はてなキーワード: 自己啓発書とは
なんか読んでて逆にこっちが疲れてくる自己啓発が多い昨今ですが、
それを喜んで読んでる人も躁病の人たちなのです
躁状態になると次から次へと面白いことが思いついて眠れなくなりますが、
面白いというのは錯覚であって、うつになれば冷静になって面白くないことが分かります
つまり、今の世の中がクソみたいなことで溢れてるのは、
社会を動かしている躁病の人たちの思いつきだからであって、至極当然なわけです
追記:
ごめんなさい、パクりま感想文でした
https://hikilife.com/hikikomori/happy-theory-mania-3/
いや、こんなのバズると思わねーよ
なんでバズってほしいもんがバズんねーんだよ
よりによって、なんで今回みたいな、なんとなく書いた感想文がバズるんだよ
追記2:
前々から自己啓発が読んでいて息苦しくなるので大嫌いなのですが、
あー、そんなやついるよなぁ…、と思い当たることがこれまでの人生で山ほどある
共通しているのは、なんだかんだ陽キャというか、躁うつ病の躁状態の人は他者に好まれるということです
「ターバンを忘れたアラジン ○国○城をめざす」とかいうブログを最近見つけました。
ブログの記事は3ヶ月分しかない、起業していきなり有名人と仕事ができると断言している、
次から次へと面白いことが思い浮かんで眠れない←これ、典型的な躁うつ病の症状
なんかつらい社会だなぁ、と思うんです
子供が生まれてもエンジニアは一生勉強し続けなければいけないとか、
自分も昔は疑わなかったけど、今は息苦しいです、窒息しそうです
そういった躁病というか、狂った人たちの考え方が肯定され充満している社会なら、
というか、さっさとしにたいですね
もう、まいっちんぐ
追記3:
おいおい、ホッテントリかよ…
誰か、おいらを、雇って、くださいよ…
このままだと生活保護ですよ…
自己啓発書に曝された結果そこに書いてあるような壮大に感じるが無内容な言葉や言い回しを明けても暮れてもドヤ顔で吐き続ける悲惨な生命体に成り果てたみたいなパターンがあって、雰囲気に簡単にのまれちゃう素朴な人間があの手のスピリチュアル業者を支えている。
【追記】
https://anond.hatelabo.jp/20220815052029
大変だな
https://anond.hatelabo.jp/20220815052844
誰だよそいつ
https://anond.hatelabo.jp/20220815053253
https://anond.hatelabo.jp/20220815055623
患者の医療費負担が米よりもはるかに軽い日本で病気でもないのにスピってる糞ボケどもの話に「別の国の文脈」を持ち出すその悲惨なおつむもついでに尊重してやるよ
色々と読んでみたい本はあり、
なんなら気になる本をKindleでチマチマ買ってたりするのだが、
序章部分だけ読んで飽きてしまい、途中ではてブとかを開いてしまう。
そうしたら、もうその本は二度と開くことはなくなる。
そんなことを、もう何度も繰り返している。
ネット記事のように、数分で読了できるようなモノなら興味深く読めるのだが。。
とても興味深く読めた。
でも、それは俺にとって稀有な例で、
他の自己啓発書を手に取ってみても、これほど興味を惹かれるものを未だ見つけられていない。
自己啓発以外でも、色々読んでみたい分野はある。
世界史とか、コンピューターサイエンスとか、経営学とか。。
それらの本を気まぐれに買ってみては、導入部だけ読んで、積む。
あとで読み返そうとしても、既読部分の内容はすっかり忘れているから、もう一度最初から読む羽目になる。
そんなことを繰り返していると、いつしかやる気を無くしてしまう。
どうすりゃいいんだろう。
何かいい策があれば、ぜひ教えて欲しい。
物語の中には事実も虚構もあった。けれど、数学や歴史の教科書には事実しかなかった。
会話で自分を表現する方法を知らなかった私は、文章に頼ることにした。最初は散文的な詩しか書けなかった。
友人と競うように本を読み漁り、図書室にある本全てを理解しようとする勢いだった。
そんな友人は早稲田へ進学していった。
大学に入学すると文系だった私は他人の模倣で小説を書くようになった。世の中には感情表現豊かな美文が溢れていて、真似したいと思った。何なら、作品を生み出したいと思った。時には、破天荒な恋愛物語を。
狂しい程の人間関係や苦悩を描いた。
その頃漸く、難しいと思っていた新聞も読めるようになった。
社会では数字がメインで、何なら残業時間が全ての評価の指標だった。「私、本とか読まないんだよね。自己啓発書や漫画なら読むんだけど」と嘲笑う同僚、先輩。
文化や価値観の異なる人脈を得てからは、次第に活字から離れるようになった。それでも、図書館へ行きたい思いは常に抱えていた。
心躍るような英雄譚を、癒やしや共感を得られるような他人の人生を欲していた。
本なくしては、自分の生活は成り立たない。表現なしには生きていけない。なのに何故生きようとすればするほどに書籍から離れていくのだろう。
早稲田へ進学した友人は子供を生み地方の人間関係から疎遠になった。彼女の引き出した私の「本の虫」という性質は徐々に消えていく。今や、正しい日本語を使えているという自信すら無い。
それは彼女が側にいないからではなく元来の自分に戻っただけなのである。過去の残滓を拾い集めても、あの頃の輝きには届かない。
何が繊細さんだ
Highly Sensitive Personは心理学用語であって医学用語じゃない、診断名でつくはずもない、単に自己啓発書で有名になっただけの言葉だ
病院に行くならまず社会不安障害(社会不安症)や発達障害由来の感覚過敏・こだわりを疑って行け
医学の専門家に心理学由来の自己啓発書の言葉をぶつけて戸惑わせるな
HSP診ますなんて病院は信用するな、病気名じゃないんだから現状は薬も治療法もねえ
認知行動療法はうつや双極性障害や強迫性障害(強迫症)向けのもんだ
『この子は繊細さんだから』『私はハイリーセンシティブパーソンだから』『この子はハイリーセンシティブチャイルドだから』で終わるな
日常生活に困ってるならHSP以外に何らかのはっきりした病名がつくか障害と診断されるから病院に行け、精神科か精神保健指定医持ってる心療内科に行くんだぞ
留学先で女性を妊娠させて見捨ててしまう話なので、近頃は評判が非常によろしくない。そのくせ、この文体のせいで美しいと感じてしまう自分がいて、実はこれ、レトリックや文体によって騙されることに注意しろっていう警告なんじゃないかって気もする。「自分のおすすめ編」にも書くつもりなんだけど、ナボコフ「ロリータ」もそういう自己正当化がとにかくうまい。
余談だが、鴎外自身は東洋人だったこともあり、留学先では写真を撮らせてくれと頼まれたことがあったという。それに対して、構わないけどもあなたの写真も逆に撮らせてくれ、と言って、相手も満足させつつ日本人としての尊厳も守ったことがあって、これは割と好きなエピソードの一つ。まあ、漱石よりは世渡りがうまいよな。
古風な文体で挫折しかかるも何とか読破。これよりは幼馴染系の「たけくらべ」のほうが好きだったなあ。増田では古文がいるかどうかで議論になったことがあったらしいが、古文がすらすら読めるほうがこういう趣味というか楽しみが増える気もするし、純粋に実用面だけでいえば法律用語や古い公文書を読む必要がまだあるんじゃないのかな。
「舞姫」の話の続きだけど、古典文学にもやっぱりクズエピソードは結構あり、じゃあどれを教えてどれを教えないかは割と難しい。
僧侶が山間で美しい妖怪と出会う話。文庫のちくま日本文学全集で読んだ。全集と銘打っているけど、このシリーズは日本の近現代文学作家のベスト盤みたいな感じで、チョイスはいいのだけれどときどき抄、つまりダイジェスト版みたいなのが紛れていて、コンプリートしようとは思わなかった。
話としては幻想的ですごく好き。幻想譚が好きな自分がどうして泉鏡花にどっぷりはまるまでいかなかったのかが不思議なほどだ。当時は、著名な作品をどんどん消化しようと思って乱読していたからかもしれない。そういう意味でも、課題図書を読破することが自己目的化した読書には幾分害がある。
とても好き。小説が読めなくなったときには、文豪の書いたこうした随筆というか、風景描写の豊かな文章を読むことで、自分のリズムを整えたくなる。外出の難しい昨今、こうして空想の世界でだけでも豊かな自然のなかで過ごしたいものだ。五感が刺激される文章というのはなかなかない。
我輩を吾輩に修正。
ここ最近は漱石の評判はあまりよろしくないと聞く。所詮は当時の欧米の文学の輸入に過ぎないとか、結局は男社会の文学だとか。言われてみれば確かにその通りなのだけれども、日本の近代文学の開拓者にそこまで求めちゃうのも酷でしょうと思わないでもないし、この作品からたったの十年で「明暗」にまでたどり着いたのだから、やっぱりすごい人ではないかと思う。五十になる前に亡くなったのが惜しまれる。
で、肝心の内容だが。基本的におっさんがおっさんの家をたまり場にしてわいわいやる日常ものなので、当時の人にしか面白くないギャグを除けば、普通に笑える。最終回は突然後ろ向きになるが、もしかしたら漱石の本分はユーモアにあるのかもしれない。
余談だが漱石の留学時代の日記に付き合いのお茶会について「行カネバナラヌ。厭ダナー」とのコメントを残している。
素直に面白かった。若干のプロパガンダっぽさがなくはないが、読んだ当時は差別する側のねちっこさや意地の悪さが良く書けているように思われた。とはいえ、昨今は善意から来る差別についても考える時代であり、問題はより複雑になった。
被差別部落問題については気になっているのだがなかなか追えていない。日本史について読んでさまざまな地域の実例について断片的にかじった程度だ。それでも、地域によって温度差やあったり、差別対象が全く異なっていたりすることがわかり、どこかで日本全体の実情について知りたく思っている。
女中の布団の残り香を嗅いで悶々とする話だってことは覚えているんだけれども、読んだときにはあまり印象に残らなかった。なぜだろう。自分が読んできた近代文学は、基本的にダメな奴がダメなままうだうだする話ばかりだったからかもしれない。その多くの一つとして処理してしまったか。
で、自分が好きなのは飢え死にするほど悲惨じゃないくらいのダメさであり、親戚のちょっと困ったおじさんくらいのダメさなんだろうと思う。
読んだことがない。ただ、ドナルド・キーンの「百代の過客〈続〉 日記に見る日本人」によればこんなことを書き残しているそうだ。「僕ハ是レカラ日記ハ僕ノ身ニ大事件ガ起ツタ時ノミ記ケルコトニ仕様ト思ツタガ、矢張夫レハ駄目な様デアル。日記ヲ記ケ慣レタ身ニハ日記ヲ一日惰ルコトハ一日ヲ全生涯カラ控除シタ様子ナ気ガスル。夫レ故是レカラ再ビ毎日ノ日記ヲ始メ様ト思フ」(意訳。日記書かないとその日が無かったみたいで落ち着かない)。ここでツイッターに常駐している自分としては大いに共感したのである。そのうち読もう。
読んだはずだが記憶にない。「暗夜行路」で娼婦の胸をもみながら「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶよくわからないシーンがあったが、そこばかり記憶に残っている。これを読んだ当時は、この小説のように自分がどれほど理想を抱いていたとしても、モテないからいつかソープランドに行くのだろうな、とぼんやり思ったことを覚えている。
ちなみに、自分が初めて関係を持った女性は貧乳だった。だがそれがいい。
お父さんとうまくいっていない人は子供の才能をつぶす話である「清兵衛と瓢箪」が刺さるんじゃないかな。あとは少女誘拐犯視点の「児を盗む話」もよかった。
大学時代知り合った文学少女から薦められて読んだはずなのだが、覚えているのは「阿房列車」の何編かだけだ。それと、いつも金に困っていて給料を前借りしていて、そのことのまつわるドタバタを描いた作品や日記もあって、そうした印象ばかり残っている。
関係ないけど就職活動中に、この文学少女から二次関数を教えてくれと言われ、片想いしていた自分はそのためだけに都内にまで足を延ばしたことがある。いいように使われていたなあ、自分。あいつには二度と会いたくないが、元気にしているかどうかだけは気になる。
めんどくさいファンがいることで有名な作家。全集には第三稿や第四原稿が収録されており、比較するのも楽しい。俺は〇〇は好きだが〇〇が好きだと言ってるやつは嫌いだ、の○○に入れたくなる作家の一人。○○には「ライ麦畑で捕まえて」「村上春樹」「新世紀エヴァンゲリオン」「東京事変」などが入る(註:この四つのものとその愛好家に対する歪んだ愛情から来る発言です。僕も全部好きです。すみません)。サブカル系にはこれがモチーフになっているものが数多くあり、その点では「不思議の国のアリス」と並ぶ。
思想に偏りはあるが、独特の言語感覚や観察眼は今でもすごく好きだ。余談だが新書の「童貞としての宮沢賢治」は面白い。
知り合いにいつもぬいぐるみのキーホルダーを持ち歩いてかわいがっていた男がいたが、それで本人が落ち着くのならいいと思う。不安の多い世の中で、人が何か具体的に触れるものにすがるってどういうことなんだろう、って、ってことをこの作品を思い出すといつも考える。どこで読んだか思い出せなかったが、これもちくま文庫の全集でだった。
狭いコミュニティの中でこじれていく人間関係の話ではあるけれども、新潮文庫の場合は表題作よりも他の話のほうが気に入った。印象に残っているのは十二人の旅芸人が夜逃げする「時間」と、ナポレオンがヨーロッパの征服に乗り出したのはタムシのせいだったという「ナポレオンと田虫」。
実はこの作品は読めていない。谷崎作品は割と好きで、「痴人の愛」「刺青・秘密」「猫と庄造と二人のおんな」「細雪」は読んだ。「痴人の愛」という美少女を育てようと思ったら逆に飼育される話は自分の人生観に多大な影響を与えたし(例の文学少女に気持ちをもてあそばれても怒らなくなってしまったのもこれが遠因だろう)、「細雪」はただ文章のリズムにぷかぷかと浮くだけで心底気持ちがいい。ついでに、戦時中の生活が爆弾が実際に降ってくるまでは震災やコロナでただよう自粛の雰囲気とそっくりだったこととよくわかる。
ところで、最近久しぶりに谷崎作品を読もうと思ったら、ヒロインの名前が母と同じだったのですっかり萎えてしまった。というか、ここ最近趣味が「健全」になり始めていて、谷崎作品に魅力を感じられなくなっている。感覚がどんどん保守的になっていく。これはいかん。
高校生の頃に読んだのは確かに記憶に残っているのだけれど、高校生に川端康成のエロティシズムが理解できたかどうかはよくわからない。たぶんわかっていない。せいぜい伊豆の踊子の裸の少女を読んで、ロリコンを発症させたことくらいだろう。
太宰はいいぞ。自分は愛される値打ちがあるんだろうか、というテーマを本人の育った境遇やパーソナリティの偏りや性的虐待の疑惑に求める説は多いが、そういう心理は普遍的なものでもあり、だから多感な時期に読むとわかったつもりになる。芸術に何歳までに読むべきという賞味期限は原則としてないが、これもできるだけ若いうちに読んでおくといい。太宰の理解者ぶるつもりはないが。
もっとも、本ばかり読んで他の活動をないがしろにしていいものだとは全く思わない。あまりにもドマイナーな本を読んでマウンティングするくらいならバンジージャンプでもやったほうが話の種にもなるし人間的な厚みも出るというものだ。たぶん。
天才的。男性のあらゆる種類のコンプレックスとその拗らせ方を書かせたら彼の右に出るものは少なかろう。ただ、大学を卒業してから突然読めなくなってしまった作家でもある。息苦しくなるまで端正に磨きこまれた文章のせいかもしれない。
極限状況下でのカニバリズムをテーマにした小説なんだけれども、途中から戯曲になって、「食べちまう葬式ってえのは、あっかなあ」などとやけにのんびりした台詞が出てくるなんともユニークな小説。ただし、これは単なるブラックジョークではない。物語は序章、戯曲の第一部、第二部と別れているのだけれども、その構成にきちんとした意味がある。
人類全体の原罪を問うようなラストは必見。あなたは、本当に人を食べたことがないと言えますか?
祖父母の家から貰ってきた作品で、愛蔵版らしくカバーに入っていた。カフカにはまっていた時期だから楽しんだ。カフカの父親の影から逃れられない主人公とは別の種類の渦巻にとらわれてしまった主人公がだらだら、ぐだぐだしてしまうのだが、カフカが男性によって抑圧されているとしたら、こちらは女性に飲み込まれている文章だ。
未読。不条理な陸軍の中で、最強の記憶力を頼りにサバイブする話だと聞いて面白そうだと思い購入したのだが、ずっと積んだままだ。これに限らず、自分は戦争ものの小説・漫画をあまり読んでない。戦争に関しては文学よりも歴史書からアプローチすることが多い。
これは自分の悪癖だが、戦争ものになると庶民よりも知識人にばかり感情移入してしまう。
大江健三郎は初期の作品をいくつかと、「燃え上がる緑の木」三部作を読んだきりで、どういう態度を取ればいいのかよくわかっていない作家の一人だ。狭い人間関係の中のいじめだとかそうした描写に病的に関心のあった時期に読んだせいで適切な評価ができていない。
「燃え上がる緑の木」は新興宗教や原子力発電といった(結果的には)非常に予言的であった作品であったが、癖が強くカトリックの宗教教育を受けた自分であっても世界観に入り込むのに時間がかかった。「1Q84」よりもきつい。面白いが。
大学時代の友人に薦められて読んだ。「この家の主人は病気です」と、飢えて自分を食ってしまったタコの詩ばかりを覚えている。覚えているのはこれだけだが、この二つが読めたからいいか、と考えている。大体、詩集ってのはピンとくる表現がひとつでもあれば当たりなのだ。そして、それはあらゆる書物にも当てはまることである。
祖父が学生時代に送ってくれたのだけれども、ぱらぱらとしか読んでいない。
子供向けのものだった気もするし、近々原文にチャレンジするべきか。自助論(西国立志編)なんかと合わせて、自己啓発書の歴史を知る意味でも興味深いかもしれない。
読もうと思って読めていないけれども、これまたドナルド・キーンの本で面白い記述を見つけた。「墨汁一滴」の中に、つまらない俳句を乱造しているやつの作品にはどうせ碌なもんなんてありゃしないんだから、そういう連中は糸瓜でも作ってるほうがマシだ、という趣旨のくだりがあるそうだ。創作する上でのこういう厳しさは、いい。
「ローマ字日記」しか読んだことがない。たぶん日本で最初にフィストファックが描写された文学かもしれない。春画はどうか知らないけど。
堕落と言いつつもある種の誠実さについて語った本だった気がするが、それよりも新潮文庫で同時に収録されていた、天智天皇と天武天皇の家系にまつわる謎についてのほうが印象に残っている。