はてなキーワード: 文明とは
なんやわけわからん星に自ら出向いて何かやらかしたら元も子もないから。
と思ったけど、移動にはすっごい時間がかかるからAIが偵察してその情報を送信して大丈夫そうなら行くなんてことはできない。
「三体」でも語られてたが、移動に時間を費やしてる間に目的地である地球の文明が何周も回ってとても敵わない相手になってるかもしれないから。
近くにまで来たらそこからAIで偵察させる。あるいは自分が出発すると同時に偵察機もそれ以上の速度で出発させる。
まあそんな感じになるか。
でもどうだろう?条件次第ではもう少し違う展開もありえる。
情報の送信や移動が光速かそれに準ずる速度なら地球から近い恒星系は4光年程度なので時間差はそれほど問題にならない。
また、一度に複数の惑星を調査したいなら本体は控えて偵察機だけを10だの100だの送るかもしれない。
あるいは星が消滅するような危機にさらされていたら何はともあれ急がなきゃならない。
ま、どのケースにしても恒星間航行できるほどの技術があれば高度なAIも発達してるだろうからファーストコンタクトはAIになる。
コンバーターとコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係な対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙な共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化や歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間の歴史の中で、技術や食文化の進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。
まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能や属性を変換する装置や技術を指す言葉である。電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタル・アナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり、現代社会を支える根幹を成す技術のひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシ(コーン)から作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米や南米など、トウモロコシを主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。
一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターとコーンバター。しかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこから生まれる美的な感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化と技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間の知識の結晶である。これに対し、コーンバターは農業の発展や食文化の進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間が生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有の美的価値が含まれている。
人間は、常に物質やエネルギー、さらに情報の変換を行うことで、生活の利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品を自由に使用することはできない。デジタル信号をアナログに変換することで、音楽や映像をスムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報やエネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的な装置やデバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。
一方で、コーンバターには全く異なる美的価値が内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果である。トウモロコシは、古代アメリカ大陸の文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的な欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。
また、コンバーターとコーンバターは、それぞれ人間の内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たちの生活を快適にし、さらには新たな表現の可能性を広げている。情報を自由に変換し、自在に操作できるという感覚は、無限の創造力を解き放つものであり、それ自体が一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁や安心感、さらには家族や共同体との結びつきといった、人間らしい感情を喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働と愛情を味わうことができる。このように、コーンバターは食文化の一端としての「食の美」を表している。
さらに深く考察を進めると、コンバーターとコーンバターの間には、「変換」という共通のテーマがあることに気づく。コンバーターは無機物やエネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間が自然や物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である。
現代のテクノロジー社会において、コンバーターはほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在を意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジーの進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。
このように、コンバーターとコーンバターは、それぞれ異なる形で人間の生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間の生活に寄与し、美的な価値を提供している。そして、技術の進化と伝統の継承という二つの相反する要素が、私たちの感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象を比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である。
著者の要点は
ということを言っていたような覚えがあるが、どちらも間違ってるんだよね
なぜなら「人に殴られたくないから」を目的にしたら、「相手に殴られる前にボコボコにする」「圧倒的な権力で抑圧する」「ガードマンで自分を固める」といった方向に進む可能性が高いから。
カイジという漫画に出てくる大金持ちが金をばらまきながら貧乏人を痛めつけて「折れた足をいじられると彼は痛いが…わしは痛まない…!カイジくんも痛くはなかろう」と口にするシーンがあるが、まさしくこれこそが「自分がやられたら痛いよね?だから暴力は駄目なんだよ」からスタートする暴力禁止意識の無力さなのだ。
「社会全体で見た時のコスパが悪いから暴力は禁止」というのは一見正しく見えるが、この場合は「社会全体で見たコスパが良ければ暴力もオッケーなのだ」という考えに発展する。
その行き着く先は「クラスの皆が迷惑してるからA君をイジメて学校から追い出そうとしただけです」という少数派の弾圧である。
これは最終的には暴力で暴力を洗う無限の闘争にしか繋がらない。
世界人口全体で見て多数派となっている民族は一つもないし、たとえ民族が多数派でも年齢層や趣味嗜好で分断すれば誰もがどこかで少数派に所属する。
そして世界中の誰もが誰かしらに「少数派さんがいると話がまとまわらないからさ、死んでよ」と暴力に晒されかねないのである。
「やめろー!暴力では本当に解決すべき争点が曖昧になるー!俺と話し合いで勝負だー!」←これだけが正解なんだよ。
わかるか?
一見するとこんな軽々しい言葉よりも中身があるように見える「自分が殴られたら痛いよね」みたいなのは単にゴテゴテとガラクタを詰め込んで嵩増ししているだけの間違いだらけなんだ。
物凄くシンプルで、シンプルゆえに「この程度でいいのか?」と不安になるような概念にこそ本当がある。
「暴力が駄目なのは、話し合いによる解決ではないから」←これだけが答えだ。
まあ、話し合いってのも最終的には「言語能力が優れているものが一方的に相手を封じ込める弱肉強食」としての側面もないわけじゃない。
それでも、暴力による弱肉強食と比べれば遥かに文明社会と相性がいい手段なんだ。
分かるか?
誰かが暴力に訴えかけた時に「暴力は駄目だよ。自分がやられたら痛いでしょ。法律でも禁止されているよね」で止める奴らってのは、本当に大事なのは話し合いによって解決することだってことを理解できてないアホなんだよ。
アホだから、自分が痛いかどうかとか、法律で決まっているかどうかとか、そういった分かりやすくてかつ「一見すると複雑で中身がありそう」な言葉に頼ってしまうんだ。
でもそうじゃない。
本当はいつだって「話し合いで解決するべきものを、暴力によって解決したり弾圧しようとする姿勢は、文明社会にとってマイナスになる」というだけの話でしかないんだ。
シンプルに考えていけ。
石器文明から培ってきた、なんなら生命としての根源であるはずの子孫繁栄という武器を人類は完全に放棄して、全てを子供たちに責任転嫁してきました
ご高齢者様の耳に届くと不安をあおってしまいますが、30年後の日本史では現在の60代以上が戦犯であると明記されることは間違いないでしょう
まあ、その頃は人が存続することすらギリギリなので誰も研究なんてしてるわけがありませんがね
世界屈指の寛容性によって家族を持たないことがタブーではない日本
あらゆる責任転嫁の果てに、差別の対象だった独り身が一転、保護すべき対象へと変わりました
クリスマスに居酒屋で飲んでいても文句ひとつ言われず、趣味に全壊になっても誰にも迷惑をかけない
こんなことが許される上に世界屈指の治安の良さと文化レベルの高さを併せ持つ国では、おひとり様が最高のステータス
歴史上、戦争の勝者は束の間の幸福と極めて強い孤独感を得たといいます
まあ、最高の栄誉にはわずかな汚点は仕方ありませんよね
人によっては「弱者〇〇」と呼ばれますが、そんなのは既婚者達の怨嗟でしかありません
人間が数百万年野生生物として進化する過程で獲得してきた個体間の優劣と、たかだか5000年程度しかない文明社会ゲームでの才能とが一緒なわけがない。
一緒だと思う。それは社会性だ。人間の脳の大きさは社会性をもたらす効果が大きかった。そしてコミュニティの長たるものはトップクラスの社会性を備えてるハズという考えは自然かと。
これは想像だけれど、人口再生産に関わる役のメスは遺伝的安定性を、オスは使い捨ての実験動物としていろんなタイプを試しに作っては淘汰される役なのでばらつきが高いようにできているのでは?
「普通ではない性質を発現した個体」のうち、たまたまゲームとかそれが有利な世界を見つけられた個体だけが目立って、それ以外が不可視化されているだけなんじゃないのか。
性別に役割があるという説はフェミニズムの使徒としては受け入れ難い。
むしろ社会が女性に人工再生産という役割を教えつけたからこそ、ファッションやメイクなど性選択に関する重荷を女性だけに負わせたため、時間と注意力が削がれてゲームなどの分野で女性が活躍できないのではないか。女性Vtuberの切り抜きを見たことがあるんだけど、女性ゲーマーは野良の男に凄まじい暴言やセクハラを浴びせられることがあり、それを甘受しなきゃやっていけないような状況らしい。ネットミームの「見抜きしてもいいですか?」も受け入れられてたけど、明らかに異常だよね。
男の子を育てていると、女の子の方が大人しいし落ち着いているし周りと調和も取れていて生物的に優れてない?社会に出ると偉い人の男性比率は高いし、本当になんで?
https://togetter.com/li/2448652
そんなもの、大人しくて落ち着いていて周りと調和も取れている男が「偉い人」になっているかどうか考えればわかりそうなもんだが。
そもそも「生物的に優れて」いれば出世するはず、って前提がおかしいんだ。
むしろ、そこまで出世するのは運が異常さかどっちかが振りきれた個体が多い。男女問わず。
生物としての優劣と資本主義社会の中での勝敗はまっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっったく別物だから。
人間が数百万年野生生物として進化する過程で獲得してきた個体間の優劣と、たかだか5000年程度しかない文明社会ゲームでの才能とが一緒なわけがない。
ここがわかってないから、優秀であれば社会で勝つはず、と間違った前提にして議論してしまうんだ。
ガラスの天井論やら弱者男性論の議論の相当部分はこのあたりの錯覚を切り分けられなくて引き起こされてると思う。
どいつもこいつも資本主義社会での勝ち負けを価値観にまで内面化しすぎ。
ずいぶん前に似たような会話したので、あくまで自分の考えではあるけれどコピペしておく。
https://anond.hatelabo.jp/20221127154518
『将棋でも囲碁でもチェスでもオセロでも、頭脳競技で女性が世界一ってジャンルあるのかな?』
に書き込んだこれ。
≫脳の性能差という意味では男女差というのはほとんどないらしいな おそらく社会的な要因のほうがはるかに大きいだろう
能力の平均はね。ばらつきは圧倒的に男の方が大きい。
≫脳の性能、パフォーマンスの話だよ それに関して男女差はないって話 それ以外の話してたことある?
それは俺も否定するようなことを言った覚えはないぞ。
ただ定型でない比率は男の方が高く、そのうち「たまたま」能力が有利に働く場所を見つけ出したほんの一握りの男だけが目立っているから(そして「男の方が機能が平均して高い」なんて言われた気に勝手になっているから)話がかみ合わんのでは?と言っているだけ。
ほとんどの非定型の男は屍晒しているよ。東大もゲームもごくごくわずかな「ハマった」例なだけで、脳の優秀さの例でも何でもない。
これは想像だけれど、人口再生産に関わる役のメスは遺伝的安定性を、オスは使い捨ての実験動物としていろんなタイプを試しに作っては淘汰される役なのでばらつきが高いようにできているのでは?
「普通ではない性質を発現した個体」のうち、たまたまゲームとかそれが有利な世界を見つけられた個体だけが目立って、それ以外が不可視化されているだけなんじゃないのか。
アンタみたいな理解をしている日本人が結構いるのかも知れないけど、
・侵略も略奪も人類の普遍的な歴史だから諦めろ論を克服するために国際連盟とか国連とか国際法とかが作られた 文明人なら平和と秩序を求めろ 先人の涙ぐましい努力を簡単に踏みにじるんじゃない
・イスラエル人学者の書いた『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか』を読め 長いからワイは少ししか読んでないけど書評を読んでイスラエル神話の胡散臭さを理解できた
旧約聖書という考古学的になんら根拠のないファンタジー(ただの神話)を実現させるために創られたのがイスラエルであり、
「イスラエル人は古代ユダヤ人の末裔を自称しているが、実は一つとして科学的な根拠はない」さらに言うとむしろそこにすんでいるパレスチナ人こそが古代ユダヤ人の末裔であると指し示すDNA調査の結果がある
彼らイスラエル人は虚妄に囚われたモンスターだ 日本人がかつて「日本は神の国で日本人は神の子」と信じてたようなノリで21世紀の今を生きて周辺住民を虐殺し、あの土地一体を全て奪おうとしている モンスターとしか言いようがないではないか