はてなキーワード: 不謹慎とは
六つ子の長男「おそ松」の無邪気で傍若無人なところ、ナチュラルなスクールカースト上位者という感じがする。
公立の小中学校って、こういう性格の男子が無双してない?このネアカで強引でサイコパシーな感じ。
「俺、お前のことスゲー面白いヤツだって思ってるんだよ?」「好きだから構ってやってんだよ?」というノリで、
傍から見るとイジメみたいな待遇で人を扱ってそう。同級生に居たら超怖いやつ。
人に優しくしてみる時もあるけど、俺ルール俺基準で優しくする。飽きるときもスッと飽きる。
人にどう思われるか全く気にならない、徹底的な「自分の気持ちに正直」というやつで、その真っ直ぐなナチュラルさが怖いとすら思う。
というかおそ松兄さんぽい知人がひとり居て、モテるけど誰とも真面目に付き合ったことがない。
おそ松兄さんの性格がタイプだという女性、不幸フラグ立ってる気がする。
末っ子のトド松もスクールカースト高そうだけど、こっちはナチュラルじゃない。カースト上位者に必要な要素を狙って集めてる。
チョロ松と一松にもカーストが見えていて、トド松のように上位を狙う意欲が無くて「ケッ」となってる感じがする。
カースト自体が見えて無さそうなおそ松兄さんとは根本的に違うなと思う。
カースト見えてない:おそ松、カラ松、十四松
という感じ。
今はおそ松兄さんが「六つ子全員ニートでいいじゃん」という空気を作っているから、チョロ松が何と言おうとそういう空気だけど、
おそ松兄さんが「俺らもう26だぜ?」とか言い出したら、マジで就職しなきゃなという空気になりそうな気がする。
それまで「寂しいから」と弟の自立を阻んでおいて、自分が「就職っぽい気分」になったらしれっと就職するような、
自分の発言を自分で忘れている系の、天然で無茶苦茶な人の匂いがおそ松兄さんからはするわ。
作中でカラ松がサイコパスって言われたけど、おそ松兄さんの方がサイコパス感強い。
カラ松単体にカースト上位感は無いなあ。
おそ松兄さんは人の名前をよく呼ぶけど、カラ松は人に呼び掛けることが少なく、「逆ナン待ち」とか、コミュニケーションが結構受け身。
ウィンドの音を聞いてる俺、スカイの香りを嗅いでいる俺、サンシャインを浴びている俺。とにかく俺。話しかけてもらうために派手な服装をする俺。
兄弟の中でも根がビビリなほうとして描かれてるし、承認欲求が強いところも、学校みたいな同年代の集まる場ではナメられそう。
受け身の人って騙されやすくもある。ぼったくりバーの話や、「生パンティ付きのエロ本」を買ってたこと、あれも騙されやすさだよね。
兄弟を攻撃するようなことを決して言わないし、性格が温厚なんだと思う。
自分の中に悪意が少ないから、人から露骨に馬鹿にされたとしてもそれを馬鹿にされたと感じなくて、結果としてダメージを受けにくい。
チョロ松はイヤ代の回で「一軍の人来ちゃった」と感想持ったあたり、スクールカーストがっつり把握してそう。
兄弟の中では暴言吐きまくるけど、外では品行方正な、プライド高い内弁慶って感じ。
「こうありたい自分」のイメージと現実の自分とのギャップが大きくて、ストレス値高そう。
作中でもツイッターやってる描写があるし、インターネットに居る男という感じがすごくする。
自意識グラグラ感あるから、おそ松によくイジられるのもわかる。トド松のこと妬んでそう。
一松はお笑いが好きそう。お笑いに詳しい根暗という感じがする。そういう男子居たじゃん。
もともと真面目で人目を気にして消耗しがちなタイプだったのが、江頭2:50的な破天荒芸に救われて、脱糞とか下半身芸に突っ走ってる感じ。
Mr.ビーンの人って実は理学修士だけど、あの人にちょっと似てて「頭が良いけど顔芸ヨゴレ芸をすすんでやる」みたいな印象ある。
でも脱糞芸みたいなのって、やりすぎで、普通の女子は引くじゃないですか。
可愛いまともな女子ほど「明るいスポーツマンがおちゃらけてみせる」みたいな、眠てぇノリに笑うじゃないですか。
そういうのをくだらねーと思ってて、不謹慎な笑いでもOKとされるお笑い芸人っぽいホモソーシャルなノリが好きなんだと思う。
外の世界の方がオシャレで健康的で快適と感じてるトド松とは逆で、一松は松野家の兄弟ホモソーシャルノリが居心地が良さそう。
トド松が「こういうオシャレでまともな可愛い子と付き合いたい」って感じるような女子のことが一松は苦手そう。
でもこじらせ女も面倒だから、女全般が苦手そうなんだよね。公式でケモナーなのも納得感ある。
十四松はちょっとよくわからない。いじめられていた説もピンとこない。なんかスゲエ奴としてカーストの外側に生きてた気がする。
チョロ松とトド松がスクールカーストについて話す回とか無いかなあ。
トド松の10年後とかもすごい見たい。要領が良くて行動力もあるから、家を出て何かやってそうで気になる。
いがらしみきおの4コマ(おそらくネ暗トピア(1979-1985)中の作品)が話題になってるんだが…時代が変わるとなるほど伝わりにくいなと確かに思う。
某アニメの「見ろ、人がゴミのようだ」って有名な台詞があるが、これ当時(1986公開)はそれなりにショッキングな台詞だったわけで、つまりその頃「人間」というものの価値は、いまよりずっと高かったんだよな。だから、沢山の人が集まってるということ自体のパワーや価値感がいまとは全然違う、すごくテンションの上がることだったわけだよ。「祭り山笠のごつある!」じゃないが、とにかく沢山の人がいる光景は「理屈抜きに凄いこと」であって、それを見て闇雲に見下したりとか物扱いしたりするとか、そういう発想自体がない時代だったんだ。ニュースとかで凄い人出を取材して、アナウンサーが「すごい行列です!」「もう人でいっぱいです!」とか興奮して喋ったりするのがデフォ、みたいな。これが1つめの条件(1)
更に加えて言うと、この頃ピアノリサイタルするような人って、年代的に言えばまだ日本が海外にそれほど開かれていない時代(海外に円を持ち出す額に制限があり、海外に資産がない限り、普通の手段では留学なんてこと自体ができなかった時代)におそらく海外留学とかして一定の名声を得て…みたいな、伝説級のアーチストが想像されたわけだよ。そして、そんな人は闇雲に偉人聖人扱いだったわけなんだ当時としては。大げさに言えばそんな感じ。これが2つめの条件(2)
いがらしは、そんな(1)や(2)の条件をバカにすることで田舎者で世間知らずな大衆を嗤い、そしてそれらを見下してるピアニストに、芋臭い名前を付け器の小さい台詞にすることで権威や文化人自体を嗤い、最後に、当時としては予想しにくい最終コマをもってくることで読者を嗤い、そしてオチにしたというわけ。
このマンガを、無理矢理現代語に「翻訳」するなら、たとえば、最終コマで呟いてるのを(不謹慎だが)天皇陛下とかローマ法王とかにしてみれば少し伝わるんじゃないかと思う。
みたいな4コマ……なかなかシュール、複雑かつアナーキーなギャグだろ? 暗い情動の底からこみ上げてくるような深い笑い。それが当時の(いまもある程度変わらない)いがらしの作風なんだ。
こういうの、きちんと書いておかないとホント風化する気がしてきたんで、一応記録のために書いてみた。
https://twitter.com/Ayukawa_Reiji/status/683195248315465728
これさ。一瞬本物の極右が描いたのかと思ったけど、そうじゃないような気がする。「極右っぽいことを描いてその隣に艦これ島風を描けば不謹慎な感じで面白いだろう」っていう考えで作られた絵馬な気がする。あ、これは擁護じゃなくて、それはそれで邪悪だなあという話ですよ勿論。勘でものをいうと、描いた人は「マイルドな」レイシストだと思います。「中国人ってちょっとアレな人多いよね、俺の友達にも中国人いるけど」くらいの人。そういう人が悪ノリで描いてる予感がする。そこに二重の邪悪さを感じる。私の妄想だろうか?
ネトゲをやるべきだ。
そのネガティブ思考から脱却さえできれば、今よりもっと、あなたのことを楽しい人だと評価してくれる人が現れるはずだ。
それに必要なのは、コミュニケーションの成功体験を積むことであり、必ずしも整形とは限らないと思う。
そしてたぶん、今の自分の顔を愛してくれる美人を探すことでもない。
美しいものが得をすると嘆いておいて、自分もまた美しいものを求めているから、いつまでたっても思考が堂々巡りなのだ。
氏に必要なのは整形ではなく仮面であると思う。氏の顔は存じ上げないが、氏にはすでに魅力がある。
それはおそらく、苦労の中で身に付いてしまった、不本意なものに違いないが、今の氏を形作っているものだ。
だから仮面をかぶればどうにかなる。そして氏もまた、仮面の向こうにある誰かの魅力に気付くべきだ。
ぶっちゃけて言えば、別にネトゲである必要はないのだが、要はそういうことである。
氏は美しい顔は奪われない、だから得をするのだと嘆いておられるが、そんなのは当然だ。
個人的には、人の理性の及ばぬものが神であり、人の小細工の及ばぬものが美であると思う。
逆に言えば、小細工で得たものは美ではない。だから個人的には、整形がああも蔓延したかの国の人々の、
不気味なほどに均整の取れた顔を美しいとはあまり思わない。
また、もし我々が美容外科の門をくぐって、光線をちょっと浴びたら望みの顔になれるような世の中になれば、
誰もが望みの顔になれる以上、もはや顔は単に選び取られただけの個性であり、格差を生むこともない。
現実の世界で自分の思うようにならない美など追い求めても空しい。ほっといても10年で衰えるのだからなおさらだ。
ただ、ネトゲの中にも自らの女性性や顔を売りにしている者、またそれに群がる者がいるので、
精神衛生のためにも、そういうコミュニティからは距離を置いた方がいいだろう。
金のある氏のことである。あぶく銭を使えばたちまち優位に立てることだろう。
今まで2回プロジェクトを共にしたが出来はお世辞にも良くない。
入社して数年なので、仕事の力量的で不足があるのは致し方ない。
一方で、立ち居振る舞いは私の範疇を超えてひどい。
・一人で活動してもらった後に状況報告を御願いしてもしない。
・独自判断でお客様に交渉して活動する(飛行機の手配がとれない時に先輩・上司に連絡せず勝手にお客様と調整して出張を切り上げたときにはあごが外れた)
・後輩の作った資料でディスカッションしているときにメモ取らない(後に修正することを話しているのに)
・
など目に余る。
先輩としてお前が指導しろ言われたら確かにそうだが、手を変え品を変え伝えても改善に至らない。
視力が弱いのは本来身体障害なんだけど、眼鏡で矯正できて、目立つ器具なのに誰も異様に思わなくて、ましてやオシャレ眼鏡なんかもあって、眼鏡フェチもいて、そしてそういう矯正器具の扱われ方が不謹慎だと叱られもしないなどなど理想的だ、だから他の障害もそういう風に見られるようにしたい、って意見ありますよね。
眼鏡が障害と障害補助器具の扱われ方として理想に近いのはその通りだと思います。
でも、それくらい眼鏡の扱われ方が普通になったのって、眼鏡をかける人=視力がある程度弱い人がめちゃ多いっていう理由が大きいと思うんです。正確に日本の/世界の何割かは知りませんが。
他の色々な差別についても言えちゃうことですけど、世の中での扱われ方は、結局のところ数なんです。
一定数いれば「普通」「常識」になれるし、そうじゃなきゃ奇妙な目で見られるんですよ。
(余談:ただしマイノリティが、少なくとも極端なマイノリティではない程度に存在して、かつ武力なり権力なり強大な力を持って君臨すれば話は別な気もします)
義手や義足や車椅子、精神障害などについて「こういう障害も眼鏡のように~」って言う人は、そういう、冷徹な数の理屈をどう考えてるんでしょうか。
この数の問題は、理解を求める運動みたいな、気持ちに働きかける努力じゃあ残念ながらどうにもならない部分があります。
・ネタ系(許せる)
たまに強引にでもネタ化しようとする場合があり、不謹慎でなければ良い。
・内容、感情を読み取ってくれる系(許せる)
少なくとも文章の意図はわかってくれてるので理解、批判、別意見でも良い。
・皮肉系(まぁ許せる)
・知能高い系(やや許せる)
自分のほうが高いと誇示する人、やや鼻につくが許せる。
内容は見てくれてるようだが、粗を探して気になるとブコメしてくる奴。チクっと痛い。
・自分語りに切り替わってる系(やや許せる)
内容先から語る場所でもないのに何故か自分環境の話が多い人。よくわからない。
・斜め上からチョップ系(俺に効く)
クリスマス(2017)だしもう別れたんでこっそり復活させとくわ
まさか三十路を越えた童貞の俺に恋人ができるなんて思わなかった。
インターネットでリア充を気取る輩どもも、非モテをこじらせてリア充をうらやむ芸風の輩どもも、俺は気にくわなかった。
だから、そういう話で場が盛り上がる度に「そんなことより聞いてくれよ、うちのオカンがさ!」と、だれも聞いていないオカンネタをツイートしてどうにか居場所を確保していた。
おかげでオカンは毎朝起きるとアルミホイルをシャクシャク噛みながら口笛でダイアルアップをしてインターネット株取引にいそしむ化け物になってしまった。この場を借りて深くお詫びしたい。
だが、インターネットでしずかにこじらせていた俺にも好意をむけてくれる奇特な女子が現れたのである。
快活でやさしくてユーモアと好奇心を兼ね備えた年下の才女であり、たいへんかわいらしい。性格カタログと化した往年のエロゲでもなかなかここまでストライクなものはないだろうという高級物件である。
もちろん、俺は三十路童貞よろしく魔法使いとしての矜持をたずさえ、しずかにはげしくこじらせていた。
これはもう確実に騙されているに違いない。
三十路超えの売れないふぁぼられないブクマもつかない顔も目と鼻と口と耳がワンセットついているだけでたいしたことはなく、悪いことに肉は最近落ちなくなってきたうらさびれたインターネット芸人崩れを好きになるわけがない。
そうだろ?
だから当然の帰結として、生身の人間に触れずにオッサンが考えた二次元の女子の一挙手一投足に日夜情欲を昂ぶらせていた自分であるがゆえに、生身の女子がくれる好意の質を勘違いしてとらえているのだろうと手前勝手に得心した。
さもなくば、その好意に乗せられて暴走する俺をどこかで観察してあざ笑っている集団がいるのだろうと考えた。
そういう面白い催しがあるのならば、どうせなら観察する側にいたいものだ。
三十路半ばで人生に対するそれなりのあきらめを身につけた俺は、半ば自嘲とともにイグアスの滝にノーロープで飛び込む芸人になったつもりで好意に乗った。
手もつながずにデートは終わった。中学生男子よろしくゆだった頭がその重要さに気づいたのはデートが終わった後だった。
好意を向けられた相手にデートに誘わせたあげくなにもしなかった俺に、相手は失望しただろう。したはずである。
なにもなかったということは、さすがにかけるコストとして俺が笑いものにされている可能性は低い。
というかそもそも俺は罠にかけて笑いものにされて面白いようなキャラクターではなかった。
こうして浮かれて血迷った頭が人に決断の時を誤認させるのだなあと深夜の公園で砂山に頭をうずめて泣いた。
ふがいなさが、自責の念となり俺を毎夜責め立てるようになった。釣り逃した魚は大きいのであるし、俺はこうしてこの失敗を人生における最大の失敗として二月に一度くらいの頻度で悪夢に見ながら死ぬまで一人であることを責められ続けるのだろうなと覚悟を決めた。
いい夢を見たのだと思って、宝石箱にしまって生きよう。そう思っていたらまたデートに誘われた。
あるデートの時、意を決して家に呼んだ。
向けられていた好意につきあってみたような気持ちでいたはずなのに、いつしか呼吸ができなくなっていた。
胸は本当に苦しくなるのだと知った。右室ブロックの気があるらしいです。ヤバい。
さすがにこの頃になると、お互いにお友達同士のおつきあいではなく異性として認識しているに違いない。
何度となく繰り返された三十路のくたびれたオッサンの咲きかけの恋と葛藤、不完全燃焼のデートの度に膨らんではしぼんでいるのである。
他人事としてみるとこんなに気色悪いものはないのだが、明らかに相手も俺のアタックを待っているのである。
恋に狂った本能はそうだと断じている。しかし、「騙されるな、社会性を失うな」とこじれた理性もまたささやくのである。
「貴様の薄汚い下半身由来の欲求がそういう自分に都合のいい思考を招いているのである。一緒に居て楽しい女子と二人でいられるだけで身に余る幸福だというのに、お前は自分からその幸福を靴で踏みにじろうとしているのだ」
と大脳皮質に棲む天使(メイド服)と悪魔(ブレザー)がドルビーサラウンドでささやく、最近二人の意見が食い違うことがなくなってきた。
いやいや、とはいっても、女の子家によんで、お茶とお菓子だけ飲んでおしゃべりだけして帰るわけないでしょ、平成何年だと思ってんの。
二一世紀に生まれた若造どもが青い性欲をもてあまして図書館トイレ駐輪場でよろしくやってるんですよ中学生じゃないんだからそんな――
――手も、つながずに、デートは終わった。
待ってください、みなさん。ウンコを投げないでください。座布団を持って行かないでください。
みなさんのおしかりはごもっともです、自分でも、こんなに恋愛に向いてないとは思わなかった。
ふがいない右手を切り落としたい衝動を押さえつけて、メールで謝罪文を打ち、その勢いでおつきあいをお願いした。
リンゴが地面に落ちるがごとくオッケーがでた。
客観的に見るとなんなのこのウブなネンネちゃんとしか思えないし、実際そうだ。
相手もここまでつきあってくれるというのは相当の変人か暇人だし、この際もうちょっと押していこう。
ここにきてようやっと足が動きはじめて恋人的な段階が進んでいくわけです。
話が長くなってきたんでノロケはこの辺にしまして、タイトルの伏線を回収したいと思います。
途中段階はとばしますけど初行為をするべくホテルに行ったわけです。
泡の出る風呂とか照明とかで遊んで、テレビをつけて、AVはやめようってんでNHKにしといたんですよ。
あとは存分にイチャイチャして、照明を落として、消毒剤の臭いがするシーツの上に彼女の身体を横たえて、服はうまく脱がせなかったけど、ブラのホックは一発で外せて。いざや鎌倉うちてしやまんって時テレビの音が耳に入るわけです。
非常に耳慣れたBGM。そう、俺はこのBGMをよく知っている……荘厳で重厚で、悲哀をたたえた力尽くで精神をゆさぶってくる力強い音楽……!
彼女の肌の色がまぶしくて目をつぶるだけで経験したはずもない二〇世紀中盤の白黒映像が走馬燈のように流れ去っていく……。
『映像の世紀』
この文字列見るだけであのテーマソング「巴里は燃えているか」が耳に蘇る方多いんじゃないでしょうか。
わかりますよチャンネル変えるとか、音量下げるとかすればいいんですよ。そんなことはわかってるんですよ。
でも壮大な音楽と、うすっぐらいナレーションをバックに慣れない愛撫とかしてるんですよ、背中にファスナー付いてないかとか、カメラがしかけられてるんじゃないかとか、この反応は演技ではないのか、とかそういうことを考えるのに三十路半ばおじさんは必死なんですよ!! チョビ髭の男が演説してる中、ゴムを付け替える俺の身にもなってくださいよ!! ていうか早くしないとこのままだとあのシーンになってしまうじゃないですか!! だが焦るほどになにもかもうまくいかない!! 東京が焦土に!!
なかばやけになってテーマソングのリズムに沿って腰を動かしてたら、新型爆弾が落ちました。
人間としていろいろ申し訳なくなります。この映像とBGMが強力すぎて、俺は今後彼女と肌を重ねる度に「巴里燃え」が自動的にかかる身体に改造されてしまったわけです。
ちょっとした背徳感は恋のエッセンスとかそいういうおためごかしをすっとばして不謹慎きわまりない初体験です。ヒンズー教徒だった前世の俺が牛肉でも食ったのかと言わんばかりの仕打ちに心折れつつも、焦土となった都市の映像に負けない励起状態を維持しようとしている俺に、彼女がようやく口をひらいてくれます。
そう! 俺はずっときみの一言を待っていたいまからでも遅くない助かった! このいまいましいテレビ消そう! 消そうと言ってくれ! この状況がちょっと面白いのはわかるが俺のチキンハートはもう耐えられないんだ!
枕元にあるリモコンをたぐってなんでもいいからチャンネルを変えてくれ――! はやく!
このままでは俺の爆弾が――――
「ん、――不発弾?」
イケませんでした!
(最後の部分をオチ補正のため追記しました、わかりにくくてすみません)
(まだわかりにくいですよ)
(オチがなくて無理やり付け足すからこういうことになるんですね、わかります)
(うるせ-!)
テロがなくならない本当の理由は、世界を変えるためには選挙に行くよりもテロをしたほうが効率的だからである。
しかしながら、テロなどしたってそうそう世界は変わるわけはなく、選挙に行くより少しマシという程度なわけだが、これは厳然とした事実だ。
私の印象だと、選挙制度というものは民意を抽出する手段として不十分だ。
選挙とは、民意を抽出する手段の一つにすぎないはずなのに、選挙であることに拘り過ぎてる。
そんな時に、国民全員にアンケートをするなんて、無謀だと思わないか?
10000人もアンケートを取れば十分だと思う。
それで、街角でとっつかまえて即答してもらう。
投票所に来てもらうとなると、強烈にそのサービスに好意的な人と、強烈にそのサービスを嫌う人ばかり投票所にくることになる。
比例代表は○○党にお願いします。って別の党の候補者が言ってるだろ。特に連立を組んでるJ党とK党なんかは。
そういう戦略性も含めて、選挙が公平っていう考え方もあると思うけど、手段と目的を間違えてる感がありゃしないか?
例えば、選挙権をランダムに10000人に与えて、選挙権が与えられた人間はかならず投票所に来なければいけない。来なかったら逮捕。
ランダムに選ぶってところが、システムの開発にお金はかかるだろうけど、それだって今よりはお金も安くあがるだろう。
街頭で支持政党をアンケートして、その割合で議席を振り分けたほうがよっぽど民意だろ。
そりゃ、街に出てるリア充と出ないひきこもりで支持政党が極端に違うってこともありえるから、街頭調査という方法が正しいかは検証の余地はあるだろうけど。
あるいは、間接民主制なんかやめて、A法案に賛成か反対かをメールで国民全員に送りつけて返信してもらえばいい。
あ、でもそうするとワタミみたいな会社だと社員全員会議室に集められて、上司の監督の元で投票させられちゃうだろうな。ダメだこりゃ。
あくまで選挙によるということを重要視する価値観は、古代ギリシャのなかでしか通用しない。
イケメン無罪とか、バイセクシャルが普通とか、そういう価値観までひっくるめた、文脈のなかでは、選挙で選ぶことが善なのだろうけど、現代においては、イケメンだって犯罪を犯せば償わなければいけないし、バイセクシャルは少数派だ。
選挙が絶対という考えだけが残っているけど、上記の通り、民意を抽出する手段としては不完全であることこの上ない。
相撲で白黒つける政治や、亀の甲羅を焼いてひび割れの具合で政治するよりは少しマシであるが、その程度でしかない。
バーッカじゃねーの?
相撲で決着っていいよな。
若いほうが強いだろうし。