はてなキーワード: 大音量とは
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夏になると思い出す。
多分この頃の私はまだ頑張って学校に行こうと必死になっていて、起きた時の良くわからない感覚を引きずったまま制服を着ていたと思う。
授業の内容も友達との会話も何一つ覚えていないけど、その感覚だけ異常に頭にこびりついていて、寝たのに寝ていないような、夜明かしして正常に働かない時の頭でずっと生きていたから、自分が自分じゃないような、いつでも陣がどこにいるのか何をしているのか何を話しているのかわからなかった。
夏服を着て身軽になったけど学校の前の横断歩道、あそこに立っていると木の葉の影のはずなのにじめじめと暑くて、ベストを着るのはやめればよかったと毎日思っていた気がする。
入学して3か月ほど、学校に行けることが普通になっていて、私もようやくまともになれたと思っていた。勉強も人間関係も何も困っていなかった。行きたくないとも思わなかったのに、夏休みが明けた日から私はまた家を出られなくなった。
今となればあの時の私が何を考えて生きていたのか知りたくなるほどに記憶がなくて、ただ死んだように生きていたことだけがわかる。
すべてが憎しみの対象で、理解を示してくる人間の浅さとわかっていることばかり教えを説いてくる人間の多さに常に気が経っていると同時に、悪意のないそれを素直に受け入れることの出来ない自分にも絶望していた。
終わりが見えず、気づけば朝、お母さんが先生と話す電話の声から逃げるように眠って、気持ちばかりの明日の準備を起き抜けの夜にしていたけど、結局は行きたいのに行けないというポーズのための安易な行動でしかなくて、本当は何の気休めにもならず、制服はほとんど新品のようにきれいなことが私を責めるための存在に見えて、わざとしわをつけたり、リボンのパッチン留めを壊したりと、ささやかな犯行で自我を保つことが精一杯の日々を、結論2年半送ったが、今の私はその時の私と変わった気がしなくて、なぜかというと厳密にいえば多少はましになったけれども、時折あの頃の私が顔を出して、お前の本質はこちらだと言い聞かせてくるので、そのたび私は引っ張られて、こんな文を書きなぐる羽目になるのだから救えない。
恋も友情も私にとっては取るに足らないことで、別にそれ自体に何かを左右されたりはしない。ただもっと奥深くの人間としての在り方が根本的に違うことを感じるたびに、絶望するあの瞬間をこれまで何度も繰り返してきて、人と関わることそれはすなわち私にとって絶望だと思わされて、そうなると私は他者の存在がすべて私を苦しめるためだけのものに思うから、となると誰の言葉も、声も、姿も、感情も、どれにも触れたくなくて、行きつくところは持って生まれた破壊衝動に従うしかなくなってしまう。
けれどもそんな自分をこんな言葉で表現できる時点で私も結局その程度の人間でしかなくて、要するに私はずっと自分という人間のくだらなさ、つまらなさに振り回されているだけの生き物で、私以上に面白みのない人間も存在しないだろうと思いいたるのが常である。
苦しまないと何も生み出せない私のような凡人は、自分から傷付きにいかなければ何一つとして形に残すことも出来ず、その割に心を削って書く、描くことは自分を空っぽにすることと同義であるから、私は何も埋まらない、満たされないまま生きていくだけだとわかりきっていて、底の見えた入れ物に価値はないのに、私自身が一番そうだなんて、どれだけ皮肉は私を好くのだろうかと思う。
私以外の誰かと共有した歌を、絵を、作品を、私に語るな。
私だけで完結する世界を求める無謀さ、無知さ、その点に関してだけは私はいつも人一倍底が知れない。
醜くても、目も当てられなくても、恥でも、形にすれば芸術になることが唯一救いだった。自分に酔っていると言われても、肯定出来た。自分を表す、曝け出すなんて正気では出来ないから、それなら私は自分に酔っているだけの馬鹿者でよかった。
だから私は早く私を完成させたくて、こんな言葉ではなく、もっと頭以外に響くものを作りたくて生きてきたのに、私という人間は生きれば生きるほどつまらなくなっていて、思春期特有のモラトリアムというような、あの頃が私の人生の、まさしく春だったのだと気付いて、それはまた青春なんて輝かしいものではなくとも、私もそんな時期を過ごしていたのだと、呪いだらけの日々が少しだけいとおしく思える一瞬が、時たま訪れたりする。
学校までの各駅電車、3駅分も乗っていられなくて、泣きながら電車を降りる惨めさ、どうしても「普通」をこなせない焦り、しかし同時にそれがアイデンティティとなっていく歪み、どこにも当てはまらないのに形だけ集めたパズルのピースの群れ。
あの時の私も今の私も、ただ気持ちが追い付かず、心だけがずっと学校の教室の一番後ろに取り残されたまま、大音量で流したロックのギターの音や、行き場のなかった寂しさだけがいまだに私を縛り付けている。
誰かに理解されたら、私は私の苦しみの価値がなくなると信じて生きてきたから、一人でいい。孤独こそが私の救済だと思っていたのに、今私は人を理解しようとももがいたり、人と向き合うことを選んでいて、それは私の今までの生き方や人生を否定することになるのではないのかと思う気持ちより、人と触れ合うことのうれしさ、喜び、たとえ傷付いてもそれさえも大切なことだと認識し始めていて、
悔しい。プライドの高さも、見合わない才能も、すべてが。それだけだった。
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7/2
いつも最後に行きつくのは悔しいという感情一つなのに、それに気づくまで時間がかかりすぎるのはいつだって自分の分析に夢中で主観的なその時抱いた気持ちを無視してしまうから、自分を理解しようとするあまり、結果的にいつも遠いところに答えを探そうとしてしまう。
他人のことで悩めるうちはまだ余裕があるけれども、自分の持っている内面的な孤独や自他との境界線の曖昧さ、他者に対する意識について考え始めると、私は家族、友達、恋人すべての関わりを持つ人たちを無視して全くの一人になりたくなる。
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7/3
器用だねと言われることもあれば、不器用だねと言われることもある。
冷静だねと言われることもあれば、落ち着きがないと言われることもある。
堂々としていると言われることもあれば、おどおどしていると言われることもある。
行く先々や関りの人々の中で、自分の印象や性格がことごとく極端に言い表されることの多さに私は悩んでいて、これはつまり、どちらにも属していると同時にどちらにも属していないと言うことが出来、また人と関わるうえで、その人に都合のいい人間を演じているから、こうして私という人間のイメージが極端になるのだと思うと、それは私のいじめを受けた過去が大きく影響していると思われて、私は今でもまだあの時期に取り残されているようで、そのたび、本当に心に影が落ちる感覚を味わう。
私の存在の一貫性のなさ、本質、どこにでもありそうでどこにもなく、見つけようとすればするほど何かを演じてしまい、結局のところ私はそういう生き方しか出来ない、芯もなく、他者という存在を常に意識しながら、囚われもがくことを背負って生まれてきたような、そんな果てのない人格を求めるだけの生き物に思われて仕方がなく、苦しみ、最後に自分を傷付けるのは誰でもなく私自身だと気が付き腹が立ち、また同時にむなしさ、やるせなさ、悲しみが襲ってくる。
誰にでも優しいようで優しくない自分がまとわりついてくる。
救急車のサイレンに、道のホームレスに、汚れたペットボトルに、路地裏の殴り書きに、胸を痛められない人間がなぜ博愛主義を気取って生きられるのか。
シャットアウトすることを覚えなければ生きていけないと、その夜の苦しみや怨念を線引きして根拠のない基準で優劣をつけて身を守るそのずるさ、汚さ、私には何一つ許せない。
私はすべての苦しみに、怨念に敏感でありたく、また鈍っていく感受性をそのたび研いで、心の中に隠し持ち、いつか尖らせてナイフのようになったそれで誰かを刺したい。
意味のないことに、意味を見出そうともがく人生は嫌いではなく、すれ違った学生、隣の席のサラリーマン、もう二度と会うことのない人間たちの生活に思いを馳せて、そこに私という人間が溶け込み交わって生きることの出来る隙間を探して、その繰り返しで私は明日も生きていく。
あの頃のビレバンは、地方都市の少年たるワシにサブカルなるものを届けてくれる、大変ありがたい場所だったんじゃ。放課後、仲間たちと連れ立ってビレバンに行けば、煙たい(煙たくない)店内には、これまた怪しげな音楽が大音量で(そんなに大きくない)かかっていて、「お前らの知らない世界を教えてやるぜ」というランプの精が見えるようじゃった…。
そこで聴いた小島麻由美の音楽は、女性の危うさや若さゆえの爛れた人間関係を垣間見せてくれたし、初期perfumeの曲は、まだ足を踏み入れることができないクラブの情景を感じさせてくれたものじゃ。お金がないから、CDを買わずにオノ・ヨーコのグレープフルーツジュースみたいな手頃な値段の本を買ってお茶を濁しておったが。
LOMOとかHOLGAみたいなトイカメラが並んだガラスケースがあって、それを羨ましそうに眺めておった。あの頃の記憶が、後にカメラ趣味のキッカケになったのかもしれないのぉ…。
これとかもそうだが未だに日教組による教育被害が云々という言説がまだ見られるんだが。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/sivaprod/status/1536206227939950592
この際ちょっとその言説の経緯をまとめておくよ。
この言説のキーマンは小林よしのりなんだがそこに至るまでを説明しないといけない。
日教組が昭和22年に結成されて昭和30年代には組織率8割以上を誇って…というのはWikiとかで勉強してくれ。
右翼による日教組批判が特に熾烈を極めるようになったのは1980年代の後半からなのである。
街宣車で大音量で日教組!日教組!と怒鳴っているので一般の人の日教組の知名度はこの辺りで上がった。そもそもノンポリの人は学校の先生の組合なんて知らんもんである。但し右翼の一般受けは悪かったので日教組の評価は下がらなかった。
また日教組が集会を開くと周囲に街宣車が多数集結して大音量で軍歌を流し音圧を競うようになった。
すると近所の会社は仕事が全くできない。電話どころか窓を閉めても耳を塞がないといけないような状態だ。
でも日教組の知名度が低く、どこで集会をやってるかも判らないので右翼の評判が下がるだけだった。
こういう極端な抗議行動が流行した背景には当時の政治的社会的状況があった。
その一つは「デタント」で、もう一つは「任侠右翼の増加」である。
右翼が何と戦っていたかというと、その最大の敵はソ連だった。これは街宣右翼だけじゃなくて神道系の右翼も統一教会も皆同じだ。
だが1985年にゴルバチョフが書記長に就任するとどうにもならないほど疲弊したソ連の改革政策、ペレストロイカを推し進める。最初は大した変化はなかったが、チェルノブイリ原発事故以後は情報公開も進め、世界を巻き込みながら怒涛のように変化していく。
それによって西側ではゴルバチョフの歓迎ムードが高まり、要するに憎むべき敵性国家で無くなっていったのである。
更にソ連共産党は活動を停止し、遂にはソ連が無くなってしまった。
これは右翼陣営勝利のはずだが、困ったのは攻撃する敵を喪失してしまった事で、自分らのアイデンティティの根幹の喪失でもあった。鈴木邦男はソ連崩壊時に「これは僕らの問題だ」と語っている。アイデンティティ喪失に苦しむのか、敵の乗り換えをしてアイデンティティを保持するかという含みがある。結局鈴木は敵の乗り換えには乗らなかった。
また、街宣車での街宣はやりすぎて体制側に対策が出来てしまった。
まず憲法違反の疑いもある静穏保持法が施行されてしまったので外国公館などの特定箇所で大音量を出すと逮捕される。
またソ連大使館前の道路は街宣車が近づくと全交通遮断される。言っておくがソ連大使館前の道は外苑東通りという都バスも走る幹線道路である。当時は街宣車のせいで道路が遮断されたりそれで周囲が交通マヒしたり運行経路が決まっているバスが20分以上立往生なんて事はザラだった。
こんな風に最大の敵であるソ連がやたら腰が低く物分かりが良くなった上にソ連大使館に街宣掛ける事も出来ない。
という事でこの時期に日教組の悪質性が増加したのではなく、ソ連の変化とデタントの為に日教組批判が熾烈となったのである。
まずそもそも右翼だが、元はヤクザとの明確な区切りは無かった。これは土建屋、鳶や水商売やテキ屋も同じだった。
戦後の右翼は、例えば児玉誉士夫など体制と癒着しそれは米国に従順という事でもあった。
1960年代末に左翼の学生運動が盛んになるとこれに対する体育会と右翼学生が組織されていった。新右翼と呼ばれる。
新右翼の特徴は反ソ反共ながらも反体制、反米である事だった。これは当時の世相や全共闘運動に影響を受けている。
ここを境に右翼系の政治結社が誕生して行く。そしてそれらは「街宣車で軍歌を流し辻説法をする」というスタイルを確立していく。
この街宣車は最初は旧軍や自衛隊の国防色(カーキと灰色:バトルシップグレイ)だったのが後述の事情で威圧感の強い黒塗りになっていく。
よく「街宣右翼」とネットの一部で言われるが、1980年頃から右翼政治結社は街宣車スタイルをみな踏襲しており、それ以外はないような状態だった。ヤクザっぽいがはじめの方の新右翼にはヤクザとの殊更の関係はない。
因みに日本会議の中央の人士らはこういう街宣ではなく、就職しないで大学に残り学生運動を続けた人たちである。
80年代になると校内暴力で学校が荒れ、ツッパリ型不良が大増殖して暴走族も大増殖した。また暴走族の右翼感染が進んだ。特攻服や旭日旗が暴走族の印となったのもこの頃だ。不良or大人への反抗=右翼ファッションだったのである。
こうして右翼≒不良≒ヤクザが緊密化したところで任侠右翼の街宣参入が増えたのだが、もっと大きい商機的な問題があった。
思想右翼の主な資金源というのは機関紙の販売である。これは志を同じくする人からの購買もある。
が、もう一つのパターンは不正や思想的に看過できない行いをした法人へ抗議街宣をして、その手打ちとして機関紙の購買を取り付けるという方法がある。
ヤクザが参入する主目的は後者の方で、民事介入暴力の支払い手段として機関紙購買を取り付ける為に政治結社を立ち上げるのである。民事介入暴力というのは殴ったり蹴ったりじゃなくて、企業の商業活動に暴力団が威圧をもって参入する事だ。
企業恐喝に街宣車を利用するのだ。国防色より威圧感がより強い黒塗りが主流になっていったのはこの為だ。
暴力的手段を行使されないようにみかじめ料として機関紙を購読する会社も多く、大変な出費になっていた。
因みに総会屋も同じことを70年代にやっており、機関紙/誌の執筆者編集者需要が高まり、学生運動で就職が困難になった学生運動家が多数その仕事に就いた。総会屋の多くは内容には口を出さなかったので社会の不正を糾弾する記事を書きまくり、総合誌ブームが起きたが、80年代初頭の商法改正で総会屋が潰されると大方廃刊。
だが技能を身に付けた者は大手メディアでフリーランスとして雇用された。リベラル/左翼ライターには総会屋の手先出身が結構居たのである。
こういう訳で街宣右翼業界は膨れ上がり、日教組の集会や8月9日の反ソデーには黒塗りのハイデッキバスが大挙して集合し爆音で軍歌を流すようになった。それまでのライトバンやタウンエースにスピーカーつけてる貧乏右翼とは大違いだ。
ハイデッキ観光型バスというのは6000万円以上する。それの座席を取っ払ってラウンジ型にしてシャンデリアやカラオケ、自動車電話、冷蔵庫とバーカウンターをつけて車検を通したら1億を超える。それに自民党や共産党のようなプロの街宣用スピーカー、アンプを搭載して、北方領土の日にはフェリーと陸路で釧路とかの空港に回送しておくのだ。組員は飛行機で向かってバスに乗り納沙布岬に向かって「露助この野郎」とかやって帰るんである。
しかも一社あたり3台とか6台とか持ってるのだ。沢山来すぎて根室は渋滞になるほどだ。当時の任侠右翼の羽振りの良さが判るだろう。
ハリウッド映画でもジャパニーズヤクザが描写されていた頃で、特に企業活動への威圧的介入は警察に問題視されていた。
そこで暴対法が施行される事になる。これは大抵の暴力団を社会的に殺す大変大きな力がある法律だった。
伊丹十三のミンボーの女には暴力団が右翼の街宣車で企業恐喝に来るシーンがある。この映画は暴対法施行直後に公開されたので同法施行で先を案じているヤクザを大いに怒らせる事になって伊丹はヤクザに襲撃されて重傷を負ってしまった。
余談だが、この時伊丹を襲撃した組は後にJR東本社前の土地を巡って殺人事件を起こした。JR東本社は道路に面しておらず、また同社は本社付近の建物を次々に押えているのだが、購入すれば都道と面して建築基準が大幅緩和されるその土地に手を付けなかった。それほどヤバい土地だったのだな。
ちょっと長くなったが、「えせ右翼は在日朝鮮人が右翼の評判を下げる為になりすましてる」とか噴飯物の事をいう人が多く居る界隈なので一応説明した。
えせ右翼とは一般には上記のように民事介入目的でヤクザが運営して構成員も被る政治結社の事だ。もっと硬い警察用語では「右翼標榜暴力団」という。
こうして
となってソ連に勝利したはずなのに右翼/保守業界というのは停滞してシュリンクしてしまう事になる。
そして当業界では超直的なそれに代わって冷戦後政治リアリズムを中心に多様性がある論説が流行するようになった。産経新聞のコラム「斜断機」が柔軟で面白くて単行本化されてしまうような時代だ。因みに吉本隆明の門下生が多く書いていた。
そんな中で反共反ソイデオロギー一本の人らには居場所が無い。ソ連無き後に残った残存敵性勢力の日教組をひたすら叩きながら閉じた業界で腐っていたのである。
当時は欧州もみな社民政権でリベラル人気で冷戦後の世界情勢にも楽観的だった時代だった。
公式が掲示板みたいなの作ってユーザーの意見を募集し、ユーザー同士で議論させる
でも、そういう場があるとだいたい「あの装備が強すぎる」だの「このクラスが弱すぎる」だのみたいな話ばっかりで
そうなると「俺を強化しろ」「あいつを弱体しろ」と調整を巡ってバトルが始まり、もはやゲームそのものよりもそっちが中心みたいになってしまう
ああいうのすげー嫌なんだよな
「うまいことゴネて飴をゲットし、ライバルの足を引っ張った奴が勝つ」というのは身もフタもないこの世の現実なんだろうけど
それがこうやって可視化されると、正直とても見苦しいものがある
もちろん、ユーザーの要望全く聞いてくれないのもそれはそれで困るが
「民の声」とか結局大半がエゴやポジショントークで、およそロクなものじゃないんだから、他の民の声なんかいちいち大音量で聞きたくねえわ
久しぶりに変な客がご来店。その人はスマホか何かで物凄い大音量でアニメを観ながら長時間店内をぶらぶらしていた。
わざわざ「スマホか何か」と書いたのは、スマホの音量にしてはだいぶデカい音をたてていたからだ。コンビニは案外騒音に充たされている。各種冷蔵庫やカフェマシン等の什器や空調の稼働音、有線放送、レジ袋を開く音、外からの車の走行音等々で、コンビニの中は常時とてもうるさい。そんな環境の中で一際うるさく耳が痛くなるほどの何かアニメの音とは。スマホで鳴らしているにはデカイ……もしかするとNintendo Switchのボリュームを最大にしてアニメを流していたのかな? という気もする。
店内に長いことずーっと、あらゆる騒音をかき消すような大音量で流れ続けるセミの声。シャァシャァ鳴くのって何蝉だったっけ? そしてセミの声をバックにやたらがなりたてるCV.小山力也……小山力也か? 小山力也だよなあたぶん……ちょっと自信ないけど、小山力也だと思う……おそらく。一体何のアニメなのだろうか。名探偵コナン? しかしセミの声のBGMがやたら長々と続くのは一体。こんな場面の切り替わらないアニメってあるだろうか?
一体何なのと思いつつも、人迷惑を考えもせずに信じらんない事をやってのける人間がまともであるはずもないし、丁度客の入りも疎らな時間だったので、知らないふりをした。
時々セミの声と小山力也? のがなり声がぴたりと止み、止んだと思ったらまた再開される。もしかするとずっと同じシーンをリピートしているのかもしれない。どうやら、その人の脇を男性客が通り過ぎる時にだけ、スマホかSwitchか何かをOFFにしているようだが、そんな時に限ってレジからは見えない位置にその人はいる。
数人立て続けに会計に来て、対応している間にセミと小山力也の人はレトルト食品の棚の前に来ていた。そこはレジにいる私からよく見える場所だ。騒音の源の人は保育士かデイサービスで働く介護士のようなエプロンを着ている若者だった。一見ごくごく普通にみえる。それが、爆音のセミと小山力也を流しながらこっちを見て爽やかな微笑を浮かべる。別にガッツリ目が合った訳でもないコンビニ店員に用もないのに微笑んで来るという人など普通はいない。何がしたいのかわからない。
いつの間にかその客はいなくなっていた。私が他のお客様の会計をしている間に、オーナーのレジに行ったのかもしれないが、よく覚えていない。
当方弱者男性。先日、野暮用で柄にもなく若者の街である渋谷を訪れた。
仕事は想定より早く終わったので、そこはかとない居心地の悪さから一刻も早く退避するために、さっさと駅に急ぐ。
安物の中華製bluetoothイヤホンを耳にぶっ刺して、雑踏をシャットアウトする為のエクストリーム・メタルを大音量で流す。
タイミング良く到着した電車にサッと乗り込む。目の前にあった片手で数え切れる程度の数の空席のうちの一つを選んで座る。
仕事の疲れもあり、乗り込んだ直後には気付かなかったのだが、数分も経たないうちにある違和感を覚えた。
「あれ?この車両、女性しか居なくない!?」「やべっ!女性専用車両か・・・?」内心、めちゃくちゃ焦った。
やかましいメタルが殆ど聞こえなくなるぐらいまで、イヤホンの音量を一気に下げて、落ち着く為に軽く深呼吸をする。
顔をむんずと上げて、眼球をグリグリ左右に動かして、車窓や壁にその手のステッカーが貼ってないか必死で探すが、まったく見当たらない。
両隣の女性も、向かいの女性も、自分の存在を別段気に留める様子もないが、念の為に「〇〇線 女性専用車両」と手元のスマホでググる。
「〇〇線の女性専用車両は、平日の7時〜9時半に運行中です。」現在、休日の夕方。うーわ良かった、やっぱ単なる偶然か・・・
「おい、ビビらせんなよ・・・」と、マスクの中でため息を吐きながら、周りをよく注意しながら見回すと、斜め向かいに韓国系の黒髪マッシュ?男子
(最初に一瞥した時点ではショートの女性に見えた)が座っており、更にその向こうの出入り口付近には茶髪のイケてる感じのおっさんがこちらに半分背を向けて立っていた。
要は、焦った俺が自分以外の男の乗客を見落としていただけだったのだが、それを差し引いても、自分含めた男3人以外の乗客は老いも若きも全て女性だった。
こんなことあるんやな。東京暮らしはそこそこ長いが、こんな経験は初めてだった。路線や時間帯によってはあるあるだったりするんだろうか。
とりあえず一安心すると同時に「東京にはこんなにも多くの女性が居るのに、誰一人として俺の話し相手すらしてくれんなぁ・・・」
という、我ながらメチャクチャ気持ち悪いグロテスクな思考が、仕事終わりで疲れた俺の頭の中にモクモクと充満し始めた。こらマズい。
「ま、仕事終わりの電車でこんなキモい事ウジウジ考えてる奴、そらモテるわけないわな。」と、他人事のように無理矢理自分自身を突き放した。
今回の争点は「間違って振り込まれたことを知りながら使用した」という点です。
これを回避するにはどうすればよかったのでしょうか?
答えはシンプルです。
つまり、口座に直接お金を投げ込むタイプかつ配当金が凄い高いけどまず当たらないクジを書い続けるのです。
そうすれば突然4600万円が振り込まれたのを「クジに当たったと思って使った。他に心当たりがなかった」と言い切れました。
大音量で音楽を常に聞いていればドア越しに大声で説明をされても回避できます。
また玄関前に知らない人間がいたら出ないようにする理由を作るといいでしょう。
手っ取り早いのは何らかのカルト教団に一瞬だけ所属することです。
そこで住所氏名を伝えてから、怖くなったので抜けますと抜ければ抜けカルトの完成です。
一度カルト教団に入ってしまったので連れ戻されると思ったのでどんな相手が来ても居留守をするようにしたと説明をすれば説明を聞き逃し続けることが可能でしょう。