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2023-07-23

anond:20230723192318

逆の人生書いてみたけど、つまらんぞ?

成功けが人生じゃないって分かるよな

小さい頃から医師になりたかった。

医学部合格し、医師としての夢を叶えた。

高校受験頑張った。結果が出て、目標高校合格した。

大学受験頑張った。見事合格し、理想大学で学ぶことができた。

一年浪人して頑張った。その努力が報われ、次の受験合格を勝ち取った。

私立大学生命科学科に所属しながら仮面浪人した。並行して努力し、公立医学部にも合格した。

不本意な職について働きながら勉強した。その後、再び受験に挑戦し、目標医療系の職に転職した。

割と早く大学で知り合った彼女結婚して子供も生まれ、家庭と仕事の両立に成功した。

医学部に受からないまま30歳を超えた過去を乗り越え、新たなチャレンジに挑戦した。

生きてる意味が見出せずにいた過去から立ち直り、愛する家族と共に幸せ人生を送ることができた。

成功した人生を送り、感謝幸福に満ちた毎日を過ごした。

小学校受験がわから

私は地方で育ち、大学進学同時に上京した田舎者なので都会のお受験事情について明るくない。

なので、娘の保育園ママ友との小学校受験についての会話は基本聞き役をしている。

先日、いつも通りの会話で、あるママさんが「小学校受験してゆくゆくはマーチかに進学して…」っておっしゃられた時、

(保育園から塾行って、小学校受験して、目指すところマーチって志低くないか!?)

と、内心思ってしまった。

けれど、やはり都会の受験事情田舎と異なると判断して黙っていた。

からぬ、都会の受験事情がわからぬ。

小学校から私学に行くならより高みを目指すのでは!?マーチも悪くないけど、良いと思うけど!

というかやっぱり田舎公立が良いみたいな風潮あったけど、本当に都会は「公立はやめておきますフフ🤭」みたいなご家庭が多いですわね!?

すまんな、娘、我が家小学校受験考えてなかった!3歳から考えるのは遅過ぎるって今日鼻で笑われてしまった!!

今思うと私は知らず知らずのうちにマウント合戦に片足を突っ込んでいるのかもしれない、娘、なんか、ごめん

2023-07-22

anond:20230722090326

少なくとも令和の日本では、「幸せになるかどうかは自分次第」なんて綺麗事絶対に言っちゃいけないと思う

今はもう、親ガチャに当たりの上級国民じゃないと何処に行っても辛い思いをする

自分貧乏母子家庭から公立医学部に行ったけれど、周りとの格差を痛感して物凄く惨めな目に遭ったもの

飲み会の席で親の職業を言わされる羽目になったんだけど

母親看護師だって大勢の前で言われて薄っぺらな感心をされ、死にたくなった。

その場にいた他の学生母親はみんな医者で(父親医者母親は元看護師、という組み合わせすら皆無だった)、

本当に上層階級パワーカップルが当たり前なんだと思ったよ。

看護師には助けられてるとか立派な仕事だとか言われたところで、下に見ているのがありありと分かって、本当に惨めだった。

看護師って大変だよねえ私にはとても出来ないって、そりゃあお医者様になれた女性からしたらそうだろうね

医療現場には医師を頂点とする厳然たるヒエラルキーがあるもの

私が子供を産んでも子供には同じように惨めな思いをさせるに決まっているから(その前に結婚出来ないだろうけど)子供は産まない。

anond:20230722114228

から地方公立から東大勢は遊ぶ暇がないほど働く官僚になるんだよ

anond:20230721190358

でも実際親ガチャで決まるのは事実じゃん

地方公立からガリ勉して東大に入っても大企業新卒入社しても

みんなが当たり前のように買っているブランド物やお高い飲食店お金が出せず

周りのキラキラ上級国民についていけなくて辛い思いをするのが現実なんだから

親の資産や生まれ育った環境の差は覆せない

anond:20230722090326

segawashin 小中高と地元公立、塾も予備校も行かず国立医学部入ってなんとか生きてる俺から言えることは、SAPIX特に必須じゃないぐらいしかない。「どうすれば良かったんだよ」に対する答えは「一生懸命勉強する」かな……。


あのエントリ読んでいきなり自分学歴自慢始めるの頭おかしすぎて声出して笑った

親がDVして勉強すると罵られた俺が救われた時の体験

https://anond.hatelabo.jp/20230721191432

この増田を読んで、自分人生を振り返ってしまった。

俺の父は母に暴力を振るう男だった。母は母で、そのストレスを俺にぶつけた。

父はじゃれ合ってるだけ、と言ったし、母はじゃれ合ってるだけ、と言っていた。俺も、心の片隅で、人を殴る程度、じゃれ合ってるだけだろ、と今だに感じることがある。

両親は、勉強にたいしてコンプレックスがあった。『勉強なんか何の役にも立たない』が口癖で、

かといって、スポーツ等の習い事に金を出してくれるわけではなかった。

家で宿題をやろうものなら、2人は半笑いで『馬鹿宿題なんかやっても無駄』だの、『俺は宿題を一度もやらずに卒業した』だの言って、俺を罵った。

友達大事しろ』などと言っていたが、実際に家に友達を連れてきたら、友達連中に対して、チビだの、不細工だの言って笑っていた。

俺が大事にしているものを嘲り笑う時だけ、両親は結託した。

家に帰りたくなかった。当然のように成績はどん底だった。家は団地の4階だったが、両親に見つかる玄関を通りたくなくて、何度もベランダを伝って部屋に出入りしていた。

中学の時の担任は、そんな俺に言った。

「市が運営する施設がある」と。

土曜、家に帰りたくなくて、友人たちの、遊園地行きにくっついて行ったのだ。親に無断だったから、教師の人たちが車を出して、夜なのに探し回ってくれていた。

21時ごろ、駅前保護された俺に対し、車の中で担任先生は俺に、そのような提案をしたのだ。傍から見ても、俺の状態はひどかったらしい。

結局、それは実現しなかった。両親から逃れるための施設に入るためには、両親の許可必要だったからだ。

何より、俺が『施設』に入りたくなかった。恥ずかしかったのだ。家に帰りたくはないが、施設に入って、学校に通う。そういう俺を想像したくなかった。

そんな状況だった。だが、ある日事態は突然、好転した。

そして、とても、とても胡散臭いテキストがこれから書かれるけど、一応聞いてくれ。

結局、俺を救ったのは、共産党の家だった。

俺の、中学の先輩の家だ。地元じゃ結構有名な家だった。(本業は、習字先生か何かをやっている人)

担任は、どういう手段を使ったのか知らないが、そこに話をつけた。

そこからは、早かった。

俺はあるおじさんとおばさんの家にとりあえず入ることになった。2人は優しかった。

両親には市から指導が入った。俺は塾に行かせてもらえることになった。学校では、『親戚のおばさん達の家にいる』といったような話ですんなりと話せた。

どういうルートか知らないが、俺に対する金も、おじさんおばさんは市だか県だかから貰いはじめ、俺の口座を作ってくれた。

勉強を許された俺は、無事に公立高校に通う事ができた。『高校卒業したら、市役所に入れてやる』とまでおじさんには言われた。

高二の時に、両親の離婚が成立し、結局、俺は父との二人暮らしを選んだ。(親権だのなんだのも、共産党の介入があったらしい)

父は、まともになっていた。暴力も振るわなくなっていたし、俺のことをバカにするようなことはなくなっていた。

好意的に見るなら、実の子と離れ離れになった期間が、父を変えたのかもしれないが、

俺としては、父の獣性のようなものが、母と上手くかみ合ってしまった、というような気がする。父が母を狂わせ、母が父を狂わせていたのではないかと思う。

市役所には入らなかった。

採用担当党員だし、生活保護担当党員から、どうとでもなる』とおじさん達は笑っていたが、どうにもしっくりこなくて、俺はそのルートには乗らなかった。

俺を保護したおじさんとおばさんの使っていた手は、籍を入れず、おばさんは生活保護を受け取り、結局夫婦のように暮らす、という手段だった。

生活保護担当党員なのだから、何も文句はでないらしい。だが、とにかく俺は、そういうのが、なんとなく不正であると思ったから、やめた。

結局、今はちゃんと、サラリーマンをやれている。共産党の力は借りていない。

おじさん達の家で暮らす間、俺は新聞赤旗の代金を回収する手伝いもしたし、なんなら、未だに赤旗が届く。

選挙にも、たまに協力しろ要請がかかる。個人感情としては、恩もあるがやはり、『あまりよくない団体だな』と思っている、そういう距離感だ。

底辺から救われ、建て直せたタイプ人生だと思う。

俺を救ったものは、なんだったのだろう。教師か、共産党か、おじさんとおばさんか、改心した父か、俺に執着しない母か、当時俺と友達でいてくれた人達か。

あるいは、『運が良かった』の一言、つまり自身幸運が俺を救ったのか。

なんとなく俺は答えを出している。

俺を救ったのは、社会の余裕、ファジーさ、雑さ、あるいは多様性(嫌いな言葉だが)というものなのではないかと思っている。

ズルをして、生活保護を掠め取るような人達が、俺を救ったのではない。

ズルをして、生活保護を掠め取るような人達が、生きていられる社会の余裕が、俺を救ったのだ。

世の中には、太い流れがある。普通にルールを守り、普通価値観で、普通に利益を生み、普通に人に迷惑をかけないように。そういう太い流れが。

だが、その太い流れに乗らなくても、生きていていい。そういう、ファジーさが、俺を救ったのではないだろうか、と思っている。

何の役にも立たないかもしれないが、こういう事を書けるのも、こういうことを読めるのも、また一つの社会の余裕、雑味だと思う。

雑な社会が救うものもある。

2023-07-21

娘よ、パパは小学校が嫌いだった。

今年、娘が小学生になった。都内公立小学校に通っている。そんな娘に「パパは小学校しかった?」と聞かれて、僕は「楽しかったよ」と答えたけど、これはハッキリ言って嘘だ。

娘に変な先入観を持ってほしくないから、ポジティブに答えたけれどパパは小学校が大嫌いだった。正確には学年が上がるとともに制度先生が嫌いになっていった。

平成初期に生まれた僕は小学校3年生まで80年代に開発された所謂ニュータウンに住んでいた。比較若い住民が多く、大きな電機メーカー工場などが集積していたので、所得教育水準もそれなりに高かったのだと思う。小学校も開校20年程度だったと思う。好きな先生もいたし、友達ともよく遊んだ。指の皮が剥けるまでスマブラ64をしていたと思う。

その後、両親の離婚を経て、僕は母方の祖父母の家に住み、かつて祖母や母が通ったという小学校に転校した。明治時代からある古い学校だった。

カルチャーショック

この学校に転校した時は激しいカルチャーショックに見舞われたので一部ご紹介する。

1.男女でトイレが分かれていなかった。壁際に小便器がずらっと並び、その後ろには個室が並ぶ。要するに男子便所と同じ構造だ。そして、この個室には男子女子関係なく入る。ジェンダーレストイレが話題になった今となっては時代最先端なのかもしれないが、当時は本当に驚いた。

2.自転車に乗っていいのは小学4年生から自転車の解禁が小学4年生以降だった。何も知らずに毎日自転車乗っていたら、ある日学年集会でいきなり晒し上げられてルールを知った。

こういう一つ一つ、当時の自分が嫌なポイントが増えていったのだが、決定的だったのは先生の質の低さだ。

小学校先生たち

3年生当時

30歳前後/女性

とにかくヒステリーをよく起こす人で、どうでもいいことで一々叫び散らす先生だった。クラスで少し問題があるとなんでもかんでも集団責任と言い、一々放課後に全員で居残りさせられて迷惑だった。クラスいじめられている子がいて、僕は転校生クラスヒエラルキーの外にいたので、助けようとして喧嘩になったら怒られたり、その放課後に、このクラスいじめはありません!とか宣言しててこの人もうダメだと思った。毎日上履きに泥を詰められたりして、◯◯菌とか言われてる奴がいじめられてなかったらなんなんだろう。

4年生

40代後半前後/男性

この先生はかなり変なおじさんだったが、好きだった。いつも扇子を持ち歩き、教室に畳を敷いて、カーテンを簾に変えていた。将棋趣味将棋を教えていた。その先生から将棋を教わって将棋を始めたクラスメイトはその後、当時史上最年少で女流棋士としてプロになったのでその一点だけでも凄い人だと思う。

5,6年生

30代半ば/男性

この人はマッチョな見た目そのままの脳筋だった。子供ながらこんなに頭悪いのに学校先生になれるんだなぁ、と思ったものだ。悪気があるのか無いのかわからないが、事ある毎にうちが母子家庭であることをクラスで話し、当時は今ほどシングルマザー理解も無かった時代、そして土地柄。そのせいでクラスメイトやその親から「お父さんいないってどんな気持ち?」と聞かれたり、煽ってくる奴がいた。

決定的におかしいと思ったのが、成績の評価だった。大前提として、僕は公立小学校程度のテストならばどの科目も殆ど100点以外取ったことが無かった。年に1回の県統一学力テストでも成績は学年1位だった。そういうわけで国語算数理科社会通信簿は常に5段階中の5以外もらったことがない。

ところが、僕はこの先生に「3」を付けられたのだ。そして、自分より頭の悪い子が5を取っていた。この成績を見た母は「1学年1位の息子が何故3なのか?」と学校に問い合せた。実は当時、通信簿評価がそれまでの相対評価から絶対評価に切り替わった。先生曰く、生徒一人ひとりの成長を元に点数を付けることになったが、100点しか取らない僕は成長が見られないので中評価だという説明だった。

それに加えて、各科目の課題や授業に対する態度が悪いということ。具体的にはドリルとか問題集とか、その学期を通して行うべき課題最初の1週間で全部終わらせて提出したことが悪い、授業中騒いだり他のことをしたりするわけではないが、かと言って授業も真面目に聞いていないことも理由であったと。

全く意味がわからなかった。

学校簡単テストは100点以外取りようが無いのに、どうやって成長を示せばいいのか。簡単宿題を早く終わらせて一体何が悪いというのか。教科書を読めば一瞬でわかることを延々と説明する授業の一体なにを聞けばいいのか。僕は授業の邪魔することもなく、ただただ黙って大人しく時間が過ぎるのを待っていたのに。

ちなみに結局その後、試しに中学受験に向けた全国模試を受けたら偏差値は55~60くらいしかなくて、中学受験組の中では精々中の上程度だとわかった。そして日能研の「シカクいアタマをマルくする」とかい広告問題全然解けなかった。別に自分が頭が良いわけではないことを理解出来た。そして実際に市川という上の下くらいの中学校になんとか滑り込んだ、というのが僕の実際の実力だ。開成筑駒?渋幕?全然無理、って感じ。

何故嫌いになったのか

当時を振り返ると嫌いになった要素がいくつかあると思う。

まず第一に、制度問題日本公教育は、基本的に出来ない子に合わせざるを得ない環境であり、そもそも人間としての最低限の指導しかしてもらえない。加えてその基準は非常に低い所にありすぎて、子どもたちの学力すらもまともに測れない。物差しすら用意していない。当たり前のことが出来るだけでメーターを振り切ってしまう。そして相対評価の謎運用無駄な不平等を生み出している。

そして先生問題先生の魅力というのは、学力だけでなく教育への熱意や広く言えば人間力など様々な観点があると思う。そしてその仕事過酷さが度々話題になるように大変な仕事なのもわかる。

しかし僕が出会った先生は今思い出してもヒステリーなオバさんや脳筋が多く、学歴的にも大凡他人に物を教える事ができるようなレベルではない。人間力含めたって精々小学生くらいにしか教えを説けるレベルになかったと思う。

考えてみれば、そこそこの学歴を持つ友人を見渡した時、高校教員大学教員になった奴はいても小学生相手をしている奴なんて殆どいない。

そんなことを考えると、子供私立小学校に入れる選択肢を考える親の気持ちもわかる。ただ、個人的には小学校の時に悪かった友達大人になって逮捕されたりしてるのを見ていると、人種の坩堝に身を投じて色々な人がいるということを理解するのも大事な気がする。

娘よ、そういうわけでパパは小学校が嫌いだった。お前が思ってるよりしょうもない大人先生をやっているからな。そういうことにも一つ一つ気づいていきながら人生を歩んで欲しい。

2023-07-20

anond:20230720215351

田舎公立小学校中学校無双定期テスト毎回1位か2位かどっちか)だったが、高校進学校に入ったら普通に中の上ぐらいやったで

中学教師に「○○高校は頭のいいヤツばかりが集まるからいくら増田でも最初からトップにはなれないぞ」って聞いてたから、別に挫折も何も感じなかったが

表自戦士公共施設の利用に制限を設けるのは憲法違反!」

表自戦士公立高校の生徒の髪形が校則制限されていてもイキって冒険せず先生に事前確認しよう」

埼玉県プールでの水着撮影会、暫定ルールを発表 NGポーズも例示:朝日新聞デジタル

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASR7M63DYR7MUTNB00G.html

poko_pen 公営という公共施設からこそ下手に制限設けること自体法律違反、下手すれば憲法違反になる事を埼玉県弁護士理解していないのかな。撮影会は他県でやってるから埼玉が避けられるだけかと


黒人伝統の髪形は校則違反? 隔離された卒業生「返事もできず」 | 毎日新聞

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20230327/k00/00m/040/127000c

poko_pen 卒業式にだけイキって冒険するのはいからなあ。先生などに事前相談して確認してからしようね。事前確認社会出る時にも大事な事よ。



2023-07-16

まり評判の良くない都立高の先生と評判のいい地方偏差値ナンバーワン公立高の先生トレードしないといけない

それはそうでしょ

集めれば強いんだよ

anond:20230714160942

医者豊田系に入れっていうのはマジ。あと、名古屋大学ファーストで、名市か愛教か愛県か愛芸かみたいな国公立ファーストなのも凄い。

2023-07-15

いい大学とは「教授がいい」ではなく「入試問題が難しい」である

有名私大先生名前研究

それを基本的受験生は知りません

ナンバーワン公立進学校でも半数の生徒は志望大学の有名どころ3選を知らないでしょう

anond:20230715135227

民主党の成果としてポジティブ意味で語り継がれてるのは公立高校無償化

事業仕分けについてはネガティブではあるが埋蔵金(笑)なんてのは無かった事が分かった(成果っていうか詐欺だろ)

2023-07-14

もらうだけもらって、あとは旨味ないからポイなのかね。


ベネッセ撤退へ 都立入試英語スピーキングテスト トラブル多発、本格導入からわずか2年

https://www.tokyo-np.co.jp/article/263027

都内公立中3年の保護者は「業者が代わったとしても、採点基準不透明さやスケジュールの遅さなど、問題点がたくさんある。それらが根本的に解決しない限り、入試活用するべきでない」と話した。

全くだ。

正論すぎる。

あんなに反対の声もあったのに、GO出した経緯や実情をチェックして報告すべきだわ。

2023-07-12

anond:20230712132417

それぐらいで買えるといいよなぁ。

出身地方だったので同じような感じで私立は滑り止め、大学私立より国公立

この辺りは駐車場代だけでも4、5万するから車持たずにカーシェアでいいやって思ってる。(2人ともフルリモートだし駅近なのであまりにのらないのもある)

年とったら都外もありだな。

最近布教活動が悪いんじゃないかと思えてきた

職場上司に反ワクの人がいる

その人はワクチン危険性を示す論文印刷して職場の人に配ったり、マスクをしている人にマスク効果のなさを説得し、外させようとする

そのため職場ではその反ワクの人が困ったやつ扱いであ

50代のそこそこ偉い人なのでタチが悪い

で、みんなで反ワクの人は困るなぁという印象が生まれている

先日、妻からおっとりとしたいい雰囲氣のママ友食事をした話を聞いた

自然素材のすごく高価そうなお菓子をくれたり、ちょっと地域では変わっている育て方で有名な幼稚園にお子さんを通わせている

という話を聞いて、ピンときたので「幼稚園に上がるとやっと予防接種ラッシュが終わって少し落ち着きますよね」と話を振ったら、

私、色々と勉強して自分の頭で考えた結果、子供には予防接種を打たないことにしたんです、と話してくれたそうだ

自身はうわ〜全然からなかった〜と思いつつもその話はスルーし、普段の子育ての話に戻ったそうだ

その話を聞いて、職場上司とそのママ友の違いってなんだろう?って思うと布教活動なんだなと気づいた

世の中いろんな考えの人がいる

ワクチン不要危険と思う人もいれば、ワクチン自分は打ちたい、予防になると考える人もいる

子供を中受させたいと思う人もいれば、公立でいいじゃんと思う人もいる

愚行権を認めて別に人それぞれ好きなことやればいいじゃんと思う

そもそも私も職場の同僚もワクチンがどうとか、コロナがどうとかそんなことは正直興味がない

そんなことより給料上がるかとか電気代高いとか株上がれとかそういうことに関心がある

興味がないのでみんなが打つならワクチン打っとくかくらいのつもりで打ってる

それをアホだというのは自由だけど、憲法がどうなっているのか?ChatGPTの中身はどのようなモデルなのか?

世の中の森羅万象について全て詳しく知るというのは不可能だし、みんながやってることをやる、というヒューリスティック重要である

にもかかわらず興味のないワクチン話題を延々と聞かされるのが不快なのであって、

職場上司が反ワクであることが不快なのではないな、と気づく

他人が反ワクでも反グルバルでも親露でもなんでもいい

だが、今その話題をすべきタイミングじゃない時になんでもその話題で覆い尽くそうとするのが不快なんだ

anond:20230712130233

5000万+諸経費で特急止まる駅近の新築3LDKマンション買えるから

それでも地価は上がってる印象

で、公立王国から公立で旧帝まで行くのが普通

私立は基本公立の滑り止め

ここで金かかると言われてる家と養育費がそんな感じ

あと、クルマガーとよく言われるが基本クルマで移動するから満員電車におしくらまんじゅうなんてライブとかイベント行く時以外ないし、通勤ラッシュ最近は朝在宅して午後出勤する人も増えて減ったかQoLは上がってる

昔は渋滞にハマってはこんな高い買い物したのにこれか!と怒ってたけど今は快適

anond:20230712130045

別にアーリーリタイヤしたいわけじゃないし、わざわざ不便なとこ行くのもなーって感じ。

中受って大学受験就活のためにするようなものなので、田舎進学校だと微妙公立はそこまで勉強見てくれないし。

2023-07-11

私自

最近調子が悪く、「自分に向き合う」ということをせざるを得なくなった。私はずっと自分直視することから逃げてきた。

幼い頃に両親が離婚し、私は母親と母方の祖母に育てられた。母は父親から慰謝料を受け取ることを拒否し、公務員として働きながら私を大学に進学させてくれた。家は過疎地帯の小さな町にあり、まともな進学が叶う高校へは片道1時間かけて通う必要があった。祖母は60歳で余命半年を宣告されるレベル胃がんを患った。寛解はしたが、体力的には勿論大きなダメージがあっただろう。しか祖母毎日5時に起き、私を起こして朝食を食べさせてくれた。

私は物質的には何不自由なく育てられた。勉強ができることを常に歓迎されたのも、私が女であることや時代地域性を考えればとんでもない僥倖だ。母も祖母も(田舎人間としてはかなり)知的好奇心教養を重んじる気持ちが大きく、そういう家で育てられたことも幸運だった。ただ、嫌なことも山ほどある家だった。

祖母は80歳を過ぎるまで苛烈自意識を悪気なく振りまき続けた。とにかく華やかなものや高級感のあるものに目がなく、目立つことが好きで驚くほどの見栄っ張り。そして私からすると異常に闘争心が強かった。祖母にとって他人は「常に勝つべきであり決して負けてはならないもの」「自分を当然に認めて賛美するもの」「自分のお眼鏡にかなうのはほんの一握りしかいないもの」と認識されていた。そして厄介なことにこのような性質を全く客観視できず、自分の考え方に沿わない人間は「馬鹿」もしくは「おかしい」とジャッジした。孫の私でさえもだ。

物心ついた瞬間から私は常に周囲の子たちと比較され、劣っている点を突きつけられた。ゆきこちゃんのように可愛らしくない。さきちゃんみたいに上手な字を書けない。ようこちゃんと違って美人じゃない。ともかちゃんのように性格が良くない。めぐちゃんみたいに明るく如才なく人と接することができない。みゆきちゃんみたいな勝ち気さがない。かなちゃんみたいに女の子らしくない。話はいつも「おばあちゃんは、ああいう子がよかった」と締め括られた。祖母の考えでは、私が奮起して「よし、頑張ってあの子を超えてやる!」とがむしゃらな努力をするはずだったのだと思う。でも私は祖母じゃない。他人と争うのが何より嫌いな、内向的人間だ。生まれたのは燃えるような向上心などではなく、凍えるような自己否定感と身を焦がすような憎しみだった。憎しみは祖母に向かい名前を挙げられた女の子たちに向かい祖母を止めない母親に向かい自分にも向かった。

はいつも祖母の虚栄心を満たす在り様を求められた。勉強ができるという点は合格、他は総じて不合格容姿趣味人間性も。私が太っていて内気で運動が苦手で片付けができなくて愛想が良くなくて放っておくと黙っている子供であることが「恥ずかしい」と祖母はいつも言っていた。大学時代一時的な過食傾向に陥ったことがある。7キロくらい太って帰省した私に、恥ずかしいから日が高いうちは近所を歩くなと祖母は言った。心配はされず、「どうしたの」「何かあったの」と訊ねられすらしなかった。私は常に祖母の虚栄心を損なう悪者だった。

肝心の学業成績も褒められたことは皆無だった。1位じゃない、満点じゃない、進学先がトップ校じゃない。それを論拠に「私の血縁者だけあって頭が悪くはないが、取り立てて優秀でもない子供」と判断された。何かができるようになると、次の瞬間には「それじゃあ次は」と言われ続けた。ゴールがない。苦しかった。

私の母は、その祖母の娘である。私が1歳に満たない頃に私の父親と別居を始め、実家に出戻った。

土地二束三文で買える田舎町にある実家敷地が広く、母屋と離れがあった。離れは母屋より小さいが、リビングとベッドルームと和室ひとつ風呂台所もあった。母はそこに住んだ。私を母屋に残して。役所勤めから帰ってきて、母は毎晩ひとりでレコードを聴いたり古い映画を観たり純文学を読み耽ったり、妻のいる男の人と長電話をしたりして過ごした。平日に私が母と会話できるのは、彼女が許した1、2時間だけだった。それが限界だったのだろう。

母が娘に求めたのは豊かな感受性、繊細さ、抑制が効いていながら豊かな感情表現、心の優しさと清らかさ、従順さ。母の心情に関心を寄せ、いつも注意深く観察し斟酌し、そこに寄り添い肯定すること。母はそれを「素直」というタームで表現した。私は小さい頃から「素直じゃない」と詰られた。自分を偽ってもいないのに素直じゃないと言われるのは心底不可解だった。4歳か5歳の誕生日、私は母からメッセージカードを貰った。「○○ちゃん、たんじょうびおめでとう。○さいのテーマは、すなおになることです」。そう書かれていた。そこから先は「素直とはどういうことか」が説かれていたが内容は忘れた。心臓が止まるかと思うほど嬉しくなかった。

母は癇癪持ちで、定期的に不機嫌の発作を起こした。自分不手際が契機となり、怒鳴られ人格否定され「縁を切る」「家から出ていけ」と言われ、数日間まともに話してくれない。そういうことが日常的にあった。ヒステリーを起こすきっかけなど何でもよかったんだと気づいたのは実家を離れて何年も経った後だった。天災のように気まぐれに降りかかる不機嫌の発作を、子供だった私は心を殺して耐えることしかできなかった。

小学校5年から学校いじめの標的になった。担任女性教師から私はすこぶる嫌われていて、ほとんど彼女の主導のもとに王道いじめを受け続けた。中学は町に一つしかなく、選択余地がなかった。その女性教師の夫が進路指導主任を務める公立中学に進学した。いじめの続きは入学初日から始まった。合計で5年間、私は一日も欠かさず死にたい死にたいと思いながら生きた。

家族に言っても碌なことにならないと子供心に判断していたが、耐えきれずに吐露したことが2回だけある。最初祖母に。「そんなのやり返せばいいだろう」と私の弱さを叱責されて終わり。予想どおりだった。絶望はしたがショックではなかった。母に話したのはしばらく後。おそらく苦しくて仕方なかったのだろう、母がいる離れの呼び鈴を夜中に鳴らした。泣きながら「もう何年も学校いじめられている」と話した記憶がある。母は私を離れの中に入れなかった。玄関先で立ち話をした。片親であることを攻撃されていると話した。「それが何だ」と母は言った。わたしなんか学生運動いちばん盛んな頃に短大に進学して、父親警官だって言ったら「お前、『犬』の娘か」って嗤われたんだから。どんなに嫌だったかお前に解るか。腕組みしてまくしたてる母を冷えきった気持ちで見ていた。

それから長い年月が過ぎた。

祖母は80過ぎで二度目の癌を患った。退院した頃から加速度的に穏やかになり、最終的には少し気弱で優しく品のいい老婆として94年の人生を終えた。亡くなる数ヶ月前に実家で倒れて寝たきりになり、帰省した私が「おばあちゃん、私のことわかる?」と問いかけると「わかるに決まってるだろう、たった一人の孫だもの」と必死に笑みを浮かべて私に答えた。帰り際には「そんなに肌が綺麗だったっけ」と言われた。私の見た目を褒めるなんて、おばあちゃん目が悪くなったんじゃないの?と笑って憎まれ口を叩き、来月も来るからねと告げて東京に帰った。それが最後の会話だった。

母は合わない職務鬱病を患い、50歳を前に役所を辞めた。その数年後には妻子持ちの男とも別れた。相変わらず自意識過剰で感情的で面倒な人だ。でも面白い知的好奇心を保っているのも心強いし、化粧っ気は全くなくなってしまったが今でも綺麗だ。私は母の顔と字が無類に好きだし、無類に好きなところは他にもたくさんある。今はそう思う。

私は中年になった。自分と向き合うことから逃げ続けたままで。

この度よくよく自分の内心を見てみたら、あまりに汚く混乱していて自分でも驚いた。段階的に補強してきた自己肯定感は思っていたよりもまだまだ脆い。自分憐れみ庇う気持ちはあるが、これを自分への愛と呼べるだろうか。するべき(と思われる)ことは容易に把握できるのに「したい」ことは分からず、なのに無欲ではない。綺麗になりたい。痩せたい。頭が良くなりたい。お金がほしい。休みがほしい。美味しいものを食べたい。俗な欲求は人並み以上だ。それを捨てることも開き直ることもできない。

脳内には14歳の私が世界万物に向かって「私に謝れ」と怒鳴る声が反響している。それを恥じて隠蔽しようとしている成人の私がいる。隠蔽しようとする私を「卑小でつまらない人間だ」と蔑視する私もいる。世界観のベースに「私は素敵な誰かの下位互換であり欠陥品だ」という根深い諦念がある。刷り込まれ規範は私の血肉となっていて、私はそれを憎悪しながら切除できない。「本当の自分」とは何か、皆目見当がつかない。

ならば、その正体不明の混乱しきった人間を許してやろうかな、と考え始めた。そしてあわよくば愛してやりたいと。

私は凡庸だ。狭量だ。いろいろと不出来だ。根気がなく三日坊主だ。いい歳して自意識過剰だ。かっこわるい。けれど、別にそれでもいい。誰に馬鹿にされても見下されても、私は「なんでよ、別にいいじゃん」とケラケラ笑いながら私自身を全力で抱きしめる。

それは、世界でただひとり私にしかできないことだからだ。

anond:20230711180258

一応先に検索してるからそういう連中は小学校で習うって出てきたけど

ネットに書き込む以上多数派公立を前提にして書き込んだぞ

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