はてなキーワード: 一冊の本とは
読まずにハックルさんを批判することは許さん。読んだ上で、この記述でハックルさんが言うような読みが可能であるかどうかを判断するべし。
私自身としては、みなみが変な子であることは認めるが、小説版の書店員さんの行為にはそれほどの過失がない、と擁護したい。
おそらく普通の人は、他に野球部にマネージャーというものがいれば、まずその人に聞いただろう。
しかし、なぜか彼女は目の前のマネージャーの活動を観察したり、彼女に質問したりするより本を読むことにした。
彼女が目の前の現実よりも本に書いてあることや理論、自分の頭のなかにある理想を重視する人物で有ることがよくわかる一文である。
ようするにみなみはちょっと変わった子なのだ。
そこで、家にあった広辞苑を引いてみた。すると、そこにはこうあった。
マネージャー【manager】 支配人。経営者。管理人。監督。
また、すぐ隣にはこんな言葉も載っていた。
これを読んで、みなみは「マネージャー」というものを「管理や経営をする人---つまりマネージメントをする人」だと理解した。
この時点で、みなみは「管理や経営をすること」だということを受け入れていることに注目。
普通ならここで、あれ「野球のマネージャーは?」とか「管理や経営ってどういうこと?野球と関係ないんじゃないの?」って思うかもしれないが、
彼女はなぜかこれだけ読んで「管理や経営をする人になろう」と納得できてしまうのだ。そういう子なんです。
で、肝心のシーン。
次に、今度は近所の大型書店に出かけていった。
そう、みなみはこういう聞き方をしたのだ。
なぜ彼女が野球部のマネージャをやってるんだ、とか甲子園に連れていきたいんだ、とか言わなかったかはわからない。
でも、書店員がこの質問に対してべつにプロのビビッとした感覚がなくても「マネジメント」を手渡すことにそれほど違和感はないだろう。
余計な説明はいらないところだ。別にハックルさんがマンガ版でやったように空想を働かせてもいいけども。
するとその若い女性店員は、一旦店の奥に引っ込むと、すぐに一冊の本を手にして戻ってきた。
「これなんかいかがでしょうか? これは『マネジャー』あるいは『マネジメント』について書かれた本の中で、最も有名なものです。世界で一番読まれた本ですね。
もう三十年以上も前に書かれたものなんですけど、今でも売れ続けているロングセラーです。これはその要点を抜き出した『エッセンシャル版』です。
何も聞かずに「マネジメント」の本を手渡すのは、ありだと思う。
だが、それはここでgdgdと説明することとの整合性が悪い。
ハックルさんがいうようにビビっと来たと主張するのなら余計な説明なしに「コレがいいと思います」でよかったはずだ。
こんだけ長々と説明するくらいなら、その前にもうちょっと相手の話を聞いても良かったはずだとやねうらおさんが思うのはむしろ自然な反応だと私は思うね。
(まあこう言えば、「書店員さんはビビッと来て何が何でもみなみに読んでもらおうと努力したのだ。それがプロの店員というものだ」とか返すんだろうけど。
もしそう返すなら、みなみは真剣味が足りなかったんですかって返したい。なんで自分の状況をもっとちゃんと伝えようとしないんですかってね。)
そこでみなみは、その本を手にとって見てみた。タイトルにはそのものズバリ「マネジメント」とあった。
著者はピーター・F・ドラッカーで、編訳者は上田惇生、出版社はダイヤモンド社となっていた。
そうして彼女は、中身も見ずにその本を買い求めた。値段は二千百円と少し高かったものの、世界で一番読まれた本というのが気に入った。
それに、あれこれ考えてもしょうがない---という思いもあった。
本を買ったみなみは、家に帰ると早速それを読み始めた。
繰り返しになるが、みなみはあまり深く考えない子、自分の思い込みで突っ走って周りを巻き込む子として描かれている。
その思い込みが間違っていても、痛い目を見ないとわからない子なのだ。
だから「なぜ中身も見ずに買ったのか」とか突っ込んではいけない。
ここでハックルさんが「みなみは運命を感じたんだ」とか色々説明したがるかもしれないが、読者としては「ああ、この子はアホの子なんだな」程度の認識で構わない。
そのほうがこの作品を楽しめる。 というかなんでも「経験とか勘とか運命」とかで説明てんじゃねーよハゲ。それは説明になってねーんだよ。
それでも、すぐに気持ちを切り替え、その先を読み始めた。
こういうのはよくない。
ところが、そうやって読み進めてみると、その本は意外に面白かった。
また、単に「企業経営」についてだけ書いてあるわけではないというのも次第にわかってきた。
そこには、企業を含めた「組織」の経営全般についてが書かれていた。
そして、それなら野球部にあてはまらないこともなかった。野球部も、広い意味での組織だった。
だから、組織の経営について知ることは、野球部の経営を知ることにもつながった。
それが分かって、みなみはホッとした。---この本も、全くのムダではなかったのだ
なぜみなみは「マネージャー」という単語さえ広辞苑で調べないとわからないのに
「組織」については、広辞苑を引かなくても理解できているのか。
違和感を感じるかもしれませんが、この部分は読者がちゃんと想像力を働かせてください。
そうしたことは抜きにしても、この本は面白かった。
みなみはそこに書かれていることを完全に理解できたわけではなかったが、何かとても重要な、だいじなことが書かれているというのは良くわかった。
言葉の一つひとつが、とても重く、とても貴重なものとして受け止められた。
それに魅了されたみなみは、夢中になって読み進めていった (続)
はい、参考にはなりました。ムダにはなりませんでした。
ではなぜみなみはこの本を参考にした後「野球のマネージャー」に関する本を買おうとしなかったのか。
その答えは実際に本を読んで確かめてみましょう。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20110702/p1
スロウハイツの神様は本当にいい物語だとは思うので、この記事を読む前に読んでほしい。
この記事を読むと、この記事を読まずに読んだ時とおそらく得られる体験がおおきく変わってしまう。
逆に言うと、この記事を読むならば、もう原作の方は読まなくていいんじゃないかと思う。
どっちか片方を選択しないといけない。
作者は他のプロ作家と戦いながら、こういうネタバレ評者とも戦わなければいけない時代。大変だな。
映画好きな人ならわかると思うけど、別にあらすじを知っていても
一部のトリック的な部分はともかくとして、
核の部分はやっぱり読まないとわからないし、ネタバレ読んでても感動できるものは感動できる。
そういうもんです。
だからどうぞ気にせずブログ記事を読んだ上で本も読むといいよ。
ちなみにこの部分の記述を読んで
すべて物語というものには差別構造がある。ある人物を「主人公」としてクローズアップし、特権化し、その人物の悲劇を人類最大の悲劇であるかのように描くというどうしようもない欺瞞の構造。
その構造そのものを鬼頭は批判する。それはリアルではない、物語のなかで端役としてどうでもいいように死んでいくだれそれにも、実は何十年かの人生があり、かれが死ねば泣き叫ぶ家族があるのだと、そう告発する。もっと想像力を働かせろ、物語が切り取っている部分が世界のすべてではないのだと、そう思い知れ、と。
あまりにも「正しい」告発である。わたしはうなずくことしかできない。その通りだからだ。しかし、同時に、人間は「愛という名の差別」から自由になることはできないこともまた事実なのだ。
わたしたちは物語を通してその登場人物に愛着を感じ、その人物を「特別」にしてしまう。ほかのどうでもいい脇役、端役に比べ格段に重要ないのちだと錯覚してしまう。決してそうではないはずなのだと、理屈ではそうしりながら。
物語にひそむ、この「愛」、この「差別」は、本質的にどうしようもないものだ。どれほど批判されても、わたしたちはこの構造から抜け出すことはできない。これは人間の「愛」の限界でもある。わたしたちは、物語的に理解できない百万人の死より、物語として理解できるひとりの死のほうを哀しむ生きものだ。わたしたちは物語を通してしか世界を把握できない。
そして――『スロウハイツの神様』は、『ぼくらの』とは対照的に、物語を称揚する。物語の魅力、その迫力、ひとを天上にまで導くその圧倒的な力の賛歌をうたい上げる。物語は素晴らしい。それはひとの人生をも変える力をもっている、ほんとうに素晴らしくまたうつくしいものなのだ、と語りあげる。
そして辻村はそれをひとつの物語のかたちで表そうとする。この物語の最終章のもつ怒涛の迫力はどうだろう。わたしは思う。あまりにも不自然だ、こんなことがあるはずはない、と。しかし、その一方で、わたしはまた思う。これこそ世界だ。このようにありえないことがじっさいに起こる場所、それが世界なのだ、と。
そうだ、ご都合主義かもしれない。やりすぎかもしれない。何かが過剰で、しかもべつの何かが過少であるのかもしれない。しかし――しかしそれでもなお、この物語は、わたしの心を打つ。ここで語られているものは、ある人間が生み出した物語が、ほかの人間の心を捉え、その人生を変えてしまうことはありえる、奇跡は起こる、という信仰だ。
その奇跡の瞬間、灰いろの生は輝きを取り戻し、彩りを増し、信じられないようなうつくしさでわたしたちを圧倒する。それをまえにして、わたしたちは思うのだ。ああ、生きていて良かった。生まれてきて良かった。
この世界は暗黒かもしれない。人間の宿命は絶望かもしれない。それでも、ここに一冊の本がある。一篇の物語がある。それははるか遠く、わたしをしらず、しろうとも思わないだれかが、それでもわたしに向けて放擲したメッセージボトルだ。それは長い長い旅の末、ついにわたしに届き、そしてわたしの生を変えた。
ああ、それはなんて素晴らしいことなのだろう。その「エウレカ!」の瞬間、わたしの世界は黄金の光に包まれる。エウレカ! わたしは見つけた。わたしはついに見付け出したのだ。生きる理由を。それは一作の、ただおもしろいだけの物語だ。しかし、その物語があるだけで、この世界の地獄のすべては許せる。
愛しているよ、とわたしは思う。この世界を愛しているよ。どうして愛さずにいられるだろう。このような物語を生み出したその母なる世界を。この物語が生まれえたというだけで、すべての悲惨、すべての苦しみは許される。それほどに、わたしはこの物語を愛している。
kaienさんには「ワールド・イズ・マイン」の感想を書いて欲しいと思った。
どちらかというと「ぼくらの」寄りの作品だと思うんだけれども、しかし「スロウハイツ」的な部分も感じる。
物語とか世界というより、人間そのものが大好きな人が書いた作品だと思う。
なので、こういう作品をkaienさんがどう評価するのか読んでみたい。
皆様…本当にありがとうございます 書いて良かった…
今日は一生忘れられない日となりました。読んで下さった皆様、本当にありがとうございます。感謝の気持ちを込めて、是非この本を紹介させて下さい。ドミニック・ローホーさんという方が書いた「シンプルに生きる」という本で、まさに今の自分に相応しい本だと思いました。心からオススメです。
↑どう見てもここでいきなり幻冬舎の本の紹介とか、唐突すぎるだろ。
酒井法子著『贖罪』に寄せられたレビューと同じようなノリを感じさせる↓
謝罪会見にて。。。
「この度は、薬を使ってしまい、その上、薬抜くために逃亡を図ってしまい、大変反省しております。 申し訳ございませんでした。。
…さて、この度反省の思いと、私の生い立ちを一冊の本にまとめました。タイトルは「贖罪」です。
皆様におかれましては、是非私の思いを手にして頂き、読んでいただければと思います。
「百歩譲って、オレの番組が子供に悪影響だったとしよう。でも、それなら親であるあなた方が、『マネしてはいけませんよ』と言えばいい。
仮面ライダーの「変身!」、ライダーキック、北斗の拳ごっこ、かめはめ波、アバンストラッシュ、
あ、聖闘士星矢のクロスを段ボール作ったヤツもアウトな。犯罪までいかなくても、創作物は人の言動に影響を与える。
黄色い傘のアバンストラッシュで目潰したら、十分悪影響を与えたことになる。
楳図かずおや「デビルマン」、「ぬ~べ~」とか読んでトラウマなったヤツいるだろ?
いい映画体験・読書体験がないって言ってるのと同義なんだから、文化的水準が低いことを恥じろ。
矛盾に気づけ脳なし、何自分が犯罪予備軍だって自慢してるんだよ。同じ男として恥ずかしい。
鏡見ろキモオタ。レッテル貼りあってどーすんだよ。批判すべきは外見じゃなくて意見。
でも「作品の力」を、文化の力を見誤るな。お前らが見下すな。
たった一冊の本で、人生が変わる事はある。それくらい創作物は「危険な武器」なんだ。
それはオレ達こそが一番よくわかってるんじゃないか?
だからこそ、自覚的に使わなきゃ(「=規制しろ」ではなくて)。
その原因は紛れもなくネット。ウェブ。得にはてなブックマークとかが原因。
だいたいさぁ、ブックマーク数が結構ついてるエントリーとか見つけると気になって仕方なくなるんだよ。
なにか自分がまだ認識していない大切なことがわかったり、自身の思想とか価値観とか人生観とか世界観とかを劇的に変えたりとか
それらについて考えさせられる考えるべき何かとか、要するに
「自身が価値があると感じられる、未だに認識してない、認識するべき何らかの情報が広大なネットや本に存在しているのではないか?」っていう疑念。
いや存在しているのだろう、それは無数に。 こういった無限に膨張し続ける情報に取り巻かれている今
粛々と受験勉強なんてしてて良いのか? っていう思いが募りだして2年ぐらい経つ。
ある一つのエントリー、ページとか一冊の本とかで何かが変わったり、東大合格と健康維持という目的(目標)ぐらいしかない俺が
他の何か、素晴らしい夢とか目標とかやりたいことを獲得するかもしれない、、、
今年で一浪目だが、合格できるかどうかわからん;; それほどまでに俺は心を奪われてしまっているんだよ、目の前のこれに。
最近どうしようもなく怖いんだ。
いつか東大を諦めてしまうようなことになるのが。
このことが原因でただ情報を漁って逡巡することに膨大な時間費やして
大して行動せず何も為さないままだらだら生きていくことになるのが。
現役で東大に合格した受験生と俺、何が違う?彼らは情報をいかに処理したのか?
なんで俺とかはいつまでも足踏みしてんだ?
もうどうすればいいんだ… もう完全に俺の問題解決能力では手におえない。助けて欲しい。
とにかく東大に入りたい。なんで入りたいかはこの際どうでもいいはず。各位、自身の抱く目標に置き換えて
それを阻む要因として俺のこの疑念がそれなら一緒に解決しよう。解決してください。お願いしましたよ。
>元々勉強できるやつだったら別にゲームしてようが何してようが東大でも何でも受かるし
勉強が手につかないのに受かるわけないだろ!
自分がどういうタイプだろうが俺はどうしても東大にいきたいんだよ!
ほりえもんって受験のとき、起きてから寝るまでの間、食事、風呂、トイレ以外、勉強しかしなかったらしいけど
今の俺にはそういうストイックさが必要なんだ。
なぜ他の何かに現を抜かす俺のようなどうしようもない人間と
おおよそどんな目標でも達成してしまいそうな ほりえもんや孫正義のような人間がいるんだろう 同じ人間なのにどこが違うんだろう
好きで好きでしょうがなかったけど、パリンパリンの童貞だった自分には彼女にアプローチを仕掛けていく術など無く、「彼女に触れたい」という思いはいつしか「彼女が触れたものに触れたい」という気持ちに転化して、必然的に変態行為に走ることになった。
しかし変態行為が彼女に発覚してしまってはすべてが終わってしまう。表面ではあくまで紳士的にふるまいつつ、悟られぬように事を行わなければならない。言ってみれば変態紳士だ。
手はじめに、蔵書整理の時に彼女が使った軍手を持って帰って匂いをかいだ。ホコリの匂いがした。
それからおもむろに股間にはめてオ○ニーをしたが、終わったあとはものすごい罪悪感におそわれて、彼女をそういう卑猥な対象にするのはやめようと思った。ホコリまみれの軍手をはめたせいで股間に雑菌が入って大変なことになったが、天罰だと思って耐えた。
彼女が使っている髪留めと全く同じものを買い求め、こっそりとすり替えて匂いをかいだ。ゴムの匂いがした。
もっと強く嗅げば彼女の匂いがするかもと鼻の穴にねじ込んだら、奥まで入りすぎて勉強机の上に嘔吐した。親から勉強のしすぎでストレスがたまったかと疑われて検査入院させられたり、いない間に机の掃除をされて秘蔵のエロ本が軒並み廃棄されたが、天罰だと思って耐えた。
ある夏の日、彼女の水泳バッグが準備室に置いてあった。準備室には自分ひとり。逡巡の後バッグを開けて顔を突っ込んで、思いっきり匂いを吸い込んで元に戻した。塩素の匂いがした。次の日の水泳の授業の時にそのことを思い出して勃起してしまい「勃起ング」という不名誉かつ月並みなあだ名をつけられたが、天罰だと思って耐えた。
放課後の貸出カウンターで彼女は私物の本を持ち込んで読んでいることが多かった。図書館にはこんなに蔵書があるのに、それ以外にも読む本があるとは!との畏敬の念と、集中して本を読むその横顔を眺めるのに夢中でついぞ声を掛けることなどなかったのだけど、勇気を出して何を読んでいるのか聞いてみた。尾崎翠の「第七官界彷徨」だった。もう何回も読んでいるから興味があるなら貸すよ、という申し出に一も二もなくうなづいて借りて帰った。
自室で正座して本を広げると、わずかに花のような香りがした。劣情を催すよりも、どうしてお互い図書委員で本が好きなのは分かっているのにこういう普通の交流が思いつかなかったのかと、自分の浅はかさに慟哭した。
一週間かけて何度も読み直し、いかに素晴らしい本であったかを控えめかつ熱意をこめて感想を述べると彼女は微笑んで「気に入ってもらえて良かった。今度は君のお気に入りの本を貸してね」と言った。
しかし自分は吉川英治や山岡荘八などの時代小説しか読まないうえに、自分で本を買う金を惜しんで図書委員になっているくらいだったから蔵書というものもなく、あれこれ悩んでいるうちに受験シーズンとなり貸出業務のローテーションから外されて、彼女に本を貸す機会にはついに恵まれなかった。
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彼女は女子高に進学し、それから全くの音信不通となった。クラスも違えば共通の知り合いもなかったので、彼女がどこで何をしているのか知らないままに僕は大学を出て地元に戻って就職した。
働き始めて1年たってようやく気持ちに余裕が出てきたので、久しぶりに本でも読もうと市の図書館へと足を運んだ。何冊か物色して貸出カウンターに行くと、そこには彼女が、当時の面影を残したまま、いや、それよりもだいぶ/かなり/相当きれいになった彼女がいた。
「「こんなところで何やってんの?」」
とふたり同時に言って、ふたり同時に笑った。
貸出の手続きを終えて「それじゃあ」と言って図書館を出た後、しばらく外のベンチに座って頭の中を整理して、もう一度貸出カウンターに向かった。
「どうしたの?」
「裏にケータイのアドレス書いてるから、時間があるときにでもメールちょうだい」
と言って返事もまたずに家に帰った。本当は、
「借りるのを忘れた本があるんだ。君という一冊の本を。あの時読みたくて、読めなかった本。貸出期限は無期限で頼むよ」
と言うつもりだったが、言うのをやめて本当によかった。言っていたら多分、天罰だと思っても耐えきれなかっただろう。
幸いなことに彼女からはその日の夜すぐにメールがあって、何度かのやりとりの後には映画に行ったり美術館に行ったりして、なんやかんやあって今年の秋、彼女と結婚することになった。
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中学高校大学と、華やかで彩られた学生生活とは無縁の人生を過ごしてきたけれど、人間地道に真面目に生きていればいいことが起こるんだなあと、しみじみ思っている。なので、現在のところ暗い学生生活を送っている人も、自暴自棄にならないでいい感じに頑張るといいと思う。
それと、件の変態行為については彼女は全く気がついていなかったようだ(勃起ングという不名誉なあだ名は伝わっていたけれど)。そのおかげで今の生活があるのだと思うと、変態行為を行うのは男として仕方のないことだけれでも、あくまで紳士的に、相手になるべく迷惑のかけない形で行うのが良いよ、と伝えたくてこの文章を書いた。今では思う存分、彼女の脱いだ靴下や下着の匂いを嗅いでいます。
今日、苦手な英語を勉強しようと家の近くにある市立図書館に足を運んだんだ。
開館直後に入って席に座り「よし、やるぞ」と心の中で意気込み、いざ勉強。
だが、勉強初めて1時間と少しくらいで飽きてしまったのか、集中が切れたのか、急にやる気がなくなった。
やる気がなくなったものの「何かやんなきゃな」とか思ってたら、
バッグの中に結構前から読もうと思ってたちくま文庫があることを思い出した。
でも、ただ読むだけじゃつまらない。
そこで「字の練習」と「本に出てくる漢字の復習」をする為に、
中に出てきたある程度難しい漢字を無駄紙に書き出しながら読むことにした。
日頃から「お前の字汚いな」とか言われたり、書きたい時に頭の中に漢字が思い浮かばない私にとっては良い機会だ。
普段一冊の本を読む時に「中身を吟味する」という一つの目的しかない私に違う二つの「目的」を加えた。
どうしたもんか、頭に文章がスラスラ入ってくる。理解もできる。おまけに集中も尽きない。
結局閉館まで集中力が尽きることなく、読み続けた。
この間からまたハマりはじめた。大事なのは感情。ただ期待するだけじゃだめだったんだなぁ。あの当時は、悲しい気持ちが強すぎてどうしても良い気持ちになれなかった。
今は、はっきりと願うものを現在形で手にしていると思える。
今日引き寄せと思われるちょっとした経験(2ちゃんでもいいけど、こっちのほうが自分の書いたことを確認しやすいので)
大学生協でいつもミールカードを使って食事をしているけど、食堂は嫌だから弁当を買って家で食べるようにしていた。
ところが、時間が合わなくていつも置いてある弁当がほとんどなく、サラダも置いてなかった。いつも買うカフェオレも売り切れで、あまり好きでもない弁当を買うしかなかった。
その時、今の時間なら混んでもいないし食堂でおいしいものを食べられる、と思い立った。
食堂のほうがメニューも豊富だし、安いのにかなりの量を食べられる。行った時間がちょうど授業中だったので人も少なく、良い席を難なくとることが出来た。
これって引き寄せかも?サラダやカフェオレが売り切れだったおかげで、冷めた弁当ではなく出来たての食事をとることが出来た。
さらに言えば、この日は珍しく歩いて20分もかかる本屋に行って引き寄せ関係の本を立ち読みしていた(現在金欠で一冊の本も買えないため)。
今の願いとしては、毎日10万円を自由に使える生活がしたい、というものだけど(それ以外にもあるけど)、この気持ちをずっと継続しようと思った。
本を読む集中力がありません!
ttp://alfalfalfa.com/archives/385931.html
141 無名草子さん :2006/10/26(木) 03:15:15
冗談のようだが理にかなった方法。現実におれはこの方法で全盛期の読書量をとり戻した。
いや、むしろ超えた。
簡単な話だ。たくさんの本を併読するのだ。俺の場合は4~5冊が丁度いい感じだが
その方法を教えてくれた人は10冊以上併読だそうだ。
なんのプレッシャーも感じることは無い。読みたい本を読みたい分だけ読んで
集中できなくなったら一呼吸置いて、別の本に移るのだ。
話したいことはもうないのか?全部話したのか?大丈夫か?やり忘れてはいないか?行きたいところには全部行ったのか?気になる奴には会いに行ったか?会いに行って、そいつは本当はどんな奴なのかを確かめてきたか?好きな人しかセックスしないと言っていたけれど、出来たのか?風俗の女とは心が通じ合わないからセックスしないとか言っていたけど、風俗の女とのセックスは心が通わないことを確認したのか?
いつか行きたいといっていたイビザには行ったか?いつか乗りたいと言っていたベンツには乗ったのか?ヤナセにいけば試乗出来るのに、どうせお前は行っていないんだろう?どこかで聞いたベンツの話をうのみにして、乗った気になっているんだろう?勉強したいことが沢山あると言っていたけど、本屋でそれに関する本を買ったのか?あれから3ヶ月経つけど、一冊の本を読むのにそれほど時間がかかるとは思えない。お前は花を買う時に何を気を付けたらいいのかを知っているか?誰かがお前の代わりに花を買ってきてくれるんじゃないかと思ってはいないか?
・買ったのはいいけど、なぜか読まずに放置しちゃう本ってありますよね。
いずれ読もうと思いつつも時間だけが経過していき、そのうち買った事すら忘れ、
後に同じ本を買ってしまったなんて経験をすると自分が嫌になります。
昔は、買った本はその日のうちに読んでしまったものです。一日で何冊も読破した
という事もありました。今では一冊の本を読み終えるのに数日かかるなんてザラです。
酷い時は飽きて途中で読むのを辞めたり、短編集で一話だけ読んで他は放置するなんて事もあります。
最近なんか読んでも少し時間が経過しただけで内容を思い出せなくなったりして、
「読んでもどうせ内容を忘れてしまうから」と本に対して抵抗を感じるようになったりもします。
読書ってなんだろうなと考えます。昔はどうだったんだろう?
いくら読んでも読み足らず、一日中活字に向き合ってても、苦労も苦痛も感じなかったあの頃は。
単純に楽しかったからでしょう。
本の内容、中身が。あるいは読書そのもの、本を読むという行為自体が。
今はどうなんでしょうか。私は何の為に本を読んでいるのか。
記憶したいから? 知識を得たいから? 人に自慢したいから?
他の人が読んでいるから? 買ったから? 本を読まない奴は馬鹿という
世の中の教えに背きたくないから? 勉強の為だから?
本に対して小難しく考えすぎているのでしょうか。
「所詮、たかが読書じゃないか」と気楽に構えればいいのでしょうか。
「記憶できない? 忘れてしまうなら、もう一回読めばいい」と。
「理解できない? 時間が経ったり、知識が増えたりすればできるようになる」と。
今、私の読書にとって一番大事なのはなんなんでしょうか。
それすらも分かっていない私は実は、読書が好きではなくなったのかもしれないと考えてしまいます。
そもそも読書とは何の為にするものでしょうか。
http://anond.hatelabo.jp/20100115181154
この31歳、魔法使い。相当に痛い、絶望的にどうしようもないが、こんな男でも本気であれば恋人を作る事も不可能ではない。というのも、俺がほぼそれに近い状態から恋人を作ったから。今にしてみれば「なんだそんな事かー」と思えるような事も、当時は分からなかった。そんな、これを出来ていれば恋人が出来るであろう、幾つかを書いてみたい。
女性と言うものは、敬意をもてない男には魅力を感じない。これは断言できる。女性の恋愛感情は、相手への敬意によって立つ部分が大きい。お金を稼ぐ男がモテルのも、金うんぬんよりもそれを可能にした能力への敬意と憧れが、理由だと思う。従って、自分に自信を持てない男には、誰かが振り向くことなどありえない訳だ。
それをどう克服するか?簡単だ。努力を積み上げればいい。何でもいいが、女性が聞いて凄いと思えるものなら尚更いい。
個人的には、トレーニングとかジョギングをお勧めしたい。俺もこれをやった。日に10キロを走って年に数回フルマラソンの大会に出場し、締まった体を手に入れれば、出会う女性の幾人かはその努力に敬意を持ってくれるだろう。これなら、なんの能力もない、仕事が出来るわけでもない、魔法使いでも出来るはずだ。というか出来る。
繰り返すが、敬意を抱かせるに足る能力を持たない相手に、いい女は人生をたとえ一部でも預けたりしない。
友達の居ない男は、あまりにも悲しい。正直に言って魅力がない。同時に友達を作るのは恋人を作るのと同じくらいに難しいものだと思う。互いに教えあえるような共通の趣味を持ち、常に相手の立場になって、気持ちを予測する、それは恋人と付き合うときにも等しく必要なことだと思う。だから、友達の多い異性には安心感や包容力を誰もが感じるし、頼りたくなる。
もっと踏み込んで言うなら。友達を作れ=人の気持ちを常に考えろ、ということ。概ね魔法使いは自分勝手で、我がままで、自虐的で、自尊心だけが以上に強い。そんな人間とは、男女を問わず、誰だって一緒には居たくはないもんだ。他人の気持ちを知り、痛みを知る、これは最低限のルールだと知って欲しい。
まずは、周りの人間に自分を晒し、相手の気持ちを受け入れ考えることから始めよう。友達が一人増えれば、その友達が彼女になるかもしれない女性をつれてきてくれる事もある。結婚すれば、祝福もしてくれる。苦しいときには支えてくれる。やがて、周囲の優しさが人格を丸く豊かにしてくれる事に、きづくでしょう。俺も色んな集まりに顔を出して、男に好かれる男を手本に、頑張った。お世辞にも友達は多くないけど、一緒に旅行したり、入院したら何も言わずとも見舞いに来てくれる様な友達は何人か出来た。掛け替えのない宝だと思ってる。
大量の本を読め、出来れば感情移入して。一冊の本を読み終えたとき、一つの人生を経験したと思えるほどに。
本を読み込むことで、圧倒的に足りない人生経験や、感情の動き、知識を多少でも補うことができる。本を読むという行為は、それを血肉にするつもりで読むことで、思っているよりも多くのものを与えてくれる。魔法使いの多くは、外見なんか問題にならないほどに、幼くて醜い内面をもっている。それを強制し埋め合わせる為に本を読むべきだ。また、話題の豊かさや語彙の豊富さは、そのまま魅力につながる。話題や会話の仕方に悩む必要がなくなった時に得られるアドバンテージを想像してみて欲しい。俺は多くはないだろうけど、年に150冊ほど今でも読んでる。生活の一部だ。
年に2回くらい、できれば海外へ行け。
なんだか分からない場所で、身振り手振りで、自分を伝えながら身一つで旅をして来い。
言葉の通じない場所で僅かな金でたった一人で行動することは、思った以上に勇気が必要だ。それも危険な場所なら、尚更だ。そこで、モノを買い、食事をし、宿を取り、道を尋ねる、そういう一つ一つの経験が日本で手に入れる何倍もの経験になる。見知らぬ他人の優しさや、その逆の厳しさ。お金の大切さ。命がある事のあり難さ。それを思い知った人間の魅力は、そうでない人間なんか及びも付かないほどに深くて温かい。俺は、去年はフランスへ行ってきた、旅はいいもんだ。
なんだかんだ言っても、男は仕事だ。仕事の出来ない男なんか、存在する価値すらないと言われても、俺は声を荒げて反論できない。
しかし、人間には能力の差がある。だれでも1流のプレーヤーにはなれない。だから、せめて打ち込める仕事を見つけよう。なんでもいい。必死になって頑張って、愚痴をこぼさなくてもいいような、そんな仕事を見つけよう。自分の仕事はつまらない、そう思っている男には魅力がない。例え1流でなくても、俺はこれが好きだと必至になってる、その横顔に人は惹かれるもんなんじゃないか。幸運な事だけど、俺にはそれが最初からあった。最初はその価値に気付いてなくて、出来ない自分が嫌で逃げ出そうとばかりしていたけど、今は足掻いている自分に誇りを持っている。
プロ野球の2軍や、サッカーのJFLの選手の様にリーマンよりも稼ぎのない男でも、いい女を引き連れてるのはなぜか?そういうことだ。
ここまで出来て、それでも誰にも愛されないなんてことはまずない。外見なんか清潔感を失っていなければそれでいい。良く貼られる写真で全身で60万の衣服をまとった男とイケメンの対比があるけど、あれがいい例だ。中身の伴わない奴は、どんなにいい服を着ても服に着られるばかりで意味がない。中身のある男なら、全身ユニクロでもカッコイイのは、あのユニクロの広告を見てれば分かるんじゃないか?顔も関係ない。自信を手に入れた時に、あなたの事をブサイクだなどと心から笑う奴なんか居なくなる。自分に磨きを掛けて黒の似合う男になろう。そうなれば、見た目なんか何の問題もなくなる。服の方で着て欲しいと言って来る様になればシメタモノダ
ナンパだの、出会い系だの、自分を下げるような事をするのは辞めたほうがいい。クダラン女を何人釣っても幸せにはなれないよ。そんな事をする位なら、自分の中身の価値を上げよう。
青と言う色は、藍という植物から取れるが、藍のもつ色よりも青は尚青い。積み重ねた努力は人を別物に変えてくれる。人は誰でも青になりうるんだ。と荀子は言った。30歳、魔法使いは、人生を諦めるにはまだまだ早すぎる。
finalventさんの文章を興味深く読ませていただくことがたまにあるな、と考えていて、しかし、ほとんど書いてある事が日本語としてよく分からない、残念ながら(半分以上か)。
大変、失礼のような気もする、しかし、シンプルなエントリーということもあり、読ませていただいてるのにどうかとも思うのだが、いつもは雰囲気で読んだような気になって流していた文章ではあるのだが、今日はちゃんと自分なりに翻訳を試みてみたいと思う。
そういえばと考えてみると人生観を決定づけた一冊の本としての「ソロモンの指環」
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090628/1246181415
(翻訳始め)
つらつらと下らない事(※直前の数エントリーの事)を書いていて、なぜ私はそう考えて(※直前の数エントリーの事)生きてきたのだろうと考えてみると、「ソロモンの指環」という一冊の本に思い至った。
私は人間の性行動(恋愛なども含めて)というものを、動物のそれとして見ている。このヒトという種の特性はなんだろう?というふうに。
もしかするとそんな特性なんて無いのかもしれない。
ただ、種としての行動、特に性行動にはやはり基底となる特性があって、人間存在というのはそういうもの(性行動においてしばしば種として共通の特性を持つもの)なのだと思っている。
私は他者の性行動をおおまかに見る時は、動物の一種として見ている。もちろん、私も含めて人それぞれに違いはあるが、その違いは大したものではない。
私は自然科学少年だったので、津島佑子みたいに、芋虫を飼ったり、植物を育てたり、交配させたりという事を小学校低学年の頃からやっていた。
そして10歳までにはほとんどの生物について生殖に関する知識を得ていた。ただ人間も似たようなものだということは知らなかったので、知った時は驚いた。「うわ、人間やってらんないな、ぐへ」などと思った。
しかし、事実は事実なので、それはそういうものなのだという事にしておき、ローレンツ博士の「ソロモンの指環」などを愛読していた。
(今思うと、ノーベル賞受賞前から読んでいたと思う。)
その後、デズモンド・モリスの「裸のサル—動物学的人間像」なども読んだ。
この手のものは当時流行していた知識で、その流れの上に現れた栗本慎一郎の著作などもよく理解できた。
今にして思うと、ローレンツもモリスも栗本も、偽科学なんだけど。
もしも僕がこの本を中学生くらいで読んでいたら、もっと動物寄りの
人生を選択したのではないだろうか。
(翻訳終わり)
種というか類的な行動は特に性行動の基底にはあるわけで
人それぞれに違うし、ただ、私の違いもその程度の違いというか。
そこはかとなく偽科学
「はっきりしないがなんとなく偽科学」?だろうか。例えばローレンツが書いていた事が一部、後になって間違いだと判明した件などを指しているのだと思われる。
一枚絵ならまだしも、一冊の本を唾吐きだけで構成するのはかなり難しそう。
そりゃ、確かに無理があるだろうね。ただ、おしっこものなら昔から結構あるし、ぢたま某という放尿ばかりの作品を輩出する作家すら居るじゃん。
だから唾を吐きかけられるというジャンルにも可能性があると思うんだよ。
確かに、おしっこものは「催す・放尿する・後始末(飲んだり舐め取ったりする)」という行為を段階的に描写できるけど、「唾かけ」というのは一瞬の出来事である上に、何をもってプレイが完了したか、そこんところを表現するのは難しいはずだ。おしっこを出し尽くすというのはセックスで言えば絶頂に相当するだろうけど、唾かけは精神的充足の起伏をどうやって描くのかという疑問はある。確かにアブノーマルと言えるほど変態性の高いプレイではないし、かといって誰しもが望むプレイというわけでもないから中途半端なんだろうな。
「我々の業界ではご褒美です」な話。
http://anond.hatelabo.jp/20090204223715
この方かな。情熱は素晴らしいと思う。
唾を吐きかけられる「だけ」ってのは確かに見たことがない。
少なくとも二次パロだと覚えがない。フェチ系実写ならあるのかな。
唾を飲ませてもらう、は結構あるけどMシチュではないし。
一枚絵ならまだしも、一冊の本を唾吐きだけで構成するのはかなり難しそう。
あってもせいぜい前戯で、その後「自慰強要」「足コキ」「顔面騎乗」etcのプレイに移行してしまう。普通の人はそうでないと物足りないし。私とか。
(Mシチュ大歓迎という時点で普通じゃねぇという突っ込みは受け付ける)
結局「自分で描け」という話になってしまうのかなぁ。
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10137812924.html
結局、論壇という狭い世界を漂っているなんとなくな言説の「空気」を「世界」だと思っているのよね。
それじゃ読者にはいつかバレるし、どんどんバレればいいと思う。
最近の彼の書くものを見ながらずっと思ってることなんだけど、東浩紀ほどネット上の言説にコミットして、その結果として悩んでいる人間はいないんじゃないかと思っている。
私が「ゲーム的リアリズムの誕生」を読んで一番印象に残ったのは、その注釈の多さだ。ページの半分が注釈で埋まっている箇所さえある。確かに、360度からツッコミが入る環境で言論を戦わせた経験のある人間が、それを踏まえてなお、己の主張を一冊の本に固着しようとしたら、あらかじめ360度の防衛線を張るより他ないだろう(まぁ、それでも矢はガンガン盾を突き抜けていくわけだが)。
少しでもネットで議論を交わした経験のある人間なら分かると思うが、公の場に自分の主張を出すということは、己がコミットするものが、「世界」から見ればワンオブゼムでしかないことを徹底的に再確認させられる作業だ。情報技術の発達は、あらゆる立場のあらゆる人間が己の主張の正当性を信じているということ、それを可視化することを可能にした。たとえ、その主張が本人の誤解や全くの思い込みに基づいていたとしても、だ。そして人には、それを真実であると信じ、仲間と共有し、異を唱える者を「反公共的人間」として糾弾する「自由」がある。
だから、彼が「南京」を例に出しているのを見たとき、そういう現状を極めて率直に語っているのだな、というのが私の感想だった。彼の言っていることは全く正しい。「世界」に対して真に誠実に向き合うなら、あらゆる主張が「ありうる」という事実を認めるほかない。
しかし我々は、徹底的に相対化されうる「世界」の中でなお、それぞれがそれぞれの理由で「偏り」を持った存在であり、それを解(ほど)くために何かにコミットすることを選ばねばならない。たとえ、そのことに絶対的な正当性がなくとも。そして同時に、己の立ち位置の「根拠」の無さを忘れることなく。
東氏も、最終的にはメタメタから降りて、何かに「あえて」コミットする道を選ぶことになるだろう。けれど、上の文を一読して、そんな彼を悪し様に批判してどうするんだろうな、ということを思った。もちろん、それを言ってる本人やその他の人々やそして私が、東氏の言うジレンマを踏まえた上でなお何かにコミットすべく踏み出していくのは勝手だし、いや、むしろとても価値あることだと思う。
しかし、「お前はなぜそれにコミットしないのだ。風見鶏を気取りやがって!」という批判は、直裁に言えばとても気持ち悪い。何かにコミットする、そしてそこに正義がある、というのは今や自明ではない。もちろん、自明でなくてもヤラねばならないことはある。それはそれで正しい。しかし、上記のような批判には、その二律背反に対する躊躇が全く感じられない。そういう躊躇の無さが、批判的な意味で「左翼的」と呼ばれているなら、その感覚には同意する。
「コミットすることの正義」は自明ではなく、しかし、自明でなくとも進まねばならない。この隘路を踏まえずに突き進んでも、全ての言説が相対化されタコツボ化するネット社会において、「利己的な正義」のワンオブゼムとして忘れ去られる以上の成果など残せないのではないか。
東氏が、いつ次のステージに踏み出す気なのかは知らない。我々は、彼の言説を踏まえつつも、それを尻目に黙々と自分の道を歩めばいい。それだけの話だろう。
(追記)
上のエントリが某所で言及されてたのを見て、反射的にコレを書いたんだけど、よく見ると9月の記事だとさっき気づいた。上で「360度」って書いたけど、これは若干語弊があるね。今まさに実証してしまったように、弾は四次元の方向からも飛んでくる。よく、こういう環境で「批評」を、しかもそれを「本」という固着された存在にしようなんて思うよなぁ。
(追記2)
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20081203#p1
んー、そういう「誤った相対主義」の結果として東の発言を捉えるのはミスリードだと思うんだけどなぁ。そもそも例の発言は、デリダの言ったっていう「ユニバーサルな人間理解の可能性」というのは所詮不可能であるし、不可能であることを前提としない民主主義はある意味不健全である、という認識に基づいていて出てきた発言であるように思うので。その辺は、「東京から考える」や「思想地図」を読むと分かると思う。
彼らには圧倒的に時間が足りなかったのではないか。
彼らには圧倒的に物量が足りなかったのではないか。
彼らには圧倒的に勉強が足りなかったのではないか。
ソフィシケイトされそこなった中学時代の叡智の遅れは、近代文学を叙述したたかが一冊の本を読んだ程度で贖われるものなのだろうか。
中高時代普通の人の倍の授業を受けていても、"sophisticate"を「ソフィシケイト」とカタカナ化するぐらいだからまあそこは致命的な問題ではなかろう。
と、からかいだけで終わらせてもいいのだが、単なる揚げ足取りと思われないために一応。
スペルや発音の覚え間違いぐらい誰でもしますよ。本当に重要なのはそこじゃない。そうじゃなくて、学校の授業の時間数が多いことが本当に重要か、ってことです。授業時間なんて人生の中の時間にしてみればたかが知れているわけで、逆に言うと授業中にしか勉強しない人はそれ以上大成しませんよ。普段の時間から勉強する(場合によっては勉強しているという意識すらなく)姿勢が身に付いているかどうか、そこが重要。そういう姿勢を身につけるためにはただひたすら授業時間を増やせというものではない気がするが。
経験上、詰め込み教育を受けたときはその場で習ったことの定着は大きかったが、それ以上に自主的に考えようとする姿勢は退化してしまっていたように思う。せいぜいそういう教育で得られるのはこういうスペルや発音を間違えないことぐらいでしかない。逆に言うと、ブログ主さんの頭の中身は学校の授業だけで得られたものなんかじゃない。
知っている限りの、古典的な例
ルターは、ヘブライ語と、ギリシャ語で書かれていた聖書をドイツ語に翻訳しました。
たくさんの人が聖書を読むことができるようになりました。
一冊の本があり。
100人の人がそれを読んだら、
100通りの読み方があります。
イエス・キリストが行ったこと。いったこと。
なにを、幹とみて、なにを葉っぱとみるかも、読む人によって違ってきます。
読み方を、基準にして、
いろいろな、グループができる。
聖書のオープン・ソース→さまざまな聖書解釈の成立→カトリックの読み方が、権威として絶対ではなくなる。
それぞれの解釈を絶対だと主張する。
聖書の読み方が違う人間同士で、テキストの意味解釈をめぐる論争にとどまらないで、
??己の聖書解釈の絶対性を、世界に知らしめるために、戦争をして、体を滅ぼす
??己の聖書解釈は、ほかの人に強制すべきではないという妥協をうけいれて、自分の体を温存する。
このどちらがいいかを天秤にかける。
多数の人たちは、??を選んだ。
聖書というテキストからどういう意味を読み取るかは、それぞれの個人の自由。
でも、その意味の取り方を、ほかの人にも強制するのは、違法だという社会システムを構築する。
聖書のOpensourceがもたらしたもの。
多様化の生成ゆえの軋轢
確かに。
はてなダイアリーとかで盛り上がってる話題って、その道をちょっとかじった人からすると
「つーか、今更そこかよ」
っていう話題多い。
まあ、自分もしがちだからあんまり言えないんだが……
そういう話題が出て面白くなってそっち系の本を読んでみると、たった一冊の本に、はてなで皆が散々「どうだこれ!すげえ案思いついたぜ!」ってな感じで言い合ってる論が、普通に書いてあって、その上、とっくに論破されていたりして、恥ずかしくなったりする。
所詮はてなも、井戸端会議の域は出ないんだな。って、そりゃ書いてる人たちはほとんど専門家じゃない普通の人たちなんだから、場所がかわっただけで中身は変わっていないのだから、井戸端会議になるのも当たり前といえば当たり前だけど。それに、井戸端会議が悪いわけでもないしまあ悪いわけじゃないんだけど。でもなんだかね。
時には何世紀も前に論破されてる論が盛り上がってたりするね。素人が政治かじると特にその傾向がある。それはそれで面白いけど。
一冊の本に対してそこまで執着もってるんだったらすごいね。
その熱意に敬意を表して、コピーでもいいし、PDFでもいいし、
あげたらいいとは思うのだが(何ページあるかしらんけどね)。
総天然色192ページ。
この本。
そもそもが十数年前に出した本の再販で、
彼はもともとの版は持っているらしい
ページ数が16ページ増えた程度で基本は変わらない
こちらも社会人だし、
「カネはいらないから全ページをコピーして送りますよ」
と何度も言ったのだけど、理解してくれなかった
いつも往復ハガキで問い合わせをされる
メールで連絡していただいた方が……とも答えたのだけど、
そもそもパソコンを持っていないらしい
だから、pdfってのも論外
極めて特殊なケースだとは思うよ
「あなたの昔の本をどうしても欲しい」と
何度も連絡してくる人は別に珍しくもないらしい
十代の子でも、お年寄りでも、
自分の趣味に対する執着は変わらないということかな
横から失礼。
1998年にある本を発行し、その翌年ぐらいに売り切れた
ところが、2000年頃から、
毎月のように送られるようになった。
文面も文字も丁寧なんだけど、慇懃無礼な感じ
最初は遠回しに、途中からははっきりと再販できない理由は
説明したのだけど、理解してくれる気配もない
今でも夏と冬に同じ問い合わせが来る
そのたびに気が重くなる。
ちなみに、相手、65歳ぐらいの男性なんだよね。
その年で、そこまで執着するのはなんでなんだろ
一冊の本に対してそこまで執着もってるんだったらすごいね。
その熱意に敬意を表して、コピーでもいいし、PDFでもいいし、
あげたらいいとは思うのだが(何ページあるかしらんけどね)。
直木賞受賞後第一作の『荒野(こうや)』は、以前ファミ通文庫で刊行された『荒野の恋第一部』『荒野の恋第二部』の二冊に、第三部を新たに書きおろして、一冊の本にまとめられました。
インタビュー|スペシャル|桜庭一樹『荒野』特設サイト|文藝春秋 http://www.bunshun.co.jp/kouya/special/interview.html
ファンとしては無事完結させてくれたというのはありがたい。
でも同時に、ラノベ作家から一般作家へというのが鮮明になり寂しいとも感じる。
で話は変わるのですが、この本はラノベなんですかね?それとも一般書になるんですかね。
以前どなたかがレーベルでラノベを判断しているとのことでしたので
一般書になると、内蔵される1部2部はどうなるんでしょう。