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2024-04-16

anond:20240416060109

ソースは私の下半身の反応です

これは摂理であり定理であり宇宙実在することの証明なのです

2024-04-15

彼、最近あの最終定理にご執心だけど、これは前から新参なのでよくわからん

数学の美

数学者数学に美しさを見出していることは知られている。

多くの数学者は最も美しい証明を見つけることに意欲を持っており、数学芸術の一形態と呼ぶことがよくある。

「なんて美しい定理だろう」「なんてエレガントな証明だろう」と言う。

 

完璧な部屋の形状は、ルネッサンス建築家によって、壁が一定比率を持つ長方形の部屋である定義され、それを「黄金分割」と呼んだ。

建築家今日でも、最も調和のとれた部屋には黄金分割比があると信じている。

この数値は、多くの数学現象構造に現れる (例:フィボナッチ数列の極限)。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、均整のとれた人体と顔の黄金分割を観察した。

西洋文化やその他の文明では、均整のとれた人体の黄金分割比は、上部 (へその上) と下部の間(へその下)にある。

 

モザイクは、固体部分(木、石、ガラスなど)を重なりや隙間なく平らな面に組み立てる芸術形式である

その洗練された形式では、モザイクには認識可能パターンがあり、それが 2 つの異なる方向に繰り返され、中心も境界も優先方向も焦点も特定されない。

モザイク作品のような模様が無限の広がりを感じさせる。

19 世紀には、数学的な観点からタイリングには 17 個の対称性しか存在しないことが証明された。

アルハンブラ宮殿モザイクは、考えられる 17対称性をすべて表していることが発見された。

数学用語では、モザイクタイリングと呼ばれる。

タイリング形成するとは、2 次元平面を幾何学的形状 (多角形または曲線で囲まれた形状) で重なりなく完全に覆うことを意味する。

タイリング画像を変更せずに仮想的に回転または反射できる場合タイリングは対称と呼ばれる。

歴史上最も印象的なモザイクは、中世イスラム世界活躍した芸術家、特にスペインアルハンブラ宮殿の美しく洗練されたモザイク作成した芸術家によって制作された。

アルハンブラ宮殿は、グラナダ旧市街を見下ろす赤土の丘に、13 世紀初頭にムーア人によって建てられた。

ここは、膨大な量の模様、装飾品、書道、石の彫刻など、イスラム教の建築デザインを展示するものである

オランダ人芸術MC エッシャーアルハンブラ宮殿を 2 度訪れ、宮殿と周囲の中庭タイルに見られる華やかな模様をスケッチし、カタログ化した。

エッシャータイリングは必ずしも周期的ではない。

これは、タイルが一定の間隔で表示または発生することを意味する。

何百年にもわたる熟練した建築タイル張り、 (調和する力としての)対称性への深い敬意、(宗教商業のための)幾何学研究知識により、17 の考えられる対称性グループすべてがアルハンブラ宮殿の壁に表現される。

 

自然界の結晶(雪の結晶鉱物宝石など) は、秩序と対称性規則に従って原子的に構築される。

2、3、4、6 回の構造対称性があり、周期的。

非周期的タイリング、つまり周期性のないタイリングは 1960 年代数学的に可能であることが証明されたが、当時は秩序はあっても周期性を持たない固体構造自然界には存在しないと考えられていた。

1982 年、イスラエルテクニオン大学ダン シェクトマン教授は、後に準結晶として知られる自然が作る非周期結晶存在予測した。

準結晶パターンには 5 つのエッジを持つ多角形が必要

このような自然で作られた石は、ロシア山岳地帯最初発見された。

2009年、この発見プリンストン大学教授であるポールスタインハートによって科学的に発表された。

2011 年、シェクトマンはその予測によりノーベル化学賞を受賞した。

 

数学は常に美の起源本質説明できるのか?

そうでないなら、美しさは見る人の目にあるか?

美しさは(文化的地理的歴史依存まで)絶対的用語であると断言できる。 

2024-04-01

[] ミクロの基礎

経済とは、オペレーションズ・リサーチ手法分析されることが多い。

まり消費者効用最大化、企業利潤最大化に基づいて行動する。

均衡分析では、財i=1,...,kが存在するもとでD_i(p) = S_i(p)を考える。

このとき消費者企業が何を最適化しようとしているのかがわかるだろう。

まり企業視点から見れば、どの財をどういう価格でどのくらい売ろうとしているのかによって。

消費者視点から見れば、どの財をどの価格でどのぐらい買おうとしているのかによって分析できる。

ここで「均衡」とは何かということについて、厚生経済学の基本定理では「パレート効率性」が焦点になる。

まり「誰かが損をしない限り誰も得をしない」状態を指す。

なぜこれが「厚生」なのかというと、国民全体の幸福を考える上では「犠牲の元での効率性向上」では困るからである

誰かが損をした場合、厚生を考える上で補償原理の話に自然に向かうことになるだろう。

ここで経済学では「事実」と「価値」の判断区別するということが行われてきた。

パレート効率性は「価値」の話であり、均衡分析は「事実」の話である

価値とは、この場合「なにをすべきか」という論理のことを意味し、事実とは「なんであるか」という論理意味する。

もし功利主義者が現れれば、パレート効率性とは別の「効率性」を持ち出してくるだろう。

典型的には「ハンコ業界を滅ぼして、電子化を進めよう」といった論調がそれに属する。

経済において、特定集団が損を被る場合はまず「パレート効率性」について考えなければならないだろう。

障害者障害年金を配るのは非効率だ!」と功利主義者が言い始めた場合厚生経済学者は「障害者年金を無に帰すことはパレート改善ではない」と言うだろう。

このようにして、「べき論」にも根拠必要であることがわかる。

一般市民がべき論を語り始めると、それは「自分利益になるかどうか」という視点になりやすい。

しか経済特定の誰かの利になるよう調整されるものではなく、国民全体にとって調整されなければならないだろう。

ゲーム理論的なナッシュ均衡で個々の最適性を議論すると、全体としての効用が低下する恐れがある。

ナッシュ均衡は悪い意味で安定しやすいため、パレート効率性を重視する場合政策レベルでの議論必須である

参加型宇宙と量子観測

「参加型宇宙」は、宇宙物理学者ジョン・ホイーラーが提唱した概念で、観測者(行為主体)が世界を捉える視点を重視し、世界記述必然的主観的になるというものである

この概念は量子ベイズ主義(QBism)という量子力学の新しい解釈とも関連がある。

量子ベイズ主義量子力学に現れる「確率」の概念を、「客観的」なものではなく「主観的」なものとして解釈する。

量子ベイズ主義(QBism)、情報理論、量子観測エントロピー関係は非常に深く、それぞれが相互に影響を与えている。

より一般的な測定のモデル記述するためには、量子測定理論の枠組みが必要となる。

2024-03-29

anond:20240329203437

エルマーの最終定理とか俺溶けるし

AとBの二乗はCになる

はいろんぱ

anond:20240329193311

もちろん加法定理倍角の公式微積分の公式とその証明は一通り知っているが、それを使うことで解けるあらゆる問題の全てが解ける状態にあるのかは全くわからないし検証するのも悪魔の証明染みてて難しい

もう受験生でもない自分高校レベル参考書問題集いつまでも解いたりするべきなのか分かりません。

解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。

以下から持論です。

まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います

から私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います

それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚場合が混ざるおそれがでてくると思います

まり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからいかからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。

そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります

まりその高度な理論理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論概念複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。

理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。

しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。

単に用語意味を知らないといったことなら、その用語ネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。

しか学術文章理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからいから」というような、わかりやす輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。

大学レベル参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます

それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。

その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います

特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述シンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます

それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。

これは大学高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります

これは、角度のことについてなら、中学受験算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます

しか書き手にはすべての読者のレベル対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。

そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないか理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なもの特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。

上記高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造問題を共有していると思います

因数分解極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています

なのでその人たち自身が見てきた高校レベル参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。

ですから大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。

でなければ結局「何がわからいかからない」「なんでわからいかからない」という状況に陥ると思うわけです。

予備校講師数学アドバイスで「数3は数1Aと数2B知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2B完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います

まり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。

一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。

また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います

先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベル文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。

そして、どの大学レベル理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。

なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベル文章高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合高校レベルだけど初見だと解けない問題死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。

たか高校レベルから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。

しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。

2000年上前ならピタゴラスの定理理解することも十分意義深いことだったでしょう。

時代が進むことによって、より高度な定理理論発見され、既存定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。

このような文脈での主語あくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。

あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。

一方実際に世界経験する主体単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。

ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類文明主語である場合、それが最先端知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値規定されていたのですから個人主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。

まりその個人理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。

大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界現象に対する理解解像度をあげると思うのです。

から大学レベルのことには書いてない高校レベル問題の解法も赤本や難関大意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばし大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。

まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。

ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。

なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。

2024-03-27

anond:20240327131838

スポーツも、数学すらも、ある種この文脈で言うゲームみたいなもんだよな。

定められたルール(公理)のなかで、どれだけのプレイ(定理発見)ができるかに、興奮があるだろう。踊らされるのは愚かだとルール破壊して審判を殴ったり公理否定してめちゃくちゃな怪文書主張して悦に入ることこそ、果たしてどうなのかということだね。

ルールのもとにおあることを、踊らされてるととるか別の意味を見出すかはその人次第

2024-03-19

発達障碍当事者自己語りに関する語り

最近はあまり見なくなったけど、少し前は発達障碍当事者自己語りをネット上でよく見かけた。

自分にはどういう特性があり、どういう問題を抱えてきて、何が困難で、といったような語りだ。

これはかつてネット上の色んな場所で見られ、時に煙たがられてきたようなものだが、当人にとってこれは自分理解し次の段階に進むために必要ステップである


このような語りをするのは、大人になってから初めて診断を受けたような人が多い。そういう人は、子供の頃から様々な理不尽に曝されて生きてきている。

人と全く合わなかったり、馴染めなかったり、いじめられたり。自分普通にしているだけなのに、その原因が分からない。


それが発達障碍という概念を知って、自分を散々苦しめてきた原因はこれだったのか!と天啓を受けたような気分になる。

あの時の理不尽も、この時の違和感も、すべてはこれが原因だった。人生伏線回収だ。

そして、この大発見を皆に知らせたいという気持ちになり、このことを知ればみんなが自分を見る目も変わるかもしれないと期待をも抱き、語らずにはいられなくなってしまうのだ。

自身もそうだった。俺はネット上ではなく精神科医に対して自己語りをしたのであるが、A4用紙に20ページぐらい、自分の半生の出来事一心不乱に書き続け、病院に持参したものである


そのような「大発見」は、当人にとっては生き方を左右するレベル出来事だが、赤の他人にとってはどうでもいいようなことである

しかし発達障碍の当事者は、発達障碍を持つがゆえに、それが他人にとってどうでもいいことであるとは気づかない。

そのため、まるで数学の新しい定理発見たかのような気持ちで、その発見他人にとっても価値があるものだと確信し、自己語りを公開するのである


そのように自己語りをしても、周りからの反応はほとんどない。しかし、そうして言葉を紡ぐプロセスを経ることで、当事者自分自身を深く理解し、次のステップに進むことができる。

また自己語りに関する反応が薄いことで、ああこれは他人にとって価値のない情報なんだと、当人もやっと理解することができる。自己語りは、当事者自身のために必要ことなのだ。


最近、こうした自己語りが少ないのは幼少期から診断を受ける人が増えてきたためだと思う。子供の頃から発達障碍の自覚があれば、大人になって急に天啓を受けることもないのだろう。

また発達障碍の概念が十分に知れ渡ったために、他人に知らせたいという動機も薄くなっているのだと思う。

しかし今でもそうした語りをまったく見ないわけではない。もしそのような自己語りを見かけたら、それは当人にとって必要ステップなのだ理解してほしい。

2024-03-12

東大受験の反応を読んで思うこと

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.u-tokyo.ac.jp/ja/admissions/undergraduate/e01_01_18.html?fbclid=IwAR3u3tx2ji1C8XBi0-Iu6oLyoU8h7WUPU8WiuRn0o7fHNZU1WpS5h6l7n2k_aem_AX1-ytSRH1uW30Mg7v3wKWraZph_RSQJEmNHAC1z6uUTOFNMIc8Si048XzmCySm0xfI

「でも合格するためには東大用のテクニックを学ぶことが肝心だよね」みたいなブコメがついてたけど、自分の実感とは違いました。

自分受験生だったのは数十年前なので、今は変わっているのかも知れませんが。

受験数学でいくと、ある程度のレベルまでの大学だと、テクニックが役立ちます

東大京大は、そういうテクニックは役に立たなくて、本当に数学的に考える力を見る問題を出してました。

受験数学で使う知識は、すべて教科書に書かれてます

教科書に書かれていない定理公式を使って解く問題はありません。

重要なのは、その定理公式をどう組み合わせて答えを導き出すか。

本当に基本に立ち返って、定理公式を深く理解していないと、テクニックを外れた問題には対応できないです。

東大に受かるには受験テクニック必要なんだろ」というレベルではなく、その受験テクニックも知った上で、基本に立ち返って組み立て直す「考える頭」が必要になります

なのでレベルが上がれば上がるほど「教科書をやれば大丈夫」になっていくんじゃないかなあ。

受験数学テクニック」はある程度のレベルまでは真実だと思います

でも、それは、ある程度だよ。

2024-02-21

[] 数学は量子物理学と同様に観察者問題がある

量子力学における観測問題についてはよく知られるように、人間主観性が量子実験の結果に重要役割果たしている。

ドイツ物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクによる有名な引用がある。

私たちが観察するのは現実のものではなく、私たち質問方法さらされた現実です。」

例えば有名なダブルスリット実験では、スリットの後ろに検出器を置かなければ電子は波として現れるが、検出器を置くと粒子として表示される。

したがって実験プロトコル選択は、観察する行動パターンに影響する。これにより、一人称視点物理学の不可欠な部分になる。

さて、数学にも一人称視点余地はあるか。一見すると、答えは「いいえ」のように見える。

ヒルベルトが言ったように、数学は「信頼性真実の模範」のようである

それはすべての科学の中で最も客観的であり、数学者は数学的真理の確実性と時代を超越した性質に誇りを持っている。

ピタゴラスが生きていなかったら、他の誰かが同じ定理発見しただろう。

さら定理は、発見時と同じように、今日の誰にとっても同じことを意味し、文化、育成、宗教性別、肌の色に関係なく、今から2,500年後にすべての人に同じ意味があると言える。

さて、ピタゴラス定理は、平面上のユークリッド幾何学の枠組みに保持される直角三角形に関する数学声明であるしかし、ピタゴラス定理は、非ユークリッド幾何学の枠組みでは真実ではない。

何が起こっているのか?

この質問に答えるには、数学定理証明することの意味をより詳しく調べる必要がある。

定理真空中には存在しない。数学者が正式システムと呼ぶもの存在する。正式システムには、独自正式言語付属している。

まりアルファベット単語文法は、意味があると考えられる文章を構築することを可能にする。

ユークリッド幾何学正式システムの一例である

その言語には、「点」や「線」などの単語と、「点pは線Lに属する」などの文章が含まれる。

次に正式システムのすべての文のうち、有効または真実である規定した文を区別する。これらは定理である

それらは2つのステップで構築されれる。まず、最初定理証明なしで有効である宣言する定理選択する必要がある。これらは公理と呼ばれる。

これらは正式システムの種を構成する。

公理から演繹は、すべての数学コンピュータで実行可能な印象を生む。しかし、その印象は間違っている。

公理選択されると、正式システム定理構成するもの曖昧さがないのは事実である

これは実際にコンピュータプログラムできる客観的な部分である

例えば平面のユークリッド幾何学と球の非ユークリッド幾何学は、5つの公理のうちの1つだけで異なる。他の4つは同じである

しかしこの1つの公理(有名な「ユークリッドの5番目の仮定」)はすべてを変える。

ユークリッド幾何学定理は、非ユークリッド幾何学定理ではなく、その逆も同様。

数学者はどのように公理を選ぶのか。

ユークリッド幾何学非ユークリッド幾何学場合、答えは明確である。これは、単に説明したいもの対応している。

平面の幾何学であれば前者。球の幾何学であれば後者

数学は広大であり、どのように公理選択するかという問題は、数学の基礎に深く行くと、はるかに感動的になる。

過去100年間、数学集合論に基づいてきた。

すべての数学オブジェクトは、いくつかの追加構造を備えたセットと呼ばれるものであるということだ。

たとえば自然数のセット1,2,3,4,...は加算と乗算の演算を備えている。

一般的なセットとは、数学で正しく定義されたことがない。

集合論特定正式システムによって記述される。Ernst ZermeloとAbraham Fraenkelと、選択公理と呼ばれる公理の1つに敬意を表して、ZFCと呼ばれる。

今日数学者は、すべての数学を支える集合論正式システムとしてZFCを受け入れている。

しかし、自分自身を有限主義者と呼ぶ少数の数学者がいる。

彼らは、無限公理と呼ばれるZFCの公理の1つを含めることを拒否する。

言い換えれば、有限主義者正式システムは、無限公理のないZFCである

無限大の公理は、自然数の集合1,2,3,4,...が存在すると述べている。すべての自然数に対してより大きな数があるという声明(「ポテンシャル無限大」と呼ばれる)よりもはるかに強い声明である

有限主義者は、自然数リストは決して終わらないことに同意するが、いつでも自然数の集合の有限の部分集合のみを考慮することに限定する。

彼らは一度にまとめたすべての自然数の合計が実在することを受け入れることを拒否する。

したがって、彼らはZFCから無限公理を削除する。

この公理を取り除くと、有限主義者証明できる定理はかなり少なくなる。

正式システム判断し、どちらを選択するかを決定することができるいくつかの客観的基準...なんてものはない。

主観的には、選ぶのは簡単である

時間空間を超越した何かを象徴しているので無限大が大好きだ」と言えば無限大の公理を受け入れることができる。

ゲーデルの第二不完全性定理は、十分に洗練された正式システム(ZFC等)は、自身一貫性証明することができないと述べている。

数学者は、今日のすべての数学の基礎であるZFCが確固たる基盤にあるかどうかを実際に知らない。

そしておそらく、決して知ることはない。

なぜなら、ゲーデルの第二の不完全性定理によって、より多くの公理を追加することによってZFCから得られた「より大きな」正式システムにおけるZFCの一貫性証明することしかできなかったから。

一貫性証明する唯一の方法は、さらに大きな正式システム作成することだけだ。

数学を行うためにどの公理選択すべきかについて、実際には客観的基準がないことを示唆している。

要するに、数学者が主観的に選んでいるというわけである自由意志に任せて。

公理のための主観的基準というのは、より豊かで、より多様で、より実りある数学に導くものを選ぶという人は多い。

これは自然主義と呼ぶ哲学者ペネロペ・マディが提唱する立場に近い。

自分自身制限する必要がないので、無限公理を受け入れる。

特定公理のセットを選択する行為は、量子物理学特定実験を設定する行為に似ている。

それには固有の選択肢があり、観察者を絵に導く。

これが、一人称視点とそれに伴う自由数学において正当な場所を取る方法である

2024-02-19

[] ミニマックス定理

ジョン・フォン・ノイマンミニマックス定理は、ゲーム理論数学的な領域で、最大-最小不等式が等式でもあることを保証する条件を提供する定理

この定理は、1928年に発表されたゼロサムゲームに関するフォン・ノイマンミニマックス定理最初であり、ゲーム理論の出発点と考えられている。

具体的には、フォン・ノイマンミニマックス定理は次のように述べられる:

 

$$

\text{Let } X \text{ and } Y \text{ be compact convex sets. If } f \text{ is a continuous function that is concave-convex, i.e. } f \text{ is concave for fixed } y, \text{ and } f \text{ is convex for fixed } x. \text{ Then we have that }

$$

 

$$

\sup_{y \in Y} \inf_{x \in X} f(x, y) = \inf_{x \in X} \sup_{y \in Y} f(x, y)

$$

 

特に、fがその両方の引数に対して線形関数(したがって双曲線)である場合定理は成り立つ。したがって、有限行列Aに対して、次のようになる:

 

$$

\sup_{y \in Y} \inf_{x \in X} x^T A y = \inf_{x \in X} \sup_{y \in Y} x^T A y

$$

 

上記形式では、Aはペイオフ行列。この特殊なケースは、各プレイヤー戦略セットが行動(混合戦略)のロッタリーであり、ペイオフ期待値によって誘導されるゼロサムゲーム特に重要

この定理証明は、一般に固定点定理線形不等式の理論を用いて行われる。

2024-02-18

anond:20240218183546

いや、根拠定義(とそれから出てくる定理)と形式が一致するかどうかだけなんで、どの定義かだけ言えば終わる話なの。それを言わないであーだこーだ言ってもスタート地点に立ててないだけなの。解釈余地はないの

なんか最近"数"が増田流行っているみたいなので、ワイくんも作文してみました

数の概念文化歴史によって変化してきた。古代ギリシアでは、1は数ではなく単位とされていたが、現代では自然数の集合 N の最小の要素とされている。

 

数の概念哲学的問題を引き起こすことがある。無限や超準数といった数は直観に反する性質を持つ。例えば、無限自分自身に加えても変わらないという性質を持つ(∞+∞=∞)。超準数もまた通常の数の演算法則が成り立たない(ω+1≠1+ω)。

 

数は実在するのか、それとも人間の心の産物なのかという存在論的な問いもある。数の実在主義は、数は客観的実在であり、人間の心とは独立して存在すると考える。数の構成主義は、数は人間の心の産物であり、人間言語思考依存して存在すると考える。プラトニズムは、数はイデア界に存在する普遍的実在であると考える。ピタゴラス主義は、数は万物の根源であると考える。論理主義は、数は論理的な体系から導き出されるものであると考える。

 

数の概念数学の基礎付けにも関わる。数学公理定理は、数の概念に基づいて構築されているが、その正当性や完全性には限界がある。ゲーデル不完全性定理は、数の概念を用いた形式体系には矛盾しないが証明できない命題存在することを示した。

 

数の概念は、かつて客観的現実を表すものと考えられていたが、量子論の発展により、数はより複雑で主観的ものである可能性が高まった。古典物理学では、数は物理量と一致していたが、量子論では、数は物理量とは別の抽象的な概念として使われている。

 

自我自由意識と同様に、数の本質はまだ解明されていない。しかし、量子コンピューターは数の概念を利用して作られており、数は物理システム表現する有効ツールであることは、どのレイヤースケールにおいても明らかである

 

数の概念私たち知識理解拡張するものであり、同時に私たちの疑問や不確実性を増やすものでもある。

 

数の概念は、私たち世界に対する見方を変える力を持っている。(どやああああ)

 

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流行を作った増田

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

https://anond.hatelabo.jp/20240216124331

 

 

 

書き起こす必要があるときちゃん文章書いてます。まとめの参考にしてね

anond:20240310160032 anond:20240310173949

2024-02-17

anond:20240216124331

これはあると思う。

この自分の中の言葉他人言葉に共有できるように翻訳するのがだるくって

世界大発見みたいな定理証明(の正解)を一人でできちゃったけど、世の中に言ってないだけ、でそのまま死んでる数学者

けっこういると思ってる

車輪の再発明じゃない問題提起って難しい

ってこれ自体何番煎じかしらんが書いてみることにとりあえず価値があると思うのでね。

増田で何か書くとだいたい「それは~という学者が既に考えてること」みたいな趣旨の反応が来るよね。無反応だけど心でそう思ってる人も含めて。

なんだろう。その仕事してて気づいたこととかなら結構被んないもんなのかな。業種特有気づきってやつ。そういう気づきとそれをきっかけにした問題提起というのはあまりかぶってる」的なコメントは来ない傾向を感じる。

それとも同じ業種の人が見てないだけか。

あと、いくら業種特有でも、より一般的範囲問題解決可能哲学数学の射程入っているようなテーマはだめよね。

そういうのはだいたい数学哲学ですでに考えつくされている法則にあてはまる個別の事例(一般化の逆)みたいなふうな立ち位置にされるだけ。

三平方の定理」を思いついたとして、それはすでに考え出さた余弦定理に含まれてるから、再発明といえる、みたいな。

2024-02-16

anond:20240216124331

哲学など数学以外のことは専門外のため, あくま数学に関することだけ言及させていただきます.

ユークリッド幾何学言及されているように数学歴史紀元前まで遡りますが, 数学形式化が意識され始めたのは1900年代以降と最近の話です. 主にヒルベルトによって主導されたものだと私は理解しています. (もちろん多くの数学者がこのプログラムに関わってきました. ) 数学形式化や形式主義で調べると参考になると思います.

数学的な内容に関して言及したいことは多くありますが, かいつまんで述べさせていただきます.

(あくまでこれは元の記事が間違っているなどと主張しているわけではないです. 現代数学の考え方や雰囲気の一部を分かっていただければ幸いです. )

現代形式化された数学原理的には決められたルール(公理と推論規則)を用いて行われる一連の手続きです. それらの「意味」が何かは一旦全て忘れてください. ここで公理とはあらかじめ定められた記号列で, 推論規則はいくつかの文字列を用いて新しい文字列を生み出す操作です, 例えば文字列A→BとAが与えられたとき文字列Bを得る操作があります. 定理(数学命題)とはこの操作によって生み出される文字列です. これらの操作数学における証明形式的に記述したものになっています. 論理式などもこの形式化のもとで特定の条件を満たす文字列として定義されます. 例えば論理式Pの否定は¬Pという文字列です. (ここでは否定を表すための記号として¬という文字列を用いています. )

ここまで文字列だけを考えた形式的なものですが, 構造モデルを使うことによってこれらの文字列解釈する(つまり意味を与える)ことができます. (詳細は省きます. ) 構造モデルを定めることによって論理式の意味が一意的に定まります. またそれらの取り方を変えることによって意味が変わることもあります.

これの考え方によって(数学的な)意味形式から分離されています. さらに気になる場合ゲーデルの完全性定理などを見てください.

そして適切な公理と推論規則を定めることにより数学のもの形式的に扱うことできます. その適切な公理はツェルメロ-フレンケル集合論(ZFC)と呼ばれており, 現在数学者はこのZFCを用いて数学をしています. (一部, 圏論などでZFCに収まらない議論があると聞きますが, それらもZFCの適切な拡張を考えることで解決できます. )

まり, これまでに書かれた数学証明などは全てこのZFCを用いることで文字列操作に書き換えることができます.

一方で数学論文普段言葉(自然言語)を使って書かれます. これは本当に全て文字列に書き換えることをした場合, 可読性が著しく落ち, また分量も膨大になるため人が読めないためです. しか証明自然言語で書きつつも, いざとなったら形式的に文字列に書き換えることができるという前提に立っています. そしてこれは理論的には可能であり, 数学の厳密性を担保しています.

定義の一意性」に関してですが私自身が元記事の要点を完全に理解しているわけではないのですが, 数学に関していうとある数学概念定義複数あることはよくあります. もちろんその複数ある定義同値であることを証明されなければなりません. ここで同値というのはある数学対象A定義Pと定義Qで与えられていた時に, 「Aが定義Pを満たすならば, 定義Qを満たす. またAが定義Qを満たすならば定義Pを満たす. 」ということです. 実際に使う際には用途に合った定義を用いることになります. それらは同値なのでどれを選んでも問題ないです.

以上がざっくりとした形式化された数学に関してです. 参考になれば幸いです.

追記: これは筆者個人の考えですが, 数学哲学議論はしっかりと分離してなされるべきだと考えています. もちろん相互交流はなされるべきですが, 両者を混同するのは誤解や誤りの原因になると思います.

anond:20240216170538

究極的に必要なのは正しさの証明であって理解ではないんですよ

まあ理解しないと新しい定理は出てこないかもですが、それは数学者の営みであって数学のものじゃないんすよ。

2024-02-11

↓なんかchatgptっぽくね?

ゲーデルの第1不完全性定理は、形式的論理体系内での数学特定命題に関して「証明できない」ということを示しています。この定理によれば、ある論理体系内で自己言及的な命題を含む場合、その命題が真か偽かを証明することはできないということを意味します。

まりゲーデルの第1不完全性定理は、「この命題証明できない」という命題を考えた場合、それが真か偽かを判断できないことを指摘しています。したがって、特定命題が「証明できない」ということは、その命題現実には真か偽かになっているかどうかを示すものではありません。

ゲーデルの第1不完全性定理は、形式的論理体系の限界を示すものであり、数学論理学の基本的性質理解する上で重要な結果です。しかし、この定理特定命題の真偽を示すものではないため、その命題現実に真か偽かを判断するためには、他の手段情報必要です。

ウィトゲンシュタイン思想ゲーデル不完全性定理には、いくつかの類似点があるかもしれません、それぞれ異なる観点から論理数学アプローチしています

ウィトゲンシュタインの「論理空間」の概念は、言語記号による表現の枠組みや制約を強調し、言語論理限界について考察しています。彼は「言語ゲーム」という概念を導入し、言葉文脈の中での意味理解に注目しました。ウィトゲンシュタインの主張は、言語論理使用特定文脈ルールに従って行われることを強調し、その文脈ルールから外れた場合意味崩壊する可能性があるというものです。

一方、ゲーデル不完全性定理は、数学的な形式的論理体系に焦点を当て、その体系内での命題証明可能性について論じました。この定理は、特定命題がその論理体系内で証明できないことを示し、論理体系の限界示唆しています

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13286033693

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