はてなキーワード: 大量生産とは
均質な労働力の大量生産と出荷が日本の高度経済成長を支えた根幹だ。
当人の望みとは無関係に、大学という労働力生産ラインの最終工程までの進学を社会が実質的に強要し、生産ラインから外れた者は爪弾きにし、新卒一括採用という製品出荷を迎える。
ここまでの仕組みを構築しているのに大学卒業という最終検品が雑なのは笑える。
時代が変わり、その生産ラインが生み出す製品の価値がかつてほどの価値を持たなくなっても、過去の成功体験を忘れられず、同時に変化を恐れ、過去と決別する判断を下す責任を恐れ、ガタの来ている古ぼけた生産ラインに固執している。
この日本という美しい国(笑)がそうやって過去の栄光に縋って停滞している間に世界は先に進み続けていた。
その部品工場も、他国から下賜された技術と金ではしゃいでいる。
なんというか、この国は有能な労働者を生み出す仕組みは作れても、有能な指導者を生み出す仕組みは作れなかったんだなぁ。
これから作れるようになるのかな?
そのくせいざ休日に出てきてると「ワークライフバランスがー」「俺が怒られるー」とか言うんだぜ?
あと俺が嫌いなのが毎月2回の持ち物検査な。
内部の人間が前WINNY使って書類垂れ流したのと、家に仕事持ち帰ってフリーWi-Fiで垂れ流したことのダブルパンチで月2回。
マジクソ。
何が酷いって、いざカバンから書類やUSBが見つかっても「あっ、出張で必要なんで~~^^」といえばセーフになること。
は?
じゃあ何を見てるんだよ。
小さな無駄だけどこういう無駄をひたすら積み上げ続けるのが大好きなんだわ。
馬鹿だよ本当。
書類の文章が同じ意味なら完璧に毎回揃えなきゃいけないとか平気で言うしね。
お前さぁ……それやるのにどれだけコストがかかるねん。
んでどうしてもそうしなきゃいけない理由が「文章の正しさを私達では判断できないので、前例と全く一緒じゃないと困るんです」だよ。
お前さぁ……存在意義ないじゃん……つーきあ前例踏襲で脳死で仕事やってるから何の意味もわからないまま既存の文章コピペでレゴブロックされてるかだけ見てメクラ印です宣言マジアホやろ……。
つうかこの前例踏襲主義宣言ね……会計監査院の前でマジで同じこと言ったからね。
「この契約内容は正しいんですか?」
「使われている文章が一字一句過去と同じものなので、正しいと思います。間違っているなら過去の契約も間違っているはずですが、それならそれをセーフと判断したあなた達の目も節穴だったことになりますよね?😠」
マジやべーから。
論理じゃなくて前例だけで仕事してるからこーいうバグった奴らが大量生産される。
あまりにアホやろ?
何の意味もない奴ら多すぎる。
「命令はするけど責任は取りたくないから証拠は残さないままであなた達が自己責任で突っ走ってください」
みたいなの平気で飛び交うからな。
「は?お前のところのボスはそれでいいと?」
「ボスにこんな話できるわけ無いでしょ😠問題が大きくなったらちゃんと動く必要が出来てお互いに苦労するんだぞ😠」
みたいなことをさ、とっくにクソデカくなった問題に対して言うから。
そもそも最初にそれを「ここに大きな問題がありますよ~~誰かなんとかしなきゃ駄目だよな~~~」ってばら撒いたのソイツらだったりするしな。
本当マジでクソ。
厳しくするためにガチガチでやるのは公務員の仕事としては正規分の正規だなあと思うよ。
でもまさかの「俺は楽したいからナアナアでやるけど、お前らは厳しい道を歩いてよ。その過程で色々法や人の道も踏み外すけど、俺たちは責任取らないから」だぜ?
は?
それを口にできるような奴らと同じ職場で働いていることに絶望しかねえよ。
そりゃね……銃持ってるような官僚組織じゃフルメタル・ジャケットみたいなことも起きますよ。
マジでもうそうやって反乱起こす奴らが居たほうがいいよマジで。
俺は自分の人生がカワイイからやらずにただ辞めたけど、この世界をちゃんと一度ぶっ壊さないと駄目だよ。
外務省は上司のハニトラリークして人生終わらせるべきだし、厚生労働省はブラック企業のリストを日本中にばらまくべきだし、林野庁はチェンソー持って暴れるべきだ。
そうしないともう駄目だよ。
一度全部ぶっ壊れない限りはまともな人間ほど避けるようになる。
当たり前だよな?
全固体電池は眉唾(これまでもずっと「数年後に実現」と言いながら全くロードマップが進んでいない)だから今回はスルーするとして、遂に来たかというのがメガキャスト(ギガキャスト)。
モノづくりの軸では、車体を3分割の新モジュール構造とし、ギガキャストの採用で、大幅な部品統合を実現することで、車両開発費、そして、工場投資の削減にも貢献します。さらに自走生産の技術で、工程と工場投資を半減します。
https://global.toyota/jp/newsroom/corporate/39288466.html
ばかでかい金型を使ってアルミのダイカストでフレームを一体成型する、テスラがいち早く採用し、他社も追従している技術(テスラは「ギガプレス」、他社は「メガキャスト/ギガキャスト」と呼ぶことが多いが、同じこと)。今までは複数パーツの分かれた鋼材部品をスポット溶接でやっていたのを、一発で作れる。当然コストも製造期間も激減する。
「メガキャスティングなんてちょっとぶつけたら溶接で直せないクソみたいな技術」
「トヨタみたいなクルマ作りを分かってる企業がメガキャスティング採用するはずがない」
とさんざん息巻いてた人達は何だったんだろうかと思う。
トヨタを擁護する人達が良く言ってた「たとえ後発でも、トヨタのパワーで追いつけばイーブンで何も問題ない、EVだけにベットするよりその方が戦略として良い」みたいな話、あれは「後発」側がどれだけのディスアドバンテージを背負うか分かっていない。テスラはメガキャスティング導入に伴って、トポロジー最適化シミュレーションで構造的にリブやトラス構造などの変形部を持たせてクラッシャブルゾーンを確保するための特許を多数持っている。こういうノウハウを知財化できることは先行企業の特権で、この関連特許は、トヨタ他、今からメガキャスティング導入にトライする企業にとって重い足枷になるだろう。「トヨタは全方位戦略、EVが主流になるなら後から総取りすればいい」みたいなことを言ってるうちに、こうなってしまった。
これからこういうことがどんどん増えるんだろうな。
残念狂いません
40超えても楽しいし子供いなくて良かったという気持ちも年々高まっている
(ネットではここで羨ましがったり辛がったりしないといけないことになっているがまったく理解できない。ってかあれリア充爆発しろと同じただのネタだよね?誰も本気で思ってなくない?)
これまで趣味とかに使っていた時間や金が他人(子供は他人)に吸われていた可能性を考えるとゾッとする
命への責任が取れないからペットも飼うのを躊躇しているくらいなのに
寿命が長く教育難度も高いホモサピエンスの子供なんかなおさら無理無理
SDGsなんか知らんけど確かに地球規模での人口は問題ないんだからうちの国だけきちんと機能するように考えるべきだね
んでいろいろ考えてどうしても子供が増えないとだめなら子供大量生産+育児する施設を全力で作るくらいじゃないか
もちろん「産みたい女性」を集めたら貧困女性狙い撃ちでそれこそ「産む機械」扱いになるんで
そういうところに投資してるって話は聞かないがあるのかね?
ただし、その発言は「素晴らしい原案」だ。加筆する必要がある。
発電方法を変えるには大量の評価軸上でのトレードオフを考慮しないといけない。
考えるべき指標は「経済性」「環境負荷」「地政学的リスク(ロシアから天然ガス買いたい?)」「安定性(1時間くらいの停電で数人死んだりする)」「調整力(再エネは急な需要の変化を追えない)」などなど、すべてが誰かの利益を左右する。
さらに経済性ひとつとっても原発には廃炉費用がかかるとか色々考えることがある。
そして誰からも理解されない「調整力」について。1つ覚えてほしいのは「電気は貯められない」ということ。
貯める機構は揚水発電、HEMS(お家に蓄電池を置く)、SMES(地下の超伝導ループに電気を貯める!)とか実在する。しかしコスト面やら耐久性やらで必要な量は生産できていない。だから再エネ発電を新設するなら研究開発大量生産に投資してほしい。不安定な発電機が増えてもそれを上手く消費したり貯めて置くものがないと意味がない。
電力網の需給調整はシビアで、家庭への再エネ導入で予測できない供給が出現したので、クッソ辛くて当初の担当者はキレてたらしい。
貯めるか管理しよう。
そのシビアな需給調整や地政学のバランスを突っつくことになるのが電源構成の変更だ。
…と問われたときに、電気料金の値上げで暗に寿命が縮まった人の顔を想像しながら
「仕方ないですね。トレードオフなので。冬じゃなくて良かったですね。倍は死んでましたよ。福祉でカバーしましょう」
と言うべきなのだ。フリーランチはないので。覚悟を持って決断、発言しましょう。
政治だから、我々は残酷なスライダーを左右に動かすことしかできない。
全員を幸せにできるのは技術革新だけ。それには研究、開発、研究開発に死ぬほど金をかける必要がある。
で、君たちは投資しているか?IEEEで発表しているか?してないよな。しよう。
政治をしよう。浅い知識の押し付け合いではなく。勉強する気もなくて利害調整すらできない人々は、自転車置き場の屋根の色について話そう。
政治の話について例えば、安定度を低くすれば発電効率を上げることができる。けど、電気は止めちゃいけないし脱輪はフツーに事故で効率が悪いのであんまいじりたくないよねみたいな会話があったとする。これはちゃんと政治だ。当たり前なので誰も話さないだけで。
90年代のガーデニングブームのとき、猫も杓子もガーデニングでサントリーのサフィニアを育ててた頃、
壁から花が溢れるように見せるのが流行って売れまくってたハンギングバスケット。
ハンギングバスケット協会なるものが現代もあるのは協会会員が作品展示してて名前は見てたが、
先日聞いたら、植える株数は10と決まってて多くても少なくてもダメ、
登録料を定期的に払う許可制、登録しないと人に教えてはいけない、教えるには本部まで行って試験受ける、等々
花関連は池坊などの華道の影響でとかく何でも「お稽古」にしてしまうのは、知ってるつもりではいた
(花と名がつけば、ドライフラワーだろうと造花だろうと全て先生とお弟子さんの関係に押し込まれる)
単なる憶測にすぎないが、田舎でそれなりに立場のある親の子どもは、ガキのころに天狗になりやすい。
しかし都市部の大学に出たときに自分の実力を思い知る。今まで見えていたものは単なる幻想で、自分など大したことはなかったと。ここで非常な挫折を経験する。
「私がいちばん馬鹿」のようなポジションになってしまうとその中でもより挫折しやすい。これは都市部の私立高校でも発生する。
昨今では、地方と東京の断絶が進み、学歴差も大きくなっている。田舎しか見たことがない子どもは、東京の強大さを全く知らないのに「自分がナンバーワン。少なくともだいぶ優れている」と思っている。自分の田舎を100倍したものが日本のすべてだと感じるのだろう。だから、位置的にもそのようになるのだと感じるのは自然なことだ。「日本」と「アメリカ」の関係もあるが似たようなものだ。
こうした子どもが首都圏に行くと自分が味噌っかすであることを全身全霊・魂レベルで経験することになる。そこらへんのどこにでもいる凡愚とされる。準備などしていなかった衝撃である。年々、この落差がどんどん激しくなっているように思う。
彼らは「地元の名士」の子どもでもなかったりする。地元の名士は何かと東京と繋がっているものだからそういう情報が入ってきやすいが、彼らはそういう情報がなく、表面的な文化の部分でのみ都会を理解しているのである。これはしかし原理上どうしようもないことになっている。
彼らのほとんどは挫折によって苦しみながらも自分の立場をなんとか確保して成長していく。とくに、若いころから苦い経験を飲み込んで努力を積み重ねてきた人間は、問題を抱えつつも人格的にも能力的にも徐々に成長していく。こうした人間は適応し、確固たる居場所を獲得する。そういう人々が家臣団として東京周辺にザッと住んでいるのだ。城下町のように、家来として東京の中心地を囲んでいる。そして主君のお望みの通りに馳せ参じるのである。また、各々の人生を歩む。よく成功しようとしたい者は海外に出る。海外というのは「アメリカ・イギリス・EU」などのことだ。ここ最近は主君をアメリカとみなしているのである。長いものには巻かれろということだ。
しかし、大した努力や積み重ねもなく、今まで1番を獲得し続けてきた子や、親から1番になること、1番でなくともある程度優位な立場を得ることを強いられ続けてきた子、強制的にレール上を歩かされてきた子は、ここで強烈に挫折を味わい、脱落していく。「挫折」と表現されたくすらないかもしれない。ちっぽけなプライドゆえに「挫折」と捉えられない。「挫折した」のではなく、「今も挫折し続けている」のだ。立ち直る術を知らない。
「本気を出してないだけ」「時代が悪かった」「環境が悪かった」と、なんとかして知性化という合理化を図り、自分の心が折れていることを観測できない。もう耐えきれない。心を捻じ曲げようとする。「お前ぐらい勉強ができるものは無限にいるぞ」と受け入れられない。そのような「田舎」など、全国で見ればほとんど無限にあるのだ。足軽にもなれないような実力なのに、身分は家老ぐらいあると感じている。穢多・非人程度の扱いをされるのは、到底受け入れられない。
自分を知らないし、他人のことも知らない。ただただ軽視されることに耐えられないのである。第一、もはや身分が違うからといって人を軽んじていい世の中ではない。ますます生きにくくなる一方だ。ポリティカルコレクトネスとはそういう流れだろう。
生きている意味とは何かわからない。親もまた、その挫折を真剣に受け止められない。立場が違いすぎるがゆえに、わかってあげることができないのだ。わかってくれるような親ならば、初めから違った教育をしている。
彼らは、性格も歪んでいるために、友人関係を結べない。「バカで無能で愚図でおまけに性格も悪く、カッコよくも可愛くもなく、一人で生きる力も無いし、人のために何かすることができず、依存性が高く、他の周りの人たちよりも恵まれた環境なのに文句ばかり言う割に、他人の助言を聞き入れもしない」という、どうしようもない子どものできあがりである。何者かになろうとしていると表現されている。アイデンティティの崩壊がある。すぐそこに救いはあるのに、自らが軽んじている相手に頭を下げて敬意を払うことができない。この私が。屈辱だ。なぜ私がこんな目に。私は軽蔑などされるべき対象ではなく、人を一方的に軽蔑しても良いはずなのに、なぜ人は私を軽蔑してくるのだろうか。なぜ人は精神を蝕んでくるのか。
わかっている人でも、これを鋭く指摘してはくれない。下手に関わって逆恨みされたくはない。全く無関係の嫌な奴の精神の奥深くを抉ってもメリットなどないのだ。すぐに離れていくことだろう。そもそもあまりに距離が遠すぎて、そういう人に出会うことがない。ただ運のみである。そういう運命の人がたまたま自分の近くに来ることは少ない。理解のある彼くん、私の王子様、ぼくの女神さま、オタクに優しいギャルなど。
大抵、こうした子の親は両親とも毒親であり、子どもはアダルトチルドレンである。
そして親にそこそこの金があれば、脱落しても引きこもりをすることができる。
自分がゴミクズであることを受け入れて、セルフネグレクトに邁進する日常を選択できる。幸福だ。絶望という名前はついているが、幸福で穏やかな毎日を送ることができる。
何をやっても無駄なのだという学習性無力感と精神の麻痺。突然湧き上がってくる希死念慮。荒廃した生活。死ぬという選択が取れない優柔不断さ。他責的・他罰的な発言。努力をしようと「学問」に活路を見出すも、それをどう活かせるのかは未知数であり、どうすれば生きることができるのかはわからないのだ。学問は決して救わない。機械的人間を大量生産する教育システムそのものが時代遅れなのである。経済の硬直化と後進性と長老支配。学問の民主化により、昭和初期の三流エリートぐらいの知識があるだけでは、生存には足りないのだ。自分の力での生き方はわからないのに、生存自体はし続けることができるという矛盾。欲が無い。欲を持つことができない。
そして、そうした努力も長くは続かない。学校の勉強ぐらいしか知らないのだ。狭い価値観ゆえにそれしか道がないと勝手に思い込んでいる。やがて意味がないと気付くのであろう。容易にやめてしまう。簡単にたどり着けるところまでやったあとはすぐにやめてしまう。見下していた賤業には就きたくないという都落ちを拒否する愚かなプライド。山月記で何を学んだのだろうか。そしてある日、その「賤業」にすら就けなくなる。精神は子どもなのに、体だけはしっかり老化していく。虎にすらなれないのだ。
親に中途半端に金があるのが厄介である。親は、償おうとする。子もときには努力しようとする。それでもうまくいかないし、近所は理解しない。何か精神的に異常なのであろうという、全く異なる価値観によって蔑まれる。それが村社会というものだ。
親に金がなければ、生きていくために自力で仕事につく他ない。首都圏で揉まれ続ければ、やがては苦しみながらも自分の生きる場所を確保できるだろう。
しかし、ただ親元で小さな世界で何年も何年も閉じた生活を送っていると、そうした道も閉ざされる。貴族的な生活。放蕩、放縦。嫌悪している相手に依存しているという忌避感。
年齢の数値は淡々と増えていく。やがて手遅れそうなことに気付くのであろう。
なんなのだこの人生は。なんなのだこの世の中は。許しがたい。テロリストたちへの深い共感。
人は言う。「自分が招いたことだ」「自己責任だ」と言う。この世には悪しかいないように見える。悪辣な社会の中で自分だけが虐げられている。他人に「自己責任だ」と言う者もまたコンプレックスを抱えている。「お前が悪いのだろう」と言いたいのだ。「お前の自己責任だ」という言葉は、「俺が悪いとでも言いたいのか?」の裏返しだ。
他人は楽しんでいるではないか。どうして私が苦しまなければならないのか。
異世界かもしれない。異世界に行けば、愚かな民たちを嘲笑い、自分が正しく認められる世界に行けるのではないかと、光を見出す。
更に狩られているだけなのだ。その精神は看破しているぞ。ただの餌だ。空想の世界へようこそ。現実を直視できない。現実はどうしてこう苦しいのか。
しかし、現実は「そんなどうしようもないものではない」ということをまだ知らない、という点が彼らにとっての最大の不幸である。価値観そのものがどうしようもなく古いのである。
自分がどうしようもないダメ人間だという真実をすべて受容して、それを打ち払おうと一歩一歩踏み出すことでしか道は開かれない。外に出て、本を読むなど世界を広げれば良い。また、生活パターンを変える。思考を広げる。それが本来の学問というものだ。
人材は不足している。別に自分はそういう人物なのだから仕方がないのだ。でもそれを、自分で変えようと進み続けることで自分の人生が拓かれる。ニートのままでも別にいい。全然変わらなくてもそれはそれで仕方がない。
本来、絶望する必要はないはずなのに、どうしても絶望したいのだ。能動的に幸福になるために受動的に絶望を選択している。
絶望することで、「ハンデを負っているのにここまでできる自分はすごいのだ」と思いたいのだ。セルフ・ハンディキャッピングという。
そうではない。より強い絶望を選ぶべきなのだ。能動的に絶望を選ぶことで、受動的に幸福になれるのだ。自ら絶望しなければならない。今より苦しめば、今より苦しまなくなる。
苦しみからずっと逃れようとして「楽な苦しみ」を選び続けているだけなのだ。世間はそれを看破して「楽でいいね」と言っている。世間側のイラつきもある。
もしくは、やはり目を閉ざして、元の穏やかで苦しいメルヘンワールドに戻るかだ。知らぬが仏という。こんな偏見にまみれた文章などくそったれだ。せいぜい凡人たちは、社畜を頑張れば良いさ。
教育ママも、また、気をつけなければならない。教育ママのコンプレックスは、子どもを愛玩動物のように扱おうとすることで子どもに伝染し、子どもを生涯苦しめることになる。愛と呼ばれるものではない。
頑張ってほしい。
ここ最近でAIイラストの投稿を禁止するサイトが増えてきているが、実際のところ彼らが問題視しているのはAI絵を作成する行為そのものではなく「AIによって短期間に大量生産されたイラストが大量に投稿されることによるサイトのトータルクオリティ、ユーザビリティの低下」なんだよね。
つまり、今後どんどんAIイラスト投稿禁止のサイトを増やしていくにはそのサイトが機能不全になるくらいにAIイラストを投稿しまくればいいということになる。これは「作品のクオリティが低ければ低いほどいい」ので、ちょっと偉ぶりたいAIイラストメインの奴よりも、AIイラストを敵視している既存の絵師が空き時間で適当な呪文で大量に生成して大量に投稿しまくれる。
AIイラストの投稿を許しているような質の悪いサイトには「AIイラストの投稿を許しているとどんなことになるのか」を身をもってわかってもらう必要がある。そのほうが将来的にも必ず良い結果に結びつく。
銭稼ぎに使ってる奴や、絵師から権威を剝ぎ取ってザマァしたいだけのワナビにすらなれなかったカスや、嫌がらせ目的で使う悪意層以外で、純粋にイラストAIを素晴らしいものとして見ている層ってイラスト好きよりもテクノロジー好きの方が多いように見えるんだよな。
究極、イラスト文化がどうなろうが技術の進歩を目の当たりにできるならそっちの方がハッピーって感じの人達。
とくに、はてブなんかでイラストAIをやたら持ち上げている層ってそういう人が多そうに感じる。
AI・手書き問わず創作するでもないイラスト見るのが好きなだけの身からすると、正直、現在のレベルのイラストAIに有能な絵師やその将来の芽を害してまで持ち上げるほどの価値は感じられないんだよなぁ。
普通に絵師に気持ちよく絵を描いてもらって、それを眺められた方がありがたくね? って俺個人としては思う。
中には、自分の性癖に刺さるイラストを大量生産できるAIを心から愛しているって人もいるだろうけど、そういう層は数でいえば少数だろうし。
まあ、もう3~4段階、技術的なブレークスルーが起きて、今より遥かに優れたイラスト生成ができるようになったら、たぶん俺も手の平返しで称賛すると思うし、べつにイラストAIはどうあるべきかとか、何が正しいとかの話ではないけれど。
でも感情として、今のイラストAI関係の騒動でその手の技術信奉者が訳知り顔で語ってるの見ると、イラストに対して興味もないなら横から界隈をかき回さないでくれとは思っちゃうわ。
全人類の肉体労働を任せるには汎用ロボットの大量生産が必要ですよね。
一体誰が莫大なお金をかけてまでそんな整備をするんですか?製造費やエネルギーはどこから?
コンピュータさえあればできるほとんどの知的労働の代替は不可抗力的かもしれませんが、独占業務や肉体労働の代替は誰かしらが整備しないと実現しません。そして、既得権益者がそんな社会を作り出すとは到底思えません。
お前は超操縦メカmgで敵ロボットが自己増殖していく工場を作っていく場面を知らんのか…
あと最近のルパンのテレビスペシャルでも似たようなのあったな。確かダイアモンドによって量子計算が可能になって人工知能が自我に目覚めてみたいなやつ