格差社会って言うと経済的なそれが真っ先に思い出されるし、議論の場ではまず九分九厘それなんですが、それ以外にも沢山あると思うわけですよ。
それは時として経済的な格差よりも絶望的な断絶としてあるんじゃないでしょうか。
もちろん経済的な格差は大問題です。(経済的)貧困はそこを起点として様々なレイヤーを破壊してしまいます。
人間の価値が肉体労働の出力とほとんど同じ意味だった古代社会。「技能」が発見されて職人的存在が出現した古典、中世社会。農村部では、つい100年ほどまえまで、その人間の価値は(肉体的)労働力でありコミュニティの成員としての奉仕能力であり、コミュニティ維持のための生殖能力でした。そこでは性別や年齢などのざっくりとした要素さえそろえれば、「わたしとあなた」は代替可能な存在であり、だからこそ養子なんてのもさらりと行われてきたわけです。
でも50年前、100年前、200年前に比べて豊かになった現代社会において、またWebが隅々まではりめぐらされて「わたし」や「あなた」が隠しようもなくルポされてしまう現代において、「わたしとあなたの間にある格差」という問題はどんどん肥大化してきているようにに思えます。自由や人権を教育される現代社会において「わたし」と「あなた」は自意識レベルで交換可能な存在ではありません。なにより、人間の能力が肉体的な労働から別種の労働にかわった現代社会において、「わたし」と「あなた」の間には、生産性で10倍どころか100倍以上の差がつくことも少なくありません。
(あのクソ同僚の書くコードとオレの書くコードが同じ時給換算で計算されるとか、冒涜だ! みたいな)
しかし労働x生産性に関していうと、労働市場のマッチングだと職業訓練だのという形で「なんとかしよう」という意識が社会にありますが、それ以外の格差については割合無頓着に見えるのです。
たとえばの「はい、面白いこと言って!」なんてフリにたいしてA君は上手く対応できるけれど、B君は上手く対応できない。そういうことはあるわけです。
あるいはそれは「はい、彼女作って!」でもいいし、「はい、あなたの将来を設計して!」でもいいし、卑近な話で言えば「はい、はてなスター100個あつめて」でもいい。
要約すると「なりたい自分になって」と言うことなのだと思いますが、ここに格差はあるわけです。
たとえばA君は年収500万円の労働者にはなれるかもしれない(し、その社会支援はあるわけ)ですが、「なりたい自分」たとえば「リア充」になるにはルート設計がないわけです。
そんなもん当たり前じゃないかといわれれば当たり前です。才能なんだから諦めろよ、もいま現在通用すると思います。
しかし重要な問題ではあるわけです。理由は幾つもありますが、まず、経済的な格差であればある指標を決めて社会が救済することは出来るわけですね。たとえば生活保護とか。最低賃金とか。でも、「なりたい自分になれない格差」については現在のところ社会システムでのケアが不十分。職業選択の自由とか、男女の雇用格差解消とか、それくらいしかできてない。「人気絵師になりたい」には対応していない。
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