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はてなキーワード: 労働力とは

2022-03-09

anond:20220309113747

いやこの生産性の話の場合は、会社がどうかじゃなくて、国家全体としての労働力の話でどうかだから

時間パートで無理なく働いている主婦が多い場合

彼女らが12時間がっつり労働キャリアウーマンになった場合では

後者のほうがいい、ということになる。

 

 

2022-03-08

anond:20220308133124

私たちはいから肉食になったのか?日本人の肉食の歴史を徹底解説

https://intojapanwaraku.com/culture/48024/

疲れている時、あるいは気合を入れて勝負に臨みたい時、もちろんなんでもない時にでも「お肉食べたい!!」と思うことはありませんか? 焼き肉から揚げ、ハンバーガー、さまざまなお肉をわたしたちはすぐに食べることができますしかし、こうしてお肉をなんのためらいもなく食べられるようになるまでに、わたしたちご先祖さまたちは葛藤を繰り返してきたのです。

日本人の肉食について『肉食の社会史』(山川出版社)の内容と、著者である上智大学教授中澤克昭先生お話をもとに追ってみました。

うつりかわる肉食への考え方

日本史教科書などで「文明開化」の言葉とともに「牛鍋」を食べる人の絵を教科書などで見て、なんとなく近代明治時代)以降に肉食が始まったと思っている人は圧倒的に多いのではないでしょうか。けれども中澤先生によれば、肉や魚を食べることは、伝統的な食文化だったそうです。ただ、平安時代からは「食べないことが高貴な身分のふるまい」「食べるのはいやしい」と思われるようになったとか。また、家畜労働力提供してくれる大切な存在であり、食べる対象としては見ていなかったようです。

3世紀ごろの日本ヤマト)には、誰かが亡くなった際、喪主は肉食をがまんする習慣があると『魏志倭人伝』に書かれているそうです。これは「物忌み」のひとつとして肉食を慎む「禁欲」だったと考えられています。つまりこの時点では日常における肉食は「禁忌」ではなかったのです。その後、6世紀仏教とともに「殺生」を「罪業」とする考え方が伝来します。喪に服したり何かを祈願したりする時に肉食をガマンする習慣と仏教の殺生罪業観、このふたつが融合して、のちの肉食忌避タブー)につながっていくのです。

中澤克昭著『肉食の社会史』(山川出版社

しかし、肉食忌避が強まるのは中世からで、古代には天皇も肉を食べていました。天皇は各地でとれたものを食すことで統治していることを示していたからで、イノシシシカも食べられていたことが、さまざまな記録や古代遺跡から出土した木簡からわかっています中澤先生によれば、「大地を象徴する生き物を狩ることで土地所有権確認する儀礼でもあった」と考えられているそうです。

貴族メインディッシュはあの鳥

古代には禁欲対象だったお肉も、平安時代になると禁忌まり忌避されるものへとかわっていきました。たとえばイノシシは何世代飼育されるとことで「豚」という家畜になりますが、奈良時代にはヤマトでも豚が飼育されていたそうです。ところが平安時代になると、食用に育てられている動物確認できなくなります。野生のイノシシを食べることは続くので、家畜は食べないほうがよいというメンタリティを持っていたことはまちがいなさそうです。

天神さま(菅原道真)の牛のように、神話伝承世界にも動物は出てきますが、家畜を食べるという物語はまずありません。タブーだったのです。死んだ家畜、いわゆる斃牛馬(へいぎゅうば)はいわば産業廃棄物で、専門の人々によって処理されましたが、その仕事にあたっていた人は捨てずに食べていたと思われます」(中澤先生)。ただ、そのことは公の記録には残っていません。馬刺しも牛の内臓ホルモン)も食べられていたはずですが、身分の高い人には忌避されていたのです。おおっぴらに食べられるようになったのは、近代以降ではないでしょうか。

新鮮な馬肉

では、鶏肉に関してはどうだったのでしょうか。「鶏も『時を知らせる、占いをする』という性質が強いので、おおっぴらには食べられていなかったと思います。卵は食べたはずですが、それもあまり記録にのこっていません」(中澤先生)。闘鶏に使われた軍鶏などは「筋肉質で硬くて、現在の鶏ほど美味しくなかったでしょうね」と先生はいます。「牛も体脂肪が少なく、現在の『霜降り』のような食感とはほど遠かったのでは」とのこと。

なお、近代以前に肉を地方から京都江戸へ運ぶとき塩漬けにするか干し肉にする場合が多かったそうですが、キジの新巻や干し肉存在していたとか。案外さまざまな加工肉があったそうです。……鮭では見たことがありますが、鳥が新巻にされるなんて想像もつきませんでした。また、少し前にグルメ界を席巻していた熟成肉もあったそうです。遠くから生で運ばれた場合、その可能性が高いとか。よく食べられていたのはシカイノシシでしたが、貴族社会宴会ではメインディッシュとして鳥のキジが好まれたそうです。焼くだけでなく、刺身でも食べられたそうですが、味付けは摂関家であれば、ひしお現在味噌醤油の原点と考えられている調味料)や酢などが使われたと考えられています

殺生禁止と生贄とのあいだで揺れた「鷹狩り」

肉食を考えるうえで必ず登場するのが「鷹狩り」です。鷹狩りは、神々へのお供え物の調達手段としても大切で、仏教の殺生禁断の思想が広まってからも続けられました。古代には貴族の間で行われて、鷹狩りのための狩場もつくられ、鷹狩りに用いる鷹の繁殖のために狩猟や入山を禁じた巣山や巣鷹山と呼ばれる山もありました。その後、貴族から武家権力が移ると、キジだけでなく白鳥や雁もよく狩られるようになり、小型の鶴が狩られたこともあったようです。武家食事マナーでは、鷹狩りの獲物は箸ではなく指で食べることになっていました。食材としての価値が高く、食べ方にも特別作法があったようです。

江戸時代になると、徳川家康が好んだ鷹狩りを、代々の将軍が受け継ぎ行っていました。江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が発した「生類憐みの令」のころまでは史料確認できますが、その後しばらく姿を消してしまます。復活するのは8代将軍・徳川吉宗のころ。吉宗徳川家康尊敬していたので、家康が好んでいた鷹狩りを復活させたようです。その後、大政奉還が行われ明治新政府が発足した後は、鷹狩りは大名特権ではなくなりました。明治天皇御料場で鷹狩りを行ったようです。在位中の天皇狩猟に出かけたのは、白河天皇が1073年に嵯峨野鷹狩りをして以来のことでした。天皇800年ものあい狩猟をしていなかったわけですが、この800年はそのまま武士時代と重なっているのが興味深いところです。

明治天皇1872年牛肉を食べましたが、近代以降もしばらくは肉食に対する忌避感がありました。しかし、食の欧米化や大規模な多頭養豚経営、乳用種雄の肥育牛の食用への転用などにより、1955(昭和30)年ごろからは急速に肉食が一般化していきます。結果、戦後まれ世代からは肉食があたりまえの世の中になって現代に至ります。食肉生産が進み、ブロイラーが出てきたからこそ「帰りに焼き鳥ちょっと一杯」ができるようになりました。そんな生活高度成長期にようやく成立したもので、まだ現在のような「お肉を食べたい」「お肉を食べよう」の歴史は50年ほどしかないのです。

ジンギスカン用のラム肉

一方で2030年ごろには、世界人口の増加が食肉生産を追い越してタンパク質が足りなくなる「プロテイン危機」が起こるという研究があり、昆虫食研究などが進んでいます。今のようにお肉を食べられる時代は、日本史のなかの、ほんのわずかな期間で終わるのかもしれません。

動物を殺す」肉食に対してはさまざまな意見もありますが、人間の食欲がそれを抑え込んでいるのが今の時代です。お肉はいつでも好きなだけ手に入りますし、食べることもできます。「中世には動物を殺すことやそれを食べることがタブーとされていましたが、実際に食べる人は少なくありませんでした。うしろめたさと食欲との葛藤があって、そこからさまざまな言説が生まれました。現在も肉をめぐってさまざまな問題があります。もう少し葛藤があっても良いのかもしれません」と中澤先生は言います。「お肉が食べたい」という気持ち自由に満たせる今だからこそ、食文化についてちょっとだけ考えてみませんか。

2022-03-07

マクロRPA自動化しても、何故に給与が上がらないのか?

この人のブログはいつ見ても頭がいいな

https://www.code-lab.net/?p=22058

マクロRPAなどを使って業務自動化して何十時間節約しているのに給与は…みたいな話しを時折見かけるので、何故給与が増えないのか考察したいと思う。

マクロRPAなどの活用による業務効率化は二つの段階に分けられる。

・1stステージ

マクロRPAを利用した自動化により、事務作業にかかる時間が削減されている状況。この段階は従業員個人能力により業務時間の削減がなされている。作業負担の軽減により同僚から感謝されたりはする。だがこの段階では会社利益には繋がっていない。

・2ndステージ

自動化により削減された時間をより付加価値の高い業務に割り当てたり、あるいは余剰人員を人手の足りない部署に異動したり、従業員解雇を行っている状態

マクロRPAの開発と維持には費用が発生している。作業時間の短縮により不要になった労働力を異動あるいは解雇するなり、短縮された時間を用いてより付加価値の高い作業を行うので無ければ、会社としては開発と維持にかかる費用分を損した状態になってしまう。

マクロ勉強して自動化しました」という話しをしているとき殆ど場合は1stステージ状態にあり、まだ会社利益を生み出せていない。故に給与が増えることを望むなら、1stステージ→2ndステージへの移行が重要になるのだが、ここが難しい。

余剰人員異動や解雇には人事権必要になるし、より付加価値の高い業務を生み出せる人材自動化人材よりも貴重だ。2ndステージの実現には管理職の協力が必要不可欠になる。管理職者に1stステージ自動化恩恵を見せて、2ndステージに移るための協力を得なければならない。

…が、そこで自動化を進められる素養を持つ上司なら、従業員に言われるまでもなくIT化を進めているはずだよね…的な達観があったり無かったり。

と言う訳でマクロを使えたり、RPAを使いこなせたからと行って突然に給与が増えることは無い。でも使える手札が増えれば、選択肢も増えるわけで、今後にチャンスをものに出来る可能性が増えるわけで、無駄では無い。

anond:20220307170140

「巨大な、食事付きの集合住宅...」でも良かったと思うが。ま、どうあっても揚げ足取りはいるかもしれんが。

 

これ、もしやったとしたら学校給食みたいな感じになるだろうな。

それよりも、そのシステムの成立が困難になるような要素が大きいような気もする。

この日は外出しているからこの日の朝食と...は無しにしてとか。

提供する側の労働力食材仕入れ値の不安定さ、食事を受ける側のクレーム

そういう面倒な事が起きるから格安での食事提供は無理に近いよね。

 

要は大量に仕入れて大量に消費するようでなければ、

安価で安定した食事提供は難しいだろうってこと。

2022-03-05

贅沢な飲食なんか保護しなくてもいいだろ、国家経営国民食堂みたいなものを全国に作ればいいのに。

労働力が減っている現代生産性のない飲食かに人とられるより

1次産業とか製造業労働力増やした方が国益になると思う。

anond:20220305041820

ナチス占領下でこれが起こったのは事実なんだが?

歴史修正主義者か?

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチスドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

ネタ元はここな

https://de.wikipedia.org/wiki/Erich_Koch

https://de.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Jeckeln

anond:20220305041515

戦死するかどうかも戦わないとわからんじゃん

こうなる可能性もあるから

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

ネタ元はここな

https://de.wikipedia.org/wiki/Erich_Koch

https://de.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Jeckeln

anond:20220305041307

そうなるとこうなるから

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

ネタ元はここな

https://de.wikipedia.org/wiki/Erich_Koch

https://de.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Jeckeln

anond:20220305041133

こうなるより一か八かで、日中戦争みたいになるのを狙ってるんでしょ

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

ネタ元はここな

https://de.wikipedia.org/wiki/Erich_Koch

https://de.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Jeckeln

anond:20220305040940

からキチガイ降伏してもこうなるって

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

anond:20220305040241

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

anond:20220305035026

戦わないとこうなるけどな

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人ドイツ人管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナ人ユダヤ人犠牲になったと言われている

2022-03-04

anond:20220303221635

家事主体に担ってくれるDINKS希望男性がいれば結構成立しうると思うけど、結婚相談所もその方面モテメソッドが欠落してるんだよな

男なら恋愛でなければDINKSになるくらいなら貧困一人暮らしでもいいやってタイプ多そうだし

どうしても妊娠したら女は1年くらい労働力が落ちるし、産後鬱能力低下が長期になる恐れもあるから子アリでの大黒柱は選ばないのはわかる

2022-03-02

海を跨いでやってくる外国人労働力フィリピン人ベトナム人で本当に良かったなと思う。ベトナム人ですら韓国人中国人に比べると民度ヤバいが、アフリカ人アラブ人が流れ込んでくる欧州は大変だと思う

2022-02-28

第二次世界大戦占領下のウクライナ

第二次大戦ドイツ降伏したウクライナ地域がどういう運命をたどった書いていこう。

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナユダヤ人犠牲になったと言われている

2022-02-27

第二次世界大戦ウクライナ歴史

第二次大戦ドイツ降伏したウクライナ地域がどういう運命をたどった書いていこう。

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナユダヤ人犠牲になったと言われている

はてなーってウクライナ歴史とか知らないの?

https://b.hatena.ne.jp/entry/4715993805323770530/comment/hanajibuu

勝ち目無いならさっさと降伏しろ日本降伏たから今の繁栄がある。生き残ればやり直せる。

第二次大戦ドイツ降伏したウクライナ地域がどういう運命をたどった書いていこう。

独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。

しかナチス・ドイツ東ヨーロッパユダヤ人スラヴ人処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。

弁務官としてウクライナ統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツ必要生存権と食料のためである。」

かれらは言葉どおりの政策を実行していく。

ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財没収された。

医療制度教育制度廃止算数禁止された。法律については交通標識理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒避妊薬と中絶手術は奨励された。

こうして人権剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場強制労働が課された。

反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。

またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。

こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。

最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。

そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊特殊部隊アインザッツグルペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。

そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊ねこそぎ処分するという計画を立てていた。

彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。

処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。

その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。

この方法効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分成功したこともあったそうだ。

また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。

労働条件過酷であり食料不足労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。

ロマユダヤ人およびそれらを匿ったした人物パルチザン共産主義者を次々と処分していく。

1995年の報告によると1370万人ものウクライナユダヤ人犠牲になったと言われている

2022-02-26

anond:20220226085230

子育て支援金はすべて自動化技術開発に振り向けるべき。労働力を増やすのではなく、必要労働力を減らす方向で考えた方がいい。

2022-02-25

anond:20220225205755

2.お米が経済を回していた時代江戸時代

現代では、国の経済の規模はお金で表し、給料税金お金で支払われますが、江戸時代にはお米がその役割を担っていました。

加賀百万石」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。領地経済規模はお米の単位「1石(こく)」(≒150kg)の価値に換算して表されていました。1石は、当時1人が1年間に食べるお米の量とされていました。

また、お米1石が収穫できる田んぼの面積が「1反(たん)」(≒10a(アール))とされていました。1反の田んぼがあれば1人が1年間に食べるお米が確保できるということで、どれだけの田んぼ領地にあれば何人養えるかが大体わかるということになります自給率の考えに似ているところがありますね。

江戸時代は、外国との貿易が限られていたのでお米の自給率はほぼ100%だったと考えられます。大規模な新田開発によって耕地面積は1600年頃から1720年頃にかけて1.3~1.8倍に増えたと言われており、耕地が増加した分、多くの人口を養えるようになりました。1600年頃に1,000~2,000万人だった人口が1720年頃には3,000万人程度まで増えたと言われています(*1)。

一方で、災害異常気象によるお米の不作が原因となって幾度にわたり飢饉が起きた時代でもありました。大飢饉経験を踏まえてお米の備蓄やかんしょ(サツマイモ)の栽培奨励されたことは、現代の食料安全保障に通じるものがあります

3. 花形輸出品だったお米 ~明治時代前期~

明治時代に入り、新政府は、外貨獲得のため殖産興業貿易促進に力を入れていましたが、生糸お茶に並んで重要輸出品に位置付けられていたのが実はお米です。お米が最も盛んに輸出されていたのは神戸港で、明治11(1878)年と明治21(1888)年にお茶を抜いてお米が輸出額第1位になっています(*2)。

どのくらいのお米が輸出されていたのでしょうか。当時の政府文書によれば、明治12(1879)年~明治21(1888)年の十年間の平均で、酒造用を除いた国内消費量3,129万石(約470万トン)に対して34万石(約5万トン)が輸出されていました(*3)。

輸出先は、主に英国ドイツフランスイタリアなどの欧州で、日本産米は品質が高く評価されていました。欧州でもイタリアスペインを中心にお米が生産されており米料理を食べる文化があったのです。

明治時代に入って海外に輸出するようになったきっかけは、連年の豊作で米価が暴落したことでしたが、やがて外貨獲得の手段としても政府が自ら欧州での販売状況を情報収集し、産地でも輸出向けの品質改善に取り組みました(*4)。

このように、明治時代前期はお米を海外に輸出して自給率100%を超えていたのです。

(図1)明治時代のお米の需給と輸出

(図1)明治時代のお米の需要と輸出

4. 輸出国から輸入国へ ~明治時代後期~

お米の輸出国から輸入国への転換はあるとき突然やってきました。

お米の輸出量が過去最大となった年の翌年、明治22(1889)年に暴風雨による水害で収穫量が前三か年平均の85%まで落ち込むと、米価が暴騰し、翌年には不足分を賄うため193万石(約29万トン)のお米を輸入することになりました(*5)。米価高騰は簡単には収まらず、富山を始め各地で米騒動が起こり都市部では餓死者が出ました(*6)。

(図2)お米の輸入量の推移

(図2)お米の輸入量の推移

明治の初年からお米の輸入は行われていましたが、このときを境に大量の輸入がだんだんと恒常化し、盛んだった輸出は縮小していきました。

いったい何が起こったのでしょうか。原因は、人口の増加と1人当たり米消費量の増加でした。明治前期(1876~1885年)に比べて20年後(1896~1905年)には人口が1.21倍、1人当たり米消費量も1.21倍に増えたと推計されています(*7)。それまで、農村では米だけを主食とする(できる)人は少なく、米に麦・雑穀・いも等を混ぜるのが一般的で、実質の米食率は5割程度でした。好景気によって、農村米食率が上昇するとともに米食中心だった都市人口が増大したことで、お米の消費量わず20年で約1.5倍に増えたのです。

明治時代に入ってから近代的な土地改良や栽培技術の導入でお米の生産量は増加していましたが、明治25(1892)年の大蔵省主計局『米価ヲ平準二スル方案』は、生産増加だけでは人口増加に追いつかないと結論づけ、不作時の米価高騰を抑えるためにも外国からお米を輸入しやすくすべきと述べています

人口はその後も増え続け、明治前期に3,700万人だった人口は、明治44(1911)年には5,000万人、大正15(1926)年には6,000万人を超え、昭和15(1940)年には7,200万人にまで達したのです(*1)。

5. 輸入に頼らざるを得なかった時代大正時代昭和初期~

お米の自給率は、1890年代には100%を下回り、大正時代には94%、昭和初頭には85%まで下がりました(*1)。ただし、この頃、朝鮮半島台湾のお米は、輸入ではなく「移入」とされ、当時の日本政府は、日本本土朝鮮半島台湾を含めた圏内での自給を目指していくことになります(前掲の自給率は、移入も輸入に含めて計算されたもの)。大正6(1917)年の輸移入は、朝鮮半島のお米が48%、台湾のお米が31%、外米(英領インドビルマ)、仏領インドシナタイ)が21%となっていました(*8)。

大正7(1918)年には、二年連続の不作によって長期的に米価が高騰し、再び富山を始め各地で米騒動が起こりました。政府は、不足分を賄うため大規模な外米輸入を図ろうとしました。しかし、外米産地でも洪水や干ばつで不作が起こったことや、国内の米価高騰を抑制するため外米産地の政府が輸出制限輸出禁止を行ったため、円滑に輸入が進まず厳しい外交交渉を強いられました(*8)。

また、昭和16(1941)年に始まった太平洋戦争では、戦況の悪化とともに外米輸入のための商船が確保できなくなり、昭和18(1943)年にはお米の輸入が半減、翌年にはほぼ途絶し、日本国内食糧不足が深刻になりました(*9)。

6. 約70年ぶりの自給の達成 ~昭和中期~

昭和20(1945)年に終戦を迎えた日本は、戦争による耕地の荒廃、農業労働力不足に加え、朝鮮半島台湾からの輸移入に頼っていた需給構造崩壊したため、深刻な食糧危機に直面しました。しかし、本格的にお米の輸入ができるようになったのは昭和25(1950)年以降でした。タイビルマミャンマー)、米国エジプトからお米を輸入することで国内の米不足を賄いました。

昭和27(1952)年には、10年後までに米麦の国内自給の達成を目標とする「食糧増産5ヵ年計画」を立てて生産量の増大に取り組み、昭和25(1950)年の938万トンから昭和47(1962)年の1,445万トンへと約20年で1.5倍になりました(*5)。約70年ぶりにお米の自給が達成されることとなったのです。

7. お米の消費減少と食料自給率低下 ~昭和後期から現在

増産によりお米の自給が達成された一方で、高度経済成長によって食生活多様化したことで、お米の一人当たり年間消費量は、昭和37(1962)年度の118.3kgをピークに減少に転じていました。

生産需要を上回り大量の過剰在庫が発生するようになったため、昭和46(1961)年から生産調整が本格実施されるようになり、1,200万トン前後だった生産量は、約50年で約800万トンにまで減少しました。一人当たり年間消費量も約50kgまで減りました。自給率の高いお米の消費が減ることで食料自給率カロリーベース)は昭和40(1965)年度の73%から40%程度まで低下することとなったのです。

2022-02-24

欧米ロシア貧乏国家としてなら存続してほしいよ

安い労働力が確保できるから

物価が安い」ってなんなの??

考えてみたらこ輸出入が盛んな時代物価が安いなんてあり得るのか?と思った

少し考えてみたけどだいたい5パターンじゃないか

 

生活水準が低く使用しているモノが安い

関税がかかっていない

労働力が安いため人件費分安い

・住居のような、限られたリソースを奪い合うタイプの品が安い

インフラが安い

 

それでも当然iPhoneはどこの国でも高いんだよね

これ総合するとやっぱアメリカが最強なのではないか

農作物安いし

あとはインドかな、人件費が安い

 

ああ、考えたら奴隷制度ってすごく効率良かったんだろうな

2022-02-23

anond:20220223232718

あれだけ雇用を奪ったと怒られたのに、まだ日本工場を作るのですか!需要家の方が地位は上なの。研究日本で、労働力は現地。これは、先進国場合は鉄則だぞ。

2022-02-15

どうしたら自分の子を殺さなくなるのか

ワンオペ育児母親がわが子3人を手にかけた事件に対して、予想通り「母親の辛さ」がフィーチャーされている。

小児科医が人を殺したこ母親に同情し、すべての母親のためになんとかしようみたいな話をしているし、

育児垢が「私とこの母親は地続き。批判してる育児垢見たら実家住みだった、人生いろいろ育児もいろいろ」とか言ってる。

まるで母親自己実現のために育児してるかのような言い草失笑を禁じ得ない。人生いろいろから生後数か月で親に殺されてもしょうがないってか。

法の下の平等に準じて我が子を手にかける所業には重きを置かないにしても、「そんなに辛けりゃ一人で勝手死ね」と言われもおかしくないはずなのに。

そもそもワンオペになるのに3人も産むなとか、共助を拒否した結果だとかは白饅頭界隈にでも譲ります

どんな事情があったにせよ、世の保護者に「私も我が子を殺すかも」なんて思ってほしくないので私はもうちょっと優しいアプローチをしたいと思い文章を書いてみます

簡単に言えば、必要なのはリソースの適切な配分と多チャンネルの開設である

親のリソースは有限である。よっぽど特殊環境でない限り、一人の子どもに対してかけられる親の労働力は最大2人だろう。

一方で育児要求する労働力は2人でも足りない、というのが私の過去経験から感覚である

無論最低限の生存レベルではなく、「親としてしてあげたいこと」がこの要求無限に引き上げていく。

清潔で快適な環境においてあげたい。たくさん眠らせてあげたい。写真を撮っておいてあげたい。たくさん食べさせてあげたい。

親として最初に考えないといけないことは、この全部を完全に達成することはほぼ不可能であるということだ。

何をしてあげないか決める。何を与えないか決める。何を切り捨てるか決める。これを明確にしておくだけで全然違う。

一度捨てたものには未練を残さない。再びそれに手を伸ばすことは禁忌とする。このルールを守るだけで育児負担は確実に減る。

しかし往々にしてこれができない。特に母親は。これは善悪問題ではなく、本能的なものだろう。

体力があろうとなかろうとリソースを延々と子供に注ぎ続け、判断力を失い、ときに鬱になり、最悪の場合子に手をかける。

自分いか寝不足でも泣いている子供無視できない。これはもうそういうものしか思えないから、無視せよと言っても無理なのだ

かといってこれが美しいものかと言われれば全然そうは思えないのであって、これを美徳とすることは全く肯定できないのだが、

結局親と子供を引き離す他に親の労働力無限供給解決する術はないのだ。

古い価値観ではこの役目を同居の祖父母等が担っていたのだが、現代人は他人干渉を拒絶しているためそんなものは贅沢品扱いだ。

保育園だってパワーカップルキャリア維持に使われて全員が入れるわけもなく、近所の人は顔も覚えていない。

カネも縁も知恵もない親だとあとはもう根性頼み、運頼みで闇雲に突っ込んでいくばかりなのだ

からもう自分で事前にやるしかない。自分子育てを始めるとまともな思考はできなくなると予想して、安全装置を設置しておく。

それが多チャンネル化、平たく言えば外界と繋がりを複数持つということだ。

必要なのは自分判断力が弱ってるときにそれを検出してくれる繋がりなので、理想的なのはからの友人や兄弟姉妹だ。

親とか義理親は母親自身より子ケアに寄る場合ほとんどだろうからあてにしてはいけない。

相手独身だろうが不妊だろうが繋がっておく。子供の話はしない、自分の話をする。

ネタ画像を共有したり、腹が立った話をしたり、ふと思いついたときに声をかける相手がいればいいだけ。

そういう保険をかけられる相手との関係メンテしておくことは普段からの心がけとしか言えないが。

ストレスを逃がし、自分と子を別の存在であることを認めてくれる相手複数いれば最悪の事態に至るリスクはぐっとさがるだろう。

生きることはすべて戦いなのだから戦略を立てて生きていきましょうね!

子供が死んでから配偶者が悪い世間が悪い行政が悪いと言ったところで同情以上は得られませんから

2022-02-13

anond:20220213141607

コミュ力自炊スキル云々というより労働力情報など無形の対価を払ってるかどうかだな

収穫期に手伝いに行ったり自分達の畑で試してみた作物がどうだったか教えたり、そういう形の無い対価の支払いを積み重ねる事で信用を得てる

からこそお裾分けで野菜や魚を貰える訳だし、当然こっちだってお返しもする

金払ってないからってタダではないんだよね

いくら余ってるといっても口先八丁だけで物を貰える訳じゃない

それにいくら金の流通量が少ないといっても、金を払わないと買えないもの(例:ガソリン)もたくさんあるしね

基本的に金の流通量が多い都会の方が暮らしやすいし、デフレ環境下だと尚更そうだと思うよ

2022-02-12

https://anond.hatelabo.jp/20220212001139

最低賃金ってのは最低の仕事 (つまりただ存在するだけ) にすら払わなきゃならない額面のこと。

労働者労働力 (知的労働を含む) と金銭を交換する存在であって、労働者提供する労働力価値に転換できていないのだとしたら無能なのは経営者だよ。

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