はてなキーワード: 対置とは
多様性の尊重ということについて異論はないが、子供をその尖兵に使うのは筋が違うと。
大人の理想のために子供にリスクを負わせるのは正しいことではないと。
ところでまた別の角度からの話をすると「みんなと違うことは好ましくないのでは」というような価値観の問題は、純粋に価値観の問題としてのみ取り扱う限りは微動だにしないのである。
どういうことか?
例えば「人間には生まれつき貴賤の別がある」という価値観に対して「人間は生まれながらに平等です」という価値観を対置して説教したりみんなで話し合ったりしても何も変わらない。
しかし外国から新しい文明の文物が流入して全く新しい職業がバンバン生まれると、四の五の言わずとも士農工商なんてどうでもよくなる。
ハード(形あるモノ)がソフト(価値観)を強力に規定するのだ。
子供に「多様性は大事ですよ」と百万回唱えても無意味である。具体的に違う服や違うカバンを与えて初めて伝わりだすものがある。
そこで起きるかもしれない摩擦のリスクはそれこそ大人が責任持って大事に至らないように監視・干渉しなければならない。摩擦を起こさせないことが大人の責任ではない。
世俗って言葉は神聖とかそういう概念に対置されるものだと思ってる。聖書の解釈とか信仰の問題とかそういう宗教的なものに対して、社会問題や日々の労働、娯楽だとかいった実生活の問題を包括する言葉。それこそバッハの曲が宗教楽曲と世俗曲に大別されるみたいに。
でも世俗って言葉を低俗だとか通俗的みたいなニュアンスで使う人が割といる気がする。「低俗」の筆頭たる酒ギャンブルセックス的なものをまとめるような言葉として、「高尚」だったり「生産的」だったり「有意義」なものの反対の概念として。
そんでそこには芸術や学問を高尚とするようなスノビズムだったり、労働を善とする拝金思想だったり共同体主義とかがあって、「世俗的」なものとの間に優劣があるかのようなニュアンスを強めに感じる。
世俗って言葉で括るなら、ストゼロがぶ飲みするのもソープ行くのも大学で研究するのも美術を嗜むのも刺客の勉強するのも全部世俗的じゃねって思う。
もちろん文脈に応じた使い分けみたいなのはあるんだろうけど、その手の使い方をする人って例えば聖俗一致みたいな言葉のニュアンス掴めるんだろうかって思う。
実際おれも、宗教というものをいまいち理解してなかった時はピンと来なかった。
宗教が、居やしない神様をダシに金を毟り取られるバカの盲信ではなく、謎や不条理に対して「正解」を用意してしまって納得を得るためのものであること。自然法則については科学がより蓋然性の高い推測を導くようになって神様の出番は無くなったけど、人間存在の不条理や規範についてそうはいかないみたいな、そういう……
意外とWinnyを認めないブコメあるんだな。Winnyは包丁に例えればよくわかりそうだけど。映画見たいと思った。しかし、ブコメにあるように、今回の邦キチは単なる映画の紹介だな。
「殺しのための人気包丁(WinMX)の凋落に嘆いている人向けに」
「あなたの指紋もDNAも残りません、なんなら認識阻害もしてくれます、あの有名な包丁の後継だから、一文字ずらした名前にしよう」(WinMX ⇒ Mの次でn、Xの次でy、だからWinny)
「あなたの指紋もDNAも残りません、なんなら認識阻害もしてくれます、これで刺身でも作ってください」と
【実際に殺しが行われている人殺しの相談の場で】提供された殺人用の包丁だ
https://internet.watch.impress.co.jp/docs/event/stnf/352462.html
マジでさ
これ「火薬を作ったら兵器にされた」とか「科学に邁進したら原爆作られた」とかそういう話じゃないんだぜ
Winnyと違法アップロードを包丁と殺しに対置してんだから、そうなるんだよ
これについて精々言えるのは、DLを違法化してなかった当時、彼を有罪にするのは無理目だな程度であって
「技術の発展が妨げられた」だの
そういう話じゃねぇだろ
結局、同性婚に対置して近親婚を持ち出して、その見た目の類似性
(実は大して似てないんだけど)について持論を延々披露したがる人達、
特に同性婚推進・賛同派に対して「近親婚はどうなんだ」と絡む連中って
単なるwhataboutismの嫌がらせや幼稚な思考実験のたぐいなので、
そりゃあ同性婚を容認推進する人達からまともに相手にされることはないよね
近親婚が法的に許されていないことで苦しんでいる当事者や
運動しているなら、その困難の実情なり何なりの内容によっては
おれもその人達を支えようと思うかもしれないけど、
現状全くそーじゃねーんだわ
近親婚の問題についてああだこうだ言う人たちは
「こういうことで苦しんでいる当事者がいる」と訴えて
それは好きなだけやればいいんだよ
それをおれは止めないよ
全力でやってみろよ
whataboutism丸出しで延々と同性婚推進者に絡むの
ほんとクソだなと思う
フールプルーフとかフェイルセーフとかいう考え方が浸透し始めてる昨今、人間にはある種の脆弱性が存在しているという前提が認められつつあるように思う。
人間の脆弱性は至るところに転がっている。脆弱性とは何だろう? 簡単に言えば、長期的には利益にはならないことを利益だと錯覚し、実行してしまうのが人間の脆弱性と言ってもいい。ないしは、明らかに不利益であることを利益だと錯覚して実行したり、ないしは不利益をもたらすであろう行動を、そうと理解しながら確信犯(誤用)的に実行したりとか、そういうのが人間の脆弱性なんだろうなと思う。
要は、不利益を自覚的にしろ無自覚的にしろ行ってしまう性質を、この場合には脆弱性と呼んでいいのだと思う。
本テキストにおいて使用する「フェミニズム」の語彙は、あくまで「男女同権主義」を意味している。性の公平視を意味している。「男性中心的社会において、相対的に損なわれている女性の権利の回復および増進志向」を表してはいない。あしからず。
人間には脆弱性がある。自覚的であるにせよないにせよ、不利益を為すという脆弱性である。例えばどんなものだろう。
例えば、恐らくネットで日常的に喧嘩をするのは長期的に不利益を招いている気がする。相手の攻撃性を目の当たりにし続け、自身の攻撃性を発露し続けることは、攻撃性を意識レベルで固定してしまうからだ。これは人間の脆弱性の最たる例である気がする。
話が脱線するが、僕の好きなゲームに「たいようのしっぽ」というゲームがある。その中でこんな詩が登場する。
その日、こんな夢を見た。
常に攻撃を受けていた。
また、攻撃もした。
憎み戦うことがすべてと感じた。
それでも戦い続ける。
全てが敵である。
憎しみがすべてを覆い尽くした。
自分自身さえも強く憎んだ。
いっさいが気に入らない。
すべてを消し去りたい。
深い闇が心を覆う。
もはや感情はなかった。
攻撃性が日常に定着することのいびつさを端的に表した詩であるように思える。常に攻撃性に曝露され続け、あるいは攻撃性を発露し続けることで意識レベルに攻撃性を固着させていく行為はどう考えても長期的に人生をいびつにさせるように思われる。
それでも人間はネットでの喧嘩をやめることができない。彼(女)らはそれが利益的行為であると思っているからだ。恐らくこれは人間の脆弱性の最たる例であると思われる。
他にはどんな脆弱性があるだろう。色々ありすぎてこれという代表例を挙げることができない。
仮に代表的なものを挙げるとすれば、それは人間の「習慣性」である。
人間の習慣性は、つまり処理能力の効率化である。「不必要な情報を捨象し、認識と行動を能率化していく」というのが人間に備わった習慣性である。かつて行ったことのある行動を、もう一度行う際には、「慣れ」が生じている。簡単に言えば不必要な事柄を省略して、必要な事柄のみを行うようになっている。これが、人間の習慣性である。
逆説的なことに、この「能率化(効率化)」を志向する習慣性は、人間に不利益をもたらすことがある。
例えば、ゴミ屋敷に住んでいる人間の例を考えよう。彼(女)は、自身の行動を効率化し能率化し――習慣化することによって忌まわしい状態に至ったのである。
つまり、ゴミを捨てるという作業のコストをできるだけ減らしても、畢竟、自分は生命を維持することが可能であることに彼(女)は気付いてしまったのである。「ゴミ捨てなんて無駄な行動……完全に無駄であるとは言えないにせよ、生きていく上で絶対に必要とは言えない行動……。こういう行動は、必ずしも必要じゃないから省略しよう。その方が効率的だ」といった具合である。
人は各々の論理や立場によって、様々な事柄を省略し、各々の志向性において習慣化していく。あるいは効率化していく。全ては各々の利益のために行われているはずなのに、結果としてそれが不利益をもたらすことはままある。要するに、人間の「利益」に対する意識は概ね長期的な利益に繋がっていないのである。人間の習慣性という、生存に関してコアな(バイタルな)性質においてさえ、そのようなエラーはしばしば起こっている。人間の根本的な行動規範システムでさえ、時にエラーの温床となるのである。
「人間の理性と人間の行動規範システムのどちらが優れているか?」などという質問を立てても恐らくは無意味だ。その質問に解はない。「人間の行動規範システムである習慣性においてしばしばエラーが生じるにせよ、人間の理性はそんなものとは関係なく利益を産出し続ける」などとは決して言えないからである。人間の理性と、人間の行動規範システムである習慣性――いわば本能――という二者を対置させ、その優劣を量ったとしても、その二者のいずれもエラーを生む温床(脆弱性)になり得るからである。それは歴史と我々の習慣が証明している。
要は、人間の行動規範システムや理性に「エラー性」を認め、常にそのエラー性への恐怖を持たなければならない、と言いたいだけなのだが、これを空虚な逆説とみなす人間もいると思う。そのような人々が正しいのか、それとも、ここで書かれたことが正しいのか、どちらなのかは、よく分からない。
マジレスすると弱者男性というのは「女性は弱者だから救われるべきだ」論へのカウンターとして「男性にも弱者はいる」と対置したものにすぎないので具体性の欠けたキーワードなんだよな。
そこでは弱者男性の保護や支援が真剣に求められているわけでもなく「フェミニストは女性しか見ていないからダメだ」と言うためのアイテムとして利用されているにすぎない。
一方で非モテというのは「男女関係で承認欲求を得られない人」なども含む広範な概念なので、たとえ結婚していても自分に自信を持てなければ非モテなのだと見なされることがある。
これは弱者男性とは逆に「俺は非モテだ」という自意識から生まれたキーワードなので、自分が非モテだと思っていれば非モテ、症状は人それぞれ、みたいなことになりがち。
ちなみに非モテや弱者男性というのは2000年代からはてな界隈を中心として議論が繰り広げられてきたテーマなので、増田でよく使われる、あるいは増田でしか見かけないのも当然なんだね。
シェンムー(3)、スペースチャンネル(VR)はセガOBが開発に関わっているが、ほかにも海外のデベロッパーが手掛けたベア・ナックル(IV)やハウスオブザデッド(リメイク)、最終的にポシャったがフリューから発売される予定だったルーマニア#203の精神的続編と謳われたタイトルもあった。
パンツァードラグーンのリメイク、VRもこの流れに位置づけることができる。
過去IPの再活用をプレゼンする2021年のセガの資料では、「現役IP」と対置させた「過去IP群(休眠含)」の中にスペチャン、パンツァードラグーン、ハウスオブザデッド、ベア・ナックルが並んでいる。セガとしては他社に貸し出しただけでは現役ではないよ(=これから自社で復活させるかもよ)と言ってるようにも読み取れる
小選挙区で第一党議席総取りになるのが実際の選挙結果の議席差になっている。
政党の変質では、
自民党と民主党の保守二大政党論や保守リベラル二大政党論から、
民主党の分裂・変質を経て立憲民主党が革新になり保守革新1と2分の1志向になってることがある。
保守・反リベラル・改革が勝って、革新・リベラル・非改革が負けた。
比例得票数で有権者に望まれている保守・リベラル・改革の政権誕生は遠い。
単位は万票
2009衆 2021衆
3997 2148
2692 2702
みんな 維新
300 805
6089 3767
共社 立共れ社
794 1889
保守勢力が勝っているものの大きく減り、革新勢力が伸びている。
4885 2859
反リベラル
自国系 自維
2099 2796
民み 自維国N
3284 3135
非改革
自共社系 立共れ社
2893 1889
公 公
805 711
岸田が非改革に見えるが、世代交代で非改革から改革に変容した自民は党として改革に分類。
これはいつもの国語増田じゃないかと思うが、内容が稚拙すぎる。ブリンカーを付けて歩いているのか?
https://anond.hatelabo.jp/20211106182157
国語と収入、所得の違いの指摘だけなら兎も角、倫理と対比して実習制度の奴隷使用を現実主義で擁護しやがった。
この「倫理を詰る者に対してその話者の立ち位置の倫理性を問う」というのは原発反対論者に電力の使用を詰るというのが有名だが、ブクマではフォーマットが同じなので安心して賛同する者が出ている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20211106182157
はい、言葉いじりだけで実習制度の奴隷使用は是認されるべきものになりました。
学校というサンドボックスで国語の問題を解くのは得意だが学校ではない社会の事象に対してもそのサンドボックスから出ないで得意げにあーだこーだ言うのが国語増田の特徴だったが、やっぱこの増田もそれなんじゃないのか?
そもそもほぼ全ての農家が土地を持っているというのは米軍が倫理的観点で強行した為というのを忘れている。
戦前まで土地を持たない小作農が沢山居り、これが農村部の貧困の原因になっていた。大日本帝国の満州開拓への固執の動機には国内の水呑み百姓問題があった。
これを理解していた米軍は耕作地の所有権を小作に移転させ、その他農村の近代化も進めた。
これには世界恐慌時米国内での困窮農村救済プロジェクトがあった事も関係しているのな。教科書で習うのは農業調整法だが、それ以外にFSA(農業安定局)プロジェクトなどがある。
そういうプロジェクトに従事していた人らが戦後に徴兵されたりして技官や武官として日本に来てこういう政策を行った。
米国の農業資本は中南米ではプランテーションを行っていたし、未だに行っている。
でも占領時もそういう資本は入って来なかったし、日本の農民もプランテーション下で経済的に支配された身分にならなかった。
米国の化学肥料メーカーにも蹂躙されず、国内の爆薬製造者が肥料メーカーに転身しただけだった。
増田の立場では日本の貧農は外国資本や農主の下で働くことになるのは現実主義的に当然なんじゃないのか?
だが実際は倫理的に改革されて戦後の農業の形が出来ていたんだよな。その土壌で奴隷経営するのが出てきて言葉遊びでそれをごまかしているのだから批判する声が出るのが当然だ。
GHQは税制の改革も進め、その一つの大きな柱が「個人事業への企業経理の導入」なのな。青色申告とか複式簿記のあれだ。
法人税でも青色申告でも複式でつけた帳簿は税申告時には税務署に見せない。PLだけ提出して帳簿と領収書などは保管義務があるだけだ。だが税務調査が来たらすぐに見せなきゃならない。
これは国税当局と経営者が互いに信頼するという前提に立っている。公文書改竄と国会虚偽答弁した事で国税庁長官に昇進した佐川宣寿が結局すぐに辞職したのはこの為だ。善意と信頼に基づく税制なんて運用できないからな。
この米国企業式の経理と税制を個人事業の基礎に据えた為に農家も個人商店も複式簿記出来るし給与生活者があまり意識しない収入と所得を当然に分別出来るのだ。
それなのに倫理と現実主義を対置して倫理をdisってみせるというのはどういう事だろうか?
今は入管法が厳しくなりあまり居ないが、2004年くらいまではオーバーステイの外国人っていうのは沢山居た。それでビザの条件にも違反して労働している者も多く居た。水商売とか町工場とか偽装請負とか。後者では賃金を買い叩かれて働いていた。オーバーステイなんて大したことじゃなかったのよ。
だが年々入管法は改正され、当局の締め付けも厳しくなってきた。すると手入れを恐れて雇用するのが難しくなる。
そうなると工場の社長や水商売のオーナーはボヤく。曰く「商売あがったりだー」「仕事減らすしかねぇ」当たり前だ。
でもしょうがないので商売替えするか諦めて社員を雇うしかない。私は当時水商売に近い所に居たからボヤキを散々聞いた。「いいアイデア無い?」とも聞かれた。
偽装請負の中にはオーバーステイ専門の派遣で、社長自身が外人、要するにただのブローカーが法人格持ってるのも居た。
当然困ったろうが知ったこっちゃない。商売畳めとしか言えないし、そうなった。
元増田はこれらの人は擁護すべき立場なのだろうから、どうか入管の矢面に立って外国人キャバクラのオーナーとかブローカーとかを擁護してやって欲しい。
実習制度は昔からあるが、それが人権問題で国際問題化してきたのはこの10年程度の事だ。
どうしてそうなったかは上の説明読めば判るだろう。オーバーステイ摘発が増加した為にこの制度の悪用が代替手段として一般化したのだ。
そして昔は現地のブローカーが暗躍してた人身ビジネスに国家がハク付けをしてしまった形になる。
更にその悪用にオーバーステイ外国人雇用にあまり関与してなかった業界が参入する事にもなった。その一つが農家。
だから「100円のほうれん草食いながら」云々というのは、甘い味を覚える前の経営に戻るしかないというだけの事。
ずっと実直にやってた頃に戻ればいいんだよ。
国語の問題を間違えている人を発見して有頂天になっても、それは学校的な発想でしかない。
「学校」のサンドボックスから出て「現実的」な事を書いてみようとしても、倫理で詰る人のメタ倫理性を論うテンプレでしかないというのはホームルームで先生をやり込める「目覚めた」生徒のそれだ。
学校的空間ではそういう自己否定@山岳ベースを聞いてくれる先生がいるが現実はそうではない。原発も条件が揃えば爆発するし人権問題が後に国際問題として延々解決しない事にもなる。更に人の人生を破壊する。