はてなキーワード: 自己肯定感とは
まあブスとは言ってもせいぜい下の中くらいで、すれ違う人が顔を背けるというレベルではないけれど、男に告白されたことも一度もない。そんな感じ。
デブレベルは中の下くらいだろうか。身長が高いこともあってか、ぱっと見て超デブ!というほどではないのだけれど、下半身が太いオバサン体型で、実はパンツのサイズがLLだったりする。というか、周りが細い子ばかりなので比較すると倍くらいある。
そのせいで中学生のときだったかな、いじめられた。ブスだっただけじゃなくて、おしゃれとかに関心がなくて、モサかったのもある。髪型とかサルみたいだったし。そんなにひどいいじめでもなかったけれど、外見を罵られるのって結構辛くて、その後の人生に大きな影響を与える、根深―いトラウマになった。
それからというもの、自分より可愛い人を見ると強烈な劣等感に襲われるようになってしまった。何かうまくいかないことがあると、自分が醜いからだ、と思うようになった。くだらない価値観にとらわれているとは自覚しているけれど、そこから抜け出す術は知らない。どうしても、自分の醜さを受け入れられなかった。自分を愛することができなかった。
人の価値は外見で決まる、だから美しくあらねばならない。そんな思いがさらに強くなったのは大学に入ってからだ。大学の男達は、可愛い女の子に対する態度の違いがあからさまだった。全員とは言わないけれど、経験上、8割方はそうなんじゃないかな。
私が入学したのは、割と偏差値の高い大学なので、そんな大学の人たちが見た目による差別をするなんて思いもしなかった。でも、そういう減少は悲しいかな、この世の真理としてどこにでも存在するのだ、と徐々に悟った。
大事なのはここからである。大学へ入ってからしばらくは、男達から存在を無視されたようにひっそりと大学内で生きていた私だったが、ひょんなことから、ガッツリ化粧をする習慣ができた。それまでは、なんと、毎日ほぼすっぴんで学校に行っていた。化粧をしているうちにコツもつかめてきて、何だか楽しくなってきた。ある日、思った。あれ、私なんか可愛いぞ…?と。
カワイイは作れる、と言うけれど、ある程度はそれも間違いではなかったようで。ずっとコンプレックスだった一重をアイプチで二重にし、アイメイクで目の大きさを二倍近くにすると、アラ不思議、その辺にいる女子大生と比べてもそこまでひどくない代物になるのだ。(あくまで体型以外は、だけど)
BMIはメタボおじさん級の私は思った、これで痩せれば私、最強じゃないか?
身長は170近くあるし、顔のパーツは全体的に小ぶりだがバランスはいい。縦幅の狭い顔は、今は横が広いせいで円形のようになっているが、痩せれば小顔になり八頭身も夢じゃない。可愛い服だって選ぶ放題だ。幸い、知性はある。
ブスでいじめられていた私がモテモテになり、同窓会でいじめていた男子が土下座する図がはっきりと、頭の中に思い描かれた。
元がかなりのデブスだからこそ、周りの人々の態度の変化も如実に実感できるのではないか、これは相当面白い実験となるのではないか!?
…降りてきた、神が。
具体的な手法と経過については、後ほど。
【追記】
そもそも初投稿なうえ、もともと自分のブログに置いてた文章だったから
いろいろめちゃくちゃかも。すみません。
【追々記】
多くの人に反応をもらえ、驚いている。
嬉しさと同時に、気軽に書くものじゃなかったのかという思いもあるが。
ブログに書いても手応えないから誰かに見てほしくてこっちに移した。
一回り以上年上の人から明らかに可愛がられるようになった。
これくらいでやめておいてもいいのかなという甘えが生まれ始めて、
それもあってここでの反応が見たかったんだ。
あと、飽きっぽいから連載とか出来る自信もなく、
単発でも受けてくれると思われるここを選んだ。
反応してくださった方々ありがとうございました。
外見以外で自己肯定感を得た方がよいよ、というアドバイスが一番しっくり来た。
【追記3】
焚き付けようとして挑発的コメントをくれた可能性にやっと思い当たった、
がきんちょの私。
悔しさや屈辱というマイナスの感情によってモチベートされることが多いから、
すごくありがたいこと。
過去を整理する。
今ではそこそこブラックすぎない会社に拾われて人生つまらないなりにあまり苦しくなく生きられている。
あまり苦しくない人生というものに、それなりに満足できているのは一度それなりに苦しんだからだろう。
ストレス耐性のある人間からすれば全然余裕だったんだろうが、生まれつき精神構造が弱かった自分にとっては十分に苦しい時間を過ごした。
あれより下もきっとあるんだろうが自分が知ってる中で一番下があれだ。
あれより下がきっとあるだろうから必死にそこから逃げ出そうとして、その結果中退の道を選んだとも言えるだろう。
ろくにやってなかった。
緩やかに限界に近づいていた。
毎週やってくるレポート提出日におびえていた。
土日に図書館に行ってレポートを書くための資料を集めて、それでちゃんと準備をしているのに全く進まないレポートに苛立っていた。
何を書けばいいのか本当に分からなかった。
今思えば当たり前の事を書けばよかったんだと思う。
自分は出来の悪い学生だと認めて凄く基本的な事、誤差の計算の話とか実験の教科書に既に書いてあることの焼き直しとか、装置のもっと細かい説明を百科事典から丸写ししていればよかったのだろう。
呆れられるだろうが、何もしないよりはマシだ。
それか、他人のレポートを借りて少しだけ言葉や計算を変えて丸写しするかだ。
あの頃の自分は阿呆な癖にプライドだけは高く、そういう事はできなかった。
それでいて自分の出来の悪さには半分気づいていたので、その後ろめたさから教授に相談することも出来ないでいた。
ただ完成しないレポートとにらみ合いながら、そのままでいると無力感で気が狂いそうだからとラジオを聞いたり横目にテレビを見ながら部屋の周りをぐるぐるしてばかりいた。
朝の6時までそんなことを続けてから、12時間眠って夕方の6時に起きて、5分ほど布団の上であぐらをかいてから大学をサボってしまったことにふと気づいたりしていた。
実際は友達が少ないからと昼休みになるたび図書館に行って学習まんがを読んで過ごしているうちに無意識に勉強をしていたんだと思う。
それでも勉強が人より出来るのは間違いがなかったので親は自分に妙な期待をしたらしく私立中学に行くことを勧めてきた。
その頃の自分は「いい子」だったので親がそう言った以上は逆らうこともなく、素直に塾に通い、素直に人より多く勉強をして、気づいたらそこそこの私立に入っていた。
今覚えばこの時点で覚悟を決めておくべきだったんだろう。
自分は運動も出来なければコミュニケーションも上手く取れなくて、それでいて賢くもないと。
ダラダラと過ごすうちに最初は中間だった成績は下の下まで落ちていった。
今思えば、自分は小学校の頃にちゃんと勉強をする癖を付けそこねたんだろう。
勉強は暇つぶしの範囲でしかしなかったし、テストの大部分は学習まんがで覚えた知識を応用してどうにかしていた。
嫌々ながらも机に向かって問題を熱心に解くことは少なく、宿題も面倒になると適当に埋めて終わらせていた。
算数の問題(今覚えば公務員試験の数的処理によくにていた)を解くのはパズルみたいで好きだった。
だけど単純計算は嫌いで、よくケアレスミスをするのは知っていたのに全然トレーニングをしようとはしなかった。
そうして面倒くさがって勉強しない癖を付けたままダラダラと中学高校時代を過ごし、大学受験シーズンを迎えた。
分からないことが多すぎた。
英語の基礎はなっちゃいないし、数学も積分の問題を解いているのに微分がそもそもろくに理解できていなかった。
社会化の知識は小学校で止まっていたし、かろうじて理科はどうにかなると思ったらこれも中学校で止まっていた。
自分は勉強しなくても勉強が出来るはずだという感覚を未だに捨てきれなかった自分は混乱した。
何から手を付ければいいのか分からなくてとりあえず周りに合わせて受験生がやるような問題を解こうとした。
手も足も出なかった。
中間テスト前に毎回丸暗記して何とか赤点を回避していた知識は反復不足でほぼ全てが抜け落ちていた。
高校1年の問題どころか、中学2年程度のレベルでも怪しい所が無数に合った。
まず何をすればいいのか。
それを誰に相談すればいいのか。
その答えも出せないまま刻々と時はすぎて、気づけば滑り止めも受からないまま高校時代は終わった。
塾には行っていた気がするのだが、基本的な部分で躓きまくっているのをどうすればいいのかが分からなくなり、誰に相談するでもなく自主休講を繰り返していた事だけは覚えている。
相談すれば真摯に対応してくれていたのかも知れないが、あの頃の自分はプライドと疑心暗鬼が心の中で手を組んでこんな奴らに相談しても馬鹿にされた挙句にはぐらかされるだけだぞと完全に思い込んでいた。
浪人生になった春。
新しい塾に入ることにした。
そこは前に通っていた塾よりもレベルが低く、自分が通っていた高校の名前を出したらすぐに上のクラスに入れてもらえた。
自分の今の実力は非常に低いから不安なので一応テストを受けたいと申し出た。
いくらもう1年時間があって同級生には高校3年生もいるとはいえ、こんな問題も解けない奴はヤバいだろうと感じた。
今思えばここで油断したのかも知れない。
勉強をしない生活が基本となっていた自分は、隙あらばサボろうとしていたのをよく覚えている。
最初のうちは授業にはちゃんと出ていたが、いつの間にか加速度的にレベルの高くなる内容に振り落とされ、気づけば足が遠のいた。
どこであんなに差がついたのかとその頃の自分は悩んでいたが、答えは明白である。
日々の反復学習だ。
予習も復讐もロクにせずに授業に出るだけでは大学受験レベルの問題が解けるようにはならないおつむの作りをしていると高校時代に散々味合わされたはずなのに、半年もしないうちにそれを忘れてしまっていたらしい。
そうして勉強をする癖を付けることが出来ないまま、二回目の大学受験を迎えた。
滑り止めには受かった。
「こんな所行ったら終わり」だとすら思わず「こんな所に行く自分が想像できない」滑り止めだった。
他の試験会場で味合わされた絶望感がそこの試験の時だけなかったのを覚えている。
同時に「こんなに簡単ならきっと逆に競争が熾烈化してギリギリの戦いになるだろう」なんて考えていた。
そうして勉強する癖も、自分のイメージする大学生にふさわしい知識も、自分のイメージする大学生にふさわしい学習環境も、何一つ手にすることがないままに大学生編が始まるのであった。
もう一年浪人して心を入れ替えておけばよかったのかも知れないと今は思う。
二浪したら人生の終わりの始まりだとその頃の自分や両親は思っていたが、その程度で終わるなら大学を中退したらどうなってしまうと思っていたんだろうか。
大学に入った頃の自分はまだ自分がそこの学生である事を実感できないでいた。
結局一度も心の中で認めていなかったのかも知れない。
周りの学生も教師も皆馬鹿に思えたし、そんな連中とつるまなきゃいけない自分自身の馬鹿さ加減にも日々絶望していた。
心の半分ぐらいがずっと灰色だった。
浪人時代に失敗したから大学に入ったらちゃんと勉強を頑張ろう!
そう思って友達付き合いやサークル活動を控えて勉強に打ち込もうとした。
駄目だった。
ただ予習・復讐を忘却曲線に合わせてやるだけの事が出来なかった。
だから勉強もできないしサークルにも入ってないし友達もいない救いようのない学生が出来た。
そうしてその救いようのないクズは日々レポートに苦しみながらクズ故のプライドの高さと自己肯定感の低さから来る多方面への遠慮から誰にも頼れずにいた。
そうして自分は大学2年の後半辺りから少しずつおかしくなり始め、就活シーズンの頃にはすっかり頭が駄目になっていた。
誰からも自分は必要とされないだろうという不安から就職活動に踏み切ることも出来ず、だからといってなにもしないのも不安だからとか公務員試験の勉強を始めた。
公務員試験の勉強と、普段の授業と、実験レポートと、卒業論文、その4つにグルグルと毎日追われていた。
授業の実験はなくなったが研究室に妙なやる気があったのでそれに似たことをよくやらされた。
何かをすると他の何かが頭をよぎった。
勉強もしなくちゃいけないし、レポートも書かなくちゃいけない、卒業論文も進める必要がある、面接の準備もしておいた方がいいのだろう、授業の宿題もちゃんとやらなければ……
パニックだった。
計画を立てて物事を実行に移す。
自分にかけていたのはその習慣だったのだ。
今にして見ると簡単な事だ。
だけど自分はまだそのことに気づいていなかった。
だから机に向かって何かに取り組んでは、すぐ別の何かが気になってフラフラしては精神をすり減らしていた。
気晴らしのために遊ぼうとしても色々な事が気になって遊べなかった。
眠ることは生理的に必要不可欠なのでこれなら許される気がした。
悪い夢を見ることが多かったけれどもそれが一番疲れが取れた。
寝ている間の半分は夢すら見ていないからだろう。
実験レポートの内容は相変わらず酷いもので、教授にチェックを受けるたびに皆の前で叱られた。
あるときには呼び出しを受けて教授から2時間にわたり叱責を受けたこともあった。
回りでパソコンに向かっていた同級生・上級生が憐れむような、何か理解できない生き物を見るかのような目でこちらを見ていたのを覚えている。
そうして気づけば研究室へ行くのが嫌になり、卒業論文も進まなくなった。
将来への不安から勉強にも身が入らず単位も不足し、文句なしの留年でその年は終わった。
入る前から死にかけている生きの悪い学生なんてどこも取るはずがないだろうなと今でも思う。
次の年度が始まっても、院生に上がった元同級生や下級生、そしてあの教授たちと顔を合わせると思うと研究室には行く気になれなかった。
研究室を変えたらどうだという話もあったが、どうせたらい回しにされた人間しかやってこないようなもっと酷い研究室に送られるのだと思い拒否した。
今覚えば分が悪くとも賭けに出た方がマシだったろう。
ギリギリの精神を「もうすぐこの状態から抜け出せる」という希望で何とか繋いでいたのが逃亡からの留年という形で切れてしまったこともあり、次の年度は完全に駄目だった。
日々の多くを家に引きこもって過ごしていた。
毎日死ぬことばかり考えていしたし、もうすぐ死ぬのなら今頑張っても無駄だなとふて寝ばかりしていた。
何かを頑張る気にもならなかったし、かといって遊ぶ気にもならなかった。
ただ毎日を死んだ目で寝て過ごした。
段々寝ようとしても寝れなくなっていったが、グルグルと頭のなかで過去や妄想を反芻しながら布団の中で目を閉じている方が起きて何かやるよりかはマシなので眠りもせずに布団の中で過ごした。
そしてその日々の中で、こんなことを続けていたもどうにもならないと思い、自分は中退を決意した。
決意の方向が間違っていたような気もするし、実際もうあの頃の自分はどうやっても大学を卒業できなかった気もする。
生活を見直し、人生を見直し、行動を見直し、とにかく気持ちがどうこうよりも前に日々をどう生きるかを前向きに組み立てなおしていれば可能性はあったのかも知れない。
だけどあの頃の自分は1人でそれが出来る状態にはなく、それを助けてくれる人間も周りには居なかった。
両親は自分の人生で忙しかったし、大学は腐ったみかんの相手なんてする気はなかった。
俺は、毎年毎年勉強スタイル変わってる。もう20後半。いい年だけど、一生勉強といわれる分野なので、勉強し続ける。
毎年毎年勉強方法はレベルアップしているが。それは、俺の生まれ持った欠点を補うようなものを身に着ける過程なような気がする。
俺に必須だったものが、他人にはいらないものも多いし。他人に必須でも、俺にはいらないものも多い。
①納得と理解は違う
納得ってのは、読んで論理を追えるってこと。だけど、これは点数につながらない。
点数につながるのは、理解。
理解ってのは、「日本の総理大臣は、伊藤博文、黒田清隆~」という記述を読んだ後に、「黒田清隆ってだれ?」→「日本の総理大臣」みたいに、逆から出てくるってこと。
これが点数に結びつく場所で。マーカーで名前をマークしたら、逆に考えてみるのが超絶大事。これが出てくくるのが点に結びつく。
理解ってのは、抽象的なことを言われて具体を出せる、具体を言われて抽象を出せる。これのこと。
②問題で覚える
「ああ、あの問題文で、小学生の男の子が出てきたな、ってことは、小学生は絶対対象になるな」
こんな感じ。
そのためにも、問題文で、記憶の助けになりそうな記述をマーカーする。
アカぺんじゃダメ。アカぺんでも、確かに大事だと分かるが、マーカーをすることで、「この場所にマーカー引いてた」「この場所を思い出せば点数になる」という、得点のカウンターや、場所記憶(記憶の中でも、最強クラスなのが場所記憶)につながる。
どーも俺は、手帳の頃は予定管理が苦手だった。ADHDっていう障害があるから。
でも、スマホに大きな予定は書き込むと、それに対して、今やるべきことやだいたいの勉強計画たてられるようになった。
昔は、「あ!あれって明日だったけ!」で3徹とかよくあった。
昔の勉強法の本では、集中力を欠くということで、音楽聴くなといわれていた。
だから、多少集中力が落ちても、「気がそれる→音楽聞く→勉強してる状態にすぐ頭が切り替わる」こうやって、集中それても、スグ戻ってこれるから、音楽聴いたほうがいい。
あと、昔の勉強本は多くは歌詞の入った音楽はダメだというが、歌詞入っていても、別に変わらない。
ってか、周り高学歴ばっかだけど、相当なひとが音楽聴きながらが基本だよ。
⑤切り替える早さをトレーニングで上げた
やはり、切り替えの早さは武器だと思う。
やる気がでないとか、そういうのは、やる気がでないという『気分』なわけだ。
この『気分』を切り替えるトレーニング。
具体的には、「腹式呼吸でリズムとる→アゴを上げる→目を見開く→背筋伸ばす→深呼吸」こんな感じで、どこかで自分の気持ちがどこかで、少しでも変わったと意識できたら、その時点で『気分』は変わる。換わったことを意識できたら、切り替えができやすい。
つまり、
「切り替えるべきだと気づく」→「切り替える」までに、ステップを置く。
切り替えができるってのは、イコール爽やかだってこと。爽やかに生きてると、まあ、気分もいいし、多少自己肯定感も高まる。
俺は、やっぱ他にも障害あるから、全然自分のこと嫌いなんだけど、すぐヘラっちゃうし。でも、爽やかだと他人との付き合いも楽だよ。
⑥月1~2風俗に行く
やっぱり、性欲はためすぎるとよくない。
実際はしないだろうが、そういう予感を持つこと事態がストレス。
人とのふれあいは、オキシトシンっていうホルモンがでる。これが愛情形成するんだけど。
それは、やっぱりオナニーじゃ厳しい。
ピンサロで数千円でいいんだよ。
それに、別に抜き目的じゃなく、痴漢目的で。自分を安心させるためなんだから。
⑦5回繰り返せば、絶対に勝てる
人間が、1年覚えておける記憶に保つには、5回覚えるのが必要。
1回目は、まあざっくり、「納得」していく感じ。分からないところは、仕方ないから眺めるだけ。できるだけスピーディーに。本番は2回目からだから。
2回目は、一瞬で解ける奴とかは、「×」で問題文ごと塗りつぶす。『得点につながる部分で、理解できたもの』にマーカー。大事だからって、理解してないところにマーカーは点につながらない。あと、「大事なところで、ゴロあわせ作った奴」はマーカー。ゴロあわせは、超絶大事。意味が無くても、理解してなくても覚えられるのは強い。俺はクッソ記憶力悪いが、ゴロなら覚えられる。「思い出すときに、ゴロで作った1部分でも思い出せば、全部でなくてもある程度思い出せる」ってのがクッソ強い。
3回目は、解けた問題に×して行って、マーカーを増やしていく。完全に覚えたマーカーは×。そこはもう点数だから。ここでも理解できない奴は、書くべし。書いてゴロを作る。
4回目は、1週間は間をあけて、同じようにやる。
実際は、4回目までで、ほぼ完了してる。
5回目は、直前の詰め込み。
逆に言えば、直前までに、4回やってれば、勝ち確定。
頭のいい奴なんて、多分そこまでいないってか、いてもテストとかなら関係無い。
俺は、東大模試で、数学、国語、物理は1桁の順位マックスで取ったことある。でも、そんなの、ハッキリ言って、才能だけ。数学やは中学くらいから全国1位とか、大学への数学で満点とか、そんなん。努力関係無い。国語も異常に好きだったから、問題集20冊とかやっただけで、ちょっと異常に努力しただけ。
英語とか、化学やセンター試験、あと社会みたいな、暗記系はほぼ無理。日本平均をダイブ割ってる状態だった。
俺はたしかにIQは高いが、普通のなんも知らない資格の勉強で簡単に無双はできない。
納得するのは早いが、理解はゆっくり。まあ、ゆっくりなほうが深い理解に到達するとは思うよ。
5回やらないと、無理。3回とかじゃ、微妙な感じで、上位20~30%とか。
でも、5回やれば、絶対上位5%には入る自信ある。
私は20代後半の同性愛者ですが同性愛者ということ以上に親との関係にコンプレックスがあります。
私は両親から容姿や技術、その他自分にまつわるあらゆるものを馬鹿にされて育ちました。
弟も一緒になって私を馬鹿にしました。スキンシップをとった記憶もありません。
ただ馬鹿にされる存在でした。中学でいじめにあい、高校では対人恐怖症になり心療内科に通い
摂食障害にもなりました。その感母は怒るだけでした。家に居場所はありませんでした。
私は今でも人との距離を図れません。誰とでも疎遠になってしまいます。
自己肯定感が異常に低く、自分にまつわるすべてのものに劣等感があります。
自分で言うのもアレですが、社会的に、客観的に見れば私は「成功している側」の人間です。
だけどその全てに自信が持てません。マグレでしかないと思います。誰に何を言われてもそれが変えられません。
…ということを唯一信頼できる人に話したら、20代後半にもなって親の所為にするな、甘えるなと言われました。
親の所為にしているつもりはありません。ただ紛れも無く今の自分は親によって形成されてしまっています。
何度も心療内科に通い、カウンセリングも受け、どうにか治したいといろんなことを結構努力して、
それで掴んだ「成功」がいくつかあります。ただそれすら無意味に感じてしまい、薬を飲み続けることが
「甘え」の一言で済まされてしまったことがただただ辛い、これも甘えでしょうか。
結構自分なりに頑張っていきてきたと思います。死にたいけど死にたくありませんでした。
自分の人生をこんなことで終わらせたくなかったから頑張ってきました。私を尊敬してくれている人もいるそうです。
でもゴールが見えません。どうしたら楽になれるかわかりません。この症状が出て10年以上、
あがき続けてここまで来たけど治りません。どうしたらいつになったら開放されるかわかりません。
その信頼できる人は、私の親は未熟だったが私を愛していたんだと言いました。
そうかもしれません。でもその愛を感じたことがありません。その愛とは何かわかりません。実感がありません。
こういうことを書いているのも「親の所為にしている」のでしょう、
ただわからないものはわからない。後天的に獲る愛情をどう「愛情」と認識すればいいのかわからない。
自分を支えるものが何もない、すがれるものが何もない状況で、どう自分を奮い立たせて
「親なんて関係ない、自分は自分で幸せになれる」と言い切れるのでしょうか。
幸せってなんでしょうか。自分で見つけるものなことはわかります。でもどこで見つかるんでしょうか。
もっと辛い環境でも元気に生きている人もたくさんいるでしょう、
それが出来ない私は弱くて未熟で愚か者なのでしょう。でもこれ以上どうすればいいんだろう。
もう疲れました。
自分の事振り返るたびに思う。面倒臭がりで努力が嫌いだし、結果が出ないとすぐ投げ出すし、まず行動しなきゃ自己肯定感なんて得られる訳ないのに「自分はダメだから」という文句を言い訳に使いたがるし、簡単な事すら習慣に出来ないし、いつまでもグズグズ思い悩むし、その癖無駄に高い目標を立てて一瞬で挫折するし、考えれば考えるほど自己評価が下がっていく。そもそもこんな文書いてないで行動しろよって思うよね。そうやっても大体三日坊主で終わる。自分で自分のやってる事に冷める。こんなつまんない事あとどれ位やれば良いんじゃ~って考えが脳裏をよぎったらもうおしまい。あとはいつサボりの誘惑に負けるかってそれだけ。で、結局サボってしまった事で罪悪感が膨れあがって、まともに生きてないなー、社会不適合者だなー、と思って苦しみながら今日も終わっていく訳なんですが…
あいつら(ミニマリスト)は基本的に弱者だって観点を踏まえたブクマが
「頑張って働けば、稼ぎを増やして好きなものに囲まれた生活を送れる」
そういう人たちが、自分の生活設計のセルフコントロール感を取り戻す事を通じ、
「みじめな貧困生活を送るわたし」とは異なる自己肯定感のあるセルフイメージを
持てるようにする、みたいな感じで。
例のビッグカメラの件とかは好きなだけ叩けばいいし、
多くのミニマリスト系ブログから漂う自己啓発的なキモさには何の異論もない。
あいつら(の大半)には、確かに色々足りてない。
でもさ、おまえら「月に一度の回転寿司が唯一の楽しみの生活保護家庭」叩きみたいな、
「愚かな振る舞いをする弱者をあざ笑う記事」とかには、それを諌めるような、
文化的資本とか環境要因に触れた、愚かな弱者によりそった視点からのブクマとかつけてるわけじゃん。
今回のきっかけのビッグカメラの件とかはは確かに調子のりすぎだと思う。
思うんだけどさ、
優しさとか冷静さとかが、ちょっと、かなり、相当に足りないんじゃないの?と気になったよ。
とここまで書いて、ほぼ同じこと書いてるブログあった。
http://kutabirehateko.hateblo.jp/entry/2015/07/26/035930
のでそっちだけ読んでくれりゃいいや。
元増田は他人との比較のなかで自分を肯定するようなナルシシズムはすごく強いんだけど、それしかないから、比較のなかでしか自分を肯定できない。「自分は自分のままでいいんだ」っていうほうの肯定感がないから、他人が敵(比較対象)にしかみえない。
自分に対する何らかの執着ではあるだろうが
ネットにはクソもミソも一緒にしてなんとか発言者を「否定」しようとする輩が多くて困る
「自己肯定感が強すぎる」ってエントリだったら「逆だろ、弱すぎるんだろ」ってトラバがついたね
カシヲミニをかけても良い
それは、「自己肯定感が薄い」というのではなく「自惚れてる」っていうんだ。
1興味を持って取り組めることを探す。 2継続して取り組む(数年単位)。 3気が付くと人より出来るようになっている。 4自己肯定感を得られる。 1〜3の繰り返しを数回失敗するだろうけど10年ぐらい掛ければ4まで行けるよ。
自分も自己肯定感低い人間だと思ってたけど、元増田とはずいぶん方向性が違うなあ
俺の場合は、自分以外の奴はだいたいみんな価値があって、俺だけが役立たずのゴクツブシみたいな気になる
ニュースとかでは時々驚くようなクズが出てくるけど、そいつらだって報道されてないだけで俺より価値ある部分がきっとあるんだろうなとか
俺もこのニュースのクズと色々共通点があるから、それがバレたらこいつと同じようにフルボッコにされるんだろうなとか思う
俺のような最低人間は誰に対しても怒る権利なんかないし、そんなことしたら逆に俺が吊るし上げられるに決まってると思っちゃう
だからイライラしても怖くて誰にも言えなくて、頭の中の自分会議でも「それは自業自得だ」っていう俺の方が過半数で、早く死ななきゃって結論になるからなるべく考えない
なぜみんな生きていられるのだろう。
自分はいつも「あの人より劣っている」「あの人に負けた」「あの人より価値がない」ということばかり考えてしまう。
だから落ち込まないように、努力して「あの人より自分の方が優れている」「あの人に勝った」という状況を作って
「自分はあの人より価値がある。だから生きていていいんだ。」と思うようにしている。
でも、この世には数え切れないほど人がいて、自分より優れた人だらけなのだ。
それはもちろん分かっている。でも、認めたらもう自分は生きていけない。
あの人より劣っている自分は目立っちゃいけない。
でも、生きるために努力して、少なくとも周囲の人よりは優れた価値のある人間でいたいと思っている。
私という勇者は、このRPGの覇者になることはできない。敵が多すぎるし、敵が強すぎる。
その仕事の出来なさでよく生きていけるな。
その体型で生きてて恥ずかしくないの。
その財力でよく人前に出られるな。
あの人たちはなんで平気な顔をして生きていけるのだろう。
生きるってなんなんだろう。苦しい。
従妹の結婚式に参列した。
いい式だった。
従妹の親への手紙。感動した。彼女の父母、私にとっての伯父さん伯母さんも泣いていた。
″感動のエピソードを話そうと思ったけれど、思い返せば楽しい思い出しか浮かばない。
自分はどこでも生きていけるとよく言われるが、それは父母がいてくれるから。
何をしていてもどこにいても、無条件で愛してくれ味方になってくれる人がいると信じられるからこそ、私は何でもできるしどこでも生きていける″
と従妹は言った。
あぁ、いい家族だなーと思った。私もそんな風に娘に思ってもらえたらな、と思う。
私は、親への手紙は読まなかった。
何も言いたいことがなかったから。
従妹の結婚式で泣きそうになっていた母は、私の結婚式では泣かなかった。
感動の演出がなかったから、と言うけれど、感動的な手紙を書けるような想いは私には一切浮かばない。
思い出すのは、幼いころに、何度も何度もたたかれたこと。
私が癇癪をおこすと、すぐにばちーんとたたかれた。それで私は余計泣いた。
あの頬が焼けるような痛さは、今でも思い出せる。
テストで100点を取らなかったら叱られた。
母の日にプレゼントを買ったら怒られた。お金がもったいないんだそうだ。
母の気に入らない友達と遊ぶと、『お母さん、あの子嫌い』『遊ぶのやめなさい』。
進路希望が母親の希望にあっていなかったら怒鳴られ、泣かれた。
父は常に空気だった。
褒められた思い出はいっさいない。あったのかもしれないが覚えていない。
弟は、母の頭を蹴り飛ばした。頭内出血をした母は、一歩間違えば死んでいた。
中学生の頃、私は親が死んでも泣かないだろうな、と本気で考え、そんな自分が哀れで泣いた。
20代までずっとずっと、子供は産まないつもりだった。
20代半ばまで自己肯定感がまったく持てなかった。
大学生になってからは、溶けてこの世から私という存在がなくなってしまえばいいのにといつもいつも思っていた。
別に、そんな私がかわいそうだとは思わない。
ただ、そういう家族だった、というだけの話だ。
でも、今日従妹が手紙を読むのを聞いて、涙する伯父伯母をみて、
あぁ、こんな家族いいなぁって思った。
子供ができたら、親に対する気持ちが変わるよ、感謝の気持ちが起こるよ、と何度言われただろう。
子供ができた。
けれど、こんなにかわいい子供を目の前にして、幼い子どもだった私をあんなにも叩いたことは、全く理解できないと思った。
私は、絶対にこの子をたたいたりしたくない。たたいたり、できない。
どんなに理不尽にぎゃん泣きしたとしても、たたいたり、できない。
母の感情を根拠に怒りをぶちまけられたことは、今考えてもやはり理不尽だった、と思った。
私は、この子を叱るならきちんと理由が説明できることだけにしたいと思う。
そして、私の考えを伝える時には、それは私の考えである、ということをきちんと伝え、自分がどうしたいのかで自分の人生を選んで行ってほしいと思う。
親と子は他人である。子は親の所有物ではない。支配対象ではない。
親になってみて、絶対に、この子に自己肯定感を持ってほしいと思った。
私が持てなかった、自己肯定感を。
それが、親の私にできる最大の贈り物なんじゃないかという気がした。
いっぱい褒めてあげたいと思った。
何があっても愛していることを、きちんと言葉で何回も伝えたいと思った。
ただ、場所としてあるだけでいい。帰ってこなくてもいいし、でも、帰ってきたくなったらいつでも戻れる場所。何を強制するでもなく、ただそこに″ある″場所。
今回、結婚式に参列するために上京してきた親は、少しの間我が家に泊まっていったのだが、母親に対する私の態度を見た旦那が戸惑っている。
母の言動を無視することがあまりに自然になりすぎていて、旦那に指摘されるまで、無視していたことに気づかなかったくらいだ。
思えば、もう中高の頃からだ。母の言動を流すくせは。自分の思い通りにならないと文句を言い続ける母からの自衛の策だったのだと思うのだ。何かを言えば文句を言われ、叱りとばされ、でもその根拠が母の感情であるがゆえに、常に正解がわからないのだ。正解がわからないから、外れて怒られるくらいなら無視して何も聞かなかったことにしたほうが、平穏に過ごせるのだ。
あぁ、なんて悲しい関係なんだろうか。
大人になって子を成した今、母はうちに来て、やはり文句ばかり言う。私のやり方をみては、『そんなやり方、お母さん信じられない』んだそうだ。こうしなさい、ああしなさい、いつまで私に指図をしたら気がすむのか。あなたのやり方を押し付けないでと、言えば、泣いて押し付けてない、という。私のことを想って言っているんだそうだ。そうやってきたからこそ、今私に色々してあげられているんだそうだ。
いちいち反論して消耗するのが嫌で、やはり全てを無視してしまう。たまな耐えきれなくなって怒鳴ってしまう。その声に我が子が驚いて泣き出し、我にかえる。
私は、きっと、まだ、自分の親との関係を、消化しきれていない。臭い物に蓋をして差し障りなく表面でつきあっているだけ。
私は、本当に、我が子を叩いたり罵ったり、理不尽な感情をぶつけたり、せずに過ごせるのだろうか。
怖い。
けれど、やるしかない。
きっとそれが、親になることなんだ。
父親に褒められるのが嫌いだった。いや、いまでも不快に思っている。
例えば小学校の音読の宿題で、母の手があかない時は父の前で教科書を音読したが、そんな時はいつも父親は上手いなあ、すごいなあと褒めてくれた。勉強がよくできれば、ちょっとマセた利発な言い回しをして見せれば、ニヤニヤと笑って(そう、ニヤニヤと)いつも私のことを褒めてくれた。勉強だけではなく容姿もよく褒められたし、家事のお手伝いも、年の離れた弟の世話も、よく褒めてくれた。
中学でささやかないじめのようなものから一時期自傷癖のあった時期があったが、友人にも恵まれ回復し、ネームバリューのある大学に現役合格し、第一志望の企業に就職して今に至る。
アダルトチルドレン診断チェックリストというものをやってみたらものの見事に該当するようだ。親の愛が足りておらず自己肯定感が育ってないのだそうだ。冷え切った家庭、といわれても客観的に見てそんなことはない。ただしひっかかったのは、父の褒め言葉への嫌悪だった。照れでは説明のつかない、あの心が辛くなる気持ち、あのいやらしい父の笑顔。なんで私はあんなふうに、褒められて心が苦しくなったんだろう。子供の褒め方の典型的な失敗例で「努力でなく才能を褒める」というのがあるみたいだけれども、それもピンとこない。
長年、心の隅にひっかっていたのだけれど、ふとこの正体に気づいた。あの父親の私への愛情は、いわゆる「条件付きの愛情」だったのだ。あの褒め言葉は、あの成長の喜びは、「自分の希望通りのスペック・スキルを持った人間への育成に成功した」ことへの喜びだったのだ。父は、例え幼稚園児相手だろうと言うことを聞かなかったらキレて怒鳴る。帰ろう帰ろうと言われても遊び場から離れなかった私が、叱られて泣いて、泣くなと怒鳴られて、もっと泣いて、「泣くな。車に戻れ。俺は命令しているんだ。黙って命令されたことだけをやればいいんだ」と怒鳴られたのを覚えている。ほとんど忘れていたのだけれど、最近になって、周りの子持ちはそんなこと言わなさそうだなとふと思って特異性に気がついた。
例えばもし私がテストで悪い点を取ったら、門限を破ったら、どうなるだろう? 父は、私を愛娘と思ってくれるだろうか。きっととてもガッカリするだろう。父は己の私への態度を悔やむだろう。
自傷がばれたときのその意気消沈を、私は父の愛だと思った。私はこんなに大切にされているんだ、と。でもきっと、そのたくさん示してくれたあの大きな愛は、「親から子供への無償の愛」なんかじゃない。
反抗期はさせてもらえなかった。高校生になると、親の言うことに反発する気持ちは湧くようになったが、具体的に言いつけを破ったことは一度もなく、そういう時はバレないように気をつけながらただただ泣いていた。親になにかをおねだりするというのもすごく苦手で、例えば「眼鏡じゃなくて、コンタクトにしたいって思う時もないわけじゃないけどね」と言って、「うーん…」と言われたら、「別に眼鏡で困ってるとかじゃ全然ないからいいんだけど」と却下した。
そうか、これを、見捨てられ不安と呼ぶのか。
暖かい家庭で育ったはずなのに、まるで機能不全家庭で育ったような自分の認知の歪みが不思議だった。きっと過去にトラウマがあるのですと言われて何も思い浮かばずに苦しかった。確かに父は怒ると怖い人だったけれどあんなに親バカなのに。そう、何よりもあの褒められて悲しくなる自分が不思議で、不思議で、褒められるのが嫌で父を避けた自分が歪んでいるようで悲しくて。
ああ、アダルトチルドレンを克服する一歩が過去の原因を見つけることだというのなら、長い時間をかけて私はやっとそこに辿り着けたのだ。不可能だと思っていたのだけれど。
今、色んなことを私は父親のせいだと決めつけていて、そのことへの罪悪感を覚えている。だから、こんな酷い考えは誰にも言わないで隠しておこう。周りに内緒にしておこう。でも、胸のつかえがとれたって思ってしまっていて、この結果にはきちんと、客観的に言われているような原因があったんだ。
それがなんだか、嬉しくて、満たされて、泣きそうになる。