2022-04-05

国語ばかり勉強していたのは他者を知りたかたか

物語の中には事実虚構もあった。けれど、数学歴史教科書には事実しかなかった。

会話で自分表現する方法を知らなかった私は、文章に頼ることにした。最初は散文的な詩しか書けなかった。

家庭環境のいざこざ、学校での違和感

友人と競うように本を読み漁り、図書室にある本全てを理解しようとする勢いだった。

そんな友人は早稲田へ進学していった。

大学入学すると文系だった私は他人模倣小説を書くようになった。世の中には感情表現豊かな美文が溢れていて、真似したいと思った。何なら、作品を生み出したいと思った。時には、破天荒恋愛物語を。

狂しい程の人間関係や苦悩を描いた。

その頃漸く、難しいと思っていた新聞も読めるようになった。

社会人になってからはその欲求がぷつりと切れた。

社会では数字がメインで、何なら残業時間が全ての評価指標だった。「私、本とか読まないんだよね。自己啓発書漫画なら読むんだけど」と嘲笑う同僚、先輩。

文化価値観の異なる人脈を得てからは、次第に活字から離れるようになった。それでも、図書館へ行きたい思いは常に抱えていた。

心躍るような英雄譚を、癒やしや共感を得られるような他人人生を欲していた。

本なくしては、自分生活は成り立たない。表現なしには生きていけない。なのに何故生きようとすればするほどに書籍から離れていくのだろう。

アナログ学習する機会が奪われていくのだろう。

早稲田へ進学した友人は子供を生み地方人間関係から疎遠になった。彼女の引き出した私の「本の虫」という性質は徐々に消えていく。今や、正しい日本語を使えているという自信すら無い。

それは彼女が側にいないからではなく元来の自分に戻っただけなのである過去残滓を拾い集めても、あの頃の輝きには届かない。

硝子の破片みたいな危うげで綺羅びやかなあの日々が、図書館の床に落ちていないだろうか。

  • 大丈夫、まだ美文家の残り香はするやで

  • それな消えたのは嗜好とか志ではなく、時間ですらなく、体力なんよ。 意外と若さに頼ったムーブだっという訳だ。 迂遠だけどジムでも行くか、あるいは連休の片方をごろ寝読書に費や...

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん