園だと、少ない人数をしっかり見られたりして、ゆったりのびのび保育できる現場もある。(ここも保証はできないので気になるところは余すところなく見学なり実際に保育に入らせてもらったりして環境を見ておくこと)日々勉強し続けなければいけないのはどこでも同じだが。同じ保育士とはいえ得意不得意はあって当たり前だし、いろいろな働き方がある。ようは自分に合った現場を探すことが大事なのだ。別に最前線の大きなところでバリバリやることだけが全てではないと私は思っている。
ただひとつだけ言えるのは、子どもを育てるという、人として尊いもののひとつをさせてもらえるという喜びがあるという点において、これは感謝以上のなにものでもない。園にいる間はわたしの子どもたちという気持ちでいることが許される。(限度はあるが)教育現場もIT化が進んで、これから勉強を教える先生はコンピュータなどの電子媒体にとってかわられていく可能性がある。でも、保育だけは、今もこれからも保護者に代わって子どもの育ちを自らの手や目でもって担っていくと思う。就職活動をしている人、転職で保育をやってみようと思っている人も、ぜひ保育について考えてくださると嬉しい。
うちは子どもが3人。今年一番下が受験で、それが終わると我が家の中学受験が終わる。
上の子の時から数えると10年くらい断続的に中学受験に関わってきたが、子どもと一緒に受験に取り組んで本当によかったと思ってる。
今日が一緒に勉強できるのも最後かと感慨深くなりながら、ここに駄文を書き殴ろうと思う。
大学は国立大学に行けたのでありがたくも「私立」とはまったく無縁だった。受験はしたけれど。
社会人になり地方都市で働いていてそこで出会った今の奥さんと結婚。
子どもが生まれて一番上が3歳くらいの時に東京に転勤。それから転職などもしながらずっと東京に住んでいる。
子どもが小学生になると、まわりからは中学受験の話が聞こえるようになってきた。
自分も妻も地方出身で公立あがりだったから、私立受験ってまったくピンとこず、しばらくは「公立で十分だろう」と考えて流していた。
でも3年生後半になってきて、妻が色々調べだすとどうも住んでいるエリアでは公立があまりガラがよくなく、いけるなら私立がいいのではというように夫婦間でも変わってきた。
ただ、この頃の自分は、仕事に謀殺されていたのと、週末も自分の時間を優先させていて、あまり家族に関心を向けていなかった。
だから当時受験のこととかは妻が色々考えて悩んでいて、相談されたときに「まぁ、それでいいんじゃない」みたいな感じだったと思う。
まあ平たく言えば、なんとなく家庭は維持していて、子どもに対してそこまで関心がなかったという感じか。そういう男親けっこういるんじゃないかな?
表面的には家族は維持していても、深く関わっていないというか・・・そもそも日中仕事でいないし週末もどこかに出かけてしまえば関係性は薄くなるわな。
そして上の子が5年生の夏の頃、一番下がまだ幼い我が家では、妻が上の子の受験でピリピリ、幼い一番下の面倒をみながらも、私はあまり家族に関わっていなかったから、妻がついに切れた。
離婚をつきつけられ、家を追い出される。
まあ、今思ってもそりゃそうだ。仕方ない。本当自分勝手すぎたなと思う。
それでも一度切れた妻はなかなか落ち着いて話を聞いてもらえなかった。
で、成績がなかなかあがらないし、やる気も見せない上の子について、「俺が絶対受からせる。俺がついて勉強見る」といって私の中学受験がスタートした。
「なんでこんなのがわからないんだ?」「やるきあんのか?」など勉強を見ながらイライラすることばかりだった。
でも、受からせるって啖呵きった手前、泣かしながらも維持になって勉強を見ていた。
これまでは自分の時間として使っていた時間が子どもとの勉強の時間になった。
周囲の友人は週末有意義に過ごしてる。でも自分は・・・とかね。今となっては既婚子持ちが何言ってるんだと思うけれど、当時はそう思っていた。
それくらいそれ以前が無自覚の父親、無自覚の旦那だったんだな。
本命校は本人の偏差値からはとてもチャレンジングな学校だったけれど、なんとか少しずつ成績があがっていき、あとひと伸びで届くかもしれない・・
くらいまで成績があがってきたから最後の数ヶ月は自分も必死だった。絶対受からせるって啖呵きったのが残っていたし。
もしかして自分が受験していたんじゃないかって思うくらい悔しくて落ち込んだ。
その様子を見ていた妻から
「受験してあなたがよかったんじゃない?あの子のためにそんなに落ち込むなんて、それだけ真剣に向き合ったってことなんじゃないの」
と言われてハッとした。
受験を通じて確かに子どもとずっと向き合ってきた。真剣に向き合ってきた。
ああ、そういうことか。それ以前の自分は家族をみている大事にしていると言いながらも、こうして本気で向き合うってしてきてなかったなって気づいた。
真ん中はそれなりに真面目にコツコツ取り組むタイプだったし、他にスポーツとかもやっていなかったから、4年生から都内で有名な受験塾SAPIXに入れた。
SAPIXは知っているひとはしっている通り、宿題が多いし競争もはげしい。
ちなみに上の子も最初SAPIXに入れたけれどついていけなくて途中でやめた。
真ん中はどうかと様子をみていたけれど、クラスは決して上のほうではなかったけれど、最後までくらいついていった。
特に最後の11月から1月はこれまた本気モード。テキストの中からやる問題を選んで一緒にとき直しをして取り組んだ。
塾からは絶対無理だから志望校を下げろと言われていた本命の学校に合格し、今元気に通っている。
このときも、本命に受かったときは本当に嬉しかったし、一緒に喜んだ。あの感覚もまた、真剣に向きあったからこそなんだろう。
SAPIXなんてとても入れずついていけるはずもないくらい。地元の補習塾に通わせながら受験をすることにした。
上2人に比べると、受ける学校の偏差値は低めだし、勉強時間も少ないかもしれない。
でもその分違う才能が上二人よりあってその道を伸ばして欲しいと思ってる。
そういう子には受験ってあまり向かないんだよね。でも中高6年間にそれに没頭できることも考えると、受験もありだと今は思う。
勉強が苦手な下の子だけど、今では真剣に取り組み、明日の本命校に向けて努力を積み重ねてきている。
ここでも朝の勉強は続けていて、叱ったり、泣かせたり、模試のたびに喜んだり、そうしたことをこの1年続けてきた。
そんな日々ももう終わる。
結果は明日以降の試験次第だけれど、3人の受験一緒にやってきて思うことはいくつかある。
まずは、子どもはみんなそれぞれだということ。
同じ親から生まれ、同じ環境で、同じように育ててきたつもりでいても、みんなバラバラ。
受験勉強を通じて三人三様の人格に深く触れられたことはとてもよかった。
子どもにあった学校ってなにも偏差値の高いところばかりじゃない。
そこしか目指せないのはもしかしたら子どもと向きあいきれていないのかもしれない。
偏差値が高くても環境がいまいちなところ、偏差値が低くても、その子の未来につながりそうなところ、
そうした色々な学校をたくさんみて、子どもたちと一緒に話をして、子どもの人生を一緒に考えることができたことがよかった。
そして最後に、これは数年前に出会った佐藤尚之さんの大好きな言葉。
受かったら、そっちのほうがいい人生
落ちたら、そっちのほうがいい人生
どっちに行っても絶妙ないい「縁」が待っている。
人生はそういう風にできている
これは本当にそう思う。毎回最後は子ども達にこの言葉を送って送り出している。
そこに一緒に真剣に向き合うことを通じて、子どものことをより深く知り、愛する機会になった。
特に仕事やなりやらで奥さんに任せっきりにしているような男親には、真剣に向き合うことで新たな子どもたちとの関係性が生まれるよとぜひおすすめしたい。
っていうかやるべきだとすら思うよ。
ということで、今年で我が家の中学受験が終わり、私もひとつの役目が終わるかな。
明日、頑張れよ!!
29歳♀
相手がもし職を失ったら、旦那をしばらく養えるぐらい稼ごうと覚悟、というかそれぐらいの気概でいる
それぐらいしてもいい相手、というかそれぐらいの覚悟で結婚しました💒
稼ぐ能力が高いほうが稼げばいいし、家事能力が高いほうが家事をしたらいい🎈
結婚相手に欠点もあるけれど、結婚したことが良かったと思うためにお互いどのように努力し続けるかということだと思います🍊
大体のことはお金で解決すると思っているから、わたしは稼ぎたいと思っていてこれを話すと周りの人に旦那思いだねとか言われますが、適材適所の話だけだと思ってるので全然旦那思いという気持ちはないのです🤔
お金で解決するケンカがあるとするならばそれはとっととなくなったほうがいい💯
お金でできる親孝行も後悔しないくらいたくさんしたほうがいい💯
満点の相手を見つけることよりも自分の得意不得意を理解して不得意の部分を補える相手であれば結婚ゴーしてよいのではないでしょうか😘
2.人間に個体差はあるが、得意不得意は性別に依らず、能力の総和は全個体で同じ
3.人間に個体差はあるが、得意不得意は性別に依らず、能力の総和は個体により異なり、性別に依らない
4.人間に個体差はあるが、得意不得意は性別に依らず、能力の総和は個体により異なり、統計的に男性が優れる
5.人間に個体差はあるが、得意不得意は性別に依らず、能力の総和は個体により異なり、統計的に女性が優れる
6.人間に個体差はあるが、得意不得意は性別に依らず、能力の総和は個体により異なり、必ず男性が優れる
7.人間に個体差はあるが、得意不得意は性別に依らず、能力の総和は個体により異なり、必ず女性が優れる
8.人間に個体差はあり、性別により統計的な得意不得意は存在して、能力の総和は全個体で同じ
9.人間に個体差はあり、性別により統計的な得意不得意は存在して、能力の総和は個体により異なるが、性別に依らない
10.人間に個体差はあり、性別により統計的な得意不得意は存在して、能力の総和は個体により異なり、統計的に男性が優れる
11.人間に個体差はあり、性別により統計的な得意不得意は存在して、能力の総和は個体により異なり、統計的に女性が優れる
12.人間に個体差はあり、性別により統計的な得意不得意は存在して、能力の総和は個体により異なり、必ず男性が優れる
13.人間に個体差はあり、性別により統計的な得意不得意は存在して、能力の総和は個体により異なり、必ず女性が優れる
14.人間に個体差はあり、任意の女性の任意の能力値は任意の男性のその能力値よりも高い
1、2、3、8、9あたりが穏当だけど、フェミニストは14主張しそう
誰にも聞いてほしくないけど、誰かに聞いて欲しい。アドバイスも要らない苦言も要らない、ただ聞き流して欲しい。
10月という期間に立て続けに自分の注意不足による失敗が重なった。9月までにもそりゃミスはあったが、深刻な事態を引き起こすようなものはそうそうなかった。
例えばそれが命に別状があるとか、広範囲に被害が及ぶとか、リカバリー不可能であるとか、そういう致命的なミスでは無かった。
だけど、結果として数人に手間や迷惑をかけてしまったこと、またいずれも指摘されるまで問題に気づかなかったという共通点があり、反省して次回から気を付けるという行為が十分にできるか不明な点がある。(そもそも自分はミスに気づいたら直ぐに上の人に泣きつくタイプなので、ミスに気づくことができないというのは重大な欠陥である)
一番大きな失敗は機材の利用についての話だった。
私は数日前に講習を受けて、マニュアルをもらい、そのマニュアルを常に参照しながら利用した。複数の人間が利用する機械なので、壊れたりすると大問題だと教えてもらったし理解していたからだ。だから必要以外のボタンや入力は触れた覚えもなく、開始から終了処理まで気を付けていたつもりだったのだ。
つもりだった。
結局は注意不足で機材の利用設定が一部ずれてしまっていたとか、開始処理に必要なものが崩れていたとか。そういうことがおこってしまったのだ。自分の目で確認したわけでは無く、報告を受けた人からのお叱りだったので発覚当時の状況は正確にはわからないが、わざわざ偽る必要もない話なので、実際そうだったのだろう。自覚は無かったが、自分以外の誰かがそれをしたとは利用状況を見る限り考えられない。
時間管理が甘くて利用予定時間を少しオーバーしてしまったことも(これは当日その場で謝ったのだが)後日お叱りを受ける内容の一つであった。
複数の失敗が元でいやみを言われることも増えたし、(一度の失敗とは言え)機材の利用も禁止され、今年度の予定も狂ってしまった。率直にいってしんどい。自分のミスのせいだから仕方ない、受け入れるしかないのだけど。
これまでその機材を利用する前提でいろいろ準備していたのに、これからスケジュールを組み直して機材を使わないやり方をするのも、迷惑をかけた人たちに顔向けするのも辛いな。ミス無く頑張ってる人たちが回りにいるあの空間にいくのも辛いな。準備していたものが全て無駄になるのが辛いな。
そんな風に考えてしまったら、もう一歩も動けなくなってしまった。はじめての利用かつ致命的ではなかったにせよ一度のミスで全部台無しになってしまったのも、どうしたらよかったんだろう。自分では気を付けていても無駄だったならこれからもずっとこういうことは起こり続けるんだろう。失敗をしても直していける状況だったら良かったのに、一度の失敗で全部ダメになる。
注意力に関する病気なのかな。そうかもしれない。明日精神科に行こうかな。元々メンタルクソザコだからたまにかかっていたし。それがいいかもしれない。予定合わせとかがすこぶる下手なわけだし、好きじゃないものをなんとかやっていくのが苦手で、体調とメンタルが直結してて不調は多かったし。薬とかもらって注意力がなんとかなればいいのかもしれない。
来年以降もお世話になる予定の場所だったけど、来年からはここに残るのを辞めようと思う。それを辞めたところで先が決まってるわけではないけれど、これからも同じようなミスをするかもしれないという強迫観念に精神を圧されながら来年以降を過ごすよりはずっと良いんじゃないかな。
こんな一時期に集中したミスで安直に決めるなって、理屈はわかるけど今の感情が許してくれない。
落ち着けば頭冷やして先に進めるのかな。バカだからわかんねーわ。普通の人が普通にできることを普通にやれたらこんなクソ下らない悩みなんか持たずにすんだのにな。死ぬ度胸もないからこうやってどうしたらいいんだって引きこもって社会不適合のままやってくしかねーんだよな。受け入れるしかない、受け入れるしかない。呪いみたいに言い聞かせてれば前を向けるかな。
4月からずっと希望していた発達障害のある人の支援をする仕事に就いたんだけど知能検査のテスターをし始めてめちゃくちゃ不注意を指摘されるようになった。検査中は裏で指導役が見てくれてて結果をまとめたあともチェックしてくれる。10件以上検査を取らせてもらって2,3人ほど1人で入った以外は全部指導役同席。そんな状況でミスを連発してしまい、今までの人生で本当に言われたことの無い「不注意」を指摘されるようになってしまった。おそらくADHDだと思われている。
空間認知的な部分が弱いのは自覚しているので見落としやすい課題は何度も確認する。時間がかかるのは仕方ないと言われているので他の仕事を挟み、時間置いて確認する。1人につき2日ほどかける。しかしあとから今これだけ見たとしても指摘されるかもしれないと思うと緊張して目が滑る。結局間違えて、「また?」と言わんばかりの視線で指摘される。報告書のミスも、日付のミスなどは減ったが微妙な図形のズレとかますに綺麗に文字が入っていない、これをお渡しするんだからと言われて納得はするが、恥ずかしさと緊張で頭が沸騰しそうな状態になる。結局、ひとつの図形を整えるのに1時間かけてしまった。指導役の指示も完全にADHDへの対応になっていて申し訳ない気持ちしかない。こんなことなら今の仕事を選ばなければよかったと思ってしまう。ずっとやりたい仕事だったのに。
ADHDの特性はたしかに持っているし、ASDの特性も持っていると思う。ただ診断がつくほどではなく、傾向ありとするにも微妙なライン。母から幼少期の話はきいているし、医師に相談したこともあるのでこれは間違いない。強迫と自己愛がかなり強く、そこで苦労した学生時代だったもののそこは受容して上手く付き合っていこうねとお世話になった先生から言われ、それなりに頑張ってきたつもりだったが。
自分でもこれほど不注意不注意と言われるのは予想外だったし、気をつけたら気をつけた分だけ落ち込む。今も書きながら泣けてきて仕方が無い。自分が惨めで、これほど迷惑をかけながら職場に居座ることが辛くて仕方ない。今まで懸命に育ててきた自尊心は毎日しぼみ続けている。他職種の同期がどんどん仕事を任されているのを見ると、どれだけ自分が期待されず、厄介者だと思われているんだろうとただただ悲しくて仕方ない。今もお腹が痛くて仕方ない。
不注意の原因は分かっている。なれない仕事と仕事の他にやらなければならないこと、新しい環境がかなり負担になっていること、それによりうつ状態に近いこと、それに起因する注意力散漫になっていること。それから元々人の目がとにかく気になること、過度に緊張して人から見られていると力が発揮できないこと、今の監視されているような状況が心底辛いこと。それらが要因になっていることは間違いなく、ある程度野放しにしてもらえたらそれなりに結果を出せる自信はある(いや、あった。)。根拠はこれまでの自分はそうやって評価されてきたから。それを知っている人は自分以外にも多数いて、放っておいてくれるほうが安心することを知ってくれ、許してくれた環境下ではうまくやってこらた。
自分が発達と疑われていることが辛いのか、だとしたらもうこんな仕事やめてしまった方がいいんじゃないかとも思う。自分はなんて傲慢な思いで今の仕事を選んだんだろうと。とにかく自分のことが嫌で嫌で仕方ない。自分で自分のことを嫌だと思っている自分が嫌で、とにかく無価値でそれでもまだあれしたいこれしたい、という思いがあること、生きようとしていることが恥ずかしい。
今年で25歳になる。郊外育ちの一人っ子。今は地元からかなり離れたところに住んでいる。
まず前提として、私はADHDだ。医者からも診断されている。毎日薬の副作用と戦っている。幼少期から不器用で不注意。協調性はまるでなかった。けれども典型的な大人のADHDという代物で、学生時代は少し変わっている子扱いで済んだ。自分が障害持ちだということに気がついたのはここ数年の話だ。
そんなわけで幼少期から自分は不得意なことが多い人間だということを自覚していた。だからこそ小中学校は勉強を頑張ったが、自分の自頭がそんなに良くないことも察していた。人並みに生きることを目標とした。正直生きていたいと思った瞬間は一度もない。消化試合だと物心がついた時には思っていた。
それでもって親だ。父親は仕事が忙しくほとんど家にいなかった。朝遅くに起きて、深夜に帰ってくるような人だった。幼少期の私からしたら土日にだけいる人でしかなかった。ところがどっこい、実はパチンコ依存症だったり酒をやりすぎて身体を壊したりととんでもない人だったらしい。そしておそらくADHDだ。性格、行動、得意不得意が全て私と同じなのだ。
最近気がついたが母はそんな父に疲弊していたようだ。自分一人では生きられないくせにトラブルをもたらす父親。母親の立場になれば当たり前だと思う。よく、母親から父親の愚痴を聞かされたものだ。そんな母親の生きがいとなるのは私しかいない。しかも父親同様、世話のやりがいがある。リアルたまごっちだね。
不器用な私は母親から何かをしようとするたびに、「あんたにはできないから」「危ないからやめなさい」と言われるようになった。包丁を持たせてもらうことも、火を使わせてもらえることもない。さらに言うと、足の爪すら自分で切らせてもらえなかった。でも私はそんな母のことを嫌だとは思わなかった、むしろ好きだった。ADHD特有の空気の読めなさで友達をなくしても家に母がいるからなんの問題もないと思っていた。
結局父親は外に女を作って出て行った。今考えれば逃げたのかな、と思う。そこから父親との関わりは消えた。残された母と私。今思えばここから母の私への依存は始まったのだと思う。私が上京をしたいと言うと「お金がない」「あんたが一人暮らしできるわけない」と言うようになった。地方都市の郊外で明るい未来が待っているとも思えないので無理やり上京した。甘い考えだった。何もしてこなかった自分が一人暮らしできるわけがなかった。
それから母は頻繁に東京に来るようになった。散らかっている部屋を見て、「やっぱりあんたは一人では生きていけない」と満足げに片付けをして帰っていた。そうなのかもしれないと思った私は男を作って世話をしてもらうことにした。いわゆる共依存だ。結局のところ、私は世話をしてもらわないと生きていけない人間になってしまったが母親に依存してはいなかったわけだ。
そんな私の世話に生きがいを覚える母親だが、ADHDだとカミングアウトして信じてもらえなかった。いつも「あんたは何もできない、一人で生きていけない」と言っていたくせに矛盾している。「あんたは大丈夫」と真逆のことを言い放った。ADHDという原因があったから、何もできなかったんだ、そう思えた私の救いは全否定されてしまった。そんなに障害持ちの親にはなりたくないのかと思ってしまった。
就職して東京を離れた。業種は父親と同じ。おそらくADHDであろう父親でも出来る仕事と言う理屈だ。実家からさらに遠方に引っ越した。縁もゆかりもない土地だ。
勤め先で家庭の話を笑い話半分でしたところ、「お前は辛かったんだな」と言われた。私の何が辛いんだろう?これくらいの家庭環境なんて普通なんじゃないか?疑問に思った。帰ってから再考した。確かに私は両親を好きだと言う気持ちはない。死んでも泣けないんじゃないかとすら思う。でもちゃんと大学進学までさせてくれた恩はある。好きになれない自分が悪いのではないか、そんな風にしか考えられない。
「辛かった」というワードが引っかかりアダルトチルドレンについて調べたところばちこん当てはまった。過保護な母親に、無関心な父親。まさしくだ。そして自分が母親から逃げ出したく、父親に認められたいと思っていることに気がついてしまった。
しかし自分の本心に気がついたからと言って何かを変えられるわけではない。母親は地元を捨てて私と二人暮らしをしようとしている。私が今彼氏がいなくて世話をしてくれる人がいないからだ。「あんたは一人で生きていけないんだから」としつこく言われた。もし結婚しても孫の面倒を見るために引っ越してくるらしい。逃げ道はない。そして父親とはもう関わることはないだろう。
自分がかわいそうだとは思わない。ただ、「親が悲しむから死なない」だとか「親孝行をしないといけない」という気持ちがわからない。別にどうだっていいことじゃないか。孫の顔を早く見せろと言われるが正直私は自分の遺伝子なんて残したくもない。
これは私が悪いんだろうか。親を毒親だとは決して断言しない。ただ決して感謝なんてしたくない。悪いのは親か私か。健全な家庭に育った人に言ったらぶん殴られそうな悩みだ。
私は自分の力だけで生きられるようになりたい。そうすれば母親は放っておいてくれるのだろうか。そして、父親から認められたい、愛されたい。でもそれはどう頑張っても無理なんだろうなと思うとふとやるせなくなってしまう。
いやもう面倒くさいし適当に吐き出したいんだけど、ここ最近の日本人って何にも未来とか見てないよね。
あんまり書きたくない固い政治の話とかでも、大体の人はメディアの情報を鵜呑みにして誰かを叩く。
逆に、目の前にいる人間に洗脳されてマルチとかニセ科学とかに嵌ったりする。
まあ知識がないのは仕方ないし、高度に複雑化した現代社会において完璧な情報収集なんてのは無理ですよ。我々パンピーにはね。
なにせ、昔からゲーム脳なんて大嘘に騙されて偏見を向けてくるような人間ばかりだし。仕方ない。
でも、結局のところ誰かが正しい情報を発信しない事には、誰もかも間違うしかない。
こういう事を言っちゃあ自称“マス”メディアと同レベルに思えて嫌だけど、結局は人間の9割ってのはバカな訳ですよ。
厳密には、それぞれに個性が得意不得意があるから絶対バカってわけじゃないけど……
どっちにせよ、どんな専門家でも専門外では素人同然どころか、専門内ですら分からない事は沢山あって、それなのに誰もが自分こそ真の賢者だと信じて疑わない。
そんな社会で正しい情報を拾えるのは、本当に極少数なわけです。
だからこそ正しい情報を得た人は正しい情報を発信する義務がある訳だけど、それを色々な言い訳で隠してしまう。
その背景には結局、世の多数派は真の意味で「正しい事」なんて求めてないという辛い現実があるんじゃないですかね。
なんでかって言えば、それ以上を求めるのは「疲れるから」だ。
楽に生きるなら長い物に巻かれれば良い。
……でも長い物、一般的な人間というのは結局のとこ「間違ってる」ワケで。
さっきも書いたように人間の9割はバカでしかなく、賢い人間ですら専門外は素人同然。
つまり多くの人間が信じてる事ってのは間違いである可能性が高い。
一見すると間違ってないように思える事でも、厳密にはニュートン力学のように雑な論理でしかない。
まあ、かくいう自分も今ここで相対性理論を語れと言われても無理なんだけどさ。
だからこそ、より正しい人間に従うってのは生物の生存戦略としては間違いじゃない。
問題は、その「正しい人間」が居ないってだけの話で…………それこそが、致命的なんだけどね。
なんせ正しい人間が限りなく少ない以上、誰かに従ったところで「そいつが正しい保証は無い」ってか9割がた間違ってるわけなので。間違ってる人間に従えば、どんな人間でも間違うに決まってるじゃんね。
ゲーム脳的に言うなら……上役ガチャ爆死したパーティで生き続けても、人生ダンジョン(難度インフェルノ)はクリアできませんよっと。
じゃあ、欧米人みたく個人主義で生きていくか?って言われても。
さっきも言ったように人間の9割はバカなので、自分ガチャも上役ガチャも基本は同じ人間ガチャなので、まあ爆死が基本なわけで。
なにせ、多くの人間はアメリカ大統領とかいう明らかに就くのが困難な激ヤバ職業の人間ですら「自分の感覚で考える」ので。もっと、こう背景とか考えれないのかなと思うわけです。
とはいえ有能な人間を上役にしようと思っても、どんな専門家でも専門外は(以下略)の理論たる「ピーターの法則」によって、有能な人間は無能になるまで出世し続けるんだけど。
下流工程で有能だからといって、上流工程で有能とは限らない……というか、下流工程と上流工程は似ているようで別の職業なわけで。
言ってしまえば、そんなのは生徒会長を教師に据える様なものでしかない。
教育職員免許状が必須やら年齢などの社会的な大前提は無視するにしてもだ。
確かに人を纏める力は持ってるかもしれないし、大なり小なり成績は優秀かもしれないが、少なくとも教える才能が無いと教師は務まらない。
それ以外の管理や企画進行とかの部分は大なり小なり共通してるかもだが。まあ、どちらにせよ細かい問題は多々とあるはずだ。
それなのに、今の社会では成績や年季といった物に応じて役職が定められていく事が多い。
もっと任天堂みたく、現場には現場の上位職を与えるとかして才覚を活かすような社会システムを構築しないといかんのでは。
……まあ無理か。何せアニメ監督ガチャでUR引いたのに個人の一存から平気で捨てるような社会だしな。
どうせなら別のプロジェクトに移動してもらって手厚く保護するとかしとけば良かったのにねー……おっと愚痴が。閑話休題、閑話休題。
じゃあ、どうすれば良いのか?
答えは簡単で……自分の子孫、子々孫々にとって良い社会を作ってくれそうな人に、意思を投じれば良い。
いや、もっと言えば……自分が遥か未来に生まれ変わった時に、この人が生きていれば社会は安泰だと、こういう人が増えれば世界は平和になれると思えるような人にこそ投じるべきだと私は思う。
本来の話、真に民主主義だってんなら会社の同僚であろうとも近所のオジサンであろうともホームレスであろうと、誰であろうとも……皆が正しいと思える人間なら、誰でも議員になれるくらいで丁度いい。
本人の意思を無視するのは良くないが、そうでないなら……投票し当選さえすれば誰でも社会を変えれるような社会が良いのではないか?
そして、それは社会の縮図たる学校や会社でも同様ではないだろうか?
勿論、能力なり金銭的な部分での手厚い補助は必要だとは思うし、問題があれば即座に退任できないとダメだが……そうでないと、さっき言ったピーターの法則に引っかかって爆死するので。下手したらガチのファシズムとかの危険思想国家まっしぐらだし。
でも、そういう社会でないと最終的に、能力なり人気さえ有れば、どれだけ間違ってる人間でも構わない社会ができてしまう。
それが、今のブラック企業ブラック体質を作っていると思う。特定の能力しか無い人間は、その能力の無い人間を理解しない。
……結局、今の日本社会とは成功した社会主義でしかないし、失敗した個人主義でしかない。
そんな半端をダラダラ続けて何も思わない状態は、ただひたすら不健全でしかない。
だけど、こんな事を宣う自分こそが、そんな今のダラけた日本を作ってるんだなと思うし、そう考えると自分ガチャにもリセマラ機能が欲しいと言わざるを得ない。
せめてチュートリアル期間が1年、欲を言えば再インストール期間も短期に保証されてるなら、こんなこと書く前に今すぐリセットするんだけどね……
隣のクラスの子たちが授業で「1年間お疲れ様会」なるものを開いたという。
みんなでクリームたっぷりのケーキを作って、それはそれは楽しくておいしかったらしい。
隣がやったならこっちもやるよね!っていう期待がクラス中で高まっていた。
ある日、エプロンを持ってくるよう連絡があって、いよいよだとみんなソワソワしていた。
ついにケーキがきた!ってね。
期待していたスポンジもクリームもなかった。
そりゃ不満も出る。
担任は「よそはよそ、うちはうち」って言ってたけど。
さすがに差が大きくない?
リッツがまずかったわけじゃない。
ただ、ケーキがよかったなって。
今考えると、隣のクラスはドッジボール大会とか宝探し大会とか日頃からイベント豊富だった。
うちはプリント問題ばっかりで、イベントほとんどやったことないけど。
私の担任はそういう催し物が苦手だったのかもしれない。
でも今でもちょっとだけ思うよ。
どんな形であれ、ケーキがよかったなって。