はてなキーワード: 名誉とは
巷には就活用のノウハウが山ほど転がってるけど、どう考えても足りない所がある。
人事だって社内の様子は知ってるので「ああいう人が一杯居たら嬉しいな」「ああいうクズを社内に蔓延らせたら終わるな」という視点があると思う。
大抵の会社にいるその「クズ」は「働かない理由を何とか見つけてクビにされない程度にのらりくらりと生きたい給料泥棒」とか「社内政治が第一目的でその為なら会社の転覆をも厭わないアホ」とか「周りの士気を削ぐのが生きがいなナルシスト」とかでそいつらを増やしたくないのは間違いない。下手にクビを切れないこの社会では、そんな奴らばかり入れたらドロ舟の崩壊は進む一方だ。
でもそういう「クズ」達も新卒の時は目を輝かせて「有能な私を雇えば御社の業績が良くなること間違いなしです」と喧伝して入ってきた訳で、異口同音に同じ事を言う新卒の言葉から本物を発掘するのは難しい。
だから「クズ」が時々見せる兆候には目ざとい。「本心では全く働きたくない」「何とか騙して給料だけ貰えればいい」こういう思考が垣間見えたら即祈る。そういう思考をするのは自由だけど、毎年1000万近い大金を会社が拠出してまでホワイトカラーとして養ってやる理由にはならない。そもそも働く気のない人に頭脳労働は任せれないので、自ずとそういう人は肉体労働に就いてもらうことになる。
「クズ」は働きたくないでも高い給料は欲しいという思考で生きてるから、そこから捻り出てくる戦略は能力アピール。学生時代にどんな能力や知識を身につけたかを面接で得意げに話す。バスケ部の主将だったとかなんかの論文で賞を貰ったとかバックパッカーとして漫遊して珍しい知見を得たとか。
こういう話をするのはあんまり良くない。
企業は「どんな高い能力を持っているか」ではなくて「会社のためにどれだけ力を発揮してくれるか」にしか興味がないから。
その視点のない「クズ」候補は延々と自分のレベルの高さの話しかせず、それでどういう働きをしたいかについての視点の話は全くしてこない、働きたいと思ってないからそんな話ができない。
まぁ人事はそういう「クズ」を避けるためのフィルターを持ってるから、そのフィルターを抜けるよう考えないとダメ。クズは過去の経験や名誉を武器にしてくるから、同じ戦略を取ったら疑われる。
結局は「就職後もサボらず会社の利益を考えて行動し続けれます」という言葉にいかに説得力を持たせるかというプレゼンテーション勝負だと思って掛かったほうがいい。
・「たまたま自分の子供が(殺人)を犯しただけで。自分達家族も大変な目に遭った」
・「被害者さんも大変だろうが、こっちだって正直たまったもんじゃない。いや本当に」
・「何年も前のイキがってた頃の息子の手紙をテレビ等でいまだに出されて批難される事には、非常に憤りを感じている。今は息子も変わっていると思う」
・「無期懲役の判決をそれを不服として運動するのって、どういう事なんですかね。死ねって事じゃないですか。
少年法でも分かるように『罪を憎んで人を憎まず』ってのがちゃーんとあるんじゃぁないですか。」
・「(自分の息子が被害者女性と)セックス(死姦)をしたというが、それもどうかも分からないし、ちゃんと調べて欲しい。こっちとしても名誉に関わる事だし」
・「今までは『被害者、被害者』でやってきたけど、これからは加害者もPRしていくのが正義なのかな、と。主張していく事で勝つかどうかという事だろうし」
☆アーティストトーク「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」at 横浜美術館レクチャー・ホール, 2012.02.11(Sat), 15:00-16:00。
横浜美術館で松井冬子さんの講演を聴いた。彼女の個展「世界中の子と友達になれる」の関連イベント。
11時ころ会場前に行ってみたらスタッフの方(美人)がいたので話を聞くと、「どのくらいの方が集まるか何とも言えませんが、現時点ではどなたも並んでません」とのことで、とりあえず個展を鑑賞。同行した絵描き女子はたいへん楽しんだようだけど、私はよく分からんかった。むしろ常設展に感動。あ、でも松井さんの『ただちに穏やかになって眠りにおち』は印象に残った、私は宮沢賢治の『オツベルと象』が大好きだから。
13時ころ会場の様子を見に行ったらもう150人くらい並んでてびっくりした。慌てて最後尾に並ぶ。老若男女が並んでる。一人で来てる人も多い。並ぶときに、スタッフの方から「レジュメ」と称される紙が配られたのだけど、松井さんのプロフィールしか書いてなくて残念。
講演タイトルは「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」。この奇妙なタイトルは、松井さんが東京藝大で博士を取るときに提出した論文のタイトルだそうで、講演ではその論文について解説してくれるということだった。
とりあえずビジュアル的に面白い。つま先から太もも全体まで包む黒いエナメルのロングブーツ! テカテカしている。もともと脚がすごく長いのかヒールがすごく高いのか両方なのか知らないけど、やたら大きかった。
松井さんの話によると、彼女は博論を2006年に執筆して、2007年2月に教授陣の前で発表したのだけど、発表の際に高熱を出していて上手く出来なかったとのこと。今回はその時のリベンジをしたいという。
で、講演が始まったわけだが、うーん、日ごろ自分のプレゼン下手を痛感している私としては、非常に勇気づけられた。こんな下手な講演が世の中にあるのか! 私の前に座ってた中年女性が、講演中に隣の人と「おもしろくないね」と言っちゃうくらいである。
講演タイトルを見ても分かるけど、松井さんは基本的に、いわゆる「中二病」全開な文章を書く人だ。絵のタイトルも『陰刻された四肢の祭壇』とか『終極にある異体の散在』なんて感じだし、個展の絵にもそれぞれ解説文がついてて、それが全部同じような調子で長々と書かれている。まあ、幽霊とか臓物とかを描くくらいだから、「中二」なのは文章だけの問題じゃないと言われるかもしれないけど、それはともかく。
不必要に硬い語彙を好んで使い、しかもそれぞれの言葉の組み合わせ方が少しずつ適切な用法とズレていて、さらに主述関係や修飾-被修飾関係があやふやなので、全体として意味が不明瞭。そんな文章を、文字情報なしで口頭で早口で(つっかえながら)読み上げるのだから、分かりやすくなるわけがない。
と、つい悪口が長くなったけど、私の理解した範囲で要旨をまとめると、
~
他者との接触は私に痛みをもたらすよね。
でもそれを芸術作品に託すことで、目に見える形にして、人に伝達できるのでは。
そういう試みが視覚芸術のなかに確かに存在しているし、松井自身の制作も、その系譜に連なるんだよ。
~
こんな感じでした。
この系譜の探究として、河鍋暁斎とかダミアンハーストとかクリスチャンボルタンスキーとか色々な作品が挙げられ、分類され、その流れで自作解説も行われる。(ちなみにその分類の名前は「攻撃性自己顕示実践型/受動性自己犠牲変容型/局地的領域横断型」。一貫した中二感。)
余計なお世話だけど、「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」というタイトルでは全然内容を表せてない(うえにそもそも日本語としておかしい)ので、まともに修正するなら「痛覚の覚醒を企図する視覚芸術の系譜」ってところでしょうか。
私の記憶する限りでは、「不可避」の部分が講演のなかに出てこなかったので、もし質問コーナーがあったらお尋ねしたかったのだけど、むしろ講演の後半は時間が足りなくなって、松井さん自身の話さえだいぶ端折られてた。残念。
ちなみに私の同行者は、「全体としては難しくてよく分からなかったけど部分部分は面白かった」とのこと。例えば、ある作品に描いた孤独な幽霊が、少女コミックの主人公のようなものだという話。少女が運命の相手に出会うために奇跡を待つのは、逆に言えば奇跡なしには出会いが存在しないということであって、そこには極めて近代的な「ディスコミュニケーション」があらわれている、とか。
私は正直、講演の内容自体にはこれといった感想を持てなかったんだけど、にもかかわらず彼女に対する印象は大きく変わった。
松井さんの文章は、中二病的だ。見た目には間違いなく中二の文章だ。でも、彼女がそういう文章を書く理由は、いわゆる中二病とは大きく違うんじゃないか。講演を聴いてるうちにそう思えてきた。
全力でカッコつけて(実はカッコ悪い)文章を書き、しかもそのカッコつけた自分に酔っているのは、自意識過剰の中学生だ。
一方、松井さんは、無理やり日本語をねじまげて珍妙な言葉づかいをすることを、ある意味でむしろ強いられてるんじゃないか。そうでもしなければ、彼女が何を言っても「美女の言葉」として消費されてしまって、結局何ひとつ表現することができなくなってしまうんじゃないか。
彼女は、整った顔立ちの、いわゆる美人だ。私は、平たく言えば、「どこかで過剰に武装しないとなめられてしまって、男と対等に見てもらえない、それが嫌なのかもなあ」、と思った。感覚的な話だけど、堅苦しい言葉をたどたどしく話す彼女を見ながら、思ったのだ。
彼女は講演の中でも「メスしか描かない」と言っていたし(尾長鶏はオスだけどドラァグクイーンのイメージなので名誉女性と考えているとのこと)、ネット情報によるとフェミニストの上野千鶴子さんのファンらしいから、性に関する問題に強い意識を持っているのは確かだろう。
ただまあ、こんなふうに分析されるのは、たとえこの分析が実情を言い当てていたとしても(いやむしろ言い当ててていればこそ)、松井さんの立場からすれば不快以外の何物でもないだろう、とは思う。
残念ながら私には、松井さんの作品自体をフェミニズム絵画として論じるだけのモチベーションも能力も無いけれど、そういう見方もできるのかもしれないね。というかできるんだろうね、間違いなく。
長くなったついでに一つ。
私見では、松井さんは「言いたいことが山ほどあるけど上手く表現する技術がない人」だと思う。だからあんなに自作解説をしたがるのだ(いまネットで少し松井冬子評を探してみたら、彼女の自作解説にヘキエキするという人は一定数いるようだ)。 結果、彼女のファンは、「よくぞそれを言ってくれた!(技術はともかく)」というタイプの人と、「グロテスクな絵を描いて、博士号を持ってる、美人すぎる日本画家! おもしろい!」というタイプの人に分かれることになる。あとまあ、「幽霊大好き!グロ大好き!」という人もいるのかもしれない。サブカル?
私自身は、特に彼女に同調するわけでもなく、外見や肩書に魅力を感じるわけでもなく、幽霊が好きなわけでもない。そして彼女の文章を容認できる忍耐力もない。
それは例えば「やりがい」とか「社会的貢献度」とか「名誉」とかだけど、どうせ君は全く聞く耳持たずに全否定するでしょ?そういうことを言ってるんだよ。
なんで好きになったんだろうと東方神起ばりに思う。
嫁がいて、地位も名誉もあって、誰からも好かれて、きっと女の子もよりどりみどり状態のあの人を
なんで好きになったんだろうと思う。
興味本位で顔突っ込んで、本気で好きになって苦しくなった。
他の人を2人くらいおいておくことでその人のことを考える時間を散らさないと保てなかった。
最近マシになってきたかもなんて思っていたのも、思いが薄れたのではなくて、そう思う時間を意図的に作らなかっただけ。
濃度は一緒だった。
私が教えた本を、今読んでる本ですって投稿してるの見て喜んで自分が馬鹿だと思った。
私が教えた歌を、今聴きたい曲ですってつぶやいてるの見て喜んで自分が馬鹿だと思った。
きっとこの人はおもしろがってると思うと、本当に心の底から自分が馬鹿だと思った。
携帯を一日中気にして、もう今度返事が返って来ても絶対に返事しない、と勝手に心のなかでは決めて、
いざ返事がきたらあわてて返信する自分が、気持ち悪くてムカつく。
http://anond.hatelabo.jp/20120130150137
元増田です。友人のAさんにおもしろい指摘を受けました。
元増田 「えっ」
友人A 「えっ」
元増田 「えっ」
友人A 「えっ」
なるほど!!!
それでは、問題の画像はあくまでミッキーの着ぐるみを描いたものであることが文脈上明らかであるとして考えてみます。殺害表現でないとすると、名誉声望保持権を主張するのは無理筋に思えます。すると、同一性保持権侵害の線で押してくるのではないでしょうか。
(同一性保持権)
第20条
著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。
同一性保持権侵害を構成するには、その行為が著作者の『意に反して』いる必要があります。ミッキー(の映画(の原画))の著作者は当然ウォルト・ディズニーだと思いがちですが、実はこの点はずいぶんと争点になっていて、正直なところ「結局誰が著作者なのかよくわからない」んですよね。ウォルト・ディズニーは当然ながら、ウォルトの盟友アブ・アイワークスあるいは二人の共作、はたまた二人の作り上げたディズニー社の団体名義だとする説もあります。
しかし、彼らの意向は明らかです。彼らは口を揃えてこう言ってきました(たぶん)。
『中の人などいない!』
誰が著作者であるにせよ、中の人など決していないんだ、ディズニーランドに行くと笑顔で迎えてくれる彼はあくまでミッキーという生き物であって着ぐるみではないのだ。そういう世界を彼らが作り上げてきたことは明白です。「中の人などいない」ことが、ミッキーマウスという著作物を構成する重要なアイデンティティである。だから絶対に首なんか飛ばない。これが主張として認められれば、ミッキーマウスの着ぐるみの頭を吹っ飛ばすという表現は同一性保持権の侵害となるかもしれません。
でも、どうでしょうね。
まず、視覚的に表される「絵柄」ではない抽象的な要素については著作権が認められないという判例が多くあります。「中の人などいない」はこれに該当する可能性が高そうです。また、着ぐるみを作って売ったならともかく、着ぐるみのイラストを描いてそのイラストの頭を吹っ飛ばしたわけですからね。ミッキーマウスの著作権は既に切れているとすれば無償で着ぐるみを作ったり絵を描いたりすることは問題ないですし、あとぶっちゃけ、彼らが何と言おうと、ディズニーランドにいるミッキーが着ぐるみであることは悲しくも事実なのですから…。
この辺、本職さんの本気の弁論をぜひ聞いてみたいところです。
というわけで、あれは着ぐるみの頭が吹っ飛んだだけだよ!と主張してみるだけで、なんとも馬鹿馬鹿しいメルヘンな問題になることが判明しました。こんなにメルヘンな裁判はそりゃあ是非とも見てみたいわけですが(きっと世界中が大注目するでしょう)、怒りのメールを送ってきたのがディズニー社であるにせよディズニーファンであるにせよ、恐らくはあの画像を「ミッキーの頭を刎ねて殺害している場面」と受け取ってのことだと思います。とりあえず落ち着いていただく&名誉声望保持権侵害の疑いを回避するためには、首が飛ぶ前後の文脈をきちんと公開した上で、「あれは着ぐるみなんだよ」と説明するとおもしろいよいのではないでしょうか。
その通りですね。
ただ、件の同人作家さんが『キャラクター(ミッキー)に対する名誉破損の表現が含まれてるとかで、凄く責めて来ている。』とツイートしていることから、著作権ではなく著作者人格権を根拠としているのだろうと推測しました。
あと正直なところ、よく言われる「日本におけるミッキーマウスの著作権は一部保護期間が終了している可能性」についての真実がよくわからないんですよね。その辺り上手くアレすれば、著作権根拠でもいけるのかもしれません。
いやちょっと待てw
一つ上で書いたことは今回のディズニーの件とは関係ないですよ。まず、著作権が存続している間は著作者人格権どうこう以前に著作権上の問題が当然存在しますから、同人活動は決して合法ではありません(多くは親告罪ですが)。また、商業キャラを用いて利益をあげた場合は商標権の侵害となるケースがほとんどだと考えられます。
一方で、著作者人格権を根拠として商業/非商業問わず創作活動を制限するケース、つまり「俺のキャラの性生活を勝手に描くなんて侮辱だ!やめてくれ!」というような法的主張はあまり聞かない気がします。その辺まだちょっと詳しくないですが(※1)。著作権や商標権のみならず人格権についてもきちんと主張しておかないと、何十年後か、著作権の切れた自分のキャラクタが合法的に好き放題レイプされてしまうかもしれません。
また、あくまで一般的「エロ」表現の話をしたのであって、「首を刎ねて殺す」という表現は全く別ですよね。
他人の著作物を虐殺するなど常識で考えて許される表現ではない、どうあれ侮辱的な表現であると私は思うのですが、その認識がどんどん薄らいで今回のように「ディズニーが訴えないならミッキーの首を刎ねても悪くないよね、作者さん叩いてごめんね」なんてめちゃくちゃな認識が広く蔓延してゆくと、いつか本当に「自分の作ったキャラクタの首を刎ねられたくない権利」が消滅してしまう可能性も考えられるのです。だから我々は、断固として「そういう問題じゃねえ!」と叫ばなければいけません。
ありましたね。
性描写がない作品を元にして、性描写を内容とする作品を作成、販売したことを理由に、同一性保持権の侵害を認めたケースがあります(東京地判平成11.8.30「どぎまぎイマジネーション」事件)。被告は、同人文化の一環としての創作活動であり、違法ではないと主張しましたが、退けられました。
同一性保持権については著作者の『意に反して』とされ、著作者の主観的意志がキーポイントになります。著作権者死亡後の争いにおいては、その意志を推測するしかありません。故に、うっかり事実上黙認したまま死んでしまうと、別に意に反してなかったよね!という既成事実が形成され、同一性保持権を失ってしまう可能性があるでしょう。
一方、名誉声望保持権ではその名の通り著作者の『名誉又は声望を害する』行為について禁じています。よって、著作者の死後、該当行為は特に名誉を傷つける行為ではないという認識が一般的になれば、社会的状況が変化したと見なされ権利が消滅する可能性があります。
しつこいようですが、知財関係の権利はきちんと行使しないで黙っていると、権利を失ってしまうということが往々にしてあるのです。
基本的にはアウトですよ。
但し現在、著作者の遺族が名誉声望保持権を根拠にエロ同人を訴えて勝てるかどうかは疑問です。
第60条
著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなつた後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない。ただし、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は、この限りでない。
『その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合』という表現、この部分で争うことになるわけですが、エロ同人は事実上黙認されるものになってしまったということを『社会的事情の変動』とみなすことができるかもしれません。
つまり、皆が皆事実上黙認していたがために、「勝手にエロ同人を創作されることを嫌がる権利」が社会的に消滅してしまった可能性があり得ます。
また同様に、著作者が生存中にこのような形の権利侵害を提訴していなかった(事実上黙認していた)ことを根拠に、死後においても著作者の意を害していないものと判断される可能性もあるでしょう。
知財関係の権利というのはこのように、本来持っていたはずの権利でも、きちんと主張してゆかないと消滅してしまうことがあるんですね。
今回の騒動をみると、同人活動は当然認められた権利だと思っている人がずいぶん多いですね。今も昔も、ずっとグレーゾーンな行為だというのは常識だと思っていたので、なかなかに衝撃的です。
かもしれない。
この騒動、「ディズニーが訴えないなら問題ないな」的な空気で終息しそうな気配だが、そういう問題じゃないよというおはなし。
まず、著作権とは別に存在する権利、「著作者人格権」というものがあります。
著作者人格権(ちょさくしゃじんかくけん)とは、著作者がその著作物に対して有する人格的利益の保護を目的とする権利の総称である。著作物には、著作者の思想や感情が色濃く反映されているため、第三者による著作物の利用態様によっては著作者の人格的利益を侵害する恐れがある。そこで、著作者に対し、著作者の人格的利益を侵害する態様による著作物の利用を禁止する権利を認めたものである。
今回の問題では、日本においてミッキーの著作権の一部が既に切れている可能性を以て適法であるとする意見が散見されますが、実はこの著作者人格権に関しては、保護期限に関する規定が存在しません。
ベルヌ条約6条の2(2)が著作者の死後における著作者人格権の保護を要求していることから、著作者の死亡後も、著作者が存しているならば著作者人格権の侵害となるような行為を禁止するとともに(60条)、一定範囲の遺族による差止請求権や名誉回復措置請求権の行使が認められている(116条)。
つまり、ミッキーに関する著作者人格権は現在も法的に保護されているということになります。
著作者人格権として具体的に保護される権利として、この2つが挙げられます。
同一性保持権(どういつせいほじけん)とは、著作者人格権の一種であり、著作物及びその題号につき著作者(著作権者ではないことに注意)の意に反して変更、切除その他の改変を禁止することができる権利のことをいう(日本の著作権法20条1項前段。以下、特に断らない限り、引用法令は日本のもの)。
著作物が無断で改変される結果、著作者の意に沿わない表現が施されることによる精神的苦痛から救済するため、このような制度が設けられていると理解されている。もっとも、元の著作物の表現が残存しない程度にまで改変された場合は、もはや別個の著作物であり、同一性保持権の問題は生じない(「パロディ事件」(第1次)、最高裁判所判決昭和55年3月28日)。
著作物の改変を伴わない場合でも、その利用態様によっては表現が著作者の意図と異なる意図を持つものとして受け取られる可能性がある。そのため、著作者の名誉又は声望を害する方法によりその著作物を利用する行為は、著作者の著作者人格権を侵害する行為とみなされる(著作権法113条6項)。例として、美術品としての絵画を風俗店の看板に使用する行為などが該当するとされている。
要するに、著作物に対し、著作者が傷つくような変なイメージを付けたり改変したりしてはいけないよ、ということですね。
知財関連の権利、特に著作権に関する諸権利については、多くが親告罪であることが知られているかと思います。つまり、被害を受けた権利者が提訴しない限りは犯罪とならないし、賠償請求すらもできない。だから、ディズニーが提訴しないなら問題ないよね、という意見。これも散見されますが、誤りです。
実は、著作者人格権の侵害については刑事罰が定められており、しかも著作者死亡後の名誉声望権侵害は非親告罪なのです。(※下線部追記:著作者の生存中は親告罪です)
第60条
著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなつた後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない。ただし、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は、この限りでない。
第120条
第123条
第119条、第120条の2第3号及び第4号、第121条の2及び前条第1項の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
つまり、『その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められ』ない場合、ディズニー社の意向に関わらずお縄になるリスクがあるということです。
まぁ、実際にディズニーの意向を無視して逮捕されるかというとこれは怪しいですね。そういうケースを聞いたことがありませんし、実際のところ大丈夫なんじゃないですか。しかしだからと言って、これが合法でクリーンな行為だなんて事は決してない、というのは当然のおはなしですね。あえて非親告罪とされているというのはそういう意味です。
著作者人格権は、著作者の死後、著作権保護期間が切れた後も保護されます。作者が死んで著作権が切れているからといって、作者の意に反してキャラクタを侮辱する自由は決して「当然認められる」ような権利ではありませんし、刑事告発される可能性があります。首を刎ねるという表現が『著作者の意を害しない』と言える理由を明確に説明しなければいけないでしょう。
アニメキャラクタのファックを描くことはもはや黙認されてしまい実際の権利行使もそう簡単にはいかない状況ですが、社会通念上「殺害」という表現が「ファック」以上にキワドイのはもちろんのこと、首を刎ねるというのは特に侮辱的表現であるとされる可能性が強く考えられます。
作者は「悪いことをしていない」と言える明確なロジックをもって、それができないなら「悪いことをしている」という自覚と覚悟を持って、同人活動をした方がいいですね。認識が甘すぎます。
ディズニーからの正式な抗議ではなかっただろうことは想像できます。
著作者死亡後の差止請求権は著作者の孫までの遺族にのみ認められており、ディズニー社にはその権利が存在しません。また、今回のような場合は出版権にも関係しません。
(差止請求権)
第112条
著作者、著作権者、出版権者、実演家又は著作隣接権者は、その著作者人格権、著作権、出版権、実演家人格権又は著作隣接権を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる。
(著作者又は実演家の死後における人格的利益の保護のための措置)
第116条
著作者又は実演家の死後においては、その遺族(死亡した著作者又は実演家の配偶者、子、父母、孫、祖父母又は兄弟姉妹をいう。以下この条において同じ。)は、当該著作者又は実演家について第60条又は第101条の3の規定に違反する行為をする者又はするおそれがある者に対し第112条の請求を、故意又は過失により著作者人格権又は実演家人格権を侵害する行為又は第60条若しくは第101条の3の規定に違反する行為をした者に対し前条の請求をすることができる。
故に、ディズニー社からの要求としては法的根拠がなく、不可解です。(繰り返しますが、それとは別に誰かから刑事告発される可能性はあるんですよ)
ディズニーから訴えられるとすれば、商標権についての争い=商業的活動に限られると思われ、無償での同人活動には民事では関与できないものと考えられます。
2chのまとめサイトに自分の名前がおかしいということを自虐ネタにしたとされるスレッドがまとめられていた。
と名前をさんざんバカにしていた。
これが①ただのネタで、「小麦 拉麺」という人間はこの世にいない場合、
もしくは②小麦 拉麺が実在の人物で、特定されることを恐れずに、自分の名前で笑いを取りたいと思ってのことだった場合は問題ない。
問題なのは、③小麦 拉麺が実在の人物でありかつ、書き込んだのは本人じゃない場合だ。
なぜそんなことをするのか?
イジめるためだ。
「お前の名前って、世間じゃこう思われてるぜー」と言ってまとめ記事を見せれば「小麦」は傷つくだろうし、
最初に「小麦 拉麺」の名前を書いた奴を確かめようにも、名誉棄損によるプロバイダへの情報開示請求も難しいと思われる。
他人になりすまして、卑猥なことや非人道的なことを書けば名誉棄損だろうが、「笑うなよ」とか当たり障りのないことでは名誉棄損は難しいだろう。
なんという酷いイジメ。
ボクシングがとても盛んな国があった。
全ての国民はボクシングが出来るべきであるとされており、ボクシングのファイトマネーが国民の最大の収入だった。
野良の賭けボクシングも盛んなのだが、国営のボクシング大会に出場する事は最大の名誉とされていた。
国営の大会に出場していないボクサーは一人前として認めてもらえない風潮もある。
その国営ボクシング大会は「永久契約」したボクサーとセコンドのペアでないと参加出来ない。
その場限りの契約で野良試合をしたりして、それなりのランキングに安定していた。
たまに気のあうセコンドとしばらく契約していたりもしたが、基本的に気ままな生活をしていた。
そのセコンドと出来るだけ長く契約を続けたいと言った。
するとセコンドは次のような用件を提示した。
・このまま永続契約しないのであれば、契約は終了とさせてもらう。
・永続契約をした場合、両者の同意が無ければ破棄する事が出来ない。
・セコンドの要求する試合数を消化する必要がある。
・他のセコンドとの契約を禁止する。
・以上の全てを守らなければならず、どれかに不備があった場合セコンドは契約終了を申し出る事ができ、
ボクサーの都合で契約が打ち切られた場合は、セコンドの収入を保障しなくてはならない。
セコンドの条件に沿った試合数をこなし、ランキングも安定してきたが
試合したくてたまらない気分なのに休養を強制されたりする日もあった。
丁度フリーのセコンドが余っていたので、話してみると意気投合したので
契約していたセコンドは、青年の行いは許されるものではないと憤慨した。
青年は野良試合のおかげでストレス発散になった、そのおかげでランキングが上がった
と言い訳をしたが、受け入れられる事は無かった。
フェミ男ってそもそも
「ボクだけはよい男だよう。ぷるぷるぷる!」っていうスライムくんでしょ。
童貞でマザコンで精神的な性欲や承認欲求を満たすためにフェミ女に寄って行って
叱ってもらったり名誉女性として認めてもらったりするたびに歓喜に打ち震えつつパンツの中に漏らしてる(EDなのでフニャフニャのまま射精)みたいな例のあいつら。
(その構造を半ば以上自分からオープンにしつつやってた有村さんの鬼才ぶりは評価されるべき。他のスライムくんとは格が2つか3つは違う。)
フェミ女は本当はああいうよわっちい男は全然好きじゃないし軽く見てるけど一応恭順を示してるからボチボチ認めてはやるよ、うぜえけどな、みたいな関係性。
本心のところ、フェミ女さんたちはああいう頭とメンタルの弱い男には敵に回った上でサンドバッグになってほしいと思ってるよ。味方じゃなく。
まあそんなんじゃないフェミ男って言うのもどっかにはいるんだろうけど、ネットでフェミ女にくっついて回ってるのはスライム君タイプしかおらん。
厳密に言うとあいつらはフェミですらないと思うなあ、思想っぽいものの影で個人的な欲求を偸んでるだけで。それはフェミ女もそうだけど、満たしてる欲求がまるっきり別物。
http://anond.hatelabo.jp/20091018173611
http://anond.hatelabo.jp/20110612211158
ここ数年、ほれた女と付き合いたいというリビドーだけで突っ走ってきたが、
紆余曲折あったあげく、学生時代のバイト先の後輩と、10月くらいから付き合いだした。
初めての彼女になるのだが、かつて想像していたような高揚感や胸の高鳴りはない。
ただひたすらにいとおしいく、大切にしたいというか、
さて、ここ半年くらいの話。
会社での人間関係に嫌気が差していたので、仕事に打ち込むことで気を紛らわした。
仕事で成果を出して名誉回復をしたいというのももちろんあったが。
もともと、上司には認められていたので、メンタル的に問題なさそうだとわかると、
仕事はすぐさま降ってきた。
古いまま放置されていた業務マニュアルの改訂や、英文ドキュメントの翻訳といった
同僚たちからは何かに憑かれていると言われるくらいだった。
そんななかでも、女の子と遊ぶのは欠かさなかった。
というよりも、ムリにでも遊ばなかったら精神をやられて廃人化していただろう。
平日の終電で女の子の最寄り駅に行き、朝まで遊んで始発で出社、
短い仮眠を取り、栄養剤を飲んで何事もなかったかのように仕事に向かう。
体重は10kg近く落ちた。
初対面の相手に対して、抱き心地がよさそうとか、
おおよそ昔では考えられなかった想像をするようになったのもこのころだ。
以前は好みだったスレンダーな体系の女性にさほど魅力を感じなくなった。
失敗もした。地方の女子大生を、都心のホテルのバーに連れて行き、
こんなラフな格好じゃつりあわないと恥をかかせたこともある。
そういった中で、かつての一途な純粋さがいつの間にか失われていたことに気づいた。
ただ、2回、3回と定期的に会うようになったのはその中でも4人。
最終的に、その中の一人から告白される形で付き合うようになった。
以前思いを募らせていた相手とは正反対のタイプだったが、
適度に隙があるというか、無理をしなくてもよくて、
一緒にいると落ち着けるのが心地よかった。
そういうわけで、ここ2ヶ月ほどは、
俺自身の破滅的な振る舞いも落ち着いて、
俺の話は以上でおしまい。
せっかくなので、機会があればここ数年間の経験で、
有用だったことや気づいたことを書いてみたいと思う。
何か質問があったら答えます。
私は記事元のおっしゃる通りオタクオカマです。気持ち悪いと言って頂いてどうもありがとうございます。
今後もそう致します。
私は皆と同じが嫌です。
「http://anond.hatelabo.jp/20070927065044」の人とトラックバック欄に書いている人達は多様性がない人達です。
死んでほしいやら精神異常者で隔離しろやらの差別は残念に思います。
異性愛の男は群がり、皆同じ部品のような競争に行くでしょうが、女性的で自身を護る同性愛の男性はそのような競争は降りて他の道を見つけて創造的な道を創り出す人が多いでしょう。
私を含めた同性愛、ゲイは部品的な男と女、老人、中年、若者、子供を踏み台にしてクリエイティブな方向に向かいます。
デヴィ夫人のブログを読んで本気で気持ち悪くなった。ああいった意見を持った人間がいること自体はともかく、それに対して「よく言った!」「日本人の誇りだ!」みたいなコメントがついてるのを見るとぞっとする。痴漢冤罪は被害者立場を利用した女性からの迫害だから女が悪い!痴漢は性欲を催させるような格好をしているような女が悪い!という免責をしてミソジニー丸出ししてる浅い思考が透けて見えて本当に気持ち悪い。おまけにそれをそのまま強姦に適用しているあたり、女にとって名誉ある男に犯されるのはどういった形であれ幸福であり、それを盾にああいった騒ぎを起こすなんてとんでもない、というような視線まで感じられる。ひっでぇ。それで、朝からそんなものを見かけたせいでテンション下がりまくりな状態で俺は考えたわけである。セックスとは何ぞや。性欲とは何ぞや。もちろん実際に経験がない人間なわけだから限界はあるだろうけれど、それを考えることは無意味じゃないだろうってことで。
そもそも俺が今まで性について触れてきたのって、大体はエロゲや官能小説、エロマンガ、AVというものが殆どで、学校の性教育は全然薄かった。せいぜいが性病の感染に気をつけてくださいねーくらいで、それ以外の部分については一切なし。だから自然とそういうメディアで興奮するようになっていたわけだけど、やっぱりどうしてもそれはオナニーでしかない。セックスではない。セックスっていうのは二人の関係の中で起こる行為だからだ。単なる性欲の発散以上の意味合いを持っていて欲しい、と思う。しかし男にとってそれが難しいのは、どうしても性欲というスイッチがあることだ。それなりに単純なこのスイッチは割と簡単に入るし、条件次第ではそれのことしか考えられなくなる。股間でものを考えてしまう状態というのがどうしてもそこにあるわけだ。ただ、そういった本能のまま、衝動のままの性欲を人間を相手にぶつけるってのは、俺はどうしても肯定できない。だって相手は人間なのだ。自分と同じように考えたり感じたりする人間相手にありのままの性欲をぶつけるってことがどうしても耐えられない。性欲は乱暴な面もあるし、おまけに男はチンコ突っ込んで射精してあーきもちよかった、で済ませられてしまう。それってセックスじゃねえじゃん、と思うわけだ。生身の人間の膣を使ったオナニーでしかない。人間はオナホールじゃないんだぞ。もちろん、そういった性欲の存在は否定しないし、発散する手段はあっていい。そのためにポルノメディアはあるんだと思う。オナニーに際してそれを用いることには俺は賛成だ。確かに「悔しい、でも感じちゃう(ビクン」なメソッドには興奮する。するよ。ちんぽギンギンだよ。でもそれを、もし生身の相手のにんげんにやって、おまけに相手が嫌がってたら、それ、やめるべきでしょ?
あと、恋愛は性欲をデコレーションしただけのことだ、なんて言葉に浸って恋愛の不可能性を指摘した気になっているような奴はどうにかしたほうがいいと思う。恋愛に性欲は不可欠だけど、それをどう運用していくかってことが大事であって、セックスのないプラトニックな恋愛=清純=理想、セックスのある恋愛=生々しい=現実、みたいな稚拙な二項対立に持ってくのだけは童貞として避けていきたい。セックスのあるプラトニックな関係だってあっていいし、セックスのない生々しい関係だってあっていいじゃないですか(そこんとこどうなんですか恋愛経験者の皆さん)。
大事なのは、セックスっていうのは二人のものだってこと。だから普段は仲が良いのに彼氏から乱暴なセックスされてつらいだとか、別れるのが怖くてしたくもないセックスばっかりさせられた、みたいな話を聞くたびに俺はもうやるせなくなってくる。なにやってんだよと。せっかく相手に触れていい、そういうことをしていいっていう関係を築けてるのに、どうしてそこでそうやってしまうんだよ、と。別にうらやましいんじゃなくて(まあ嫉妬だといわれたらそうなってしまうんだろうけど)、なんというか、悔しい。ある程度人と関わっていくことができるような人間にとって、恋愛やセックスって、傷つくことも嫌なこともたくさんあるけど、それと同じ、それ以上に嬉しいことや喜ばしいことがあっていいはずじゃないか。なんでそこで傷つけるだけで終わらせてしまうのかがわからない。なんでだよ。
もちろん性に対しておおっぴらにしろってわけじゃないけど、でも、たとえばセックスが終わった後に、お互いに自由に感想を交わせるような習慣があっていいんじゃないか。女性の側も男性の側も、痛かっただとか、もうちょっと優しくして欲しいだとか、そこを触られたのは気持ちよかっただとか、そういうことをやって、二人でセックスを作り上げていくべきだろ。そうじゃなきゃセックスじゃねぇって。形だけの同意とってんじゃねえよ。悔しくても感じてるって勝手に信じるなよ。本当にセックスできるのか考えろよ、性欲を上手に乗りこなせよ。ポルノメディアみたいなセックスのことを考えるなら、そうでないセックスのことを考えてもいいじゃないか。男が女にセックスしてやる、チンポ突っ込んでよがらせてやるよ、みたいなセックスじゃなくて、清濁併せ呑んで二人だけのセックスを試行錯誤して作り上げていけよ。そうであってくれよ。
だから、こういうレイプだとか性犯罪に関して、セックスを通じて性暴力という形で人が人を傷つけてしまった、不快な思いをさせたってのはだめだ。しかも今回は立場とかの問題も絡んでる。それなのにデヴィ夫人のブログとかそこにつくコメントみたいな意見が支持されるのはやるせない。鈍感にもほどがある。俺はそう思う。
……そう思うんだけど、なんつーか、あくまで童貞の理想論であることも認める。ので、セックスしたことある人、嫌だったセックスをさせられたことのある人、俺みたいな意見って、どうなんでしょう。以上。
名家の娘さんとかなら親のツテでいい男性を紹介して貰えるだろうけど
庶民の私には10代~23歳の時点でそれなりの条件で、かつ結婚意思のある男性と能動的に出会う手段なんて思いもつかないです。
ちなみに20歳のとき入会特典目当てで結婚相談所に登録したことがあるんだけど、
40歳になってもこんな男とは結婚せんわと思うようなおぞましい相手しか紹介されませんでしたよ。
(名誉のために断っておくと、顔写真を送るより以前に「マッチング」とか言って一方的に資料が送られてきた相手なので、特に私がブサイクというわけではない。)
唯一考えられるのは、大学で出会った男性と恋愛して早々と婚約しておく、ってくらいでしょうけど
それこそ運が大きいし、それが達成出来なかったことを本人のせいにはできないと思う。
ゲーテは大作『ファウスト』において人生の意味をテーマとして扱っている。そこでは、今ある空虚を満たそうと欲望をどれほど追い求めてもその空虚は埋まらない、それどころか、欲望の充足を追求すればするほど、かえってその空虚が際立ってくる、ということを示している。金が欲しい、地位や名誉が欲しい、異性が欲しいなどの欲望は、欲望を満たしたとたんに次の新たな欲望が生じ、どこまでいっても満たされない、という「永遠の欲求不満」の状態に置かれてしまう[28]。
『ファウスト』第一部では、大学者のファウストは学問を究めつくしても人生はただむなしいだけと気づく。そこで悪魔メフィストファレスと交渉し、ファウストを満足させられたら死後の魂を差し出してもかまわない、と約束する。ファウストは悪魔の力で若さを得て、マルガレーテと恋をし身ごもらせるが、その結果母と兄を失うことになった彼女は生まれたばかりの赤ん坊を沼に沈めて殺してしまう。ファウストは「ああ、俺は生まれてこなければよかった」と嘆く。第二部では、懲りないファウストは皇帝の家臣となり、ふたたび悪魔を説き伏せ、黄泉の国からギリシャ神話の伝説の美女、完全な美の体現のヘレナの霊を呼びださせ、結果としてふたたび恋におち、子供をつくり平和な家庭を築き、今度こそ満足のゆく生活を手にしたかのように見える。だが愛する子オフィリオンは平和な家庭を否定し、戦いを求めて旅立ち死んでしまう[29]。
では、その後ファウストが、「ここにこそ人生の意味がある」と思え、「時よ止まれ!お前は美しい!」と叫ぶことができるようになったのはどのような時かというと、自分の欲望の満足させようという思いは捨て去り、万人のための自由な国を建設しよう、と人々のための「理想の国」実現に向けて戦いはじめた時であった。つまり、『ファウスト』における「人生の意味」「本当の幸福とは何か」「本物の満足とはどのようなことか」というテーマの答えは、自分の欲望の満足へのこだわりは突き抜けて、それを手放し、自己(小我)を超越し、利他の状態に状態に至ったときにはじめて手に入るものだ、ということである[30]。
なお、ファウストの心の旅があらゆる学問への絶望から始まるように、人生の意味や真の幸福というのは、学問や思索によって得られるものではないのであり、「人生の意味は○○である」とか「真の幸福とは○○」であるということを書物や文章を読んで学んだところで、それで人生の意味や幸福が得られるわけではなく、実際に「自分の命を懸命に燃やす」ことによってのみ人生の意味や真の幸福はつかむことができる、と表現されているのである[31]。
wikipediaからの引用だけど、「自分の命を懸命に燃やす」ことによってのみ人生の意味や真の幸福はつかむことができる、というのが
急に思い出したので書いておく。
『金田一少年の事件簿』が大人気だった頃
俺もコミックスを買ったんだが、合間の作者のコラムが意味不明だった。
コラム名も確か
「六根煩悩シアター」(うろおぼえ)みたいなそんな感じで
とかなり迷って内容を含め戸惑いながら読んだ。
金田一少年のつけるペンダントにも教義のシンボルがあしらわれたりしてると知った。
信教の自由はもちろんある。
個人的には幸福の科学も笑えるから新興宗教の中では嫌いじゃない。
「子供を狙った布教」みたいな悪辣なニュアンスは感じなかった。
でも小学生のとき俺はあれが意味わからなくてかなりひっかかってたし
後年その意味を知ってかなり腹が立った。
ということを突然思い出したので書いておく。