はてなキーワード: 正当防衛とは
ペルソナ5のストーリーの違和感の話。軽く重めのネタバレが入ります。
ペルソナ5、終わった後「うーん」な感じが拭えなくてツイッターやらamazonレビューやらで感想探ってたら、なんとなく自分と近い世代のオッサンは割と同じような違和感を感じており、その一方で、ツイートの様子からたぶん学生くらい?と思われるユーザーに向かって徐々に絶賛度が高まっている傾向があるように感じた。
そこで何の感じ方が変わるかっていったら、やっぱり「社会悪と正義の捉え方」が一つ鍵なのかなーと。
学校を含めた大人社会への適合度が低く、何らかの形で暴力、差別、迫害を受けている。登場人物全員がそういうバックボーンを持ってるって時点で、3や4とは一線を画してるなーと思う。そういう設定事態はすごく好みだった。
そして、最も身近な学校の不当(と当人たちは感じている)支配構造に反発し、ゲリラ的な手段でそれをはねのける手段を得る。それが怪盗団。
怪盗団は、抑圧に対抗する手段であると同時に、彼等の居場所にもなった。彼等は、自分たちが手にした力の使い道を探す過程で、また別の被害者を探し、弾圧側を排除して仲間を増やしてゆく。
ここまではいいなって思うんです。
特に祐介のエピソードとコミュが好きで、彼はゲーム終盤まで割り切れない思いと向き合わされる事になり、結果、そういう人間の複雑さを受け入れる。立派な奴だなあーって素直に感心した。
「私たち、これでいいのかな。正しい事をしているのかな」
「悪いヤツを改心させる事が間違ってるわけがない」
的な会話が言葉を変えて何度も繰り返される。
つまり、彼等はまだまだ精神的に未成熟さが残る学生なので、自分たちの行為が「原則として誰にも咎めようがないもの」である事に、自分で耐えきれてない。
そこにどう落とし前をつけるのかなーってずっと思ってたんですが、つかなかったんですよ。
途中からターゲットは自分たちと直接関わりのない著名な組織及び個人に変わり、そこから物語の掛け違いが発生してるように感じる。
そもそも、P5の主人公たちが持っている力って
「個人の精神世界に入り込んで人格を直接攻撃し、歪んだ欲望を消滅させ、改心させる」って、率直に言って「社会的リスクを伴わない洗脳」ですよ。
自分たちが被害者である間は正当防衛になるけど、直接関係のない相手だと話が違ってくるように思うんだよね。
P5は、人の良き悪しきをテーマの中心に添えながら、その結論を完全に持て余してると思う。
最初は「自分たちの被害を覆すために」やっていた行為が、最後の方では「悪人だと思うからこらしめてやりたい。」が先に来てて、そのためにパレスを探す…みたいに、完全に手段と目的が逆転してる。
『怪盗をしたいから悪人を探す』って、ノルマ目的で犯人でっち上げる警察みたいなもんじゃないか。見ようによっては、劇中の誰よりも怪盗団が一番の『悪意なき悪人』ですよ。
そしてp5の主人公たちには、その客観性に耐えうる精神的強度がない。
それを物語的にうまく隠そうとした結果、終盤に行くにしたがって、ターゲットたちをどんどん単純なテンプレ悪人化させるしかなかったんじゃないかって思う。
鴨志田とか斑目って大人としてのずるさ、邪悪さの深みみたいなのがあった悪役だと思うんだけど、なんかシドウってそのへん随分単純だったよね。演説直後のシーンで、衆人の前で普通に「クソガキ」とか言い放っちゃうし。
「シドウをカモシダやマダラメと同じくらい人間味があるキャラにしちゃうと、主人公たちの正当性を立てるのが難しくなるから」っていう逃げにも見えちゃう。
「正義」「世直し」ってワードが後半に行くに従って増えてるように感じるのも、シナリオの都合で主人公たちを正当化するために無理やり連呼してるのかな、とか勘ぐったりして。
主人公たちが迷わなかったとは思わないけど、終盤やっぱり、どこか「悪いやつは倒していいんだ」っていう単純化にぐっと話が移動してた感は拭えない。
「善悪はあくまで相対的なもの」という、女神転生シリーズが元々持っていたセオリーを真っ向から否定してないかなと。
シドウが真なる悪人であったのか、彼を改心させる事が本当に正しい事だったのか。
それを判断するのは「主人公たち以外のみんな」であるべきなんだけど、p5はそれすら放棄したんですね。
聖杯という「集合的無意識」に人格を持たせ、それを全ての元凶とした。
これ、逃げだと思いますよ…
なぜならそれは『事なかれ主義が具現化した悪神のたくらみだから』」
って…
そんなん「衆愚は正しい判断を下せない」っていうのを、遠回しにdisってるだけやん!
怪盗団支持率100%とかも、まあコミュレベルの高いゲストキャラが心から怪盗団支持を主張するのは分かるんだけど、それ以外の大多数からしたら「噂程度に存在していた怪盗団がなんかこのピンチを解決させてくれるらしい」ってだけだし、勝ち馬に乗る勢いだけの演出で、あれを「怪盗団が支持されている」ことの演出としてはとても受け取れない。
いや~ちゃんとシドウを改心させた事実としっかり向き合うべきでしょ?
悪人の内面がどうあれ、結果として行われているのが「強い国を作るための改革」なんだったら、その手立てを失った事のフォローをちゃんとシナリオでして欲しいわけよ。
それとも「心が汚い人間がする事は絶対に間違ってる」みたいな話なの?
(一応、主人公とシドウは因縁があるんだけど、でも物語的には明らかにまず『シドウ倒す』が先にあって、『ついでに主人公の仇だった』って流れになってると感じる。完全に主人公の私怨として戦って、結果それが世直しになる、って方がまだ納得できたかな…)
自分はp3やp4やったときもそこそこオッサンだったのが、3と4は5に感じた違和感がほとんどなかった。3と4の主人公たちははっきりと自分または親しい仲間のために戦ってたから。
それが「社会」「正義」が絡んできた時、そこまでの強度をペルソナの世界観は持ってなかったんじゃないのかなと、そういう事を思ったわけです。
とかなんとか書いたんだけど
ゲームとしてはしっかり面白くて、最後まで楽しんだし、80時間かけてゲーム部分は楽しませてもらったなーって思ってる。
ペルソナって開発者側も「ジュブナイル」って言ってるように、10代または20代に響けばそれで成功してる世界観なんだと思うし、ターゲット層がなんかしら考えさせられたり、勇気をもらったりしたらそれで充分成功なんだと思うし。
おっさんなりに、3と4やって感動した感じを5にもうっすら求めてたら、5はそういう作品ではなかった、自分が筋近いの期待してた、と、そういう話です。
読んでてかなり興奮したのでメモ。
1. 第一部
(1) 主人公ムルソーは、母が死んだ翌日にナンパした女を抱いちゃうような変な男。
(2) そんなムルソーはある日「太陽がまぶしかったから」という理由でアラブ人を拳銃で殺してしまう。
※ここで重要なのは、ムルソーに罪を犯したという意識がないことだ。なぜならアラブ人を殺したのは「太陽のせい」だからだ。
2. 第二部
(3) ムルソーは殺人罪で起訴されるが、彼を救おうと弁護士と牧師がやってくる。
(4) 弁護士は「心証をよくするために嘘を付け」と言い、牧師は「罪を認めて神の救済を受けろ」と言う。
(5) しかしムルソーは、嘘を付くのは嫌だし、そもそも自分は罪人ではない、と言って、いずれの救済も拒否する。
(6) 始まった裁判では、ムルソーの「太陽がまぶしかったから殺した」という言い分を誰も理解できず、経験則に従って彼の行為が理屈付けられていく。
(7) その結果、ムルソーは極悪非道な殺人鬼ということになり、死刑判決が下される。
第一部で描かれる殺人の経緯が、検察官と裁判官による経験則に基づく認定により、全く異なる事実関係に作り替えられてしまうのが見どころ。
ここでムルソーは味方のはずの弁護士にまで「刑を軽くしたければ黙っていろ」と言われ、ものすごい疎外感を感じることになる。
社会のルールに自分を合わせられないことで悲劇に陥るのはカフカの『変身』や『城』と似ている。
ただムルソーはラストで幸福を得る点で、カフカと異なる模様。ただ何でこういう違いが出て来るのか、という点になるとまだよく分からない。
ちなみにネットの感想で、ムルソーの行為は正当防衛、過剰防衛が成立するのではないか、との意見が見られた。
しかし、被害者のアラビア人は匕首を構えただけである上、ムルソーに対して攻撃する意思もあったかどうかよく分からないので、正当防衛ないし過剰防衛は成立しないのでは、と思った。
・普段サスペンス系の映画はあまり見ないので少し驚いたけど、ハリウッド映画なので勧善懲悪な結末になるかと思ったらある意味バッドエンドでびびった
・なんで妻はモーテルのドアを開けてしまったんだろう。扉越しに適当に噓つけばよかったのに。
・防犯カメラを確認したら、嫁が無理矢理別荘に連れられて来たんじゃないってわかるのでは?
・防犯カメラを確認したら初めて姿を録画された日と誘拐された日の間にブランクがあき過ぎって分かるんでは?
・カッター云々言ってたけど、妻に対して対応が甘過ぎでは?正当防衛でも殺人は殺人でしょ。
・助けてくれた元彼はリッチな感じだったけど、天涯孤独なの?誰もよく調べてほしいとか言わなかったのかな?
・クレジットカードの履歴があるなら購入時間とかIPアドレス(自宅から)で旦那が購入したのではないとわかるのでは?
・プレゼント全部は触ってなさそうだから、一応指紋を調べて貰えばよかったのに。手袋をしてたって思われるかもだから意味ないかもしれないけど出ても嫁だけでしょ。
排出された薬莢が、乾いた音を立てて足元に跳ねた。
至近から硝煙のにおい。
いや、それよりも。
遠くから、血のにおい。
だが、気配はまだ消えていない。
殺気はむしろ増している。
「どうしてです?」
俺は周囲に対する警戒を解かずに、フミ夫に、重ねて問うた。
「どうして、こんな意味のことに命を賭けるんです?」
"白い悪魔"と畏怖される彼のことだ。
平然と「答えなどない」といった返答をするものと予測していた。
が、振り返ったフミ夫の顔には、子どものような率直な感情が浮かんでいた。
純粋な、驚きの表情だった。
まるで、そんな質問をするやつがいるなんてことを今まで想像だにせず生きてきたかのような。
そして、それは彼女も――"かや"もおなじことだ。
彼女の生存本能が敵を生み出す。その敵が彼女を攻撃する。だから殺し返す。正当防衛だ。
システムだ。
インターネットという皆殺しの野に用意された闘技場。
入るのは二人。
出るのは一人。
しっきーの死に際を思い出す。
本来助けるひつようのないものを助けようとして、戦うべき理由のない相手と戦った。
そして彼は実際に魂なき肉塊に成り果てた。
俺は彼の遺骸を前にして、祈った。
彼のための祈りではなかった。
俺がひざまずいてすいようびの祈祷を唱えていると、隣りにベテランの先輩増田がやってきて言った。
「人が死ぬ度に祈るのはやめておけ。
その先輩は二日後に Hagex に襲われて死んだ。
俺はまだ生きている。
なぜ生きているのだろう。
そんなことは増田に入る前からわかりきっていたことではなかったか。
「どうして、こんな意味のないことに命を……」
フミ夫はやはり答えない。
代わりにライフルを構え直し、私に手で制して、かやが潜んでいると思しき方面へとゆっくりと前進する。
さきほどの澄んだ眼の光はすっかりその眼底に暗く沈んでいた。
フミ夫は若本規夫並の激渋ボイスで呟いた。
「余計なお世話だよな。リアル著名人からお情けを受けるほど、俺達は落ちぶれちゃいない。なあ?」
俺に同意を求めているのだと気づくまで数秒かかった。
俺は頷く。
先行するフミ夫の表情はうかがい知れない。
丸太のように転がっている物言わぬ増田たちの死体を踏まないように注意を払いつつ、かやへ接近する。
硝煙のにおい。
狙われている。
俺にはわかる。
数瞬後には、俺かフミ夫かどちらかが右手を射抜かれている。おそらくフミ夫のほうが。かやなら最大の効果を狙うはず。
だが、そのときにはもうフミ夫は左手でキーボードを叩いているだろう。
「彼ら」は。
俺達とは根本的に違うのだ。
増田は
といい、シールズの彼らは
と言う。並べ方が違うだけで言ってることは変わらん。そこは知っておいた方がいいよ。
いま問題なのは、『地域の限定なく、対象の限定もなく(車両から艦船から果ては核ミサイルまで)、内閣の判断一つで自衛隊が武器を持って警備することができると解釈できる法案』が、まともに議論もされず(増田も多分理解していないだろう?)成立するところなんだが、それでも増田としては「勝手に改正してくれ」なんだろうか? 「自衛のためと判断できる場合に限るから大丈夫」と政府は繰り返すけど、解釈次第でどうとでもなる法案と言ってるに等しい。地域の限定、対象の限定は、いずれもナシだ。そんなワケで、これが「侵略戦争」につながらない保証は全くない。
「攻め込まれた時」に守るのは、これは当たり前の自衛であって、ほとんどの人はそんなこと反対してない。(歴代内閣の解釈通り)
しかし、自分の都合で他国に攻め込むのは、これは「自衛」とは言い難い。これも、大体誰でもそうだと言うだろう。たぶん、今の自民党の皆さんも、さすがにそこは一線引いてる。少なくとも表向きは。
ややこしいのは、自衛をする時に、一緒に守ってくれるだろうA国が仮にあるとして、その国との共同行動に関する問題だ。
(1)A国が自衛を手伝ってくれているときに、A国軍と共同で自衛する。
(2)A国が地球の裏側で戦争してるときに、A国軍と共同で戦争する。
この2つの、前者はOKでも後者はダメじゃね? ってのが普通の判断だと思う。ところが、今の安保法案だと、「解釈」や「運用」により、「現場の自衛官の判断」で(2)に近いことができてしまうので、それが最大の問題。
(※ちなみに、イラク戦争時に人道支援名目で派遣された「ヒゲの隊長」こと現自民党議員佐藤正久は、当時、友軍が攻撃されたら「情報収集名目」で駆けつけ、戦闘に巻き込まれることで「正当防衛」という言い訳のもとに戦争するつもりだったと発言したことで有名。こういう人らが推進してることが、今の安保法案を一層信頼のおけないものにしてる。)
だったら、もっと制限つければと思うわけだけど、それはしたくないらしい。だから、「色々言い訳してるけど、結局戦争するための法案なんじゃないの」と批判されてる。自民は、批判をのらくらかわしながら(その間支持率を落とし、次の選挙で多くの落選議員を出す危険を冒してでも)時間切れでの成立に持ち込むのだろうね。
2ちゃんねるで勃興したインターネットにおけるマウンティングはより具体性を持ってきており、インターネット文化には暴言をもって優位に立つような行為が根強い。
しかしながら、相手の顔をみない一方的なコミュニケーションには、危険性が多い。まず、ニュースで報道される文章には犯人や被害者の性格や人間性は全く予想できないことが挙げられる。
本来ならば正当防衛とも言えるべき行為であっても、行きすぎて死に至らしめるなど、悪意のない不注意に基づく事件などはより注意深く観察する必要があるだろう。
2ちゃんねるやTwitterにおいては、私刑ともいうべき言葉の暴力が横行しており、当事者に対する偏見や誤解に基づいた言動が多々見受けられる。
当事者の性格から離れて、レッテルによるテンプレーション的なマウンティングが行われているのである。
言われた側はたまったものではない。インターネットにより増幅された憎悪が自分に襲いかかってくるためだ。数の暴力ともいうべき精神的なストレスは尋常ではないだろう。
特に最近は、インターネットが普及しているためか、電凸やストーキングなど、実社会への影響も大きくなっている。
暴言を書き込む際は、言われた側の立場に立って考えなくてはならないだろう。そうでなくては、今後人間社会のコミュニケーションは独りよがりの自己満足として衰退していくに違いない。
上念司が「憲法学者にイラク-シリア-トルコ無防備ヒッチハイクさせろ」と言ってたが、安保法成立で自衛隊が完全武装ヒッチハイクで後方支援する可能性も
「スガくんとアソウくん」の喩え話も、実際は安倍じゃなくて自衛隊員が殴りに行くわけで、ボコられてケガしたり、やりすぎて事件になるかも
後方支援中に殺されたら殉職か戦死か知らんが、反撃して殺しちゃった場合正当防衛でも殺人じゃね?でもそれだと刑務官の死刑執行も殺人になっちゃうか
安倍曰く、
襲撃に遭ったらただちに退避する
との事。
アソウ君助けに行くときは戦闘地域行って任務遂行型攻撃してね?と思うが、友達保存型の攻撃で、アソウくん助けたら非戦闘地域に退避と考えればセーフかも。
「親」と「社会」とか「罪」と「迷惑」とかやたらでてくるけど、
あなた個人の、自分の親への「生かしてくれてありがとう」という感謝と「障害を持って生まれて申し訳ない」という罪悪感と「なぜ自分を生かしたのか」というある種の憎しみや恨みを、「障害者」が「社会に迷惑」という大きな主語でごまかして、ごちゃ混ぜにしてるだけなんじゃないの?
そうでなければ、
「生まれてくるべきかどうか」をもし決めれるならば、死んだ後にしか評価はできなくない?
健常者だけど、テロとかを起こしてめちゃくちゃ社会に損害を与えた人も、
障害者だけど、めちゃくちゃ社会に益を与えてる例えば乙武みたいな人とかもいるわけじゃん。
何もできなかったと思ったけど、死ぬ直前にすごい発明をして社会がよくなる可能性とかゼロではないわけじゃん。
障害者だからこそ生まれる発想とかってゼロなのかな?それがあるかどうか分からないけど、ないことは証明できないよね?
もうほんとになにもできないまま死んだけど、脳死だったから他の重い病気の人に健康な臓器を分けることができたなら、それけっこうよくない?
というか生物学的には先天性の障害者は多様性において、つまり人類という社会の存続においてとても重要な存在と聞いたことがあるけどね。
今日本で食べられてる稲とかは、美味しさとかを追求してそのかわり、一つの病気が流行るとほぼ全滅するらしいね。
そもそももし罪があるとすればあなたを生んだ親に罪がいくはずじゃない?
べつにあなたが卵子と精子のときに「神様お願いします障害者に生まれて社会に迷惑をかけたいんです」と願ったわけじゃないよね?
例えば、科学者が殺人ロボットをつくって何百人か殺したとして、罪を受けるのは科学者のほうであってロボットはむしろ被害者じゃね?
まあこれは冗談で、罪になるには「そうしない選択肢があってそれを選択可能だったにもかかわらず罪であるほうを選んだ」ときに罪になるんで、ほら例えば正当防衛とか無罪になったりするじゃん?
なら最初から選択肢のなかったあなたの親も、あなたも、罪ではないだろ?
障害者がゼロで、社会通念上受け入れがたい意識を持った人間がゼロの社会って、いわゆるディストピアだと思うんだけど。
コストパフォーマンスや「よりよいもの」をあまりに希求すると、
「優生学」という人類史の汚点の二の舞を踏むことになるから、あまりおすすめできないね。
障害者がコストがかかるから生まれるべきでないなら、食事のコストがよりかかる肥満体質の遺伝子を持った人間もまた生まれるべきでない?
白人と黒人と黄色人とどれが一番コスパがいいんだ?女と男なら?身長は高い方がいい?低い方がいい?血液型は?目の色は?
「道徳の話」だというなら「○○だから生まれるべきでない」という主張こそ、まさに非道徳的でないかい?
そうすると視力の悪い人間は視力障害者という扱いになるわけよ。
でも今の社会は違うよね?メガネがあるから障害者とは扱われてない。
今パワードスーツとか開発されてるけど、あれがもっと進化すれば、腕や足が一本なくなったくらいでは障害者と呼ばれなくなるかもね。
いや、そもそも健常者でさえも、生まれてくるべきかどうかと言われると答えることはできないのでない?
どうせ誰がめちゃくちゃすごい発明しようが、テロで何百人か殺そうが、人類滅亡したら全部ゼロなわけよ。
何億年後かにはあなたの持ってる障害も、アインシュタインの相対性理論も全部等しく無価値なわけよ。
例えば日本の平安時代は女の人はおかめ顏が美人だったらしいよね。
現代でも、場所が違えば南米だと太ってれば太ってるほどモテるんだっけ?
殺人が好きな人も、戦時中に兵士として生まれれば英雄扱いかもね?
場所といえば、アフリカとかの一部民族では、障害者は神の使いとして崇拝の対象になるらしいね。
もしあなたがそこで生まれてきてたなら、むしろ健常者が生まれてきてなくてよかったねになったかもね。
なので「必要かどうか」という価値の問題はその社会の時代や場所にめちゃくちゃ影響を受けるし、つまり「障害者は生れてくるべきでない」と結論づけることなんてそもそも不可能なんじゃね?
メガネの下りでも書いたように、「障害者」というくくりがまず決まってないんだから。
「マーサズ・ヴィンヤード島」という島があって、その隔離された島では昔、他の社会より耳の聞こえないろう者が多かったんだって。
そのころのその島では、ろう者は障害者という扱いではなかったらしい。
耳の聞こえる人も聞こえない人も全員手話を使って話してた。聞こえる人同士だともちろん英語は使うけどね。
つまりそのころのこの島では生まれつき耳が聞こえないというのは、個性程度のものだったらしい。
それによって特に不利益を被ることはなかったし、障害者というレッテルを貼られることも、自分を障害者だと思うこともなかった。
つまりだよ。障害者を障害者にしているのは、あなたのその障害ではなく、その障害を障害だと決める社会のほうなんだよ。
だから、あなたが障害者になっているのは、不完全な社会のせいなんだ。
http://cpplover.blogspot.jp/2015/06/blog-post_30.html
外野から見てるとどうでもいいような事でワチャワチャやってるけど当事者には譲れない点があるんだろうな。
こいつらがやってるのは「おれが正しい点を相手に認めさせる」という自己満足ゲームなのかな。
主張を認めさせれば勝ち。一部でも認めさせれば。最終的には冷静になって両者勝ちで終わりそうだし。
「シェアハウスのタバコ問題」はもはやどうでもいいように読める。
これを見てると、マジメな人っていうか非DQNというかどんな言葉で括ればいいのかわからないけど
こういう人たちの衝突の解決方法ってほんとめんどくさいしダサいよな。
警察の現場検証みたいにどんな状況だったか提示して、目撃者連れてきて、判例とかマナーとかモラルとか持ち出して
どっちが先に手を出した、いやおれは手を振り払っただけだ、目撃者の位置からはそれが見えていない。正当防衛だとか。
DQNだったらこんな場面は取っ組み合いになるけど、大事になる前に周囲が仲裁にはいって引き離されるだろ。
そんで1時間後には冷静になってはいおしまい。ちょっとした連帯感とか芽生えちゃって後々お互いに気を使うようになったりな。
とにかくこのやり方じゃ問題が解決されることはないだろうな。
程度や症状の質の詳細を知れば、たぶん納得できると思う。
「本人が悔い改めるべき非道」か「病気のせいだからしょうがないよね…」のどちらかになるわけではなくて、
ある点では病気のせいでしょうがないが、ある点では改めるほうがよいということになるだろう。
自分が迫害され続けていると信じているが、直ちに殺される切迫感までは感じていないのに、
自分を迫害していると妄想患者が信じている相手を殺した場合と、
目の前にいる人が武器を持っていて、抵抗しないと殺されると強い恐怖感とともに感じて暴れたら相手が死んでしまった場合とではたぶん対応は異なる。
というか、程度の違いによって扱いが分かれることに納得できないなら、
上の妄想や幻覚が事実だったとして、それらへの対応が分かれることにも納得できないはず。
たとえば実際に迫害された怨恨による殺人と正当防衛による殺人への対応が分かれることにも。
典型的なサイコパスは精神病や神経症(古い用語法かもしれないが)とは遠い人々だが、
元の疑問を抱いた人は精神障害や精神疾患に含まれると考えているのかもしれない。
彼らがその楽観的な気質ゆえに自分が自分の利益のために他人を殺しても罰を受けるようなヘマはしないと考えて人を殺したときに、
実際にはヘマをしたのに罰を受けないのは、それこそ納得ができないんじゃないかと思うが。
それに彼らはその楽観的で苦しみを感じにくい気質のおかげで人生を謳歌している。
多くの人々が苦しみによって踏み止まらざるをえないことをなすことによって自分が利益を得るのはいいとしても、他人に害を与えたときには、
せめていわば外側からの罰は被っていただきたい。多くの人々はいわば自らの内側からの罰によって苦しんでいるのだから。
他人に害を加えた後で、その程度に応じて、一定期間他者危害を防止できるようになればよい。
彼らの人生の楽しさはある程度は弱くなるだろうが。
最近、人を殺してはいけない理由について、色々な人が色々な事を言っていて、「なるほどなぁ」と思う意見もあるけど、どれも根本的なところで間違っていると思う。
そもそも、突き詰めて考えれば、人を殺してはいけない理由なんてないのだ。
たとえば、「人を殺してもよいとすると、社会が崩壊する」みたいな意見をみかけたけど、so what?
そんなのは、あくまで社会の都合であって、「社会なんて知ったことか」と思っている個人にとっては、他人を殺してはいけないという根本的な理由にはならない。
では倫理的にはどうか。「命は地球より重い」、だから殺してはいけないのだ、という議論をよくみかける。また、「殺される人やその家族の気持ちを考えろ」なんて意見もある。
でも、このように倫理的な観点から「人を殺してはいけない」という意見を持つ者でさえも、一定の場合には殺人を認めるだろう。
例えば、死刑制度は国家的殺人に他ならないし、正当防衛で、ナイフで刺しかかってきた強盗に対しバットで対抗して殺してしまうことを悪と考える人は比較的少数派だと思われる。
つまり、倫理的に「人を殺してはいけない」というのは、「一定の場合に人を殺してはいけない」と言っているにすぎず、純粋に「人を殺す」ということを禁忌としているわけではないのだ。
そして、「一定の場合」等というものは時と場合によっていくらでも変わりうる。
このように考えていくと、「人を殺してはいけない」というのは、社会から罰を受けたくないなら人を殺してはいけない、といった条件付きの命題にすぎないことがわかる。
もちろん、多数派は、「社会が崩壊したら困る」と思っているし、だからこそ殺人には厳罰が設けられている。
また、仮に社会的な罰が課されないようなシチュエーションにあったとしても、ほとんどの人は、理由なく他人を殺したりはしないだろう。
本当に「人を殺してはいけない」というには、例えば「神様(仏でも、大宇宙でも、なんでもいい)が『人を殺してはいけない』と定めたから」等、これ以上「なぜ?」と問えない絶対的なものを持ち出すしかないだろう。
(追記)
論理的には、絶対的な何かを持ち出さない限り「人を殺してはいけない」とはいえない(この論理は、「人は●●をしてはいけない」という命題ほとんど全てにあてはまる)が、これを乗り越えるのが社会的な繫がりと共感力と想像力である。
なぜ、ほとんどの人は、別に社会的な罰等なくても、理由無く他人を殺したりしないのか。逆に、なぜ社会的な罰があっても殺人が起こるのか。
答えはそこにあるように思われる。