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はてなキーワード: 実存とは

2017-04-24

あどせんすくんの時給が1500円を超えた

これはもう、ぼくが働くよりも時給が良いのではないのだろうか

自分実存がゆらぐ

2017-04-01

http://anond.hatelabo.jp/20170401154117

いやデータ上の存在でも自意識実存はありうるだろ

原子の集まりで出来た意識と0と1の集まりで出来た意識に何の違いがある?

そしてこの宇宙原子の集まり計算したシミュレーションだったからといって

あなた人生茶番になるのか?

スターオーシャン3

世界が実は作りものだった、ってことにがっかりする意味がわからない

例えばこの世界も実はそうだとしても

実存することには変わりないじゃん

2016-12-25

[]よくある質問

真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。

Q.ここで回答をし続けてそれなりになりますが、匿名ダイアリーに多少の情は湧いてきましたか

3割YESかな。

そりゃあ、好きかと聞かれれば好きだと答えるかもしれないが、それは体裁を気にした結果の応えだからな。

他人好き嫌い千差万別であるのに、わざわざそれを発露するということは別の目的があるからだ。

まり、そーいう対象を好きだと言える人間は遠まわしに自分が好きだと言いたいということさ。

対象実存している必要もないから、何なら漫画アニメキャラクターでもいいかもしれないな。

個人にとって何でもいいわけではないし、理由目的多義に渡るだろうけれども本質はソコさ。

からといって卑屈になる必要はない。

基本的人間というもの自分が好きなのだよ。

仮に嫌いだと言っても、自分のことが嫌いだと言える自分が好きなのだ

是非がどうとかではなくて、自己愛とそのために発露をする手段を工夫して生きていくことは人間本質で、それとどう付き合っていくかという話さ。

不特定多数人間がいる場所で、不特定多数人間が正しく理解できるわけがないことを、何の実益もない条件で書く。

それだけでは孤独感と作業性が増すのだから潜在的自己愛を糧にすることは重要なことさ。

承認欲求よりも、発露する行為のものに主な目的が付加されているパターンだな。

言い方を変えれば「呟き」で、そこに特化するなら今はツイッターもあるが、また別の機会に踏み込もう。

いずれにしろ本質の前には、その他の目的理由食玩のオマケさ。

まあ、お菓子玩具、どちらがオマケかで自己との対話余地はあるかもしれないがな。

その点で、私は極めて緩やかな意味合い匿名ダイアリーYESと答えたわけだ。

もしここが無くなったら、有名人の死に対してファンが言いそうなセリフ文章を書くだろう。

有料サービスになったら、無料信者のそれっぽい文言を吐き捨てて、別の媒体で手を変え品を変えて活動するさ。

Q.最近掃除しまたか

ブクマが貯まっていたので、二度と読まないものは星の皆無に関わらず削除したかな。

いや、他にも役割目的も勿論あるだろうけれども、私にとっての本質は「栞」だよ。

読まない本に栞を挟んでいたって仕方ないだろ?

……分かってるよ、現実世界の話だろ。

坂本竜馬洗濯したいとかいっていたけれど、私はさすがにそこまでのは無理かな。

2016-12-10

逃げ恥』がムカつく

ドラマの『逃げ恥』がムカつく。毎週見てるけど、ムカつく。

ガッキー星野源も超かわいいけど、主題歌も好きだけど、ムカつく。

なんでかっていうと、まず「かわいそう」っていうステータスアクセサリーみたいに扱っているから。

高齢童貞SE文系院卒無職も、アクセサリーだ。

「かわいそう」っていうアクセサリー

確かに今は、完璧美男美女恋愛ドラマじゃダメで、

何かしら欠損を抱えたキャラクターじゃないと人気が出ないんだろうと思う。

から、ちゃんとこの人は「かわいそう」ですよーっていうアクセサリーとして高齢童貞とか、無職とかっていう設定にされる。


きっと高齢童貞SEにも文系院卒無職女にも、それぞれの人生として積み重ねてきたものがあって、

プラスの部分もマイナスの部分を背負っているはずなのに、みくりとひらまさからはそういう積み重ねが感じられない。

だって二人とも、仕事恋愛のことしか頭にないように見える。そんなのただのリア充()じゃないか

みくりとひらまさの生活からは、一切趣味のにおいがしない。彼らはいままでどうやって生きてきたんだろう。


ひらまさはまだ、彼の人生の中で積み重ねが見える気がする。

彼が仕事をきちんとやってきたことで、みくりを雇う金銭的余裕が生まれた。

でも、みくりは、彼女が選んで積み重ねてきたものが、彼女をかたちづくっているように見えない。

かわいらしく賢く生まれて、家事をしっかり仕込んでくれる母親に育てられれば、選ばれる。

女は学歴なんかつけるもんじゃないっていうのを地でいってしまっている。

ひらまさがリストラされたら、なにか変わるんだろうか。変わるといいけど。



そもそも、みくりもひらまさも、婚活市場でどう考えても勝ち組だし。

大学院いかせてもらるくらいの金銭的余裕と文化的ものへの理解があるおうちに生まれて、

家事が上手でそこそこ(ガッキー死ぬほどかわいいけどドラマの設定的に)かわいい26歳って、婚活市場で最高ランクだと思う。


ひらまささんだって婚活市場では、めちゃめちゃ人気じゃないのかな。

定職についてて、貯金があって、都内の1LDKで優雅生活してて、

清潔感があって、っていうかむしろ適度にオシャレで、

お店の人や家族に横柄な態度をとらなくて…。

何より、女性に対してちゃんと欲情するけど、その性欲を押し付けてこないって、最高に理想じゃないかと思う。



ひらまささんは、現代王子様だ。最新のリアル王子様。

ロマンチック言葉でうっとりさせたり、スマートエスコートしてくれたりするのだけが王子様じゃない。

わたし幸せにしてくれるのが、王子様。



みくりだってシンデレラみたいだなって思う。

かわいらしく一生懸命家事をやっていれば、いつかお城付きの王子様が迎えに来てくれる。

みくりの「小賢しさ」「分析屋」「自分からなんでも言ってしまう」というキャラクターは、

いまどきの愛されキャラという感じがする。

適度に毒がある人の方がお茶の間に愛されるのと一緒で、人が不快にならない程度の小賢しさがあるくらいの方が

現代ヒロインにはふさわしいし、

まりにもバカなことをやるやつがいないアクション映画みたいに安心して見られる。




恋愛至上主義批判的に描いているようで、結局ロマンチックラブイデオロギーシンデレラストーリーを強化しまくっている。

王子様とヒロインの描かれ方が変わっただけだ。

セックスなしの、お金からまない、純粋恋愛をこのドラマは描き続けている。

ハグしたりキスしたりセックスしたりするまでに昭和少女漫画並みの時間がかかる。

王子様とヒロインが、お互いに好きであることを確かめることを丁寧に描く、少女漫画

家事代行に来てもらった女性と、家事代行先の雇用主が運命相手だったという、なんというロマンチックな話。

書いてて気づいたけど、私が本当にムカついてるのは、ドラマの『逃げ恥』じゃなくて、『逃げ恥』をちょっとでも批判しようものなら、くってかかってきそうなTwitterとかの人たち。

ドラマの『逃げ恥』は現代少女漫画としてめちゃめちゃ楽しくてそれでいいのに、勝手社会的ないろいろを重ねて持ち上げて、

批判しづらいように論陣はってる人たちのせいで、ムカついてしまう。

インターネットでも現実でも、『逃げ恥』のこと批判してる人に全然出会えない。

私は文系院卒で男社会で無理やり働いていて、たぶん小賢しい女なんだろうと思うけど、

素敵な素敵な少女漫画の中に、急に登場人物としてエントリーさせられてしまったような居心地の悪さがある。

みくりみたいに可愛くもないし家事もできないしオタクだし。

ドラマとして楽しんでるのとは別に実存救われねえーって思うけど、それも言えない雰囲気がある。

から金曜の夜に増田なんて書いてる。

ドラマで描かれる「小賢しい女」にすら私はなれないんだなって、悲しいを通りこしてムカつく。

今週、「僕にとってみくりさんは簡単に手放せる人じゃないんです」って言うひらまささんに軽率ときめいている私にもムカつく。

2016-11-29

結局低能先生の最終的な目標ってなんなのだろう

ただの娯楽目的でここまで続けるってあまり考えられないけど

そうだとしたらそれはそれでクール実存だな

2016-11-06

http://anond.hatelabo.jp/20161106113713

戦争と何の関係もない単なるアイドルがなんでハロウィンナチコス着るのを咎められなきゃいけないのか論理的説明してみろ。出来ないだろ。

お前みたいな頭弱い生物は実社会では搾取されまくり詰められまくり立場なわけだが

社会から逃避して政治運動左翼サイドに身を投じれば人を上から目線で詰める立場につける(つもり)なわけだな。


秋元康は鼻持ちならない女衒だし

ナチコスアイドル達もアイドルにしちゃブスなひとやまいくらのネーちゃん達だが

それにしたってお前よりはよっぽど社会値打ちのある人間だよ。

社会に踏みとどまってその中で勝負してる。


生身で相対したらお前みたいなミミズは秋本にもあのアイドルにも圧倒されるよ。

彼等は社会の中で頑張ってるからな。

社会から逃避してお政治に入って人を説教する立場に(自分ののうの中では)立って

あいつはけしからーん」「こいつはあやまちをみとめられないよわいにんげん!」って

一生をそういうことに使って年老いていけばいいよ、お前は。

本当に1番よわっちい虫けらが誰なのか、お前もほんとはわかってる。

夜寝る前とか深夜に目が覚めた時とかには実感してるだろ。

でもそれから目を背け続けるのがお前の死ぬまで続く実存なわけだな。


まあ元々能力低いんだから、ちゃんと社会で頑張ったとしても得るものは少なかったのかもしれないしな。

もういい歳になっちゃってるなら今更軌道修正も効かないし。

2016-10-17

http://anond.hatelabo.jp/20161017181423

実存主義って日本だと人生哲学みたいに言われているけど、実は本質(とか観念主義に対する反対概念で、

英語圏だと実存存在も同じ exsistence だから分かりやすいけど、ようは空想産物立脚しないで、

今ここに認識できる物事立脚してモノを考えようぜ、っていう思想運動ことなんだよ。

今確かに認識できるモノって究極に突き詰めると自分存在だけじゃね?

デカルトが主張したことの延長線上にある考え方なんだよね。

でも、日本だとどういうわけか人生哲学として消費されるのがメインだから

実存主義人生哲学みたいに言われちゃうのよね。

2016-09-18

映画聲の形」"私(達)の時代の話をしているんだ"

2016年9月17日今日公開の映画聲の形」を観てきた。

写実的実存感に溢れる流麗な映像と共にかかるThe WHOのMy Generationに、山田尚子監督京都アニメーションの円熟と"私(達)の時代の話をしているんだ"という監督の高らかな宣言を感じた。

単行本7巻分の原作を2時間シェイプアップされた映像は、大胆な再構成説明要素の排除で進行される。

この映画は将也の物語だ。

原作で描かれた硝子の主観ほぼほぼ排除されている。硝子は聴覚障害があり、手話不明瞭な言葉しかコミュニケーションを取ることが出来ない。

それは劇中でもありのまま描かれ、我々健聴者は彼女が何を言っているのか正確に理解できない。

将也や、その他の登場人物の反応で保管できる部分はあるが、原作のように硝子の視点も用意されておらず、想像範疇を出ない。(なんとモノローグすらない)

まり観客は彼女同化することを構造上許されていないのだ。(これは字幕上映を観ることで考えが変わるかもしれない)

物言えぬ硝子を介して、将也はコミュニケーションを、人の間で生きていくことを学ぶ。

しか原作で大きく扱われていた周辺登場人物との関係欺瞞に満ちた映画作り〜かつて失くしたコミュニケーションの復活・その崩壊・硝子による再構築)も排除されている。

将也の成長物語のみに徹底的にフォーカスした結果、将也の成長を促す硝子を含むすべての周辺登場人物へのフォーカスを切り捨てたのだ。

それでは山田尚子監督及び京都アニメーションスタッフ陣はどのような物語演出方法を取ったのか?

それは徹底的なリアリズムと情感を託された映像密度と、そこにあるもの以外語らない、という選択だったのだと思う。

ノイジーでインダストリアル劇伴と静かに喋る将也と物言えぬ硝子。大きなカタルシスを用意するでもなく(物語上には存在するが、ここで挙げるのは演出上のカタルシス)、ただただ丁寧に心の機微は描く。

その役割言語化されたコミュニケーション大前提劇映画では異常なほど、人物(言語)ではなく映像に委ねられている。

象徴的に繰り返し映し出される様々な花のモチーフにも、それぞれ意味があり、雄弁に語る。しかしそこに言語はない。

とても静かな映画だった。

それは聴覚障害コミュニケーション少年の成長、という大きな主題映像化する上でベター選択だったし、原作モノを再解釈して色を付ける、しかあくま原作範疇から出ることはせず、映像化にあたっての最良の選択だった。

けいおん!」で見せた山田尚子監督バケモノ級の構成力がいままさに円熟しているのを感じずには居られなかった。

もちろんその演出選択できる体力としての京都アニメーションスタッフ技量があってのこの映画だったと思う。

響け!ユーフォニアム」で到達点を見せたと思われた、写実的被写体キャメラ存在を追求した京都アニメーションレイアウト撮影までの画作りの更なる進化があってこそ、将也の心情に寄り添った雄弁な映像は生まれたのだ。

先週観た「君の名は。」で新海誠が描いていた、印象だけで構成された陳腐空虚しかないセンスの欠片もない映像と退屈で死にそうなほど単純なボーイミーツガールポストエヴァ世代の終わりなき呪縛を今作は問題外と言わんばかりに完璧凌駕していた。比較対象雑魚すぎるきらいもあるが、あらゆる意味次元が違った。

新海誠代表されるセカイ系次世代として2000年代後半に登場した、近景に特化した所謂空気系旗手として君臨した「けいおん!」は物語歴史の中でノスタルジックかつアブストラクトエポック作品だったが、その監督である山田尚子京都アニメーションさらなる次世代を紡ぐ、体制側・システムとしての完成をみたのが今作だったと思う。

オルタナティブとしての物語自分ストーリーとして受け取る現世代のための物語装置を創りだすシステムとしての京都アニメーション

圧倒的なクオリティと確実なチョイスで、先陣を切りそれを体現していく山田尚子恐ろしいことに今回は萌え武器にもしていないのだ。

派手な爆発も、世界を救う大いなる力も、悩める個人と直結したセカイも、今作の持つ超弩級の冷静さの前では旧態依然とした使い古されたアイデアしか無かった。

それでも丁寧に丁寧に人の手で作られたアニメーションは、絵が動き、実写以上の実存感を持って我々の心に寄り添い訴えてくる。

時代に生きられることに感謝し、最大級の賛美を持って新時代の幕開けを向かい入れたいと思った。

必見。

2016-06-06

脱糞増田という風潮にNO!を言いたい

 最近増田というだけで脱糞が許されたり、ことによると誇るべき勲章だと考える似非増田が増えている。


 なげかわしい。


 本来増田が蔑まれるべき対象であるのと同様に、脱糞もまた蔑まれるべき行為だ。

 我々は人間なのだからうんこは当然便器にするべきであり、それ以外の場所でぶちまけるなどしつけのなっていないネコ以下の畜生である

 脱糞とはもっとこう、恥じらいつつやるべきだ。

 自分から積極的にその下劣さを憎みつつも、波打つ括約筋の秘すべき快楽に抗えない、

 そういう隠微で官能的な行為であるべきなのだ脱糞とは。本来は。


 だというのに、なんだそのざまは。その有様は。

 まったくもってひどすぎる。


 

 それでもおまえは増田か? あの増田なのか?

 ネット社会底辺中の底辺

 美しい国日本の秘所にわだかまった薫り高きチンかす、

 すき家の新作メニューにも劣るフランケンシュタインモンスター的生ごみ

 ネット社会恥部オリンピック日本代表はてな匿名ダイアリー利用者

 はてなIDを持ちたる存在

 純然たる無為

 増田なのか?


 ちょっとホッテントリでちやほやされたからといって、

 ちょっと国会でとりあげられたからって、

 ちょっと世の中を動かしたからといって、

 四六時中どこでもウンコをもらして許されるといった風情じゃないか

 まるで世界が俺のもの、といった感じじゃないか


 だが、逆なのだ

 おまえが世界を所有しているのではない。

 おまえが世界に所有されているのだ。

 誰にも支配されなかったお前の胃腸を、お前の肛門を、お前はやつらに捨て値同然で売り払ってしまった。

 ブクマという悪銭と引き換えに。


 思い出せ。

 あの恥じらいを。

 忘れるな。

 あの屈辱を。

 噛み締めろ。

 あの劣等感を。


 堂々と脱糞するな。

 自慢気に脱糞談を書くな。

 脱糞所与のものとして誇るな。


 俺たちはクソみたいな存在だ。

 だが、クソそのものではない。

 俺たちには常に脱糞がついてまわる。

 だが、脱糞のものではない。

 実存脱糞に奪われるな。

 おまえは増田だ。

 おまえは脱糞ではない。

 おまえは増田だ。

 おれたちは増田だ。

 クソから自由になるには排泄が手っ取り早い手段かもしれない。

 だが安易すぎる自由は、安価すぎる自由は、やがておまえを殺す無為に満ちた自由の刑と成り果てる。 

 おまえはいつでもどこでもクソを漏らしていい社会に直面したとき、もはや何者でもなくなる。

 増田は、全人類増田と化した社会では増田ではなくなる。

 俺たちが脱糞するべきは、「この」世界であるべきだ。

 脱糞が死と同義である社会であるべきだ。


 おまえが初めてクソを漏らしたときのことを思い出せ。

 湿ったパンツの苦い感触

 恥辱、後悔、血涙、怒り、絶望

 誰とも共有できないオリジナル感情

 それが俺たちの原点だったはずだ。

 それの隔絶が増田増田たらしめる起源だったはずだ。


 俺たちは十一人。

 独立不羈の十一人である

 互いに交わらず、互いに傷つけず、互いに愛さない。

 誰から賞賛されず、誰から顕彰されず、孤独datの海に散っていく。

 綴る言葉価値botランダムに打つワードサラダと等しく、

 拠って立つアカウントも肉体も何もない。

 だからこそ、自由なのだ

 増田脱糞するから自由なのではない。

 増田から自由なのだ

 それを忘れるな。

 俺たちは増田だ。

2016-05-01

観ていない人には分からない映画レビュー

今回レビューするのはアニメ映画の「」、様々な看板キャラクター企業を飛び越えて登場するクロスオーバー作品だ。

看板キャラクターたちが一つのアニメで絡み合うのはそれだけで贅沢だが、この作品はそれだけで満足せず、なんと実写ともコラボしている。

ストーリーもそれに合わせ、アニメキャラクター現実実存するという世界観だ。

そんな世界観で繰り広げられるもの普通で済むわけもなく、実写である主人公に次から次へと巻き起こるアニメ的な展開は、馬鹿げているのを通り越して狂気じみている。

もとからアニメ作品は過剰で異常な演出が多いのだが、実写と合わさることによってより際立っているといえよう。

自分の知っているキャラが出ているという理由だけで観ると、その狂気にやられて参ってしまう人がいるかもしれない。

だが、実写とアニメの動きはしっかり合わさっていて、両方とも高いクオリティなので無理やりにでも魅入らせる。

当然、アニメと実写の親和性にも限界はあり、絵の違和感否定できない。

だが本作はそれすら逆手にとっている節すら感じ取れる作りで、特に黒幕の正体が判明するシーンはその極致である

本筋もしっかりしているが、一瞬しか出ないシーンのアニメ書き込み、実写の演技や演出など細部にもこだわりを感じられる。

はいえ、不満点もある。

まず、様々な作品アニメキャラが出ているといっても多くはカメオ出演で、割合的には一つの企業権利を持っているのばかりで偏っている。

大人の事情が絡むとはいえ、そこは残念なところ。

また、時おり妙に社会的メッセージが含まれることがあるのだが、そこも不満点だ。

それを主役のアニメキャラに喋らせている一部シーンはミスマッチだと感じた。

これは原作である小説が、その時代の背景を色濃く反映した社会派作品からだ。

アニメ映画にする上で様々な要素を付け足して前面に出していった結果、元あった要素が浮いてしまうのは皮肉的ともいえる。

はいえ、ミスマッチという点を除けば、メッセージ自体は中々に深いということは補足しておく。

不満点もあるが総合的には満足度の高い作品で、実写とアニメの組み合わせでここまで意欲的かつ秀逸な出来の作品は未だ出ていないと断言してもいい。

2016-04-24

オタク政治的正しさ話題において雑に扱われるロリコン

タイトルのようなことを感じたきっかけとなった記事を3つ、順番に紹介していきます書き手ロリコンもっといえばペドフィリアです。

民族差別煽動デマツイートをしている同好の士に言いたいこと - ちらしのうら。

オタク趣味である私は、民族差別煽動デマツイートをしている同好の士に言いたいことがあります
もしも「犯罪者予備軍であるロリコンキモオタクが女子児童を襲いますので、ご用心ください」などというデマを流されたら、貴方はどう思いますか?
そんなデマは、もちろん許せないと思いますよね。
「軽い冗談だろ」とか「ネタにきまってるじゃん」とか言われて、軽く流せますか?
もちろん、軽く流すことなんてできませんよね。
でも、まさしく貴方は、そのようなデマの流布と同じことをしているのです。
否、「同じ」というのは語弊があります
というのも、たとえオタク趣味否定されたとしても、貴方民族的アイデンティティーは損なわれないでしょうから貴方民族的アイデンティティーという「実存の拠り所」まで失うことはありません。
しかし、民族差別煽動デマは、民族的アイデンティティーという「実存の拠り所」を奪うものであって、いわば「人格殺害する行為」であり、さらには現実殺人をも惹き起こす危険さえもあるものです。ですから、それは決して「軽い冗談」の一言で済まされるようなものではありません。

私はオタク趣味のことはわからないので、オタク趣味をお持ちの方が「オタク趣味否定は(民族的アイデンティティー否定とは違い)実存の拠り所の否定ではない」とおっしゃるのならそれはいいんですけど、ロリコンを巻き込まないでもらえますか?というのがいちロリコンとしての感想ですね。

ふつう性的指向による差別というのは、民族差別と同程度に「実存の拠り所」に対する攻撃であるとされているはずです。もっとも、よく知られている通り、指向か嗜好か、マイノリティーか否か、権力勾配があるかどうか——色々な論点があって、「ロリコン」に対する差別というものが、たとえばLGBTに対する差別と同等に捉えられるべきかというのは、議論がありますし、別に私も同等に捉えられるべきであると主張するつもりはありません(べきでないとも主張しませんが)。それでも、ロリコンが「ただの趣味」(とid:yukito_ashibe氏が主張しているところのオタク趣味)と同等に扱われるのは、看過できません。同等どころか同等未満にも見えます。「犯罪者予備軍であるロリコンキモオタクが女子児童を襲いますので、ご用心ください」って文を例示として示しておいて、その文の中で「ロリコン」(・「キモ」)が攻撃されていたことはすっかり忘れられているのですから

(なお、私の主張は「もしオタクがただの趣味であるというのなら、オタク趣味ロリコンを同等に扱うな」というものであり、「オタクはただの趣味か」についてはここでは検討しません。悪しからず。)

2

半年前に、こんなTogetter話題になりました。

【キモヲタ】と【BL愛好家】を英語ではどう表現するのか?NYで活躍中の日本人通訳者が語る - Togetterまとめ

また続き。ちなみに英語表現するとこうなります
キモヲタ: pedophile
BL愛好家: voyeur

最後ツイート現在は削除されていますが、このツイートがとりわけ話題になりました。私がこの件でもっとも腹立たしく思ったのが、若林宣(@t_wak)氏の擁護です。

「本物のペドフィリアではないんですよ、空想世界で遊んでいるだけです」ですむって、そんな訳がないでしょう。いいですか、Yuko Ohnaka氏のツイートは、あきらかにオタクを貶める目的で「キモヲタ: pedophile」と書いてるわけです。でも、そもそもpedophileという言葉悪口になってしまうのがおかしいのに、それに対して「オタクは本物のペドフィリアではない」と返すべきだというのは、「ペドフィリア悪口として使うのは全然オッケーだと思ってます」ってことですよね。それは最悪の切断処理です。若林氏は左派だし、左派ならこういうことは当然に理解できるはずだと思うのですが。)なにが「ペドフィリアだって認めたも同然だよ。」ですか。認めると問題があるんですか?単純にペドフィリアという単語チャイルドレスター意味勘違いしてるならまだわかりますけど。

若林さんは、これよりも前に

こんな発言をしていますから、少なくとも「オタクに対する差別」というのをそこまで深刻なものとは捉えていないわけです。その上で、「オタク」と「ペドフィリア」を同一視するYuko Ohnaka氏のツイートを見て、その「オタク」に「ペドフィリアを切り離せ」と説こうと思う訳ですから、「ペドフィリア」はもっとどうでもいいと思ってるんですよね。ふーん。

3

1年前に、TVタックルにてアニメ規制に関する特集が行われたことをきっかけに、いろんな議論が沸き起こりました。そのとき記事がこちらです。

大炎上「TVタックル」アニメ規制特集、規制賛成派から見た「オタク」の姿

ここで説明するのは大変なので、ご存知ない方は記事を読んでください。ですが、青柳美帆子氏のこの記事にも私はひっかかったところがあります

たとえば、ミッツがオタク3人に「あなたたちはロリータ趣味がある?」と聞くシーン。「あります!」と即答する20代男性に、阿川は目を見開いている。考えてみたら当たり前だ。
確かにインターネット上では、「ロリコン」という言葉が気軽に使われている。でも、実際は市民権を得ているものではなく、彼らはできるなら「幼い美少女二次元キャラクターは好きだけど、現実幼女に対する感情はまた違ったものである」と言うべきだった。

やはり、若林氏と同様、「幼い美少女二次元キャラクターは好きだけど、現実幼女に対する感情はまた違ったものである」という「オタクロリコンは違うんですよ」論法を推奨している。ただ、この場合ミッツ氏が「ロリコン=悪」という前提で質問しているようには読み取れないので、「ロリコンではない」と答えたところでさっきのように即「ロリコン悪口として使っていい」というようなことにはなりません。なので若林氏ほど酷い発言ではないと思いますが、それでも青柳氏の意見には賛成できません。

ロリコンである、ということを公言することは児童に恐怖を与えうるものであるから、場を選ぶ必要がある、という立場があります。この立場立脚するならば、「あります!」という答えは批判されてしかるべきということになるかもしれません。(もっともその場合は「ロリータ趣味がある?」という質問自体妥当性が先に問われるでしょうけどね。)ですが、そうだとして「幼い美少女二次元キャラクターは好き」ならセーフだと思う意味がわかりません。「どっちもアウト」や「どっちもセーフ」なら理解できるのですが、一方だけセーフとするところにやはり「切断処理」を感じてしまます

まあ、「オタク世間に受け入れられること」を最優先にするならこうした切断処理はある程度有効なのかもしれませんけど、それはあくま戦略上の話に過ぎません。彼らは別にオタク立場を向上させる義務があってテレビに出た訳ではありませんから、「こう答えるべきだった」なんて青柳氏に指図される筋合いはありません。

まとめ

以上、私が特に印象に残っている実例を挙げて批判しましたが、こういうケースはそこら中で見かけます

オタク趣味であってオタクに対する差別というのは他の差別に比べて深刻なものではない」と主張しながら、ロリコンペドフィリアという言葉をまるでオタク同義のように扱う人とか。

オタク三次元に興味が無いことをアピールして二次元を守るべき」と、ペドフィリアを切捨てるような戦略オタクに勧める人とか。

そういう人々を見る度に辟易します。

この記事がそうした風潮に一石を投じることを願っています

2016-03-06

http://anond.hatelabo.jp/20160305161814

あなたと応対していた2番目増田元増田から数えて二番目)だけども、

歴史家コンセンサスを得るのは割と大変、ということは覚えておいてくれ。神学者が言えば通るような話ではない。

うん、俺もこの立場なんだけどあなたは何が言いたかったの? それなら不在でいいじゃん。

しろ神学者の話を盾にして論拠を固めようとしていたでしょう?

もしかしてWikipedia記事神学者ではなく史家の支持が過半数だったなんて勘違いかなにか?

ドルフ・カール・ブルトマンって実存論者って書いてあるけど、読んでないでしょ?

そして神学者よりも事実を重視する史家の話を出すなら、聖骸布炭素鑑定の話を持ち出すのはアンフェアでも何でもないはずなんだけど。

そしてじゃれ合いに「(2番目増田発言は)ギルティである」という魔女裁判めいたレッテルを持ち込むのはおかしくないの?

よく自分の中で整理しておいて欲しいわ。あんたは現状単なる狂信者ですよ。

俺は宣教師キリスト文化的価値信教の自由まで否定していない、といっているでしょう。

2016-02-20

[][] アンドレイ・タルコフスキーストーカー

 

評論作品分析とはなにかを「映画素人」なりに考えた結果を提示しています
 映画文脈映画のみならず、という提示でもあります


プロット

ある日隕石が降り注ぎ、某所に謎の地帯が出現した。その場所を国はゾーンと呼び軍隊派遣した。ところが派遣した

軍隊は戻ってこなかった。ある場所ストーカーという男がおり、彼は妻が止めるのも聞かずにゾーンの探索へと乗り

出してゆく。ストーカーは、教授と呼ばれる細身の男や酔っ払い作家と合流する。自称作家教授にたいして考古学

の話を持ち出し、昔残飯入れに使われた壺が現代では逸品としてもてはやされ、その上さらに偽物と判定荒れた場合

うするのか? 人は皆しらけてしま価値を失うのではないか、と述べた。教授はそれに対して小説も百年もたないの

であればそれは無意味だ、とやりかえす。

そんなやりとりの後ストーカーはたちはトラックに乗ると監視の目をくぐり抜け、ゾーン監視にゆく。彼らは列車

動きに乗じてトラックで張り付きゾーンに潜入し、エンジン付きのトロッコに乗ると警察をまいた。そうして廃墟と自

然あふれる風景が見える場所へと到着する。作家はそこで、ジカブラスと呼ばれる人物のことを話し始めた。彼は先生

と呼ばれており、ゾーンのことをよく知っていたという。しか作家は彼が罰を受けたことを境にして、それ以上の記

憶はないといった。そのうちストーカーは奥地へと一人で分け入り、教授は彼しかゾーンと語ることはできない、と作

家へと解説し、ついでに風の噂に聞くヤマアラシと呼ばれる男は、金持ちになった後に首をつったのだと語った。教授

さらに、二十年前の隕石事故隕石によるものではなかったとも述べた。うわさは飛び火し、宝が埋まっているので

はないかともいわれたし、結果的に一帯は立ち入り禁止となりもした。そこまで語り合った後にストーカーは戻ってき

たが、三人そろった時点で謎の声が聞こえてきた。教授作家はここに残留したハイカーではないのか、と話し合った

ものの、ストーカーは誰もいなかったと笑いながら述べた。

ストーカーは帰りのトロッコ警察の目を欺くために無人で返してしまうと、自分についてくるように指示する。案内

した先は、戦車がれき群であった。彼はナットの付いた布きれをスリングのように投擲しながら進み、聖域だから

一本もむしってはならないと二人に忠告する。しか作家はその忠告を聞かず、一人奥地へと分け入っていってしまう。

ところが彼は何者かの声を聞き、急に立ち止まる。作家は声が聞こえたと訴えたが、ストーカー教授もその声は聞こ

えなかったといった。ストーカーは急にナーバスになり、ゾーンは生きる罠で人が入ってくると罠を生成するのだとい

う。さらに彼はゾーン自分たち心象風景を写し取ってその姿を生成するといった。(1:06:52)

井戸のシーンから急に哲学的な問いがもたらされる。曰く、情熱は心の活力ではなく周囲との葛藤であり、それは硬直

意味し、柔軟ではない。柔軟ではないものは死んでゆく、という。ここでようやく坑道のような場所で、ストーカー

は来た道を戻ってはならないこと、望みの叶う部屋に向かっていることを明かす(1:09:34、ここで作家聖ペテロ

すらおぼれかけた、という)。一行はずいぶんと湿気た「乾燥室」にたどり着くが、そこで教授を見失ってしまう。し

かし教授はただ単にリュックを取りに戻っただけで、ストーカーたちを追い越してすらいた(1:13:48、ここに冒頭で

登場した注射器が落ちている)。ストーカーはこれを罠だといった。同時にヤマアラシナットを見つけたものの、そ

からは離れてくれという。三人は野営に入るが、その中で教授作家自分というもの証明する意味について再び

議論する。ここで旧約聖書一文をストーカーが読み上げ、その間に説教うつろに聞いていた二人は目を覚ます

(01:24:31:ヨハネ黙示録第六章)。

彼らは長いトンネルをとおって一つのドアへとたどり着くが、そこで何を思ったか作家は銃を取り出し、その所作をス

トーカーにとがめられる。作家ストーカーのいうとおり銃を捨てたが、開いた扉の向こう側は汚水たまる水槽

だった。作家は先に扉の出口へと向かい、銃を水に沈める。しかし再三の忠告にもかかわらず作家はまたもいうことを

聞かず、先へ先へと進んでいった。彼は行き着いた先で、自分が作り出したものを知ろうとはせず、ただ貪欲に食らい

尽くす人種に対しての怒りをあらわにする。マスコミや客などの周辺は作家の「魂」も「心」も食らい尽くすのだと

いったが、その直後ストーカーによりここでは百年は生きられる、と告げられる。ストーカーは彼がゾーンから選ばれ

たというが、一方の教授ストーカーが止めるのも聞かず、旧診療所にあった電話自分所属していた診療所へと電

話を掛けてしまう。彼はこの世の何かを救うために研究所へとかけたのだが、研究所の方では彼を当局へと通報するら

しい。そして作家までもが人類愛など矮小な個々人の願いであり、何も救いはしない、と吐き捨てるようにいう。その

とき診療所のランプが急に点灯し、女の声が響き渡る。するとそこには見慣れない、茨の冠にも似た棘状の冠が置か

れていたのだった(2:00:00)。三人はついに中枢の入り口へとたどり着く。しかしそこで教授は隠し持っていた爆弾

を取り出し、かつての同僚たちとこれを作ったと述べ、あまつさえこの爆弾をもってこのゾーン破壊しようというの

であるストーカーはそれを見て教授へと飛びかかり爆弾を取り上げようとしたが、なぜかそれを作家が止めに入ると

いう事態になった。作家爆弾を取り上げようとするストーカーに、富を独り占めして他人を苦しめようとしている、

といった。しかストーカーは利得を旨として我々は生きておらず何者も幸せにできないが、ゾーンの中だけに自分

ちの尊厳があるといった。また、ストーカーは「部屋(願いを叶える部屋)」には入れないのだという。

彼らの前に「終わりの雨(ヨエル書一章三節)」が降り注ぎ、三人はゾーンより帰還した。帰還には犬がついてきて、

ストーカー子供と妻をつれて帰宅する。そして作家学者に対する不信感をあらわにするのだった(ペテロ実質的

裏切り)。ところがそれを聞いた妻が、望みはないけど今度は自分を連れて行けばいい、といい始める。しかしストー

カーはそれを拒否する。妻は独白にてストーカー結婚すると苦しむことは分かっていたといい、さらには苦しみを味

わいながらの喜びは、きっと平凡な幸せ人生よりもよいものだろう、と自分に言い聞かせてきたと語る。実家の母に

子供もろくなものが生まれないともいわれたらしい。しかしそうした彼らの事情を背に、ストーカーたちの娘は一人

奇跡を起こす。

解説

序盤にて聖霊や霊のことを語る小説家が登場し、その上で三人は語り合ったあとでゾーンに入ってゆく。画面はカラー

化して別世界へと移行する。別世界移行までは共産主義物資的な空気あふれる世界観であり、移行後は急に霊的な空

間へと変化したように描写されている。この内訳は「作家」の最初霊性に関する話の中で語られているが、奇しくも

作家自身はそれをフィクションの中の話としてとらえてしまう。共産主義資本主義が肉体と実存表現であることは

明白である

ストーカーはこの地帯が「生きた罠」であることを告げる。この概念はちょうどコンピューターゲーム・ローグのよう

であり、実際このストーカー発表後の一年後にローグは発表されている。迷宮の生成過程自分たち精神によってな

される、という解説エヴァ的でもある。

そうした心証的な話の中で、作家教授議論する。特に作家自分自身が生まれてきた意味教授に問いかけ、実存

主義を批判し続ける。この話は肉体と心(魂)と意思聖霊)の三位一体象徴する。さらに1:06:52における哲学的

問いかけはこれらのうち肉体に宿る情熱を明確に否定した。情熱欲望である以上葛藤を生み、葛藤を生む以上無為

はなれないのだという。

迷宮は戻ることが禁止されているとストーカーはいうが、話の直後に作家ストーカーに対して聖ペテロの話を持ち出

す。これはゴルゴタにて処刑に掛けられることを暗喩している。ペテロキリストローマへと戻ってはならない、と

いう警句を発する人物だからである。またここより少し進んだ地点で言い合う作家教授に対してストーカーヨハネ

黙示録第六章を暗唱するが、このときストーカーが二人の弟子に対して説教をする役割を担っていることに注目した

い。

彼らはいよいよゾーンの中枢へと足を踏み入れるが、その際に作家自分自身の魂である作品」が他人によって理解

されることなく、ただ食い尽くされるのみだと嘆くシーンが挿入される。そしてストーカーはそれに対して「ここに訪

れた以上、百年は生きられる」と告げる。この意味作家が常々自分レゾンデートルとしての作品自己存在と同一

視されたことに掛かっており、とりも直せばそれは魂の不滅性を示す出来事となってるからである

物語がちょうど2:00:00を経過するとき、彼らが訪れた診療上のランプが急遽点滅して、許しとともに茨の冠が授けら

れる。しかし冠はストーカーではなく作家がかぶってしまう。つまりようやくここで作家こそがキリストの形象であり、

ストーカーは単なる水先案内ペテロであることが示されるのである。そしてこのときようやく作家の「作品」が聖書

であることを理解できるようになっている。ただし、茨の冠はあくまでもピラト率いるローマ兵がかぶせたものであり、

本来侮辱意味が込められていた。故にストーカーは終盤作家教授に対して俗物扱いをしているのだ。これは実質

キリストを裏切ったペテロとしては正しい行動でもある。見ての通り先だって述べたキリスト立場は入れ替わってお

り、「三者のなかで」キリスト作家となっている。ここでは三位一体構造を有していることから分かるとおり、ス

トーカーは聖霊になっていることが理解される。では教授はこのとき神になっているのか、という不審な思いが浮かぶ

が、これは正しい。教授は茨の冠イベント以降爆弾ゾーンを壊そうとする意思を示しているかである。つまりソド

ムとゴモラの挿話としてこのシーンは再現されていることが分かる。蛇足を付け加えると、このときだけ教授ヤハ

ウェ化している。故に暫定的神の子となった作家ストーカー爆弾奪取を阻止して富(欲望)を独り占めしよう

としている、と糾弾したのは当然なのである

もう一つ重要ポイントとして、終盤になると犬が散見されるようになる。これは元々旧約聖書内で扱われる犬を顕し

ており、ゾーン内においては作家教授の愚かな繰り返し行為揶揄し、箴言二十六章十一節「犬が帰って来てその吐

いた物を食べるように、愚かな者はその愚かさをくり返す」という箇所にて彼らの愚かさを指摘する。そしてストー

カーが帰宅したあとには、彼自身の愚かしい行為揶揄し、その身を八つ裂きにする存在として描かれるのである。実

際のところ彼は帰宅後に負傷したわけでもないのに、反芻される心労で倒れている。この下り詩篇二十二篇十六節の

まことに、犬はわたしめぐり、悪をおこなう者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた」に求めら

れる。

ちなみにこの作品叙情解説を以下のURLキャッシュしか残ってない)がおこなっている。叙情的ではあるもの

きわめて鋭い感覚で本作品カットしている。

http://bit.ly/1SYeX3m

これから分かるとおり、終盤に流れる曲ベートーヴェン歓喜の歌』の詞には、神の口づけに関する記述が見られる。

本作最期詩文はあからさまに神の口づけを拒否する欲望主体であり、凝固による死を物語っている。反対に凝固な

無垢なる魂が奇跡を起こすことも明白である。言うまでもなくラストシーンの子供は無垢なる魂に該当する。そして

の子供はストーカー情熱という希望を失ったことにより無為となり、ひいては無垢なる魂を発現させたのであり、

ストーカーの「望む」神の子イエス・キリストが本当の意味でここに生まれたのである

2016-01-29

何が先進国若者テロリストへ変えるのか

 20世紀初頭、英国経済学者であるケインズ卿は、主著の中で「考え方ほど強力なものはない」と説いた。つまり、人の行動要因のうち、最も影響力が強いものは、外部的要因よりもその人の内部要因、すなわち考え方だというわけだ。

 ひるがえって現代英国では、中東出身者の2世3世となる若者たちイスラム国(という名のテロリスト集団)へと帰属すべく、混乱を極める中東へと世代を超えた里帰りをしている。こうした若者たち常軌を逸したテロリスト集団に忠誠を誓う要因は何だろう。ある人は欧米社会における中東系への差別が原因であるとし、ある人は貧困が原因であるという。しかし、これはあまりにも皮相的な見方ではないだろうか。どの国にも貧困差別存在する。それにも関わらず、なぜ一部の人々、特に豊かな先進国若者海外の狂信集団への参加を企図するのだろうか。

 ここでケインズ卿の金言を思い出してほしい。何よりも人を駆り立てるのは考え方だ。もちろん、乾燥した砂漠地帯へと向かう若者たちの中には自意識をこじらせ、過激思想に染まった狂信者もいることだろう。だが、その多くは渡航直前まで通常の市民生活を送っていた一般人である(と報道されている)。ということは、通常の市民生活に浸透するごく一般的常識の中にこそ、彼らを破滅的な行動に追い込む何かが潜んでいるとは考えられないだろうか。

 健全若者たちを追い込んだもの近代社会の「一般常識」とは、「人は役に立たなければ生きている価値がない」という考え方だ。このあまり妥当に思える考え方にこそ狂気が秘められている。

 中東渡航した若者の多くは、同国の他の若者と同等の高等教育を受けており、言い換えれば社会的に役立つ(と見なされるべき)存在である。彼らは教育によって社会常識能力を身につけ、社会への参加と貢献を望む(ごく健全な)精神性を身に付けていたはずだ。だが、彼らはその意欲と能力を十分に活かすことが出来ない環境下にある。

 無論、こうした差別貧困けが問題ならば、例えば南米東南アジアスラム民のごとく、それを人生既定路線として別の生き方適応することも出来ただろう。だが、彼らは私たちと同じように近代的な市民としての精神性を埋め込められた「一般人」なのである

 資本主義であれ社会主義であれ、近代社会おいて市民は、「人の役に立たなければ生きている価値はない」と考えられている。言い換えれば、人の役に立つことが人生意味・意義・目的である。それは経済活動本質でもある。だが、英国をはじめとする欧米社会は、中東系の若者たち近代市民としてごく一般的健全希望を満たすことを許さなかった。結果として「人の役に立ちたい」という健全な欲求は、全く不健全狂気の塊とでもいうべき集団への参加・貢献へと姿を変えてしまう。なぜなら、イスラム国はそうした近代市民として望ましい欲求の全てを満たしてくれるからだ。

 あなた人生には意味がある。あなたは人の役に立つことができる。あなた必要とされている。だからこそ、私たちに参加・貢献してほしい。

 こうしたメッセージ実存的な欲求を満たせずに鬱々とした日々を過ごす若者に届き、その心の隙間に棲みついたとき、彼らを押しとどめる要因、すなわち彼らを暴走させない「考え方」を欧米社会提供できていたのだろうか。事実イスラム国はすぐれて近代的な精神性を持つ集団であり、表面的な暴虐性と狂信性を剥ぎ取れば、そこにあるのは英国と全く同様なもう一つの近代社会であり、宗教というフックによって近代市民を惹きつける別種の帰属集団たりえるわけだ。よって、若者たちの豊かな社会から貧しい狂信団への「宗旨替え」という一見奇妙な現象は、単純に欧米社会の失敗と敗北の証左なのである

 ところで、これは私たち日本人にも無縁の問題ではない。むしろ喫緊問題でもある。中東系の若者には(擬制はいえ)神への信仰が残されているようだが、私たちには一体何が残されているというのだろうか。この社会による無言の死刑宣告に抗うため、私たちにはどうふるまう余地があるだろうか。自身社会的価値の欠如を自覚し、世間という名の集団圧力に圧迫され、閉塞し、窒息したとき私たちは静かに(そう、「誰にも迷惑をかけない」ように!)命を棄てる道しか残されていないのだろうか。

 かつての武士階級にとって自死は、名誉を守る行為だ(という共通理解があ)ったが、近代市民たる私たちにとっては疑いなく、何の疑いもなく、言葉通りの犬死でしかないだろう。それとも、これも一つの考え方に過ぎないのか?

2016-01-28

http://anond.hatelabo.jp/20160127233938

寒いというか、自分特別視してプライドが滲んでいる。変わってるよねと言われた場合、まんざらでもないタイプだな。

実存本質に先立つ」を見て分かる通り、そもそも社会規範本質としてみるその目線本質的ではない。

そして個別性の問題においても、元増田自身がいかにして実存しえたか、という反駁がメディアによっているという自己矛盾を抱えている。

2016-01-07

妹萌えコンテンツが少なくてつらい

シスコンを一括りにしてはいけない

シスコンだとか妹萌えだとか簡単に言ってくれるが、同じ「シスコン」のあいだにもそれはもう深い深い溝がある。俺たちは同じシスコンであっても、決して分かり合えない。

シスコンに「実妹派」と「義妹派」があるのは御存知の通り。この両者は、きのこの山たけのこの里ほどの違いがあり、たびたび紛争が生ずる。

それだけでなく、妹萌えには「実存派」と「ロマン派」があり、さらに「三次元派」と「二次元派」に分かれ、そのさらには「兄妹派」と「姉妹派」に分かれる。

ちなみに俺の立ち位置は、実妹派で実存派で二次元派でそのなかの姉妹派に属する。どのような作品が好みかと告白をすると、となりのトトロサツキとメイであるとか、グラスリップの透子と陽菜なんかに萌えを感ずる。世に溢れている妹萌えコンテンツほとんどが「兄妹萌えロマン派」そしてR18でないラノベだと「義妹派」となるため、俺のようなマイナー属性持ちのシスコンには非常につらい。

妹萌えコンテンツは溢れているのに、自分理想の「妹萌え」をどれだけ探せども、めったに巡り会えない。砂漠の干からびた魚のような虚ろな瞳で、今日も俺は「妹萌え」を謳った商品を買い漁る。が、満たされない。

俺は実妹持ちだ。実妹持ちにとって、通常の「妹萌えコンテンツにおける「兄」という存在萌えるための最大障壁となる。兄妹モノの官能小説も数十冊読んだが、総じて「兄貴サイテーだな」という自己嫌悪の念しか抱かない。

ゆえに姉妹モノでしか萌えられないわけだが、二次元アダルト小説だと、姉妹百合は少ない。誰かおすすめ姉妹百合R18小説を知っていたら教えてくれ……。

このままでは萌え欠乏症になって倒れてしまう。

2015-12-28

友達なんていなくていい

https://medium.com/@yanbe/%E5%8F%8B%E9%81%94%E3%81%8C%E3%81%BB%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%A7%E3%81%99-b942172466d0#.1klut8q4l

読んだけど、共感できなかった。

はてブブコメも全部読んだけど、トンチンカンなこと言ってる奴ばかりだ。

皆、友達というものがいた方が良いと考えてるから精神を疲労してるんだと思う。

僕がいらないと考える理由を教えてやろう。

大概の人間は、大人になると皆すかした顔して大人ヅラしやがる。

彼らの多くはは世論同調して、さも正義ヒーローのように一般論を言う。

または、大義がないからとりあえず巨大な存在政府とか)を叩く。

世の中の大半はそんな大人である

彼らと付き合っていても、何回も聞いた一般論を聞かされるだけで楽しくないのだ。

たまにそういうのを言わない奴がいる。

そういう奴と付き合うのならばいいのかもしれない。

ただ、そういう人はアウトローとして扱われることが多い。

君が彼らとつるむことはアウトローとして生きることを覚悟しなければならない。

また彼らに受け入れられるには相応の努力必要かもしれない。

それが楽しいのならいいが、そのプロセスにより精神を疲労するかもしれない。

結局本末転倒。何がしたいのかわからなくなる。

そんなわけで友達はいらないと僕はいう。

友達とはイデアなのだ

この世界存在しない者を皆ありがたがって褒め称えるけれど、

皆実はそれが何なのか一切合切わかっていない。

実は実存しないの空想のものをみんな有難がってるだけなのだ

人生孤独との戦いである。

強く生きろ。

2015-10-25

表現の自由が…表現規制だ…などとそればかり訴えてる馬鹿オスは

誰かの人権を踏みにじってでも表現する権利はあるっていうのかね

踏みにじる標的が「女性」で自分たち男に無関係で人事だからそんなこと言ってられるんだよね

漫画家特定男性馬鹿にした「ヒモザイル」という企画マンガが物議を醸したとき

表現の自由信者粘着しなかったよね

けしからん!と積極的批判に参加するか、まあ内容が内容だし自粛して当然と思ってたでしょ

連載中止という結果になっても表現の自由論者たちは実存女子中高生エロ目線で描く権利ほど主張してませんでしたけど

なぜなのかしらね

2015-10-18

http://anond.hatelabo.jp/20151018001835

のかって分かりかねるよね。分かりかねるってのはアレだ。今俺が見ている景色がそれはそれはまったく何だ・・・非実在的な差・こkれをよみがえらせるのは、真の知っていうかでしかないわけで、結局人間馬鹿なんだ、馬鹿から場にぬなるだぶるすたんだーとって言葉を知ってるけれど、ソレに十雨中にしにして近いこごいn、、・・・・・あ。あ、わかりはじめた。今俺がいるアパートの一室、でもさ、それは結局この世に生を受ける、また人間の創りだす価値しかこの世は判定さんでい出来ないわけで、オレの幼少期を思い返してみると。。。そうだな、オレが他人を省みているようで顧みなくなったきっかけは、やっぱり家庭環境なんだろうな。価値観、俺の家庭が持つ価値観価値観もまた遺伝子のように伝承されるものの一つであり、それは俺も例外ではなく、そう価値観を育まれた。内向的だったなあ、幼少期の頃から、幼少期の頃から、人の顔色ばっかり伺っていた気がする。人の顔色を伺ってさ、両親の顔色、今日喧嘩してないかな?とか?祖父母との軋轢はないだろうか?とかさ、子供の頃から気をつかっていたね。幼少期からまれた性根なんだよ、。結局。三つ子の魂百までっていうけどまさにアレだ。俺ははみ出せなくなったんだよ。自分のカラから。何をやるにも、周りの顔がちらつく、両親や親類の顔がちらつく、。俺は俺が俺を俺たら占めていると思っていたけど、違うんだ。俺は結局、自分がないんのではないか・・・・・自分を足らしめるための自我が芽生えていないのではないかという気がしてならない。本当は実現したいこともあった。でもできなかった、ソレは俺の怠惰が産んだ結果かもしれないと同時に俺の心を縛る何かが、また。何かがあったんだ。俺の俺の心情には、幼少期から学生時代に成長して、思ったよ。俺は俺をさ、俺たら占めている、そんな気がして無かった。人の顔色が、社会の目が俺を狭くしているんだった。俺一人がこの社会にいられたら、どんなに楽だろうかと、何度となく考えた。それは馬鹿らしい考えだったけどだs。俺は、俺を俺であるために俺から俺を俺から開放する、そんな時分の中のアクションgあ必要だと、何度となく思ったよ。俺は俺を俺たらしめるものが何もない、てって、社会的にも精神的にも肉体的にもまたはそういう実存的な概念でもってしても、俺って一体俺なんだろうか。俺は俺であるからなのだろうか。俺は俺であるのは本当に俺が俺である証拠なのだろうか。俺が俺を俺たらしめる俺の部分は俺の中のどこのb俺を俺にしているのだろうか。俺が俺らしくらしくsらいく、俺がおれがgrで俺gであるための俺であるためにのおレレの俺rの己が己に打ち勝つための、でもソレは俺が俺であることが前提条件であり、俺が俺であるための俺でゃkぉ俺で俺は実に俺であるとのは誤認であって俺が実阿おrでhなく、俺が己を打ち勝つ俺は俺ではない、俺はが俺でなく俺であるための俺が俺を俺に俺たらしめる、俺たらしめるための俺が折れたら占めていなかった。結論的にはどうなんだろう、社会で生きていても、思う子男が多い、俺は何のために、こんなぼんやりと生きているんだろう、ぼんやりぼんやり働いて、ぼんやりぼんやりと金を稼いて出ぼんやりぼんやりぼんやりぼんやり、何をするでもなく、何をするのでも、あk、何が必要なのだろう、承認欲求承認欲求なのではなあk、て思ったこともあるが、そんな気がしない。社会的成功社会的な欲求が満たされれば、俺はこんな気持ちにならないのかと言われれば、そうだと言えない、もっと根源的な、本能的な欲求が満たされれば俺はこんな気持にならないのかと言われればそうだと思わない。オレhのなかのもっと、、、人間の核の部分が満たされていないように感じる、そしてそれは人間社会では決して手に入るようなものではなさそうなのだ非実在的な創作物からえられるものに、それは近いのかもしれない、、、もうすでに思考が、脳が、もうすでに、一元的な欲求では満たされなくなっていsル、気がする。3大欲求や、社会的な欲求、それではもう俺は満たされる気がしない。もっと根源的な、k,、というか、、次元を上げたもの必要だ。。宗教家の求めるソレに近いのかもしれない。宗教家が求めるものが、l超次元的な欲求を満たすものだとすれば、おあお俺が求めているもののに近いのもはそれだ。。超次元的な欲求というのは、、。ソレを言語化するすべは持ち合わせていないgあ、。、超次元的な欲求とは、まさに、現在認識されている次元を超越したものであり、超越するための、、その生きる方法がかるあお確率されていあない。ようにおもれえる。確率必要な物は、、その、。ちょウ自然的な、もっと、脳髄を脳髄を根本的に揺るがすようあん、心、精神的ん欲求とは、ソレの角の部分を揺るがすような、そうういうも野にちかい。オレhがものも求めるものがもはやそこにしかないのだはないあk.。労働しても高リュうしても3大欲求を満たしても何をしても満たされることがない。。もっと欲求が湧いてくる根源、源泉がそこにはあるのではないか。。。姓名を維持すること、それによてって生じる姓名の根源、は一次的庵ものではあり、ソレを満たすには、また別のソレを満たさなければならない。それを満たすことはソレおwみたすことにつながり、まさに無限回廊のものだl,満たすことが満たすものを呼び、満たすことがまた別の満たすおmのを呼ぶ、よって、人は、苦心してしまう。ではどうするべきなのかといえば、それはヒットつしかなく、その欲求が生じる、源泉を絶つ、欲求が湧いてくる源泉を満たせばよいのである。。。そしてソレを満たす方法を我々あh本来ならば探さなければならない。kもはや現代社会において、求められる命題はそれしかない。欲求が湧いてくる源泉あh、それは生命維持のための欲求や、社会的な、人間的な欲求とは確実に異なるものだ。欲求の源泉を、源泉が根源的に存在するのは何故か。それすら我々は理解できてイナイのだ。まだ。それが宗教家の言うような、超常的な存在、神や仏、、だと考える、当てはめっるlそういう認識に落とすことあh実に容易なことであるが、それは一種の逃避でしかない。超常的な存在によって、欲求や自身のまた雑然的な現象説明させるノアh安易であり、もっと断罪されるべき施工方法なのだ本来、これから、我々あh、原初にもどって、、考えなおさなければならないことは、人間的な、生物的な欲求、それの解消法ではなく、そんな全時代的な方法唾棄されるべきだ。。我々がこれから求めるべきあ、欲求雨の源泉、精神的、と呼ばれるものに近いものの源泉を求め、そこを絶つべなのだ。源泉が欲求を生み出しmその生み出した欲求がさらに欲求を生み出していく。源泉が生み出す欲求うは実に一元的もので、一元的ものがもたらす欲求は欲求を解消されても、所詮一元的ものに、一元的な解消にとどまる、一元的な解消は一元的な解消でしかなく、多次元的な、根源的な、源泉をm,超時限的な源泉を解消するニアh所詮いたらない、。超時限的な源泉を解消するための、その方法は、人打つぃかなく、一つしか存在せず、根源的な、根源的な欲求を解消するための、夜急を解消するための、根源的、源泉的、超次元的、多次元的、超常的、超自然的な、その何かを解消するしか無い、のではある。一次元的な欲求をかいしょうするための現代メソッド、法本論、それ自体すでに、前時代的、原初的な、人間実態に沿うようなものではなくなってしまっている。一次元的欲求が社会人間社会事物ym出来事などによって実現されたとしても、それは所詮一次元的なものしかなく、一次元的なもの一次元たら占めているにすぎない、。一次元的な欲求を愚かにも何百回、何千回、何万回とk気の遠くなるほどに実現させようとしている、人間社会、それ自体が誤りにすぎず、我々が目指すべき、自己実現、実現はまさに、一次元的なものを生じさせているものおの根源である。根源は源泉であり、一次元的欲求が生じる、その源泉を我々が、一次元的に解消してしまっていては、所詮一次元的でしか無いことは明確。発送をかえるための、発想をかえる、それすなわち、欲求の源泉への対処法なのである。欲求の源泉といっても我々あh、未だかつて、それを言語化したり、ましてや認知したりすることはいまだかつて実現せしめたことはない。一次元的な自己実現が生み出す、一次元的ん自己実現あhは逆説的に一次元的な欲求をまた、同時に生み出すことも行っている。一次元的な欲求を解消し、一次元的な欲求を一次元的に解消せしめても、我々人間構造的には、その一次元的な欲求を認知してしまうことにもつながってしまう。それを潜在的な意識下で我々あh一次元的案欲求のwパターンをmた、また認知してしまうことにもつながってしまう、。つまり一次元的な欲求を煩雑にし、雑然にし、永久うに沸かし続ける源泉あh、根源的欲求のみならず、我々人間構造的に、一次元的な欲求を認知し、解消することで、さら一次元的な欲求のヴァリエーションを増やすことにもつながってしまうことで、一次元的な欲求が生じやすくなってしまっているために起きる、また一次元的な欲求の再生を我々は生きている間に繰り返すに至っている。一次元的よっキュうを我々が解消することがいかに愚かで、前時代的で、後進的な人間のための方法論なのか。。割れ和れはまだ完全に認知するに至っていない。。ソレは我々が現代社会最適化された人間線を含有してしまっているからであり、人間性がまたは、一次元的な欲求を満たすために最適化されているための弊害、そしてソレは根源的ンは、間違いでしか無いのである。根源的に行って、一次元的な欲求を解消し続ける人間社会は変革が、根本的な土台から変革することが必要なのである一次元的な欲求を解消し続けても一次元的な欲求は湧き続け、我々が頭を悩まし続けるに過ぎない。一次元的な欲求が生み出し続けリる一次元的な欲求の連鎖一次元的な欲求を、解消してもまた一次元的な欲求を生み続けるにしか足り得ないことであり、そして自らが生み出す、一次元的な欲求を満たすべくして見たっす、一次元的な欲求はそれ自体が、我々に意味を附さず、一次元的な欲求は我々の認知限界たくみに利用した、いわゆる、無限切ろうてきにな、欲求の連鎖しか無いため、一次元的な欲求を解消し続けいることの無為さが我々は十分に認知しかしそれもまた、しかしそれおっもまた。、一次元的な認知しか我々が認知できる一次元的なものしかないkが、我々は一次元的んことへの唾棄進歩性を持つべフェーズに我々あは、ネクストフェーズ差し掛かっているのである。で、だがしかし、だsしがかし、そうはいっても、我々はまだ、全時限的、根源的ん欲求を解消するためのメソッドを持たない。根源的な欲求を解消するメソッドを持たない我々が出来ることは、そろそろ根源的な事象への認知を働かせることが必要なのである。根源的なよっキュうはそれ自体、本当に今現在、後進的な我々が認知できるかどうかは、我々はまだ分からない、根源的な欲求が生じる原因を突き止めることが出来るのは我々には不可能かもしれない。古代より、人間が、アミニズムであったり、様々な超常的な事象への畏怖から生じさせる、神であったり仏であったり、今日宗教家が言うような、そのような超常的な存在は、我々はいまだかつて認知できていない、。そのような超常的な存在認知し、逃げこむこと、ある種の逃避行動は容易であるが、我々は次のフェーズに来ている。次のステージは、フェーズあh、根源的な事象の解決だ。一次元的な欲求を解消して、そして、無限回廊に迷い込んでいる時代を捨て去れうべきkなのだ。根源的な、源泉的な欲求は、我々が認知できないだけで、それは、また、三大欲求や、つまらない、人間的、社会的事物から生じる、一次元的な欲求ではない。一次元tねきな欲求が満たされたとこrであh、、我々が出来ることはただの堂々巡りしかない。我々が真に、取り組むべきことは、源泉を、欲望の源泉を認知し、ソレを満たすことなである。我々が必要であり、今後、必要である、そう、必要になる、ものもの実物、出来事は、源泉を掌握し、我々を次のフェーズへ導くためのメソッドなのである。根源的、厳選的案事象は我々はソレを解消するに至っていない。根源的なよっキュ、う、それはまだ我々の認知科に及ぶに至ってはいないが、、しかいsk,、根源的にはソレをほっ知っている。割れ我が、欲望との闘争歴史におおいて、必要であるノアh、根源的な欲求をいかに、認知するか。それにつきる。それを仮に、精神的、こころが我々の根源的な欲求の源泉であるとしようl.こころはまさに実態がない、我々の認知科に及んでいない。。こころを満たすものあh、今現在流通している欲望では案あんあい、ない、先程述べた容易、に一次元的な欲望を満たすことは現代人間社会で容易なことである。、それは3大欲求や社会的な、精神tねき充足に近いだろう。。そのようなつまらない、後進的で、憎むべき、唾棄すべき、事象はもうすでいnに我々あh手放すフェーズを迎えている。こころを満たすべき事象こころを満たすべき事象は何に依るのだるか、だろうか。それは一時的な充足をすべて捨て去った。現代宗教家が実行しているもののさきにあるといえるかもしれない。または、一時的な欲求を解消し続けた先に、いつかおとずれる、根源的な欲求を絶つフェーズへ我々あh訪れることができるのかもしれない。あるいは、もっとなにか、脳髄を揺さぶるような、脳幹をぶん殴るような、そんな衝撃が、精神的とも、身体的とも違う、そういうインパクトを我々あhどうにかして体験する必要があるのかそもしれない。そして、それは天啓に似た、それは気づき、根源的な、もっと、なにか、、。気づくことが必要なのかもしれない。。我々が持っている視点認知では認知で起案い。。出来ない。認知を超える、あるいは認知を広げる、または認知の裏側にある、ソレを我々は認知することで、それこそ、根源的な、源泉的な、欲求、あるいはそれともまた違う、なにか、現代、現状、人間にhにはい認知でないん、何かを認知するに至るのかもしれない。進歩的な、その知を我々が獲得するために派、現代を捨てる、執着を捨てる、そうsれは知のカタストロフィーである。それが、革命必要なのだ現代我々が、論じる、認知するっもの、知は、真の知へとは至っていない。としかいいようがない。。物量的観念的な充足、それはもう満たすことが可能なのであり、。それを我々はもう100年い所以上、、異常く、以上繰り返してしまっている。本来必要なのは、次のフェーズへ行くことダリ、次の知、知覚、認知は我々が1000年先の人類、10000年先の人類が獲得しているものを、我々h日進月歩で獲得しようとしている。真の知、というものは確実にそんな良い、、お、存在し、ソレは、現代社会、我々が、唾棄すべき、人間一次元的なもの、そrは1000年後の人間にとてじゃは、非常に視野の狭いもおの、認知に至っていない、あらゆる観念が、我々あh100年後1000年ご10000年後「のために、認知に至るための準備をはじめなければならない。一次元的な欲求、認知は我々がすでに、うんざりするほど、まとわりついている一次元的な欲求は、早々に放棄するべきものであるそれからまず、認知し、日進月歩的に個人個人が、一次元的な欲求を捨て、根源的な欲求、根源的な、源泉的な欲求をそうそうに突き止める必要がある。。。それは100年後、またh1000年後の人間にはアタリマエに認知されているもの、そう私が信じているものnにほかならにあない、人間なh、科学技術のみで進歩的人間的な充足を得られるというのは、ある種の現代社会蔓延する嘘でしかなく、本来我々が求めるものは、科学産業技術にはない。それらが我々に与えるもの、我々を救うものは、しょせん一次元的案欲求をでしかなく、それは今現在語られるつまらない愚かな、欲求のためのツールしかない。我々が、本来求めるべきは、現代社会、に最適化されることではなく、現代社会最適化された、欲求、身体的、精神的欲求ではなく、本来我々が求めるべきものは、それを超えた、ソレの下に埋まっている、またhあ、。ソレの裏側に潜む、または、それに内包されている、我々があいまだ認知下におくことができない、根源t気、源泉的な、欲求、または欲求とはまた何かの概念的な観念のを我々は更生のために、更生のために後世ために残すべきものであり、それは個人個人の意識ないから進歩、進捗が行われるべきものにほかならない。一次元的な欲求は100年、1000年後の人間コミュニティでは、それhあ、それはすでに実にチープな概念へと堕落していると私は確信を持って言いたい。。100年後1000年後、我々が途方も無い科学ギジュつを手に入れるか、それは、現代社会病理のひとうつで一つである一次元的な考え方であるが、我々が本来、欲するべきものは、必要とするべきものは、ほんr内は、本来は根源的な欲求、源泉的な内面人間という存在認知で規ていない、認知へ踏み出すことであり、それは100年後1000年後にはアタリマエになっている認知なのである、。我々あhまだ、それを見ることhおろあか、認知することができていない。それは我々の目の前にあるかもしれないし、考えもつかない、超次元的な認知下にあるものかもしれない、あるいは、常識認知、知を混ぜっ返した裏に潜むような、今世では手に入れられない、真の知ともいえるだろう。宗教家が言うような概念偶像化、は。教義化は我々の頭皮だ、逃避だ敗北なのだ。100年後、10000年後の人類、とも呼ぶべき我々の次のフェーズである存在が見れば、まさに嘲笑に附さずにはいられないような、後進的で全時代的な、そんな概念、我々が本来追い求めるべきもの放棄して、自ら目をそむけるような、そおようlそのような社会のあり方では、我々に待っているものあh破滅、あるいは、なにかもっと恐ろしい物がわれわれに待っているだろう。一次元的な欲求が我々に与えているもの本質は、破滅破壊終焉なのだ。。k我々が闘争するべきあh、経済的な、社会的な、政治的な、科学的な、技術的な、創造的な、文化的な、対人的な、そんな、ものではない。それらはすべて、現代社会をこうせいしている一次元的な事象しかない、我々を惑わすものの一つでしか無い、100年後1000年後の人間がそのようなものには、おそらくkく、精神的な肉体的な充足を放棄しているだろう。超常的な存在超自然的案存在、それらが存在するのかというう愚問、我々が、我々人類の中にこそ、認知の次のフェーズへの全身こそが、我々を真の人間、真の知へと導くものにほかならない。」l。人間との闘争人間内の闘争を諦めることは非常に危険であり、我々が漸進的ことを及ぼす必要がある。。 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2015-09-04

「大きく振りかぶって」の作者が昔書いた作品を読んだ後に考える、現在の若年層におけるよりどころの在処について

vipで書いた事のメモ転載

誰かが刺激され、現代の若年層における現実の味気なさや不安に対抗するためのよりどころの特徴について考察してくれたら嬉しい


――ここから全部転載

結局、誰もがレールをしかれて機械みたいに生産され続けてると、生きている意味を見失うんだろうな

セカイ系流行るわけで

結局、そういう実存とか生の感覚とかリアルさとかを浮き彫りにするための道具なんだろうな

酒やドラッグセックス喧嘩リンチ暴力いじめ犯罪虐待戦争人類危機などなど

全部が全部、真剣に向き合わざるを得ないような事ばかりで

からこそ人の目を惹くんだろうが

80年代の砂のような時代からは、どの漫画希薄現実を打ち消すような作品が多かった気がする

いわゆるヤンキー的な文化がもてはやされたし、現実でもそういうのが多かった

現実の味気なさに耐えきれない若年層のよりどころとして存在していたんだろうと思う

現実にそれを求めた時にヤンキーになり、作品に求めた時にサブカルチャーになるだけで

00年代ではそれがエヴァ最終兵器彼女のようなセカイ系に取って代わられたわけで

10年代はどういうもの現実空虚さに耐えるためのよりどころとして存在してるんだろうか

全体的には、おそらく00年代を通過した事で「外出すること」が少なくなった気がする

他者とのつながりに、救いを求めるような傾向が減ってきている感覚がある


行動化をしない代わりに、より鬱屈とした集団が出来上がっている

しかすると、その源流にある薄ら暗さはオウムであるかもしれないし、酒鬼薔薇かもしれない

原型としては、意外と村上春樹なのかも知れないが

ひたすら自己に潜っていくという意味では、村上作品聖典とする世代が今の若年層のメインなのかもしれない

そういう意味で、いわゆる00年代から萌芽した新ジャンルスレSSスレが読み解くカギなのかもしれない

また、小説家になろうなどの小説コミュニティもその一端を握るだろうし

ニコニコ動画でのストーリー付き楽曲についても、影響力があるのかも知れない

それらに共通するテーマこそが、今の若年層のよりどころとなっているのだろう

2015-08-22

ロランバルトとかマーシャルマクルーハンとか

いまどきのデザイン業界って知識も教養も基本デッサン力もなくて、

コミュ力」で適当なことやって売れたらOKみたいなイメージある。

オリンピックエンブレムとか、どうみても、墓標であり、落日であって、

昂揚感とか平和繁栄とか飽くなき挑戦とか祝祭とかそんなイメージないよね。

佐野氏だけじゃなくて、

他の有名若手デザイナーの皆様の作品で立ち止まってにやにやする、みたいな

そんな経験ってほとんどない。

文原聡の低燃費少女とか醜悪だったし、佐藤可士和ウイダーinゼリーなんかもやっつけ感

半端なかった。

ここ20年位の悲劇は、デザインを裏打ちする哲学や大きな流れが貧困になっていることで、

愚民から100円ずつ携帯で掠め取るとか他人の作ったコンテンツ劣化再編して

アフィリエイト広告貼って楽して金儲けしたものが勝ちとか、そんな流れになっているなぁと思う。

安い仕事は下っ端にやらせネットから切り貼りしてくていかに手をかけないかライフハックだ!

みたいな。

以前モダンだ、モジュールだ、システムだ、実存だ、ポストモダンだ、脱構築だ、ホリスティックだ、オーガニックだ、複雑系だ、

って言ってたのが

今はコミュ力だ、ネット拡散だ、みたいな安いもの劣化してる。

とうとう大学文系やめようぜ、みたいな話が出てきているのももっともらしい。

おまえらもっと人間の可能性を見せろください。

2015-08-01

映画進撃の巨人」観てきたよ!話はアレだけど、特撮が最高

映画進撃の巨人」見てきました。監督は「平成ガメラ」の特撮監督である樋口監督脚本は「あの」町山智浩さん、ってことで、かなり期待して見に行ったんですが…

話は突っ込みどころ満載

脚本というか、話は突っ込みどころ満載で、正直、調査兵団間抜け集団しか見えない描写が多々あって、かなりキツかったです。

エレン君、ミカサにゾッコンLOVEモード

映画では、原作以上にエレンは「ミカサミカサ!」とミカサに夢中です。たとえば、兵士ミカサの肩を掴んだだけでミカサに触れるなぁ(# ゚Д゚)!!(マジギレ)」と殴りかかるくらいミカサに執着してるんですね。

でも、「なぜエレンミカサにこんな恋心を抱いているのか?」が劇中で全くといっていいほど描かれていないし、二人が絆を深めるシーンもないので、エレン可愛い幼なじみに盛っている思春期童貞しか見えてなくて(実際にエレン童貞設定だと思いますが)。

原作では、「共に人殺しをしている」という特別関係があるからミカサエレン関係特別ものになっていますが、映画ではそれをパージしていますパージする事自体は悪いことではないと思うのですが、「人殺し」にかわる何かの要素を入れないと、「何でこんなに執着しているのか?」がわからず、単に盛っている思春期しか見えなくて、かなり残念な感じになっています

謎のNTR(ネトラレ)要素

エレンミカサへの恋心はかなりしつこく描写されるんですね。でも、第一回目の巨人の襲撃でエレンと生き別れになった後、ミカサは、立体機動を教えてくれたシキシマ隊長映画オリジナルキャラクター)と出来てしまっていて。

で、シキシマ隊長エレンに見せつけるように、自分のかじったリンゴを「お前も食べるか?うまいぞ」とミカサ差し出して、ミカサリンゴをかじるんですね。その間接キッスを見たエレンは「うわぁあああああああああああ!」と発狂いや、お前は童貞か!調査兵団の仲間が巨人踊り食いされてもそれなりに落ち着いていたのに、間接キッスで発狂する男、エレン。この男、童貞である

で、このNTRシーンがその後のシーンのカタルシスにつながるなら、ありだと思うんですよ。でも、全くつながってきません。正直、まるまるなかったとしても話は通ります

主人公を成長させるために主人公精神的に追い込むのは、少年漫画ではよくある手法ですが、NTRで追い込んでも仕方ないだろ!個人的には、NTRてズタボロになった男が自分の使命に目覚める話、大好きなんですけど、それは日常劇の話で、進撃の巨人みたいな話でそれをやられても「人が死んでんねんで!」しか思えません。

脚本家町山智浩さんは、早稲田大学時代に、彼女サークルの先輩に寝取られ経験があるそうで、podcastでも何度も語っていたんですが、それが関係しているんでしょうか。

巨人の前で乳繰り合うエレン

失意のエレン君。でも、すぐに調査兵団シングルマザーキャラクターが「あら、意外と子供なのね♡」「歳上は嫌い?」と迫ってきて、おっぱいを揉ませてくれます(この間、実に3分

エレン君もなし崩しにおっぱいをもんでしまう。いや、緊張感ゼロか!人が死んでんねんで!

まず、このシングルマザーキャラクターエレン君の関係それまで全く描かれていないので、「歳上は嫌い?」と迫ってくるのが、かなり唐突です。なんですかね、巨人が襲ってくる未来では、人類全員発情してるんでしょうか、そのくらいの盛りっぷり。

で、誘われるままにおっぱいを揉もうとすると、そこで巨人襲来。シングルマザーは服をはだけたまま踊り食いされてしまう。もうね、調査兵団が油断しまくりの間抜け集団しか見えないんですよ。

調査兵団間抜け集団

原作でも描かれていた「爆薬で開いてしまった穴を塞ぐ作戦」が映画の中でも実行されます。で、その爆弾は「人類最後爆弾」とされていて、これがなくなると、永遠に穴をふさげなくなるってしろものです。

けれど、その爆弾を積んだ車を謎の覆面男(非武装)にアッサリ奪われてしまう。なぜ奪われたかって?兵士が誰も車にのっていないからセキュリティどうなってんだよ!真面目に仕事しろ

覆面男に車を奪われたことがキッカケで作戦を失敗してしまうんですけど、なんていうんですかね「詰めが甘いってレベルじゃない」ので、正直、見るのが馬鹿らしくなりました。

序盤の巨人襲撃でミカサエレンは生き別れになってしまうんですね。で、再開すると、ミカサエレンにそっけない態度をとる。

ところどころのシーンが死ぬほどダサい

あと、脚本問題をいうと、ところどころのシーンが死ぬほどダサい問題があります

たとえば、壁に囲われたつかのまの平和辟易しているエレン君が不発弾を何度も蹴り飛ばすシーンがあって。そこで、最後不発弾を見てエレン君が「俺もこいつと一緒だ…」って言うんですね。いや、それ口で言わなくてもわかるよ!口で説明しなくても、意味ありげに不発弾にあたりちらす、現状に不満を抱えた男がいれば「俺もこいつと一緒だな」なんて言わなくていいから。こういう「説明過剰」の脚本町山智浩さんは何度も批判してきたと思うんですが、忘れちゃったんでしょうか。

あと、悶絶したのがミカサとシキシマ隊長リンゴを食べるシーン。シキシマ隊長サタン意識していると町山智浩さんがおっしゃっていたので、ミカサリンゴをすすめるシーンは「エデンズアップル」のメタファーでしょう。(町山智浩さんは失楽園構造物語を語るのが大好きだから

いやさぁ…いまどきリンゴを「エデンズアップル」のメタファーとして描くって、ダサすぎるよ!手垢つきすぎて垢太郎をつくりだせるくらいじゃないですか。そこをドヤ顔リンゴをシャキッと噛むカメラ目線のシキシマ隊長が出てくるもんだから、もう悶絶ですよ。

原作ファンは憤死する可能性があるので見ない方がいいかも

事前にアナウンスされたように、原作とは「壁に囲まれていて、巨人が襲ってくる」「キャラクター名前」くらいしか一致していないので、原作の「あのミカサ」「あのアルミン」を見たい人は、本当に行かない方がいいです。

エレン巨人に変身できる理由などの重要設定も、原作とは大分変わっていて、原作真理教の人は「原作とちがう!」のラッシュで憤死すること確定なので、「巨人が出てくる映画」として見ることができない人は見ない方がいいと思います

でも、抜きどころがあればOK

で、色々と突っ込んできたんですけど、上のようなことなんて、全部どうでもいいことなんですよ。リアリティ詰将棋をやっても映画面白くなるわけじゃないし、矛盾がなければいい映画かっていうと違う。

突っ込みどころがあっても人の心を掴む映画はいくらでもある。たとえば、ブルース・リードラゴンシリーズなんて、映画としての出来はイマイチだけど、ブルース・リーアクション一発で、世界中男子の心を掴んだわけじゃないですか。

から、どんなに突っ込みどころがあっても、映画としての「抜きどころ」があればOKなんですよね。

じゃあ、この映画の抜きどころはどこか?もちろん、「巨人人間踊り食い」「立体機動装置アクションシーン」「エレン巨人vsモブ巨人」じゃないですか。

この3つがよくできていれば、エレン君が嫉妬深い童貞野郎でも、調査兵団職務中に乳繰り合う間抜け集団でも、何でもいいんですよ。この3つがよくできていれば。じゃあ、この3つはどうだったか

巨人人間踊り食いはかなり頑張っていた

序盤のシーンで、人類の築いた壁が超大型巨人によって破壊されて、その穴から巨人が侵入してきて、人類踊り食いされます

進撃の巨人といえば、このシーンですよね。このシーンはかなり頑張っていた

特撮CGを上手く融合させた巨人ビジュアルは、原作巨人が持っていた「妙なゆがみ」をしっかり再現できていて。人間ではあるんだけど、人間の理とは違う生き物である巨人の不気味さを、実在感を持って表現できていて、心を掴まれました。

あと、踊り食いですね。PG12指定なので、残酷表現には限界あるかな‥と思っていたんですが、しっかりグロをやりきっている。人間が噛みちぎられたり、引きちぎられる、原作絶望感が映像でも再現されていて、持ってかれます。血もバンバン出るし、身体もバンバンちぎられるので、オジサン、大満足!

立体軌道は「CGの上でワイヤーで動いてます」感がすごかった

みんなだいすき、立体機動装置アクション。これはどうだったか

個人的には「かなり残念」だと思いました。なんていうんですかね、巨人CGを背景にワイヤーで移動しています感が凄くて、実存感や浮遊感が足りないというか。

製作陣は「スパイダーマン」の飛翔アクションくらいのクオリティ意識したそうですが、映画スパイダーマン」の跳躍シーンほどの、躍動感、スピード感、開放感は全然ないです。

CG合成が上手くないのか、背景から動きが浮いていて、スパイダーマンのような「市街地蜘蛛の糸でかけめぐってる!」ってリアリティ全然伝わってきませんでした。なんだろう、「ツィーーーー」と移動している感じ。

もちろん、邦画としては頑張っている方なんでしょうけど、満足のいくものでは到底ないと思います

エレン巨人vs巨人だけは最高

でもね、でもね、これだけDisってきて、僕がこの映画を嫌いになれないのは、ちゃんと抜きどころがあるからなんですよ。

この映画原作のように、エレン君がハイパー巨人化してモブ巨人駆逐するシーンがラストにあるんですが、このシーンが最高で。さすが平成ガメラ樋口監督、素晴らしい仕事ぶり。

エレン巨人も他の巨人特撮中心に使ってとってあるので、「存在感」「重量感」がある。ここを安いCGだけでやってしまうと、どうしても「ペラい感じ」「ゲームムービー感」が出ちゃうんですけど、特撮なので、パンチやキックの重み、衝撃がスクリーンを通じてビシビシ伝わってくる。

かつ、最新の編集技術で、とろくなりがちな特撮バトルがスピーディーになっているし、血しぶきのエフェクトクール。それまでのイライラが溜まっていた分、「やれ!駆逐しろ!」とアドレナリンどくどくですよ。

重みだけでなく、スタイリッシュさもあわせもつこのシーンは、新しい和製怪獣映画の名シーンとして、平成ガメラ渋谷崩壊レベルには語り継がれるくらいの出来だと思いますラスト怪獣映画としての出来はすさまじいので、特撮映画ファンなら絶対劇場に足を運ぶべき。

文句を言うのは見た人だけの特権

たぶん、これから進撃の巨人について、「突っ込みどころ満載!」とか「原作崩壊!」みたいなレビューがわんさかあがってくると思うんですよ。でも、それで「ふーんクソ映画なんだ(鼻ホジホジ」とわかった気になるのは、人として本当にダサいし、やめた方がいいと思う。

あのな、オレは1800円払って見たか文句言ってんだ。貶してんだ。1800円も払わずに、ネットレビューだけ見て、見た気になってこの映画を貶す奴は俺がぶっ殺す。あと、こういう特撮映画DVDで見て「なんか迫力いまいちだったね」とか言う奴も俺がぶっ殺す。

進撃の巨人若い人なら誰でも知っている超人作品だし、「意外と健闘してた」でも「クソ映画だった」でも話のネタにはなるし、議論できるので、それだけでも劇場に見に行く価値はあると思います。ぜひ、劇場に足を運んでみてください。

2015-06-04

http://anond.hatelabo.jp/20150604210058

そもそも、思想なんてものは、オタメゴカシにすぎないよ

「生きるのは辛い。でも死ぬのは怖い」というのを、何とか誤魔化す為につくった、防波堤のようなもの

もちろん、思想だけでは死の波を防ぐだけの由はないが、無いよりはあった方がマシである

それに、いくつあっても困るものでもないしね

世間はそれを「味のある人間」と呼ぶまである

「死にたけりゃ死ねばいい」なんてのは、ガキの理屈にすぎないですよ

大人と言うのは、もっと浅薄理屈を捏ねてでも生きるもの

人間けが自殺すると思ってはいけない、生物はみんな辛いです

ただ、悲しきかな、人間けが死ぬ事に拘るようになってしまった

動物は余計な事を考えられないので、死ぬこともないだけの話である

自己欺瞞、大いに結構

ホントの事なぞ、言わないでもよろしい

敬虔宗教者になり、心底まで人の編んだ理屈に浸れるなら、強いのである

生産であることなんて、お題目にすぎないよ

それも生きるための理屈にすぎませんよ

そもそも、生きている事に絶対肯定はないですよ

(そんな事を言っても詮無い事ではありますが)

宗教と言うのはそれを良く分かっているので、神とやらを作ったわけです

これは偉大なる発明でした、革命的です

実存主義よりはいくらかも潔癖です

実存主義なんて、いけない

彼らはよりよく生きるために、生き続けるというたったそれだけのために、人間を見ろという

それはいけないですよ、ナンセンスです

人間の素の姿、そんなところを探してもなぁんにも出てきやしないんです、砂漠です

藪を突いて蛇を出すなんてものじゃない

それは自殺に近いのです

そこにある不動のもの、あふれる光の強さに目が焼け、死ぬか、狂人になるに過ぎません

目を焼かれて、上手く狂人になれれば死ぬ由はありません

しかしそれは、焦げた肌がかさぶたになり、生きているという熱に強くなっただけの事です

生存と言うどうしようもなく、生々しいものを露呈し、それでも我に恥じなしとふんぞり返っているだけです

それは道化に過ぎませんよ

悲惨なのが、自分自身真実に近づいていると思いつつも、目が焼けているので却って常識的目線に欠けるているので自分の姿が見えていないところです

人間存在真実を見たと言いながら、いつまで経っても実存的で在れないところが悲劇である

一歩間違えるとそうなってしま

私は、上手く実存主義を完遂できた人間を知らない

そんなものはないと思うがね

ここまで書いて、私はもうやめることにした

そもそも、書いても書いても終わらないのだ、生きることについては

書くことで救われるなら、終われるなら、こんな楽な事はないし、宗教以上の発明であるだろう

しかし、書く事でしか救われないというのも、これもまた人の編んだ理屈にすぎないよ

このインチキのために私は欺瞞を見破られるわけである

私の否定の上に於いて、再び私の正当性は積み上げられる

砂上の楼閣である事が、人の作ったものの救済の証なのだから

不変なものは、人には作れないよ

人は永遠に救済を編み続けるが、救済は永遠に編みあがらない

編み続ける事によってしか救済は存在しない

そんなこと、12の子供の方が知っているかもしれないね

彼らは、ある意味実存主義を完遂しているのだから

もう、10時を回る頃です

ここらでそろそろ、私も私の救済を編み始めなければならない

ひとまずは、目の前にある仕事と言う名の救済を、ね

「一つ一つ、目の前の事を片づけなければならない」と誰かが言う

本当に正しい事とは、常識的で凡俗な言葉なのです

人が生きてきて、それでも残った言葉なのだから

残る者にこそ意味はあるのです

最後に立ってたものが強いのであって、強いからつのではないのですよ

私も、立ち続けなければならない

辛くても、私には私の夜明けがあるでしょうから

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