はてなキーワード: 破綻とは
ニッポン放送のラジオショッピング売上記録ホルダーの塚ちゃんこと、塚越孝アナ。
塚ちゃんが亡くなって10年が経ち、ラジオショッピングの売上がいまだに破られていない&いまだに偲ぶ会もできていないということで
様々な関係者に聞きいた話から、塚ちゃんのお台場人生を振り返ってみる。(時系列はあやふや)
先に申し上げておくが、塚ちゃんや関係者を貶めるわけではない。
関係者それぞれの考えもあるし、内で思うべきこともあるだろう。
ただ、まさしく人間ドラマとはこのことだと言いたい。自分だったら番組化したいくらい。
そして、この人間ドラマから、亡くなってしまった塚ちゃんに朝から大変バカヤローと叫びたい。
2012年当時のフジテレビは視聴率三冠を逃しているにもかかわらず、三冠の亡霊に憑りつかれた状況だった。
外部からは選択肢の2~3番手、にもかかわらず社内のプライドは1番手というギャップから
スポンサーや代理店、制作会社から出入り業者含めてギャップが顕在化し始めていた。
特に局内では右肩上がりはインターネット関連の部署(旧デジコン局、当時はクリエイティブ事業局)だけになっていた。
FOD売り上げ規模は小さくても、右肩上がりということで株主総会でもクリ事の話をするくらいの状況だった。
そんな塚ちゃんはアナウンス室にいた時から、デジコン局のポッドキャスト番組に出ていた。
塚ちゃんがナビる落語番組はappleから表彰されるくらいの規模で、若者向けデバイスでアクティブシニアにもリーチできるということで
パトロンという仮面をかぶった先進的なスポンサーには意外とウケが良かった。
(その時点でF1ターゲットのフジでは異質だったが、地上波とのカニバリを避けられたし、
逆にBSフジは親和性があって波を使わせてもらうこともあった)
塚ちゃんのデスクはいつも本が山積みで、アナウンス室の中でとても目立っていた。
本の壁でパーテーションをするかのごとく、本をデスクに積みあげ、
本に隠れていろいろコソコソやっていて、アナウンス室の中でも浮いていた(しょうがない。。。)
塚ちゃんがお台場に来たのは、ライブドア事件でニッポン放送がフジテレビの利益を使えなくなってしまってことに起因する。
ここらへんはライブドア事件をググってほしい。
ニッポン放送は本業以外の収益がなくなり、本社屋の建て替えもありバランスシートが破綻寸前だった。
持株会社制に移行したことを理由に、ニッポン放送で人件費の高い社員をまとめてフジに転籍させることとした。
そこでやってきたのが塚ちゃんだった。
実はニッポン放送は社屋の建て替え時に、スタジオをフジのデジコン局近く設けていたこともあり、
塚ちゃんはアナウンス室よりも、現場フロアのほうが安心している感じだった。
フジにきた塚ちゃんはニュースや情報番組の特集枠ナレをやったり、CSの自社枠紹介番組をやっていた。
ただ、ラジオノリなので、どうしてもテレビ周りの動きができなかった。
例えばラジオなら5秒無音で放送事故だけど、テレビは絵で訴えかけるシーンだったりする
でもそれがわからない、すべて説明し、相槌を入れ、常に話し続けないと気が済まない。
塚ちゃんだけではなく、ニッポン放送転入組の8割がテレビには合っていないと思われてた。
2割のプロデュース企画系の人は優秀だったけど、都市部から離れてアンテナが鈍ってきていた。
そんなこともあって、転入当初はニッポン放送での業務に近しい業務をしていた人たちも
3年目あたりから異動し始めた。そう、主に窓際への異動だ。会社の看板ではない
本人たちはいつかは有楽町(ニッポン放送)へ戻りたい/戻れるとよく言っていたそうだ。
塚ちゃんの思いは強く、日枝さんにも直談判していたそうな。
そんなところで、アナウンス室を出る内示が出たが、塚ちゃんは内示に反対し、
アナウンス室を出なければならないないら、少しでも出役が期待できるクリ事を希望し、
人事発表の時には異動先がクリ事に変わっていた。
2011年にクリ事に異動して、また塚ちゃんは悩んだんだと思う。
クリ事としてはもう招聘出演者ではないので、手厚いフォローはしないということ。
それこそ、右肩上がりだけど規模の小さな事業部だからメイクさんも使えない。
ロケ現場でも、ゲストにはメイクさん使えるけど、塚ちゃんには使える費用が捻出できないとか。
さらに、功を焦る中途入社の年下上司から塚ちゃんへの暴言の数々・・・。
口では一兵卒から頑張ります!と挨拶しても、内心では塚ちゃんのプライドはズタズタですよ。
1年クリ事にいて、自分の今の置かれた立場を認めなくなかったんだろうね。
その年も、日枝さんにも直談判していたそうな。それで今度こそニッポン放送に戻るんだと。
2012年6月25日(月)内示の直前まで周囲にそう話していたが、昼過ぎの内示では塚ちゃんの担務は何も変わらなかった。
内示の後の塚ちゃんの姿を見てる人/覚えている人はいなかった。
そして、内示の翌日2012年6月26日(火)に、デスクに塚ちゃんの荷物があることを、誰も気に留めなかった。
いつもだったら重役出勤のはずなのに、朝から荷物があることがおかしいと誰も気づかなかった。
編集明けの早朝スタッフですらそうだった。内示も終わったから気持ち引き締めて当日午後の収録ために朝から出社してくれたんだと勘違いしていた。
2012年6月26日(火)午後にポッドキャストの収録だったが、社内の収録現場に現れなかった。
今まで収録に連絡無しで来ないことはなかったので、いよいよザワザワしだした。
夜になり、荷物がそのままでありながらも携帯電話が通じないことで、不審に思ったスタッフが部長級に相談し動き始めた。
部長級は社内への相談、スタッフは塚ちゃんつながりの場所や関係者たちへの連絡や訪問。
そして、そのまま翌日2012年6月27日(水)になる。依然として行方知れずの中、午後になり、警備から発見の連絡となる。
年下上司は遺書の有無についてやたらと気にしていて、スタッフに何度も確認で詰め寄ったとか。
2012年6月26日(火)没となっているが、見つかったのは27日(水)
入退室ログの最終入構が25日(月)だったので、おそらくは25日(月)の夜にお亡くなりになっていたと思われる。
関係者それぞれの考えもあるし、内で思うべきこともあるだろう。
ただ、毎年この時期になると、塚ちゃんのハチャメチャな緩急つけた振り回し方が無性に恋しくなる。
もしかしたら、今の日本を元気つけられたのかもしれないなぁと思い出してしまう。
塚ちゃんよ、2002年にニッポン放送を退局したときに、政治家にでもなってりゃよかったんだ。
話すことを生業としたいのは分かるが、自分一人だけで孤独な闘いを続けなくてもよかったんじゃないのか。
それこそリスナーと塚ちゃんの逆人生相談室をスイングしてもよかったじゃないか。
残された人のことをどう思っているんだ?天国では横澤さんとどんな話をしているんだ?
ラジオのことはどう思っているんだ?今だったらyoutubeで話し放題できたんじゃないか?
合掌
研究の専門を問われると、答えに窮する。一応、思想史をやっているのだが、思想史というとよくわからない。そこで簡便のため、歴史をやっています、と答えることもある。しかしこれこそ、全く間違い千万の自称である。日本史研究として自分の研究を認めてもらいたいと、何度も歴史学系の雑誌に論文を投稿したが、一度も採用に至ったことがない。査読結果に書いてある不採用の理由は簡単である。僕の論文はあまりに思弁的すぎて、実証性を欠く、というのだ。この指摘は、思想史の立場にいるものにとっては、非常に頭の痛い指摘である。思想史の分野では、あまりに事実の羅列に過ぎて、思弁的でないということが批判の対象となる。思弁的な論理を合理的に組み立てることに研究論文の眼目がある。これが、歴史学と真逆なのである。
思想とは、人が思ったこと考えたことであり、思想史とは、人が思ったこと考えたことの歴史である。しかし、人の考えたことがそのまままるっと資料に残されていることなどまずない。大著をいくつもものした人であっても、そこに書かれていることに矛盾があったりすると、その人が何を考えているのか途端にわからなくなったりする。一つ一つの概念も時代によって、また人によって意味が異なり、それをどのような意味で用いているのかを確定するには手間がかかる。そして、そうであるからこそ、思想史研究の叙述は思弁的にならざるを得ない。単に書かれていることではなく、書かれているものと書かれているものとの間の関係、書かれた時の状況などから、総合的にその時その人が考えていたことを明らかにするからだ。新しい資料を積み上げて細かく実証しても、矛盾と不整合が増えるばかりでどこにも辿り着けなくなってしまう。ここが、細かく明らかにすればより解像度が上がる歴史学と、思想史学とが決定的に異なる部分だ。
だからといって、思想史学が歴史学でないというわけではない。人の営みを分析するとき、どのような政策が出されたか、どのような契約が行われたか、何について合意したか、といったことを分析すれば、人の営みの歴史はわかるが、なぜそれらの人々がそれを行ったか、ということについては十分に明らかにならない。たとえば、資料を発掘すれば、太平洋戦争期に戦争協力をした人などいくらでも新しく発見することができる。しかし、その事実をいくら指摘しても、なぜその人たちが戦争協力をしたのか、どう考えてそれを正当化したのか、あるいは正当化せずとも正しいことのように考えているように振る舞ったのか、ということについては、何もわからないのである。何の思想史的分析もなしに、その人たちは国に騙されたのだ、とか、ファシスト的心性を抱えていたのだ、と断じることは、客観的な見方ではない。なぜ戦争協力をしたのか、ということについては、一人ずつ、その人の生きてきた人生、書いてきたものを取り上げ、分析し、その人の価値観、優先順位、置かれていた状況、表現の戦略といったことを、コツコツと吟味していかなければならない。その時に取り上げる資料がすでに広く知られていたものであったとしても、その資料から思想を読み込んでいくという作業がそれまでなされていなかったというのであれば、その研究には新規性があり、意義があるのだ。あるいはその場合、たとえば検閲や弾圧があったり、出版の事情が悪かったりして、かえってその人の考えを示す何の手がかりもないということがあり得る。それでも、ある人の思想を総体的に分析するという場合は、合理的な範囲でその人の考えの範疇を示すぐらいのことは、しなければならない。そうした思想史的分析を、実証的でない、と切り捨ててしまえば、いつまで経っても平板な人間理解しか、歴史の中に生まれない、ということになってしまう。
さらに厄介なのは、思想史的分析の結果が、概念だけ取り出すと、既存の研究との違いがわからない、という場合である。たとえばある歴史上の人物Aが主張したXという概念が重要だったとして、当然様々な歴史研究はAはXを主張した、と論じる。そして、思想史研究がそのXについて分析し、それはこれこれこういうXであった、と論じたとしても、その研究を遠目から見れば、やはりAはXを主張した、という論文に見えてしまうのである。思想史研究者の間では、「これこれこういう」という、そのXに至りそれを規定するところの論理が重要になるわけだが、歴史研究者には、その論理の中に何か新しい資料だとか、裏付けるこれまで知られていない資料だとか、そういうものが入っていないと何が新しいのかわからない。AはXを主張したという歴史的事実に変わりはないではないか、というわけである。先の戦争協力の論理で行けば、いかなる理由があれ、結局皇国日本を肯定して戦争協力をしたではないか、というわけだ。それで結局、その「これこれこういう」という論理の部分が思弁的で実証的でないと歴史研究者に批判されることになり、思想史と歴史との間の溝はますます深まるばかりなのである。
これは研究分野、手法の違いということで、仕方ないことなのかもしれない。だが、だからと言って思想史研究の新規性が学問上無意味だということにはならない。全ての人間の行為にはその人の思想が伴っているからだ。
* * *
以上のことは全てイチャモンである。僕の思想を表したものではない。実際のところ、僕に宛てられた「思弁的である」「難解である」という査読結果は、「お前の論は一貫しておらず破綻しているのでまず論文になっていない、小学生からやり直せ」という意味であるから、変に解釈して大きな敵と戦わないようにしたい。論理はシンプルに、証明は実証的に、新規性は明快に。それに沿ってたくさん書けば、評価も頂けて、就職もできるというわけだ。僕にはできない。せめて諸賢の憐憫を乞う。
男性が女性にAEDを使うリスクの議論が何度目かの盛り上がりを見せている件、「まーたミソ男がこの世に存在しない妄想女をでっち上げて藁人形相手に女叩きしてるよ」と揶揄する向きも多いが、
議論を通じて「女性はAEDを使った男性を訴えてはならない」という有益な社会的合意を形成するプロセスが進んでいると前向きにとらえるべき動きではないだろうか?
「AED使った男を訴える女は存在しないんだな? 万が一訴える女が出たら、社会はその女を嘘つきの金目当ての詐欺師か狂人扱いしてどれだけ殴っても良いんだな? 訴えられた男は罪なき被害者として最大限の共感と支援を受けられるんだな? 言質取ったからな?」
という男女間の停戦合意の文言を詰めるプロセスがこのAED議論の本質と言えないだろうか。
この社会的合意が成立したら、男性はAEDを女性に使うリスクが無くなり、女性は見殺しにされるリスクが無くなるのだから、ほとんどの男女にとって利益になる。
唯一割を食うのは、「本当にAEDを使った男性から痴漢行為を受けた女性」で、彼女が正当な権利の行使として性犯罪者男を訴えたいと願ったとしても、同性からさえ「あなたが嘘をついて騒いだせいで男性が女性にAEDを使わなくなって私たちが見殺しにされる。この人殺し!」というバッシングを恐れて泣き寝入りすることになる。
しかし一件でも「女性にAEDを使った男性が訴えられる」ケースが起きれば男女間の信頼関係は永遠に破綻して二度と回復できないのだから、やはり「本当にAEDを使った男性から痴漢行為を受けた女性」には黙って犠牲になってもらうしかない。
もしクルド人が独立国家を持つ権利を国際社会が認めたら中東が今以上に滅茶苦茶になって、日本のガソリン代がもっと値上がりして、私が自給820円のバイト先に通うのに車を使ってたら生計が破綻してしまうので今後は暑い中自転車で通勤する苦痛を味わうことになるのだから、各国が「存在しない民族概念を掲げるテロリスト」扱いしてクルド人を虐殺するのを放置するしかないのと同じことである。
いるし、お前の偏見じゃん
でもゴミクズみたいな男と付き合い続ける女は普通に多いし、別れる気もないのにそこらじゅうで愚痴ってるじゃん。
結局、女は相手の顔面レベルでしか判断してないから。だから男も女の事を顔面レベルでしか判断してないと勘違いして元増田のような事を書いちゃうんだよね。
強いて言うなら犯罪者は男が圧倒的に多い。
学生の頃は患者さん一人に一人に寄り添った看護がしたいと思ってた
でも実際に自分が就職した病院含め同期が就職した病院でもどこいっても死ぬの待つだけみたいな高齢者が沢山いる
鼻とか腕とか尿道とかいろんなところから管が繋がれまくってる骨と皮だけの体
寝たきりだから床ずれができたり排泄物の量が多くて陰部がただれたりするし栄養状態悪くて皮膚状態も全然良くならん
心臓やら腎臓やらが機能不全を起こしてるから看取り目的で入院してるのに全然2〜3年生きてたりする
その医療費だってわたしたちが支払った税金で賄われてるんだよね
意思疎通もできない高齢者が私たちの税金で長生きさせられてるのが全部無理になった
手取り13万で人の生命預かれるくらいの責任が生まれると思うか?
自分が生きてくのに精一杯な給料で、人の命預かるために必要な勉強やら看護観(笑)倫理観(笑)なんて考えて働けるわけない
やりがい搾取だよ
「訴えられたら戦うのみ。」
バーーーカ
ここでワガママを書き込むのが問題解決にどう寄与するっていうのかな?
言動が破綻しているのは、自己中な自分の本質から逃げているから
実は、社会は君ひとりで成り立ってるわけじゃないんだよ。
昨日は午前中病院に行き、その後ネカフェにシャワー浴びに行き、昼から半日友達と遊んで、夜は男の人と会って日付変わる頃家に帰って、信じられないくらい行動的な1日だった
病院ではそろそろ薬を減らしてもいいんじゃないかと言われて慌てて拒否した
脳内多動も全般的不安もずっと前から続く先天的な特性で、唯一それを抑えられる抗うつ剤は一生飲んでいくくらいのつもりだった
長期間飲むと飲まないのと同じになってくるのかな
それでも止めるなんてまだ考えられないな
病院終わった頃に前回の男から連絡来て、迷ったけど夜一緒に食べることにした
これがセックス前提だったらめっちゃやだなー、でもスペックでしか見てない私と性欲でしか見てない相手、人間性をぼやっとしか見てない同士お互い様だしそれがまさに東カレだよな、と思いながら一応ドラスト寄って神田のネカフェまで行ってシャワー浴びたり色々整えた
すごく癒やされた 心が潤った
お昼食べて、買い物してカフェ行って沢山喋った
その子が前男の子とデートしたーいって言ってたのを思い出して、男の子と遊ぶのってやっぱり楽しいの、と聞いてみた
やっぱり楽しいんだって 女の子と遊ぶのとはまた違って、会う前に髪や化粧を整えるときのときめきとかを話してくれた
えー!そうなの!とかはしゃぎながら、うっすら罪悪感を感じもしたけど、そういう感覚を知らないのは本当だから別にいいのか
ただ男の人と2人で会ったことある?って聞かれて、無いって嘘付いちゃった 駄目だわ
別れ難かったけど、次の約束が迫ってたので別れた
駅前に着いて初めて、まともに顔も覚えてないことに気づいた
手を振ってきた人を見て、ああこの人だったかも、と思い出した
普通に傘を差そうとしたら、一緒の傘に入るのが普通だったぽくて入れてくれた 全然自分で差すんだけどな
目星をつけておいてくれたお店が2軒ともすぐ入れなくて、看板が出てたお店になんとなく入ってみたらなんと貸し切りだった
でも俳優さんのサインとか飾ってあって、いい感じのおじさんが説明しながら料理出してくれるいい感じのお店だった
ずっと貸し切りで静かで性的な話しづらそうで相手はちょっと残念そうだったけど、料理がめちゃくちゃ美味しくて超当たりのお店だと思った
なんとなく学生時代の話とか、なんとなく職場の話とか、そういう話しながらおいしいごはん食べてそれでいいのに
日和って弱いのしか飲まなかったから、全然酔ってないですね〜笑って言いながら傘差したらじゃあもうちょっと飲も、って傘閉じられた
本気で2軒目行くと思ってた 初心だな
差してもらってる傘に入って腕を回されたら驚くほど自分に主導権が無かった
男といるときに迷うことは男の意思に従うことと同じだと前回学んだのに、改めて自分の非力さに驚いた
半分本気で動揺しながら、半分悔しかった
私に性的興奮があるとすれば、それは非日常的なシチュエーションと相手を喜ばせることへの快感で、脱がされてる時がピークなんだなと思った 本番はもう早く終わんないかなって思いしかなくなってしまう そう思いながらかわいこぶってる
疲れた!長い!セックスなんてもうしない!って思いながら、前も同じこと思ったのに…って虚無になった
私が人肌を感じるのは家族だけなのに、抱きしめられて横になってるときこれは人肌じゃん、と思った 人肌を全身で感じることなんて子供の頃に両親や祖父母に抱きかかえられたりしたときしかなくて、確実に家族愛に結びついたものなのに、性行為でそれが生じるのか
性行為が夫婦間の行為であり子作りの行為であることを考えれば矛盾は無いのかもしれないけど、私の中ではまだ家族愛と性欲は同時に存在できない
例えばこの腕の体温に家族愛を感じる日が来るかもしれないということか、試しに一回そう思って素直に体重を預けてみようか、とか考えてたらどこを触ってほしいとか言われて何もなくなった
男ってもしかして女も男と同じくらい性欲があると思ってるのだろうか
初心でいることが喜ばれるのは2回目までくらいかなと薄々感じた 今はあんなに可愛い可愛いと言われて抱きしめられていても、私がいつまでもセックスに主体的にならなければ繋ぎ止められないだろうな
でもセックスに積極的になることだけはどうしても無理だ それは自分に完全に嘘をついてる どうしても無理
好きな人だったら違うのだろうか 仕事頑張る姿とか見たらもしかしたら好きになるかもしれないのに、夜しか会わない関係の時点で破綻してる
いろいろ考えながらオリックスのユニフォームを着たポンタのぬいぐるみを見つめすぎてポンタの顔がゲシュタルト崩壊した
仲良くなりたい気持ちがあろうとなかろうと、とりあえず話すなら「ポンタはオリックス着てるのに壁にはベイスターズのユニフォーム掛けてあるの、どっちも応援してるの?」みたいな話がしたい ここ触って欲しいとかもう一回やりたいとかそういうことばっかり、疲れちゃう
それでも関係を切らないのは学歴と学歴に由来するまともさが切るには惜しいから 最悪 だけどお互い様だよ
普通に結婚したいだけなのに、そのためにはセックスに積極的にならないといけないのだろうか それともこれは普通の恋愛とは全く違うものだから一緒に考えちゃいけないのか
相手は何の目的でこういうことしてるんだろうか 性欲処理だけかな でもそういう私はなんのためにやってるんだろうか
普段いろんなことを考えてるだろうに私には性的なことしかしないし話さないの、性欲処理目的なのは明らかなのにな
性行為には男は視覚的興奮を、女は精神的な繋がりを求めるって本当そうだな
新しい学校のリーダーズのスズカちゃん、めっちゃ好きだ…
※ネタバレ注意
前作の『オトドケモノ』は、細かく見ていったら多少の曖昧さや一貫性のなさはあったりしたものの、
大筋では破綻はなく、最終的なオチまでの伏線は作品内で描写されていた。
しかし、今作のオチはすごくご都合主義的な後付けな上にSF的な整合性もかなり怪しい。
その副作用として謎空間でない過去の時点に元の姿で戻すのは都合が良すぎると感じた。
しかも絶妙に未来にいた記憶は残っているので、翔太はこの後アキラに対して丁重な対応を取るから、