2015-11-02

眼鏡障害理想的受容、について疑問

視力が弱いのは本来身体障害なんだけど、眼鏡矯正できて、目立つ器具なのに誰も異様に思わなくて、ましてやオシャレ眼鏡なんかもあって、眼鏡フェチもいて、そしてそういう矯正器具の扱われ方が不謹慎だと叱られもしないなどなど理想的だ、だから他の障害もそういう風に見られるようにしたい、って意見ありますよね。

眼鏡障害障害補助器具の扱われ方として理想に近いのはその通りだと思います

でも、それくらい眼鏡の扱われ方が普通になったのって、眼鏡をかける人=視力がある程度弱い人がめちゃ多いっていう理由が大きいと思うんです。正確に日本の/世界の何割かは知りませんが。

他の色々な差別についても言えちゃうことですけど、世の中での扱われ方は、結局のところ数なんです。

一定数いれば「普通」「常識」になれるし、そうじゃなきゃ奇妙な目で見られるんですよ。

(余談:ただしマイノリティが、少なくとも極端なマイノリティではない程度に存在して、かつ武力なり権力なり強大な力を持って君臨すれば話は別な気もします)

義手義足車椅子精神障害などについて「こういう障害眼鏡のように~」って言う人は、そういう、冷徹な数の理屈をどう考えてるんでしょうか。

この数の問題は、理解を求める運動みたいな、気持ちに働きかける努力じゃあ残念ながらどうにもならない部分があります

かと言ってまさか、人々の二割とか三割の手足を切断して回るつもりじゃあありますまい。

どういうつもりで発言しているのでしょう。

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