はてなキーワード: 肥大化とは
ジャニーズ山下智久とダウンタウン松本の筋トレ前と筋トレ後を見れば分かるとおり、筋トレをすると鼻が太くなる
また、顔の骨格が肥大化する為パーツが真ん中に寄る
筋トレ前は山下智久は白人にしか見えなかったのに今はただのアフリカのマサイ族にしか見えない
これは筋肉を落としても一生治らない
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また筋肉はムダ毛の増加や頭髪の抜け毛、ニキビ、毛穴の広がり肌のきめの粗さ、皮脂の増加、体臭の増加を引き起こし寿命も7年縮める
筋肉の恐怖↓
イギリスの大衆紙「The Sun」に「筋トレが脱毛を促進する」という記事が出た。
「45分間の筋トレを週三回、2年以上続けると男女ともに若ハゲになる」のだとか。
記事ではテストステロンの影響にも言及しており、女性でも筋トレをすると抜け毛を引き起こすことがあるとしている。
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↓記事はこちら(英語です)
http://www.thesun.co.uk/sol/homepage/news/article1092628.ece
これで今まで保守系学者が「筋肉はテストステロンだけが増えるのでDHTにしなければ大丈夫」とうそぶいていたものが完全に崩された
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最近、意味を理解した気がする。書く意味を感じられない記事。なぁなぁの人間関係ではてブ。言及し合いっこ、きゃっきゃっウフフの無駄な時間。アクセス数、はてブ数稼いでやったー!惨め。高い自意識のハードルをブログでしか満たせないのは可哀想過ぎる。
シロクマ先生も言ってた、かな。承認欲求求めてばかりの不健全さ。殴り合って被害者ぶったり正当化したり。歳が離れてるから2人を理解できないのかと思ってた。そうじゃなかった。リアルが充実すると、ネットの彼是がバカらしく、哀れに見える。もちろん、リアルの延長上の楽しさとか苦しさを書いて楽しんだり楽になるくらいなら良い。
社会の彼是を分析してる俺、議論してる俺、言及される俺、言及してやる俺、気に入らない言説をぶっ飛ばす為に都合良く資料から抜いて補強して論破したつもり…自意識過剰、誇大妄想、自我の肥大化。もうなっちゃってるバカは戻れないけど、これからはてなブログで盛り上がる皆様、どうぞお気をつけて。
身バレしても良いから書く。
マイナージャンルのクソ底辺のdpkで二次創作してるけど、最近の海鮮(創作はしない、買うのみ)が本当にウザい。
ぼっちだからTwitterでフォローしてくるのは大抵海鮮だ。
それは別にいい。
イベント前に取り置きしますと呟いたら何人かの海鮮がリプを送ってきたから、
イベント当日。恐らくリプを送ってきただろう一人がやってきたので、
値段を言うと「え?タダじゃないんですか?」
こいつは何を言ってるんだ。後が使えてるので先にそちらを優先しようとしたら、
スタッフを呼んできてくれた。
テンパった私は、とりあえずそいつのTwitterを見てみると「◯◯さん(私の名前)のとこで新刊頂きました!」
とツイートしてた。
「次は◯◯(違うジャンル)狩りに行く〜」とツイートしてたから、
本返して下さいと言っても、「くれるって言いましたよね?」の一点張り。
周りの目が痛すぎてなんだか私が悪いことをしたみたいで泣きたかった。
本はなんとか返して貰ったんだけど、金ないなりに手をかけた本が目の前でかっさらわれて、
そのほとんどは海鮮が原因だった。
取り置きをタダでもらえると思ってたり、いつまでたってもスケブを取りにこなかったり。
作家さんとのオフ会に割り込んできて、店内で放送禁止用語や下ネタを大声で話す。
お客様は神様なんていうけど、最近はお客様気分の海鮮がどっと増えた気がする。
Twitterっていう自分発信ツールのせいで、今までくすぶっていた自己承認欲求が肥大化した海鮮が
一気に可視化したように思う。
でもあんたたちがネットでタダで拾って一瞬で消費するその萌えは、
どこかの誰かか寝るのも惜しんで生み出したんだよ。
それをタダが当たり前、くれて当たり前、少し考えれば分かるだろうに。
一昔前みたいに海鮮は海鮮らしく、大人しく弁えてた時代が懐かしい。
もちろんマナーや感じの良い人はたくさんいた。
http://anond.hatelabo.jp/20110824143747
http://anond.hatelabo.jp/20130825164553
http://anond.hatelabo.jp/20130826033127
http://anond.hatelabo.jp/20130826163155
ホント学歴って重要。いい大学を出てるというだけで、当人の情報処理能力、勉強をしつづける環境を維持するだけの経済力のある環境で育てられたかどうか、等々のチェックが可能。
大学までDQNな環境できて一流大学に入る人もいるけど、入った時点でDQNで無い人と接点を持つチャンスがたくさん与えられる
1.高学歴である、あるいは学歴に関わらず安定した収入得られる職についている。
まあホームレスが学歴必要ないとか言ってもだれも聞かないだろうし。あるていど自分の生活に自信がなけりゃそんな事言わない。
2.社会的な成功の度合いに関わらず、「不本意な人生」を送ってきたと思っている。
小さい頃から無理矢理勉強させられて、いい大学に入ったけど適当に勉強しなかったとか。
DQNな環境でおかしな努力を強いられた結果、「もっとできるはず」と思っているのに高卒で終ってしまったとか。つまりプライドが肥大化している
メディアやネットで出てくる低学歴の人間は珍しいからクローズアップされるのである。低学歴で優秀な人もいるが、低学歴で無能なアホは膨大な数いる。
学歴関係ない厨は自分が成功した人生を送った結果、無能な低学歴と働くチャンスを殆ど持たない。よって彼らが知る「低学歴」とは成功した連中ばかりになる
おもしろ面接試験、昨日はカルネアデスの板について問いかけられるといったニュースがあった。
でもどの会社が実施したか分からないし、それを受けた人についても詳細が明らかになってない。
大学4年生であろうと卒業数年であろうと若年者であろうと答えた人間について何ら明らかにされていない部分が見える。
そんな中途半端な人間像を持った人が面接試験を受けたとして、また会社名が明らかでない所の面接試験は不明瞭な点が多すぎる。
故にそれがないからぼかしている。
国家公務員試験のエレベーターお見送り(=不合格)もどの省庁なのか明瞭でないので不採用者の愚痴が入り混じった思い込みが肥大化しただけに過ぎない。
尾びれを付けたがるのがマスメディアであるならば、不採用者の愚痴を面白おかしく書き立てるのもマスメディアだということ。
すなわりこれらのニュースはマスメディアの信憑性に準じているということで、読者はあくまでそういう話もあると、全面的に鵜呑みにしないことが重要だ。
かなり以前に「戦争は会社が始めた」というトゥギャッターがあった。
自分もその意見に同意で、「戦争は財閥が始めた」と言い換えた方がより文意は伝わると思った。
(それも三井三菱住友の在来財閥よいうより、鮎川や中島のような新興財閥が始めた)
戦前は企業人がそのまま多数閣僚や代議士になってたりしてるし、
当時の関係者の日記や回想録の類を見たら企業人と軍人政治家の「近さ」を実感できる。
で、この背後にあるのが、
「戦前はエリート層(財閥幹部・軍人・官僚・学者)の人数自体が現代よりも遥かに少なくて、
全員が『知り合いの知り合い』に収まっていたからでは?」と思う。
感覚論だか、戦前はエリート層人口が1万人程度だったのが、現代では100万人程度に肥大化しているんじゃないか、と思う。
人間、知人友人の数は100~200人程度が上限らしいが、戦前のようにエリート人口が1万人に収まっていれば、
「●●さんは▲▲さんの知り合い」という感じで、割とエリート同士で「一体感」が醸成されていたと思う。
しかし、戦後日本が農業国家から工業国家、企業国家に転換し、技術者や中間管理職が多数必要になったから、
エリート層の人数も増えてきて、1万人じゃ収まらず100万人程度は必要になってしまった。
こうなると、戦前の「旧き良き時代の、エリートインナーサークル」という訳には行かない。
100万人ともなると、「知り合いの知り合いの知り合い・・」という感じ程度でしかなくなる。
一回、戦前の旧東京帝大の学生数と、今の東大の学生数を比較したい。
今の方が相当学生数多い気がする。
で、最近「低学歴と高学歴じゃ、住む世界が違う」的ホッテントリがあるが、
http://anond.hatelabo.jp/20130809115823
高学歴側(エリート側)がいまいちこの内容にピンと来ない一因として、
「エリート層が肥大化してしまい、戦前のような一体感が喪失しているから」じゃないか、とも思う。
戦前も現代も、「エリート層とそうじゃない層だと文化も言語も違う」という点では割と共通しているが、
二次創作というのは、そもそもが肥大化した読者のエゴであって、pixivやtwitterは単にそれを可視化しただけにすぎないのだ。
また、多くの一次創作者が二次創作の経験者でもある現状において、「二次創作は隠匿すべし」とは夢物語であると言わざるを得ない。
二次創作からエゴを無くせ、二次創作を隠匿せよ、と言うのは、二次創作そのものを無くし、一次創作者すらも隠匿してしまうのと同じだ。
なんだか最近、Fateのヘイト創作(語呂がいいなオイ)が話題なんだそうだ。私自身はFateでは二次創作はやってはいないので、ネットでの騒ぎを眺めているだけだが、なんだか大変そうだ。まあ二次創作同人って、ジャンルのピークが過ぎて衰退期や晩期に差し掛かると、二次がガラパゴス化して大抵ごたつくよね。Fate自体は歴史の長い作品だが、Zeroアニメ化に端を発する特需はそろそろ晩期なんだろう。わかるわ。
だがpixiv百科事典を初めとした加熱した議論にはなんだか危険なものを感じる。
冬木ちゃんねる (ふゆきちゃんねる)とは【ピクシブ百科事典】
http://dic.pixiv.net/a/%E5%86%AC%E6%9C%A8%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B
前置きしておくが、別にヘイト創作というものをマンセーしたいわけではない。だがそう開けっぴろげに否定したものではないと思う。
ただ、棲み分けには賛成だ。そうあるべきだと思う。
というか、当事者たる二次創作関係者"以外"にとっては、ヘイト創作だろうがボーイズラブだろうがエロ漫画だろうが大差ないだろうと思うわけだ。
原作のキャラクターを自由に動かし、行間を脚色し、あるいは改変し、自分の欲求を満たすもの。
それこそが二次創作の本質である。勘違いしてはならない。ヘイト創作がだめなんじゃない。二次創作全般が、そもそも隠匿されるべきものなのだ。
隠匿というと大げさだが、少なくとも内輪ネタである。原則として、原作者の眼の届かないところでやるべきだ。まあ実際は完全に隠すことは難しいだろうから、"形式的に"ということになる。例えば伏せ字や隠語を使う・検索避けをする、などだ。
これはヘイト創作に限らず、二次創作全般で本来徹底されるべきことだ。
今回はFateが槍玉に挙げられているけれど、"二次創作意識の肥大化"とも言うべき現象はここ数年で際立ってきた気がする。その諸悪の根源は間違いなく、ニコニコ動画とpixivである。まあ、前者はここ数年権利者削除が増えてきたから、どちらかといえば土壌はpixivだろう。さらにtwitterが加速剤となっている。
作品名をGoogle検索すると、当たり前のようにpixivが検索上位に表示される。"腐向け"タグなんかは最近整備されてきているけれど、未だに作品名そのまんまのタグでホモすれすれの絵を描いているひとだっている。増してやエロ絵なんてまるで検索避けされていない(一応18歳未満は閲覧できないが、作品名そのまんまタグだ)。いや、そもそも、エロでなくても、ホモでなくても、ヘイトでなくても、結局のところ二次創作は"路地裏文化"だ。表通りでダンスするにはあまりにあんまりなんだよ。
二次創作を垂れ流すのと同一のtwitterアカウントで、平然と原作者にコンタクトを取る人間の心理が私には理解できない。
正しい二次創作なんてない。原作者にとって"嬉しい"二次創作なんて、同人側が自己の行為に正当性を求める行為だ。結局、我々二次創作者がやっているのは、その内容如何に関わらず、違法行為すれすれの、虎の威を借る狐じみた、他人の褌で相撲を取る、自己満足行為だ。そのことを、ゆめゆめ忘れてはならない。
後ろ指を差されたくない人生を送りたいなら簡単だ。今までの二次創作を全て燃やしてオリジナルを描けばいい。あるいは筆を折ればいい。でもそれができないのが二次創作者だ。だって楽しいんだもの。
仕事柄、IT関連のツールには一通り手を出した、というかやらざるおえない環境だったのでmixiもFBもTwitterも一応やっている。
薄々感じてたけど、とにかく気持ちが悪い。何が気持ち悪いのか、具体的に考えてみたけどよく分からない。
それぞれ違った気持ち悪さがある。
まだSNSが発達してない頃、仕事で知り合った年上の人と社交辞令でプライベート連絡先を交換したら、毎日のように自撮りの写真と日記のような長文が送られてきて辟易した。
社長の知り合いだから、無碍にすることもできないから適当にあしらってたけど、会社を辞めた時にまっさきにしたのは、連絡先を変えたことだった。
ロクにしらないおっさんの写メと私生活を綴ったメールなんて、不気味なだけで面白くもなんともない。ただ、ただ、気持ちが悪かった。
ロクに知らない人たちの、知りたくもない個人情報や私生活がダダ漏れになっているのを見せつけられる気持ち悪さ。
メールと違って、表示させないこともできることを知ってそうしていたら、最近は関わりのない同級生からメッセージが来た。
「どうして、私の記事にいいね!を付けてくれないの?」
正直、目を丸くした。
その子はすごく大人しくて控えめで良い子だったのに、SNSを始めてから毎日のようにログインし、私生活のほとんどを記事を書いてる子だった。
いいね!を付けるのは義務だったのか?
はっきり言って、私は人付き合いが面倒くさい。
多分、それほど他人に関心や興味が無い。
そういう時間を割く位なら、一人で買い物したり映画を見たほうが楽しい。
メールも必要にせまられなければ返信はしないし、友達と遊ぶのも年に数回だ。
SNSも気が向いた時しかログインしない。たまに親戚向けに生存確認のための近況を綴ったりするが、他人の記事は読まないし、
いいね!もほとんどつけたりしない。コメントなんて、もっと稀だ。
でもその適度な距離感が心地よいし、こうあう使い方が自分に合っていると思っていた。
だからこのメッセージが来た時、ああ、この子も控えめに見えても、やっぱり自己承認欲求の塊だったのかと悲しくなった。
このレスポンスを強要される感覚にも覚えがあった。今は亡き、mixiの足跡機能だ。
さかのぼれば、高校時代に流行った携帯ワン切り返しというやつもあった。
とにかく、SNSにしろメールにしろ、たかが連絡ツールだというのに執着している人にレスポンスを強要される感じがたまらなく嫌だった。
そういうことをされる度に吐き気がした。
どうしてふぁぼやRTしてくれないの?
どうしてスタンプ返してくれないの?
手を変え品を変え、時代が変わっても自己承認欲求を満たしたい人間がごまんといるのは変わらない。
フォロワー数の数というのは、ああして自意識や自己愛を加速させてしまうのだろうか。
ああやってネットの中で肥大化させた欲求と、現実の感覚のギャップに苛立ちを覚えて、
周りに当たり散らすようになる予備軍が、SNS中毒者にはたくさんいると思う。
件のメッセージの子は、本当に優しくて良い子だった。だけど、その分リアルではかなら抑圧されていたのだろう。
ネットでは現実では考えられないくらいに明るく振る舞い、毎日のように写真を挙げてはリア充アピールしている。
それは別にどうでも良い。
ただ、それを他人に賞賛させるのを強要するような子では決してなかった。
日本人の美徳は察しと思いやりだと何かで見た。SNSには、それが全くない。
利用者はみな、私が!僕が!俺が!、の自分アピールに忙しくて、飢えた承認欲求を満たすためなら、きっとなんでもやるだろう。
刺激は一度強いものを受けると、どんどん強いものを欲しがる。Twitterが馬鹿発見器なのは、気軽なことと、
見てくれる人がたくさんいること、注目されたい欲求に歯止めが効かなくなるからなんだろう。
FBもそうなりつつあるように思う。
この間、知り合いが電車内のマナー喚起という内容で見知らぬ人を写した写真をあげていた。
はっきり言って盗撮だ。れっきとした犯罪である。正直、とても引いた。
コメントを見ると、それを咎めるどころか同調するようなコメントばかり。
こんな少し考えればわかるようなことを考えず、他人を思いやることを忘れ、自分の欲求を満たすことに躍起になる人が、本当に気持ちが悪い。
そういう風潮に乗らないことが、ノリが悪いとかコミュ障だと言われることになんだかなあと思う。
今のところ私が感じるSNSに対しての気持ち悪さの原因は、
それまで至極まっとうな人でも
自意識を肥大化させて、自己愛をこじらせて、自己承認欲求を満たすために平気で他人も
自分すらも傷つける人になりうる可能性があること。
平気で他人や第三者の個人情報をネット上に書き込む人への侮蔑。
自分の行動に対してレスポンスを強要する人に対するめんどくささ。
このあたりが複雑に絡み合っているんだと思う。
全てのSNSや利用者を否定するわけでも批判するわけでもない。
ツールとして正しく使えば、こんなに便利で合理的なものはないと思う。
ただ、残念なことに私の周りではそういう人が多いということです。
あー、SNSなんか全部廃れちゃえばいいのになー。
でもまた新しい手段が出てくるんだろうなー。
異なる思想の非モテ同士の軋轢と対立が激化してきましたね。
本日18:00をまたいで、あからさまに「いかがわしい」オフトピを
乱立させるという自爆テロが発生していました。
トピ自体は運営によって、すぐさま鎮圧されましたが。
犯行声明はありませんでしたが、首謀者のプロフィールから察するに
いっこうに削除されないことに腹を立て、別アカを仕立てて
運営への抗議の一環として自爆テロを敢行した模様です。
今回の犯人は明白に「不本意諦念派」のようです。
しかし、これは非モテSNSにとって起こるべくして起こった事件なのです。
「卒業派」になりたくてもなれない「不本意諦念派」は
取り残されてしまったように感じていてストレスは日々高まっています。
非モテのカリスマ、ヌルオタ師が主催あるいはサポートするオフ会は
訴訟沙汰を危惧する運営サイドも好ましからずと思っているでしょうが
強制的に排除することは得策ではありません。
一方で「諦念派」の中でも「出会い系化」しつつある非モテSNSに
懸念を表明する声も日増しにあがってきています。
女王のように周りからチヤホヤされることを望んでいる者が多いのです。
かつてオフの少なかった時期においては女性は写真を晒さない限り
ほぼ同列に扱われてきましたが、ここにきてオフが頻発すると
憂慮しているのかもしれません。
これから混乱期に突入、そして変革期へと向かってゆくことになります。
奇しくも今回の自爆テロ犯のハンドルネームが「悲鳴」であったように
卵子の劣化の話をしている時に、何がスイッチになるのかは分かりませんが、でも精子も劣化するよね!とか、人類史的にはここ100万年、精子は劣化しているよね!というような話をしたがる人がいます。
精子の話と卵子の話はまったく異なるのですが、男性の場合、加齢とともに精巣の精子製造能力やその品質劣化が若干生じることはあります。ただしそれはほぼ誤差の範囲内で、男性の場合生殖でより問題になるのが勃起と射精の問題です。
はっきり言って、二十三十の時に例えば十人の女性と寝てそれぞれ妊娠させたような男性は、七十八十になっても子づくりすることには精子的にはほぼ確実に問題はありません。精子は毎日製造されていますので、それ自体が劣化することはないのです。劣化しているとすれば、最初からそういう精子なのであって、精子の数が少ない人、不具合のある精子が多い人は、年齢に関係なく自然妊娠をさせる力がありません。これは加齢の問題ではなくて、個体差の問題なのです。
ヒトの精子が運動率が悪く、特に近来、減少を続けているというのは事実です。
これはY染色体が交雑しないために、エラーの修正を受けることなく、エラーが蓄積されて、「劣化」してゆくのがそもそもの原因ですが、哺乳類の多くはヒトと同じく雄ヘテロXY型の性染色体であるのに、ヒトともっとも近縁のチンパンジーでは、同じ面積であればヒトの場合、精子はまばらにしかなくしかも動きが小さかったり、そもそも動かなかったり、変な行動が見られるのに対して、チンパンジーの場合は隙間なく、健康が精子が活発に動き回っているのが見られます。これはつまり、ヒトの精子の劣化は、Y染色体のエラーの蓄積だけでは説明できない、ということです。
ヒトは子育てに膨大な労力を注ぎ込み、自然状態では子供が育ちあがるまで15年はかかり、せいぜい、3人から4人の子を育てるのが限度と言われています(農耕社会はこの数を飛躍的に増大させましたが)。哺乳類は基本的には一夫多妻制がデフォルトで、オスは子育てに関与しません。その結果、オスにかかる性淘汰圧力が激しくなり(メスがオスを選ぶので)、哺乳類のオスには異形のものが数多くあります。一夫多妻制の社会では肉体的にも生殖能力的にも優れたオスが生殖機会を独占することで、絶えずY染色体の選別が行われ、その結果、Y染色体の健全性が維持されています。
チンパンジーの場合は、一夫多妻制ではなくて、メスが群れのあらゆるオスと交尾する乱婚制ですが、これは一夫多妻制における個体間の同性間競争がそのまま精子に置き換えられるのであって、複数のオスの精子が同時にメスの胎内にあり、精子間競争によって優秀な精子が選別されます。その結果、チンパンジーのY染色体の健全性が担保されているのです。
一夫多妻制や乱婚制の社会では子育てはメスのみが行うことになります。ヒトの場合は育児にかかる労力が桁外れに膨大なため、メスだけでは子育ては出来ず、子育てにおいてリソースが最大化される一夫一婦制を発達させてきました。哺乳類で一夫一婦制を採用している例は稀少で、鳥類等の例を見ても、基本は肉食動物、つまり育児にかかるコストがもともと大きな生物がほとんどです。
女性が一年に子供をひとり産めるとして、同じ期間に男性は原理的には何百人もの父親になることが可能です。この生産性の差が、生産性が低い方の性の不足を招き、その結果、ほとんどの種で性淘汰はメスによるオスの選別という形になるのですが、ヒトの場合は子を産ませるにしても、その後、子育てに父親も従事しなければならないので、結局、何百人産ませても育てられないわけで、この一般的な性淘汰が働きません。むしろ、メスはどのみち子育てからは逃れられないのに対して(特に哺乳類の場合は哺乳と言う育児が必ずある)、オスは本来、子育てには注がないでもいいリソースを一夫一婦制では注ぐということになりますから、オスがメスを選ぶのです。
ヒトの形態を見る限り、乳房や臀部の肥大化など、性淘汰による異形化が進んでいるのはむしろメス(女性)であって、人類においては一夫一婦制を採用したために、性淘汰圧力はむしろ女性に対してかかってきたと言えます。
一夫一婦制、つまり男が妻と子を養う体制は、生殖に関与する男性を最大化するシステムであり、生殖に関与する男性が最大化するということは同性間の性競争が極限にまで小さくなると言うことであり、男性が女性を巡って争う理由がなくなる、ということを意味します。この男性間の平和によって、男性と女性すべてを内包する社会を構築することが可能になったので、ヒトにおける社会とはそもそも男社会です。
それはともかく、ほぼすべての男性が生殖に参加するということはY染色体が淘汰されないということを意味します。その結果、ヒトにおいてはY染色体の劣化が飛躍的に加速してきたのです。
これがヒトにおいてY染色体と精子の劣化(他の近縁種と較べて)が起きているという意味です。
これは種としての問題ですから、ある特定の個人の男性が、妊娠させられないということとはまったく次元の異なる話です。そうした問題を抱えていない男性の場合、七十になっても八十になっても精子の老化は程度としては発生しないと断言してもいい、というかそうとらえておいた方がいいと思います(もちろん勃起不全など別の理由で性交渉が困難になる例は多いのですが)。
卵子の老化および個人差によって約10年の開きはありますが加齢による事実上の不妊化は無差別に発生する問題ですから、特定の女性個人の問題ではなく、女性全体が知っておくべき問題です(むろんその配偶者である男性も)。個人の特性の問題と生物としてのシステムの問題を、卵子の老化の話をする時に精子の話をしたがる女性はごっちゃにしている傾向があります。それによって何を守ろうとしているのかは分かりませんが、願望や「であるべき」論によって科学的事実の周知徹底が遅れたために、結果的に子が欲しくても妊娠出来ない女性を生み出してしまったのではないでしょうか。卵子の老化の話をしている時に、精子の話をして魂の安寧を得ようとするような女性がいるとしたら、そのマインド自体が批判されるべきだと思います。
格差社会って言うと経済的なそれが真っ先に思い出されるし、議論の場ではまず九分九厘それなんですが、それ以外にも沢山あると思うわけですよ。
それは時として経済的な格差よりも絶望的な断絶としてあるんじゃないでしょうか。
もちろん経済的な格差は大問題です。(経済的)貧困はそこを起点として様々なレイヤーを破壊してしまいます。
人間の価値が肉体労働の出力とほとんど同じ意味だった古代社会。「技能」が発見されて職人的存在が出現した古典、中世社会。農村部では、つい100年ほどまえまで、その人間の価値は(肉体的)労働力でありコミュニティの成員としての奉仕能力であり、コミュニティ維持のための生殖能力でした。そこでは性別や年齢などのざっくりとした要素さえそろえれば、「わたしとあなた」は代替可能な存在であり、だからこそ養子なんてのもさらりと行われてきたわけです。
でも50年前、100年前、200年前に比べて豊かになった現代社会において、またWebが隅々まではりめぐらされて「わたし」や「あなた」が隠しようもなくルポされてしまう現代において、「わたしとあなたの間にある格差」という問題はどんどん肥大化してきているようにに思えます。自由や人権を教育される現代社会において「わたし」と「あなた」は自意識レベルで交換可能な存在ではありません。なにより、人間の能力が肉体的な労働から別種の労働にかわった現代社会において、「わたし」と「あなた」の間には、生産性で10倍どころか100倍以上の差がつくことも少なくありません。
(あのクソ同僚の書くコードとオレの書くコードが同じ時給換算で計算されるとか、冒涜だ! みたいな)
しかし労働x生産性に関していうと、労働市場のマッチングだと職業訓練だのという形で「なんとかしよう」という意識が社会にありますが、それ以外の格差については割合無頓着に見えるのです。
たとえばの「はい、面白いこと言って!」なんてフリにたいしてA君は上手く対応できるけれど、B君は上手く対応できない。そういうことはあるわけです。
あるいはそれは「はい、彼女作って!」でもいいし、「はい、あなたの将来を設計して!」でもいいし、卑近な話で言えば「はい、はてなスター100個あつめて」でもいい。
要約すると「なりたい自分になって」と言うことなのだと思いますが、ここに格差はあるわけです。
たとえばA君は年収500万円の労働者にはなれるかもしれない(し、その社会支援はあるわけ)ですが、「なりたい自分」たとえば「リア充」になるにはルート設計がないわけです。
そんなもん当たり前じゃないかといわれれば当たり前です。才能なんだから諦めろよ、もいま現在通用すると思います。
しかし重要な問題ではあるわけです。理由は幾つもありますが、まず、経済的な格差であればある指標を決めて社会が救済することは出来るわけですね。たとえば生活保護とか。最低賃金とか。でも、「なりたい自分になれない格差」については現在のところ社会システムでのケアが不十分。職業選択の自由とか、男女の雇用格差解消とか、それくらいしかできてない。「人気絵師になりたい」には対応していない。
普通の人は、自分を責めるときにどういう言葉を使うのだろうか?
ここのところ、自分は生きる価値のない屑だと自分で自分を罵りすぎている。さすがに疲れた。
8年前にちょっとした挫折をして、まぁ普通なら青春のほろ苦い1ページで終わるのだろうが、それがそれまで長閑な田舎で暖かい目で見守られてきた自分にはかなり痛手だった。
数年間、生きているんだかいないんだかよくわからない状況になったが、それまでの肥大化したプライドを守るために勉学に励んだことが幸い社会のレールから外れることを防いだ。
しかし、それがかえって、歪みを温存することになったようだ。
そのあとも、恋愛関係や曲りなりに続いていた友人関係で、恒常的な失敗や、絶交や、あと一歩でリアルNiceBoatなところまでやらかした。
そこで、自分は、自分以外の人間を自分と同じように人格を持つ人間だと認識していないと気付いた。
独我論というか、利己的というか、自己愛性人格障害ですかね。にーちゃん、アスペと躁病追加しといて。でもあとでいうけどちがうんだってさ
それから3年か、悩みましたよ考えましたよ。普通の人は(たぶん)小学校高学年から高校生ぐらいで考えるような痛いことを。
Jポップやアニソンとか、けっ!と思ってましたが、あれの歌詞によく出てくる「自分を大切に」「ひとりじゃ生きられない」とかいうのはちゃんと子供のころに素直に受け取っておくべきでしたね。
で、なんとか落ち着いたか、そういうことはもう悩まない、そりゃ人生長いしまだ完成されたなんて言えないけど、人生観みたいなものの根っこはできたかな?というところまできた。
が、治らない。
自分の在り方に対する悩みはなくなっても、ふと気づくと、自殺衝動が出る、通り魔になって殺人する妄想をしている、自分は生きる価値がない屑だ、早く死ねと自分で自分をののしる。
生きることは絶対苦しいことだ、死ぬことは幸せだ。みんな死ね。
そういう独り言や脳内音声が頭に充満する。それ以外何も考えられなくなり、やる気が出ない、集中できない。
ちょっとした失敗、たとえばスマホを床に落としたりしただけで、お前は無能だ間抜けだと喚き散らす。こういうときは脳内でなく実際に声に出して叫ぶからたまったものではない。
スマホを床に落として自分を間抜けと罵りわめくこと自体がよっぽど間抜けなのだが。
とまぁ、それぞれに対して、自分なりの理屈で反論したり、本やネットで仕入れた精神学的な分析をして納得したりはできる。でも、収まらない。
反論分析すること自体、そういう思考を強化してしまうのではないかと、瞑想して思考をストップさせたり、はいはいあとでねと受け流したりした。
ある程度効果はあるようだが、すぐにぶり返し、抑制しきれない。
困った。
精神科に行ってみた。病気みたいだが病気ではないですね。はて、はい?
発達障害ですか?そのようにみえるがそうではないですよ。
要するに「健常」だが「未熟で幼稚な」「変人」というところらしい。
どうすれば?ときいてみたところ、生きていくうちに自己コントロールの経験積むしかないですね、と。
他のとこ行ってみたら、同じく病気でも障害でもない、ただ、そういう衝動は薬で抑えるしかない、とも。
でもちょっと薬は怖いので遠慮しといた。今少し後悔。
普通の人でも、落ち込んだり、失敗して自分を責めたり、後悔したり、そういうことはあるだろう。
でも、その場合、どういうことに対して、どのような内容で、どのように、どれだけ、自分を責めるんだろうか?