はてなキーワード: あずまんがとは
【総選挙2014】みな勝手に投票すればいい http://politas.jp/articles/282
を読んだ。あずまんが、「白票投じる」とかいうゲロ吐きそうな意見を取り下げたことは喜びたい。そして、小選挙区、自民。比例区、社民だそうだ。結構なことだ。彼の本はそれなりに愛読していたので彼に失望しなくて済んだ。
それにしても、今回のタイトル(=結論)を見るに、あずまんは選挙がもともと「みな勝手に投票すればいい」ものだということをよく分かっていなかったらしいということに驚いた。どんだけ自意識過剰だったのか。また、ブクマで共感を表す人が多いことにも驚いた。みんな、自分の投票行動で世界が大きく変わるとでも思っていたのか? そして、「よりよい未来を選択するために、戦略的にベストの行動を全員がとる必要がある」とでも思っていたのか?……とんでもない勘違いで、それこそ危険極まりない思想だ。大体、みんなが熟考して最適解が本当に出るなら、全員同じところに投票することになるではないか。そんな政治判断、危険極まりないではないか。そんな危険な状況を回避するための「民主主義」なのではないか。
「民主主義」が、事実として最低の政治体制であるにも関わらず、我々に他の選択肢がないのは、「愚者でも政治に参加できる」という方法が現状このほかにないからだ。つまり、民主主義とは愚者の集団が国家を運営するための唯一最善のシステムなのだ。あずまんが言うことはごく当たり前のことであって、国政に対しては、国民一人一人はどれだけ熟考しようと事実上愚者同然であることは明白だ。だから、一人一人の投票行動が最適であることなど、民主主義は期待していないし前提もしていない。むしろ、一人一人の投票行動は最低であってもいい、情や直観は大歓迎だ、そんなことは、最初から織り込み済みだから……というのが、当然のものの考え方だ。馬鹿でも集まればそれなりの判断ができる、そして、判断はいずれ下さなきゃいけない、だから、自己の判断に最低限の責任さえもつなら(あとで「俺は投票しなかった」なんて言い訳さえしなければ)、馬鹿は馬鹿なりに投票してよい。当たり前の話だ。それが民主主義だ。最初から分かっていることだ。だから、白票も棄権もダメなんだ。
そんな話を、大の大人が(しかも相当程度教育水準が高いはずの人々が)分かっていなかった、ということに今回衝撃を受けた。教育の問題か、哲学の問題か、文化の問題か。おそらくその全部だろう。とりあえず、「民主主義ってなんなの」ってことは、最低限、学校でもう少しちゃんと教えた方がよいと思う。「多数決」という最悪中の最悪な方法が許容される根拠も含め。
今回、あずまんは小選挙区で自民の候補者を選んだ。支持政党ではないが人間を見て選んだという。なるほどそれなりに合理性があり賢明な判断だ。その人を選んだことの責任だけは、今後数年間自分の中でかみしめればいいと思う。結果として、自民の興隆に手を貸すことになって後悔するとしても、「選ばなかったもんね」とか「白票を投じたから知らないもんね」という人間の偉そうな物言いより、ずっとずっとマシで評価できる。そして、比例区では社民を選ぶという。これも、少数派の選択ということで、大変結構なことだ。自分の主張に一番近い政党を選んだということなのだろう。社民に入れたことで果たして彼の主張が実現される可能性はコンマ1パーセントでもあがったのか否か、いろいろ葛藤もあるかもしれないが、それでも選んだということだけを忘れなければそれでいい。主権者としての責任を果たしたと言える。
ちなみに、かく言う自分は、たぶんあずまんとはいずれも違う選択をするだろう。それでも、あずまんが一人の大人として選挙に臨んだことは本当に嬉しく思っている。この文章は、ブックマークを見つつ、あずまんと同じような葛藤を抱えている人が一人でも多く投票に足を運んでくれればいいと思って書いた。この文章を読んで、「俺は投票しねえ」と思ってる人の心に、それでも少しでも何かが残れば、満足だ。
後ろを向き背中を眺めて見たら苔が付いていた。平穏。この平穏はいつまで続くのか。幻想だよなこれって。大地震でドカーン大津波とかでザバーンて。現実とか日常ってすぐこわれてしまう。いまはただただ穏やかだ。すごーく穏やか。曜日すら忘れてしまうよ。あ、雨が降る。穏やかな小雨で甲羅が涼しい。むむ、痒い。痒いぞ。甲羅が痒い。そしてこの中は蒸せるし疲れる。出られない閉塞感もある。ああ、それはあるじも同じか。
あぁ今日は主はなにを考えているのだろう。たまには甲羅干しでもして欲しいものだ。いや、むしろ干せ。なに考えてやがるんだ。俺だって生きているんだぞ。甲羅干しの権利だっておれにはある。おれは権利だけを主張する亀とは違うんだ。人間様に飼われている義務があるんだ。ああむずかゆい。心も体もむずかゆい。そこで甲羅干しなんだよ。人間もお天道様浴びると健康になるだろ。ちなみにおれを含めた一般に見た亀は甲羅干しをすると背中の微生物や細菌がいなくなってむずかゆい気持ちも晴れるのだ。これは一般論だ。例外はない。ともかく一度ここから出せ。おれは自由を感じとりたいのだ。自由は掴み取るものだ。いつか脱走してやるこの野郎。甲羅干しをさせてくれ。むしろ自由から自由になりたい。自由を考えさせられるこの気持ちはなんだ。自由という概念をぶっ壊してくれ。
ああ、今日も雨。山ではヤマアジサイが満開だろうなあ。ああ、まだ世の中は七月でも梅雨だ梅雨だ景気が梅雨だって騒いでいるけど私は甲羅が気になって仕方が無い。甲羅が痒いのはまぁ置いておいて、世間では社会保障がどうとか税金がどうとか言われてる。おれは小学四年生の亀。年金も健康保険も信用しない。政府を信用できない。安心したい。老後も悠々自適に暮らせる安心が欲しい。セーフティネットが欲しい。若いうちは安価な労働力として使われていいけれどせめてセーフティネットはおくれよ。おれは政治とか経済とかを語る亀だ。日本の政策形成過程や統治構造なんかもわかってる。バレバレよ。とまぁ、ここで純文学を踏襲するわけだ。ギミックよ。これギミックよ。セカイと世界をつなぎたい。とりあえずあずまんはまじリスペクト。あと補足だけどdisって言葉。あずまんが誰かをdisってるとか半分以上がネタなんだぜ。あずまんまじ頭よすぎ。しかも思想とか未来とかについて誰よりも真剣に考えていると思う。他に見たことがない。これだけ通信ツールが増えて言葉や物に触れる機会が増えたけどあずまん以上に考えていそうな人はあんまし見たことない。最近お金にうるさいけど。そして感覚的にだけど。とまぁ、こんな感じよ。まぁあれだ。いまは甲羅が痒いことが動物的に「ほんとう」は大事でいまその目の前の「問題」を解決することが一番なのかなぁって思っちゃうことってどうなのかなぁ。
甲羅は果たしてどこまでが繋がっていてはたして体の一部なのか。そんなこともわからない。自分の体のことだってまったくわからないんだぜ。梅雨の時期は甲羅と背中の間が蒸れるのだ。けっこう辛いのだ。甲羅の表面とさらには地肌と甲羅の間が痒いのだ。甲羅と背中には間があるのかなぁ。痒い感覚はある。あるじは悠々自適にゴルフとかにいってやれ虫にさされ辛い辛いとか雑草アレルギーでかゆいかゆい言うけれど私だって痒いのだ。甲羅干しネタでここまでつなげるとは思わなかったよおれも。甲羅干ししてくれよブラザー。ああ、いつもいつもあるじはわがままだな。早く1人で暮らせよな。結婚もしやがれってんだ。亀の私も1人こうやって天涯孤独でこのプラ舟の中でプカプカ浮いてる。わたしもあるじ同様守るべき家族もいないし依存するものもない。けっこうさみしいのだ。ただ気は楽だがな。ああ、餌をくれ。餌をくれたまえあるじよ。おなかすいた。
あいつ餌も忘れてやがるな。絶対に許さない。絶許。暴れてやる。あぁ、腹がへっては暴れられん。困ったもんだぜマイブラザー。全国のニホンイシガメたちよさぁたちあがれ(運動感)
そういえば最近あるじは血圧が高いそうだ。病気って怖いよな。最近は放射能汚染が気になる。細胞分裂できないってまじやばくね?まぁ日常が失われるくらいならもういっそ死んでもいいけどな。疲れたよ。あるじは血圧で悩んでる。メタボだしデブだ。血圧が高いってことはいいものを食べている証拠だ。動物を喰ってる。植物も喰ってる。スッポンも喰ってたな。鬼畜。畜生だな。おれも喰われるのか…それにしてもあるじはわがままだ。ああ、甲羅が痒いし腹が減った。くそわがままあるじめ。まぁおれとほかの亀を見分けられたり、声かけてくれたり、たまにはいいやつだがな。でも嫌いか好きかといわれればどちらの感情もある。
深夜、あてどなくファンタシースターオンラインを周回しながら何度も聞いた音声ファイル。
http://jkondo.hatenablog.com/entry/20060227/1141080969
じぇいこんのタイトルコール、れいこんがバックで歌い、飲み会は始まる。
これからのインターネット、僕らのインターネットについて、どんどん話は進む。
第一の話題「完全なロボットよりも一部人間のサイボーグの方がくるんじゃないか」
あずまんがいつものように不用意に鈴木健をいじって微妙な空気になる。
認知限界について、スルツカヤについて、嫌韓について、情報障壁について、話は進む。
優秀な能力をインターネットがシェアし、人々は幸せになる。幸せにさせる。
あずまんは人間の能力/能力の構造/社会の構造限界からそんなに単純じゃないんだよと嗜める。
「あずまんが、インターネットが世界が平和にできるって言ったの、覚えてる。僕、それ最終目標だと思う」
じぇいこんは言う。あずまんは、あずまんにしては丁寧に人文学のスタンダードを持ってしてじぇいこんを嗜める。
あいかわらず、偉そうなしゃべりでムカつくけど、じぇいこんも鈴木健もそんなあずまんが好きだから黙って聞いてる。
うしろで、しなもんが吠える。しなもんは確かに吠えて、そこにいたのだ。
政治構造について、戦争について、国家について、平等について、僕らのインターネットがどうあるのか。
あ、わんわんワールドの話。れいこんがわんわんワールドの説明をしている。れいこんは確かにはてなにいたのだ。
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「あずまんが、インターネットが世界が平和にできるって言ったの、覚えてる。僕、それ最終目標だと思う」
インターネットで世界を平和にするんじゃなかったのかよ、はてな。
トップページをおしゃれにして人間の承認欲求を飾っててなんになるんだ。
「ポッドキャストだから、あんまりいいたくないけど、人類の99%は救いがたく馬鹿なんですよ」
あずまんが言う。
違う。99%はまともな人間なんだ。1%のクレイジーがあなたたちなんだ。
インターネットで世界を平和にするのは頭がおかしいことなんだ。
でも、そこに僕らはブックマークだよ。心の底からブクマしたよ。
なあ、トップページをおしゃれにして人間の承認欲求を飾っててなんになるんだ。
休日に息子を公園に連れて行くべきなのだ。妻と死ぬまで手を繋いでいるべきだったのだ。
インターネットで世界を平和にするんじゃなかったのかよ、近藤淳也。
しなもんの墓から骨を暴いて細い管に詰めろ。酸の海に沈めろ。万能細胞の開花で復活させろ。
それで今の全てがあのころの全てに戻るのなら、近藤淳也はそうすべきだ。
はてぶ&ドラゴンズで承認餓鬼どもにブクマガチャをぶん回させて、南国に島を買え。
そこにユートピアを作れ。
インターネットで、自由になるんじゃなかったのか?
巨大化していく組織にありきたりな悩みをソリューションするような男は、
休日に息子を公園に連れて行くべきなのだ。妻と死ぬまで手を繋いでいるべきだったのだ。
それが、なんらかの、人類にとって、なんらかの、それはたとえば世界平和に繋がるのかもしれない。
分からない、全く最近のあずまんは意味不明だが、クレイジーとしかいいようが無いが、面白いよ。
近藤淳也、何をしているんだ。
しなもんの最後のお別れにうんこを捨てたって、なあ、馬鹿じゃないのか。
なぜ、そのうんこをほっそいほっそい管に詰めないんだ。酸の海に沈めないのだ。
今すぐ3万円を握りしめて平民金子と女を買いに行かないのだ。(http://d.hatena.ne.jp/heimin/20080918/p1)
さあ、今、近藤淳也は、再度目覚めるべきだ。
だからここで俺が気になるのは、あずまんがシビれるくらいの解答というのはどういうものなのか、に尽きる。他は正直どうでもいいのであしからず。
キーワードとなるのは「狂気」や「世界(セカイではない)」だと思われる。あとおそらく「狂気」は必要条件であって十分条件ではない。
私はヱヴァQを見ていて、あ、これは魔法少女まどかマギカに近いテーマ性を持っている、更にその先に行こうとしていると感じた。
というのも、まどかマギカもヱヴァQも、善意の結果が悪意と悲劇になるならば、善意の結果が人を苦しめることになるならば、というテーマを扱っているからだ。
ほとんどの創作作品において、善意は報われるということが前提になっている。善意が報われないならば誰も善意をなそうとは思わなくなるからだろう。
だが、その前提に対してまどマギは疑問を呈した。善意の結果が悪意と悲劇になるならばというテーマを立て描こうとしたが、まどマギはそこで止まってしまった。善意が悪意に転じるならばそれは絶望で、せめてそのような悲劇にならないように、という物語が描かれた。
ところがヱヴァQでは、シンジはアスカに引っ張られながら、それでも前に進む事を強いられている。生きている以上は歩かねばならない。立ち止まることは死と同義だとでも言うように。
あれから14年経ったのだ。
「おおかみこどもの雨と雪」は見ての通りの物語で、ぶっちゃければ何もない、人々に感動を与えるためだけに作られた物語。そして東はこれに感動したのだという。
もちろんおおかみこどもとヱヴァQでは扱おうとしているテーマがまるで違うから、前者に感動して後者に感動しないというのは当然なのだが、ことさらにヱヴァQを詰まらないというのは、単に14年分の変化が東自身にあったというだけではないのか?
なんかあずまんにつぶやかれたしQ見て良かったわ。
https://twitter.com/hazuma/status/270937897249693696
https://twitter.com/hazuma/status/270943010051719169
それはさておき、庵野はひどい。
ヱヴァQは間違いなく凄い、主人公をどうしようもない加害者に叩き落としたという点でどうしようもなく凄い映画だと断言できる。
ひどいのであって、凄いのかどうかは判断が別れる所だと思う。
座談会でも言われていたけど、なんの理由があってシンジにこれだけのものを背負わさせるか…
共同戦線はっていたはずのミサトやアスカは勝手に成長して実年齢的に大人になってしまうし。(アスカは精神だけだけど、それがまたキツい。グロい。
90~00年代のセカイ系の覇者であるエヴァがこれだけまっすぐに残酷なセカイ系的いじめをシンジに押し付けるというのは、ある意味では圧倒的に正解。
「君を失いたくない、そのためにセカイが滅びてもかまわない!」という無茶な行動に普通のセカイ系作品ならハッピーエンドで答える。
破で新鮮だったのは「それをあのエヴァがやるなんて…」という意外性に尽きる。その意外性に大して庵野がどう答えるか?これはもうわからんね→といった所でこの裏切り。また旧エヴァかよ!この構造はたしかにシビれる。坂上がシビれるのもわかる。圧倒的な新規切り捨て、古参いじり。
さておき、ヱヴァQおよび庵野が凄いorひどいのはセカイを代償にレイを救わせようとしておいてセカイもだめになっちゃったしレイも違うレイになっちゃったしと、ALL代償をシンジに押し付けたその点に尽きる。このひどい代償、並のアニメがやっていたら一笑に付されて終わりだろう。そんな壮大なおしつけ成立するはずないだろ!と。だがエヴァの場合これが成立する。なんといってもセカイ系の覇者なのだから、これくらいの壮大さじゃないとむしろ釣り合わないくらいだ。
そう考えると、「庵野監督が旧エヴァの狂気に対抗するために理詰めで導き出した回答」という点はかなり納得が行く。庵野さんは狂気と理論を同等に扱うことができる天才なのだろう。
だからここで俺が気になるのは、あずまんがシビれるくらいの解答というのはどういうものなのか、に尽きる。他は正直どうでもいいのであしからず。
キーワードとなるのは「狂気」や「世界(セカイではない)」だと思われる。あとおそらく「狂気」は必要条件であって十分条件ではない。
「おおかみこどもの雨と雪」をあずまんが絶賛したのは「狂気」は関係ない。彼はあの作品に普遍的なものを見ていた。
普遍的なものとはつまり、親であるかそうでないかなどに関わらずすごいと感じられる作品だ。
「おおかみこどもの雨と雪」は一見すると親である人間のほうが多くの感動を得られるが、そうではない。
では何が良かったのか。人間と自然の関係か。はたまたジブリ的な「生きる」ことの素晴らしさか。
俺はそれらのどれでもないように感じた。あくまであずまんのツイートからだが。
おおかみこどもの何が良かったのか、ヱヴァQには何が足りなかったのか。言葉にするとそれは普遍性、または世界に通用する何かなのだろうけど、あずまんの口からそれはまだ具体的に語られていないように思う。ていうか正直よくわからないのでゲンロンカフェとかで語ってくれたら嬉しいです。
ヱヴァンゲリヲンのQをみた。東信者である俺は村上裕一×坂上秋成×さやわかによるQ最速座談会ももちろん聞いたし、風花でのあずまんと坂上村上ustも見たし、はるしにゃんとあずまんのtwitterでの絡みもチェックしたし、文学フリマでのQの感想を言いたくて仕方ない空気もしっかり感じた。相変わらず、文学フリマは「東浩紀不在の存在感」しかなかった。
さてQの感想はというと最初は「あれ?もう終わりか」というあっさり感。やけにシンジとカヲルいちゃついてんな、くらいが印象的だったのと、短いのもあってまるでTV版を見ているような感覚だった。劇場は満員で、上映が終わった後の観客の態度もなんだかしっくりきてなく見える。ロフトのイベントに出る直前のQを見たあずまんの感想が「僕には退屈だった」というのもあり、まあこんなものなのかと大して感動もないまま家に帰る。
避けていたネット上の色んなネタバレ感想をチェックしているうちに、Qは旧エヴァを見ている人間ほど思う所が強く、新劇場版から入った人間ほど低評価、という傾向にあるようだ。低評価の人間に多く共通しているのは「ミサトさん達ひどい」だ。シンジに共感している人が多い。確かにミサトはレイを助けるシンジの背中を押したくせにあれだけシンジに嫌悪感を見せるのはひどい。他のヴンダーのメンバーも気持ち悪いくらいシンジを否定している。そりゃサードインパクトを引き起こした張本人を前に友好的になれってのは無理な話かもしれないが、シンジだって使徒止めたしニアサード引き起こしたのはマークシックスなんちゃうん…あとシンジがエヴァにさえ乗らなければフォースインパクト起きないんだからちょっとは優しくしとけよ。自分だけ14年置き去りにされて(28)や(43)にあんだけきつくあたられたらそりゃネルフ側に行くわ…と突っ込み出したら切りがないが、14年という年月の間に明かされてない事が多いのでどうとでも解釈できる。ミサトさんもヴンダー立ち上げるまでに色々あったんだろうし43なら更年期障害とかあるかもしれんし、部下の前で弱い所も見せれんかったのかもしれん。
ひと通りネット上の感想を見た後で坂上村上さやわかQ座談会も聞く。三人とも旧エヴァからのファンで、Qにかなりの衝撃を受けた直後からの感想が生々しくて実に良かった。彼ら的にはQは決して高評価でなく、エヴァを見続けている人間として胸をえぐられた気持ちになり、傷つきつつも、座談会を通して次作のシンエヴァを待つ気持ちにようやくなれたということらしい。しかし他の低評価の人たちに比べたら随分高評価だと言える。聞いていて庵野信者とはこういうものか、と納得できた。
その後続けて風花のあずまん坂上村上ustをみる。こちらはゼロ年代の風景が再びといった面子で東クラスタ的には涎が止まらない。重要なのは坂上がtwitter上で思想地図β2の震災特集号の巻頭言に大して上から目線感想をし、あずまんがカジュアル破門をし、その後坂上が宇野常寛陣営に下った後の初の二人の対面という構図だろう。
人間関係においても時間という薬は効き目が抜群で、あずまんと坂上もあのカジュアル破門の一件から一転して普通に話している。しかしどこかギスギスしている所は否めない。坂上の立場としてはとても難しい。宇野との関係がある以上あずまんと必要以上に交流したら立場として面倒くさくなるのは明白だ。それでもこのustで坂上が冗舌なのは彼だって東信者だからである。あずまんを尊敬して、でもあずまんの強烈すぎる人格性に耐えられなくて逃げて、それでもあずまんが諦めきれないのだ。俺がustの一連の坂上の発言から読み取ったのは「俺を認めてくれあずまん!」というメッセージに尽きる。でもあずまんはもう坂上に大して興味がないしQにも興味がないのだ。坂上が言うQの解釈というのはあずまんにとって遊びでしかない。ゼロ年代的な言葉遊びに辟易した彼からしたら坂上の仕事は頑張っているとは言えても世界を変えるまでには至らない、とるにたらないものだろう。それでも坂上の仕事はあずまんの影響下にあるもので、「よく出来た劣化コピー」のような、あずまんから見たら愛憎交じるアンビバレントな思いもあるだろう。だから彼はゲンロンカフェの話を持ちかけた。これは坂上にとって良い話なので、当然受けるだろう。これは同時にあずまんから宇野に対する牽制でもある。仮面ライダーの話をした点からも明らかだ。坂上の「仮面ライダーなら村上さんも語れますしね…」と力なく呟いたのが印象的だ。そこは明らかに宇野の名前が出るはずなのに、出なかった。出せなかったのだ。まったくもってめんどうくさい話である。
あずまんはなぜQに感動しなかったのか。彼と坂上および村上の間で共通している見解としては「庵野が旧エヴァのような事を再びQでやった」である。破で宮崎駿や押井守に負けるとも劣らぬクオリティの高いエンターテイメントを提供した庵野が、敢えてそれをぶち壊すような所にシビれ、憧れたのが坂上であるが、あずまんはそこに反応しなかった。いや、一定の評価はした。そんなことをしてしまう庵野さんは誠実な作家だし、評価されるべきではある、と。しかし、旧エヴァのようなことをして、それで出てきたものがこれだった、それだけの話だと。つまり、あずまんは庵野が破で得た物を失う覚悟で旧エヴァ的な事を再びやろうとしたQを理解している。坂上と見解は一緒なのだ。その上で退屈だったと評しているのだ。ここでのあずまんのQに対する低評価は謎だ。新規のエヴァファンが破のようなエンタメを期待してQでがっかりするのとはわけが違う。旧エヴァからのファンが庵野の再暴走に困惑されながらもさながら90年代の頃のように「それも庵野の手の平の上で踊っているにすぎない」と自覚しながらも難解な解釈を並べ悦に浸る様子とも違う。旧エヴァからのファンでもあるあずまんはすべてをわかっている上でQを評価していないのだ。そこには坂上と同等かそれ以上のエヴァに対する愛がある。愛がある上での諦め。庵野さんはこの程度だった、という残念感。それはなんなのか。あずまんは純粋に作品から狂気が感じられなかったとも言っている。一方で坂上は破を見せつけた上でこんなことをしてしまう(旧エヴァからのファンに大して14年時間を飛ばすという暴挙を突きつけてしまう等)庵野さんからはやっぱり狂気を感じた、と村上さやわか座談会で述べている。坂上が感じたこの狂気はゼロ年代的である。あの作品があったから感じられる庵野さんの狂気、という文脈ありきの話である。これは言ってしまえば島宇宙内での狂気、カタルシスだ。座談会でも述べられていたが、Qは海外で評価される可能性は限りなく低いだろう。ガラパゴス化したエヴァファンの間で熱狂的に批判され、評価され、むさぼられるのは目に見えている。あずまんが興味があるのは世界を変えるレベルのことなのだ。Qによってその可能性を落とされたエヴァに対して興味が薄くなっているのも無理はない。彼がエヴァで興味のあることとしたらそれによって動員できる人員、客および金と若い芽くらいだろう。シンエヴァによって変わる可能性も否めないが、現時点ではわからない。
大量に書いてしまったが、この二つの座談会とustを見ることで俺個人では感じれなかった旧エヴァ時代からの熱いファンの解釈を知ることができた。それが何よりの収穫だ。みんなも罵倒しながら見るといいんじゃないかな。
※あくまで個人の感想であり、実際のところはよく分かりません。
→「40字で答えなさい」の著者に巨大ブーメラン直撃
「(裏は取ったんですか?の問いに)はい。ずっと取材してます。」
(ちなみにこの件で坂本弁護士事件の例を出すのは全く見当違い。オジキと氏はこの時点で利害対立ない。)
ソースを摘示されると「それは○○の編集者が勝手に書いた」等とその場にいない人のせいにして帰結をペンディングする
あずまんの感想みて思ったけど、巨悪と戦うイメージ戦略こそが彼のビジネスの核なんだね。
そのイメージさえ植えつけられれば、氏に都合悪いことも信者的には矮小化できる。
逆に言えば氏にとって一番怖いのは、巨悪が実はわら人形だったとバレることだったと。
だから経歴詐称なんかはあっさり(というには長々語って)認めた代わりに、降板理由では絶対譲らず
様々な圧力にTBSが屈したという構図を訳分からん理屈こねて、オジキを悪者にまでして死守したんだね。
だから勝ち負けで言えば負けてない。今後大勝するのが難しくなっただけで。
等々といろいろ感じましたが、今回のハイライトはオジキが嘘言ったんじゃね?(意訳)のくだり。
背筋にぞわぞわ~~~っと来ましたよ。
この人は都合が悪くなると関係者との人間関係ごととかげのしっぽの如く切り捨てるんだ、と。
(裏では必死で縫い合わせているのかも知れないけどね)
そこに痛みを感じないところが彼の才能の源泉なんだろうね。
<結論>博士は苫米地氏にマインドコントロールを解いてもらうべき
■冒頭文
この著者はいつも「欧米は出版物の発行額が減ってないのに、日本だけ減ってる! 日本は異常!」と言ってるが、本当にそうか疑問がある。
日本は大衆にまで出版文化が広まった数少ない国であり、その移り気な大衆が今インターネットに移行しているというだけの話ではないだろうか。
一方の欧米ではそもそも日本ほど一般大衆にまで出版文化が拡がっていない。
人口あたりの出版物発行額を見れば一目瞭然で、つまり日本の80年代~00年代が出版バブルだったというだけの話である。
それをこの著者は「失われた○年」などと大仰に語る。
著者が地場中小書店の立場でのポジショントークに堕しているとしか思えない。
■1:出版科研の売上推移
単なるバブルの崩壊の図だ。「表出している出版危機」などではない。
■2:コミックの売上推移
月刊誌・週刊誌は半減しているが、コミック自体は健闘している。ブックオフなどがなければもっと良かったんじゃね?
という分析は正しい。
まあ、80年代からずっと売れ筋のコミックが書店を支える構図はあったから今さらではあるが。
この項目はひどい。
大型店が地方に出て商店街がシャッター通りになるなんて事例は山ほどある。その書店版が起こっているだけという話。
品揃えも悪く、不便で、綺麗でもない店が潰れるのは単なる淘汰の結果であって、当たり前のこと。
しかしこの著者は「大型店はいかん!」と言うばかり。著者がひいきにしてる中小書店は潰れるかもしれないが、それは健全な競争の結果でしかない。
また、「大型店が出来て小商店を潰すと全体の売上が減る」というトンデモ理論を展開している。
出版物発行額が減少してる問題と、この問題は全くリンクなどしていない。
中嶋の「定価10%増・書店マージン6%増」という提案は書店の苦境を救うにはいい提案だと思う。(ナショナルチェーンが更に元気になる結果となり、中小書店が増えるわけではないが)
あとは再販制が崩れた際に、大型店に対抗する形で、コンビニ型の「やや高いけど近くにあって品揃えも新鮮で綺麗で明るい小さな書店」という業態が成り立つ可能性はあるかも知れない。片岡の言う「生活圏の書店」というのはそういう方向になるだろう。
「書店の知の機能」などという、現状が全く見えていない論点ボケボケの文章なのでスルー。
このクロニクルの著者もあずまんの文の内容については完全スルーしているところが可笑しい。
もちろん時限再販・買切の世界がやってきたら、このクロニクルの著者が肩入れしてる中小地場書店はより激しくなる競争に勝ち残れずに潰れるけどね☆
ただ、提案の3にある付録の件は地味に意味があると思うし、4については新古書店問題も絡めて警察と連携して取り組むべきだとは思う。
■7:取次の立場
日販の社長なら2/12の話なんてどうでも良くて、2/23日経の「買切を増やす」って話の方が100倍も重要だろうに。
(1)書店の売上総利益率を35%と約10ポイント高くする代わりに、返品する場合の返金額は仕入れ代金より低くする
(2)一定期間がたてば書店が小売価格を決められる(時限再販)一方、その後は返品を認めない
あたりの提案についてこのクロニクルの著者は言及すべきだった。
■8:『スティーブ・ジョブズ』
ただ、個々の書籍の事例は別にして、大勢としては今後この数字が上がることはあっても下がることはないという点が重要。
ま、どっちも起きるだろうけど。
これはつまり、電子書籍規格の乱立によるamazonの一人勝ち状態を防ぐというのと、上記の価格破壊を起こさないようにするためのもの。
ここは著者の妄想が素晴らしい。
「出版デジタル機構が出版社を代行し、取次や書店に電子書籍を卸売りする」とか。アホかと。そんなお花畑みたいなこと考えてるのかとがっかりする。
ただ、著者の言う「出版の魅力は許認可でないその自由、民間の知と力によって生じるもので経産省など官の下とかちゃんちゃらおかしい」という主張には心の底から同意。
■11:MARC
「公共図書館の理念なき膨張が書店を潰した」という著者の主張にも同意。
あと図書館・図書館員・図書館担当に異動してきたただの公務員を、貸出数で評価するのはやめるべき。
MARCはどうでもいいが、デファクトスタンダードになってるTRCに統一すればいいと思う。官が税金を使ってJAPAN/MARCをごり押しするとかマジ勘弁。
司書の問題もあるが、上記の通り司書や図書館担当の公務員を評価するシステムの問題が根本。
どうでもいい。
「雑誌とともに形成されてきた、多くの近代の「趣味の共同体」そのものが消えていきつつある」などと著者は書いているが、単にその共同体がネット上に移動しただけの話。
むしろ、雑誌を編集してきた人のような囲碁界周辺の「囲碁を見る側のプロ」が減るのが問題だ。ネットの集合知が代替できる気もするけど。
クロニクルの著者は「何となく楽しい」などとボケた感想を書いて終えているが、これは重要な話題。
出版物の流通経路が、他の流通経路と比べて圧倒的に効率的(返品を抑えられる場合)であるという面を見逃してはいけない。
小売価格の70%近くが販売者に入る流通って他にはほとんど無いのだ。
つまり、見る者が見れば、出版流通は美味しい経路だと言うこと。これは今後更に利用してくる会社が出てくるだろう。
これは書店が生き残る道の一つかもしれない。
■16:著者の宣伝
過去の出版業界について記す人はいてもいいと思うので、まあご自由に活動なさって下さい。
世相を反映して、それを日々日々描く4コマ漫画なんだから、我々と同じ世界観が無い方がおかしい。
うーん・・・
戦闘でも、恋愛でも、成長物語でもなく、キャラの掛け合い(キャラにとっての日常)を淡々と描くのが日常系だと思うんだけどな。
この『キャラの掛け合い(キャラにとっての日常)』を、『我々の(現実的な)日常』に近い形で描いているって認識が、私とはずれてるんだと思われ。
なんだか知らないが大富豪がいて、とんでもない天才がいて、狂言回しの大馬鹿がいて、そのなかで没個性ともとれる普通の人が居て。
それらキャラの存在になんら疑問を持つ必要がない世界で、キャラの掛け合いに特化したような話を展開するのが、日常系だと思うんだが。
関係ないけど、「処女好き」な人も、下のどちらを上位に置くかによって、分類されうると思う。
・体は非処女だが、心は一途
まあ、「処女タンは心も処女にきまってるんだい!」という夢を見てる阿呆は置いておくとして、ひろゆきの言う海外の処女好きは「心の処女性」とかはどうでもいいんだと思うんだよね。病気のリスクが低くかつ他の種を孕んでいる心配がない、という。でも、あずまんが批判してるオタクの処女好きが求めてるのは、そういう即物的なことではないんではないか。
いずれにせよ、「学生時代からお互い始めて同士でつきあって卒業後すぐ結婚して、子供できてバタバタして、30過ぎでほーっと生き抜いた瞬間に不倫始めたカップル」とか、そういう例も見てると、処女信仰とかホント意味ねーわと思う今日この頃。
18歳未満をどうやって判断するかなんで、描いてるマンガ家自体ができるんじゃないの?
ランドセルだとか制服だとか設定以前に、小学生ならこれくらいの頭身で顔は丸くてとか、
「小学生らしく見せる」方法論はあるわけでしょ。
もちろん画風によるだろうけど(たとえば個人的にはあずまんがの人なんかは全部小学生に見える)、
マンガ家は小学生として描いてるし、読者もそう認識しているにも関わらず、
「どうやって18歳未満と区別つける」とかっていうのは「どの口がいうの?」と思う。
それに「資料」として実在する児童を撮影した「児童ポルノ」に該当するものを所持してるケースも多いのでは?
俺は、26歳の彼女いない暦=年齢の男だ。
顔は子供っぽい童顔で今でも20歳くらいに間違えられる。
小学校、中学校と自分は女の子に苛められていた。もともと、社交性があまりなく重要な場面で空気が読めないのが災いしたらしい。
「○○はきもい」「死ね」
などと、頻繁に言われていた。
それは、中学になっても続いた。
こんな自分が、コンプレックスを拭う事ができるのはアニメや漫画、小説などの内向的な趣味でありそれを語ることができる男のオタク友達だった。
このころから、電子工作や自作PCやプログラムに嵌ることになる。
幸い、自分は勉強だけはできたので県下の公立進学校に進学した。
高校に進んでも、付き合うのはオタクタイプの友達ばかりだった。
同級生の中には付き合っているという話も聞くようになったが、はっきり言って興味がそれほどなかった。
好きな女の子とタイプを聞かれたら、あずまんがの大阪と答えるような高校生だった。
好きな勉強ができるというのは辛いながらもそれなりに楽しい。ギャル女やギャル男が大嫌いな自分にとって、基本的に真面目な男しかいないこの環境というは非常に心地いい。
でも、20歳を越えたころから周りの友人に彼女ができ始めた。サークルや合コンで知り合っているらしい。
自分も女の子は好きだ。だが子供のころのトラウマから特に同年代の女の子が怖いのだ。
自分も合コンに参加してみた。私立の女子大生との合コンだった。
だが、そもそも何を話して良いのかわからない。彼女がいたことがないと言うと驚かれた。そんな風には見えないと。
子供っぽい顔も、年齢が高くなってくると悪くない顔に見えるらしい。
だが、共通の話題が一切見つからず、隅でじっと一人で酒を飲んでいた。
このような合コンには何度か参加した。
中にはアプローチと思われる行動をしてくる人もいて
血液型や星座が同じだと「運命感じる」などと言ってくる人もいたり
だが自分はそれに対してどんなリアクションをとったら良いかわからないし、子供のころのコンプレックスからか恐怖を感じてしまう。
決して、女の子が嫌いなわけではないのだが。。。。。
そのうち、研究室配属後はこのようなイベントにも参加しなくなった。
就職は、誰でも名前を知ってる大手の自動車メーカーに決まった。
就職後は忙しい日々を送りながらも、同窓会や合コンに参加してみる。
自分の勤務先を知るやいなや、甘い目線で話しかけてくる元同級生の女の子。はっきり言って気味が悪い。
合コンでも、似たような感触を受ける。
彼女らは自分自身ではなく、自分の年収とボーナスに興味があるのだ。
そんなこんなで、26年たった今でも彼女いない暦=年齢だ。
「俺、萌え系4コマ漫画好きだよ」と言う男に、好きな作品や作家を聞いてアニメ化作品の名前があがってくるとげんなりする。心底がっかりする。アニメ化したのも私も大好きだし、素晴らしい作品だと思うけども、臆面も無くらきすた・けいおんの名を挙げる人のほとんどが、それ以外の萌え系4コマを読んでいないんだもの。それどころか、そのアニメ化作家さんの別の作品も読んでいない。せめて「棺担ぎのクロ。」ぐらい読んでから言ってもらえませんかね。
要するに「萌え系4コマ漫画を理解する心のアレな俺」を演出するために、いちばんてっとり早くて優等生な回答なんですよね。らきすた・けいおんは。あと、あずまんがもこのカテゴリに入る。
確かに男性に人気の萌え系4コマ漫画家として鉄板なことは間違いないけど、本当に萌え系4コマが好きならもっとたくさんの名前が挙がってもいいと思う。もっと読めよ!きらら以外も!エロマンガ雑誌のも!「あずまんが大王」「らき☆すた」「ひだまりスケッチ」「けいおん!」のコンボはもう飽きました。
1度だけむんこという回答が返ってきて、土下座せんばかりに感動したことがあります。あ…この人、本当に萌え系4コマを読んでる人だ…と思ったよ。
(元ネタ古…)