はてなキーワード: 児戯に等しいとは
スティーブ・ジョブズは大学で哲学とカリグラフィー(まあ書道やな)を学んだ。つまり、哲学科と書道の授業がなければ、Appleは誕生しなかっただろう。文学部がいらんいらんと言う奴はそういうことが分かってない。ちなみにそれらを学んだ後ジョブズは大学も中退した。ジョブズの家が裕福だったとでも? むしろ逆で、家のお金がもったいないから彼は中退を選んだのだ。
そもそも、短期的に見て役に立つような学問にこそ国が金をかける意味が無い。「儲かる」のなら、さっさと民間がやるのだから。当たり前の理屈で、賢い新自由主義者ならそれが分かっている。そして、長期的に見れば国を豊かにする(可能性がある)が当面もうかるような学問ではない……そういうものこそ国が金をかけて行う必要がある。愚かな”ニワカ”新自由主義者はそこが分かってないので、増田のような奇天烈な主張をしてしまう。
本来これは、極めて単純な理屈なのだ。「国の行う事業は『儲かる』ものであってはならない」のだ。民業を圧迫しないために。だから「文学部」こそ、国立大学を中心に徹底的に保護しなくてはならないのだ。
だが、一部の詐欺師は、本当は間違いだと知っていながら、「間違いゆえに誰も主張しない」ことを一種のブルーオーシャンとみなして利用し、引っかかりやすい人を欺して自勢力の肥やしにし、陰謀論の沼に引きずり込む。「自分は賢いと思っているが実は賢くない人」たちが往々にしてそれに引っかかる。増田がその轍を踏まないことを願う。
なお、いささか厳しいことを言えば、大学受験における「努力」など、学生にとってこそ人生の一大事業かもしれないが、社会の中で言えば児戯に等しい。人がレールを敷いてくれる範囲内での「努力」など所詮お客様の愚痴に過ぎぬ。注文して提供された料理を食べるのが大変だ……みたいな低レベルの話だ。そんなことより、その料理を提供するのにどれだけの「努力」が払われているか少しは想像したらよかろう。そんな空疎な「努力」とやらをしただけの分際で、そんなことを拠り所に権利主張をして学問という国の一大事業の推進を邪魔しようなどと、片腹痛いことこの上ない。
事件から2年たった今、ようやく自分の中によどんでいる想いを言語化する決心が出来た。
2019年7月、京都アニメーションの放火事件が起こった。当時、私は某動画サイトの広告でその一報を目にした。
そのとき目にしたニューうサイトの写真は建物が煙に包まれているところで、仔細についてはまだ明かされていなかった。
きっと小火だろうなと思った。絵に携わる会社で紙の焼失は痛手だろうが、今はデータ化もされているだろうしと、ただ名前を知っている会社の不幸を気の毒に見守っていた。
小火程度かと思った火事の程度は建物を崩すほどの甚大な被害で、搬送されたスタッフの数は会社に在籍している社員のほぼ半数近くだった。
情報はアニメ関連サイトから規模の大きなニュースサイトにまで拡がっていた。無事であってくれと祈らずにはいられなかった。
日を追うごとにして、被害に遭ったスタッフの情報も明かされていった。中には、大好きな作品に深く関わったスタッフの名前があった。
深く気持ちが沈んだ。その作品に触れたのは5年以上前のことでも、それでも好きだったその作品を世に送り出してくれたスタッフの命が志半ばにして絶たれてしまった事がとても悔しく、悲しかった。
知ることは痛みを伴ったが、情報が出てくれば気にかかった。事件の現場で逃げおおせたスタッフが語る当時の状況、怪我を負ってなお現場復帰を願うスタッフの胸の内、そして亡くなったスタッフが生前に取り組んできた作品への想い。
読むほど、実際にはあったこともない彼ら彼女らへの言いようのない感情が起こった。そしてしばらく引きずって、そのニュースを見かけるたびに情緒が荒れた。
おそらくは私を含め多くのファンは、もう京都アニメーションの作品を観ることは叶わないだろうと確信していたと思う。
建物の被害はもちろん、失った人材はあまりに多い。当時のニュースを思い起こすと、あの事件当日は取材のために主戦力級のスタッフが集まっていて、亡くなったと報じられたスタッフの中にはその主戦力級のスタッフの名前が多く載っていた。
京都アニメーションの緻密な作画を支えるのは人材だ。暗黙のうちに、もうあの大好きだった作品たちには触れることができない覚悟をみんな決めていた空気があった。
歩みを止めない、という言葉があった時、彼らの作品を望む自分ができることは何かを考えた。
お金だなと思った。人材として貢献できる実績や才能がなかった私にはそれが一番合理的にできる支援だろうと思い至ったので迷わなかった。
彼らが作ってくれた作品を蒐集した。イベントにも行った。再演の映画にも通い詰めた。同じような想いを抱いているだろう人たちの生の反応や声に共感すると、一人で憂いているよりかは幾分か心が慰められた。
事件から2年が経ち、精神面では当時に比べれば大分落ち着いた。
それでもふとした時、部屋の中で彼らの作品を目にすると、どうしても思うことがある。
努力して、夢を叶えて、そして多くの人に希望、展望、癒し、楽しみを与えてくれた彼らが、その未来を不条理な理由で絶たれてしまった事。
何にも為せずに生きて来た自分が、無為に人生の時間を空費している事。
児戯に等しいとはいえ、私も絵を描く。多少なりとも絵を描く人間ならば、彼らのもつ技量がいかに素晴らしく、そして得難く、価値の高いものかがわかるはずだ。
才能が人の命を測るものではないと十二分には承知しているが、それでもただ生きている自分が申し訳なくなる瞬間があの日から続いている。
憐れむことも、引きずることも、彼らに失礼にあたるかもしれない。ましてかかわったこともない他人が、さぞ悔しかろう悲しかろうと訳知り顔で悼むのは所詮自己満足で、傍から見たらその過剰な反応に気味が悪くも映るだろう。
それでもどうしてもその思いが捨てられない。作画の参考にメイキング動画を見るとき、知らない技術の解説に触れるたび、これらを会得し作品を織り上げあそこまで美しい世界を作ってくれた彼らが永遠に喪われてしまった事に馳せてしまう瞬間がある。
今まで、人生を費やして打ち込んだものがない私は、それを見つけ目指し努力して獲得した人間が、悪意の第三者に不意に理不尽にそれからの未来を奪われた現実が、ショックだった。
自業自得ではない不幸がある、と知ってから何事にも不安が伴うようになり、そして価値の低い自分は、その時にはその理不尽を受け止めようという変な覚悟が決まっていった。
心を整理するために書いたはずが、未だ、向き合えていないのだと思い知る結果になった。
目指すもの、人生を費やし、心を注げるものへの出会いはいまだ果たせていないが、彼らの遺してくれた作品の未来に繋げるよう、まずは収入を得て買い支えることを心の支えにもして生きていこうと思う。
怒りっぽくなった増田読んで、同じだわと思ったので・・
鬱になってから、何年も経つ。
不安感、不眠、食欲不振、希死念慮、全て消え去ったがイライラだけは残っている。
前はこんなに怒りっぽくなったのに。
常に怒ってる気がする。一人部屋の中で大声で怒鳴り散らすこともある。近所の人が苦情にきたのも一回や二回では
なんでそんなに怒ってるの?って聞かれたり不思議がられることもあるが
「お前らが俺を怒らせてんだろ!!!!!」
って思って余計イライラする。
アンガーマネジメントの手法も少し勉強してみたが「怒りレベル1、くらいならそれで収まるかもしれないけど、、」
って感じで荒れ狂う怒りの波の前には児戯に等しい。あれで真性の怒りん坊気質がましになったことあるの??
まあ本格的にやってないけど。。やったことある人いたら教えて??? 伝聞ではなくて実体験で。
そういえば、風呂場の窓ガラスを拳で割ったこともあるしね。。当時は自分で割っておいて、その修理の手間や費用を考えて
一人で切れてた。
怒ったからって物に当たるな!とか言われるだろうけど、そうじゃないんだよ。殴ってから怒ってるんだよ。
急に物を殴る→怒りの感情を知覚するの順序なの。わかるかな?? これって防ぎようあるの??
もう最近では怒るために怒るというか、同僚に悪口を言われたことを妄想して一人で勝手に怒ってる。
唯一の救いは人を殴ったことはないこと。まあ、格闘技やってるから、こっちで生物に対する何かが発散されてるのかも。
ただ悪化していってるし、汗臭いおっさんとかを殴ったりしないように気をつけたい。気をつけられたらね。。
あっ、医者に行けとかいわないでね。。当然、通院してるに決まってろだろ!!!!!!!!!!!!!!
と怒ってるフリをしたところで締めるわ。。