はてなキーワード: 範疇とは
でも良い作品はあらゆる人に広められるべきという信条をもっているのと
まとめサイトみたいに一部の害悪を取り上げて過大に嫌だね嫌だねって言い合う池沼しぐさに嫌気がさしているだけのキモオタだ
厄介がコンテンツやコミュニティを荒らすのは人気作なら絶対起こることだと分かってる
男女混作ゆえの問題もその中の一つだが、ほとんどの場合「女ユーザーが害悪」になるほど路線が歪んだり作品を乗っ取られることなどない
そういうのは大抵、もとから懐が広かったものを、自分の都合の良いように捉えて自分たちのものと誤認してた厄介ユーザーが騒ぐ程度のもんで
変な界隈を見ようとしなければ(というか俺は作品を消費するのに他人を見る必要ないと思っている)なんの影響もないケースばかりだと思っている
この手の人間は精神がおかしいから思い込みが強く、どうせ俺のことも女だと思ってたんだろう
自分の想像の範疇外の人間は存在しないという傲慢な思い込みがあるのがこの手の人間の特徴だな
理学部数学科で数学に価値が置かれるのはほとんどその形而上学の美の継続時間が長いことによる。人文社会科学系における例えば、 英語による詩作
にも同じような側面が認められるが、美の継続時間が短い。いわゆる 時代を超えて永遠に語り継がれる、というものも歴史学には多いが、最近の社会では、
そういうことも存在しないことが立証された。人文社会科学系にも、数学と同じようなものが認められる可能性はあるが、その数は少ない。
数学の教科書は大体次のような内容になっている。 有意義だからそのように定義する。広範に存在する有益なものだから、確定させておいていたるところで使う。
美しい定理を証明する。 定理の特徴として発見されたときに驚愕されるが、あまりにも時間が経過していると、その界隈でも、さすがに、それはもう終わったことではないか、ということで、
本来の意味は「大勢が笑うこと」なので一人で笑うときに「爆笑」を使うのは誤用である、とされることもあったが、実際には「爆笑」という語が使われはじめた昭和初期からすでに一人で笑う場面でも用いられていた。「大勢が笑うこと」説のほうに根拠がない。
「的は射るもの」なので「得る」は誤用である、とされることもあったが、もとを辿れば「不失正鵠」すなわち「正鵠を失わず」という慣用句であり(正鵠=的の中心)、それが「正鵠を失う」と肯定形で使われるようになり、その対義語として「正鵠を得る」という言葉が生まれ、そして明治末には正鵠を的に置き換えた「的を得る」や「的を射る」といった表現が出てきた、といったややこしい変遷があったもので、少なくとも「的を得るは誤りで的を射るが正しい」とはされなくなっている。
「汚名は返上して名誉を挽回すべきだ」とされることもあったが、もともと「挽回」という言葉は「回復」などと同じく「(悪い状態から)元に戻す」という意味なので、「病気を回復する」などと同様に「不振を挽回する」「衰運を挽回する」など、マイナスの意味の言葉と組み合わせて用いられることも多く、よって「汚名挽回」についても誤用でないとされる。「汚名を挽回する」という表現は明治末にはすでに見られる。
「全然」は「全然〜〜ない」のように否定形で受けなければならないので「全然〜〜だ」というような書き方は誤用である、とされることもあったが、実際には明治の頃から否定を伴わない形で多く使われており、「否定で受けなければならない」というルールには根拠がない。
本来は「後ろめたいことがあって相手に会いづらい」という意味なので「高級店に入りづらい」などの意味で使うのは誤用である、とされることもあったが、この表現の要点は「後ろめたい」よりも「相手に会いづらい」という部分であり、そこから考えれば「高級店に入りづらい」などもあくまで自然な応用の範疇で、誤用と言えるほどの意味の飛躍はない、とされるようになった。
本来の意味は「能力に対して役目が軽すぎること」なので「役目に対して能力が不足している」という意味で使うのは誤用である、とされることもあったが、そもそもは「役に対して不足(=不満)を言う」という意味であり、「こんな難しい役目は私には無理だ」と不満を言うことも「役不足」の範疇だった。「彼には役不足だ」などと言って不満を含まない用法は本来の使い方でない、とは言える。それも明治末にはすでに例があるので最近生まれた用法ではない。ちなみに「役者不足」という言葉は最近の造語であると言われることもあるが、こちらも少なくとも昭和初期には現在の意味での用例がある。
他には?