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2016-12-11

http://anond.hatelabo.jp/20161211080737

高機能自閉症の人でも他人感情を把握するのはやっぱり難しいのだけど、まれパターン認識を駆使して凄く普通にみえる人というのがいて、そいう高機能自閉症の人を「高度に社会適応した自閉症」と言われてるのを本で読んだナリ

あさイチ蒼井優たんを見てたら

かなり高度に社会適応した自閉症に見えた

2016-12-06

AmazonGoが底辺職業を奪うことについて喜びを感じています

みなさんはどうですか?

レジ打ちしかできない人間存在する事実

そんな人間に500円以上も時間給を払わないといけない現実

チャンチャラおかしいと思いませんか?

AmazonGoの試みは徹底的に合理的であり、甘ったれ思想を打ち壊す暴力性があります

あの動画を見たとき、僕の心は洗われました。なんて美しい世界なんだろう、来年はなんて素晴らしい年になるんだろう、と。

鋭利で柔軟な発想は愚鈍で硬直した社会にメスを入れます

適応できない人間という癌を切除することで社会はまたひとつ強く歩み出せるのです。

いいじゃないですか、生活保護があるんですから生存権ぐらいは容認してますよ?

それが受給できないのはそいつ問題でしょう。我々は果実だけを享受すればいいんです。

2016-12-01

http://anond.hatelabo.jp/20161201155406

ほんそれ、努力我慢は才能の賜物だわ

私も胃が弱くて食前のイライラ尋常じゃないんだわ

体に出るのって苦しいよな、頭で理解しようとしても発作的になるんだわ

ただあの増田は無理しながら適応しているような気がする

努力の鞭打つの勝手だけど悪化させないかヒヤヒヤするな

http://anond.hatelabo.jp/20161201153532

どうなんだろうな。

増田場合鬱病の薬を飲んだ結果脳の何処かには耐性があって、たまたまそれが運良く機能してたから今でも社会適応できてるだけかもしれない。

うつ病を患いながら努力すべきドーパミンアドレナリンに恵まれたかもしれないし。

屁理屈ではなく自分禁煙鬱というセロトニン不足から来る異様な無気力感に苛まれた。

努力と忍耐はオレ個人はこうした経緯いなく才能だと思っている。個々人の脳の作りが違うのに忍耐力まで一緒なはずはない。

自分場合内臓が極端に弱くしょっちゅうストレスで倒れるので、努力しようとするほどうまくゆかないという器量のなさも経験してる。

努力は個々人が考えうる範疇で最大限なされるべきかもしれないが、自分ができたか他人もできるんだという発想は割と危険だとも思ってる。

響け!ユーフォニアム診断~あなたはどの楽器っぽい?~

楽器やってると「(楽器)っぽい」ってのは日常茶飯事で下される診断なんだけど(そういう本も出ているかもしれない)、楽器してない人には「???」が浮かぶシーンだったらしいユーフォ9話。

なので○○っぽいを書いていこうと思います

あなたはどの楽器っぽい?



華奢で可憐、温和でお嬢様イメージ

これは多分だが、主にフルートメロディーライン担当するときは、他の楽器が音を極小にするため

音量があまりないので、病弱っぽいとも言える

フルートっぽいっていうのが一番分かりやす楽器かもしれない

生真面目で決して派手ではないが、真っ直ぐなイメージ

クラリネットシンプル楽器なので、音もわりとシンプル

曲の中でも常にメロディラインに居る場合が多く、吹奏楽部では1stクラリネットトップコンマスとなることも多いので、リーダーイメージも強い

一人称ボクのイメージは僕の大好きなクラリネットより

朴訥と職人タイプ

アニメと同じように楽団に一人もしくは二人の少数精鋭になる

また演奏がとても難しいと言われているので、気難しいイメージもついてくる

地味かと思えばカリスマ性があるのかも

ファゴット、もしくはバスーン

独特の表現が出来る楽器。中音域から低音域になるので奇抜では無いが、明らかに他と違う

美大に居るタイプ

目立ちたがり屋(にぴったりな楽器

しか個人技術センスが高く求められるので、ただ浮かれて目立つタイプより、技巧を持ちセンスを兼ね備えた目立ちたがり屋こそがサックスっぽい人となる。

派手な印象で、カリスマにもなれる素質がある

ちなみにテナーバリトンサックスとなると、いぶし銀さが増す

れいなみたいなタイプ

演奏家には圧倒的に目立つソロが与えられるので、自分に自信を持てるタイプ

また音自体が目立つ上に誤魔化しがまったく効かないので、率直なタイプとも言える

良い意味で憧れの存在、悪い意味協調性が無いか

地味に見せかけて実はヤンキータイプ

伴奏ではリズムになることも多く、端っこでメロディーラインを吹くことも少ない

しかファンファーレなどで欠かせない楽器であり(ホラ貝の音で試合開始!的な)

フォルテ(f)がたくさんついている時に、どんな楽器よりも輝いてくる

まさしく元ヤン

協調性があるタイプしかし腹黒)

中間域の楽器。多くがユーフォとほぼ同じマウスピースを使う。

トランペットと並び見た目から派手なタイプなのだが、ユーフォにも近いので演奏方法によって変わってくる。

普段は柔らかく賢そうにもできるが、少しの匙加減で音がバリバリ割れた乱暴な音に変化する

相当腹黒い。しかし頼りになる存在だろう

いろんなものに馴染む人。適応力が高い人

例えばクラリネットトランペットオーボエサックス、このあたりを繋ぐのがユーフォの音

吹奏楽以外ではなかなか見かけないが、吹奏楽で音の混じりあいを考えるととても重要になる楽器(なので主人公ユーフォなのかな)

混じるので地味だと思いきや、主旋律とは違う副旋律(または対旋律、裏メロ)を任されていることも多い

金管の中でも柔らかい音色なので音も澄んでくる

心優しく、素直で、そしてそれを演出できる計算して生きていくタイプ

頼りになるみんなのお父さんタイプ

吹奏楽部に関しては、重いので男子学生があてられることが多い。そして女性社会部長押し付けられてしま可哀想境遇を持つ

この人がいないと心許ないし、集団破綻してしまうので最重要と言える

しかし派手にはならない。それを受け止められる包容力演奏家にも、音自体にも大事になる

のんびりとした鈍感力を感じる楽器である

楽しい事が好き、バンジージャンプが好きなタイプ

目立つ、隠れない、効果音的。これはつまり静かな空間に入っていく緊張感を飛ばす強心臓と、そこへ向かうスリルを楽しめる能力必要になる

パーカッションでまとめると楽器が色々ありすぎて困るが

隣りに同じ楽器旋律がまったくない中で「自分自分」と思えないと演奏できない

演奏家マイペースであり、メトロノーム友達ストイックタイプが多いか

まり根暗(だが目立ちたい)

自分世界を持った個性的タイプ

パーカッション複数人居るのに対しコントラバスは少人数になる

周りに教えてくれる人が少ない。そして基本的リズム隊となるので、自分にこだわりを持ち低い音を追及していくこととなる

なので演奏する人により拘る箇所が違い、音色も変わってくる

演奏家には合奏練習中に疎外感を感じることも多いのか、変わったことをして周りの気を引こうとするタイプが多い気も



楽器はいろいろあるけれど、とりあえずザックリとこんな感じになります

多分、似たような人がその楽器に集まっているのは統計学をとれば証明できるのではないか?と

そういう人が楽器をするのか、その楽器をするからそういう人になるのか。

気になるところです。

2016-11-29

先日チンパンジーゴリラと猿の行動対談を見たんだけど、プライドってそれらの種類でもはっきりあるみたいなんだよね。

メスはオスのプライドに全く無関心で、ころっと環境適応して態度を変えられるんだって

類人猿レベル人間ってひどくなるようにインプットされてんです。

2016-11-25

それを夢小説かどうか決めるのは作者だ

と、わたし(筆者)は思う。腐女子こそ夢小説を書くべき論とかを読んで、うだうだ考えたことと提案

わたしの夢傾向のせいで、おおむね夢小説のことになるけれど、ある程度夢創作全体に通じると思っている。そして、だれにも押しつけるつもりはない。

わたしの夢傾向

女。

創作愛好歴はおよそ10年で、ブランクはない。「灰男」からとでも言えば、わかる人にはわかるだろう。

よく読む(積極的に探す)のは好きな原作二次創作夢小説。でも、おもしろいと思えば、なんでも読む。主人公個性がマシマシだろうがナシナシだろうが、性別が同性だろうが異性だろうが、恋愛があろうがなかろうが、その相手主人公と異性だろうが同性だろうが、ヒトであろうがなかろうが、ものだろうがなんだろうが、おもしろければ読む。じゃあ、どんな夢小説おもしろいのかとかいう話しにはキリがないので、割愛させてもらう。

「よく読む」と表現はしたけれど、書きもする。むしろ書くのがメイン。

で、わたしには一つ譲れないところがあって、自己投影する。作者がどういう意図をもって主人公を設定したか知らないけれど、その夢小説を読んでいるとき、その主人公は、わたし自身だ。

夢小説における自己投影

自己投影とは - 日本語表現辞典 Weblio辞書にはこう書いてある。

(2)目にした状況や呈示された刺激などを理解したり解釈したりする際に、その時の自分心理状態人格特性などが反映されること。「自己投影」は俗に、フィクション内のキャラクターなどを自分と同一視し、キャラクター自分に重ねることを指して用いられることもある。

そのうち後者フィクション内のキャラクターなどを自分と同一視し、キャラクター自分に重ねること)が、夢小説における自己投影だと思う。少なくともわたしにとってはそうだ。

わたしの夢傾向」を読めばわかるだろうけど、主人公自体にこだわりがあるわけではない。わたしは、おもしろければ読む。かれ(かのじょ)が、生き残った魔法使いだろうが、高校生探偵だろうが、半妖だろうが、天使の生まれ変わりだろうが、悪魔に呪われたエクソシストだろうが、マフィアの十代目だろうが、自分自身の子どもだろうが、あらゆる天賦の才能を無効化する天才だろうが、宇宙人侵略された地球でなんでも屋を営んでいようが、超次元サッカーを嗜んでいようが、メロンパンが好きな紅蓮の異能者だろうが、宇宙適応した新人類だろうが、幻のシックスマンだろうが、個性を掴みとった無個性だろうが、異世界侵略から地球を守っている戦士だろうが、壁の中の人類を追い詰める巨人だろうが、六つ子の六分の一だろうが、あるいはCV田村ゆかりでも、桃色の髪でも、透明な肌でも、眼鏡でも、ショートヘアでも、オッドアイでも、幼稚園児でも、おばあちゃんでも、壁でも、掃除機でも、薄汚い中年でも、ノンケでもレズビアンでもゲイでも、もうなんでもかんでも、それはわたしだ。夢小説を読んでいるときわたしはその突拍子もなくかけ離れた、ありえない、あるいはありきたりの、場合によっては自分そっくりの、そのものになる。

ところで、これがだれしもに当てはまるとは、思っていない。自己投影にはレベルがあると、わたしは考えている。レベル表現たからには高低があるが、そこに優劣を見ているわけでないことは言っておく。

ガバガバ。とくにレベル2と3。レベル0と1と4については、説明不要だと思う。

「無個性」について。文字どおり「個性」が「無」いことだ。その個性について、個性とは - Wiktionary日本語版(日本語カテゴリ) Weblio辞書には、以下のように書いてある。

ある個人を特徴づけている性質性格。その人固有の特性パーソナリティー。 「強烈な-をもった作品」 「 -を発揮する」

夢小説においては、主人公に「(自分と)同じ性別」「同じ種(つまりヒトである)」だけが設定されていることだと思う。それに加えて「同じ性愛の向き(同性愛異性愛か)」「同じ好きなひと(主人公とのかけ算の相手)」が設定されていることもあるだろう。その程度だ。ここまでが、レベル2の「無個性」の範囲だと思う。

レベル3の「ある程度の個性」は、単純なものではない。ここでは「なんでもかんでもは無理」としか説明できないことだと思う。レベル2の無個性に少しだけなら、いやいやヒトならいいよ、擬人化された人外なら、異性でも同性愛者ならいいよ、有機物ならいいよ、基本はヒトがいいけど単眼ならいいよ……などといった具合に。

夢小説の読み方

で、「自己投影」についていろいろ言ったばかりだけど、ぶっちゃけ自己投影しなくてもいい。読み方は自由だ。

二次創作に関して言えば「オリ二次」の一つとして読む人もいるだろう。実際、夢小説主人公は、原作存在しない「オリジナルキャラクター」といえることが多い。

二次創作的なものにばかり言及することになるが、原作に明記されていないことを、「こうに違いない」「こうだといいな」と考えたり、あるいは原作の設定を無視して「こうさせてみた」としたりすることがあると思う。あれも、ある種の読み方といえると思う。わたし二次創作夢小説を、そういう原作の読み方から書いている。こんな(夢小説の)主人公がいたら、原作のあのキャラクターはああするだろう、こうしたらあそこはああなって……とか。

どれもこれも読み方だ。わたしたちはおそらく考えながら読んでいる。そして、考えることは自由だ。だから、どう読むかも、また自由だ。

夢小説の書き方

わたしは、よく二次創作夢小説を書く。そして、この日記でいう自己投影レベルは4で、読者としては主人公自己投影する。

当然(ではないかもしれないけれど)、わたしの書く夢小説には、わたしの嗜好が大きく表れる。「おもしろさ」の基準を満たそうとするだろうし、自分の書くものから、ある程度は満たしていると思う。で、嗜好が大きく表れるので、主人公異性愛者の女性かもしれないけれど、おばあちゃんかもしれないし、ゲイかもしれない。ヒトとも限らない。ボールに入るモンスターかもしれないし、壁の外の巨人かもしれないし、魔神族の王かもしれないし、好きなCPが愛を営むベッドのシーツかもしれないし、だれそれがだれそれをドンする壁かもしれない。

でまあ、書くのも自由だ。ある程度は。書くということは表現で、表現することは、ある程度は自由だ(公共の福祉に反しないかぎりとか、憲法かなにかで言っていたと思う)。二次創作について言うと、著作権どうこうの話しになってしまって、これまたキリのない話しで、わたしには専門的な知識がないので割愛させてもらう。今のところ「非親告罪なので原作者が罪をつきつけないかぎりOK」というスタンスで、つまり原作側になんやかんや言われたら速やかに従いますよってくらい。しか言えない。これはマジで

実質夢小説

ここには夢小説に通じる内容があるよねってやつ。だと思ってる。

大阪国際的スタジオテーマパークの、魔法使いになれるところ。原作、大好きです。原作主人公が通う学校の生徒になれたらな、入学許可証がきたらなって思った。そして、なんと、大阪のその遊園地に行けば、杖が買えるという(行きたい! 買いたい!)。わたし()気持ちを書いたし、魔法使いになれたらなとも思った。んでもって、わりと世のなかには、あの小説映画や、あるいは遊園地で、わたしと同じようなことを考えたひとがいるんじゃないかと思う。遊園地では魔法使いになった気持ちを味わったひともいると思う。

次いこう。実は東京にはない夢の国。あそこで(遊んでいる間だけでも)夢の国の民だったひとも、やっぱりいると思う。あそこのキャストスタッフ)の神対応が、たびたび話題になっているから。

というかだね、幼いころに、日曜朝のヒーローになりたい、ヒーローに守られたい、あるいは戦うヒロインになりたい、楽器から魔法の道具を生み出したいとかって、考えたひとも、やっぱりいると思う。「あんなこといいな できたらいいな あんなこと こんなこと いっぱい あるけど」(だっけ?)とか、二十ウン世紀からきたロボットに会いたいとか。

ボールモンスターを捕まえるゲームが、リアルマップ対応したよね。わたしたちはスマートフォンさえ持っていれば、GOした先で、疑似的ではあるけれど、まるで本当のトレーナーのように、モンスターをゲットできるようになった。

こういうのは夢小説に通じる考え方だ。二次創作の話しになるけれど、先述の「オリ二次」にも、同様に夢小説に通じるものがあると言える。あのCPの営みを空気になって見ていたいとかもだね。そして、それが形になったものを見たとき、そこに「夢小説」のラベルがなければ、「実質夢小説」として見る。

商業小説にも、「わたし視点の、あるいは明らかに作者(のペンネーム)と同じ名前主人公がいたりする。(それだけとは限らないけれど)そういうところから夢小説のにおいをかぎとったとき、やっぱり実質夢小説として見る。

それを夢小説かどうか決めるのは作者だ

書いてるうちにだんだんと疲れてきて、かなり文章が雑に、より滅茶苦茶になってきていることを、わたし自覚している。本当に。

それを夢小説かどうか決めるのは作者だ。言いたいのは、これだけだ。題名にもしたけれど。

夢小説っていうのは、すごくガバガバだと思う。自己投影したりしなかったり、名前を変換したりしなかったり。夢小説は、ある種の表現技法で、考え方だと思う。そこには、かなり「主観」の要素がある。

まず、作者が、それを「夢小説」にする。ここには作者の嗜好が、存分に表れていたりいなかったりする。それが発信されると、だれかの目にとまることがある。このだれかが「読者」だ。この読者にも嗜好があって、もしかしたら、かれ(かのじょ)はそれを「夢小説」と思えなかったかもしれない(これのどこが夢小説だ! オリ二次でやってろ! モブ創作でやってろ! 云々)。そのときは、そう思うにとどめて、「これはわたしには合わなかった」「このひとの作品は読まないようにしよう」などと、読者が避ければよいだけの話しだと思う。読者が「おまえのは夢小説じゃないか夢小説のラベルを剥がせ」などと作者に強要することではないと思う。一人の作者として、わたしは、そう強要されるのは嫌だ。読者に読者の「夢小説」観があるように、作者にも作者の「夢小説」観がある。

これは、なにも「夢小説」だけの特別なことではなくて、いろいろなことに言えると思う。わたしは、実質夢小説だと思いながら、言いながら、けれどそこから「実質」を剥がしはしない。つまり強要はしないし、直接作者に提案することも、しない。わたしは、されたら嫌だから。考えてもみようよ。男二人の友情を、あるいは女二人の友情を、はたまた男女の友情を書いていたのに、「これ恋愛BL)(GL)ですよね。友情ものを名のるのやめてくれません?」なんて言われたら、どんな気持ちになる?

とくに、「わたし不快から夢小説の)ラベルを剥がせ」とかい強要提案)はやめたほうがよい。これにはキリがない。万人に受け入れられるものは、ない。Twitterにロバの絵の四つの比較みたいなのがあったと思うんだけど、まあ、あんな感じで。不快から剥がせという強要がまかり通るようになってしまうと、気づいたときには、あなた独りだけが夢小説を書いている……なんてことになりかねない。

つかれた。

権太はなぜ二度死んだのか?~この世界の片隅に狸を見出す

先日「この世界の片隅に」の感想を書いたけど、その際引き合いに出した「平成狸合戦ぽんぽこ」について、

せっかくだから何となぁーく感じてたことをだらだら記してみるよ。



「この世界の片隅に」を観て、眠れる狸が目を覚ました



自分の書いたもので恐縮だけど、自分は「ぽんぽこ」のテーマは「(それでも)生きていく」だと思っている。

自分たちを取り巻く世界環境価値観社会文化)の変化の中で、人はどう生きていくのか、

またどう生きてきたのかを、狸に託して描いているのがあの映画だと考えてるよ。

学生運動とかの風刺ってのはその通りだと思うけど、少なくとも自分もっと普遍的ものを描いていると思う。)



自分たちを取り巻く世界の変化(この映画では迫りくるニュータウンの開発だけど)に対して、

狸たちはいろんな立場をとるんだけど、この映画場合はそれぞれ分かりやすく、



権太=世界の変化に抵抗する者。原理主義強硬派

化けられない狸=世界の変化についていけない、取り残される弱者

正吉(主人公)=世界の変化に(望む望まざるを問わず適応する、適応せざるを得ない者。



てな感じで描かれていると思う。

別にどれが良くてどれが悪いとかじゃなくて、それぞれが世界の変化に対して「(それでも)生きて」

いこうとした形の現れ方の違いなんだろう。(人間もそうじゃないすか?)



で、本題に戻るけど、映画で権太率いる強硬派機動隊ガチンコでやりあうわけ。

そしてそのやりあう場面の視点が変わり銃声がした後、画面が切り替わって、機動隊が狸の死骸を

山積みにする場面がくる。これ、映画の見せ方としては明らかに「死」を意味するもの

権太たちは確かにここで死んだはずなんだが・・・



しかし、狸の死骸はその後むくむくと動き出し、権太たちは復活して、最後に大きな首(釣瓶落とし)と

なって工事現場で再び暴れるのである。そして迫ってきたトラックの前に立ちふさがり、キッと睨みつけるのだが、

無惨やなそのまま轢き殺されるのだ。これで本当に死んじゃったわけ。



正直なんでわざわざ復活させてまた殺すのかよく分からなかった。

狸寝入り」の伏線を回収するためなのか、「特攻」のメタファーなのか…。



ただ、この映画を「自分たちを取り巻く世界の変化に対する云々」という視点で見れば、

きっとこんなじゃないかなぁ~と思うんだけど、つまりあれはもう互いに相容れない世界同士のぶつかり合い、

原理主義同士の争いってなわけ。そういうものはどっちかが滅ぶまで戦い続けます



それまでの狸vs人間の戦いは、狸が化かして人間が驚くって構図だったんだけど、

狸と人間対立していても、狸も人間も化け物は「怖いもの、驚くもの」という価値観を共有してたわけ。

対立はしてるけど共有もしている、ある意味矛盾を抱えながらバランスとってた関係

機動隊との戦いはまだその段階だったってこと。



でも、最後トラックは、あれは価値観の共有ができない完全に対立した存在

から、化け物をみても怖いという反応がない。今までだったらトラック側が「うわぁーー」とか言って

ハンドルを切っちゃうんだけど、こいつはそのまま突っ込んじゃう。

そして権太はこの相容れない存在同士の文字通りの死闘に破れ、本当の死を向かえることになる。



って考えてます。もちろんこじつけもいいとこなんだけど。



でも、これは映画の話だけど、同じような構図は、グローバル化だとか移民だとか領土争いだとか格差社会だとか、

まさに今の世の中のいろんなものに当てはまるんじゃないかなぁ~。

凄まじい勢いで身の回り世界が変化していって、いたるところで侵食や衝突が起きている。

そんな中で自分たちはどう生きていくかってことを、実は無意識にみんな不安に思ってるんじゃない?



そして、かつて戦争という、それこそ圧倒的に自分たち支配し大きな変化を強いてきた存在があった。

そんな時代に「(それでも)生きて」いた人たちがいた。

この世界の片隅に」を観て、なんかよく分からないけど心にグッと来るものがあるのは、そんな無意識に訴えかける何かがあるからじゃないか

から、「この世界の片隅に」をたくさんの人が求めているんじゃないか

2016-11-21

寂しいという感情がわからない

まれつきわからないのか、育ち方の問題でわからなくなったのかは不明です。

進んで人付き合いをする方ではないけど、社会的に浮いてしまうような拒絶的なことはしません。

親族付き合い、仕事の付き合いは、必要十分の範囲でこなしてます

私的交友は人数も頻度もかなり少ないです。ただ例えば10年会わずにいても、昨日会ったのとそんな変わらずに付き合えるような感じです。

静かな空間が好きで、引きこもり志向です。書斎で、本に囲まれて、ネットにつながったPCがあれば連続で何ヶ月でも過ごせると思います

賑やかな空間は、昔はかなり苦手でしたが、今は長時間でも耐えられます。これは社会人になってからの訓練によるものです。

社会適応する必要から、わかる人に話を合わせることや、わかる人のフリはできるようになってます

必要なら、そういう人が寂しい思いをしないように、自発的配慮をすることもできます

これはある程度の訓練と経験を積み、類推力を利かせれば、それほど難しくはありません。

でも肝心の寂しいという気持ちは未だにサッパリわかりません。

妻と二歳の娘がいます

妻は寂しいという感覚がわかる人です。先述の訓練とか経験かいうのは、妻の観察で勉強したものも多いです。

妻子はとてもかわいいので、望む限りのことをしてあげたいと思いますが、例えばもし単身赴任とかになり長期に会えなくなっても、自分としては別に大丈夫です。

人並みの経済状態で、健康に善良に暮らしているなら、それでいいと思います

娘の情緒教育観点から父親としての役割が果たせないなら困りますが、それは娘への影響の問題で、自分が寂しいからという話ではありません。

まあ適応して生きていけてるので困ってはいないのですが、この違いはなんなんでしょうね。

自分は養う家庭を持っているので、必要があって擬態してる分まだモチベーションは維持できますが、そういう理由がない人は、同調圧力が煩わしいでしょうね。独身時代自分のように。

社会の側にもう少し理解があると生き易いのですが。

もっと差別的な扱いのマイノリティの方々がいると思うと、贅沢な話かもしれませんね。

この世界の片隅に」を観て、眠れる狸が目を覚ました



この世界の片隅に

何となく評判が良さそうなのと、こうの史代原作だというのとで、

北海道じゃ知る限り今のとこ札幌の1つの映画館しかやってないけど、観に行ってきた。



もう言葉も出なかった。



帰り道の途中、あーでもないこーでもないと、頭の中で感想をひねり出そうと頑張ったんだけど、とにかく上手く表現できない。

ただただ、素晴らしい。この「素晴らしい」という言葉も何か陳腐ものに聞こえて、却って作品を貶めてしまってる気がする。そんな感じ。



もちろん、個々に素晴らしい要素を取り出すことはできる。

背景がとにかく綺麗で、建物や草花、人々の描写が緻密で、登場人物たちも何か温かな感じで、

物語も、すずさんという主人公を中心に、戦時中市井の人々の暮らしが丹念に描かれていて、

それでいて、あの時代、あの戦争というものに、いわゆる普通の人々がどう向き合っていたのかを考えさせられる。

さら自分が言わなくても、もういろんなところで考察感想があがっているから、これ以上言及する必要はないだろう。



それでもどうしてこの映画がこんなにも心を打ち抜いたのか、説明できない。

自分表現力が乏し過ぎるから上手いこと言えないだけなんだろうけども、何とか自分言葉感想を言いたいなぁ~と考えて考えて、



そこで思いついた!

そういえば自分の中で同じくらい心を打ち抜いた映画があったなぁ~と。

それと「この世界の片隅に」で、なにか共通するものがあるんじゃないかなぁ~と。



それは…「平成狸合戦ぽんぽこである



はぁ?「この世界の~」と「ぽんぽこ」を一緒にするんじゃねぇぞカス

とどちらのファンにも言われるかもしれないけど、言われても仕方ないんだけど、

少なくとも自分はこの映画を語るのに、「ぽんぽこ」という“触媒”が必要だった。



平成狸合戦ぽんぽこ」は高畑勲監督が手がけたご存知スタジオジブリ作品だ。

内容をごくごく簡単に言えば、ニュータウンの開発で自分達の住処を失う危機に面した狸たちが、必死の抵抗を試みて敗れる物語である

でもここに出てくる狸たちは、そんな深刻な事態なのにどこか暢気でズレていて、人間との「戦争中」だけど恋も遊びも楽しんでいる。

そしていよいよ追い詰められていく中で、ある者は徹底抗戦を唱え玉砕し、ある者は自分たちを受け入れてくれるこの世の楽園(そんなものはないのだが)を目指して旅立ち、

主人公を含むその他の者は、人間社会への同化を試みることを決意するのである



この作品、たくさんの風刺メッセージが込められていて、解釈も様々ある。

そして自分が感じたのは、「(それでも)生きていく」というものだった。



ニュータウンの開発。それはそこに暮らす狸たちにとって、自分たちを取り巻く環境価値観を一変させる脅威だったに違いない。

からこそ必死に抵抗するのだが、しかし圧倒的な力の差に敗れ去ってしまう。ただ、それでも―

主人公を含む一部狸たちは、人間社会の中で、人間価値観の中で、「(それでも)生きていく」ことを選んだ。



映画最後の方で、主人公はかつて豊かな森であったろうゴルフ場の片隅で、小さな宴会を楽しむ昔の仲間を発見し、再会を祝う。

その小さな幸せを楽しむ向こう側には、絶望的なほどに圧倒的支配者となった人間の暮らす街が広がっていた―。

なんだか救いがないように見えるけど、でも、不思議希望も持てるラストだと思った。

きっと狸たちは、もう今までの自分たち世界は取り戻せないけども、それでも新しい世界のどこか片隅に自分たちの居場所を見つけて、

しなやかにしたたかに生きていくだろうから



さて、「この世界の片隅に」はもちろん「ぽんぽこ」とは全然違うんだけど、

でも根っ子の部分で重なるんじゃないかなぁ~と、少なくとも個人的には感じた。

自分たちを取り巻く社会価値観環境が変化する中で、それに戸惑ったり抵抗したり適応したりしながら、それでも生きていくということは、人間普遍的テーマだと思うから

この映画はその普遍的テーマを直接言及するわけでなく、戦時中市井の人々の日常という形で描いてるものから

何か上手く捉えられず表現できないんだけど、心を深く揺さぶるんだと思う。



余談だけど、今まさにこの現代にこの映画が出たことは、タイミング的に奇跡なんじゃないかな。

というとオーバーだけど…でも、世の中が激変し過ぎて、正直自分不安を感じてるよ。

テロの多発、英国EU離脱トランプ大統領誕生等々…。あん政治的な話を持っていくとこじれるからこれ以上はやめとくけど、

いったいこれからどんな世界が訪れるんだろうか、全然からない。

からないんだけど、考えるのを止めて狸寝入りしちゃ駄目なんだろうな。

からないなりに現実と向き合って、「(それでも)生きて」いかなくちゃならない。



何だかやっぱり上手く言えないけど、そんなことをあらためて感じさせられた。

2016-11-20

http://anond.hatelabo.jp/20161120211553

女性感情的になるとすぐに

1.生理

2.更年期障害

3.若い女・美人な女に対する嫉妬

のどれかに認定して思考停止させようとするのは古典的方法だけど、元男性である能町みね子にもそれが適応されるというのは非常に新しいな。

LGBTとして扱われることを快く思っていない能町さんだけど、外野としてはどこまで世間的に女性として受け入れられるかというのはとても気になる。

主張する女を排除する社会

客先常駐メインの仕事で目にしてきたことを書く

女性社員が何かを主張する時は漏れなく受け入れている会社は受け入れる反面、女性妊娠すると

産休する旨を書いたメールを社内に発信した翌日、「あなたを養う体力はうちにはない」と通告し自己都合退職へ追い込んだ。

これは飲み会で、突然辞めた女性社員の事を聞いた時に部長が言っていたことだ。

プロジェクトで行った現場にはプロジェクトキーマンとなるPM(男)と仲がいいPL(女)がいた。

無事プロジェクト成功したがPL(女)は本社から地方の子会社に飛ばされた。

どういう事かと社員に聞いたら「あの女は媚び売った上に女であることあからさまに主張してズルしたんだよ」と吐き捨てた。

どうやらそこそこ仲よくなった段階であれこれ提案を押し通していたらしい。

PL(女)は本社から地方の子会社に飛ばされたが、プロジェクトキーマンとなっていたPM(男)は部長に昇進した。

派遣で行った会社では「女性交代勤務をさせてはいけない」が暗黙の了解になっていた。

そこは女性体調不良になったり子供病気会社に出社できない場合どんなに忙しくても女性健康第一・家庭第一で休むことを許可した。

穴を埋めるのは男性社員であったがある日、社内でも1・2を争う優秀な男性社員が「やってられるか」と言って辞めた。

その後も男性社員がどんどん辞めて行き、穴を埋める事が出来なくなった会社は家庭の事情会社に持ち込むことを禁止する通達を口頭で現場責任者に伝えた。

結果、自分が辞めるまでに自己都合で辞めて行った子持ちの女性社員10人以上に上った。


これは客先常駐と言う立場で見たり聞いたりしたエピソードである日本男女平等を進めているらしいが世の中は男尊女卑のままである

マネジメント問題でもある部分も見受けられるがそれを言うと決まって「男の働き方に適応できない女は死ね」と言う言葉が返ってきた。

今の日本社会女性配慮する行為が「女にポリコレ棒を持たせる事」として忌み嫌う傾向が見受けられる。

これは社会の一部を私が見ただけの話だが、身近に感じる事はないだろうか?

女性は男が相手だろうと気にせずどんどん言いたい事を言えばいいと言いわれる反面、女なんだからもっと男をたてろと言われる事もある。

フェミニストを主張する女性は、はてな場合は既婚者か子持ちが多く安定したポジションと言う安全地帯の中から主張している。

これを「私も主張していいんだ!」と捉えると男性中心に動いている社会から排除される。

嫌なら日本から出て行くしかない。

経団連のじいさん集団が半数以上、女性に置き換われば変わるかもしれない。

2016-11-17

物質本質存在精神によって知覚される

生物本質適応進化/退化の尺度主観しかない。

しかし強いモノ、速いモノは総じてカッコいい、または美しく見える。

強いモノや速いモノに惹かれるのは漢としての性なのか。はたまたただの価値観か。

脳も身体も衰える。何もしないといとも簡単に。

生物機械も高機能、高性能化にはより多くのエネルギー必要とする。

そんなだから32歳童貞の俺に価値なんてない。

2016-11-15

http://anond.hatelabo.jp/20161114215724

仮に障碍者連想させるとしたとしてという前提をおいてだね

障碍者を子に持つ親がその成長過程生活が「楽しい」と感じるのは異常に分類されるのか?

まがいなりにもドワンゴおっさんが産み落とした不完全な行動体を

「みてくださいうちの子を。不完全で異常ですが可能性を感じます」と自慢しにきたら

気持ち悪いと いかにどれだけ気持ちいか渾身の事実事例というこん棒でぶん殴ったパヤオはなにか価値があるのかね

くだらない曲解ベストポジティブアンサーを造ると

障碍者のようなうごきをするとしたら そのデータをもとに人間社会適応できる動作補助構造を構想するための材料につかえるとか言えるだろ

障碍者から気持ち悪いという暴力性を当事者に近い位置だと爆炎に巻き込まれいからと

相手だけ炎上させる方向で投げつけた老害老害と呼ばずして何と呼ぼうや

2016-11-11

ポリコレ適応されるかされないかマーケット判断しろ

オタク

→される。

もはや市場には欠かせない存在になったため市民権を獲得し始めた。

 

ガチャ

→される。

同じく柿の種になるので認められている。パチンコ若い世代バージョン

 

パチンコ

→される。

というかほぼ批判からは無関心。街と同化してる施設を叩きようがない。

 

デブハゲ

→されない。

ダイエット用品や育毛剤カツラなどはあるが、デブハゲ市場価値は低い。デブハゲ人権は無い。

 

独身女性

→されない。

子どもを造らない女性人権は無い。世間体に守られているだけで内心サラリーマンからは論外扱い。金も無いしクレームもうるさいしヒステリー持ちの三重苦。バイブだけがトモダチ。

 

介護老人

→される。

箪笥預金所持者の介護老人は金がある限り大事にされる。しかし金を持ってないと直ちに老害扱い。

 

喫煙者

需要が下がってきてマーケットも下がってきたのでお払い箱。

 

飲酒者(?)

→まだまだアル中支配が根強いのでされる。

 

・金が無い人間

→されない。

金の無い人間市場価値はなく人権は無い。

 

いくら恋愛してようが健康だろうが既婚だろうが高学歴だろうが老人だろうが子どもだろうが独身だろうが学生だろうがオカマだろうが女だろうが男だろうが大統領だろうが

金銭価値の無い人間ポリコレ適応されない。

2016-11-09

最近の若者・・・

最近の若者・・・と言われるけど、

年長者の言う事を聞いていれば、老後まで安定して生きていられるならそうする。

会社にいるだけで出世して、昇給して、リストラもなくて、年金も貰えて。

それなら、どれだけ理不尽な事を言われても大抵のことな我慢するし、年長者を立てる。

しかし今は、会社にいるだけでは出世しない、昇給しない、大企業リストラもある、年金も貰えない。

そんな中で理不尽な事を言われても、素直に我慢できるはずがないだろう。

最近の若者は、ではなくて時代適応した若者が出て来るだけだ。

時代が変化したことに早く気づいてくれ。

世の中は、昔の価値観大事にしているけど、

既に大我大会みたいになってるのに、心の中では気づいているぞ。

2016-11-08

http://anond.hatelabo.jp/20161108210041

そうだね。で、原因は色々あるよね。

・いわゆる「大御所」がのさばっているギョーカイの体質

・逆に「大御所」を大事にしすぎている、あるいは頼らざるを得ないギョーカイの体質

・「大御所」を引っ込めることも「若手」を引き出すこともできない、大手プロダクション芸能事務所無能無能、というのは言い過ぎだと思うけど、適切な言葉が思いつかない)

旧態依然を良しとする、あるいはせざるを得ない高齢視聴者

etc...

まあキュレーションメディアがテレビからネットに移行するのは上に挙げた原因とかでもう避けられないと思うし、

テレビ局テレビギョーカイネット適応しつつあるし、30~40年くらい先には、そのまま収束、って形になるのかなと思う。

2016-11-07

何で稼がないの?論的な何かについて

将来的な貧困云々を予想する人も共通する特徴は、国民の平均所得の変化だけを論じて、

その変化に応じた社会システムの変化に /まったく/ 無頓着なところ。



日本人の異常なほどの持ち家志向は、高度成長期住宅に異常なほどの供給不足が生じたことから

例えば賃貸において需要側が不当に不利な契約をさせられる、といった社会問題が続発したため、

「持ち家がなければ生活が安定しない」という社会的コンセンサスが背景にあった。

だが、当時と社会状況が大きく変化した現代ですら、まことしやかに「持ち家がなければ高齢者になってから路頭に迷う」と喧伝され続けている。

ところが、現実賃貸物件全国的な空き室率が5割に近付きつつあり、よほどの好立地でない限りは需要側が不利になることはない。

持ち家を所有するにしても、かつてはほとんど見られなかった中古物件リノベーションするパターンが増えている。

状況が変化すれば、消費行動が変化するには当然なことだろう。



多くの人間は不利な状況になっても現状を維持し続けるほどにはバカではないので、環境が変化すればそれに応じて社会システムも変化する。

から現在の状況が完全に維持されるという謎の前提で将来予想をしても、実際の結果とは全く異なった予想にならざるを得ない。

若者特有の消費行動や価値観というのも、環境の変化に応じた社会変化の一種であり、適応の結果である

中高年世代はそれをしばしば批判するが、それは旧世代環境に応じて身に付けた価値観現実齟齬を来たしている結果に過ぎないのであって

端的に言って旧世代社会的不適応を起こしている事例としか言いようがない。

http://anond.hatelabo.jp/20161107170441

ニポン人は英語への適応が弱いからすべてにおいて不利

http://anond.hatelabo.jp/20161106231140

繰り返しになるけれど、DSM-5における自閉スペクトラム症ASD)の診断基準は、社会的職業的、または他の重要領域における現在機能に臨床的に意味のある障害引き起こしていることを求めているので、

現在社会的適応しており、日常生活に支障をきたしていない元増田には不必要な診断名なのです。

元増田勘違いなさっているようだけれど、この診断名は「特性を持った人」のためではなく、「その特性によって困っている人」のためにあるのです。

から「今全然困ってないけどASDです!!」という発言は反発を招いても仕方がないように思いました。



また、ASDを診断するための客観的検査生物学的な指標バイオマーカー)も現時点では存在しません。

脳血流検査IQ検査MRI画像、問診を受けて診断されたとのことですが、脳血流検査IQ検査MRI画像も、あくま精神科医総合的に判断するための補助にすぎないものです。

そして、精神科医判断基準になるのがDSM-5やICD-10などの診断基準なんですね。

ところで元増田はこれらの診断基準は当然お読みになっているんですよね?



レキシソミア・アレキシサイミアについては、心身症の分野でよく使われる言葉です。

ご存知かもしれませんが、これらの症状はASD特有のものではありません。



診断を受けた経緯については分かりました。

やはり二次障害があったので診断を受けることになったのですね。



動作IQ言語IQの違いでアスペルガー高機能自閉症かが判断されるというのは、まだ知的に遅れのないASDにその両者の分類があった際、それが判断基準であったということから

そんな判断基準はありません。



ちなみに増田が言う通り、アスペルガー言語発達に遅れがない。(よって言語IQが高い)

高機能自閉症も成長するにつれて言語発達の遅れは取り戻すので、臨床的な経過はアスペルガー症候群高機能自閉症ほとんど差がないと言われています

よって両者をわざわざ分ける妥当性が乏しく、DSM-5では「自閉スペクトラム症」という診断名に一本化されたという経緯があります



ASDの中でもアスペルガー言語ポテンシャルが高いので、コミュニケーション障害が起こりにくいのかもしれない。

コミュニケーション言語によってのみ行われるものではありません。非言語コミュニケーションというものがあります

よって、「言語ポテンシャルが高い=コミュニケーション障害が起こりにくい」という推論は拙速だと思います



あとやれアスペルガーだ、やれ高機能自閉症だとは書いてきたけど旧分類であって今は死語である、というのも強調しておきたいかも。

アメリカ精神医学会診断基準であるDSM-5では自閉スペクトラム症に一本化されましたが、WHOの疾病分類であるICD-10にはまだ存在している診断名なので、死語ではありません。

2016-11-06

http://anond.hatelabo.jp/20161106125615

俺は昼間のほうが平和だと思うけどな

夜の方が余程大量の書き込みあるじゃん

人が増えて、吐き捨てる場所という機能が強調されて

以前から居た人はその場を去るか、ひたすら安住の地を求めて彷徨うか

適応して吐き捨ててる人の作り出すビッグウェーブに乗ってるかしてるんじゃねえの


どっちにしろネットリアルの差がなくなったって点に収束すると思う

ネットにおける平日昼間民主主義危険性について

インターネットやばい

はてなしろ2chしろ、00年前後ははわりとぽわぽわしてて礼儀正しく、害があっても広がりにくかったし、各ポータルサイトゲスさは無かった。

2ch便所の落書きと言われてはいたが、馴れ合いによる相互承認や、情報を求める意識を持った参加者たちで良い空間を作ろうみたいな意識もあったし、クソくだらないジャーゴンオマエモナーなど)を共有して生まれるゆるい一体感もあった。



今はそうではない。



陰湿で、攻撃的で、快楽主義であり、セクト意識裏切り者を許さない)はあるけれど共同体意識助け合い相互承認)はほぼなくなった。

2chで「氏ね」ではなく普通に死ね」と使われ始めて久しい。もうみんな心のブレーキがなくなっている。

2chはてブコメント辛辣になっている。

ネットは「叩くことで上に立ったかのように振る舞う、安上がりな自己欺瞞他者へのアピール」でありふれている。

中には「叩くこと」への快楽に目覚め、それを目的化し、それを正当化するための言い訳としての「誰かの失敗」と「正論」を求める人もいるように見受けられる。



なんでこんなになっちゃったんだろう?



被害者ぶる気はない。僕も加害者の一人だからこそよくわかる。

平日昼間の言論空間ネット平和破壊したのだ。



ネットは真昼に炎上する。



00年代頃はまだ限られていたインターネット利用者だが、格安ブロードバンドで普及を見せ、その後スマホを介して国民ほとんどがネット参加者になった。

社会に出て一生懸命働いている人たちや真面目な学生は平日昼間にネットに入り浸ることは少ない。

平日昼間のネット支配しているのは、無職ニートである。その中で暗い要素を持った集団を抜き出すと「仕事にあぶれて苛立つ求職者」「世の中を諦めた世捨て人無職」「登校拒否の延長の引きこもり」「うつ病神経症統合失調症といったメンヘル」「発達障害などで社会適応できなくなった人たち」「終わらない家事と身近なストレスで心の許容量が狭くなった鬼女」「世の中舐めてる陽キャのニート」「レールからそれて戸惑っているニート」「世の中に喝を入れたいリタイア組」・・・。まあ、とにかくたくさんいるわけである


もちろん、悪意のある抽出であり、心のきれいな方々もたくさんいるのだが、悪貨は良貨を駆逐するものだ。



そういった人々は暗い感情や怒りを、炎上快楽で気晴らしするのである。いわばweb放火魔だ。

火を生み出す力の喜び、何かが燃えていく光景を見つめる陶酔、生贄を取り囲む祭りの高揚感・・・

彼らは毎日ネットに入り浸るうちに中毒になり、炎上目的化する。



また、中には承認の場をネットに求める人も出てくる。


ニコニコ黎明期のようにクリエイティブな方向で承認を求めていれば平和だったのだが、今のニコ生DQNのほうが受けやすい。

はじめしゃちょーヒカキンみたいな発想力とパフォーマンスを持っているわけでもない人たちは、過激な毒のショッキングさで目立つしかない。

これはネット言論空間にも言えることで、有吉や張本みたいに「きっつい毒舌」「鋭いお叱り」を出来る人間承認されやすい。

何かを褒めている人間承認されることはほとんどない。



熱心な語りもいらない。消化しにくいからだ。

まり、ワンフレーズで響き、嘲笑と「俺たち情強だよな」といった満足感を生むネガティブ言論をしたがり、見たがるようになっているのだ。



問題は、そういった平日昼間の言論が「ネットの声」「ネット常識」とされて一般層へ輸出され、ネット文化となり、新たな放火魔教育してしまうことだ。

本来ただの過激派愉快犯にすぎない言論が、いつの間にか「民主主義」になってしまう。

現実でも起きうる/起きているかもしれない事態が、ネットではものすごい勢いで波及している。



誰かが火を消さなければいけないのではないか、誰かが防火壁を作らなければいけないのではないか

ホッブスによれば自由とは混沌であり、万人の万人に対する闘争なのだネットはそちらに向かいつつある。

東浩紀ネットルソー社会を求めたが、あんもの絵空事である

言葉を聞かない悪意の力の前に理想は役に立たない。


悪意は急速に感染し、ネット支配する。



「私達には関係ないこと」と高みの見物を気取る人たちは、いつか自分たちが悪意の生贄にされるかもしれない未来を予期していない。

自分のところまで悪意が登ってくる可能性を考えていないのだろう。しかしすぐとなりをよく見てみると良い。

シェルターの中にいる隣人が、悪意の炎を瞳の奥に隠しているかもしれない。



こんな空間に、子どもたちを晒すことが出来るだろうか? 

大人たちが壊れてしま空間なのに、子供リテラシーかいう頼りない防御策を教えて何とかなると?



ネット治安を維持するための善意言論を発信していくべきだろう。強硬的な手段ではなく、新しいモラルを共有できる仕組みを考える段階に来ている。

それと同時に平日昼間勢の心を癒やす必要がある。彼らの本当の問題ネットではなく現実にある。現実が変わらなければ彼らは変わらないだろう。

ネット現実リンクしており、ネット日本未来実験である。このまま手をこまねいて見ていれば、現実社会も今よりさらに厳しいものになっていくだろう。

2016-11-03

だって不幸だと言いたがる健常者に疲れる

「よく発達した発達障害」の話 - シロクマの屑籠

足がない、みたいな、明確な障害者に対しては過剰に不幸ですねー大変ですねー努力してここまでできるようになったんでちゅかー、って腫れ物に触るように接するくせに、

発達障害みたいなグレーゾーン障害者に対しては、「俺達だって不幸はある」「俺達だって適応につまづくこともある」というように、徹底的に不幸な障害者としての存在否定して話を聞く気はないって態度を取るよね

なんなのあれ

もちろん定型だって不幸があるのは知ってるし生きづらいときがあるのも知ってるし環境がひどくてクソな人生があるときはかわいそうだねーって話も聞くけどこちとらてめーらの適応能力に比べたら数十倍は合う環境がないしオープンにしたら受け入れてもらえずクローズにしたらバレたときに殺す勢いで排除されてるそういうこっちの人生の不幸観なんざ知りませんって態度の連中が「俺だって不幸じゃん」とか言い出したところでさっさと死ねという感想しか湧かないわ

なにが一番キモいかって助けるかどうかの判断基準は俺が決めるみたいなスタンスのヤツな