はてなキーワード: 呼称とは
BBAとかブスとかメスゴリラとかまず蔑称を挟みたくなってて草
ちなみに
ペニスは性欲の象徴であってもともと生えてるとか論点のすり替え
オタクの話題になるとあれはメタファーだのこれは比喩だとか言うくせに
まともに受けとって批判してるの草なんだけど
女性がよく言う「何でも話せる男友達だったのにいきなり性行為に誘ってきて気持ち悪い」ことを「ぬいぐるみからペニスが生えてきた」と喩えた人のセンス。
これが元ネタ
下心をずっと出さなかったのに急に勃起してきたことへの嫌悪感だな
え?おまえ下心あったん?ってこと
だから女に同じことされてもちょっと共感できちゃうからそこまで嫌悪感抱かない
これが
がうまくいかない原因
まあぬいペニなんて徐々に性欲を見せれば済む話で大袈裟に傷ついたーって騒ぐような話じゃない
無害を装ってひたすらチャンス待ちなんてせこい作戦立てんなってことw
ぬいペニって、そういう気持ちを抱く女の利己性・傲慢さを揶揄するスラングとして認識してたので、男にとってのそれが無いことは喜ばしいことなのではあるまいか(呼称が無くても現象はあると言われたら知らん)
ぬいペニ現象(ぬいぐるみペニスショック)とは、女性が恋愛対象外の男性から好意を伝えられたときに感じる嫌悪感を表したネットスラングである。
元々は一スラングであったこの言葉も、いつの間にか男女間の恋愛における失敗例として共通認識へと昇格してきた。
気になったのは、この現象は男ばかり言及されており、女性バージョンについて、分かりやすい説明や名称が未だに見当たらない事である。
「ぬいぐるみだと思って仲良くしていたら〜ペニスが生えてきました〜チクショー!!」の独特の嫌悪感を男性が感覚的に理解しようとしても、ぬいぐるみが日常的に存在する感覚やそこに性欲が割り込んでくる違和感を把握しにくいのだ。
逆に言えば、『ぬいペニ現象は、男性にとっては⚪︎⚪︎のようなもの』という、我々男連中にも直感的に理解出来る表現があれば、「確かに自分もこうされたら嫌だな」「女性はこういう点を好まないから、アプローチを変えよう」と考えるようになれると考える。
精巣捻転じゃないよ、ぬいぐるみにペニスが付いているのだから、それを反転させる一番シンプルな案。
【結果】
駄目。そもそもこれで通じるならさっさと答えは出ている。
まず大前提に男性陣にはぬいぐるみがある日常にピンと来ない。あまり持っていない。
あとペニスの言いやすさに比べてヴァギナは言いにくい。ヴァの後にギを持ってこないでほしい。
実物の構造も浮かびにくい。ぬいぐるみにペニスはセロテープでもあればくっ付けられる簡単外付けアタッチメントなのに、ヴァギナになった途端「埋め込み型?性器が発生したのか?もともとの部分にあった綿は?」と構造上の不具合が立て続けに発生する。
比喩でピンと来ないなら、シチュエーションそのものを逆転させれば嫌でも通じるのでは?
よくあるぬいペニ現象の典型例として「男友達を異性として意識していないので、2人で宅飲みをしたり愚痴を聞いてもらったりと普通に遊ぶ仲だったが、突然その男性から恋愛感情や性欲を向けられ困惑した」これを逆転させる。
具体例:「異性として意識していなかった女友達といつものように宅飲み。ゲームしたり愚痴を溢したりとダラダラ過ごす日常だったのに、ある日急に俺のことを男として見てると告白!!更に彼女の有り余る性欲を俺に向けてきて…」現象
【結果】
Hunter辺りが出してる女優3人で3本立てのメイクとヘアセットが簡易的で部屋着がタンクトップのAVだ。
嫌悪感とかとは違う方向に展開が進んじゃうので駄目でした。
元のぬいぐるみ感をいい感じに置き換える必要があるので、生身の異性を表現から外した方が良さそう。
ぬいぐるみのことはよく分からないけど、異性と思っていない可愛いモノから急に性欲が覗き出したら流石に男としても戸惑いや恐怖を感じるのではないか。
またこの案はゲームやアニメにおける相棒ポジションという概念を、男なら誰でも理解出来るというメリットもある。
具体例:主人公と共に旅をする相棒のマスコットキャラクター、レベルアップして苦難を乗り越えた末に見事ラスボスを倒し相棒と抱き合い喜ぶ。ラスボスを倒した経験値により最終進化すると…あれ?思ったより人間っぽくて、可愛い…っていうか!!!え〜〜〜〜〜!?!?!?お前、女だったのか……!?
【結果】
最高最高最高〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!
今まで微塵もそんな素振り見せなかったじゃん!!だからこっちも当たり前に過ごしてたのに!!
それが実は女の子でした〜〜〜!!それらしい口調も無かったから勝手にオスだと思ってた叙述トリック!!
そういうの摂取すると心が豊かになるんだよな〜〜〜〜〜!!作者に一杯食わされたいわ〜〜〜!!!!!
最近の作品だとネタバレになっちゃうから、昔の作品で言うところのBLEACHの夜一さんとかね〜〜〜当時衝撃だった〜〜〜〜!!!
そもそも異性から向けられる好意に対する嫌悪感の抱きやすさは、男女差があまりにも大きく、
ネーミングや比喩表現の問題以前に、その感覚を逆転させ、男性が自分のものとして理解する事が困難であった。
無理に自らの立場で理解しようとせず、あくまでも『そういった感情を持つ女性が一定割合存在する』と認識をするくらいが丁度良いのかもしれない。
そのころ都知事は男性が何度か擁立されたがうまくいかず、女性が統治しはじめて数世代を経ていた。
歴代の女性都知事は初代の名を襲名し、鏡を奉じて男性側近に補佐を受けつつまつりごととまじないとを能くしていた。
相模湾西部の熱海市近郊の海上。伊豆七島の領有をめぐって勃発した静岡県との抗争に際して、初代から数えて第17代目となる百合子は旗艦「神田」上で如上のセリフを口にした。
この時代は東京都統帥権は都知事が有した。百合子は政治的には東京都知事であり、軍事的には東京辺境領戦姫巫女の肩書きを世襲する。いわゆるエクストリームシヴィリアンコントロール体制の時代にあった。
なお付言すると、東京辺境領の名は京都臨時政府(京臨)による侮蔑的呼称であったものを、関東人がアイデンティティ形成の中で好んで自称するようになった歴史的背景がある。
緒戦において豊富な物量と都税による作戦を展開。酒匂川での会戦に勝利し現今都軍は湯河原に本陣を置く。
静岡県伊東市まで伸びるJR東日本は内通済みだ。往古の契約である伊豆急行と国鉄との境界と、静岡県と神奈川県との境界の差異を利用した政治的戦略である。
伊豆七島のある相模湾沖に睨みを効かせる必要は当然あるものの、静岡県府は遥か西方だ。
県民による「静岡県は東西に長いですからなぁ〜」が現実味を持っていやらしく聞こえてくる。
古い時代に伊豆熱川にもたらされた甘蕉鰐(バナナワニ)なる生物を飼い慣らし、軍事作戦に同行させる兵科だ。
甘蕉鰐兵は甘蕉鰐と寝食を共にし、巧みに甘蕉鰐を動かし、酒匂川でも川辺故に都軍を脅かした。
その大隊が伊豆の国市に駐屯しているという。半島側から攻めるにしても三島に出るにしても睨みが効く位置にある。
意外に、静岡は粘り強く戦うかもしれない。
浜松の手前には、300年前に先祖のリニアさえを止めた大井川がある。
大井川にも特殊兵科がある。鉄道機関車の正面に面妖な顔面を据えた戦術機関車がいくつも配備されていると聞く。
この度、節を曲げてNovelAI(以下NAIと呼称する)のサブスクを契約してしまった。
筆者はバチコリの生成AIユーザーであるが、あまり特定のサービスプラットフォームに依存することをよしとはしていない。
いつ何時ユーザーに不利な形で仕様の変更が行われるかわからないし、サービスが終了してしまえば利用の術は失われてしまう。
よって、NAIと契約するのは正直に言えば業腹である。この円安の時代、何が悲しくてわざわざドル決済の外国サービスなどサブスクして国富を流出させなければならないのか。
しかし悲しいかな、現状満足度はとんでもなく高いのである。以下、その理由について分析していきたい。
なお、本稿では生成AIに関わる法的、倫理的議論は行わないものとする。一消費者としての意見を述べるうえでは、あまりにも意見が取っ散らかりすぎるからである。
言うまでもないことだが、skebにせよ他の手段にせよ、イラストを依頼するということはその向こうには人間がいる。
生身の人間相手に自分のえげつない性癖をさらけ出すというのは、かなりハードルが高く業の深い所業ではないだろうか。
性的欲求というのは三大欲求の中でもっとも表沙汰にしにくいものである。
見も知らぬ相手であろうと望むところを赤裸々に語るのは憚られるし、知っている相手に対してはなおさらそうである。
別に健康な成年男女が互いに好き合ってイチャラブおせっせしてるだけなら大したことはないのだが、残念ながら欲望渦巻く快楽の園こと現代日本に生れ落ちてしまった我々はそうはいかない。
性癖は枝分かれし細分化してヘンテコな方向にひねくれねじ曲がってしまっている。浮気NTR快楽堕ち程度ならかわいいものだ。
平たい胸族にスイカサイズの乳をぶら下げさせ、原作のキャラを無視して脈絡なく尻軽ビッチギャル化させる。
下手をすると(生命の有無を含めて)人間でなくなる。ゾンビ化とかキョンシー化ぐらいであれば人間の形を保っているからまだいいだろう。
筆者は大体何でもいける口であるが、ただ蟲化だけはどうにもいけない。好きな人がいるというのはわかるので否定するつもりはないが、ただ個人的にはどうにもあれでは致しかねる。
なんにせよ冒涜的ではあるが、それで興奮するというのはわかってしまうのでどうしようもない。中にはそのキャラである必要は果たしてあるのか?くらいの物もあるのだが、何と仰る兎さん。そのキャラでなければ駄目なのだ。
たれさえ旨ければ別にかば焼きにするのは鰻でなくてもよさそうなものだが、鰻のかば焼きだと思うからこそ旨いという一面は間違いなくあるのである。
閑話休題。ともあれ、人間相手に依頼をする場合にはどうしても一定のブレーキが意識的にであれ無意識的にであれかかってしまう可能性がある。
というかそもそも、人間相手に一定の節度と形式を保った文章を書くのは疲れる。相手の気分を害さないようにしなければと考えただけでキーを叩く指がおぼつかなくなる。
他方で、NAIに画像を出力させようとしてプロンプトを打ち込むにあたっては、そこに遠慮を差し挟む余地はない。
ただただ己の欲望に忠実に思い付く限りのリビドーを込めて単語を羅列すればよいのである。
別にNAIは内容を考えて画像を生成する訳ではないのでヘンテコな画像になることも多々あるが、少なくともそこには遠慮も忖度もない。互いの本音と本音のぶつかり合いである(NAIに意識はないので本音も何もないが)。
あとはNAIがいい感じの画像を出してくれるようにプロンプトを調整していけばいい。
「大和国はそんな事しねぇ~~~...!!」というシチュエーションの時ほどこれは効く。
上等の料理にマヨネーズと醤油をぶっかけて旨い旨いと言っているようなものなのでそのキャラが好きな人に依頼するのは憚られるし、かといってミリしらな人に話を持っていくのも完成度という点で不安がある、というような場合にNAIはうってつけなのである。
なんといってもNAIは絵が出てくるのが早い。確かSDXLベースのモデルだったと思うが、1024×1024のサイズで生成にかかる時間というのは10秒程度だろうか。
ローカル環境ならもっと短い時間で作れるという話はあるだろうが、ベッドの上でスマホぽちぽちするだけでいいという点ではNAIにアドがあるといっていいだろう。
人間相手とはもう比較すべくもない。下手をすれば既存の絵をPixivやらで探すよりよほど手間がかからない。
息子はシコりたくなったときがシコり時である、という事実を考えた時、プロンプトさえあれば見たいものをそれなりに再現した画像がほぼ即時に作れるというのは実に実用的であると言わざるを得ない。
早さという点では特にこれ以上言うべきことはないため、早々に次の項目へ移りたい。
現在筆者がサブスクしているのはOpusプランである。これはNAIのプランの内では最も高額であり、月額25ドルかかる。ぶっちゃけサブスクとしては安くない。
例えば動画配信サイトのU-NEXTは月額2,189円(税込)であり、電子書籍の読み放題を提供しているAmazonのKindle Unlimitedは月額980円(税込)である。
月に4000円弱(筆者決済時点の実績値による)というのは明らかに高い。
……が、こうしたサブスクとNAIとではサービスの種類が異なる。動画配信や電子書籍の読み放題というのは、つまるところ既存のコンテンツの中から自分が観たり読んだりしたいものを探して、(運よく)それがあったら楽しむ、というタイプのサービスである。
楽しめそうなものがなければそれまでだし、探すにも時間はかかる。
キンリミの場合は複数冊あるシリーズのうち最初の1巻、もしくは数巻だけ無料で続きが気になったところであとは購入してね♡というものも多い。
最初の1巻だけが無料ならまだいい方で下手すると最後の1巻だけ有料という場合もある。起承転まで読ませて結は単品で買えということであり、そうすると最後の1巻だけ買っておいてもしょうがないので他の巻も結局揃えることになる(ずっと借りっぱなしにしておいてもいいのだがそうするとその分だけ読み放題で借りられる枠が埋まることになる)。まったくもって商売上手だ。これだからビッグテックは恐ろしい。
いや、キンリミの商業戦略の話はこの際どうでもいい。要はこうしたコンテンツ提供型のサブスクにおいては契約者は受け身の立場だということを言いたいのである。
ちなみにFANBOXなどもこうした受け身型のサブスクと言ってよいのではないかと思う。クリエイターの創作活動を応援云々とは言い条、実態としてはどう考えてもイラスト等のコンテンツを見たいがために支援ボタンを押している人が大多数ではなかろうか。
それに対し、NAIは契約者自らがコンテンツを作り出す立場である。実際に作っているのはNAIだが、どういうコンテンツを作り出すか、指示するのは契約者である。結果として、提供されるコンテンツは常に契約者が見たいもの、もしくは少なくともその方向性に沿おうとしたものということになる。
更に、Opusプランの場合一定の大きさ以下の画像については作り放題、つまり生成に必要なポイントであるAnlasを消費しない。本プランでは一か月につき10000Anlasが付与されるが、ぶっちゃけ使わなくても十分実用性のある画像は作れる。普通サイズ(1024×1024の正方形を基本として、832×1216の縦長や横長を含む)のAnlas消費量が確か20だったと思うので、500枚作れば元は取れる計算である。500枚も作らないだろ!と思うかもしれないが、このくらいはすぐに消費してしまう。ちなみに本プランで付与されるAnlasには一か月の使用期限があるので、ラストエリクサー症候群に陥らないよう余裕を持って消費するようにしておきたい。
さて、25ドル……日本円換算で4000円としよう。4000円を500枚で割ると、1枚あたりの金額はいくらになるだろうか。そう、8円である。1枚あたり8円である。安い。今調べたところ緑豆もやし200gのパックが19円(税込8%)だったが、それよりも半額以上安い。某もやしパーティーアイドルも納得の価格であろう。こんな低価格でオカズを賄えて家計も大助かりである。
まあ上記はあくまでも計算上の話であって25ドルの支出は25ドルの支出なのだが、リターンを考えればそれだけの意味のあるサブスクということにはなるだろうと思う。パッケージングされたサービスではなく利用コンテンツに対する金額ということで考えればこれほど費用対効果の高い課金はそうはない。
AIによる画像生成サービスを提供しているプラットフォームはNAIに限られない。国内でもAIのべりすと(本来は小説執筆がメインというところでNAIと似ている)が有名どころだし、筆者は使ったことはないがPixAIやそれ以外にもなんかいろいろとサービスは存在する。CivitAIでも生成は出来る。
が、こと既存キャラの二次創作という点ではNAIを超えるものは現状ないのではないだろうか。よくも悪くも他のサービスを使う場合には一定の習熟が要求されるが、NAI、特に現状の最新モデルであるv3は概ね直感的な生成が可能である。キャラ名と登場作品名、シチュエーションあたりをぽちぽち入れて生成ボタンを押せばそれでいい。不要な要素が出てきたらそこで初めてネガティブプロンプトを使用するくらいであろうか。逐一LoRAを作ったり探したり適用したりせずともいいのは実に強い。なんだったらいい感じの画像が見つからないキャラはNAIで作った画像でLoRAを作ったらいいんじゃないかと思えるくらいにはいい雰囲気の画像が出る。
無論、画像生成AI、もしくはSD系の現時点での宿命として、あくまでも出てくるのは「それっぽい」キャラの画像に過ぎない。例えばニニンがシノブ伝のシノブの画像を生成しようとすると、シノブの鉢巻きの顔マークがなんかよく分からない点が4つくらいある黄色の丸になってたりする。人間、特に熱心なファンや「神絵師」による二次創作には及ぶべくもない。しかしそんなことはどうでもいいのである。シノブの二次創作なんぞ今日日誰がどれだけ描いてくれるというのか。最近PixivでもTwitterでも流れてくる絵と言えばVTuberかブルアカか、ぐらいの感じである。なんか一時期飽きるほど見たアズレンの絵も最近はさっぱり見ない気がする。単に筆者のTL構築のせいかもしれないが。
いや、別にそれが悪いというつもりはない。みんな好きなものを好きなように描けばよいのである。ただ、筆者のように最近の流行に今一つ乗れておらず、さりとてSkebでわざわざ依頼したり自分で描いたりするには熱量も根気も足りないというような者にとって、NAIv3は確かに一服の清涼剤であり、また福音である。ギャルのパンティーよりもドロワーズが好きな者は間違いなくいるのだ。
つらつらと駄文を書き連ねてきたが、つまるところ、NAIというのはファストフード、もしくはジャンクフードなのだ。早くて安くて、それなりのクオリティのオカズが出てくる。スマホ程度の画面で見るなら画質も十分である。多少瞳がぐちゃってようが服と髪が癒着してようがどうせシコるときに見てるのはちちしりふとももと全体の雰囲気くらいのものである。なんならよく出てくるセリフとか擬音っぽいなにかですらシコリティを高めてくれる。つくづく人間の業は深い。
息子は正直である。実用に足る、自分の性癖に正直な絵をいくらでも出せるとなれば4000円弱の月額課金などはした金に過ぎない。
名誉教授は文字通り名誉称号なわけで、基本的には退職後、つまり第一線から遠のいている人の肩書である。個人や分野にもよるが、最先端の研究からは距離がある人間だ。
しかし、なまじ「教授」とついているからさも権威があるように思われる節もあり、第一線を退いた分時間に余裕があるのでメディアに専門家として呼ばれたり、何かしらの活動の箔付けに起用されたりする。
昨今、コロナワクチンへの反対活動に精を出す名誉教授や、地震対応について微妙に認識のずれたコメントを述べる名誉教授など、その肩書の弊害が目立つように思える。彼ら名誉教授の自尊心を損なわない程度に、かつ誤解を与えないような呼称はないだろうか。
四足歩行のサルが二足歩行をすることによって、サルはヒトへと進化した。
歩行に使っていた前足は腕となり、物を作ったり運んだりするのに使われるようになったことが進化の要因なのは言うまでもないだろう。
しかしながら、代償としてヒトは歩行(走行)速度を失うことになってしまった。
最速の霊長類はパタスモンキーで、時速55kmで走ることができるのだ。
巨体で鈍重なイメージのあるマウンテンゴリラでも時速50kmあるのだ。
一方でヒトはそれに比べると遅く、ウサイン・ボルトでも瞬間最高時速は44.17kmでしかないのだ。
ヒトが走行する際に両腕は単にバランスを取るだけに動かしているのと比べて、他の霊長類は前足で地面を蹴って移動しているから当然と言えよう。
ヒトがすでに四足走行を試みていることは知っている。
以下の動画は四足走行の世界大会の様子であり、ギネス記録にも認定されたとのことである。
https://www.youtube.com/watch?v=epxVWHgtwlo
ヒトの新たな可能性への挑戦に敬意を表するが、私が望む四足走行とは少し違う。
動画の方法では、骨・関節・筋肉の負担が大きく、速度も二足走行に比べたら遅く、頭を下げているので視認性も悪いと、デメリットが多いからだ。
私が望むのは、二足歩行と同様に背筋を伸ばし、両腕を何らかの手段で延長して地面を蹴って(押して?)移動することである。
杖(トレッキングポール)を両手に持って登山を経験した人ならわかるが、杖を地面に押し付けると両足の負担を軽減できる。
これは上りや下りの坂道に限ったことではなく、平坦な道でも杖の恩恵はあるのだ。
杖で両足の負担を軽減させながら歩けることはもちろんだが、両足の負担をそのままにして杖で速く歩くことも可能だ。
一歩地面を蹴り出した直後に杖で地面を押し突けることで、歩幅が大きくなって速く歩けるのだ。
杖を使ったとて、両腕の役割はあくまでも両足の補助でしかないからだ。
アシストスーツや強化外骨格とも呼ばれていて、人間が着用することで筋力を増強するようにアクチュエーターが作動して、重量物運搬など人間の動作を強化することができるのだ。
このパワードスーツと杖を組み合わせることで、四足歩行が実現できるのではないか?
既存の杖やトレッキングポールを杖1.0として、四足歩行が可能となるような腕が延長されたパワードスーツを杖2.0と呼ぶことにする。
この杖2.0を利用しながら両足でも通常通り歩けば、歩行速度は2倍の時速8kmとなるのだ。
走行速度ももちろん2倍になり、50mを8秒台で走れる人ならばウサイン・ボルト超えの速度になるのだ。
ウサイン・ボルトが杖2.0を使えば瞬間最高時速は88kmになるだろう。
いや、さらに上も目指せるだろう。
人間は走行時に背筋(せすじ)をまっすぐに伸ばすだけで、腹筋も背筋(はいきん)も推進に全く使っていないのだ。
陸上動物で最速なのはチーター(時速120km)であり他にも猫科の動物は速く走れるが、猫科の動物がなぜ速く走れるのかと言うと腹筋や背筋を大きく伸び縮みさせることで推進力としているからだ。
杖2.0でも腹筋や背筋を走行時の推進力とするようにして、さらにその筋力をアクチュエーターで強化すれば時速100km越えも可能になるだろう。
高速道路を車やバイクと一緒に、杖2.0を装着した人間が走っているのだ。
烈海王(バキシリーズ)のように水上を走ることだって可能になるはずだ。
それにしても、アクチュエーターによる筋力増強もなくさらに人を一人背負って水上を走る烈海王は、漫画とはいえすごいものだ。
閑話休題。
走行速度の速さを追求することはさておいて、この杖2.0が登場したら自転車以上に便利な移動手段になることは想像に難くないだろう。
あくまでも杖だから電車やバスの中にも持ち込むことができるし、店の中でもオフィスの中でも利用できるのだ。
現在歩行機能が衰えた人は杖1.0か電動カートを使うかの二択だが、そこに新たに杖2.0という選択肢も出てくるのだ。
技術力が向上し大量生産をするようになったら、杖2.0は電動カートより廉価に提供されることだろう。
現在、杖1.0は老人や身体障害者やケガ人が使用する物というイメージが強い。
登山をする人で杖やトレッキングポールを持っている人でも、日常の歩行では使うことはないからだ。
しかし杖2.0が登場することで、杖はカッコいいアイテムへと変化するのだ。
杖2.0が登場するにあたって社会に軋轢が生じることも想像に難くない。
「杖2.0を装着している人は歩くのが速くてぶつかると危ない。よって規制すべきだ」
といった具合にだ。
しかしながら杖2.0は若い人だけでなく、老人たちにとっても役に立つ道具なのだ。
杖2.0の使用に免許を課そうとしても、老人たちが政治団体を通じて反発するだろう。
未来の世界でも老人は多数派を占めているので老人票は強いのだ。
杖2.0に対する世論を受けた国会審議の結果どうなるのだろうか。
おそらくだが、杖2.0に関しては何の規制もなく、代わりに自転車運転が免許制になることだろう。
「杖2.0はあくまでも歩行や走行を補助する物であり、歩行や走行の結果他者に危害を加えたとしてもそれはその人の責任であり、免許で規制をするのに適していない」
「アクチュエーターによる増力は制限があり、速さにもある程度の上限があるので、速度上限の無い自転車よりは安全だ」
「それよりも自転車を免許制にすべきではないか。ヘルメットの装着が義務化されてから何十年も経つのにいまだに着用しない人は大勢いるし、危険な運転も散見されるからだ」
といった具合にだ。
電動キックボードの国会審議の結果、電動キックボードにヘルメット着用は義務とならずに代わりになぜか自転車がやり玉に上げられて、自転車運転時のヘルメット着用が義務化されたことを思い出してほしい。
杖2.0の登場にあたっても、同様に自転車がやり玉に上げられることは想像に難くないはずだ。
こうした杖2.0が登場する未来を近づけるためにはどうすればいいのだろうか。
杖2.0が現在のところ存在しない以上、杖1.0を使って街を歩き杖の優位性を世に知らしめることだろう。
しかし、約30歳かつ健常者の私が両手にトレッキングポールを持って大股で歩くというのも変質者じみている。
歩行速度のわずかな向上と引き換えに、行き交う人の信頼を大きく損なうことになってしまう。
変質者となるだけならいいが、人込みの多い駅やショッピングモールだと杖1.0は邪魔になりそうで、周囲の人にも迷惑をかけることになるからダメだ。。
それに両手で杖を持つと荷物が持てなくなるのもよくない。
杖2.0なら必要に応じて腕を縮めたり折りたたんだりするから邪魔にならないし、荷物を引っかけるフックがあって便利となるはずなのだが。(願望)
杖1.0が使えるのは公園くらいだろうか。
しかしながら、公園で杖1.0を使っても歩行のリハビリにしか見えない。
杖1.0を利用することはさておいて、ひとまずはこの文章を公開して杖2.0の理念を広げることとしよう。
ああ、杖2.0よ。
四足歩行の夢はまだ遠いなあ。
いっそのこと杖を持たずに、上記の動画の様に手袋を付けて街を四足歩行してみようか。
いや、それこそ変質者だ。
みんな、信じられますか?
いま僕40歳で、今年息子が小学生にあがるんですけど、30年以上前に自分が小学校の算数で使った「算数セット」なるものを今も小学校では使ってるみたい。
しかも、こんなちっちゃいものに、全部名前を書くか、お名前シールを貼らなきゃいけない。 ※写真のおはじきにはピンセットで名前シールを貼りました。名前は消しています。
みんな、信じられますは大仰です。ものが小さいがために名前を書かなくてはいけません。
親業をやってきているのであれば、このほかにもこのような作業は当然たくさんあって、
40歳で親業がそこそこになっているのに、それを幾度となく感じずに過ごしてきているわけではないので、
それを思い出して欲しいです。
ちなみに、このおはじきは算数セットのほんの一部で、他にも小さいものがたくさん入ってて、その全てに一個一個名前を記す必要が。
先ほどと同様に親業として行なってきた、
同種の名前書き作業についてのこなしかたの選択を思い出せば良いかと思います。
https://x.com/xusa2023/status/1758005370973454495?s=20
そのほか多くの方がこの問題との自分なりの折り合いについて付けられていて、
それを親業を日々こなされているのであれば、
ネットや日々の親業でつながるネットワークの中でお話を聞いてると思います。
思い出して欲しいです。
名前なんて書かなくてよくね?
どれほど助かることか。
名前を書くことで自身のものが戻ってきた経験を思い出しましょう。
そんな、なくす?
そんな、落とす?
そんな、無くすし、落とします。
親業をされているうちに目にしたことはありませんか。
それを思い出しましょう。
仮に、1つや2つ落としたり無くしたとて、そんな困る?
授業に支障でる?
1つや2つ落としてたり、無くしたりしたとて、
ただし、ここでいう支障を支障と呼称することは
少し待って欲しいものです。
というのも、この落としたり無くしたりという事象が
そういって学校現場ないし学校という世界観は形作られています。
2017年の出生数は94万人ちょい、2018年の出生数は91万人ちょい。なので、今年日本で小学校に上がる子、つまり2017年度生まれの子はおそらく91〜4万人の間。
その保護者が日本中で日々の暮らしだけでも忙しい中、貴重な時間を削り出して、夜な夜なシール貼ったり名前書いてると思うとマジで無駄。愚の骨頂。日本人の生産性が低いって言われてるのそゆとこじゃないの?って思う。
「データは嘘をつかないが、詐欺師はデータを使い嘘をつく」という言葉があるように、
発言でデータを持ち出すときは、その奥にある何が言いたいのかという意図に
目を向けなければならないように思います。
効率を重視したいというのであれば、
今までのその日々の暮らしの中で悩んできた中で
それを思い出して欲しいです。
もちろん、同じように考えている人もいるのか、自治体によっては算数セットが学校にあらかじめ置いてあって、貸し出してくれるところもある。ただ、僕が居住している自治体では買わされた。
30年前も同じような状況があったように思います。
どういった事情が背景があり、貸し出すのか否かは個別具体になります。
が、
その地域の貧困率とそれに対する向き合いかたが昔ながらの事情というのであればあります。
現場サイドとして、どう解決していくのかということ中で生み出されたこともあります。
発言者はお住まいの自治体のすべての小学校で買わされることを確認された上での発言のようです。
ここにも、親業として今まで培ってきた情報が生かされていません。
児童の教材についての選定は各学校の実態に応じて、校長の裁量で行われます。
校長が変わり校長が貸し出しが必要であると判断し、校長が判断を起こせば、貸し出しにできるのです。
お住まいの自治体すべての小学校は算数セットは購入となっていることを確認することだったのか、
それとも、校長の現状の判断を変えるように働きかけることだったのか。
「みんなで知恵出し合って解決してこーぜ」
誰に対してどんな知恵をあなたは出し、隣の親や目の前の担任やその他の先生に知恵を出してもらうのを促すのか、
「サンデーモーニング」ではなく、当事者性の高いことなのだから、頑張っていきましょう。
あんま使った記憶も残っていないこの算数セット。日本中で毎年何十万セット買わされている人がいるのか、正確な数字は分からないけど、使われなくなった算数セットはきっと毎年数十万セット捨てられてるんだよね?
「データは嘘をつかないが、詐欺師はデータを使い嘘をつく」を繰り返しが行われているように印象付けられます。
意図的に自身が有利になるようにデータの提示をするのはあまり褒められたことではないと思います。
それってかなりのプラゴミの量だし、もう日本中の小学校に必要な数だけ置いといて、レンタルにして欲しいって思うのは自分だけ?
大雑把にプラゴミの量を減らせばいいという発言を無批判に垂れ流すには注意が必要な発言です。
レンタルにして欲しい、どなたからか借りたいという要望はあり、その具体的な解決の方途については返信で行くつも示されている通りです。
ご自身がコスパ、タイパが高いと思われるものに各自の判断で使えばよろしいかと思います。
すごい通知くるなぁと思ってミュートしてたら、ちょびっとバズってましたww
お疲れ様です。
親業として貴重な経験でこのような苦労を親にもかけていて、
その上で自分が今我が子に手間暇をかけてやれると思えて幸せな時間だったと思います。
多すぎて全部は見れてないものの、リプやら引用などをざっと見た感じ、結局算数セットを毎年各家庭に買わせて、名前を書かせることに関して納得できる合理的理由を述べているものは一つもなかったです。
何を持ってご自身が「納得できる合理的理由」と判断されたかを示されていないのでその部分については、なんとも言えませんが、
「納得できる」というところをわざわざ付けておられるところから、首肯しそうになってしまったリプや引用があったのでしょう。
親業って本当にそんなことばかりですよね。そして、通り過ぎると確かにその通りかもなあということ本当に多いです。
親業をやって数年経ち、就学前を終えようとしているステージならば、実感がこもって首肯できることのように思うのですが、
親業における子どもとの関わりって「納得いかない非合理なこと」しかないですよね。
子どもは非合理でしかないですよね。その非合理の最中の中でどうにかこうにか合理的だったり最適化されたりしたものに
日々そんな物心ともに周りとの関わりでどうにかこうにか生かされていることを実感する日々です。
まず、「算数セットをなくすに反対」については、僕は算数セット自体をなくせとは一言も言ってなくて、むしろ肯定派。算数セットが担っていたことをタブレットにしちゃうのも反対。手を使うのって大事だから。なくすべきは毎年各家庭に買わせることと名前書きという主張でした。学校に人数分プラス余分に算数セットを揃えておいて、貸し出すのがいいと思っています。
文脈としては、「算数セットをなくす」という思いを持ちながら書いていると読めます。
「手を使うのって大事だ」は返信等を読んだ上で、先ほど書いた通り、うっかり首肯してしまいそうになったものの中から取り入れ、
「なくすべきは毎年各家庭に買わせることと名前書きという主張でした」
書き始めを大仰に書くのでなく、修正でないのならば、上記の主張をはじめに明示してから始めると
先に述べた印象は薄らいだと思われます。
「学校の先生が忙しすぎて、今のあり方を変える余裕がない」については、そもそも算数セットを採用することを誰主導で(文科省なのか、自治体なのか、校長なのか、現場の先生なのか)決定してるのかよく知らないですが、文科省主導で貸し出し統一すればいいと思っています。僕は教師じゃないので現場のことはよく知らないし、「知らないお前が偉そうなこと言うな」というのもごもっともですが、教師ではない以上現場レベルの問題解決策までは提案しようがないです。そこまで提案しないと問題提起しちゃだめってなると、たぶん世の中何も好転しない。それは「みんなで知恵出し合って解決してこーぜ」かなと思っています。
ここがいただけない部分の根幹にあり、「サンデーモーニング」です。
算数セットを採用するのは、誰主導の選択肢から言えば、現場の先生の意見を吸い上げた校長です。
親業の中で情報を収集してきた中でそれはご存じであるかと思います。
無知を装うのは、卑怯だと思われかねないので宜しいことではないと思います。
文部科学省からの貸し出しの通知文を出すように要請をしているように見受けられますが、
通知文については効力がどの程度あるのかは不確かなところがあります。
お住まいの自治体の状態を具に調べるほど、親業としての手腕をお持ちのようなので、
「なくすし、おとすし、盗まれるから名前書きが必要」に関しては、だからこそ学校から貸し出すほがメリットは大きい。貸し出しなら各家庭で膨大な量の名前を書く必要もないし、先生たちの名前のない落とし物の持ち主探しの時間も節約できる。盗むに関しても対学校になるので、生徒間・保護者間のいざこざもない。
親業をやられている数年というところなので、
今までご自身の経験の中から「自分の落とし物があったら、名乗り出ることができる」ことや
「友人が落とし物をしたら、一緒に探してあげる」ことなどいわゆる非認知スキルの大切さについては、
実感しきりなところかと思います。それを思い出して欲しいです。
親業をやられていればこれも感じることかと思いますが、
自身の子どもが「盗まれる」だけでなく「盗む」側になるかもしれないということ。
また、その「盗む」ということをする場合に、早期にその行動について変容を促さなければならないことに
そして、「生徒間のいざこざ」が発生し、それを未然防止するために集団の一員としてどうするのか、
どのように全体最適を集団の一員として寄与するのか学ぶこと。これこそが、公教育の公教育たる意味です。
親業をしていく中で育児方針等を立てる上で、目にしたかと思います。
それらを思い出しましょう。
「保護者間のいざこざ」という部分については、まさに「子育ては、自分育て」なのだと思います。
蛇足ですが、小学生のことは「生徒」とは呼称しません。「児童」です。
「消毒云々、数年で足りなくなる云々」の運用上の問題は確かにあるとは思うけど、そもそもみんなで共有してる学校備品なんて他にもあるわけだし、どんな方法を選択するにしろ問題ゼロはありえないので、そこは運用しながら問題解決していくしかない。
学校備品ではなく、消耗品になります。そこは民間と理解は変わりません。
多くの学校では、予算が厳しくなっていることはありますが、消耗品になるので、必要性を論理的に主張することができ、
且つ校長と事務官のモチベーションが高ければ通りやすい部類になるかなあというのが実感としてあります。
もう一つは、良くも悪くも地域からの熱い要望があれば、通りやすいです。
あと珍リプ的なとこで言うと「名前書き不要=お前は子供が嫌いな人間」にまで飛躍したものもあった。そもそものスタートが名前書きに膨大な時間を奪われて、子どもとの時間が奪われていることに起因する主張だったんだよなぁ...って感じ。
語勢からそう読み取るのは容易でありました。子供との時間の中で名前かきをしている方も大勢いるのが返信からもわかったのではないかと思います。
親業をやっているのであれば、知り得る情報についても意図的になのか隠されているところもそう読み取らせることを容易にさせることに寄与しました。
もし、意図的に隠したのでなく、情報を得ていなかったのであれば
「子どもが好き嫌いかはわからないが、パートナーとともに一緒の目線に立って育児をしていない人なのだろうな、パートナー大変そうだな」
ということは言えるかと思います。どちらにしても、ざんねんな感じです。
私も残念なところばかりで、「余計なお世話だよ」と言いたくなることも他人から言われます。一緒に頑張っていきましょう。
「子どもの持ち物に名前を書く余裕もないのか」については、ひとり親世帯数の推移はひとまず確認した方がいいと思う。その主張はひとり親世帯ではない人のものだったけど、僕の姉はシングルマザーで働きながら二人の子育てをしてて、本当に大変そうな姿を見てるから「そんな余裕あるわけねーだろ」と声を大にして言いたい。
姉が睡眠時間を削ってこんな膨大な量の名前書きをやっていたかと思うと...言葉にならない。てか、それが根底にあったから怒り爆発したってのはある。
当事者としてそこに切実なニーズがあることを感じているところのようですので。
頑張って欲しいです。
ただ、結構たくさんの人から「学校から貸し出しでした」という声をお寄せ頂いたので、それは素晴らしいと思いました!ちょっとずつ変わってることを感じました。
学校教育に関する認識の誤解あるあるで十人十色経験は違うのに、自分の経験が絶対だと思うのはよしてほしいです。
30年前から貸し出しのところは貸し出しだし、そうじゃないところはそうじゃないです。それだけです。
算数セットを各家庭に買わせるか否か決定する立場にある人に、この一連のポストが届き、来年以降に小学校入学を控える子を持つパパさんママさんの負担が減り、家族の時間が増えると嬉しいです
自戒を込めて、
「半径0mの世界を変える」には
教養のない人間なので長々と駄文を書くとこや誤字脱字等は許してほしい。
僕は近頃のVtuberに対して怒りを感じている。
近頃のVtuberなんて時代の進化に取り残された老年のようなことを言いまわしになってしまうが、そもそも僕の中でVtuberは「バーチャル世界の住民でありながらYoutuberのような活動をする存在」と認識している。実際は3Dモデルを用いた仮想的なものではあるためバーチャル的存在というものは設定上のものであるが。
キズナアイはその定義の通りずっと一人のYoutuberとして活動を続けていた。
当時は目新しく、多くの人が注目し、同じような方針で活動する企業Vが現れ、やがて四天王と呼ばれるようになった。
ただ、同時期にFacerigとlive2dというソフトウェアが現れ、次第に現在のVtuberの基本的な形である2Dモデルを表示することで簡易的にVtuberとして名乗ることができる土俵が出来始めていた。
live2dはイラストを用意することで動かせるようにするソフトウェアで、そのデータを表情や顔の動きと連動させリアルタイムで表現するソフトウェアがFacerigだ。
これらは3Dモデルを用意して動かすより何倍も簡単でコストも低く、VTuberとして活動する参入障壁が大きく下がった革新的な技術だった。
多くの事故はあったものの、その技術により新しい形のVtuberが増えていった。
この新しい技術によってVtuberという文化は進化することになる。
その進化に大きく貢献したのが「にじさんじ」と「ホロライブ」の二グループだと思う。実際インターネット文化に疎い人でも聞いたことがある人は多いのではないだろうか。
2Dモデルを表示してlive配信をする新しい配信形態を行う人を「Vライバー」と呼ぶようになり、にじさんじとホロライブはコロナ禍の視聴者増と相まってみるみる内に大きな勢力となった。
最初のうちは両グループ含めたVライバーは初期のVtuberと同じく「設定」を大事にする存在が多かった。
にじさんじで代表的である葛葉はニートバンパイア、月ノ美兎は学級委員長のように。
これがあるべき姿だと思う。メタ的な発言になるが、そのロールプレイングを行う人間が中に居ることは誰もがわかっている事実であるが、その設定を大事にしてくれることがVtuberおよびVライバー(以下まとめる時は"V"と書く)の視聴者として何よりも嬉しいことだった。
ただ、進化とともにVは僕の望まない方向に変わっていった。
Vという存在はロールプレイングしている中で演じている人間の存在ががチラチラと見え隠れする部分にメタ的な面白さがあった。それは確かだ。
だけど基本的にはバーチャルな存在。中身をこれみよがしに表へ出してほしくはない。
わがままだと思う。でも元々オタクはそういう生き物だとも思う。
基本はキャラクター、たまに出てくる中身。それでいい。
だけどコロナウイルスの蔓延によってどんどん変わっていったように思う。
元々オタクだけが見るようなコンテンツだったものがどんどん一般的になる。すると視聴者にもV側にも趣きを大事にしない人が増えたように思う。
Vには中身の存在を表に出す、性的な示唆を含む配信が行われるようになる、といった気持ちの悪い方向に進むVが現れるようになった。
一時期大物配信者が「Vtuberってただの絵畜生じゃん」みたいな発言をして多くのオタクはキレたよね。
その時の感情どこいったの?
今のVなんてガワが用意されてるだけの配信者じゃん。ならそういう触れ込みでやれよ。
Vtuberって名前を使って稼ぎたいだけのやつばっかじゃん。それは本当にただの絵畜生だよ。
オタクのコンテンツなんてファンそれぞれに趣きがあって、それを大事にするコミュニティだと思うんだよ。それが無くなった状態でどうすんの?
何お風呂配信って。下ネタマシュマロ歓迎配信って。下品な性的コンテンツでオタク釣るって。気持ち悪いよ。そんなの童貞と性に頭侵された存在しか望んでない。気持ち悪い。
中には手とか足とか、ひどい奴には顔だけ隠して体出すとかさ。意味分からん。何がVだよバーカ。
カラオケ行きましたっつって採点の画像出すとかパチンコいきましたってパチ台撮ったりとか料理配信って言って手出したりとかさ。バーチャルって何?Vって何?
ならそらるさんとか96猫さんみたいにアバターって形で2Dモデル表示する配信者で良いじゃん。
VやりたいんじゃなくてVって名前使って承認欲求満たしたいだけだろ。キモ。
最近のVみたいな感じで言ったけど、サロメみたいな己が役割を理解して全うしている存在はすごく好きです。Vというジャンルはああいう存在が大きな象徴であってほしい。
曲げるつもりはないです。そもそも今後はほとんどV見ないし。だからこれは違くね?みたいな意見書かないでね。求めてない。
どうしても書きたいならそれなりの熱量持って来い。
ちらっと見たら反応あったので
>Vライバーなんて呼称はない。にじはライバーでホロはタレント
長らく気にして見ていないもので、記憶と違う部分がありましたね、すみません。
Vの配信は2Dモデルを使用しての配信をどこの企業も基本としていました。その上で、V自体の発展に貢献したのがにじホロだよねって話なのです。
僕の記憶でも改めて個人個人のアーカイブを見ても3Dモデルで配信のケースは少なく、2Dモデルでの配信ばかりですね。動画では使用されていたかと思いますが、僕が触れているのは配信です。
>ホロライブは初期から3Dモデルを使っていて下品なコンテンツを扱っていた
どうでもいいですね。
>カラオケの画像出すのがだめとか意味わからん。キャプボ通せばゲームはやっていいの?
はい。別にゲームの実機を直撮りするとかカラオケの採点をスマホカメラで撮って載せるとかしなければいいと思いますよ。
ロールプレイングを徹底せず、ガワを使ってるだけでVを名乗っている愛やこだわりのない行動が当たり前になっているのが気持ち悪いなあって思うだけなので。それが正しいなんて言っていない事は覚えてください。
多くの人はカラオケの採点画像がキャプチャ画像だとしたらそこで何も思わないと思います。カラオケの点数高くてすごい!とか、メタ的な目で見る人もキャラクターを徹底しているんだなって思うでしょう。
でもそれがスマホ撮影だとわかるような写真だったら?見たときにその画像はバーチャル世界ではなく現実世界であると認識する人がほとんどなのでは?
バーチャルカラオケなんてワード浸透していない以上違和感を覚える人のほうが多いと思います。僕はそれが嫌だと、個人の感想です。
たしかにやっていましたね。
僕がお手本であると示しているキズナアイや電脳少女シロは自分で料理せずアシスタントに指示してやっていましたけど、あなたは誰のことを言っているんですか?
自称古参Vオタクが云々〜と仰っていますが本当にあなたは僕にそう言えるほど見ていましたか?
僕はキズナアイ信仰者なので彼女が始祖で正しく、Vtuberを定義した人物だとしています。
従ってキズナアイがやっていることの非難は無いはずですが、『キズナアイ時代にも存在しなかったような「僕の理想のVtuber」像を振り回してんのがキモい』と仰りますが、どの部分が存在しなかったものなのですか?
「新海誠好きの元彼」が何を指すのかについて誤解が生じているようなので下の方に追記しました。
新海誠好きの元彼についてアンケートを取り元彼達についての同人誌を出す企画があったが、その企画に対して「新海誠好きの元彼」を馬鹿にしているとの批判が出たことから、企画が延期(中止?)になったらしい。
「新海誠が好きだった元カレ」がいた人々にインタビューしてみた|ペシミ
「新海誠好きの元彼」同人誌企画への3つのモヤモヤ、あるいはごく個人的な悲しみについてのこと - ささやかな終末
おそらくこの批判をした人も、そして野次馬の多くも「新海誠好きの元彼」ではないだろう。別に「新海誠好きの元彼」を代表するつもりはないのだが、そのうちの一人として意見を表明しておくことに何らかの意味があるかも知れないと思い増田に書いておくことにする。
先に結論を書いておくと、この投稿で主に自分が伝えたいのは「新海誠好きの元彼に関する同人誌」を是非世に出して僕たちの古傷をえぐって欲しいという意見表明であるとともに、そこに少しだけ当時(現在のではない)感じたであろう愛情を添えておいてくれると助かるというお願いである。
まず自分の「新海誠好きの元彼」としてのバックグラウンドを話しておきたい。僕が新海誠作品に出会ったのは高校一年生のときである。中学三年生の時いい感じだった同級生がいたもののお互いに奥手だったので付き合うには至らず、卒業と同時に単身赴任中の父親の勤務先近くに引っ越してしまう彼女との別れを経た僕に当時話題になっていた秒速5センチメートルは死ぬほど刺さった。その後大学生になってからその同級生と5年間遠距離恋愛をしたり(因みに再開した当時桜木町でバイトをしていた、そんなとこにいるはずもなくもなくもなくもなくもなかった。)、彼女の家から帰る時に毎回涙ぐむのを彼女にバカにされるのが定番化したり、夜行バスの中で長文LINEメッセージを生成したりといったような自己陶酔、ロマンチシズムの激しい人間が自分である。
そんな自分なので上記の新海誠好きの元彼がいた人へのインタビュー記事を読んで自分にも間違いなく「新海誠好きの元彼」としての要素があると思ったし、自分と似た人は世の中にそこそこいるのだろうなとも思った。インタビュー内容からは「集団の中では浮いている教室の隅で本を読んでいるタイプのオタクなんだけど、恋愛にはそこそこ興味があって一部の物好きな女性の心をくすぐることがある」というようなイメージがなんとなく浮かんでくる。つまり「新海誠好きの元彼」とは、単に新海誠が好きなだけでなく「遠野貴樹」や「秋月孝雄」、「寺尾昇」といった新海誠初期~中期のウジウジとした主人公に感情移入し、心の中に彼らが住んでいるような男性を指しているのではないかと思う。
まず新海誠好きの元彼同人誌(以下、元彼同人誌と言う)が一方的に元彼をバカにするだけの目的で作成されるというのは誤解を含んでいるのではないかと思う。正直、インタビュー記事の中には自分の行いが書かれているようで目を背けたくなるものもあり、古傷をえぐられる羞恥心となんとも言えない快感に襲われた。あのインタビューはバカにしているかいないかで言えば、バカにしている要素を含むのだろう。一方でそこに当時受け取った愛情も同時には感じなかったというと嘘になる。企画者自身も弁明しているが、同人誌の企画の趣旨には「新海誠好きの元彼」と付き合っていた自分という自虐も含むらしい。これは受け取り方によっては「こんな馬鹿な男と付き合っていた私」という追い打ちとも取れる(というかそう取っている人が多いように見える)が、おそらく真の意図は『そんな男を好きになっていた私も同じ穴のムジナ』という意味でありまたそんな思い出も忘れがたい青春の1ページとして同人誌の形で残す意図も含まれているのではないかと思う。なお過去の美しい(?)記憶や思い出をわざわざ言葉という劣化コピーの形で残すのが新海誠作品の読解的に正しい行いなのか、という議論はここでは置いておく。
そもそも論で言うと、自分は新海誠に会ってから新作を見るたびに(あるいは動画を見返すたびに)傷つけられてそれが快感になっている。そして「新海誠好きの元彼」の中には同類が数多くいるのではないかとも思う。成長した元彼が元彼同人誌を見て「こんな馬鹿なこともしたな、懐かしいなぁ」と心中悶え苦しみながらも穏やかに過去の自分、そして成長した自分に向き合う、そういった同人誌になるのであればウェルカムだ。ただ本当に馬鹿にされているだけの同人誌だったら後で泣いてしまうと思うので、どうか当時の愛情を少しだけ添えておいて欲しい。
自分は元彼同人誌が読みたい。そして忘れている過去の恥ずかしい思い出を掘り起こされて悶絶しつつ『あの頃』に浸りたい。きっと共感してくれる元彼もいると思うし、それを発信することで企画が前に進むこともあるのではないかと思う。もちろんそんな思い出は見たくもないというのであれば読まなければ良いし、そんなものが世に出ること自体が許せないなら反対の声を上げるのも自由だ。ただ今は自分たちの声が置き去りにされて無関係の人達だけで議論が進んでいるようなので、当事者として声を上げることが大事だと思う。
結果的に余計なお世話だという趣旨の記事になってしまったが、元彼の中には自分の気持ちを代弁してくれてありがたい人もいると思います。代わってお礼を言わせてください。ありがとうございます。
「新海誠好きの元彼」について少しだけ補足させてください。「新海誠好きの元彼」を定義することは元彼同人誌がやるべきだと思ったのであえて本文中ではボカしたのですが、それが「新海誠の男性ファン」とイコールで捉えられることは本意ではありませんでした(元彼同人誌炎上の根本的な要因も、「新海誠好きの元彼」が指す範囲のボタンの掛け違いなのではないかと思っています)。実際の「新海誠好きの元彼」が指す対象は「新海誠の男性ファン」よりも(今となっては)かなり狭く、あえて乱暴に定義するなら「新海誠初期~中期の作品が感傷マゾの性癖にクリーンヒットしてしまった人」でかつ「現実の男女関係にも感傷マゾの性癖を持ち出してしまう」ような人達のことを指すのではないかと思っています。なんなら新海誠作品に出会っていないが「新海誠好きの元彼」的な性質を持っている人もいるはずで、「新海誠好きの元彼」の「新海誠」とはあくまでも当時感傷マゾをしばき倒していた代表格としての意味しか持たないと自分は理解しています。(この辺りが同人誌作成過程の調査で明らかになると良いと思っています。)
そんな気持ち悪い、本質的には新海誠作品とあまり関係ない生物の呼称に新海誠の名前を使うのは失礼という指摘に対しては、まあ一理あるけど概ね当然の報いなのでは?というのが自分の偽らざる気持ちです。
ブタは味覚と嗅覚が発達してて、蛇毒の影響を受けないという強さもある。
体脂肪率も13〜18%で見た目がまるっこい種族なだけで太っているわけではないし、トイレも1箇所に決めてするという綺麗好き。(動物園のブタちゃんたちは泥まみれだったりもするけど)
社交的だし、頭もいい。犬みたいに芸ができる。
ペットに向いた品種もいるし、研究にも食にも関連した生き物で人間目線で見たらとにかく「良い生き物」じゃない?
かたや一部のオタクくん、オタクちゃんたちはビジュアルに無頓着、山崎パンやエナドリを貪り、風呂に入らない上に悪臭を気にもとめない鼻はバカ。
SNSでの愚痴愚痴した書き込みで大袈裟にわめきたて、体脂肪率が30%ありそうな見た目…という奴も珍しくない。
(何ヶ月あいたのか、解雇された前職場の前で撮った写真の日付を見て、あのとき真面目に即座に転職キメとけばこんな現在にはならなかったのにね~と慚愧の念)
左の物を右に投げ入れるということしか理解できなかった、物の名前の略称で表示と呼称がスンナリ結び付かない問題と、物が置いてあるのと設置しておく場所の法則が解らない問題、あとは誰のための何をしてるのか理解できてない問題!
気になるのはベテランの指導者役じゃない方がワイには人当たりいいのにワイの1ヶ月前に入ったといってた人にめっちゃキツくしてたこと
ワイの担当はジェントルマンで助かったし助けられたからよかったけどそんでも午後はピリ辛なアトモスフィアの瞬間があった、進行みだして迷惑かけてすんません…
でもマスク無いと顔の下半分、口元がかじかんで喋りづらくなった
まぁ前々職の初日よりはマシな印象であった
面倒なので前段は省く。タイトルを見て「アレのことか」と分からない人はスルーしてほしい。
https://petitcomic.com/news240208/
この文章が一読して耐え難いほどに醜悪な理由を書く。以下、上記URLの文章について「本テキスト」と呼称する。
本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。だから気持ち悪い。
本テキストはそもそも内容が水のようにうすくあいまいだ。それでもなお、執筆者たちの「主張」を読み取ることはできる。
前半が「著作者人格権」について。後半が「小学館はドラマ制作サイドに芦原氏の意向を伝えていたこと」について。
順番に見る。
本テキストでは、まず「著作者人格権」について触れる。その後、「著作者人格権を守ろうとしたこと」を芦原氏が「恐らくめちゃくちゃうざかったと思います…。」と自己評価していたことを明らかにする。そして「私たち編集者がついていながら、このようなことを感じさせたことが悔やまれてなりません」と続く。
ポイントは、執筆者が「何を悔いているのか」だ。本テキストにおいて執筆者が「後悔」を明確に示しているのは、このくだりだけだ。これは非常に重要なことだ。
要約するとこうなる。
「著作者人格権という権利を周知させることができなかったために芦原氏に不要な自責の念を抱かせた。著作者人格権についての認識を広げることが再発防止の「核」になる」
この後に、「これだけが原因だったと単純化はしない」としつつも、あえて本文中に「核」なる単語を使用している以上、ここには明瞭な主張がある。
それは「本件がこのような悲劇に見舞われたのは芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったからだ。その認識を与えることができなかったことを悔いている」というものだ。
暗に「芦原氏は「恐らくめちゃくちゃうざ」いことを自分がしてしまった、という自責の念によって自ら命を絶った」と結論していることになる。
……なんだか、我々とはずいぶん違う世界観をお持ちのように見える。これまでの経緯を振り返って、こう結論するのは相当に無茶なのではないか。
彼女が本当に「ドラマに口を出してしまったこと」を自責した結果として死を選んだのであれば、1月26日以降の騒動はなんだったんだ? 彼女の死に、あの騒動は関係なかったということにならないか? なぜなら「ドラマへの口出し(=著作者人格権の行使)」は、12月時点で終わっていたのだから。
そんなわけねえだろ。馬鹿か。
ここには明らかに問題のすり替えがある。「著作者人格権をめぐる認識」に焦点を逸らし、本質的な問題から目をそらそうとすると極めて醜悪な論理の欺瞞があるのだ。
明らかに本件は「芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったから」起きたことではない。
一連の騒動を振り返って「芦原氏が著作者人格権について深く認識していれば本質的に問題は起きなかった」と思う人だけが、本テキストに同意することができるだろう。
そんなやつ、どこにいんの?
誰がどう見たって本件は多岐にわたる複雑な問題が絡み合って、最悪の結末を迎えてしまった事件だろう。わかりやすい「核」なんてものがあるはずがない。
にもかかわらず、スケープゴートのように「著作者人格権」を持ち出して「核」として据えるのは、故人に対してあまりにも不誠実すぎないか。
素直に考えれば「何のための文章か」という問いに、ここで一度答えが出る。「作家、読者、関係者に「著作者人格権」を正しく認識してもらい、悲劇の再現を食い止める」だ。
つまりね、このテキストは「経緯説明」も「調査報告」も何もかもすっ飛ばして「とにかく「著作者人格権」を知ってもらえれば再発防止につながる!」という、何の根拠もない虚妄によって書かれているのだ。
ごくごくごくごく普通に時系列を追うだけで「著作者人格権をめぐる認識」が事件の本質ではないことは明らかなのに、だ。繰り返すが、論理的に考えてここが「核」なら1月以降の騒動は自殺に関係がないことになる。
ああ、めちゃくちゃ気持ち悪い。
なにが「事態を単純化させる気はない」だ。ここで行われているのは「単純化」などということではない。もっと悪い、明らかに事実関係と時系列を無視した、問題のミスリードだ。
そして、ミスリードした先にある「著作者人格権」を取り上げ、「本質に問題解決に対して寄与しない」とわかっていつつ、ここが再発防止の核であると述べる。
ここには「事態の再発を防ごう」なんていう真摯な態度は欠片も見られない。あるいのは「そういうことにしたい」という卑劣な思惑だけだ。
そうするともう少し穿った見方をしたくなる。
つまり「本件を「著作者人格権の問題」にすり替える」ことが、本テキストの目的だったのではないか、ということだ。
この「著作者人格権」にまつわるテキストの不誠実さだけでも、十分以上に気持ちが悪い。しかしもっとおぞましいのはこの先だ。
要約するとこうなる。
「ドラマに対する芦原氏の意向は、小学館がドラマ制作サイドに伝えていた。芦原氏は納得のいくまで脚本を修正した。ドラマは芦原氏の意向が反映されたものである」
本テキストを読めばわかるが、これに関する一連のセンテンス、どこか誇らしげでさえある。
正気で書いているのだろうか? 芦原氏の「言葉」を軽んじているのは、ドラマ制作サイドなのか編集サイドなのかわからなくなる。
芦原氏の意向は、よく知られている通り「原作に忠実なドラマ化」である。これが小学館からドラマ制作サイドに伝わっていたとしよう。その後どうなった?
(https://piyonote.com/ashiharahinako-twitter/#google_vignette)
ところが、毎回、漫画を大きく改編したプロットや脚本が提出されていました(略)粘りに粘って加筆修正し、やっとの思いでほぼ原作通りの1~7話の脚本の完成にこぎつけましたが…。
加筆修正の繰り返しとなって、その頃には私も相当疲弊していました。
(略)8~10話となりましたが、ここでも当初の条件は守られず、私が準備したものを大幅に改変した脚本が8~10話まとめて提出されました。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。(中略)原稿の〆切とも重なり、相当短い時間で脚本を執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます。
これは芦原氏が「小学館と時系列に添って事実関係を確認し、文章の内容も小学館と確認して書かれた」文章だ。
原作者である先生にご納得いただけるまで脚本を修正していただき
馬鹿じゃねえのか。芦原氏は「推敲を重ねられなかったこと」を「悔いて」いたのだ。「加筆修正の繰り返しとなって相当疲弊して」いたのだ。
その文章を確認しておきながら、舌の根も乾かぬうちに「ご納得いただけるまで脚本を修正していただ」いたとのたまう。本当に血の通った人間のすることか? ご納得いただけるまで脚本を修正するという作業がどれほど心身に負担をかけることか、わからない編者者でもないだろう。それを何を誇らしげに「わたしたちに落ち度はありません」と言わんばかりの態度で書いているんだ?
ここに事実を捻じ曲げる意図がまったくないとでも言うのだろうか。
そもそも「意向を伝える」ことは伝書鳩のように「言いましたよ」ということではあるまい。なるべく芦原氏に負担がかからないように交渉を詰めて、芦原氏が心身を疲弊させながら手ずから「修正」をしなくてもいいように、ドラマ制作サイドに「条件の履行」を求めるのが「意向を伝える」ことではないのか。ガキの使いじゃねえんだ。「ちゃんと言いましたよ」で責任を逃れるビジンスシーンがどこにある。
明らかにドラマ制作サイドに芦原氏の意向が「伝わっていなかった」から、彼女は修正を繰り返し、自らを追い詰めなければならないことになったんだろう。そこに「伝わるまで伝えなかった」小学館の責任はないのか?
無論、担当編集者やメディア担当者が「仕事をしていなかった」というつもりはない。担当者が誰よりも働いただろうし、想像するだに困難な局面の連続だっただろう。いまの心痛はいかばかりか。結果は最悪なものになってしまったが、それは決して現場の担当者たちを非難していい理由にはならない。
繰り返すが、現場の担当者個人の責任を追及せよと言いたいのではない。むしろ、それは決してやってはならないことだ。しかしまた同時に「頑張ったから」「努力したから」「不運としか言いようがなかったから」という事実は、決して責任を消滅させる理由にもならないのだ。
小学館に責任はある。絶対的にあるのだ。それは「著作者人格権にまつわる認識を周知徹底できなかった」ことなどではない。芦原氏の意向をドラマ制作サイドに理解させることができずに、結果的にドラマ制作過程において芦原氏を心身ともに追い詰める結果を招いたことについて、責任があるのだ。
にもかかわらず、そうした自らの責任にまったく目を閉ざし、ひたすら問題を矮小化させ、ミスリードしようとする意図が、行間に充満している。
それこそが本テキストが歴史的に気持ち悪い理由のひとつだろう。
書くまでもないことを最後に書く。
ここまで確認してきたように、本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。
その最後に付された言葉が、芦原氏への「寂しいです、先生。」だったことは、瞠目すべきだろう。人間どこまでも恥知らずになれるらしい。
この一文が本当に気持ち悪いのは、SNSで言われるように「TPOにそぐわぬポエティックなもの」だからではない。
欺瞞と自己保身のために芦原氏の言葉さえ踏みにじって醜悪なレトリックを駆使した挙句、そもそも本テキストの「宛先」でさえない芦原氏を「文章の結び」のためだけに泉下から引きずり出し、まるで批判除けのお守りのように利用してしまう、学館第一コミック局編集者一同の浅ましい精神性が悪魔濃縮されているからだ。
本件の内幕はおそらく当事者たちにすらもう分からなくなるくらい複雑化していることだろう。
小学館を悪者にして幕引きをすればいいという性質のものでもない。巷間指摘されているように、メディア化における構造的な問題、TV局の体質的な問題、悪意を増幅させるSNSというシステムの問題、他にも種々様々な問題が複雑に絡み合っているはずだ。
それでも、この悲劇を防げたプレイヤーの一人であるはずの小学館が、「ことなかれ主義の上層部」「責任回避の編集局」という内実を露呈していることは、必ず批判されなければならない。
騙されてはならない。