はてなキーワード: 信仰心とは
原因は君たちの厚い信仰心だよ。何言ってるの
中国人に聞くと「特定の宗教はない、一部の人は仏教をやってる」って答えるよ
無宗教を特定の神様を信じてない信仰心を持ってないって意味で使うやついるけど、頭悪すぎだろ
こんなん酷すぎるし無知も極まってる
これは日本人は無宗教じゃなくて八百万信仰だとかそういう話じゃないぞ
八百万信仰ダロウも仏教、神道、空飛ぶスパゲッティモンスターだろうとどうでもいいんだよ
キリスト教徒、イスラム教徒の前で無宗教だというのは、それは私は無神論者ですって言ってることになる
そして神様を信じる人の前で無神論を宣言するってのは、お前らの信じてる神様なんていないと言ってることになるんだよ
恥ずかしいやつらだな
多神教であったが、その中で特に重要視されていた神々が、「ブラフキンタマーニ」「コックチンマラ」「ボッキンマルドゥク」の3柱であった。
ブラフキンタマーニは、創造主であり、巨大な睾丸を司るとされた。一方、コックチンマラは、太陽の光の化身であり、巨大な陰茎を司るとされた。そして最後に、ボッキンマルドゥクは、大地の神にして性欲を司るとされていた。
3柱はいずれも強大な力を持ち、しばしば人間の前に現れて奇跡を起こしたとされる。これらの神々は『チンポコペニス大王』と呼ばれることもあった。
ブラフキンタマーニは、真に巨大な陰茎を持つ者にしか見えないとされ、その姿を見た者は絶大な力を授かると信じられていた。また、チンポコペニスの王は皆、ブラフキンタマーニと交信し、神の加護を受けることができたとされる。
一方、コックチンマラは太陽のように輝く巨大な陰茎で人々を照らし、人々の心に愛をもたらす存在であったとされる。また、ボッキンマルドゥクは大地の象徴であり、陰茎を十分に勃起させるにはボッキンマルドゥクへの信仰心が必要であると考えられていた。
日経「たわわ」広告炎上のような騒動見る度に、日本人みんなメガネ型のディスプレイを常に装着していて、ネットのターゲティング広告のように各人の見たい物だけが目の前に表示される(不快な物は見えない)世界になって欲しいと考える。
例えば、同じ日経朝刊の紙面見ても、企業が収集したユーザー情報に基づいて、
「キモオタ」と判定された読者には「たわわ」の全面広告が見えて朝から局部が元気になり、
「ポリコレの民」と判定された読者には「日経のSDGsへの取り組み」という全面広告が見えて道徳心が満たされる、
こういう風に現実が各人の好みに合わせたヴァーチャル・リアリティで覆われてみんなが幸せになれる世界が早く来て欲しい。
この技術で「公共の場にキモオタ向け萌え美少女が掲示されて体の震えと涙が止まらなくなるフェミ」問題も最終解決できる。
キモオタの目には「顔面と胸に白濁液を浴びて頬を赤らめている童顔巨乳JK」に見えて、思わず駅のトイレに駆け込んでシコってしまうほどの強烈な宣伝効果を与え、
ポリコレの民の目には「仏頂面でカルピスを飲むでっぷりと太った黒人トランスジェンダー女性」に見えて、これまた彼女/彼らの多様性への信仰心を満足させて企業と商品への信者に変えてしまう。
これ、VR(仮想現実)じゃなくて、AR(拡張現実)のような気もしてきたけど……
広告のポリコレ騒動の解決だけではなく、街中のホームレスが愛らしいパンダに見えるように市民の視覚を操作して、ホームレスが駅や公園のベンチでゴロ寝してても嫌悪感を抱かれない優しい世界を実現するといったこともできるかも知れない。
母が亡くなって、1年ほどになりました。
時折ふとした瞬間に、そうだ、この世の中には、もうお母さんはいないのだなあ……、としみじみ思い出して寂しくなります。
母親が亡くなると、大げさにいえばそれ以前とそれ以降で、自分の心持ちががらっと変化してしまったような気がします。
抱えている寂しさや空しさの量が少し増えましたし、自分自身の死ということにも、よりリアリティを感じるようになってきています。
とはいえ、人生は続いていくわけで、時間が解決することもあるけれど、この寂しさや空しさを、当たり前にそこにあるものとして、これからは暮らしていくんだろうと思います。
ただ、今日この場で語りたいことは、現実的(で大切な)話、葬儀・供養についてのお金の話題です。
私、母以外にも肉親をもう2人、既に亡くしていまして、喪主の経験が3回あります(3回あれば、語る資格ありますよね?)。
さて皆さん、人がひとり亡くなると、葬儀・供養にどれくらいのお金がかかると思いますか?
もちろんケースバイケースですが、私の母のケースを参考までに述べますと、
・ほぼ家族葬、参列者が15人以下。
・コロナなので、会食はなし。
というもので、
(高齢化社会になると、高齢で亡くなるため、すなわち、葬儀に参加する仕事のつながりや友人知人もいなくなります。なので近年は、家族葬の割合が増えていると聞きました)
位牌・・・4万円
合計・・・180万円
でした。
(これに加えて、香典をもらうとしたら、平均ひとり1万円いただくことになり、その半分を返礼品でお返しすることとなります)
わりとメジャーな葬儀社で、いちばん簡素なプランを選んでの金額です。
お布施は付ける戒名のランクによって金額が変わるというお寺のシステムがあり、こちらも最低ランクの戒名でお願いしました。
なので、自分が亡くなる時には180万円くらい残しておかないと、残された人たちが困るかもしれません。
たとえ自分が「葬式不要・戒名不要」と遺言を残していたとしても、実際には、残された親族親戚からすると、それでは気が済まないから、
皆でお金を出し合って最低限の形にしよう……という話になる可能性もおおいにありえると思うのです。そこは、自分だけの合理性では済まない部分もあるといいますか。
私自身、もちろん亡くなった家族を悼む気持ちはありますが、宗教的な信仰心が厚いわけではないので、
葬儀・供養については、できるだけシンプルな形でと考えていたのですが、それでもこの金額になりました。
ちなみに葬儀社には「互助会」というシステムがあり、生前に入会して積立金を支払っておくと、費用の割引を受けられるというシステムがあります。
(なので、互助会に入会していないと費用が割高になるようです)
亡くなった親が既にどこかの互助会に入っていたり、どこかのお寺の檀家になっていると、このあたりについては選択の余地はないですね。
小さめの家族葬をメインとしたセレモニーホールだと、価格が抑えられたかもしれないなとは思います。
しかし、決して安くはないけど、ネットで調べた相場よりも高くはないようなので、まあ、こんなものかなという感想です。
ただ、お墓への戒名彫りと納骨費用の10万円は、調べると相場は3~5万円ということらしいので、ちょっと高かったのです。
(あと、戒名彫りのフォントが野暮ったくて、それも不満に感じています)
石材店に依頼して、お墓の側面に戒名と没年を彫り、骨壺をお墓の下に収納するわけですが、墓地には「指定石材店」という制度があり、
決められた石材店にしか依頼することが出来ないルールなんです(公営の墓地にはそういう制度はないようですが、民間墓地にはあるそうです)。
それを聞いたときには、ちょっと疑問は感じました。シンプルに独占禁止法にひっかかるのではないかと思ったのですが、それにはあたらないという見解もあるみたいで。
とはいえこのルールでは相見積もりも取れないし、これが適正価格なのか信用はできないな……、と思います。
そういった独占的な商売を、消費者としてどこまで信用してよいのでしょうね。
だけど、お墓はトラックが横付けできないような山あいにある墓地ですし、近年の様々な材料の高騰の影響もあるのでしょう。
素人にはわからないコストもあるでしょうし、ネットで調べた相場感だけで軽々には判断できません。
ところで、その石材店の社長名でfacebook検索してみると(そういうこと、しますよね?)、
自宅ガレージの前には、レクサスはおろか、BMW X4 M Competition、フェラーリ ポルトフィーノ、488ピスタ、などの写真が並んでいて、
裸踊りというのは一例ですが、洗脳されている人の特徴に、普通なら誰もやらないような奇妙な行動を取ることが挙げられます。
始めのうちは家の中に御札を貼るだとか決まった時間にお祈りをするだとかですが、段々とエスカーレトしてそのうち人前でも大声でお祈りさせたりだとか、大事なものを破壊させたりとかし始めます。
例えばその一つが裸踊りです。
必ず裸踊りが選ばれるわけではありませんが、普通なら人前では絶対にしないような行為でも洗脳中ならしてしまえることの例として挙げました。
これらには共通点があって、必ず人前で、普通ならおかしいと思える行動が選ばれます。
なぜそういった行動を取らせるのかいくつかの理由が考えられますが、総じて洗脳する側にとって都合がよいからと考えることができます。
一つは孤立。
洗脳している側は相手を意のままに操りたいと考えるので、他者の存在は不都合でしかありません。
ありとあらゆる手段で関係を壊そうとしますが、その一つとしてこういった行動を取らせることで相手側から距離を置くように仕向けます。
良識側が他者に作られた自分にとって不利益な悪であると思わせることで、洗脳されている人間の行動のリミッターを破壊します。
それら行動を自らの力で成し遂げられたことが自信となり、自らの中での信仰心が高まります。
信仰心とは言い換えれば洗脳する側に対する依存のことであり、それを繰り返すことで自らが進んで洗脳をされているような状況になっていきます。
要約すると、裸踊り行為とは洗脳する側にとってのわかりやすい信仰心、影響力のベンチマークとなっています。
取らせる行動を少しずつエスカレートさせていくことで、どのくらいまでの命令まで従うのか、つまり洗脳できているかをチェックする役割があるわけです。
例えば人通りのある中での社訓や校則の読み上げ、駅前でのビラ配りや募金活動なども、それそのものの効果よりも所属する組織にどれくらい忠誠心を持っているかを確認することの意味合いの方が強くあるといえます。
多かれ少なかれ、世の中では当然のように組み込まれているものです。
また、これらはさせることよりもするかどうかが重要です。
特定の個人を狙い撃ちにする場合は別ですが、多くの場合は、不特定多数の中から振り分けていくことで洗脳されやすい人間を見つけ出すために用いられます。
少しずつ無茶な要求をすることで、相手がそれに応じるかどうかを見て絞り込んでいくわけです。
いわばこの裸踊り行為は、現在進行系で洗脳されている最中に、これから要求がエスカレートしていくであろう予兆と考えることができます。
逆を返せば、こうした予兆が見られた時点ですでに洗脳がある程度進んでいることの判断材料となり、実害がないからと放置しておけばあっという間に取り返しのつかない状況まで突き進んでしまうことを意味しています。
自らの実体験でここまで書き進めてきましたが、わたし自信は心理学の専門家でもなんでもなく、この裸踊り行為に名前がついているかどうかを知りません。
しかし、もしこの行為に名前を付けることができて、広く一般的な知見として知られることができたら、洗脳による被害者を減らすことができるのではないかと思い文字にしてみました。
ネタとシャリの間にわさびが入ってる程度の寿司をたらふく食べたい。
いわゆる100円寿司各社がわさびを別添にするようになってどれほど経っただろう。
あれもそんなに嫌ってもないのだが、しかしわさびはネタとシャリの間にいてほしいし、ネタとシャリは横倒しにしても分離しない程度に握り固められていてほしいものである。
このささやかな願いに同調してくれる人は決して少なくないと信じているが、しかしこれを叶えることは存外容易でないものである。
百円寿司で一旦ネタを剥がしてわさびをつける戦略は思いの外満足度が低かった。
上記が叶う程度の回転寿司は採算がアレなのかコスパが良くなく、何よりレーンの中に板前が居たりしてコロナ禍において通いづらかった。
宅配寿司は1人前をなんとなく頼みづらかった。
持ち帰り寿司は最も理想に近かったが、ヘビロテすると飽きが来た。
ついでに言うと俺は今ほぼリモートワークなのだが、1人前の寿司を買いに日参するには絶妙に店舗立地が遠かった。
ここに至って俺は認めざるを得なかった。もはや自分の寿司は自分で握るしかない。
業務スーパーで冷凍のサクを買う。今日は寿司だと思い立ったら冷蔵庫で解凍し、白米を炊いてすし酢と合わせてええ感じに握る。これだ。これしかない。
今どきは便利なもので、寿司の握り方はyoutubeでいくらでも調べられた。
ちなみにこの過程で家庭向けの寿司を握る補助具的なものがないか調べたが、結果は芳しくなかった。
百円寿司のシャリ玉ロボットの人力版みたいなものはあったが、肝心のネタとシャリを一緒に握れる機能はなかったのだ。
アイスクリームスプーンのしゃもじ版みたいな奴は工夫次第でいけるんではと買ってみたが、逆に面倒だった。
とはいえはじめの数回は酷い出来だった。初めて作った寿司はずっしりと重く、太く、齧れるほどだった。
細くしてみたら底面が崩れて、自立しなくなった。
力を抜いて軽く握ったら形が整わず、あちこち米粒が飛び出した。
いい感じに出来たと思ったら握れておらず、箸で持つと折れた。寿司飯にして1.5合喰った。
もともと刺身はサクで買う主義だったので柳刃包丁は持っていた。しかしここでも問題が発生した。
狭いアパートでスーパーのサクを切るくらいしか想定していなかったので、柳刃と言いながら刃渡りが20cmしかなかったのだ。
平造りしかしないのであれば正直十分だった。だが寿司ネタを切りつけるには指四本よりもやや長い幅を切らねばならぬ。
我が家の包丁は三徳と出刃と柳の3本だったので、実はイワシや小アジを捌くのも多少不便だった。
なのでこの20cmの柳は片刃のペティというか小魚用の身卸というか、小刃でもつけて多目的に使うことにして、
9寸くらいの柳刃を追加しようと思った。しかしなかなか好みの包丁が見つからない。
あれは伝統的には朴の木で出来ていて、穴をくり抜いて口輪を付けて刃を挿すものだ。
口輪は経年で縮んで締まる水牛の角がいいとか、サビ防止に刃を挿す前によく熱して中を焼くとか、
あれこれあまり知られていないノウハウがあったりなかったりするものだが、これらは基本、その時代の工夫というものだ。
朴の木を使う理由にしたって、自然の木材の中では水に強いという程度のことでしかない。
耐水性の高いハンドル材がいくらでも選べ、ステンレス包丁なら中子が錆びる心配もない現代において、
敢えて朴の木に鋲もネジもなしに摩擦力で留めるだけの柄を使い続ける理由はなにもないと思うのだが、
何故か頑なに和包丁には朴の木のハンドルを使うというのが常識となっているようである。
しかもアレ大抵白木だから、魚の血や肝とか砥石の研ぎ汁とか付着した日には金たわしや最悪紙ヤスリなどで削るんである。
なんぼなんでも、あまりにも前時代的だと思うのだがなんとかならんか。
閑話休題、そういうわけで柄が積層材、鋲止めで刃はステンレスで口金もついて9寸の柳刃を探し回るのであるが、
これがまあ見つからないこと。なんとか探し当てても鋼材がなに使っているのか非公表だったりしてそれも気に入らない。
世の中にモリブデンバナジウム鋼と分類できる鋼材が一体何種類あると思っているのか。
まあ包丁問屋が日本鋼って鋼材がガチで在ると思い込んでいたりとかなくもないらしいのでその類なのやもしれぬ。ファック。
流石にそこまでいくとマニアックすぎないかと思われた向きもあるかもしれないが、これが結構実害があったりするんである。
例えばAmazonの検索アルゴリズムとか。「モリブデンバナジウム鋼」の包丁が合金鋼と表記されてるせいで(※間違ってはない)、
検索ページの絞り込みで「材質:ステンレス」にチェックを入れると表示されなくなったりとか、いざ遭遇すると割とびびる。
Amazon内で検索するのがマジで役に立たないので、色々辿ってメーカーのカタログから作ってることは確認した上で購入方法を
調べてみたらAmazonで普通に売ってた(でも検索からは出ない)とか、本当に勘弁してほしいものである。
包丁噺ついでにさらに脱線するが、和包丁の鋼への信仰心とでも言うべきものにも戸惑うものがある。
俺は趣味で切出しや肥後守とかも使うので炭素鋼の切れ味と扱いやすさは理解している。ついでにフライパンは鉄製に限る。
だが包丁についてはステンレスで統一する主義だ。たしかに差はある。他はまだしも出刃だけ(柳だけ)は鋼、と言う意見もわかる。
けれどそれは刃持ちに妥協できない業務用途に限った話ではあるまいか。
家庭用の包丁では、刃持ちを妥協して柔らかい鋼材を使う、と言う選択肢が取れるためだ。
正直な話、HRC56の謎ステンレスとHRC62の青紙だったら、ステンレスのほうが研ぎやすい。
粗悪な刃物だとカエリがペラペラしたりするのも知ってるが、今どきそこまで酷いのは中華の偽ブランドナイフくらいのものである。
わざわざ水気に弱いものを水に濡らして使うくらいなら、多少ヘタリが早くともステンレスを使ったほうが手間がないと俺は思う。
しかし、どうやらそういうのとは無関係に「鋼の包丁」という情報を食う連中がいるようで不気味なんである。
よくいる初心者には白2鋼おすすめ!などと勧める奴も、真に受けて購入した包丁を錆びさせる奴も大概アレであるが、そうではなく、
ちゃんと扱えたとしてもいらん苦労でしかないような怪しげな包丁をやけに目にするのである。
職人が手作りで仕上げた白2の包丁が必要な場面というのはもちろんあるであろう。
板長が本焼きを持っていることがステータスになる世界だってあって全然構わない。
だがこの異常に安い、4桁円で買えるが白1鋼という包丁は一体誰向けに作られているのだ…?
それはかけた手間に見合った性能を引き出せているか?ただ錆びたり柄が腐ったりするだけの包丁ではないか?
さて話を戻して、そうして多方面を呪いながら包丁を都合すると、道具の面ではもうあまり不足がない。
飯にすし酢をあわせるのにボウルでは不便だと思っていたが、これは代用できるものが見つかった。
どこでも手に入る土鍋である。市販の鍋セットをそのまま突っ込める大きめサイズを買っていたのが幸いした。
米自体を土鍋で炊くほど拘りはしない。炊飯器で炊いたのをお櫃代わりに鍋に移して酢と合わせる。おこげは寿司に出来ないのでこれでいい。
土鍋は保温については文句がない。調湿は流石に木の桶とは比べ物にならないが、ステンレスのボウルに比べれば水気を吸う。
むしろ木桶は水を吸いすぎるので事前に濡らしておくというくらいだから、土鍋でも十分なのではないかと思う。
そもそもシャリが一人分なのでそれほど乾く心配はしなくていい。何かの理由で台所を離れなければ行けない場合は
濡らしたペーパーを被せておいて、それでも足りなければ濡らして絞ったペーパーを直接触れない位置に置いておくとか、工夫次第である。
何より手入れに手間がいらないのが良い。ものにもよるが食洗機に突っ込むことだってできる。
ただ、冬場は冷えすぎるので事前に軽く温めたほうが良いみたいではあった。
自分で寿司を握ってみると、寿司というのは米料理なのだなぁと言う思いを強くする。
わかりやすいのは水分量の管理で、米を1合炊いてすし飯にした場合、最初と最後の1貫は米の状態が顕著に異なる。
米の状態を見て手につける手酢とかも調整していく必要がある。でないと米が手についたり寿司がベシャベシャになったりする。
反面ネタの方は自分で喰らう分には割と融通が効く。多少大きさが不揃いだろうと人に出さないなら問題ないし、
なんなら小さく切って1貫に二切れ使ったって良い。シャリはリカバリできない。
握りの技術については、未だにわからないことが多すぎて文章にできない。
ただ握り寿司にした米の総量でみて、大体1升を越えてくると、当初の目的であった
「ネタとシャリの間にわさびがあって、横倒しにしても分離しない程度の寿司」については達成できたと思う。
最初は量をこなさねばと思って一度に1合半とか2合とか炊いて喰っていたので、自宅寿司8回目とかでクリアした格好だ。
ただ本末転倒なことに、この達成水準の寿司は俺を満足させなかった。
何よりもわさびの風味が駄目だった。本わさび使用と大書された高級ラインでも、チューブわさびは寿司に向かないと知った。
わさびの味自体に問題があるというより、油脂などに由来する滑らかさが違和感の原因ではないかと思う。
脚を伸ばした遠いスーパーに本わさびのちょうどいい感じにすごく小さいやつが売ってはいたが、毎回それはしんどい。
いろいろ試したが未だ納得がいっていない。粉わさびを都度練ると良いらしいので次はそれを試すつもりだ。
ネタは切りつける上では自由でいいが、買ってくるときは悩ましいことが多い。
一貫分のネタの大きさは解説する人によって千差万別で、総合すると10g~15g、シャリの量は10~20g
ばらつきが大きすぎて正直参考にする気が起きない。
おそらく職人の技としては狙った大きさで握れることが要諦で、何グラムにするかと言うのは店舗経営の領域なのだろう。
歴史的には、江戸の屋台で売られてた頃はシャリだけで40gあってこれが右肩下がりで小さくなってるとか。
戦後の一時期に限れば米1合=10貫だったのでシャリは30~35gくらい(水分量による)だっただろうとか。
どっちかと言うと自宅寿司やる際に考えるのは、魚をサクで買うときに何グラム分買うかということである。
何度か試した限りだと、俺が適当に握る場合「端っこを除いて」200gの刺し身に米1合使っているっぽい。
そしてこれは多分、この比率は結構ネタが小さくて薄いパターンである。
よく商品画像的なもので見る、ネタの先端が地に付きそうな寿司を握ろうと思うと、ネタをかなり増やして考えないといけないと思う。
アジやイワシやその他の魚をまるまま買って捌く場合はまた考え方が変わる。
イナダを一匹買ってくれば小さいのでもデブ3人前くらいのネタが取れるので、下側の身は翌日塩焼きにでもしようか
みたいな悩み方をすることになる。
小さい魚の場合は魚体の身を2分割または4分割して考えることになる。
イワシなら手開きにして上身と下身それぞれ半分に切れば1尾から4貫取れるな、とか。
アジは血合い骨をいちいち処理したくないので、節を渡して半身から4貫取れればいいけど、そこまで大きくないならさてどうしよう、みたいな。
隠し包丁で骨を抜かずに切って済ませる、とかもあるみたいだがベストプラクティスは発見できていない。
何れにせよ、分量的にも予算的にも、何種類ものネタを一回で準備するのは難しい。
どうしてもやりたければ刺身の盛り合わせなどを買うことになるが、用途からして寿司ネタ用ではないのでいまいちである。
ただこれはバリエーションとクオリティの向上で克服できる課題だと考えている。
要は今日は寿司を食べよう、ではなく、今日はこれを握ろう、と考えるようにして、
その上で握った寿司の満足度が100円寿司の10皿を超えていれば良いのである。
あるいは冷凍庫に投資するのも一考の余地があるか。チルドで流通するサクを50gくらいに切り分けてからホームフリージングできれば理想ではある。
ただそこまで行くと引っ越すべきな気もしてくる。
海外のちょっと田舎で生活してたとき、信仰心はないし無宗教みたいな感じかなという話をすると
じゃあ、あなたは地獄におちるのねって面と向かってジョークじゃなくそう言われたからな
どんなに発展してる国でもちょっと田舎来たらこれ(中世)かよと思った
なんかどんな宗教を信じてるかってのが、その人の持ってる倫理観とイコールと見なされてるみたいなんだよなぁ
異邦人だけれども、神様を信じてるなら善悪の判断つく良い人なんだろうみたいな
めんどくさいけど、なんかメジャーだけど同調圧力も強くなくて義務もないフランクなキリスト教の宗派ってないんかね
町内会的な感じのやつ
もう、それでいいよ
いま、『白昼堂々』(長野まゆみ)を読んでいるんで、読み終わったらまとめて感想書こうと思ってたんだけど、なかなか読み進まないので、忘れぬうちにこっちだけ書いてしまおうと思い、参上した次第。
小山に告白されたところを清居に目撃されてしまった平良。しばらくは未練たらしく清居に電話をかけまくっていた平良だったが、今度こそ清居との関係は終わりだと思い、電話するのを止めた。一方清居は、自分のことを熱烈な視線で見詰めてくる平良が小山に心変わりをしたり、かと思えば違うといい、そのくせ一方的に関係を絶とうとしてくるのが理解出来ない。平良から最後のメッセージを受け、清居は二人の思い出の場所に向かうが……。
毎度言ってるけど平良役の萩原利久と清居役の八木勇征がほんと良くて……。すごい、平良と清居は実在したんだ! と、一原作既読者の私は思うのだった。演技がいい、表情がいい、ものすごく。
原作では平良と清居の気持ちのすれ違いぶりは真面目に心配するところというより笑うところなんだけど、このドラマ版ではシリアス路線に持ってきた。ちなみに原作を知らない人に向けて説明すると、原作小説『美しい彼』はBLレーベルから出版されたガチBL作品なので、男同士で恋愛するということがあまりにもデフォルトというか、ゲイですが何か? といった感じでそこはあんまり気にするところではないのだ。平良と清居が両想いなのに中々くっつかないのは男同士だからじゃなくて、平良が変人だから。それに尽きる。平良は極め付きの清居オタクであり、清居のことを神だと思い込んで崇め奉っているために、清居は平良とごく普通のカップルみたいな恋愛が出来ずにムキー! ってなる。そういう関係。
ここは告白するとこ、ここはキスするところ……普通ならそういう流れでしょっていうところで、平良が清居への敬虔な信仰心によってスッと引いてしまうところ、ドラマではすごく上手に表現されてていいなって思うんだけど、そこで清居が「えっ、なんで……?」って悲しい表情するとこ、演出のせいで本気の悲劇度高くなりすぎてて可哀想過ぎないか? と思った。まあ、ドラマはドラマで原作小説とは違うんだから、これはこれでいいのかもだけどさ……清居可哀想過ぎね? と思ってスンッてなっちゃったというのが本音。まあ、実写映像だからね……。『きのう、何食べた』のドラマ版でシロさんがキレると本当に恐くてケンジが可哀想になっちゃうし薄っすらDV感出てしまうのと、同じかな。実写は怒りとか悲しみが笑いになり難いのかもしれない。
で、原作よりも可哀想さ増し増しになってしまった清居が平良を追っかけて行った場所が夜の高校の教室という、突如として有りえんシチュエーションになってしまったのでまたスンッてなった。いや、防犯システムに阻まれて入れねえから。という常識レベルのこともあるけど、夜の暗さがシリアスを過剰にしているのは、個人的にはちょっと好きじゃないなという感じ。ひらきよは悲喜こもごもなところが良いと思う。悲だけでは、物足りない。
しかし!! 肝心の清居怒りの告白シーンが湿気っぽすぎて微妙だったのを、ラストの自転車2ケツシーンが軽く吹っ飛ばしてくれた! ずっと平良と背中合わせで後ろ向きに荷台に座ってた清居が、前向きに座って幸せに満ち足りた表情で平良の背中に顔を埋めているの最高。一見人間離れしたキングが見せる等身大の微笑み最高。そして、それに気付いた平良がすごい気持ち悪い笑みを浮かべつつやっぱり幸せそうなのも良い。原作だと「デュフッ」とあからさまなキモオタな笑い方をする平良なんだけど、萩原利久はそれをリアルなキモさのニヤケ笑いで表現してくれるの、匠の技だなと思った。
ラストシーンは清居こと八木勇征の美ボディを見よ! と言わんばかりのあれでちょっと笑ってしまったけど、平良と清居の幸せそうなもぞもぞ感は良かった。こういうBLとしてのラブシーンを誤魔化さないところは良いけど、これからの時代はこういう表現は許されなくなってしまうのかなあ。男女の恋愛ものでも、ここまで裸体の美を全面に出してくることって、今時なくないかな。
俳優さん達の演技がすごく良くて、背景セットがすごくセンスあってオシャレで良くて、時々演出が微妙。うーん、やっぱり原作のある映像作品はどんなに原作とストーリーが違ってもキャラクターが原作から飛び出て来たみたいっていうのは、一つの喜びな訳で。原作既読勢としての満足度は高かったけど、ドラマとしてすごく良いかっていうと正直微妙かな。出来の良さでいうと『ちぇりまほ』には及ばず『何食べ』には遠く及ばない感じなので、ひとにおすすめは出来ないかなあ。続編出て欲しいけど、これでは出ない気がする……。