はてなキーワード: 絶対的とは
もう言いたいことは言いました
これって、ロリマンガやリョナマンガの作者と読者の関係にも似てると思うのよな
ロリマンガやリョナマンガ描く人って読者と同じあたおか好みを持っているまでは一緒なんだけど、
あいつら平気で妻子持ちだったり、兄弟姉妹や友達に子どもが出来ると『ファッション・ロリコン・リョナラーです。生活のために描いてる』って言い出す
それと同じで増田にいる時点で "あたおか"なのは一緒だが(そこは絶対的に安心して良い)、そこから先、例えば人間関係やスキルや年収は一緒じゃないぞ
奨学金ガーって話題でウダウダやっている横で、普通車の新車の話でキャッキャやってるでしょ
デスクワークのクソ雑魚の横で、大地や自然と向き合う系の職業や現場ねこが居たりする
本当のこと書いた方が共感は得られるし、コンプレックスの改善に役立つと思うよ
もちろん匿名とは言え、ノーガードであたおかバカ文垂れ流せるのは、どーかしてるからこそ出来ること(他人からどう見られるか殆んど気にしていない)で、
匿名でもある程度、他人からどう見られるを気にするのは正常だと思うので、出来ないのがおかしいとまでは言わない
創作増田・ワナビーの文脈での年収ふかしや○○に書いてあったもん!はタメ息しか出ないけど、単なる事実だもの、貯金は知らん
これって、ロリマンガやリョナマンガの作者と読者の関係にも似てると思うのよな
ロリマンガやリョナマンガ描く人って読者と同じあたおか好みを持っているまでは一緒なんだけど、
あいつら平気で妻子持ちだったり、兄弟姉妹や友達に子どもが出来ると『ファッション・ロリコン・リョナラーです。生活のために描いてる』って言い出す
それと同じで増田にいる時点で "あたおか"なのは一緒だが(そこは絶対的に安心して良い)、そこから先、例えば人間関係やスキルや年収は一緒じゃないぞ
奨学金ガーって話題でウダウダやっている横で、普通車の新車の話でキャッキャやってるでしょ
デスクワークのクソ雑魚の横で、大地や自然と向き合う系の職業や現場ねこが居たりする
別の問題点として、 私とぺちもぐら本人がいかに仲がいいのかを見せることによって、絶対的支配権をえることにあるが、ぺちもぐら本人は絶対に姿を出したことがない
これじゃ話にならんわということです。
いまの上位階級の繁殖の場合一般的には「金と容姿」的価値観がベースだから
フィジカルエリートであるかどうかってそこまで重要視されてない
容姿は時代的な価値観に左右されるので「容姿の良い男or女」なんてものに絶対的な価値なんてない
増田の論だと同じような(優秀そうに見える)容姿ばかりになると思いがちだけど
容姿の場合そこに時代的な価値観をさらに補強する「整形」という手段が加わるので
「優秀そうに見える容姿だけが生き残る」という社会的圧力が加われば加わるほど
容姿を均一化させようという意思=整形する行為への欲求が増大する。
そのため「①見た目は優秀そうに見える容姿」だけど「②その価値基準は時代的なもの」であり「③しかも実は遺伝子レベルでは時代的基準に照らせばブス」
という入れ子になった欺瞞みたいな存在が量産されることになる。
いわゆる優秀な容姿がカタログ化された社会に突き進めば進むほど
「ガワさえ標準化された仕様に準拠すれば中身はなんでもアリ」みたいな状態になり、
当たり前なんだけど。AI学習を拒否してる人って文化の発展とか無視してて、自分半径50cmの権利しか見えてないから、理論武装も何もないただのワガママになってんのよな。
そもそも絵画や文芸みたいなものになんで著作権をわざわざ作ったのかの背景も考えずに、これは権利であり絶対的なものだ!という謎の信仰心なんだろうね。
そして著作権自体理解してないから著作物じゃないアイディアや絵柄にまで著作権があると思いこんでるのもな。
さすがに著作権著作権も言うやついなくなってきて、更には違法学習っていうアホ丸出しの言葉も見かけなくなってトーンダウンしてるの受けるw
まぁ受けるも何も、当たり前なんだから当たり前だよなってう感想。
しかし、初手で著作権法律むしして画像生成を利用してるだけの人たちを吊し上げて犯罪者扱いして大暴れしたからな。そりゃ馬鹿にされるわ。
・重量計測して軽くなるとエラーが出て店員が操作しないと解除できないタイプ(万引きする奴はあってもするから。)
・レジ作業を客がしてるんだからただの人件費削減じゃねーか。その分安くしろ
・突っ立ってるだけの店員。機械が絶対的に正しいと思ってる。他人事 anond:20240306121350
ボーダーライン・カップル Ver 1.0 1999/05/31
境界例の人は自己愛型の人と相性がいいようで、このような男女の組み合わせを見かけることが多い。いくつかのパターンを見て見よう。
夫が自己中心的な亭主関白で、見捨てられ不安を持った妻が、まるで女中のように夫に従うような場合。我々の周囲を見渡せば、このような組み合わせのカップルをすぐに思い浮かべることが出来るのではないか。あるいは、自分の親がこのタイプだったりする。夫婦関係が主従の関係になり、極端な場合はSMの世界のご主人様と女奴隷のようになる。夫は自分の誇大感が実現していていいのだが、妻はかまってもらえない寂しさを抱えていることが多く、その寂しさゆえに子供にしがみついたりすると子供が境界例になる可能性がでてくる。自己中心的な夫が自分の子供を虐待したり、娘を犯したりしても、妻は自分が見捨てられる事の方が恐いので、夫の行為を黙認し、子供を犠牲にしでても夫にしがみつこうとする。虐待された子供の方は、母親から見捨てられたことによって、さらに傷つく。
夫婦の年齢差が大きくて、妻がまるで母親に甘えるように夫に寄り添っているケース。妻の依存心が夫の誇大感を支えているので強い結びつきを示すが、子供が産まれたりすると家族内で三角関係が出来て不安定になることがある。今まで二者関係の世界で安定していたのに、夫が赤ん坊を可愛がることによって、妻は見捨てられたような不安に囚われ、赤ん坊を憎むようになることがある。ひどい場合は赤ん坊を放り投げたりといった虐待行為をするようになる。
弱者と救済者という関係もよく見られる。夫は救済者という役割を引き受けることによって自分の自己愛を満たそうとする。妻から見捨てられる心配がなく、しかも自分は絶対的に必要とされているのだという安心感がある。妻からしがみつかれることで自己愛の満足が得られる。そして、自分が守ってやらなければという思いから献身的に尽くしたりする。夫が社会的に適応して安定した生活を送っていると、両者の緊密な関係は続いてゆく。不安定で激しく変化する妻の行動が、安定した夫によって支えられるという構図である。この関係の中で、妻の不安定さがそのまま保存され、二人の間ではドラマチックで不安定な出来事が安定的に繰り返されてゆく。
症例研究などを読むと、治療途中でこのような安定した男性と結婚することによって妻の状態が改善し、境界例が治ってゆくというケースを見かけることもある。
同じように救済者としての使命感に燃えていても、自己愛的な誇大感が強すぎたりする場合は、二人の関係は長続きしなくなる。苦しんでいる人を救うキリストのような全能の救済者という誇大感を抱いて境界例の女性に近付いてゆくのだが、誇大感が強すぎるために相手の心が見えていない。自分の描いた弱者のイメージに合わないと不機嫌になる。思い通りの救済劇を演じられなくなると、相手の女性をなじったり虐待的な事をしたりする。あくまでも、救済者としての誇大な自己愛の輝きに浸っていたいのだ。彼にとって女性の存在とは、自己陶酔のシナリオ通りに事を進めるための道具でしかなくなってしまう。そうなると、女性の方はしがみつきたい気持ちと、自分勝手な夫から見放されるのではないかという恐怖感との葛藤に苦しむことになる。そして、思い通りにしがみつかせてくれないことで夫を非難したりする。そして二人の関係は、男性の方が思い通りにならない女性に愛想を尽かしたり、女性の方が見捨てられる不安に耐えられずに身を引いたりして関係が壊れてしまう。あるいは関係が続いたとしても、救済者になるはずだったのが、いつの間にか虐待者になったりすることもある。
境界例でも感情が極端から極端に揺れ動くタイプの人と一緒になる人は大変だ。相手を理想化することによって熱烈な愛情を示したかと思うと、すぐその後で愛し方が不十分だという理由で相手をこき下ろしたりする。よほど忍耐力の強い救済者でないと付き合いきれない。カップルとして成立するのは難しいかもしれない。
価値観や人生観がころころ変わったり、物事がうまくいきそうになると自分でぶちこわしてしまうタイプの、行動的な境界例は、波乱万丈の人生を送ることになる。結婚までいきそうになると浮気して自分でぶちこわそうとしたりする。安定した状態に我慢できなくて、自ら不安定でドラマチックな展開を求めているように見える。
「ボーダーライン・カップルの世界では、熱烈な愛や理想化や誇大自己の満たし合い、その傷つき、怒りや破綻、償いがドラマ的に繰り返される。平凡な普通の穏やかな人々の世界に比べて、劇的で休む暇もない。それにもかかわらず、ボーダーライン・カップルはホメオスターシスを持った組み合わせである。それは、「不安定の中の安定(stable in unstability, Schmideberg, M)」というボーダーライン特有の状態をその夫に支えられて限りなく続けてゆくのである」
―― 「精神医学ハンドブック」 小此木啓吾 より (ホメオスターシス=恒常性)
自己愛の人が支持的で安定した人ならいいのだが、自己愛が強すぎて搾取的で傷つくことの多いような関係は、境界例にとっては好ましくない。症例研究などを読むと、治療過程でしがみつきや、見捨てられる不安を直面化することによって、現実検討能力を強化する。そうすると、このような関係が自分のためにならないことに気付くようになり、二人の関係は自然と解消されるようである。
一方の過大な自己愛を持った人にとっては、あくまでも自分は善意の人であり、悪いのは相手の方なのである。自分が正しくて相手が誤解しているのである。自分で自分の誇大感に気付くのは難しい。本人が二人の関係において何を望んでいるのかを解釈する必要がある。救済者を演ずることで賞賛や感謝を求めているのか、あるいは弱者と接することで優越感を持ちたいのか。優越性を獲得することで、自分自身の持っている見捨てられ感を埋め合わせようとしているのか。こういう隠された願望を理解することで、態度が修正されてゆく。大切なのは健全な自己愛である。
そう言えば、福祉関係の本を読んでいたとき、ボランティアの人のこんな言葉が心に残った。「自分より不幸な人を見ると、なぜかほっとする。その人が悲惨であればあるほど、自分の不幸が救われたような気持ちになる」
東京には資源がないから、 もうやめていると平気でぬかす、高裁長官が昔いたが、 延岡市には資源があるので、ここの公務員は沈黙
別の問題点として、 私とぺちもぐら本人がいかに仲がいいのかを見せることによって、絶対的支配権をえることにあるが、ぺちもぐら本人は絶対に姿を出したことがない
これじゃ話にならんわということです。
あとなんか、延岡にはチキン南蛮のレストランとか、 ジャスコがありますが、この辺の分野に指令を出す奴がいないし、 宮崎市内から、テレビゲーム会社に、いつまで
逃げてんのやぶち殺すぞというメールが送信された時代もあった。
それと、便利屋の本田というのが、 延岡にはありますが、全然だめですわ。
クレールダイワというのは私の母親が25年前に遊んでいた時に住んでいたアパートですがそれに関する話題もない。 ならなんかというときに、そういうところは平和なので視覚的な指令を出しても
特に、チキン南蛮、おぐらといった平和なものが流行ると平和になるので、延岡ではそこに指令する者がいない。 警察署ではおばさんが働いていることもあるが、そういう人は目から
指令が出ていない。
上のしょうもないコメント書いた増田だけど、試しに「成人向け漫画に置き換えて」って言ってchatGPTに放り込んだらちゃんと置き換えてくれたから置いておくね。
娯楽で一番大事なのは要素・濃度の調整と表明、そして読者層の絞り込み。エロ漫画だろうが、グロテスクなストーリーだろうが、ギャグ漫画だろうが、最も重要なのはここ。
そして、絶対的最適解はない。
読者毎に求めているものも違う。
重要なのは、事前にタイトルや表紙で宣言した内容に合致した要素・濃度になっていること。
過激すぎれば「安易にエロを盛り込んでる安っぽい作品だ」と感じるだろう。
薄すぎれば「もっと濃厚な表現を期待していたのに、物足りない」と感じるだろう。
『エロ漫画』という作品に対して求めている濃さというものが、それぞれの読者の中に漠然とあるってことだ。
そこに対して作者はおおむね最大公約数的なものを提供するし、それに満足できない読者は勝手に「濃いめにして」とか口にする。
エロ漫画なんかは性描写の強弱を巧みに調整することで、読者に合わせたものを提供する仕組みを作っている。
漫画はまだいいんだが……これがアニメ・ゲームなんかになると途端に面倒くさくなる。
スリリングな展開が続くアニメは集中力のある読者からすれば密度が高い体験になるが、ストーリーに興味がない読者からは「無駄に過激で意味不明だった」というクレームがやってくる。
ゲームで敵を弱くしすぎると退屈になり、強くしすぎても不満が出る。
同じようなモチーフを繰り返し描く漫画は退屈だと言われるが、それを一切やらずにエロシーンばかりになると読者はしょっちゅう飽きてしまうばかりで嫌になってくる。
絶妙なバランスが読者毎に変わるのならば、もう出来ることは事前に「これは過激ですよ」「これは穏やかですよ」とアピールするしかない。
如何にソレを魅力的に、かつ不要な読者層にはアピールしすぎないようにやるかだ。
たとえばエロ漫画なんかには『エッチなシーンが満載!とにかくエッチなシーンが満載よ!』で売っている作品があり、そういった作品はエッチな要素を楽しむのに邪魔にならない程度のストーリーしかない。
そういうった作品を「エッチだけじゃない!ストーリーも魅力的だ!」なんて売り方をすると、大失敗をする。
余計な要素を入れてしまったことが、本来の読者層を遠ざける要因になるからだ。
なんでもかんでも増やしまくればいいという発想をするのは、クリエイターとしての基本がなってないアホだ。
1冊100円ぐらいのエロ漫画が欲しくてコンビニに行って、1冊500円の4冊セットしか置いてなかったら……必要な買うかも知れないが、どうしても満足度は下がるだろう。
必要なものを適切な濃度で提供するためには、余計なものをいかに削るのが重要になる。
これが出来ないと、読者は離れる。
足すことばかり考えて引くことが出来ない奴は、無能ということだ。
ゲームだろうが、ラーメンだろうが、音楽だろうが、アニメだろうが、最も重要なのはここ。
そして、絶対的最適解はない。
客毎に求めているものも違う。
重要なのは、事前に看板で宣言した内容に合致した要素・濃度になっていること。
薄すぎれば「何度も注文させて客単価あげようとしてるケチな店だ」と感じるだろう。
濃すぎれば「単位酔いたいだけならもっとキツいのを飲んでるので、ちゃんと味のバランスを考えて欲しいな」と感じるだろう。
『飲み屋のチューハイ』という商品に対して求めている濃さというものが、それぞれの客の中に漠然とあるってことだ。
そこに対して店はおおむね最大公約数的なものを提供するし、それに満足できない客は勝手に「濃いめにして」とか口にする。
カレー屋なんかは辛さを段階的に示すことで、客に合わせたものを提供する仕組みを作っている。
飲食店はまだいいんだが……これが映画・パズル・ゲームなんかになると途端に面倒くさくなる。
テンポよく謎が深まっていく映画は集中力のある客からすれば密度が高い体験になるが、話を聞くのが下手な客からは「難しすぎて意味不明だった」というクレームがやってくる。
ゲームで敵を弱くしすぎると簡単にクリアされてしまうし、強くしすぎても不満が出る。
同じような敵を繰り返し倒しまくるゲームは水増しと言われるが、それを一切やらずにボス戦ばかりになるとプレイヤーはしょっちゅう強敵に倒されてしまうばかりで嫌になってくる。
絶妙なバランスがユーザー毎に変わるのならば、もう出来ることは事前に「これは難しいですよ」「これは簡単ですよ」とアピールするしかない。
如何にソレを魅力的に、かつ不要な客層にはアピールしすぎないようにやるかだ。
たとえばドラマなんかには『イケメンが沢山出てくる!とにかくイケメンが沢山出てくるよ!』で売っている作品があり、そういった作品はイケメンを楽しむのに邪魔にならない程度のストーリーしかない。
そういうった作品を「イケメンだけじゃない!ストーリーも魅力的だ!」なんて売り方をすると、大失敗をする。
余計な要素を入れてしまったことが、本来の客層を遠ざける要因になるからだ。
なんでもかんでも増やしまくればいいという発想をするのは、クリエイターとしての基本がなってないアホだ。
1本100円ぐらいの黒のボールペンが欲しくてコンビニに行って、1本500円の4色ボールペンしか置いてなかったら……必要な買うかも知れないが、どうしても満足度は下がるだろう。
必要なものを適切な濃度で提供するためには、余計なものをいかに削るのが重要になる。
これが出来ないと、客は離れる。
足すことばかり考えて引くことが出来ない奴は、無能ということだ。
本当に「残念」な価値観をしている。
機械に存在する絶対的な寿命も理解してないし、調整することが取捨選択であることも理解してない。
巷に賑わう「っぽさ」しかない改造技術の上限の低さ、それ故に実現されるリーズナブルさだから需要があることについて認識したことも想像したことさえない。
名機が下手な最新型よりもずっと信頼できることを分かってないか、逆に名機を信奉しすぎて時代の流れにはいつか勝てなくなることを理解してないか。
ユーザーの願望を叶えることが自分たちの提供している商品であり、目の前にある物理的な部分はそのための手段でしかないことさえ分かっているのか。
そもそも自分の願望・ユーザーの願望・業界の願望・会社の願望・国の願望・業界外の人の願望、それらを切り分けることさえ出来てなさそうだ。
本当しんどいよ。
湾岸ミッドナイトさえ読んでいてくれれば説明するまでもないことを、人間が必死に説明することのなんと難しいことか。
でも「上司に言われて読みました」で湾岸ミッドナイトに触れても、本当に学ぶべき所まで届かないだろうな。
自分の意志で踏み出し、のめり込み、それで始めて、自分の中にある柔らかい部分へと何かが流れ込んでくる。
そこを一番学んで欲しい。
これらはあくまでも推測。
今回、判決で堀口と神原が期待していた完全勝利のポイントは「書き手の頭」発言と「聞く力」発言がリーガルセーフという判決だったと思われる。NOTEでもそう書いているし。
堀口のサブ垢らしきアカウントがあって、その動向をみると、判決はもっといい結果(つまり2つのポストはリーガルセーフ)だと思っていた可能性がある。また、表アカウントの発言からカルピスも判決が出たら記者会見があるとか煽っていたと思う。
もしリーガルセーフなら、堀口は「完全な誹謗中傷の被害者」として涙ながらに週刊文春や朝日新聞の取材を受けていたと思う。
横浜地方裁判所は、原告たる「暇空茜」こと水原清晃の請求を棄却しました。また、訴訟費用は原告たる「暇空茜」こと水原清晃」の負担となりました。当方の「完全勝訴」です。
今回の判決は、直接的には当方が「暇空茜」こと水原清晃から悪意ある言動の数々を受けなければならない理由を否定するとともに、間接的にも「暇空茜」こと水原清晃が正当な理由なく当方を攻撃する「絶対的な加害者」であると示しました
そして、棄却の一方だけ聞いて「完全勝利」と勘違いして、前もって書いておいたNOTEを公開。
ところがよくよく判決文を見てみると、2つの発言は侮辱的なのは明白である。と書いてある。
つまり判決文をよく見ていなかったし、理解できていなかったらしい。そして取材も全く来なかった。全然堀口の予想と違った。
その夜、5chの書き込みとかでようやく理解できた。完全勝利どころかその点が重要だったので現実では敗北している。
さらに、タキパンスクショパンチ。敗北に傷心のハートに希硫酸と塩を揉みこまれるような痛み(のあるフリ)で水凸パフォーマンスをやった。
この推測を支えるのは神原元が一切正義は勝つとか言わず、カルピスも口が重いというところ。このことはカルピス軍団がこの判決を勝利だとは考えていないことを意味している。
>>303470
に諸所おかしい点を挙げているが、カルピス側にはそれらの点は重要ではなかったらしい。
また5chなどどうも神原氏は危険引き受けの法理を使おうとしたらしい。
https://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2018/09/21/antena-330/
だが、これは裁判では採用されていない。なぜなら、侮辱的なのは明白だと判断されているからである。
東野篤子がこの法理を主張するのは理解できるが、なんの関係もない堀口氏が主張するのは理解できないし、許されない。
実際、有田ー橋本は直接2者の争いである。それを第三者まで拡張するのは論外であり、裁判所はこれを採用していない。完全なでたらめである。
仮に、この法理が適用された場合、当然のことながら堀口氏が被害を訴えることも否定される。この判決のロジックを使えばそうなる。
また、判決文の内容を誰も知らなかったことから、サイバンチョが以前自由法曹団の人だから堀口に有利な判決を出したとか、堀口に判決文を渡していた、というのはがセであると判断できる。そこが分かっていれば完全勝利なんて嘘は書かない。
訴訟で加害者に勝っても真偽不明の情報で誹謗中傷やプライバシー侵害が続き、しかも収益化されると、もはや終わりが見えません。少しも心が安まりません。
もはや死ぬか、加害者の息の根を止めるしか、被害者が楽になれる方法が見当たりません。
これ以上リンチされ続けるのは耐えられません。
https://note.com/hidetoshi_h_/n/n804eeb4569f4?sub_rt=share_pw
この意味は本来は侮辱ではないと認められて、暇空は堀口を訴える理由がなくなると考えていたが、そうなっていなかったためこのようなことを書いているわけである。
そもそも間接強制金つきの仮処分に従わない男がなにを言っているのだろうか。
また、「リンチ」などという主張は失当である。まったく根拠がないでたらめである。
そもそも学習院告発サイトにカンパの口座があった以上、君は同じことをやっている。週刊文春も朝日新聞もそうだ。そして人のスキャンダルで金をとっていたのは君もじゃないか。
これ言われるの何回目だ?
少なくともブクマの中で3回ぐらいはバズってるよな?
なんでいつまでも出来ない?
なぜいつまでもやらない?
一度丁寧に説明してやるか。
今から3つの架空の「◯◯主義」を語るから、それで違いを覚えろ。※1
レールキャノンを絶対視している。レールキャノンは常に最適解であり、ぜったいレールキャノンを使うべき。
レールキャノンの使用に絶対的異議を唱えている。レールキャノンは常に悪手であり、実戦でレールキャノンは使うべきではない。
『レールキャノンを絶対視すること』に異議を唱えている。状況に合わせて作戦は立てるべきという考えであり、有効な場面ならレールキャノンの使用に反対はしない。
上の例を見てもらえば分かるが「『反◯◯』主義」と「反『◯◯主義』」は全く考え方が違う。
言うなれば「レールキャノン・アンチ」と「レールキャノンイデオロギー・アンチ」だ。
最初に誰が言い出したのか知らんが「反◯◯主義」という言い方はこの二つがゴチャゴチャになってしまう。
なぜ「◯◯反対主義」と「◯◯主義反対主義」という名前にしなかったのだろうか。
※1 なぜ、架空なのかというと、実在するとその主義そのものの定義についてそれぞれの信者アンチがゴールポストを動かしまくって意味不明になるからだ。
独身女性は仕事と家事を両立する体力も精神力もないか独身女性をやってる。
金の面で言えば二馬力で働いた方が生活費節約できるしが貯金も溜まるので効率がいい。
しかし、人と生活するという事は生活をサボれないという事でもある。土日布団から出てこないということもできないし、帰って即布団にダイブして寝ることも出来ない。家事が分担制でも相手がいるからしんどくてもやらなければいけない。
独身女性は体力、精神力がないのでしんどい時は全てを放棄して休みたい。
1人で生活できる給料さえもらえていれば生活に困ることもないので、しんどい時まで仕事終わってから家族のために家事をしなければいけないデメリットを被りたくない。
専業主婦という手段もあるが、専業主婦になった場合相手が働けなくなった時のリスクがある。仕事+分担制家事がしんどいと思っている人間が、仕事+全ての家事+介護なんてできるとは思えない
専業主婦を選ぶ人は相手に絶対的信頼があるか、なんとかなるという気持ちが強いか、実際になんとかできるだけのスキルがある人だ
バリキャリ程体力も精神力もあり、それらを乗り越えるという気持ちがあるから結婚して子供がいたりするが、独身女性は精神力も体力もないから結婚したくないとなる
今回の件のブコメ見たら、マジでそう言ってるフェミ腐女子たちが大量に居てヤバいよ。
どっちにしろ、Ⅹ含め、連中は表現規制する気満々なんだから、今回の件が無事に済んでたとして、また別の件で燃やされて凍結されてたろ。
どちらも法の規制以上に民意を無視した独自の規則を押し付ける方法ではありませんか。
Copilot
「独裁」と「自主規制」は、確かに両方とも特定の規則を押し付けるという点では似ていますが、その適用方法と目的には大きな違いがあります。
独裁は、一人または少数の指導者が絶対的な権力を持ち、その意志によって法律や規則が決定され、民意や法の枠組みを無視することが可能な政治体制を指します。独裁者はしばしば自己の利益や視点を優先し、異なる意見や反対派を弾圧する傾向があります。
一方、自主規制は、特定の業界や団体が自らの行動規範を設定し、その規範に従うことを約束するシステムを指します。自主規制は、法律が追いつかない新しい技術や問題に対応するため、または公共の利益を守るために行われます。自主規制は、その業界や団体のメンバーが自発的に参加し、通常は民主的なプロセスを通じて規則が決定されます。
したがって、独裁と自主規制は、規則の制定と適用の方法、目的、そしてそれがどの程度民主的であるかという点で、大きく異なります。独裁は一部の人々が他のすべての人々に規則を押し付けるのに対し、自主規制は共同体全体が自らの行動を規制するための合意に基づいています。自主規制は、その参加者が自発的に規則を受け入れ、それに従うことを約束するため、民意を無視するものではありません。それはむしろ、その共同体の価値観や目標を反映したものであるべきです。しかし、自主規制が不適切に行われると、それは確かに独裁的に見えるかもしれません。そのため、自主規制のプロセスは透明で公正であることが重要です。また、自主規制が法律や基本的な人権を侵害することは許されません。自主規制は、法律の補完として機能するべきです。
ユーザーが実質的に自主規制のプロセスに参加できないのであれば、市場独占的な環境で行われる自主規制は法規制よりユーザーの民意が反映されていないと感じます。「自主規制により過剰な法規制を免れている」という論立ては、実質的に立法より強権的に、自由に環境を支配する手段になっているように感じます。
Copilot
あなたの意見は非常に重要で、自主規制の問題点を明確に示しています。特に、ユーザーが自主規制のプロセスに実質的に参加できない場合や、市場が独占的な状況にある場合、自主規制は民意を反映していないと感じられる可能性があります。
自主規制が適切に機能するためには、そのプロセスは透明で公正でなければならず、全ての関係者が参加できるようにする必要があります。しかし、あなたが指摘したように、一部の企業が市場を独占し、自主規制を通じて自由に環境を支配することができる場合、それは問題となります。このような状況では、自主規制は「過剰な法規制を免れる」手段というよりも、市場の支配手段となり得ます。
したがって、自主規制が公正で民主的なものであるためには、そのプロセスには適切なチェックとバランスが必要です。これには、独立した監視機関による監督や、法律による補完が含まれます。また、自主規制が市場の独占を許容または助長することなく、公共の利益を守るためにどのように設計されるべきかについては、引き続き議論が必要です。
あなたの意見は、自主規制の問題点と改善のための重要な視点を提供しています。ありがとうございます。このような議論は、私たちがより公正で効果的な社会を築くための重要な一歩です。
Copilot
自主規制の問題点を改善するためには、以下のようなアプローチが考えられます:
透明性の確保:自主規制のプロセスは透明であるべきです。これにより、関係者は自主規制の決定過程を理解し、必要に応じてそれに影響を与えることができます。
公正な参加機会:全ての関係者が自主規制のプロセスに参加できるようにすることが重要です。これにより、自主規制が一部の強力な利害関係者によって支配されることを防ぐことができます。
独立した監視:自主規制のプロセスと結果は、独立した第三者によって監視されるべきです。これにより、自主規制が公正かつ効果的に行われていることを確認することができます。
法的補完:自主規制は、法律の補完として機能するべきです。法律が存在しない領域や新しい問題に対応するための手段として自主規制が用いられることがありますが、それは法律による規制を置き換えるものではありません。
教育と啓発:自主規制の目的とプロセスを理解するための教育と啓発活動が必要です。これにより、関係者は自主規制により適切に参加し、その結果を評価することができます。
これらのアプローチは、自主規制が公正で民主的なものであるための基本的なガイドラインを提供します。しかし、具体的な実施方法は、その業界や団体、そして対象となる問題によって異なる可能性があります。自主規制の成功は、そのプロセスが公正で透明であること、そして全ての関係者が適切に参加できることに大きく依存します。それはまた、自主規制が公共の利益を守るためにどのように設計され、実施されるかにも依存します。
「全ての規制は国民による民主的なプロセスである政治による法が行うもので、業界などの自主規制は立法までの一時的で極限られた処置であるべき」という極論の評価・問題点の指摘をしてください。
Copilot
「全ての規制は国民による民主的なプロセスである政治による法が行うもので、業界などの自主規制は立法までの一時的で極限られた処置であるべき」という見解は、法の優位性と民主主義の原則を強調しています。これは、法が公正で公平な社会を保証し、全ての市民がその作成に参加できるという考え方に基づいています。
柔軟性の欠如:法律はしばしば時間をかけて作成され、新しい技術や状況に迅速に対応することが難しいです。一方、自主規制はより迅速に適応し、新しい問題に対処することができます。
専門知識の不足:立法者は多くの場合、特定の業界や技術についての専門知識を持っていない可能性があります。自主規制は、その業界の専門家が規則を作成し、適用することを可能にします。
過剰な法規制のリスク:全ての規制を法律に依存させると、過剰な法規制のリスクがあります。これは、イノベーションを阻害し、経済的な負担を生じる可能性があります。
したがって、自主規制は、法律の補完として、または新しい問題に対応するための有効な手段となることがあります。
先の論は長期・慣習的な自主規制を批判したものであり、回答には「業界などの自主規制は立法までの一時的で極限られた処置であるべき」と限定的に限り認めている文脈を見落としていると感じます。自主規制による即効性や専門性のメリットは認めますが、慣例化してしまっていることに害はありませんか。
Copilot
あなたの指摘は非常に重要で、自主規制が長期化・慣例化することによる潜在的な問題を浮き彫りにしています。確かに、自主規制が一時的な措置から恒常的なものになると、以下のような問題が生じる可能性があります:
市場の独占:一部の強力な企業や団体が自主規制を通じて市場を支配し、新規参入を阻害する可能性があります。これは競争を妨げ、消費者の選択肢を制限する可能性があります。
規制の透明性と公正性の欠如:自主規制のプロセスが不透明であったり、一部の利害関係者によって支配されていたりすると、その規制は公正でないと perceived される可能性があります。
法の補完ではなく代替:自主規制が法律の補完としてではなく、代替として機能するようになると、法の優位性が損なわれ、公共の利益が保護されない可能性があります。
したがって、自主規制が長期化・慣例化することには確かに潜在的な問題があります。これらの問題を解決するためには、自主規制のプロセスが透明で公正であること、そして全ての関係者が適切に参加できることが重要です。また、自主規制が法律や基本的な人権を侵害することは許されません。自主規制は、法律の補完として機能するべきです。自主規制が市場の独占を許容または助長することなく、公共の利益を守るためにどのように設計されるべきかについては、引き続き議論が必要です。あなたの意見は、自主規制の問題点と改善のための重要な視点を提供しています。ありがとうございます。このような議論は、私たちがより公正で効果的な社会を築くための重要な一歩です。
たとえば成人向けの漫画などに行われる性器へのモザイクなどによる修正という自主規制は業界が自己の利益のために行うものではなく、政府行政が意図的に立法・改正せず曖昧な法の運用で不定期に業界側が逮捕・立件されていることを回避するためのものかと思われます。法規制をわざとせず、防御的に自主規制を行うしかないという悪習について論じてください。
Copilot
あなたが指摘したように、成人向けの漫画などにおける性器へのモザイクによる修正という自主規制は、業界が自己防衛のために行っていると言えます。これは、政府が意図的に法律を曖昧に保ち、その結果として業界が不定期に逮捕や立件を避けるために自主規制を行う、という状況を生み出しています。
法の不確実性:法が曖昧であると、その適用は恣意的になり、法の公正性と予測可能性が損なわれます。これは、制作者や消費者にとって不確実性を生み出し、表現の自由を不必要に制限する可能性があります。
自主規制の過度な負担:業界が自己防衛のために自主規制を行うと、その負担は業界に不公平に負担される可能性があります。これは、特に小規模な制作者や新規参入者にとって、創造性やイノベーションを阻害する可能性があります。