2018-06-12

愛することと、差別すること

結論を先に述べると、人にとって分け隔てなく愛するということは不可能で、愛することはすなわち差別することにつながる。

それでもなお、それを理想として追いつづけていくしかない。それが神を捨てた人の宿命

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愛には、対象特定せずに広く与える愛と、対象を選り好みして特定のものにだけ注ぐ愛とがあるという。

前者の愛は、一神教における全知全能の神が人々に与えるものであるし、日本においては万物に宿る神が織りなす世界から加護、あるいはお天道様が見て下さるという感覚が近いものだろう。

一方で、後者の愛は、よくある狭義の愛である

前者の愛をもたらす対象が人ならざるものであることからも分かるように、物事の如何に区別なく愛情を注ぐというのは、人にとって不可能にも近い不得手なことがらである

人が織りなす愛というのは、何かと何かを区別する、あるいは誰かと誰かを差別することで特定のものに注ぐものである。それは肉欲によるようなものばかりではなく、優れたもの・素晴らしいものを愛でるときにも当てはまる。なぜなら、そのとき人は、劣ったもの・醜いものを選り好みして差別しているからだ。勿論、その選り好みは外見だけの評価とは限らず、内面や行動などで判断される場合もある。

美術美術として評価されるのは、他のものと比べて美しさが秀でているからであって、誰か素人が作った作品よりも他人からの愛を受けているからだ。平等に愛を注ぐのなら、そうした素人作品美術品すら区別なく差別なく、愛を注いでしかるべきだ。残念ながら、選り好みをしてしまうということ自体が、平等に愛を注ぐということに反しており、結果としてそのように世界を愛するというのは一般の人には到底不可能ことなである

それが不可能で、それでいてなおかつ愛を受ける身としては理想的であったからこそ、全知全能の神という概念を人々は作り出したとも言える。なにしろ、どんな存在であっても愛を受ける資格はあるのだから。たとえどんな悪事を働いていたとしても、無為存在であったとしても、そんなことは関係ないというのだから。人々が与える愛は、相対的肯定はあっても、絶対的肯定はありえない。それは秀でたものがより愛され、劣ったものがより愛されないという状態であり、その基準は各々異なっていても、対象によって愛を与える程度が異なるというのは変わらない。その優劣は非常に恣意的で、単に身近にいるかそうでないかという差異であったりもする。親が子を無条件で愛すると言っても、子として存在しているからこそ他人より差別して愛するのであって、どんな人であっても同様に愛するというのとは全く異なっている。そうした相対的な愛ではなく、絶対的な愛を誰も分け隔てなく与えてくれる存在、それこそが理想でなくてなんなのだろうか。

かような神という概念を創出したことで、人々は平等に愛を得ることが可能になった。その愛が空想上のものであったとしても、構わない。重要なのは当人が愛を受けていることを感じているかどうかであって、実体として誰かが愛を与えているかどうかではないのだから

このように考えてみると、万物に対する差別なく区別ない愛というのは、人々の空想上のものに過ぎないと分かる。ただ、それは空想産物であったとしても、非常に賢い発明であったことは確かだ。それに、実体がなかったとしても何の問題があるだろうか。愛を与える存在いるかいないかに関わらず、愛を受けているという感覚があるということこそが重要なのだから

いずれにせよ、これまでの議論から導き出されるのは、人は区別差別することなしに愛することはできない、ということだろう。言い換えると、区別することで初めて愛することができる、とも言える。それは人種国籍身分その他という分け方でなくても、ヒトかヒトでないか動物かそうでないか生物かそうでないか、石ころだって特定の、例えば花崗岩や砂岩などと判別することで初めて対象特定化て愛情を注ぐことができるのではないか。漫然と、自分の子供と野良猫とそのへんの石を全く平等に愛するというのは不可能なのだ。そのへんの石だって、他の石と区別することで初めて愛しうる対象になりうる。区別できなければ、その対象にすらなり得ないのだ。

故に、人を愛するにはその人を他人区別することが必要となり、集団を愛するにはその集団を他のもの区別する必要があり、地域を愛するには他の地域区別する必要が、国を愛するには他国区別する必要が…となっていく。愛国心などと言っても、日本という概念があまり一般的ではなかった江戸時代には、諸藩における郷土愛はあっだだろうけれども日本を愛するという考え方はごく一部の外国認識している人を除いて存在しなかっただろう。列島を束ねる存在日本)が当たり前過ぎて、認識するに至らなかったというほうがより正確なのかも知れない。

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左翼のというより、人権思想などの近代思想の出発点は、フランス革命自由平等友愛から始まっている。ここで友愛とは博愛とも同胞愛とも訳され、仲間に対する愛を示しているのだけれども、これも特定集団に対する愛を唱うことで他の集団差別している。平等とはあくまでその集団の中だけで適用される概念で、他の集団に対しては平等であることは必要ではないのだ。だからこそ敵であるフランス王家斬首になったし、信条が異なる集団に対してはリンチが横行した。これは左翼思想を発展させた共産主義に引き継がれ、今なお信条正統性を主張する形で争われている。

この近代思想は、神が行ってきた(と人々が空想した)分け隔てない愛を与えるという行為を、人が自らの意志で執り行おうとして産み出したものであろう。それは確かに理想ではあるけれども、実態として分け隔てなく愛するということが不可能であるが故に、とき空想となり、あるいは夢想となって人々を混乱に陥れたようにも思う。

結局、現代人はその理想を、限定して扱うことで現実妥協しているのではないだろうか。

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人は誰も、差別されることは拒絶するが、他人区別することなしに過ごすことはできない。

基本的人権として求められるべき最低限の平等規定しつつ、それ以上の区別は互いに棍棒で殴り合う、もっと文化的に折り合うなどして勝ち取るものではないだろうか。

それでも、今なお基本的人権すら蹂躙されている場面が見られるのが現実ではあるけれども。

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