はてなキーワード: 牛歩とは
野望を叶えたいという欲望が弱まるからだと思った。100%主観情報。
性欲的なものから地位、名誉などが根源的なものだろう。おそらく突き詰めていくとすべての人間が該当する...と思う。
これらを一応野望と呼ぶことにする。
この野望を叶えるために頑張ろうとする。
しかし、ある程度年齢を重ねるとすぐにやれることはある程度やり尽くしてしまう。
そうなると足踏みするか、牛歩のような進捗が続き、気がつくと野望が見えなくなる。
プログラマ定年説もこの野望を見失うことが原因だと思った。
日々の学習が辛いというよりは
始めたての頃は何もわからないけど、とりあえず動いたとか、改変した、そしてWebページが見れたとかモバイルアプリが動いたとかあるだろう。
その時点でマネタイズなんて考えていないと皆思っている。しかし心のそこでは思うのだ。わんちゃんあるんじゃないか、と。
そうしてズルズルと何年も浅瀬をノロノロとさまよい、気がつけばいい歳になり、浅瀬は歩き尽くす。
深いところは怖くていけない。体力がないなどと言い訳を作る。
こうしてこのまま朽ちていく
ほどではないかもしれないが、当初わんちゃん思い描いていた野望は気がつけば見えなくなる。
今でも正しいと思う。
でも俺も同じようなものだ。いや、自分のことだからもっと馬鹿だ。
宝くじを買う馬鹿共は所詮そいつらの人生のリソースを無駄にしているだけだからどうでもよいが、
①事故が起きたのは「辺野古基地前」ではなく、15km離れた名護市安和
②誰も「座ろうと」していない。牛歩
③歩道を歩行者が歩く牛歩はただちに「違法行為」にはならない
④抗議の女性が重傷であることには触れない
死傷者2人の重大な事故を、デマ拡散と沖縄攻撃に使わずにいられないのがひろゆき氏。 https://t.co/P14vvSKuAU— 阿部岳 / ABE Takashi (@ABETakashiOki) June 29, 2024
すべて当事者が自ら公開している情報だ。このやり方が正しいと思うなら逃げも隠れもせず遺族に釈明すればいい。
おれは普天間基地の近辺に住んでて騒音にはそこそこ迷惑しているが、それを全て差し置いても俺はお前らの側には一生立たないからな。
”機動隊員がいないためダンプの前に立ちはだかるなどして、粘り強い抗議を午後5時近くまで続けた。”
https://standwithokinawa.net/ja/2021/03/19/2021mar19news-ja/
http://standwithokinawa.net/wp-content/uploads/2021/03/DSC04699-780x439.jpg
"団体は、本部町島ぐるみ会議。県内外から集った市民が通常よりも多い人数で、牛歩による抗議・阻止行動を、主に辺野古埋め立て土砂運搬のダンプトラックに対して繰り広げる。"
"参加者の多くが琉球セメント安和桟橋へ向かい、そのダンプ出入口での牛歩行動を行い、結果として、埋め立て土砂運搬をかなり滞らせることができた"
本部塩川港・安和桟橋での不屈の闘いが、埋立土砂搬出ダンプ数を減らしている!
https://blog.goo.ne.jp/chuy/e/6c2c16d5eef5734ad63835a98a442802
ほか
www.youtube.com/watch?v=l9z9Qk6CbCg
www.youtube.com/watch?v=36TzDtNNRKY
www.youtube.com/watch?v=5EwUo9XJFBI
www.youtube.com/watch?v=lD0beYYrZYM
数十年かけて牛歩で進めてようやくいま導入しようとしてるんだぞ
ちょっと前の増田の解説で内訳が示されたけど、「姓を捨てる必要があるから結婚できない」なんて人はデータ上ぜんぜん居ないわけだ。金や出会いに比べれば些細すぎる問題。
夫婦別姓が婚姻率にも出産率にも他の政策とくらべて寄与しないとなると積極的に推進する動機にもならんわけな。
択一ではなく出来ることは全部平行してやれって話にしても優先度は下の下の下下下の下でしょ。
夫婦別姓のメリットって結婚をやめるほどの不利益ではないけれど姓を捨てたくはなかったっちゅー人たちの気持ちが浮かばれるのと変える側のもろもろの手続きぐらい。
そんでもって導入したらしたで同姓別姓どちらを選ぶかという選択の自由や子供の姓の選択など新しい問題も出ることも明白で、こんなもん本腰入れて可及的速やかに論じる必要ないわな。
●ディズニーアンダーグラウンド(地下に潜んだミッキーたちと一緒に工作活動をしよう)
●ディズニースペース(宇宙ステーションにある。往復費用含めて1000万円かかる)
●ディズニー4thディメンジョン(4次元世界にあるディズニー。行くと二度と帰ってこれなくなる)
●ディズニーヘブン(死んだ後に行けるディズニー。善行を怠るとディズニーインフェルノに堕とされる)
●ディズニーちいかわ(ミッキーたちとちいかわの国に行こう。草むしり検定も受けられるよ)
●ディズニー温泉(適当に考えてたけど意外と良さそうなので今回はこれイチオシ)
私は傘を持っておらず、この先少し歩けばアーケードのある商店街があることを知っていた。
そこまで行って傘を買おう。
そう思って、商店街へ急ごうとした。
彼女たちは相合傘をしていて、傘を持っていない女の子の方を庇うように傘をさし、
濡れないようゆっくり歩いていた。
彼女たちは牛歩のように歩き、道は塞がれ、私はびしょびしょに濡れながらゆっくり進むことしかできなかった。
ああ、そうかと私はそこで人生について悟ったような気がした。
誰かにやさしくするというのは、同時に誰かを冷遇することなのだと。
一人を救うことは同時に一人を救わないことなのだと。
岡崎律子を知ってる人は多くないとは思うけど毎年この時期になると思い出してしまう。
そのうちどこかの記事にまとめるかもしれないけどそうなっても許して欲しい。
2004年3月17日に彼女がリーダーをしていたメロキュアのベストアルバム『目処ディアスハードキュア』が発売された。
彼女の作る楽曲、歌声は俺の荒みきった心にスーッと染み渡る即効性があった。
本当に生活や世の中への不安を共感してもらえたような気持ちになれた。
CDが発売されてかしばらくしてストアイベントをやるとの告知が出た。
たしか突然だったと思うけど当時飛ぶ鳥を落とす勢いで調子にのっていた俺は
「こういうのは発売前に告知しろ!コロムビアは常識が無いのか!?」
「もうアルバム買っちゃったしどうすればいんだ!」
などと思ったのかもしれない。
渋谷のHMVでのイベントはアニソンには似つかわしくない場所だよなと感じたのは覚えている。
そもそも当時44歳の彼女は表に出てくることはほとんど無いのだ。
俺は勇気を振り絞ってヤングの街渋谷の領域に行く決心を固めた。
今にして思えばこれは虫の知らせだったのかもしれない。
イベント当日の2004年4月6日渋谷に場違いな俺、いや、俺達は100人くらいだったと思う。
HMVのCD売り場にちょこっと作られたイベントスペースに集合させられた。
表現は悪いかもしれないが、ソーセージの試食や半額弁当に群がるハイエナの如き様相だった。
ハイエナ共を囲った鎖の外には望月久代も来ているのも確認できた。
明らかに業界人じゃないし通りすがりの一般人でもない普通の人が何人か認められた。
この時受けた感銘は一生忘れることはない、し、この気持に異論を唱える人は誰ひとりいないと思う。
彼女は『ふたりのせかい』では振り付けまで披露してノリノリだった(この振り付けはこの楽曲を耳にするとついやってしまうくらいお気に入り)。
MCでは(別に嫌というわけじゃなかったけど)はしゃぐ彼女と、イメージとの違いに若干の違和感はありました。
相方の日向めぐみも「リーダーはしゃぎすぎだからもっとおさえて!」と訝しげにしていた。
握手会でも彼女は丁寧にコミュニケーションをとっており、日向の流れ作業とは本当に対象的だった。
ものすごい牛歩だったけど、そろそろそのくらいで!とか声を荒げるスタッフはいなかったのも印象的だったな、やるじゃんコロムビア。
そしてそれは突然訪れた。
イベントから1ヶ月後の2004年5月12日に彼女の訃報が読売新聞に掲載された。
俺達は知るすべは無かったかが2004年6月6日の読売新聞の追悼渉によると1年ほどの闘病生活だったそうだ。
2003年の5月に胃ガンと診断され翌月から入院、病室にキーボードを持ち込みでクリエイティブ作業を継続。
(ちなみにこの記事に掲載された彼女の写真は2004年の3月に撮影されたものであった…)。
日向めぐみ、望月久代の「なんて目をするんだ…」という様相は俺達に向けられた侮蔑の眼差しではなかった。
場違いな普通の人たちはケアマネさんかもしかしたら医療関係者だったのかもしれない。
このような状況下で『メロディアス・ハードキュア』は造られ俺達に届けられたのだ。
突然のイベント告知は彼女の体調次第、おそらくは彼女がわがままを押し通したのだろう。
正確なところを知るすべは無い…しかし俺は感じ取ることは出来たのだ…
昨夜は処方してもらった薬二錠を飲んで就寝したものの寝起きは優れない。
朝ごはんはパソコンデスクで食べている。モニターには今朝のニュースなんかが垂れ流れていて、YouTubeに切り替えた。
こんな時間でもスト6のライブ放送をしている人というのは案外居るもので、その中にはちょうどザンギも居た
ザンギ使いなのでこのライブ配信を見ながら朝食を摂り、それからメールの確認等雑多な作業をこなしていく。
頭はぼんやりとしていて気が乗らず、カフェオレを作る。牛乳は多め。それを飲んでもあまりシャキッとはせず、どちらかといえば勝るグダグダ感。
有名格ゲーマのライブ配信も始まり、それを聞きながらの作業。しかし昨今今はやるべことが多すぎて積んでいて、どれから手をつけようかと迷いだす。
とりあえずは、納期が一番短いものから手にかけよう…と作業を始める。マルチタスク。音楽やらニュースを聞きながら並列で各設定を構築し、会話の内容を執筆し、それから音楽の選定もだ。
少しずつ、ほんのわずかながらも進み、あっという間に昼となる。
昼は朝と変わらない簡単な飯にした。厚揚げうどん。もやしつき。あじはまあまぁ普通。それだけ。
午後になるとカフェインの過剰摂取のため頻尿過多に頭痛が顕在し、ふらふらする。やる気、どころの話ではなく、頭の中を嵐が通り過ぎているような感覚。
とりあえずノンカフェインのお茶(麦茶)や水をかぶかぶ飲み、少しずつ体を落ち着かせていった。
おかげで午後の業務は牛歩のスピードで、結果的に進んだのは微々たるもの。
外は寒いので結局出かけず、夜になると雑にPC使って過ごす。それと習慣の読書を少しだけ。
本はソンタグの『反解釈』。まだ読み始めだがとても面白い。ある種の罠、批評家が批評家を批評するときのトラップ”その批判はあなたにも向けられているのではなくて?”をソンタグは意識して書ける批評家なのでその辺りの身の躱し方やら矛先をあらゆる方向に向けたりするテクニック的な面も含めて非常に面白い。
飲み干しながらこれを書く。
綺麗なんだよね、具体的に何がってわけじゃないんだけどさ
薄曇りの朝、肌寒くて風が強くて、それでも空は青くて高い、太陽光は間接的に建物を照らして、遠くには変哲のない山、ただ濃いグレーが木や土や石の多くの集まりによって作られているだけ
ただそれだけなんだけどさ
今思い出すとなんかこう、涙袋が熱くなるくらい、目の裏に刻んでおける景色なんだよね
今日過ごす一日のあまりにも長い時間に比べれば、そのトラックやらバスやら軽自動車やらの編み上げる音なんざ、全然気にならないんだよ
日常ってさ、こういう風に僕の真横を平行に貫く国道を駆ける自動車たちみたいにざーっと過ぎ去っていくんだけどさ
そんな自動車たちに追い縋ろうとして、僕はこんなものを書いたりしてるんだ
こんなことを書いたって所詮は徒歩、牛歩に近い徒歩なわけだから、何も追い縋ることなんて出来ず、ただ自動車的毎日にびゅんびゅん横を通り過ぎられ、圧倒され、蹂躙され、こうしてコンクリートの植木の脇に打ち捨てられた白い不織布マスクなんかを横目にまた一歩一歩なわけなんだけどさ
今、この目で見えているものを見えているものそのままに扱うと、とても鮮やかだよ
今日のタスクが、とか、今日は上司が、とか、気勢を削いでくるものは色々あるけど
目で見えている生のもの、それは国道を突っ走る自動車的だけれど、実は違うの
吸い込む外気も、空の色も、遠くの山も、建物の外壁も、国道沿いのトヨタやら日産やらの販売ディーラーも、葬儀屋も、iPhone修理屋も、洋菓子屋も、ガソリンスタンドも、信号も、母と子も、中年男性も
綺麗なんだよね、
たぶん誰も興味ないんだろうけどさ
最近積読が溜まりに溜まってしまったので、少しずつ本を読んでいるのだけれど、読むのが遅すぎて積み上げた本がまったく減らない。
平日は仕事して疲れてあんまり集中して読む時間がとれないので、それでも毎日本は開くようにして、だいたい1日10ページくらいをなんとか読み進めている。
休日になればそこそこ時間が取れるわけだけれども、まあ本を読むこと以外にもやることはあるので、せいぜい1日50ページくらい。
まあ、小説とかは夢中になれば寝食忘れて読んじゃうから例外はあるんだけれども。
ともかく、単純計算で1週間で150ページくらい、つまり月にだいたい2、3冊しか読めてないのだ。
これまでは月1冊どころか、数ヶ月でやっと1冊くらい、下手したら全く読んでない生活をしていた。
本を読むのって大事だなというか、あらゆることを深掘りしていくと大体は本に辿り着くよな、と気づいたのが最近だったので、にわかに本を読もうというモチベーションが湧き上がっているのだけれど、とにかく読書ペースが遅くて何も進まない焦燥感がある。
牛歩の読書をしているうちに読みたい本はまた増え続けるし、本は読み終わったら終わりというわけでもないので別に積読が減るというような感じもしない。
読み終わったばかりの本がすぐに自分の中に全てとりこまれる、というわけでもないので。
果てのない旅すぎる。
いつだって最初は楽しい。ギターポチって、届くまではYoutubeの初心者向け動画を漁って、エアギターなんかしちゃって、現物の到着を待ち詫びる。
エフェクターについても調べてみて、少し面倒臭そうな話が出ると飛ばし読みして、なるほどこれがツウ好みなんだななんて思う。ロクに練習もしない機材厨になっちゃうと困るからな、と調べ物を中断する。
やっと届いたギターを一目散に開封する。メルカリで売る事になったらこのダンボールも捨てずに……と一瞬よぎった考えを捨て去るように、ダンボールをへし折って束ねる。
アンプに繋いで音を出す。騒音トラブルはゴメンなので一緒に買ったモニターヘッドホンを繋ぐ。おお、エレキギターだ……
ローポジションのCメジャースケールとCコードだけは手が覚えている。ボヘミアン・ラプソディのギターソロは全く思い出せない。
2年前にも一連のこれと全く同じ体験をしている。強敵と名高いFコードに息巻いて、割とすぐ抑えられるようになった。ちょっとセンスあんじゃね?と浮かれたけれど、セーハなど数ある難所のほんの一つでしかない事を知って投げた。厳密には徐々に触らなくなって、埃をかぶっていく挫折の象徴が目に入るのが不快でメルカリ行きになった。
前回の反省を踏まえ、アンプラグだけではなくちゃんと10Wのアンプを買った。のちにマルチを買い、別にアンプは要らなかった事を知る。
そしてどんなに飽きようとも、毎日必ず基礎練だけはやろうと固く誓った。
ようやく楽器が届いて、待ち侘びた基礎練を試してみる。中々上手くいかないけれど、やりたい事が出来ない苛立ちよりメキメキ上達する楽しさがまだ勝っている。指が痛むけれど、この痛みが練習の勲章だと思わせてくれる。まだまだ浮かれている。
好きな曲の好きなフレーズを繰り返し再生しながら、自分がその音をかき鳴らす姿を妄想する日々。それは昔からだけれど、今はわずかながらも実現に近づいている事実にニヤつく。
基礎練習の練習を終え、ようやくまともな基礎練が出来るようになった頃、少し調子に乗ってOMOIDE IN MY HEADのイントロのリードギターに挑戦してみる。出来そうな部分だけを数小節ずつほどつまみ食いしているので、当然少しは弾ける。サマになってるじゃん。
でも数小節弾けた喜びは数小節分でしかなくて、それよりも以前は辿り着くことのなかったミュートの難しさに気付き、道のりの長さに気が滅入る。
カチカチになった指先が脱皮した頃、基礎練にはすっかり飽きた。もはやアンプに繋ぐのも面倒で、生音で弾いてばかりだ。
成長のボーナスステージは終わった。長い目で見れば今も猛成長中かもしれないが、そんな事は今のおれにはどうでもいい。牛歩も牛歩だ。
さりとて曲を弾くこともままならない。きらきら星や好きな曲のメロディを単音でなぞるくらいなら、まだ基礎練の方がマシだ。
Youtubeで憧れの曲のTAB譜を調べてみても、基礎練には出てこない技術ばかりで全く歯が立たない。少し挑戦しようとして、すぐ投げる。新宝島を弾こうと息巻いて買ったカポは、届いた翌日以降たまに使うおもちゃにしかなっていない。
全く楽しくはないが、基礎錬だけはやる。もはや新しい練習に移ることもなく惰性でしかないが、それでも毎日やる。触らない日がない訳でもないけれど、ほぼ毎日といっていい。
夏休み、ギターを触る時間の20倍スマホをいじっていた。田舎の祖母宅に行った時、せっかくだからアンプを持っていけと言われた。別にマルチにヘッドホンでいいけどな……と思ったけれど、一応持っていった。
フルテンで適当なコードをジャーンと鳴らしてみて、死にかけていた初期衝動がやや蘇る。
つまみ食いで覚えたOMOIDE IN MY HEADや閃光少女のフレーズを鳴らしてみる。気持ち良い。生音とは比べようもない。これはどんなに言葉を並べようが、体験しなければ分からないと肌感覚で理解した。
田舎でやる事もなく暇なので、スマホポチポチゴロゴロとギター練習を交互にやる。徐々にスマホの比率が増えるが、それでも日頃の練習時間とは段違いだ。
祖母宅にいる間の課題曲として、リライトに挑戦した。以前初心者向けの簡単な曲と聞いて挑戦したが、どこが初心者向けだよとキレて一瞬で諦めた。
かまいたちの番組観ながら延々と練習していたら、拙いながらもオクターブ奏法が出来るようになっていた。
完成はしないまま帰る事になったが、ギターへの意欲は復活した。
意欲だけは蘇ったものの、やはり好き放題弾ける訳ではない。
音楽映画の天才少年とは違って、デタラメに弾いても本当にデタラメな音しか出ない。よほどの天才でもなければ、即興演奏にはそれなりのセオリーを知る必要がある。お勉強は大嫌いだ。音楽がしたいのであって、音学がしたいのではない。
「ペンタトニック」で検索したタブはどのサイトも開かないままもう数ヶ月経つ。
体系的に学ぼうと息巻いていたコード理論は、もはや虫食いの知識でおおよその理解を迎えていた。理屈を知ってあとは抑え方を覚えるのみだが、やはり面倒臭い。
目指すものの輝きに目をくらませて、途中の退屈な道のりまでもを楽しめるよう錯覚する事は出来ない。
つまらないものはつまらない。でもステージでギターをかき鳴らす姿はかっこいい。フジロック出てェ〜
と口にした所で冗談と思われるか苦笑されるだけだが、割と全然マジで思ってる。実現するかなど些細な問題だ。
惰性にまみれて弾き続ける中、リライトを通しで弾いてみた。拙いながら、マルチのリズム機能を使ったらなんだかそれらしく思えた。その達成感といったら、快感といったら、映画やマンガやサウナや美食にかまけるそれの比じゃない。そこまでの過程を考えれば極めてコスパは悪いが、日々の糧、気晴らし程度の趣味からは得られないものがある。
およそ中級者の壁というものを超えた事がほとんどない。初期衝動に任せてえいやと通り一遍の技術を身に着けて、あとはそれなりに楽しみながら地道に……というのが出来ない。勢いに乗り切れない。最初だけはちょっと上手く行っても、すぐに飽きてしまうダメなタイプの器用貧乏だ。
「本当に好きな人は……」なんて言う人もいるが、他の人がどうだろうがつまらないものはつまらない。でもこのつまらなさを耐えた先にあるものがどうしても欲しい。前回投げた時とは違って片鱗を味わえたのは少し進歩だ。
「聞かなくなった」「どうなったの?」みたいなこと言ってるアカウント異常に増えてるけど、そういうのワザとじゃないなら牛歩し得になるからやめたほうがいいよ。
牛歩の歩みでやってるの
それ自体は否定しない、が、その裏で深く悩みを抱えるパパの存在を忘れないでほしい。
そういったレッテル貼りが横行している。
実際そんな人もいるのかもしれない。が、社会的に育児への積極参加などが後押しされた結果
当事者でない人が想像するよりも多くのパパが家庭に育児に奔走していると思う。
私自身、フルタイムで家計を支える仕事をしながら、掃除に料理、弁当作りに子供の送迎、土日は子供を遊びに連れ出すなど、全力で家事育児をやっている。
それでもパパは前述のレッテルがあるので、ちょっと愚痴でも零そうものなら
「家事もしないで」「ママはもっと大変」と四方八方から撃たれてしまう。
ワイドショーでも同じように父親批判。CMではパパ臭いが平気に扱われ、パパの周りは「パパを批判するコンテンツ」でいっぱいです。
一部の人にとってSNSは愚痴のはけ口になっている側面がありますが、
インターネット掲示板やSNSなどではこの手のレッテル貼りは顕著なので、うかつな発言はできません。
私自身の体験からの話になりますが、カウンセラーや自治体の育児相談も同じです。
必ず「家事はされていますか?育児は協力していますか?」から会話がはじまりますし
ひどいときには「家事・育児はやっていないもの」と決めつけたアドバイスをされることがあります。
ガルちゃんやママスタといったコミュニティもなく、頑張るパパには逃げ道がないのです。
でも子供の笑顔が癒しになるでしょう?と言われることもあります。
その通りです。ですが、いつもそうとは限りません。
子供は時に残酷です。結局はママが大好きな子供が多いのです。これは本能によるものだと思います。
どれだけ頑張っても、どれだけ尽くしても「パパはやだ。ママがいい。」と泣き叫ぶイヤイヤ期になると
こうして苦しみながらも、パパは仕事にも邁進しなければいけません。
いくら女性の社会進出が後押しされていたとしても、いくらイクメンが推奨されていても
家庭の主たる収入源がパパの仕事に依存されている現状が変わっていません。
こういうと女性も頑張っている!という意見があるのですが、もちろんその通りな側面がある一方
「家計の主たる収入を30年等の長期間支える責任」が甘く見られているという現実もあります。
いざピンチとなれば辞められる役割ではなく、また将来を見越して収入増を狙う出世やキャリア形成も必要な仕事と、「余裕を生むための、家計を支援する仕事」は苦労がまるで違います。
将来を見越して嫌なこともしなければならない、勉強もしなければならない、チームや組織の責任も背負わなければいけない…たくさんの義務や責任が多くのパパにのしかかっています。
そのうえ、昨今はアファマティブアクションの結果、こうした努力が出世に結びつかず、女性優遇の出世環境すら生まれています。当然女性の社会進出のことを考えれば必要な措置であることはわかりますし
女性の中にはこうした責任を背負って仕事されている方がたくさんいらっしゃるのはわかっていますが
あくまでパパの目線から見ると、仕事のつらさは変わらず、何なら重く、悲観的なものになっています。
こうした苦しみはパパだけではなく、ママにも似たようなものは当然あると思います。
ママの苦しみは、女性の苦しみを含めた形で、社会的な合意が形成されており、少しずつ改善が進んでいるように思えます。(牛歩ですが)
一方、パパの苦しみはほとんど話題になりません。改善が進むどころか、女性/ママへの改善のあおりを受けて何なら悪化しているとすらいえます。
ここまでまとめてみると・・・
・どれだけ尽くしても子供のイヤイヤ期には「パパいやだ、ママがいい」と泣き叫ばれ
それでも頑張っているパパにもっと注目して支援が行われる社会になってほしいとおもいます。
もしあなたの家庭に頑張っているパパがいるのであれば、労わってあげてほしいのです。
ことにふれ愛情を伝えてほしいのです。セックスレスも解消すべきですが、それはなくとも愛と感謝を伝えてほしいのです。
父の日や記念日を無視したり、適当な処理をしないでほしいのです。
頑張っているパパはママを、家族を愛しているから頑張れるのです。ぜひ、愛を伝えてあげてほしいです。
同じように頑張っているパパは、ママをもっと愛して、愛を伝える努力をすべきです。
当たり前の話ですがママも大変なのです。何ができている、できていないとかではなく
ただただ愛することと、愛を伝えることが大事です。
ぜひ、お願いします。
約10年前くらいからはてブを見直しているんだけれど、ここ数年で左派言論の信用失墜ははてな界隈ですら起きていることが如実にわかる
はてなではジェンダーフリーを訴え、反戦を叫ぶのが通例だったものがColaboとロシアでここまで左派言論が揺らぐことになるなんて約10年前の自分に教えても絶対に信じないだろうな
いやもちろん左派言論のアップデートは行われている
ここ数年のはてなーによる個人的な傑作左派言論意見を挙げるなら【追記】女性だけの街の最大の問題点は労働が男性基準であることだろう。
女性だけの街では腕力のある女性に力仕事を任せれば良いと言う意見へ真っ向から間違いを指摘して、老若男女問わず誰しもが力仕事という苦役から開放される機械が存在するべきだ(意訳)という反論は目からウロコが落ちるとはこのことか、自分の中にあったバイアスを自覚できてしまったこともあり非常に感銘を受けた。自分も素朴に腕力ある女性が力仕事をやれば良いのでは?と思ってしまっていたからだ。
このような意見は約10年前のはてな界隈ではまず見られない意見であり、この増田はあの時期のはてなーの中では最も素晴しいヒューマニストであったと評価したい。
このように左派言論は1歩1歩の牛歩ではあるものの着実にアップデートされては居るものの、同時に約10年前までの価値観の左派言論を持ち続けて時代に合わない主張をする旧来左派が少なからずおり、それが左派言論失墜の一因となってしまっている。
そればかりかネトウヨが主に揶揄し、小さく内燃する程度しかなかった日本共産党や旧民主党とSEALDsの繋がりがCLPやColaboなどによって次々に明らかになる"お友達"の繋がりへの非難もあり、本当にもうココははてな系Webサービスなのか?と目を疑うレベルで旧来左派言論が支持されなくなってしまっている。
左派同士が連帯をせず時代に合わせて左派言論を進めてきた者たちが旧来左派を叩くという状況だ。
新しい左派言論へ移行する過渡期なんだと言われればそうなのかも知れないが、あまりにも"らしくない"動きを最近はちょくちょく見るので本当に驚くしかない。
今の動きがこれからの"らしさ"を作っていくのだろうけれど、その"らしさ"が良い方向へ進んで行くことを願ってやまない。