はてなキーワード: 列強とは
本旨は軽々に語るのは措いとくにせよ、203高地のその認識、いま開陳してるのは流石に嘘だろ?
WW1との比較研究もかなり進んでるのにその書きっぷりはぜったいに嘘だよ。
中田大学批判してたブロガーといっしょの生き物なのか、これで? 冗談がキツすぎる。
WW1列強のそれに比べたらあきらかに投射弾量の不足はあれ、国力比(当時の弾薬供給比)で見たときの203高地戦は紛うことなき「火力戦」だった
(その火力を持ってしてもどうにもならないから最後は白兵に頼るしかなかったし、それはWW1で突撃大隊や戦車が現れるまで打開策はどこにもなかった)のは
もはや共通認識だと思ってたが、未だに司馬史観ていどの所に囚われ続けてるとは。21世紀の日本人なのかこれで。
てか増田も「203高地のごとき人海戦術」なんてもんはつゆほども信じてないだろこれ。追い討ちかけるつもりだろ。
・・・有料部分読むつもりもないが
「弾薬供給の限界がロシアよりウクライナのほうが(西の支援があっても)先に来て、少量を有効活用する手段(HIMARSなど)も封じられつつありヤバげ」
論点がズレたよ。
自分も国防は重視するし、中国やロシアの軍事的脅威には備える必要があると思ってる。
違いは、あなたは安倍さんが国防してくれると思っているのに対し、私は安倍さんは本音は国防に興味ないだろうと思っている。
確かに高齢者に日本が侵略戦争を起こすことを心配する人は居るらしいけど、自分はそんなイメージは持っていない。
ちなみに、日本がいきなり他国に戦争を仕掛けるなんて、明治時代の人たちもイメージしてなかった。
むしろ今の日本と同じように列強の脅威にどう対抗するかで頭がいっぱいだった。
それが真珠湾攻撃をするまで日本が追い詰められるような状況になった契機が何かは、きっとあなたも勉強していると思うけど、自分は安倍さんがその契機を起こすんじゃないかと恐れていたよ。
立身出世してサラリーマンになって故郷に錦を飾るというのが当時の日本社会の夢でした
だから、当時の資料をまとめた本を読むと、根本的には日本人ってあんまり変わってないというか
少なくとも知の探求って感じでは全然ないw
田舎から汽車に乗って上京して帝国大学へ入って出世する、これが夢の時代でした
「偉くなる」というのが目標なんだよね
勉強する内容は寧ろどうでもよくて…
問題があるとするなら、試験内容がどんどん試験のための試験みたいになり、
受験勉強に特化したテクニックみたいになっていった面があるとは思う
ほぼ全員が高校進学するなら、それに合わせて問題をいじらないと、それに合わせて教科書をいじらないと、みたいに自然となっていってしまう
結局、三角関数はクソ知識、みたいな意見の背景にはコンプレックスとか感じられて、
それを醸成したのは学校教育とか日本の企業、日本社会の常識とかシステムの問題だと思う
中身の話じゃなくて、世間が悪い
おカネにならない知識を排除しよう、みたいな考え方になるぐらい貧しくなったんだとも思う
あの時期の列強を誰か1人の顔で代表できると考えるのがそもそも間違ってる
それより前だと誰よ
って、こいつらも日本の天皇・首相よりは立ち位置がわかりやすいからマシか?
経済制裁なんて仮にも先進国のG7ならやって当然だろうし、それ以上の事をしないと感謝なんてされない
・防弾チョッキ送るのですら揉める
今生きるか死ぬか、国が消えるか残るかの現状に金貰っても嬉しいか?
そして、自衛隊機を派遣しようとしたらインドに断られるお粗末振り
なんて言うか国民も国も批判されても仕方ないような対応しかしてないんだよね
大統領も話してたけど「ウクライナは悲劇的な自撮りの場所ではない」って、その言葉の通りで政治のパフォーマンスに使われたって嬉しくないだろ
昭和天皇の事だって、欧米から本当は日本がどう見られてるか実態が可視化されただけじゃないの?
結局日本はいくら金あってG7でも欧米からしたらイエローモンキーだったんだよ
世界の中でも経済力があってアメリカの同盟国だからG7メンバーであり列強に数えられてるだけで、アメリカの同盟国でなかったら見向きもされてないだろう
列強に対抗するために列強と同じことをしただけとはいえ周辺諸国を侵略したのは確かなんだし戦前の日本はファシズムって言われても仕方ないと思う
たしかに日本よりもっとひどい侵略行為・戦争犯罪を犯しておきながらなんの誹りも受けてない国々が圧倒的に多いとはいえ、
たとえヒトラーと並べられてもぐっと堪えて「でも今の日本は違うよ」って自信をもって言える度量の広さを我々日本人が率先して見せていかなければ世界から戦争なんてなくならない
水掛け論に躍起になって「昭和天皇は関係ない、軍部が暴走しただけ」とか「日本は列強からアジアを解放しようとしただけ」なんていう戦争の正当化までし始めたらこの70余年は全くの無意味だ
強姦罪は同意のないセックスに成立するのが基本だが、公然わいせつ等は同意の有無に関わらず成立する。
これを公然と裸になった程度では周りの同意の有無に関わらず犯罪として成立しないように法改正するべきではないか。
当事者の同意の有無に関わらず成立する犯罪の多くは公序良俗に対する罪だというが、この場合の公序良俗の根拠は「性器を見せたり見られたりすると羞恥心や不快感を抱く人たちが相当数いる」ということにあると思う。
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宗教観に反して今で言う公然わいせつに相当するふるまいをする人間を恥ずかしい行いと謗る
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恥ずかしい行いと言われるから(公衆の面前で笑われるから)恥ずかしいと思う層が出て来る
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そいつの家庭で育った子はこのようなことに関して恥ずかしいことと言い聞かされて育つのでネイティブに性に関する層を恥ずかしいと思う層が誕生する
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5匹の猿の完成し、列強の圧力として日本にも波及。そしてこの層が今も多数現存していることがわいせつ関連の法律の改正を難しくしている
こういう法律があるからそういう層が再生産され続ける面がある。
また再生産されている層がこのような法律の改正に歯止めをかける働きをしている面がある。
この相互作用を解くには、裸でほっつきあるいるという程度の人間に対する不快感を法律で特別扱いするのをやめることだ。
こんなものは「テレビに出てると嫌な芸人がいる」程度の不快感と本質的に差などない。数多くの不快感を感じる一例に過ぎない。
逆に同意なく性器を顔に近づけるとか、それ以上の域に達するものに関しては必要に応じて厳罰化すればよい。
性そのもの、性に関するあらゆることが悪いのではなく、峻別をつけるべきだと法の改正をもって大衆にわからせるべきである。
そもそもああいう為政者がいなければ単なる露出ごとき公序良俗の侵害とみなす価値観自体存在しなかったはずというわけである。
テレビで入浴映像で性器にわざわざモザイクを掛けさせる手間を強いる法律なんてなくてよろしい。
そんなだから性を過剰に禁忌とみなす層が出て来る。俺もその一人だった。
思春期になってむらむらが加速度的に高まっても心安くオナニーできる場所などなかった。
性に関わることに自分を巻き込むことは大変な悪だと考えてしまっていた。親には絶対にばれないように自分ではしているつもりでいた。
が、ばれないような状況になることなんて滅多にないので実質的には禁欲生活を強いられているようなものである。
刑務所では陰部摩擦罪とその我慢を強いることが刑罰として成立するぐらいだ。罪も犯していない人間がそれぐらいのつらさに耐える状況が大人になってもしばらく経っても続いたのだった。
もっとも後日談として親に聞いたらなかなか性に興味を持たないそぶりの私を異常に思っていたようである。
しかしそのような人物を演じさせたのはほかならぬ家庭であり社会であると私は思っている。
隠しているようなことは、してはらならないものなんだと、単純な子供の思考なら、考えてしまうものではないか!
このような勘違いによる悲劇をこれ以上生まないためにも、私は法律の改正を提唱する。
悪いのは性そのものではなく、性「行為等」の強要なのだから。全てひっくるめて隠してしまうから子供はそれらに触れることに妙な後ろめたさを持つようになるのだ。
法律と潔癖な層は相互に分かちがたく結びついているおかげで、公的な場で政治的意見としてこのようなことを言うことすら難しい。
ただ裸になっただけで露出狂だ。窃盗犯以上に人間扱いされない。こんな認識は明らかに合理的ではない。
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18歳以上になった人へ「【親展】成人向けとされているものについて」と手紙を送るようにするのも一案だ。
私のような勘違いを犯した人が自分でその勘違いに気付けるとは限らない。
そこで親展で講座の受講へ仕向けるのである。内容は、性行為自体には実はなんらの後ろめたさもないこと、後ろめたさを植え付ける社会になっているのは未成年への方便であること等、徹底的に誤解の洗脳を解いてやるのだ。
まあそもそも子供にセックスを見せるのは面前DVとかいうけれど、無条件でそうなるような定義がまず間違っている気がするね。
PTSDになるかは確率論の問題だろう。それと、性行為を見せなかったせいで俺のように思春期を刑罰を課されたような状態で過ごすことになる確率と、どっちが高いのか。
というか性行為を見せたら悪影響があるものであってほしい、という清く正しく育った層が政治の実権を握っていることによる、価値観の押しつけが定義に反映されているだけな気さえする。
動物がいちいち子供に性行為を見せない配慮をしてるだろうか。人間というだけで性行為を見せると悪影響が出るというんだろうか?
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そういうわけで言葉を選ばざるをえない、無意識に選んでいる面がある。
世の中なんだかんだいって理屈と同じぐらい、言葉の持つ熱量みたいなもんが重要なのだ。
簡単な話、無機質でニュートラルな性器という言葉を使うより、ちんこまんこと書いた方が説得力を持つ文脈だってあるというわけだ。
dorawiiより
普通の日本人「日清・日露は悪い列強と戦った良い戦争。調子に乗った日本軍がどこかで断層を越えた。暴走をはじめた軍部により日本国民は戦争に巻き込まれ南の島で餓死者が続出し全国的に空襲され原爆を落とされ戦後悲惨な暮らしを余儀なくされた」
”普通の日本人”「真珠湾攻撃はアメリカに責任がある。大東亜戦争は西欧諸国に支配された植民地のアジアを開放する良い戦争。日本国民はコミンテルンの陰謀によって戦争に巻き込まれ、南の島で餓死者が続出し全国的に空襲され原爆を落とされ戦後悲惨な暮らしを余儀なくされた」
歴史に詳しい人「日清・日露戦争で帝国軍がやらかしていたことから考えれば、支那事変も南洋諸島のあれこれも満洲もただ延長線上のできごとですね」
西も東も引く気がない。
世界中、どこを見渡しても自分たちの側からは引く気のない人間が大多数なのは間違いないだろう。
それが良いとか悪いとかいう話ではない。
ただ単純に「誰も引く気がないなら、緊張は今後も高まり続ける一方だ」ということだ。
おそらくは双方が直接に衝突するところまで。
未知の領域ゆえに何が起きるか正しく予想することは難しい。
ただ間違いなく、ろくでもないことになるはずだ。
自分は無事だなどと思わない方がいい。
あなたもきっと酷い目に遭う。
間違って欲しくないのは「だから自分たちから引け」と言っているのではないということだ。
そんな言葉くらいで世論が変わらないことくらい重々承知している。
行くところまで行って人類全体がうんざりするまで、この流れはきっと止まらない。
なぜならこれは前人未到の領域ではなく、かつて2度も人類が経験したのと同じ流れの焼き直しだからだ。
かつての大戦の話を耳にする度、幾度となく抱いた素朴な疑問――なぜ誰もそれを止められなかったのか――の答えが、今は肌で理解できる。
まして、当時の人々なら…そういうことだ。
今、人類ができるのは、せめて最終的な破局が少しでも先に(1年ではなく5年先、5年ではなく10年先に)なることと、最終的な破局がせめて少しでもマシな形に収まる(「無数の戦略核の応酬」などという事態に至らず決着がつく)ことを願うことくらいだろう。
そして、今、ボクができるのは、ボクと周囲の人々がそのような戦火の中で幸運を拾い、少しでも苦難を免れ生き残ることを祈ることくらいだろう。
れいわの、国会決議への反対ね、あれ大層非難されているけど、経緯認識としてはだいたいあってる。と言うか、あの激動の89年をリアルタイムで経験した人たちなら、言わずもがなのことだから、却って文献資料に残ってないため、「NATO不拡大方針の合意」がロシアの陰謀扱いされてしまってるのかなって思うわ。89年から92年までの新聞、読んでみて。むしろそう言う解釈がデフォルトだから。ゴルバチョフがそれを求めて、ベイカー国務長官が「まあ、そうよね」と発言して、そのうえでのマルタ合意ってのは順を追っていけば分かるようになっている。もちろん他国の主権を、ボス間で合意する内容だから、正式に文章として組み込まれるはずがない。
ゴルバチョフとブッシュとの間で問題になったのは、旧東欧圏の扱いだけども、NATO不拡大の方針自体は、ソ連が要求を出して、アメリカが「まあ、そうね」になったからこそ、マルタ合意と言うカタチになっているのだ。
キューバ危機も、あれは逆にアメリカによる主権国家への武力恫喝の例だけども、ケネディとフルシチョフの間で正式な文書として合意があったわけではない。そんなものが外交文書として残るわけがないのだ。
ロシアの側から見れば、WTO諸国に手を突っ込まれて、バルト三国に手を突っ込まれて、旧CISにまで手出しをされた、どこかで歯止めをかけなければならないとなるのは「良いか悪いかは別にして」、当たり前ではある。戦争の多くはそうした予防戦争として発生した。
であるから、平和を望むのであれば、主権国家は「疑いをもたれない、巧妙で丁寧な外交」が必要になるのだが、能力的にそれが出来ない国もある。スイスが永世中立国を続けていてベルギーが止めたのは、ベルギーは地形が平坦であるため、自力で守り切れないからだ。つまり列強としては、中立国が他国に屈さずに中立国として振舞う能力があるのであれば、得にも損にもならないから放置しておいてもいいのだが、無能力であれば、別の列強に占領されて、敵を太らせる餌になりかねないから予防として占領しておくか、となりやすい。
ウクライナはこの、ロシアの疑心暗鬼を宥めると言う外交タスクに失敗した。それはやはりウクライナのせいなのだ。予防戦争に手を染めていない列強が歴史上、ただの一ヶ国もない以上(直近ではイラク戦争は予防戦争の典型例)、ウクライナは①ロシアに配慮した外交政策を採り、疑心暗鬼を解く必要があった。②国防力を高めて、侵攻した場合のロシアの見積もり損失を高くしておく必要があった。のいずれにも失敗したと言えるからである。これは法理的な話ではなく、能力の問題、力学的な話である。
なんでも、「定点観測をしていてたらドイツをたたいときゃいいだろと雑な発想している奴がいてプゲラ」的な雑な反応をしているヤカラもいるのだが、ドイツが責められるべきなのは、ロシア弱体期に率先してEU拡大、NATO拡大を推進したのがドイツだからである。ドイツとしては国境を東に移したいと言う欲求のなせるわざであったのだが、平和を毀損する行為であったのは間違いない。平和とは弱者の犠牲の下に築かれた強者間の合意に過ぎないからである。
これは平和主義者が、異様に共産政権などの圧制下で苦しむ人々に対して「ウイグル話法」などと言って嘲笑的に振舞い、冷酷である理由である。基本的には彼らは、「フランス革命前の穏やかに暮らしている貴族」であるに過ぎない。
私はドイツとウクライナを批判したし、ある意味、ロシアを一部免罪した。これは構造的な話であるが、起きてしまえば、表徴として問題を処遇するしかない。これはNATO拡大に関して確たる定見が無かったアメリカの外交的失敗のせいでもあるのだが、この表徴的に言えば「だからと言って侵略が許されるわけがない」と言うのは現代の国際法では当たり前の話だ。ここに今回のれいわの行動の問題点がある。
いったいどこの国の政党のつもりなのか、と言うことだ。言ってみれば「情状酌量の余地がロシアにまったくないわけではないにしても」、ロシアが現在進行で侵略をしているのは事実であるし、日本の政党がそれをかばいだてする理由は皆無なのである。異常なのは、れいわがこの件だけに限って極端なプラグマティストとして振舞っていて、ウクライナの国民真情としては列強に合意があろうとなかろうとも、数百万人の犠牲を強いたロシアとは「距離を置きたい」と思って当たり前だ。NATOにすがりたいと思って当たり前だ。
これはまさしく、平和主義者が人権侵害国家の圧政の被害者に対しては極端にサディスティックに振舞いがちだと言う典型例であって、国益の観点から言っても、いまさら表向き、ロシアに同情的な姿勢を示しても日本には何一つ益がない。構造に基づいてドイツを批判するのは、個人の資格で考察としてやるか、あるいはG7の席でないないにやるべきであって、日本国の損得勘定から言っても、れいわの行動は日本の国益を害している。そこが問題なのである。