はてなキーワード: 大航海時代とは
「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」の元ネタ探求をしましょうね
いくつかバリエーションがある
「無人島に[本]をn個だけ持っていくなら?」
……のような
[本]の場合に「聖書」という回答が西洋でメジャーなことから、元ネタは日本以外なのだろうとあたりをつける
調査の初手はとりあえずこれ
Desert Island Discs - Wikipedia
Desert Island Discs is a radio programme broadcast on BBC Radio 4. It was first broadcast on the BBC Forces Programme on 29 January 1942.[1]
Each week a guest, called a "castaway" during the programme, is asked to choose eight audio recordings (usually, but not always, music), a book and a luxury item that they would take if they were to be cast away on a desert island, whilst discussing their life and the reasons for their choices.
Desert Island Discs は、BBC Radio 4 で放送されているラジオ番組です。1942 年 1 月 29 日に BBC Force Program で初めて放送されました。
番組中「漂流者」と呼ばれるゲストは毎週、8 つの音声録音 (通常は音楽ですが、常にそうとは限りません)、本、そして船で漂流された場合に持っていく贅沢品を 1 つ選ぶよう求められます。 無人島での生活とその選択の理由について話し合います。
このラジオ番組の存在から1942年時点で「あるあるネタ」であることは確認できる
アメリカの一コマ漫画で「無人島もの」というジャンルが存在する……が、それが特に流行ったのはだいたい19世紀初頭頃の出来事なので"Desert Island Discs"とそう時代は変わらない
普通に考えれば『ロビンソン・クルーソー』以降なのよ
『ロビンソン・クルーソー』は1719年4月25日に出版された
これが売れて多くの人に読まれたからこそ"Robinsonade"というジャンルまで生まれた
Robinsonade (/ˌrɒbɪnsəˈneɪd/) is a literary genre of fiction wherein the protagonist is suddenly separated from civilization, usually by being shipwrecked or marooned on a secluded and uninhabited island, and must improvise the means of their survival from the limited resources at hand. The genre takes its name from the 1719 novel Robinson Crusoe by Daniel Defoe. The success of this novel spawned so many imitations that its name was used to define a genre, which is sometimes described simply as a "desert island story"[1] or a "castaway narrative".[2]
ロビンソナード (/ˌrɒbɪnsəˈneɪd/) は、主人公が突然文明から切り離され、通常は難破するか人里離れた無人島に置き去りにされ、手元にある限られた資源から生き残るための手段を即興で考えなければならないフィクションの文学ジャンルです。 このジャンルの名前は、ダニエル・デフォーによる 1719 年の小説『ロビンソン クルーソー』に由来しています。 この小説の成功により、非常に多くの模倣作品が生み出されたため、その名前はジャンルを定義するために使用され、単に「無人島の物語」[1] または「漂流者の物語」[2] と表現されることもあります。
ということは、探すなら18世紀か……
一応シェイクスピアの『テンペスト』も孤島が舞台になる物語だけど……
1611年頃
一応英wikipediaの"Uninhabited island"の"In literature and popular culture"の項にはもっと古い作品について言及がある
Uninhabited island - Wikipedia
The first known novels to be set on a desert island were Hayy ibn Yaqdhan written by Ibn Tufail (1105–1185), followed by Theologus Autodidactus written by Ibn al-Nafis (1213–1288). The protagonists in both (Hayy in Hayy ibn Yaqdhan and Kamil in Theologus Autodidactus) are feral children living in seclusion on a deserted island, until they eventually come in contact with castaways from the outside world who are stranded on the island. The story of Theologus Autodidactus, however, extends beyond the deserted island setting when the castaways take Kamil back to civilization with them.[8]
無人島を舞台にした最初の小説は、イブン・トゥファイル (1105-1185) が書いた『ハイイ・ブン・ヤクダン』で、次にイブン・アル・ナフィス (1213-1288) が書いた『テオログス・アウトディダクトゥス』が続いた。 両方の主人公(『ハイイ・ブン・ヤクダン』のヘイイと『テオログス・アウトディダクトゥス』のカミル)は、無人島で人里離れて暮らす野生の子供たちだが、最終的には島に取り残された外の世界からの漂流者たちと接触することになる。 しかし、テオログス・アウトディダクトゥスの物語は、漂流者たちがカミルを文明に連れ戻す無人島の設定を超えて広がります。 [8]
こういうmeme的というか、とりとめのない雑談のあるあるネタがいつから存在するかって探すの超大変だ
残念ながら"Desert Island Discs"の1942年以前ではっきりと「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」のようなmemeの記述を発見できなかった
https://x.com/Circle_Halberd/status/1762628685679464845?s=20
……という嘘豆知識
正直フフッと笑ったが、それはそれとして本当の元ネタが気になるのじゃわしは
英wikipediaの"Uninhabited island"の以下の記述
The term "desert island" is also commonly used figuratively to refer to objects or behavior in conditions of social isolation and limited material means. Behavior on a desert island is a common thought experiment, for example, "desert island morality".[3]
「無人島」という用語は、社会的に孤立し、物質的手段が限られている状況での物体や行動を比喩的に指すのにもよく使われます。 無人島での行動は、たとえば「無人島の道徳」などの一般的な思考実験です。
これの出典がOEDになっている
ひょっとしたらOEDに私の欲しい情報があるかもしれないが、OEDをすぐさま読める環境にないな……
人々が「無人島にもし漂着したなら?」というIFを雑談ネタとして共有できるということは大航海時代以降……"Robinsonade"というジャンルが一般に認知されている環境……であるはず
へたすりゃギリシャ神話の時代までさかのぼることが出来るネタかもしれん
『オデュッセイア』とか……アルゴー船の冒険の話とか……船旅のエピソードがあるので、無人島に関するなんらかのミームの源流がそこにあっても驚かない
そうなったら手に負えん
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改めてこれを参考に探し直すか……元気な時に
元祖や系譜、起源、お約束、新語などに関する「まとめのまとめ」&関連リンク 『初出・系譜ポータル』 - Togetter
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19世紀後半〜20世紀前半ごろがこの問答が定番になった時期である、という可能性を探りましょうね
近代的なレジャーとしてのキャンプとか、ボーイスカウトとか……サバイバルスキルの知識が一般に広まったのがおそらくこの時期
その知識がないと無人島何持ってく問答は発展定着しにくいかもしれない
いやーでも聖書って回答が多いって話があるならサバイバルスキルの知識関係なさそうに見える……
→初期の定番問答は本を問う形式だった可能性もある、なんともいえん
サバイバルガイド的な本が19世紀に刊行されてないかを調べてみるか
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"Desert Island Discs"の1942年以前で「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」のようなmemeの記述を発見
無人島に本を一冊だけ持ってゆくとすれば: ケペル先生のブログ
このことを最初に明言した人はだれだろう。明治期にドイツ系ロシア人の哲学者で東大で教鞭をとり、学生の人気を集めたラファエル・フォン・ケーベル(画像1848-1923)らしい。彼は「ケーベル博士随筆集」のなかで「無人島に1年間流されるとしたら、自分が選んでもってゆく一冊は、まず聖書である」と述べている。かれは次に、「ファウスト」「ホメロス」「ドン・キホーテ」、ニーチェのもの、ベートーベンの楽譜などをもって行きたいと書いている。しかし有名なデフォーの「ロビンソン・クルーソー」(1719)のなかで絶海の孤島に流れついた主人公が「聖書」を読んで信仰の支えにしたことを書いている。
発言時期が不明だが、この方は1923没なので"Desert Island Discs"よりおそらく古い
『ケーベル博士随筆集』という本に記載があるらしいが……図書館に行かないと読めない類の本だな
しかしやはり『ロビンソン・クルーソー』が念頭にある発言か……
さて、さらにこれ以前に遡れるだろうか?
ケーベル博士がロシア出身で日本にやってきた人で、"Desert Island Discs"はイギリスのラジオ番組
20世紀初頭には世界中で認知されている定番ネタということじゃないか
本があるならいくらでも読むが、どの本を読めばいいかのあたりをつけるのが難しい
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ゲーテが『私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選ぶ。』という言葉を残しているらしい
この発言の出典元文書がちょっとすぐには見つけられていないのだが
偉人の名言は「実は言っていない」ってことが往々にしてあるから疑ってかかるスタイル
ゲーテの生没年は1749~1832
無人島に持ち込むものは何問答と直接の関係はないかもしれないが、一種のクローズド環境に何を持ち込む?という発想はこの時代からあったということ
Robinsonadeの流行で便利なクローズド環境として無人島が一般に認知された?
元々「閉鎖環境に一冊本を持ち込むなら」という発想が存在した(その一冊とはたいてい聖書、なんというか最初から聖書という答えありきの仮定に見える気がする) ↓ Robinsonadeの流行で閉鎖環境として無人島が定着した ↓ メディアの発展で本以外(レコードなど)も問われるようになった ↓ さらに時代が下り、持ち込めるものはジャンル無制限になった
みたいな流れという仮説を立てれそうだが……
まあまあ、結論を急ぐことはない
多くの日本人にとって宗教は「必要のないもの」という感覚が共有されているように思う。
しかし、本当にそうだろうか。
あるいは、「宗教は必要のないもの」という認識が宗教問題について冷笑的な態度を生み出し、本当にその問題について考えることを無意識的に避けてしまうのではないだろうか。
もともと、この語源となるラテン語における「Religio」は、「(精神的な)深い絆や繋がり」を指す言葉であり、もしくは今日においても「Religious」が指すように「信仰深い態度」そのものを指す言葉として使われていた。今日における「○○教」といったような言葉は、単に「○○の弟子たち」あるいは「○○の後を追う者」といったような言われ方がされてきたし、日本においても「茶道」「武道」などの言葉に残るように「仏道」など「○○道」という言葉があてがわれていた。近代に入るまで「信じる」ということが、より実践的な行為と不可分なものとして扱われていたことがうかがえる。
私なりに「宗教」という問題が何を指すのかを考えてみるところ、それはおそらく「生き方(a way of life)」そのものなのだ。
このように言うと、「ならやっぱり必要ないじゃないか。現に私たちは宗教に頼らずとも、自分たちの生き方に不満がないのだから」と言いたくなるかもしれない。それもひとつの「生き方」だ。
しかし、もう少し俯瞰してみると、これには以下のような構造が見て取れる。つまり、日常生活においては必要のないものもいるかもしれない。しかし、自身の生きる目的や指針などが根底から揺らいだ時にも果たしてそうだろうか。宗教的契機は必要なときに必ずや立ち現れるものなのかもしれない。
少したとえ話をしよう。
人類史における長い間、「地球は平だ」とする見方が優勢だった時期があった。しかし、当時に生きる人々はそもそも、大半が一生を自分の村で過ごす農民だ。たとえ貴族であっても交流の範囲は限られていた。シルクロードを通じて、遠くから物品が運ばれてくるとしても、それは「遠くから運ばれてきたもの」であり、具体的にどのような道を通ったのか、その間に地平線を意識することもなければ、時差について説明する必要もあまりなかったはずだ。つまり、「丸いと考える必要がなかった」のだ。
しかし、時代は移り変わり大航海時代。領域国家なども生まれ、人々の交流範囲がどんどんと全地球規模に発展していった。その過程で、例えば「他国より手短にインドに行ける方法」を知らなければいけなくなったし、「離れた地域の人と連絡を取る方法」を考えなければいけなくなったし、「大規模な航海を行う必要」にかられた。その過程で、新たな発見を迫られ、徐々に「地球は丸い」という考え方が受け入れられてきた。
これは、地動説VS天動説にしろ、アリストテレス目的論VSニュートン力学にしろ、ニュートン力学VSアインシュタイン量子力学にしろ、パラダイムシフトというのは、往々にしてこのように「新たな問題に気付き、これを解決する過程で、認識全体が変容する」ことによって起こってきた。
宗教においてもおなじことがいえる。
つまり、「宗教」というものも、そのようにより深い、目の前の生計や、人間関係、さらには政治や技術、そういった問題を超えた「自分自身は何のために生まれて、何のために生きているのだろう」「この世界は何のためにあるんだろう」といったような問題に対処するための、プラグマティックな実践論といえる。
そして、「自身の生き方に行き詰ったとき」「自身の生き方を見直さなければならない時」に、必ずこうした宗教的問題に取り組む契機が訪れるのだ。
これは、「既存の伝統宗教や新興宗教は信じるに値するか」といったような問題とは異なる、より根本的な「宗教的契機の構造」の話をしている。その上で、「どんな信仰体系がその個人にとって意味があるのか」は、その個人のマインドセットや、置かれている社会的・文化的環境によって異なってくるだろう。もちろん、その人が置かれている社会的・文化的環境によっては、特定の信仰体系が反社会的であるとされることも容易に想定できる。それこそ、人々が宗教的契機に恵まれる、「自身の生き方の根底が揺さぶられるショック」を受けた状態に、巧みな言葉を投げかけ、献身的な信者を作ろうとする商業主義的宗教は、必ず唾棄されなければならないと考えているし、宗教のもつ「強固な集団形成力」が誤った方向に向けられ多くの不幸を生み出した事例は人類史を見ても枚挙にいとまがない。伝統宗教に価値を見出すとすれば、それは「長年生き残ってきた風習」であることに意味を見出す保守主義的観点からだと言えるかもしれない。いずれにしても、それが「生き方」の問題である以上、ひとりひとり、さらに状況によっても異なって当たり前だし、多様な実践が見られて当然だろう。
「宗教は我々の生き方(a way of life)を根底から見直すときに必ず立ち現れる根本的な認識論であり実践論である」
多分、18世紀半ばだな。
ドラゴンやユニコーンなどは、1世紀に書かれた大プリニウスの『博物誌』に記載があり、これは15世紀に活版印刷技術によってヨーロッパの知識人の間に広く読まれたが、
18世紀半ばにフランスで編纂された百科全書などには記載がない。
18世紀半ばは、くしくも博物学が発展してカール・リンネによる分類学など近代的な生物学があらわれた時代でもある。
おそらく、「いるかどうかわからん」扱いだった動物は、大航海時代と科学の発展によって「いるっつーなら伝聞じゃなくて証拠持ってこいや」という試練を受けて「実物がある」と「実物が無い(判断保留)」に分かれ、
とりあえずいると分かっているものを対象に生物学上の分類研究が系統的に行われるようになっていった結果、いつまで経っても実物が出て来ないから「まだ見つかってないようなモンを大昔の人達が見つけてたわきゃない。こりゃもういないだろう」という扱いになったのだろう。
JavaScriptはJavaにあやかって名付けられたけど、インドネシアもインドにあやかってんのかな。
と思って調べてみたら、
という流れのようなので、どっちかというとC++とObjective-Cみたいな感じか。
私は明日海賊にはなれないが、小学生を襲うことはできるという記事、( https://t.co/zqNOgqSrcC )
・小児ラブドールレポツイには賛否ある。SNSだし公開アカウントだし…
・小児性愛は実際に加害しなければまあ個人の自由の範疇(児ポ所持のような間接的加害もアウト)
・でも何より問題は、「小児性愛の危険性を大喜利やネタツイでぼかしすり替えてしまう」こと
・それに「ショタラブドール買うと小児性犯罪者予備軍ならとっくに日本は大海賊時代」みたいな理論は、アニメに影響されてキャンプへ行ったりギターを買ったりスポーツを始めたりしている人間がいるので成立しないのでは?
・表現の自由や趣味嗜好の自由を主張したいのならば、冷笑文脈のネタツイはしないほうがいい
というようなことを主張しているのだと読み取ったんだけど、なんかショタラブドール買おうと人の勝手だろ!とか小児性愛の何が悪い!(超意訳)みたいな感じの反論が飛び交ってて首を傾げた。
俺の立場としては
・先天的なものにせよいじめや家庭環境等の理由による後天的なものにせよ、俺個人の感情として小児性愛嗜好者は嫌い
・別にコミケに2次元の成人向けロリものショタものがあってもいいと思う
・上記のブログを全面的に肯定しているわけではない。特に「ショタラブドール買うと小児性犯罪者予備軍ならとっくに日本は大海賊時代」と発言した人間をオタクと呼称し、オタクに対しもっと責任感を持てと呼びかけているあたりは間違ってる気がする。あと大航海時代は世界史の用語
・そもそも「ショタラブドール買うと小児性犯罪者予備軍ならとっくに日本は大海賊時代」と発言した人間は、小児性愛嗜好やオタクという属性からくる擁護や反論ではなく、「炎上ネタを茶化して冷笑し、議論の余地のある事柄を一方的に論破し解決したものとして片付ける」というインターネット特有の悪意の形なのでは?
・ちなみに俺はアニメとかマンガの影響で動物園に行ったしNFL見に行ったこともあるし大洗に巡礼して毎年富士総合火力演習観るようになった
って感じ。
まあTwitterを匿名掲示板の延長と思っている層と、他SNSのようにモラルとマナーを求める層とですれ違うのは当然だよな。
俺は金が無いから買えないけど、見た目新人OLのラブドールとかなら少し興味あるわ。
あれ実際性能どうなんだろうね。
本気で選ぶセガサターンミニ収録タイトル予想2022夏 - 分析編2
『BEEP! メガドライブ』の後継誌『セガサターンマガジン』にも読者レースは引き継がれた。採点の出典は『サターンのゲームは世界いちぃぃぃ! サタマガ読者レース全記録』。
メガドラ時代に較べて全体的に採点がインフレ傾向にあることもあってかソフトの数がとにかく多い。
「白色人種がそれ以外の人種より優れているという理念」とあった。
それ以前は、自民族中心主義や外国人嫌悪はあっても、「人種」という概念は存在しなかったらしい。
その大航海時代あたりの事を考えると、白人が世界各地に繰り出し、植民地を作ったり、現地人を騙して
白人優位な契約などを結ばせ、白人が現地人(白人以外)から搾取しまくった。そらあ儲けは凄まじかったろう。
アメリカ大陸なんぞは白人の居なかった世界。現地人を騙して搾取し、ついには領土まで全てもぎ取ってしまった。
その頃の日本は、世界の雰囲気を察してか鎖国を行う。奴らと仲良くしていればロクな事にならんと判断した訳だ。
現地人を騙して搾取する。当時それが容易に行えた(それなりの失敗や抵抗もあったろうが)と言うことは、つまり、
白人が優れていた。と言ってもいいのではないだろうか。
その当時において、白人至上主義はたんに事実を元に語られ始めたのでは無いだろうか。
そもそも教育や軍隊の規律など当然、黒人国家やアジア人国家より優れていたのであろう、そういうものを背景に
有利に立ち回って来たのだから、当たり前といえば当たり前の話ではないだろうか。
人類の誕生はアフリカのどこかと聞く。そしてそれは黒人であるとも聞く。
その頃は、単なる動物であった人類の祖先は、ある時からヒトとして動き始める事になるけど、想像するに最初の人類は
やや動物寄りであったんだろうという想像は当たらずとも遠からずのように思える。
現代でも黒人は運動能力が高いとされている。体もデカいし、力もあるだろう。身体能力を生かして厳しい自然の中で
勝ち抜き、生き抜いてきたはずだ。その当時の各個人の評価は、力が強い、獲物をたくさん取ってくる、子供を沢山産む、
などなど、そういった人間の動物的な能力が評価されていたに違いない。その能力でアフリカから全世界に広がっていった。
黒人達の動きがなければ、今の人類は成り立たない。そういう意味では白人もアジア人も黒人に感謝しなくてはならない。
黒人が全世界に渡り、色々と枝分かれしていく。人類はどんどん進化していく。
その進化の際に、文明が生まれ、現代で定義しただけの話であるが、世界四大文明が生まれる事になる。
そこには黒人文明は無い(これそのものが黒人差別なのかもしれない。文化、文明的なものが全く無いとは思えないし)
黒人以外の視点から見ると、近代文明を作り上げ、知恵で世界を切り拓いていったのは白人やアジア人である。
であるならば、やはり白人至上主義や中華思想のようなものは単なる当時からすれば事実でしか無いように思える。
人類が誕生してからのしばらくは黒人が優れていたのは間違いない。黒人しかいないし、その黒人が世界に広がらなければ、
現代の白人もアジア人もいない。間違いなく黒人は優れている。優れていないのならば、地球上に生まれては絶滅していく
様々な動物の1つでしか無かった事になってしまう。ご先祖様を敬う宗教があるのであれば黒人に感謝しなくてはならない。
しかし、様々な文明が世界各地で起こり、融合、分離、していくうちに黒人の影は薄くなっていく。
身体能力そのものはそれほど重視されなくなっていく。各個人の能力評価は、体力だけでなく知恵が重要になってくる。
体力だけでは他の文明、国家には太刀打ち出来なくなってくる。知恵がなければ、武器や作戦で勝てないし、騙されもする。
大航海時代より、本格的に非白人国家が搾取される事になるのは知恵の問題である。(知恵の足りない白人国家も搾取されるが)
こういった面において、白人は優れているといえる。
現代では、白人国家に搾取されていない非白人国家は無いと言えるくらい、白人国家は成功しているのではないか。
古代では、力や体力が全てなので、体に障害を持つものは一人前とは見做されなかった。
知的障害や精神障害などの概念が無かった。パワーこそが全てなのだから。
中世では、知恵が重要になって来たので(体力は当然として)、知的障害を持つものは一人前と見做されなかった。
知恵が重要なので、精神的なナニは重要視されない。現代になって、偉人とされている誰それは〇〇障害では無いのか-
などという話はよく聞く話である。精神的な情緒より、知恵が重要視されていたのでは無いだろうか。
時代が進むとともに人類として様々な能力が備わっていないと、一人前と見做されなくなっていく。
現代になって、発達障害や適応障害などという言葉が出てきた。昔から症状はあったんだろうが、現実には変わり者、頑固者、
気弱な人、大人しい人、まあああいう人だから、という認識でさほどカテゴライズされる人達では無かったように思える。
つまり、現代では、体力+知力+他者とうまくやる能力が求められている。これがセットで揃っていないと一人前と見做されない。
こんな話を見た時、白人至上主義と何かがリンクしたように思えた。
中世以降、現代まで白人優位の時代が続くものの、搾取の網も世界中に広がり簡単には行かなくなってきた。
強い搾取者が弱い搾取者を取り込んでいく、搾取していくにも限界が近いのではないか。
限界が近い為、国家内でも喰い合いが続き、上が下を食い尽くす。その先に何があるのか。
中世はずっと続くのであろうか。
この先、いつか時代が変わる。その時、必要になる優位差はなんなのか。他者とうまくやる能力では無いだろうか。
白人国家や黒人国家に比べ、アジア人国家は歴史が長いように思える。様々な事に巻き込まれ、流されながらも国を
維持してきた。それはつまり、他者とうまくやってこれたからではないか。
少々乱暴ではあるが、これからはアジア人の時代では無いだろうか。
それを敏感に感じている白人どもが暴れてるんじゃ無いだろうか。
白人至上主義、それが事実である時代が続いて欲しいのでは無いだろうか。
今後は、日本、中国、インド、中東のイスラム国家が世界を席巻していくのでは無いだろうか。