はてなキーワード: 落語とは
「江戸しぐさ」の隆盛に危機感を覚えて、ふと”杉浦日向子 江戸しぐさ”でググって見た。
検索結果を見て軽い絶望を覚える。杉浦日向子のファンである事を表明しながら「江戸しぐさ」を褒めている人の多い事に。
検索上位に杉浦氏の著作から類推して「江戸しぐさ」は怪しいとしているblogがある(2007年に「江戸しぐさ」の怪しさを指摘している!)のが救いだが。
へたをすると歴史の捏造を確信犯的に行っている存在した証拠も無い「江戸しぐさ」と、考証を重ねた上で江戸時代を想う杉浦日向子氏のスタイルはどう考えても相反するはずなのに。
杉浦氏が存命ならば「江戸しぐさ」にツッコミを入れてくれただろうなと妄想するしかないのが悲しい。
そういえば「江戸しぐさ」がメディアに現れるようになった頃と、杉浦氏が闘病生活に入った時期が一致しているように思う。
落語が描く江戸の庶民の生活も「江戸しぐさ」は否定する。それなのに「NPO江戸しぐさ」に協力してる落語家も増えてきたらしい。
石川英輔も何やってるんだ。もうやだ。
「ごめんください」
「何や今時分、おお、お前か。まあ上がり」
「どっちの足から上がりましょ」
「お前と掛け合いで落語やる気はない。早よ、上がれ」
「へへへ。ほな失礼します」
「失礼は毎度のことやんけ」
「何です」
「いやいや。ほんで何やねん」
「ほおん、なるほど。で、その心は」
「別に謎かけやないんですが、まあ、しんどいちうことと、ええ歳していつまでもこんな仕事してたらあかんなあと思いまして」
「せやなあ、今年は蟹の水揚げが不調やしな」
「いったい何なんですか、ぼくの職業は。多喜二ですか」
「軽い冗談や」
「まあ、ほんまにそれくらい厳しい労働条件ですけどね。いっそアカになったろか思いますよ」
「ほな、俺、公安ね」
「なんで今からごっこ遊びせなあきませんねん」
「せやから軽い冗談や、言うてるやろ。で、辞めてどうするねん」
「何やて」
「ほら、ぼく、ワードやエクセル使うの得意ですやん」
「ワード……、エクセル……」
「何ですか」
「お前、キーパンチャーにでもなるつもりか」
「何ですか、そのキーパンチャーて」
「それはやな、君」
「なんでいきなり噺家口調になるんですか」
「シーモンキー。滅茶滅茶遠いし」
「とにかく俺が言いたいのはやな、お前ほんまにワードやらエクセルやら云々でコンピュータ関係の仕事に就けると思てるんか、ちうこっちゃ」
「ああ、判りました。いつもの口癖ですね。プログラム作れん奴はコンピュータ触るな、とか、ユニックス判らん奴はネットに出てくるな、とか」
「まあ、そういうこっちゃ」
「でも、コンピュータ関係の仕事には絶対にプログラムの知識が必要なんですか」
「んー、そういうこともなかろうけどな。まあでも、ソース読めへんSEとか管理者っちうのはちょっとぞっとするわなあ」
「実はね、そうやろうと思ってぼく最近プログラムの勉強してますねん」
「ほほう」
「あっ、いきなり薄笑い浮かべてますやん。滅っ茶馬鹿にしてるでしょ」
「C言語です」
「くくく」
「あっ。腹立つ、このおっさん」
「くくく。まあ、しっかり頑張りたまえよ」
「何か悔しいなあ」
「で、どないして勉強してるねん」
「へへへ。ちゃんと例のやつ買ったんですよ」
「例のやつて何やねん」
「いつも言うてはるやないですか。バイブルやて。R&Bですよ、R&B」
「R&B」
「そうです」
「K&Rやろが」
「そうそう。そうとも言う」
「そうとしか言わんちうねん」
「今どれくらいまで進んでるねん」
「それ、滅茶苦茶初めのほうやんけ」
「お前、パール書けたっけ」
「えっ。あれって自作やったんか」
「ちゃいますけど、ちゃあんとタイトル書き換えて使ってますやん」
「……」
「頭抱えてどないしはったんですか」
「そうです」
「お前な、何かをものすごく誤解してるか、世間をものすごく舐めてるかのどっちかやな」
「えへへ。そうかな」
「あかんわ。褒められたと思とる」
「C言語覚えたら次はシーインクリメントですわ」
「なんやて」
「シーインクリメント」
「そうです。何か変ですか」
「まあ『++』は確かにインクリメント演算子やけどな。普通はCプラプラって言うやろ」
「変ですやん、そっちの方が。大のおとなが『ぷらぷら、ぷらぷら』言うて」
「確かに宮沢章夫もそう書いてたけどな」
「お前なあ、自覚ないやろけど、それはものすごく難しい質問やで。一言で、て」
「けち臭いこと言わんと教えてくださいよ」
「またまたあ、わざとややこしい言い方して煙に巻こうとしてるでしょ」
「むかむかむか。そしたら言うたるわい。C++ちうのはやな、要はクラスの概念を実装したもんで、クラスちうのはインスタンスをうんたらかんたらで、継承とオーバーライドがこーたらで、ポリモーフィズムがなんたらで、隠蔽がどーたらで、うらうらー」
「……」
「……」
「はあっ。はあっ。どうや、参ったか」
「うーん。何かよう判りませんわ」
「なんか難しそうやから、C++やめて次はJavaにしますわ」
「ぎゃふん」
といっても例のSSではなく(つーか読んでない)、SSスレッドという媒体についての考察だけども。
まず、個人ブログや小説投稿サイトで発表される「SS」や「ケータイ小説」と、
2chの主にニュー速VIP板に投下される「SSスレッド」は別物である。
前者と比べてVIPのSSスレは劣る、という論旨ではない。
質がどうこう文章力がどうこうといった比較じゃなくて、
そもそもハナから別の表現媒体だと捉えた方がわかりやすいということだ。
両者の比較は映画と落語を比べるようなもので、どこかズレている(と思う)。
では、他のネット小説とSSスレッドはなにが違うのか。
まとめブログでSSスレをいくつか読んでネット小説と比べると、次のような特徴がわかる。
このうち特に重要なのは2と3だ。
「文章による創作物」を発表する媒体は書籍や投稿サイトなどいくつもあるが、
作者が書いてるそばから読者の反応が“同じ画面上に”書き込まれる媒体はSSスレッドぐらいだろう。
つまりSSスレを読む者は、
「作者が見せる登場人物の声」と、「読者の反応の声」という、二者の声を同時に聞くことになる。
また、作品自体も他の媒体と違って一度に全文を発表することができない。
2chの掲示板システムには行数と投稿間隔に制限があるからだ。
たとえばニュー速VIP板なら、3~5分おきに30行以内で書き込まなくてはならない。
この「量と時間の制約」が、作品に“間”を与える。
強制される時間的な制約と、その間にも挟まれる読者の声というノイズ。
この二つがSSスレッドを仮想上の演劇空間として成り立たせている。
ようするに、VIPのSSスレッドは「小説」ではなく「演劇」なのだ。
ここでなにかライブ映像を思い出してみてほしい。
演劇でもお笑いでもバンド演奏でもなんでもいい。
ライブでは、上演の時間やペースは作り手が決めるものであり、
受け手は同じ立場の観客たちとともに声をあげて反応を返す。
演者はあらかじめ予定していた作品を披露するが、
ときに観客の声に反応して、上演中にアドリブを差し込むこともある。
これは「完成品を一方的に送って、受け手も自分のペースで楽しむ」媒体、
たとえば小説の文庫本、CD音源、映画のDVDなどとは全く違う。
(記事のはじめで通常の「SS」を映画に、「SSスレッド」を落語にそれぞれたとえたのもこの違いからだ)
つまり、SSが投下されるスレッドは仮想的な“ライブハウス”として機能するのだ。
となると、まとめサイトはそれを事後的・俯瞰的に楽しむ“公演DVD”に当たるだろう。
仮に他の媒体で発表される小説作品を映画とたとえるなら、
読者との双方向性や共時性が備わったSSスレッドは紛れもなく演劇である。
(ちなみに、このようなスレッドという媒体の演劇性は「ゲーセン少女」などの擬似体験談スレでも発生する)
残った特徴4、5もまた、基本的にはSSスレッドの演劇性に由来するものである。
「VIPPERは3行以上読めない」といった言葉があるように、2chで長文は避けられる。
それはSSについても同じで、空行の少ない長文はまず読まれない。
だがSSスレについていうなら、長文が読まれない理由もスレッドが舞台に似ているからだと思っている。
SSスレッドは一期一会の軽いもので、イメージとしては道ばたの大道芸を見るようなものだ。
では、舞台上にだれ一人立たず、長ったるいナレーションだけが延々と続くさまを想像してほしい。
話のつかみから無駄な風景描写を重ねる語り方は、スレッドという舞台上ではこのように映るのだ。
これがSSスレで地の文が避けられる理由だと考えている。
そんなわけでワナビだったりときどきSS書き手だったりする観点から私感をまとめてみた。
まおゆうはよく分からないけど、いい機会だと思ったので。わかりづらくてすまん。
媒体の演劇性はSSスレだけでなく、擬似体験談スレの解釈に関しても応用できる気がする。
特徴4や5で触れたSSスレッド特有の演出法(と、できれば具体例)については、気が向いたらそのうち。
そして最大の特徴は
以前、大阪市が公開した文楽問題に関するメール交信記録を読んで一文を記したが、
文楽の問題に関して、Twitterを見ていていくつか誤解があるようなので、書いてみたい。
産経の記事によれば、
橋下市政 揺れる文楽 補助金凍結…地方公演厳しく+(2/2ページ) - MSN産経ニュース
同協会の収入は興行収入が8割、補助金が2割を占め、その内訳は国が8千万円、市が5200万円、府が2070万円(23年度)。
記事中「同協会」とは文楽協会のこと。今すぐ見当たらなかったが、たしか本公演に影響が出る額ではなかったように記憶する。少なくとも文楽の存廃に関わる額ではない。
公開されたメール記録から。池末浩規参与の3月24日付メール。
http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html
③-1.技芸員のマネジメント機能のうち、「都市魅力向上に資する伝統芸能に関する若手技能者の育成支援事業」に対する事業補助を行う。これは当 初金額を××円(試案:2,000万円)とするが、××年度(試案:平成27年度)以降の分については、前年に(府)市の文化・芸術に関する補助についての委員会(名称未定)により決定する。
③-3.経過措置として、✕年間(試案:平成24年度に限って)は、✕✕万円(試案:3,200万円…現状の5,200万円と上記2,000万円 との差額)を新たな公演の試み、協会の機能向上の試みに対して事業補助する。この補助の使途および成果については、事後に報告するものとする。
ただし、同じく池末参与の6月5日付メール中、橋下市長とのやりとり部分。(→は池末参与の返事)
文楽についてはその構造 も、担当者以外は理解していないところもあります。
文楽を守る役割は結局国に あるということがはっきりとしてきました。
→結局文楽の振興については国しかコントロールできない形にしておきながら、大阪府市も金入れろという図式ですね。
そうなると若手育成も国では?
→本来はそういうことになります。
また若手育成について、国 と地方の役割はどうなのでしょうか?
→原則国主体でやるべきという考え方がベースになると思われますが、国が新たなスキームに乗ってくるまでの短期間(3年以内を想定)人材育成につい ては大阪も奨励金を出す考え方もあるかもしれません。
市長とその周辺の意図としては、「文化財保護」よりも「振興(観光資源としての活用)」なのでこういう書きぶりになる。しかし、文楽においても、もちろん「家業」となっている場合もあるが、原則的には歌舞伎と違い、あくまでも実力主義だという側面が全く閑却されている。
文楽は伝統に胡坐をかいている、敷居が高いなどという意見を散見したが、事実は文楽も新作を試み、様々なチャレンジをしてきた。たとえば、子供向けに作曲された新作があげられる。
文楽の入門編として最も手軽だと思われるのは、国立文楽劇場で毎年夏の公演で演じられる演目だ。夏休みのため子供の観客を対象としたものが必ず演目にあがる。今年は「西遊記」がかかっている。
そこで近年演じられてきた演目を振り返ると、「舌切雀」「雪狐々姿湖(ゆきはこんこんすがたのみずうみ)」「瓜子姫とあまんじゃく」「東海道中膝栗毛」「金太郎の大ぐも退治」「鼠のそうし」「大江山の鬼退治」。。。などなどがあげられる。ただし、必ずしも中身が充実している演目ばかりとは言えない。
こういった子供向けの演目だけでなく、大人向けの演目も様々な試みが繰り返されてきた。
例えば歌舞伎演目のコピーがある。そのなかで、「勧進帳」はもっとも有名な演目の一つだろう。
またあまり知られていないかもしれないが、近松門左衛門の「曽根崎心中」は歌舞伎の影響で戦後に復活した演目だ。その事情は次のサイトにコンパクトにまとめられている。
その人形浄瑠璃にとって難題だらけの「曽根崎心中」の復活上演を、まず試みたのが本家の人形浄瑠璃ではなく、歌舞伎であった。
昭和28年(1953)8月、近松門左衛門生誕300年を記念して宇野信夫が「曽根崎心中」を新しい歌舞伎に脚色し、の新橋演舞場の舞台にかけたのである。徳兵衛を上方歌舞伎の第1人者の2代中村鴈治郎、お初を長男の2代扇雀(のちの3代鴈治郎)というコンビで演じたところ、大評判をとって扇雀ブームまで起こった。
この反響の大きさに驚いたのが、本家の文楽座である。人形劇としての「曽根崎心中」復活上演に意欲を燃やし、現代向きにという松竹の大谷竹次郎会長の意向を入れて、西亭(にしてい)こと三味線弾きの初代野澤松之輔が脚色・作曲を担当、鷲谷樗風(わしたにちょふう)の演出で、昭和30年(1955)四ツ橋文楽座1月公演の舞台にかけたのである。
よく復曲といわれるが、昔通りの演奏曲復元は不可能で、新しい作曲と割り切った方が誤解が少ない。語りを8代竹本綱大夫、三味線を10代竹澤弥七のコンビ、主人公・徳兵衛役の人形は序列7番目だった吉田玉男が遣った。
これらのものは本公演でもしばしばかけられる演目だけれども、より実験的な演目としては、蝶々夫人、ハムレット、テンペスト(「天変斯止嵐后晴」)など。また、市長が再三ふれている三谷幸喜の新作に代表されるようなそれも、しばしば作られる。聖書の福音書物語を文楽で、といった試みまである。
つまり、文楽に携わる人たちは、新しい観客開拓への意欲はあり、チャレンジ精神も問題意識もある人たちなのであって、この点は文楽を知らない人たちによく認識しておいてもらいたいと切に願う。
したがって、ちゃんとした台本さえあれば、たとえば百合文楽でもけいおん!文楽でもなんでもできるはずだ。文楽人形は、女子高生でもイエス・キリストでも、なんにでもなれるのである。
しばしば、歌舞伎や落語と並行して文楽を論じられているのを目にする。しかし、文楽は他の古典芸能と全く違う側面があるので、「伝統芸能」「大衆芸能」という大雑把なくくりで論じられるとやや面食らう。
まず、文楽は音曲として非常に格の高いものだったという歴史的な事情である。これは歌舞伎の竹本葵大夫さんが軽く書いている。
人形芝居で創りだした演目も歌舞伎に流出して、歌舞伎で大当たりを取る。それがために、人形芝居は経営に打撃を受ける。これは対策を講じなければいけない。そんなこんなで、人形芝居の組合で「歌舞伎に出演した太夫・三味線は除名処分にする。歌舞伎の太夫・三味線とは同席しない」などと取り決めます。「われわれは宮中のお召しがあると参内して芸をお目にかける。そして掾号も受領することさえある。歌舞伎などの河原者とは身分が違う」と息巻いたかどうかは知りませんが、これくらいのことは充分おっしゃられたでしょう。
今でこそ、私など文楽の9綱大夫師にご指導いただいたり、ほかにも三味線の方が文楽の方のご指導をいただいたりしておりますが、昔でしたら考えにくい現象でしょう。
もちろん実力の裏付けがあってこそで、
ただいまでも「文楽座出演」と銘打って歌舞伎の演目に文楽座の皆様が演奏で出演なさると、たいがい新聞劇評は「○大夫、△△以下、文楽座の演奏に量感がある…」というようなことが書かれます。ところが、同じ曲を私ども竹本が演奏いたしますと、あまり賛辞を頂戴することがございません。
ということになる。
葵太夫さんも触れておられるが、そもそも人形浄瑠璃は皇室と関係の深いもので、その一つの表れが掾号だろう。名人上手は皇族から掾号を受領することがあり、豊竹山城少掾、人形遣いの吉田難波掾を最後に掾号受領するものはいないが、しかしながら皇室との関係はあったわけで、昭和38年に松竹が興行権を手放し文楽協会が成立したとき、松竹がこれを「献納」と言っているのは故なきことではないのだ。
繰り返すが、このような人形浄瑠璃における格の高さは、実力の裏付けがなければ意味を持たないし、まして現代において補助金の投入を正当化するものには必ずしもならない。
しかし、他の芸能と一括りで論ずることができないという側面の若干は感じてもらえるのではないか。
また、義太夫節の特性について若干ふれておきたい。
義太夫節の構造そのものは簡単で、決まったメロディーのパターンを詞章に合わせて組み合わせて行くだけだ、という説明でいいと思う。したがって、このパターンの組み合わせは無限に広がる。
ところがそう簡単にいかないのは、文楽の古典の場合、演目に合わせて様式が成立しており、義太夫節ではこの様式を「風(ふう)」という。かねて様々な論者により、風を語り分け伝承するのが最大の難物だとされてきた。というのも、非常に微妙・繊細なものだからだ。
以前書いたように、私は国立文楽劇場に通って図書閲覧室にもよくお邪魔をするような人間だったが、さすがに義太夫節を語るところまではやらなかった。だから断定はできないけれども、この様式の問題は最後は幼少時の音楽環境の問題になると思う。と考えたくなるくらいに、微妙な代物であって、これだけ洋楽が氾濫して耳が慣れてしまっている現代日本で、こういうものを継承することが可能かどうか、はなはだ疑問だと言わざるを得ない。
やや話がずれたかもしれないが、たしかに落語や歌舞伎などのように、時代に合わせて姿かたちを変えることで人形浄瑠璃においても生き延びることだけなら可能かもしれない。しかし、文楽の場合、繊細な中身が変わってしまってはもはや文楽ではなく、ただの人形芝居、「文楽のようなもの」が残るだけだろうと強く危惧するものだ。
この点が、私の文楽の将来に対する悲観や「古格を維持している限りは、文楽は補助されるべきだ」と考える所以でもある。
大阪市長やその周辺が模索しているように、観客動員を増やそうとする努力、そのための宣伝や統括的なプロデュース・マネジメントが必要だろうというのは、私もかねがねそう思っていた。まんざらではないと思う。
ただし、それには一定の限界があるだろうとも思う。要因はいくつでもあげられる。
音楽環境がもうまったく変わってしまっている。古典に対する教育がほとんど日本ではなされないのだから理解できなくて当たり前。そもそも、松竹ですら経営が難しくて50年前に放り出したものを今の時代に観客が増えるわけがない。ちゃんと語れる人がもういなくなりそうだ等々。
一定の限界を認めなければ、たとえば市長がいろいろ言っているように古典であっても演出をもっと現代的にしなければならなくなるだろうし、本も変えなければならない。本来、国立劇場国立文楽劇場での公演は一作品全部を舞台にかける「通し」を主として行われるべきだが、観客動員を上げたいのであれば歌舞伎のように「見取り」だけでプログラムを構成し、有名な売れそうな場面だけ舞台にかけておけばよい。しかし、それで本当にいいのか。
つまり、観客動員をどうしても上げたいのであれば、中身にも伝承にも確実に影響が出てくるだろうと思われるのだ。これで本当に「古格」が維持できるんだろうか。
私は、文楽だけでなく、歌舞伎も好きだし(そもそも文楽に触れるきっかけは歌舞伎で知っている演目は文楽ならどうなのかという興味だった)、西洋古典音楽も大好きな人間だ。そうやって比較をすることで両方を消化するのが、誇張して言えばあるいは日本人だけの楽しみだとすら思っている。
そこで西洋音楽と比較した場合、文楽に匹敵するものはワーグナーの楽劇ぐらいしかないのではないかな、と感じている。長大さや感動の深さの点で比肩する物は相当に限られてくると思う。
それだけの値打ちがあるんだということ、それだけの値打ちがあるものに対して、日本のものなのに、その日本人の大多数が興味関心全くゼロだということは、まず言っておきたい。
その上で、しばしば「補助金なしでやっていけない芸能芸術は滅び去るべきだ」という意見が見られる。非常にもっともな意見で、公によって支えられている文化事業は常にこういう問いを問われるべきだと私も思う。
ただ、一方で、ヨーロッパのオペラにしろオーケストラにしろ、「補助金なしでやっていけない」わけだが、「だから滅び去るべきだ」とは言われない。ここは必ずしも論理としてリンクするものではない、ということも、またもっともなのだ。
文楽に匹敵するのはワーグナーくらいしかないのではないかと書いたけれども、ワーグナーには過去の歴史から政治的な問題が色々あり、また採算が取れないからといってドイツ人がワーグナーを「過去のもの」として捨て去るだろうか。欧州においてすら西洋古典音楽のファンはそれほど多くないはずだが、さらにそのなかのごく一部のワグネリアンしかたいした興味関心をもたないからワーグナーの上演は無駄だと批判されるだろうか。そういうことは今のところまずあり得ないと思う。なぜなら、ワーグナーはドイツの宝だからだ。文楽よりはるかにカネがかかるにもかかわらず。
大阪の先人たちは、文楽という芸能に対して文字通り心血を注いできた。一時期を除いて基本的には客が入らない芸能だったので、名人上手ですら「明日のご飯がない」という貧乏話は普通にある。奥さんが小料理屋を営んでいてそれで食わしてもらったりしている。それでもなお、大阪の偉大な先人たちはこの芸能に打ちこみ、奇跡的に現代に伝えてきた。
彼らはお金はなかったかもしれない。貧乏だったかもしれない。その代わりに得られたのは、感動を与える喜びであったり、誇りだった。掾号の問題はまさしくそれで、名誉だけが彼らの糧だったと言っても言い過ぎではない。ワーグナーにも匹敵する芸能であるからこそ、それだけ打ち込む価値があったのだ。
ただ、現代社会では、残念ながらこの芸術の価値に見合うだけの犠牲を技芸員たちに求めるのは、無理になって来ている。(それでも彼らは贅沢な生活をしているわけでは決してない)
現代の大阪人はそういう偉大な先人の子孫だ、そういう偉大な芸術を生んだ共同体の中にすむ一員なんだという矜持、その矜持が文楽に金を払わせるのであって、他に理由は見あたらない。
そして、、、私はこれが最も大事な点だと思うけれども、、、大阪人に持ってもらいたいこの矜持に対して、文楽に携わる人たちはお返しをしなければならない。
それは、新しい観客を獲得する挑戦を一方で続けながらも、文楽の本格を維持すること、継承すること、古格を守ることではないか。それが、文楽座に課せられたミッションであって、それが出来なくなった時、文楽は文楽でなくなり、公金を投入する理由もなくなるだろう。
もちろん、大阪市長やその周辺の人々が考えるように、観客動員を上げて観光資源として活用されるように生き延びる方向もある。しかし、それはもはや「文楽」ではない。
もし「文楽のようなもの」という形でしか生き延びられないのであれば、偉大な先人の名誉のために、大阪人の矜持のために、近い将来、しかるべきタイミングで文楽の死を宣告してもらいたい、最低でも名前だけは変えてもらいたい、無形文化財や世界遺産の認定も返上してもらいたい。私がこのように希望する気持ちやその理由も、これまでつらつらと書いてきたことから感じ取ってもらえるのではないか。
そして同様のことは、なぜ国が補助金を文楽に対して投入するかという理由づけにもなるように思う。大衆に受け入れられない芸能は補助金を打ち切ればいい、この財政難の折から文化事業に投ずる財源はないとよく言われるが、ことはそう単純ではない。
予算全体から見れば、補助金として文楽に投入される額は巨額とは全く言えない。しかも大阪の場合は、対象を悪玉・敵に仕立て上げて財政削減しても、すぐに無駄なプロジェクトに走るのでせっかくの財政削減が全く無意味なことになっている。大阪市長は文楽に対して様々な批判を繰り広げているが、予算と比較した場合にあまりにも不釣り合いな煽りであると言わざるを得ない。
日本の偉大な芸術、しかもまだかろうじて本格が維持されている繊細な芸術に対して矜持を持って維持するに、大阪はもとより、日本の市民社会全体「も」維持しなくて他に誰が維持するというのだろうか。
(追記)
これまで書いてきたように、私自身は文楽の将来にはかなり悲観的であるし、芸の質についても相当程度批判的だ。したがってTwitter を見ていて古典芸能ファンによる「日本の伝統芸能なんだから維持されるのが当たり前」や「とにかく文楽は素晴らしい」に類する議論を見ると鼻白む思いをする。自分の楽しみのために税金の投入を是認しろというのであれば、それはまさに橋下市長の批判通りなのではないかと思う。
したがって、古典芸能ファンの言動にもいささかついていけないものを感じる時があると、これは明記しておきたい。
また、もし何かご意見などあれば、Twitterの私のアカウントに何か書いていただきたいというのは、前回の増田に書いたとおりだ。https://twitter.com/SignorTaki
プロレスという興行がある。
スポーツ風なんだけど、オリンピックの種目ではレスリングであり、プロレスはスポーツではなく、スポーツの技をおもしろおかしくアレンジして、敵と味方に分かれて、戦いをショーアップする何かだ。
当然、子供はそれを真似るわけで、技をかけあってみたり、どちらかがあらかじめ勝利するストーリーを描いて、お互いに演じあったりもする。
あえていうと、成熟したプロレスファンは、プロレスでは死者やけが人がでないこと、興行は連日続くので、善玉も悪玉も安全かつ翌日も興行できるようにお互いに配慮し合っていることを暗黙の了解とした上で、プロレスを楽しんでいる。
熟すほどにプロレスに精通していない子供が真似したらどうだろう。
最近はテレビ放映も少ないので、そんな真似する子供も激減したかもしれないが、お約束を理解していない相手に力を誇示するためにプロレス技を使ったら、きっといじめに近いものになるのではないだろうか。
あと、わざとけんかのようなことをする人はいると思う。当事者たちの間では、一種のプロレスであって、周りを面白がらせるためにあえて遊んでいる人。炎上屋といえばいいのでしょうか。
ネットの表層的な部分で発言している人の中にもいるだろうし、人前では複数人でわざといじめのような状態を楽しみ、当事者しかいないときに本音を話す。
そんな衆目を集めるための行動も部外者がかかわろうとしたときにお約束が通じない状態を体験して、いじめのような状態になってしまう。
続いてテレビで気軽に見ることができる娯楽のひとつのお笑いについて。
うっかりした勘違いを笑いに変換することもあれば、貧乏やだらしなさや見てくれを笑いに変換することもある。
あと、ことば遊びもそれになりうる。
笑いと不愉快は紙一重で、不愉快に近づくほど笑いの効果も大きくなる。
プロレスで死人やけが人がでない程度に激しく技を繰り出すのと同じく、訴えられたり消されない程度にきわどいことを触媒にして、笑いを構成するほうがより、お笑い芸人として面白いという評価が得られるはずだ。
しかしながら、お笑いにも構成作家がいて、面白さを増幅するストーリーを描き、批判を受けないようにネタを確認したり、許可を取っていたりする。
ラジオで落語家さんが、このテーマで20分で新作落語を考えてくださいと無茶をいわれていたときは、本当に切羽詰まった様子で、できた落語もそんなに面白くなかった。
高度なお笑い番組ほど、何人もの構成作家がバックに控えていて、より多くのリハーサルを行いつつも、何度も練習した様子を見せずに質の高いお笑いを作るものだ。
今のテレビで、許可もなくシロウトをドッキリにかけることはあり得ないし、放送できない。
一見、シロウトが笑われているようでもプロの劇団員や名の知れないお笑い芸人の卵がシロウトのフリをしている。
子供がお笑いの真似をすると、構成作家の創作もなく、リハーサルもなく、責任者のチェックもなく、お笑いの良くない部分が全開となった状態で、笑いが作られる。確かに笑いは取れるが、負の側面が多すぎるお笑いができあがってしまうのだ。
誰かを傷付けたり、失言であったり、暴言だったりする。お約束が守られていないお笑いも、いじめに近いものになってしまうのではないだろうか。
華やかな舞台で活躍する人たちは、人知れず練習しているし、ずっと舞台に立ち続けるための配慮があるということを断固として子供たちに教えたい。
で、利用者は無人本屋のドアを電子マネーで開錠し、利用者は蔵書を探索する。
(普段は電気も通っていないが、開錠した段階で電気が点いてICタグなども作動)
思い通りの本を見つけたら、セルフ決済を行って、無人本屋を出る。
というか、デポジット制にしておいて、
「入店時に10,000円を差引いて、
1,000円の本を持ち出した場合は、差額9,000円を電子マネーに入金する、
何も買わない(=何も持ち出さない)場合は、10,000円を返金する」
或いは、会員制、ないし入場料制にしてもいい。
「1日中鉄道本を読みふけって、結果買わなかったら、入場料の500円だけ取られる、
買い物したなら本の代金も取られる」という感じ。
以前なら、
「多摩ニュータウンの片隅にあるような本屋に行こうにも、そもそも道に迷う」
というのがあったが、幸いなことにナビシステムが発達してきたから、
その点の懸念も払拭される。
以上は「本」で例示したが、ほかにも「コレクターグッズ」とか「フィギュア」とか
「同人誌」とか「前衛芸術品」とかでも、このような無人店舗が成り立つかもしれない。
要は、電子マネーを使った入退店管理、ICタグを使った決済を応用すれば、
無人店舗が開ける、ということ。
そして、
「お目当て品を買いに行くのなら、交通費も厭わない」というマニア心理があれば、
神保町のような店舗集積がなくても、マニアの方が無人店舗に行くんじゃないか、という仮説。
この案のキッカケは、江頭2:50が、
「いわき市に救援物資届けたついでに、福島第一に潜入試みた」というルポ本を著し、
それを見て「いわき市まで買いに行きたい」というはてブコメントが多数あったため、
「ならば、ブックツーリズムが成立する余地があるんじゃないか」と直感した次第。
境港市(水木しげる出身地)ならオバケ・妖怪に関する古本・漫画・同人誌を集積して無人店舗展開すればいいし、
新潟市(水島新司出身地)なら野球に関する古本・漫画・同人誌を集積して無人店舗展開すればいいし、
北九州市(松本零士出身地)ならSF漫画・古本・同人誌を集積して無人店舗展開する、
そうすれば立派なブックツーリズムだ。
やぁやぁ、ご入学おめでとう。
TOKYO怖いなぁだの、そろそろせっくすしたいなぁだの、友達できるかなぁだの、
各自思うところはあるだろうが、そういう不安に対してオトナがドヤ顔で語るエントリは
塵芥のごとくはてな村には存在するし、私は粛々と本を挙げようと思う。
ま、やる気ある人だけ読んでくれればいい。
何故か?私が想定している読者がいきなり古典を読めるほどの知性があるとは思えないからです。
上にある本のあとなら接続できるものもあるし、大学のセンセの指導の下で読むならいいんじゃないかな。
「ここに挙げとかねーと一生かじることがねぇだろうな」って分野とか、
教科書で体系的に順番に学んでいて「なんで俺こんなんやってんだろ」とかわけ分からなくならんうちに
そんじゃーね!
この元増田って、女だと思うんだよ。女だからどうこうという意味ではなく、その上司の見当違いでしかないということなので、念の為。
この程度の時間でその上司との密な関係を得られるのなら楽なものだし、ましてや、酒やゴルフみたいな役に立ちそうもないことに付き合わされるわけでもないという実益を兼ねた上司の接待だし、これが男なら美味しいチャンスをゲットしたと思うんだろうが、たぶん女だからこそ違うんだと思う。
三種類に分けたのは女性蔑視とかではなく、男についても、睾丸>脳、フツウの男、仕事向きの男と分けられるので、念の為。
で、世の中にはフツウの女が一番多くて、その「自分の生活」というのは、やがては仕事をやめて主婦とかパートになるという生活。そういう地点がゴールだとすると、働いてる会社の自社株なんて全然役に立たない知識だから、元増田が勉強会を押し付けだと思って、ウザイと考えるのも当然だと思う。目的地が違うんだから。元増田にとっては、仕事は上司から与えられた仕事を淡々とこなし、社内とかいろんなツテで結婚をして家庭に入ることがゴール地点なんじゃないのかな。
これは、以下の三点から、勝手にこのように想定しただけで、「これだから女は」的なことをいうつもりはないので、念の為。
10年以上前に、アリーMyLoveというアメリカテレビドラマで、主役の女弁護士が、自分の事務所の女職員との間で、「どうして上を目指さないの?」「上を目指すだけが人生じゃない」的な会話があって、時代が進んだ今ではさらに、その女職員と同じように考える男女が多くなっているだろうし、そこそこの給料と地位でまったり生活するワークライフバランスについても全く非難するつもりも無いので、念の為。
さらに、ツリーの本旨と全然関係なくなるけど、書いていて、女は「男社会だから出世できない」という言葉によって、社内における競争から安全に離脱することができていいなぁと思い浮かんだ。伊集院光が落語をやめたときに立川談志の落語を理由にしたのと同じように。世の中の大部分の男は出世できない仕組みだけど、出世できない(ポストの不存在が原因だとしても!)のは、すべて自分の能力・責任に帰結されて、社会のせいにするのは許されない一方で。
以下、2011/12/16追記
また、元増田が消失した。マスダ デハ ヨクアルコト。でも、ワタシトテモカナシイ。身バレとか気にして消したのなら、三行まとめにしてツリーは残して欲しかった。俺が3行にまとめるのは面倒だから、全部コピペ。
「株のこと教えてあげるよ、この会社の連中は、自社株のこともよく知らないんだから、全く。
最初は、正直興味ないけど、それで色々わかるようになるならまあステキ!と思っていたので「ありがとうございます^^」と返事をした。
次の日から、いきなりメッセンジャーで「今から30分くらい軽く勉強会するかい?」と誘いがくるようになった。
目上の人だから断りづらい… 言われるがままついていく。
まずは触りからだね、とペラペラ話し出すこと2時間。老人は時間感覚ねーのか。タイムイズマネー!!
全く知識もない興味もない状態で、途中からわけがわからなくなる。
帰りに本屋で関連書を買って読むことにした。
また次の日も、誘いが来た。言われるがままついていく。
自分がいかに苦労して知識を身に付けてきたか、自分の仕事がいかに会社に貢献しているかという話だった。
本を買ってみました、と話すと喜んでいた。
また次の日も、誘いが来た。言われるがままついていく。
だんだん話がわかるようになってきた。
「それはつまり、○○ということですね!」「ここはどういう意味ですか?」相槌もうまくなってきた。
しばらく忙しかったようで誘いが無かったが、一週間ぶりに誘いが来た。言われるがままついていく。
ー「まあ、本にはそう書いてあるけどね、実務では違うんですよ」
ー「まだまだ理解が足りないようですね。ニヤニヤ」
次の日も誘いが来た。言われるがままついていく。
上司が作っている資料を持ってきた。
「この資料はね、本部長クラス以上と、僕くらいしか理解できないんですよ」
「へえ・・・(あ、そう)」
1枚ペラの資料をつくるのに、いかに細部にこだわり、いかに苦労して作っているか、そしてその平社員には読解できない資料がいかに経営に役立っているかを語りだす・・・
いい加減にしてください。
そりゃあ、そういう重要資料が読めるようになるのはステキやろうけど、
理解できない平社員がいっぱいいるというのは、それを理解できなくても別のスキルで会社に貢献すればいいってことじゃないの。
まったく興味のないことを、教えてあげるなんて言われても、話についていくのも、いちいち感謝するのも、しんどいっす。
すごいですね、優秀なんですね、あなたが会社を支えてるんですね^^ って、私みたいな平社員に言われて何が嬉しいねん。
せっかく勉強しようと思ったのに、分かるようになったら「僕のおかげですね」分からなかったら「まだまだ修行が足りないですね」
誰もお前なんか目指してないから。
役職があって、高い給料もらって、それでも褒められたいのか。
そう軽々しく中退、なんていったって始まらない。
手取り足取りやってくれるひと、一年に一回しかアドバイスくれないひと。
世の中出たって、そういう上司がいるんだから、
ああ今のうちに予行練習しておけば後で楽だわい、くらいの
軽い気持ちでやったらいいんだ。
そういう人間だって鬼じゃなし、
ナントカとハサミは使いようで、付き合い方ではちゃんと助けてくれるはずよ。
それに、仮に、三年かかったって、いいじゃないの。
どうせ死ぬまでに、星の数ほど失敗があるんだ。
ひとつくらい増えたって、どうってことない。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6379943
なにかこう、自分のモチベーションがあがること、やってみたらどうか。
気分転換も大事だよ。